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 故中倉清範士九段の記念祭が行なわれた。1時30分から、国立の一橋大学での稽古会には中央大学、防衛医科大学、一橋大学、旧蕾会で先生にご指導頂いた多くの剣士が集まり、稽古会が行なわれた。鹿児島からは児嶋範士、有満範士八段も参加された。当日は34度の暑い日で、1時間の稽古では途中で休憩と水分の補給を用意しなければならなかったが、参加者の稽古は熱を帯びたものであった。夕方、如水会館での祝賀会では100名を越える剣士が集まった。没後10年経ってこれだけの会が出来る剣士はいないのではないだろうか。剣道界は過去には冷たい世界だから。

 中倉先生は昭和武蔵と言われ、戦前は皇宮警察で剣道の指導にあたられ、戦後も東西対抗大会の鬼と言われた。第三回大会の9人勝ち抜きなど、100連勝を越え、双葉山と並び称された。中倉先生は中山博道の弟子として有信館に住み込み、中島五郎蔵、羽賀准一と並び有信館三羽烏といわれた。現在の全日本剣道連盟の主導する昇段審査基準の剣道とは異なり、左右横面、突き、左足前の踏み込み、上段等多彩な技を繰り出す剣道で、まさに真剣勝負にも直結する激しい剣道であった。戦後、農地改革のため、故郷の農地が没収されることを避ける為に、鹿児島に戻られ、鹿児島の剣道発展につくされた。有満先生はその中でも一番弟子であられた。

 戦前は皇宮警察と東京商科大学(一橋)の師範として指導にあたられた。中倉先生に、戦前先生が相手として一番手強かったのはどなたかと聞いたところ、森寅雄だと言われた。森寅雄はアメリカに渡り、日系人の剣道指導に当られ、フェンシングでもトップ選手になり、東京オリンピックではアメリカチーム監督として来日された方だ。講談社の野間清治の甥にあたる方だ。中倉先生は戦前の剣道を伝える貴重な存在でもあった。

 昭和41年に関東管区警察学校師範として東京に戻られ、昭和46年に一橋大学の師範に再度就任され、再び東京で活躍された。当時は東京教育大学を頂点とする教育界と警視庁が東京の剣道を二分していたが、そこに、頂点としてサラブレッドの追い上げのように中倉先生が復帰されたことは全く剣道界を揺るがす事件であったろうと思われる。自分は当時大学三年生であったが、関東管区警察学校に伺い、中倉先生にはじめて稽古をお願いした時の驚きはとにかく今までの剣道観を覆された思いがあった。とにかく触れない。いくらせめても、体を少し後に引くと面金に触る程度で、ほとんど体に竹刀が触れることも出来なかった。元立ちは連続して稽古を付けるし、相手を選べないから打たせることで息を抜くことが出来る。それが全く無い。先生は10年前に89歳で亡くなられた。先生87歳の時にも稽古をお願いした。自分は六段取ったばかりで元気で構えなどにも多少は自信があったが、またしてもガタガタに崩されてしまった。ヤケになって突いて出たらひらりと体をかわされて横面をがつんと食らった。

 最初は攻めさせてくれたが、後半はとにかく一方的に打たれっぱなし。最後は、面とか胴を先に宣言されて打たれてしまう。ハイ面と言われてボコン、ハイ小手と先に声を出すと小手、しまいにこちらはヘトヘトになってそのまま突きをスーと喉元に付けられた。これは一体何事かと、ショックは大きかった。でも不思議なことに別の相手と稽古すると面白いように打てるようになっている。先生は体で教えてくれる希有な先生だった。だから、先生が鹿児島におられた時は国体優勝、多くの一流選手を指導し、全日本や警察剣道大会での優勝に導いた。とにかく、一級の選手が必死でかかって行く先生はそうはいない。中央大学の師範になられると、個人戦、団体戦でも優勝するようになる。国士舘大学が頂点だった時代、これを崩せるところは他に無かった。

 先生は世界選手権大会を推進し、よくヨーロッパやアメリカ、いや世界中に行って稽古された。
中倉先生は哲学的なことや、やたら中心を攻めろとか抽象的なこと一切言わなかった。とにかく、どのように体を捌けば打てるか、打たれないか。横面は、野球のボールを投げるように体をひねって竹刀を飛ばすように打つ。手元と喉元を剣先で抑えて攻める。とにかく前に出る。地稽古でボコボコにされ、悔しい思いとヘトヘトにさせてくれた。先生の稽古を待つ間、昔、小学校で予防注射を待つときのようにドキドキして足元が震えた。試合は勝つこと。単純明快だった。だから、海外では人気があり、外国人の理解しやすい剣道だった。しかし、先生の容赦ない打突は京都大会では無慈悲な印象もあっただろう。著名な先生がいとも簡単に打たれては立場が無い。批判もあった。しかし、面は芸術のようなきれいな弧を描いて打ち込まれた。何で、あんなにゆっくり打って来るのに避けられないのか。吸い付いてくる面と突き。数分でこちらは疲れて足が動かなくなる。

 先生のような剣士はもう生まれないだろう。戦時体制という武道が頂点を築いた時代の生んだスーパーアスリートなのだ。野球でいえば羽賀準一がイチロー。先生は松井秀喜かそれ以上だ。当時は野球もオリンピックもそれほど優れた身体能力のある人はいなかった。シロオトでもメダルが取れた時代だった。おそらく、身体能力の優れた人は剣道と柔道、相撲に集中していたのではないだろうか。双葉山とか、柔道の木村とか、剣道の持田盛二といった巨人がこれら武道の世界に生まれたのは偶然ではない。先生はこの時代に怪物のように登場してこられた。


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