人気ブログランキング | 話題のタグを見る
*1587年の禁教令(バテレン追放令)

本能寺の変、関ヶ原、大坂夏の陣は江戸幕府成立における大事件だが、これらはあくまで、国内の、権力抗争であった。これに対して、秀吉の文禄慶長の朝鮮出兵、侵略と、鎖国に向かう、秀吉の禁教令は対外政策の大転換で日本の世界史からの退場を引き起こした重大事件であった。この経緯には、様々な俗説、通説があり、更に、歴史の教科書ではあまり解説されていない。このキリシタン弾圧から鎖国に至る歴史解釈を下記に述べたい。

1587年の禁教令は秀吉が朝鮮出兵を前に、唐津湾でポルトガル軍船(フスタ船)の威力をイエズス会コエリョ準管区長に見せつけられ、スペインの植民地の標的になることを恐れたことから発したという通説がある。しかし、実際は多くの事件や、仏教徒秀吉の危機感から信長から継承されていたバテレン容認政策の転換をもたらした。
キリシタン弾圧は日本の外交における転換点となる_e0195345_07570994.jpeg
フスタ船


ヴァリニャーノやオルガンテイノによると、バテレン追放令はコエリョが軍事力を見せつけたなどの挑発的な行為が主な原因だとしている。イエズス会にはコエリョのようにスペインの植民地政策の尖兵を自認する宣教師もいたが成功しなかった。バテレン追放令を受けてコエリョは大友宗麟や有馬晴信に対して、キリシタン大名を糾合して豊臣秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り出したが、有馬晴信は小西行長と同様にコエリョを嫌っていたので実現しなかった。

その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めたが拒否されると、次に1589年にマカオに使者を送って天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノに働きかけて、大規模な軍事援助を求めるよう要請した。その間、全国のイエズス会員たちを長崎の平戸に集結させ、潜伏して公然の宣教活動を控えることにしたが、1590年、コエリョは肥前国加津佐で死去した。ヴァリニャーノは彼の要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払って、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じている。フランシスコザビエル、フロイス、オルガンチーノ、ヴァリアーノと続いた献身的な信仰活動はコエリョという准管区長の行動によって終末に向かうのである。

秀吉がキリスト教布教を禁じようとした理由は次の4点である。
1) 国際情勢への誤解
2)イエズス会準管区長コエリョの行動
3)奴隷貿易に対する疑惑
4)仏教界の反撃である。
 


1.秀吉の誤解:キリシタンへの疑いと仏教界の讒言


キリシタン女性問題で秀吉が激怒したと言うのは(フロイス日本史)、正確には「女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを讒言した」というものであり、「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」というのは誤り。よってこれが理由ということは考えられないとの説があるが、女漁りが施薬院全宗個人の嗜好である場合、宣教師から秀吉に告げ口される前に施薬院全宗が先を制して噂、憶測等をもとにした讒訴をしたとも考えられる。「(秀吉のために)キリシタンの女を連れていこうとした施薬院全宗が命令への不服従に怒り、秀吉にキリシタンの女が命に逆らったと讒訴をして秀吉が激怒した」のであれば矛盾は無くなる。


仏教徒である秀吉が元僧侶である施薬院全宗大村由己の讒言を受け入れたことを前提とし、秀吉側近だった施薬院全宗等が九州で一定の信者数を持ち、前年に布教許可まで受けたキリスト教に対する危機感を主要な動機とした宗教戦争との見解がある。必ずしも神国皇国史観に沿った魔女狩り、宗教弾圧であったとする俗説と対立するわけではない。豊臣政権から徳川幕府に移行してからも、仏僧である以心崇伝がキリスト教弾圧において主導的役割を果たしている。一方で、キリスト教の禁止を働きかけたのを神道側とする見解もあり、その直接的なきっかけが、伊勢神宮がある伊勢国南部を与えられていた蒲生氏郷がキリスト教の洗礼を受けたことに伊勢神宮や神宮と密接な朝廷が危機感を覚えたとするものである。


3.大航海時代


 最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画は当時のスペインやポルトガルの手法ではなかった。しかし、宣教師情報により商人がアジアに進出したことは事実である。南米の場合はむしろ露骨な軍事侵略と簒奪であった。この行動をローマ教会が承認したことも事実であった。

