その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めたが拒否されると、次に1589年にマカオに使者を送って天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノに働きかけて、大規模な軍事援助を求めるよう要請した。その間、全国のイエズス会員たちを長崎の平戸に集結させ、潜伏して公然の宣教活動を控えることにしたが、1590年、コエリョは肥前国加津佐で死去した。ヴァリニャーノは彼の要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払って、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じている。フランシスコザビエル、フロイス、オルガンチーノ、ヴァリアーノと続いた献身的な信仰活動はコエリョという准管区長の行動によって終末に向かうのである。
1.秀吉の誤解:キリシタンへの疑いと仏教界の讒言
キリシタン女性問題で秀吉が激怒したと言うのは(フロイス日本史)、正確には「女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを讒言した」というものであり、「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」というのは誤り。よってこれが理由ということは考えられないとの説があるが、女漁りが施薬院全宗個人の嗜好である場合、宣教師から秀吉に告げ口される前に施薬院全宗が先を制して噂、憶測等をもとにした讒訴をしたとも考えられる。「(秀吉のために)キリシタンの女を連れていこうとした施薬院全宗が命令への不服従に怒り、秀吉にキリシタンの女が命に逆らったと讒訴をして秀吉が激怒した」のであれば矛盾は無くなる。
仏教徒である秀吉が元僧侶である施薬院全宗や大村由己の讒言を受け入れたことを前提とし、秀吉側近だった施薬院全宗等が九州で一定の信者数を持ち、前年に布教許可まで受けたキリスト教に対する危機感を主要な動機とした宗教戦争との見解がある。必ずしも神国、皇国史観に沿った魔女狩り、宗教弾圧であったとする俗説と対立するわけではない。豊臣政権から徳川幕府に移行してからも、仏僧である以心崇伝がキリスト教弾圧において主導的役割を果たしている。一方で、キリスト教の禁止を働きかけたのを神道側とする見解もあり、その直接的なきっかけが、伊勢神宮がある伊勢国南部を与えられていた蒲生氏郷がキリスト教の洗礼を受けたことに伊勢神宮や神宮と密接な朝廷が危機感を覚えたとするものである。
3.大航海時代
最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画は当時のスペインやポルトガルの手法ではなかった。しかし、宣教師情報により商人がアジアに進出したことは事実である。南米の場合はむしろ露骨な軍事侵略と簒奪であった。この行動をローマ教会が承認したことも事実であった。
ポルトガルやスペインによる植民地化を懸念した陰謀論については、大航海時代のポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した港湾都市、小規模の貿易拠点、居留地を手に入れる一方で、すでに文明が発達していたインド、中国等のアジア諸国の植民地化には成功していない。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争を伴う内陸部の植民地化ではなかった。イエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するかのように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地を増やしていった。秀吉の情報力ではこの世界情勢はわからなかっただろう。
フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた。イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている。
秀吉は朝鮮出兵にあたりフィリピンなどにおけるポルトガルやスペインの軍事情報を集めていた。また、家康はヨーロッパの情報をイエズス会以外のオランダ人、イギリス人から収集し正確に理解していたからキリシタン弾圧に関心が薄かった。スペインの覇権に対してオランダが台頭していたため、鎖国においては出島にオランダ商館を開いたのである。
伊達政宗が支倉常長を派遣したのは徳川に対抗、スペインの武力を利用する為、又、島原一揆が矢張りポルトガルの支援を受ける為、原城に籠ったのも、コェリョが明を攻める軍の尖兵として日本の宣教を行ったことも全て失敗した。世界はスペインやポルトガルの時代ではなくなったのであった。
4. 26聖人の殉教
サン=フェリペ号事件に関してしばしば問答でのスペイン人船員(デ・オランディアとも)の「積荷を没収された腹いせ」スペインがキリスト教布教の目的は領土拡張のためだとする証言が秀吉を激怒させ、26聖人の殉教を招いたと説明されるが、これは1598年に長崎でイエズス会員たちが行った「サン=フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人殉教」の原因調査のための査問会での証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されていない。フランシスコ会とスペインとの関係は必ずしも良好なものでなく、実際のフランシスコ会の布教はコルテスの侵略完成後に行われていたため、出任せや腹いせで発言したとの説明には一定の蓋然性が認められる。