 ポルトガルやスペインによる植民地化を懸念した陰謀論については、大航海時代のポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した港湾都市、小規模の貿易拠点、居留地を手に入れる一方で、すでに文明が発達していたインド、中国等のアジア諸国の植民地化には成功していない。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争を伴う内陸部の植民地化ではなかった。イエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するかのように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地を増やしていった。秀吉の情報力ではこの世界情勢はわからなかっただろう。


 フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた。イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている。


 秀吉は朝鮮出兵にあたりフィリピンなどにおけるポルトガルやスペインの軍事情報を集めていた。また、家康はヨーロッパの情報をイエズス会以外のオランダ人、イギリス人から収集し正確に理解していたからキリシタン弾圧に関心が薄かった。スペインの覇権に対してオランダが台頭していたため、鎖国においては出島にオランダ商館を開いたのである。


 伊達政宗が支倉常長を派遣したのは徳川に対抗、スペインの武力を利用する為、又、島原一揆が矢張りポルトガルの支援を受ける為、原城に籠ったのも、コェリョが明を攻める軍の尖兵として日本の宣教を行ったことも全て失敗した。世界はスペインやポルトガルの時代ではなくなったのであった。


4. 26聖人の殉教


サン=フェリペ号事件に関してしばしば問答でのスペイン人船員(デ・オランディアとも)の「積荷を没収された腹いせ」スペインがキリスト教布教の目的は領土拡張のためだとする証言が秀吉を激怒させ、26聖人の殉教を招いたと説明されるが、これは1598に長崎でイエズス会員たちが行った「サン=フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人殉教」の原因調査のための査問会での証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されていない。フランシスコ会とスペインとの関係は必ずしも良好なものでなく、実際のフランシスコ会の布教はコルテスの侵略完成後に行われていたため、出任せや腹いせで発言したとの説明には一定の蓋然性が認められる。


 秀吉がそれまで言い伝えていた処遇から翻った処断を下したこと、この事件の直後に殉教事件が起きていること、処刑された外国人はフランシスコ会だけであったことから、秀吉は前々より都周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていたスペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や宗派対立を嫌悪していたことが考えられる。

さらに、秀吉自身が秀次事件の後の政権内綱紀粛正や冊封使の対応(後の慶長の役に繋がる)に忙殺されていた。


しかしこの事件は、それまでひとくくりにされていた南蛮がスペイン系キリスト宗派やスペイン人ポルトガル人とで異なるという意識を芽生えさせ、後の徳川期の鎖国のプロセスにおいて先にスペイン船が渡航禁止(1624、ポルトガル船渡航禁止は1639)とされる事態も生じている。

英国国教会1959日本二十六聖人が殉教した25日を記念日としてカレンダーに追加したアメリカ福音ルター派教会では25日を記念日としている。


5.千々石ミゲル


 秀吉は神父が日本人の奴隷貿易に関わっていたことを憂慮し禁教令を出したという説もある。

天正使節員の千々石ミゲルは雲仙の出身。彼の記録が海外の日本人奴隷の存在を示している。4人のうち棄教したのは彼だけというが、実際はそのような単純なものではなかった。日本の八百万の神とキリスト教の理解をどう考えるか、海外での日本人人身売買に接して日本の世界との関わりに苦悩した。彼は武士であり、建前としてキリシタンを放棄したが、彼は信仰を捨てなかった。彼は海外を訪問する中で多くの日本人奴隷に出会う。戦国時代戦乱の中で敗北した年の住民が奴隷として海外に売られていた現実に衝撃を受ける。使節記にこのことが書かれている。

デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる。伴天連追放令後の1589(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれた。遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた。 


6. 原城


 昭和13年5月30日国指定の史跡。原城は、明応5年(1496)、領主有馬貴純(8代目)が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれていた。城は、県下最大の平山城で、周囲3㎞、41万㎡の規模をもち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害で、城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。慶長19年(1614)、島津藩主有馬直純(14代目)は日向国県城(宮城県)に転封され、元和2年(1616)、松倉重政が大和五条(奈良県)から入部したが、一国一城令により原城を廃城とし、元和4年(1618)からの島原城(森岳城)の築城にあたり、構築用の石材として、この城の石垣等を運んだ。

キリシタン弾圧は日本の外交における転換点となる_e0195345_01123011.jpeg
            原城は徹底的に破壊された


7.島原の乱


松倉氏の藩政は、領民へ過酷な賦役と重税を課し、キリシタン弾圧など、きびしく行った。寛永14年(16371025日に天草四郎時貞を盟主として、「島原の乱」が起き、原城は、同年12月3日から寛永15年2月28日まで、領民(天草の領民を含む)約3万7千人(2万7千人ともいわれる)が88日間たてこもった「島原の乱」の終焉の地となった。この乱は、宗教戦争ではなく、キリシタンの人口の多かったこの地域特有の一揆であった。しかし、乱の旗印はキリスト教であり、天草四郎を総大将に仕立て上げたことから幕府からは宗教戦争の烙印を押された。参加者の何割かは、キリスト教徒ではなく農民一揆の動員行動に影響された人々であり、約1万人はそうした人々であった。関ヶ原以後、反幕府の武士たちも加わっていた。彼らが城に籠ったのは、スペインの支援が海から得られると誤解したことが大きかった。スペインやポルトガルはキリスト教を利用して植民地拡大を図る政策は取っていなかった。秀吉も幕府もキリシタン達もこの国際情勢を誤解していた。


痛ましき原の古城に来て見れば ひともと咲けり 白百合の花


城があった高台に上がってすぐ左手に天草四郎時貞の墓碑がある。天草四郎は、小西行長の家臣・益田甚兵衛好次の子で、本名益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれている。比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎でも学んだ。島原の乱に際し、若干15歳という若さで一揆軍の総大将となった。一揆軍は88日間この原城に籠城したが、125千人という圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結した。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でさらし首にされた。この事件は当時の幕府にとって、政権の基板を揺るがす大事件として受け止められ、キリスト教の禁教と鎖国への道を歩むのである。これまで布教を禁じていた幕府は信仰も禁止することを決定し、これは明治6年まで継続された。

キリシタン弾圧は日本の外交における転換点となる_e0195345_18404294.jpeg




# by katoujun2549 | 2023-11-23 21:13 | Comments(0)


⒈長崎

日本の鎖国政策の中、長崎は唯一の窓口であった。

出島は今もなお市街に観光名所として保存されている。長崎ちゃんぽんとカステラはこの街の象徴的な食べ物。

肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン_e0195345_16235345.jpeg
そして、眼鏡橋という石の橋が長崎の文化を物語る。長崎チャンポンは流石に美味しい。カステラは眼鏡橋の前にある歴史あるお店、匠寛堂で買いました。
肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン_e0195345_18012285.jpeg

肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン_e0195345_12251736.jpeg
雲仙は長崎では有名な温泉地である。
多くのホテルや旅館がある。しかし、原城に行くには小浜の方が便利が良い。小浜は古い旅館が多く、街も小さいが、温泉の温度は高温なのだそうである。


⒉島原


長崎から雲仙、島原はかなり遠い。原城は目的地だが、南島原であり、島原はその先である。長崎から諫早、大村、雲仙とドライブした。雲仙と海沿いの景観が素晴らしい。

肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン_e0195345_12304259.jpeg
             雲仙岳を原城から望む

⒊原城


予想以上に巨大な城郭であった。12万の幕府軍がここを包囲した。幕府の破壊の跡が不気味で、城の姿が無くても迫力がある。


肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン_e0195345_17084915.jpeg

 肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン、これみな「戦国時代の日本が世界史に出遭い起きたこと」「大航海時代における戦国日本の旅」今回の旅行は、秀吉の朝鮮出兵という夢の跡、朝鮮から拉致した陶工たちによって世界的に発展した伊万里、有田の陶器産業、明治維新によって開国の中心となった長崎、そして幕府のキリシタン弾圧と鎖国の原点、200年にわたる鎖国政策の原点、原城をめぐる旅であった。

肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン_e0195345_13033897.jpeg
肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン_e0195345_13143948.jpeg
肥前名護屋城、原城址、隠れキリシタン_e0195345_01123011.jpeg