秀吉がそれまで言い伝えていた処遇から翻った処断を下したこと、この事件の直後に殉教事件が起きていること、処刑された外国人はフランシスコ会だけであったことから、秀吉は前々より都周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていたスペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や宗派対立を嫌悪していたことが考えられる。
さらに、秀吉自身が秀次事件の後の政権内綱紀粛正や明の冊封使の対応(後の慶長の役に繋がる)に忙殺されていた。
しかしこの事件は、それまでひとくくりにされていた南蛮がスペイン系キリスト宗派やスペイン人とポルトガル人とで異なるという意識を芽生えさせ、後の徳川期の鎖国のプロセスにおいて先にスペイン船が渡航禁止(1624年、ポルトガル船渡航禁止は1639年)とされる事態も生じている。
英国国教会は1959年に日本二十六聖人が殉教した2月5日を記念日としてカレンダーに追加した。アメリカ福音ルター派教会では2月5日を記念日としている。
5.千々石ミゲル
秀吉は神父が日本人の奴隷貿易に関わっていたことを憂慮し禁教令を出したという説もある。
天正使節員の千々石ミゲルは雲仙の出身。彼の記録が海外の日本人奴隷の存在を示している。4人のうち棄教したのは彼だけというが、実際はそのような単純なものではなかった。日本の八百万の神とキリスト教の理解をどう考えるか、海外での日本人人身売買に接して日本の世界との関わりに苦悩した。彼は武士であり、建前としてキリシタンを放棄したが、彼は信仰を捨てなかった。彼は海外を訪問する中で多くの日本人奴隷に出会う。戦国時代戦乱の中で敗北した年の住民が奴隷として海外に売られていた現実に衝撃を受ける。使節記にこのことが書かれている。
デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれた。遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた。
6. 原城
昭和13年5月30日国指定の史跡。原城は、明応5年(1496)、領主有馬貴純(8代目)が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれていた。城は、県下最大の平山城で、周囲3㎞、41万㎡の規模をもち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害で、城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。慶長19年(1614)、島津藩主有馬直純(14代目)は日向国県城(宮城県)に転封され、元和2年(1616)、松倉重政が大和五条(奈良県)から入部したが、一国一城令により原城を廃城とし、元和4年(1618)からの島原城(森岳城)の築城にあたり、構築用の石材として、この城の石垣等を運んだ。
7.島原の乱
松倉氏の藩政は、領民へ過酷な賦役と重税を課し、キリシタン弾圧など、きびしく行った。寛永14年(1637)10月25日に天草四郎時貞を盟主として、「島原の乱」が起き、原城は、同年12月3日から寛永15年2月28日まで、領民(天草の領民を含む)約3万7千人(2万7千人ともいわれる)が88日間たてこもった「島原の乱」の終焉の地となった。この乱は、宗教戦争ではなく、キリシタンの人口の多かったこの地域特有の一揆であった。しかし、乱の旗印はキリスト教であり、天草四郎を総大将に仕立て上げたことから幕府からは宗教戦争の烙印を押された。参加者の何割かは、キリスト教徒ではなく農民一揆の動員行動に影響された人々であり、約1万人はそうした人々であった。関ヶ原以後、反幕府の武士たちも加わっていた。彼らが城に籠ったのは、スペインの支援が海から得られると誤解したことが大きかった。スペインやポルトガルはキリスト教を利用して植民地拡大を図る政策は取っていなかった。秀吉も幕府もキリシタン達もこの国際情勢を誤解していた。
痛ましき原の古城に来て見れば ひともと咲けり 白百合の花
城があった高台に上がってすぐ左手に天草四郎時貞の墓碑がある。天草四郎は、小西行長の家臣・益田甚兵衛好次の子で、本名益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれている。比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎でも学んだ。島原の乱に際し、若干15歳という若さで一揆軍の総大将となった。一揆軍は88日間この原城に籠城したが、12万5千人という圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結した。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でさらし首にされた。この事件は当時の幕府にとって、政権の基板を揺るがす大事件として受け止められ、キリスト教の禁教と鎖国への道を歩むのである。これまで布教を禁じていた幕府は信仰も禁止することを決定し、これは明治6年まで継続された。