 有明海に突き出した標高30mの丘上にある城跡。慶長9年(1604)、有馬貴純が日野江城の支城として築城。南北1.3km、東西0.5kmの城跡は、石垣で囲まれた本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸などから成り、戦国時代の石積技術を使用した城郭だった。キリシタン大名・有馬晴信の失脚後、慶長20年(1615)に廃城。寛永14年(1637)の島原・天草一揆(島原の乱)では約3万7000人の領民が88日間たてこもり、約12万人余の幕府軍と戦った末、全滅。城跡からは数多くの砲弾や人骨、十字架などが出土し、一揆の総大将・天草四郎時貞のものといわれる墓碑や石像、多数の骨を集めて供養したほねかみ地蔵が、かつての悲劇を伝えている。国指定史跡で、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産でもある。


有馬キリシタン記念館


残念ながら道を間違え行けなかったが、紹介したい。

世界文化遺産の構成資産でキリスト教弾圧の舞台である原城跡と、キリシタン大名・有馬晴信 の居城でキリスト教繁栄の中心であった日野江城跡。この2つを通して、南島原のキリシタン史やキリシタン文化などを解説・紹介している。展示室1のテーマは、日野江城を中心としたキリスト教の伝来と繁栄。日野江城出土の金箔を施した瓦や活版印刷機の模型などを展示し、イエズス会や天正遣欧少年使節、日野江城跡などを紹介。展示室2では、島原・天草一揆(島原の乱)と潜伏キリシタンをテーマに、原城跡の出土品である十字架や砲弾などを展示。原城跡発掘現場のレプリカや、島原・天草一揆の蜂起と終焉までのシーン模型が興味深い。


唐津から長崎に向かう途中、伊万里、大川内山町、三川内、波佐見を訪問した。いずれも陶器の町。時間の都合で有田は割愛した。機会があれば4月連休中の陶器市に行ってみたいが。
陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_10141866.jpeg

陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_16084305.jpeg


陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_17560339.jpeg



陶器の旅となった。

⒈伊万里 大川内山

伊万里は鍋島藩が厳重に管理した郊外の山里の大川内山が中心。山の中の黒髪山という要害と関所でこの街を管理した。この街には窯元の家が並ぶ。外国人の観光客が多く来ている。フランス人の年配の観光客が店に入っていた。街並みが窯元や陶器の販売店が並BI世界的にも珍しい。平日ということもあり、西欧人、中国人、韓国人の観光客が多い。伊万里焼、色鍋島など窯元によって様々な焼き物が並び、飽きない。伊万里陶苑ショールームでマグカップを買った。中の喫茶店でハヤシライスとコーヒーを頂いたが、器が色鍋島で流石に立派であった。
陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_09301606.jpeg


坂の町である。沿道の陶磁器店を一つ一つウィンドウショッピングする。ここの陶磁器は手書きのものがほとんどだから、高価なものが多い。勿論2000円から3000円のものもあるが、ちょっとした、素敵なものになると1万円を超えてしまう。クレジットカードが使えるから、油断して買うと、後が大変である。自分はコーヒーと紅茶用の器が欲しいので、並べてある茶器はほとんど見るだけである。現代において、家庭で揃いの茶器で一家団欒という機会は激減している。湯呑みやマグカップ、一品ものの紅茶茶碗の方がニーズが高いだろう。しかし、ここの品揃えは結構、揃いの茶器が多くセットで買うと何倍にもなってしまう。

陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_16151949.jpeg

街の入り口の橋は陶器が貼られている。
         
三川内の窯元 平戸松山釜を訪問、唐子絵の急須(8千円)を買う。ここのお姉様販売員は実に感じがよかった。街の入り口の橋には陶板が貼られている。三川内焼は世界的に白磁が知られ、これは1712年に発見された天草陶石と網代陶石を用いたことによるとされている。 三川内は佐世保市。白磁に映える繊細優美な染付が素晴らしい。 特に唐子絵は有名です。ここでは手書きの作品にこだわり、伊万里と並ぶ職人技である。渋谷のヒカリエで展示会を行っていた五光窯はお休みだった。奥の平戸松山窯に行く。ここは、まさに唐子焼の中心という感じだ。

陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_16173143.jpeg


窯元の絵付け職人が懸命に作業を行う
陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_16273692.jpeg

陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_18263159.jpeg
唐子の絵が丁寧である。

⒊波佐見も陶器の町

波佐見は伝統を守る手工業の伊万里や有田より工業製品としての陶器が多い。従って日用品を中心に展開しており、自分としては現代の陶器産業として未来を感じる。 インテリアデザイナーや大学、スタイリストとコラボした作品など、海外からも評価され、現代の陶器として勢いを感じる。分業制で器の形も、手びねりではなく型が使われている。かつては、有田の二級品、日用品出会ったが、近年、ブランド根拠の明確化により、波佐見焼として売り出された。電子レンジや女性の好みなどマーケテイングを考えて製品を作っている。この方向は間違っていない。街を上げて新しい陶器の生産地としてのブランド化を世界に向けて図る姿勢に感動した。Oyaneという陶磁器ショップに行く。モダンな会館である。
陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_10210129.jpeg




陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_11191267.jpeg


陶器の里へ 伊万里 大川内山 三川内 波佐見をめぐる_e0195345_11442904.jpeg
公衆トイレのストールが焼き物の特製








# by katoujun2549 | 2023-11-20 16:09 | Comments(0)
郷土館アルピノに行く。
JR唐津駅のすぐ横にある。1階は唐津の名産品がそろう「土産コーナー」、2階は唐津焼の展示即売所になっている。
唐津焼を購入_e0195345_15232524.jpeg

唐津焼は茶湯で使う茶碗や壺などで愛用されている。唐津焼の展示が素晴らしい。マグカップを2個買った。
唐津焼はなんといっても、お茶の道具だが、独り者の自分にはマグカップが良い。
唐津焼を購入_e0195345_15240497.jpeg

# by katoujun2549 | 2023-11-20 15:21 | Comments(0)

唐津港から1時間ほど西に車を走らせ、呼子に行く。呼子はイカで有名だ。名店、呼子港にある河太郎に行き、イカの生き造を頂こうとおもったが、店に着いたのは一時半ですでに受付が終わっていた。福岡空港に着いたのが11時だがレンタカーを借りたりすると出発は11時半、唐津までは1時間はかかる。唐津からさらに40分だから、12時前に河太郎に着くのは無理だった。腹ペコになったので、近所の道の駅で何か無いかと漁ると、イカ饅頭、イカメンチがあるではないか。これは合わせても500円程度、しかし、空腹のせいか美味かった。無理に河太郎に行く必要はなかった。以前、中洲の川太郎でイカの生き作りは食べたことがある。腹ごしらえをして、車で5分ほどのところにある名護屋城跡に向かう。
名護屋城と呼子_e0195345_13415543.jpeg
名護屋城と呼子_e0195345_13374408.jpeg
呼子大橋を呼子港から望む

名護屋城は秀吉の妄想の成れの果て、天守跡に登ってみたが、壮大な風景で、この周りには、戦国大名の屋敷が取り巻いていた一大植民都市があった。今は石垣も唐津城建設に使われて、城郭の面影は乏しいが、かえって想像が膨らんで感無量。芭蕉の句は平泉のことだが、こちらの方が、『夏草や強者どもの夢の跡』という風景だ。 ここに全国の諸侯が朝鮮攻撃のため20万人が集結し、周辺には諸侯の屋敷が城を囲み、連日茶会が開かれたという。秀吉は金の茶室を作り、茶会を開いたという。主な川もない半島の突端で、人口二十万人以上にする「水問題」だけでも、たいへんな困難があったと思う。イエズス会のコエリョが西欧の軍事力を見せつけようとした。秀吉はこの湾でポルトガル軽量軍船の操船に実際に乗船し驚愕、西欧の脅威を感じ、バテレン追放令を発布した。さらに、サンフェリペ号事件の後26聖人の処刑などキリスト教禁令を実行するに至る。この地が、日本の対外政策の転換点となったことを思うと感慨深いものがある。



名護屋城と呼子_e0195345_13580553.jpeg
名護屋城と呼子_e0195345_14502945.jpeg
名護屋城と呼子_e0195345_14545333.jpeg
壮大な朝鮮攻撃の拠点都市が生まれたが、豊臣政権の崩壊後
その後全てが解体された。
名護屋城の石垣などは唐津城の建設に使われ
今は見る影も無いが、その面影を偲ぶと圧倒される。
名護屋城と呼子_e0195345_14592085.jpeg
秀吉がこの地で
行った茶会に使用された金の茶室の再現












# by katoujun2549 | 2023-11-20 13:54 | Comments(0)