カテゴリ:キリスト教( 66 )

コミュニティリビングに関して考えてみる。 2001年に放送された朝ドラの「ちゅらさん」は沖縄の小浜島から上京して、病院看護婦となった国仲涼子扮する古波蔵恵理が東京のコミュニティホーム風の下宿生活を送る。余貴美子やメルヘン作家役、菅野美穂演じる、ちょっとずれた個性豊かな住民が描かれていた。そのドタバタ劇が何とも人気で高視聴率だった。下宿一風館の管理人丹阿弥谷津子は93歳で存命、母親役の田中好子、おばあ役の平良とみは他界した。不思議なことに、ここでの生活や人間関係にはひと昔前のノスタルジーがあった。

       一風館のシーン 国仲涼子と平良とみ 古風な洋館


 懐かしいドラマだったが、このNHK好みの疑似家族は虚構である。というのは、居住においてプライバシーや生活への不干渉というのは必須事項であるのに、この一風荘では全く守られていない。住まいの基本要素であるプライバシーの無い人間関係は現代においては成立しないからだ。一風荘の個性豊かな住人との交流の舞台設定であり、あくまでも、ドラマを盛り上げる道具としてのリビングなのである。


 有名な漫画家が育ったという「トキワ荘」というのがあった。手塚治、石ノ森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫といった漫画家が豊島区の木造賃貸アパートに暮らし、今日の漫画文化の礎を築いた。インキュベータとしてのコミュニティリビングである。居住が成功への足がかりになった例として話題になる。今日トキワ荘プロジェクトというのがある。奇跡のような成功漫画家を生んだトキワ荘にヒントを得て、プロを目指す若手漫画家低家賃住宅〜シェアハウスを提供し、彼らがプロとして自活できるように、アルバイトの時間を減らし、自己投資や勉強に専念できるようにすることを目的にしている。そこでは講習会や仕事の斡旋仲介を通じ、切磋琢磨できるコミュニティを形成しようとするのである。トキワ荘のようにうまくいっているかどうかは不明である。柳の下にドジョウはいない。トキワ荘に入るには、寺田ヒロオを総裁とする新漫画党に入ること。共同のトイレ、炊事場があり、4畳半一間のユニットで相互扶助が可能であったが、プロとしての技量、情熱、協調性などを基準とする入居条件があり、多くの人気作家を生むことは必然であったという説がある。


トキワ荘(1956~1958年頃)の住人まとめより引用 http//www.matome.naver.jp


 阪大の学長であった鷲田清一が身体論で述べている。「木造家屋を再利用したグループホームという空間では、ひとのふるまいが制約されているということとひきかえに、伝統的な暮らしを取り戻す可能性がある」という。「木造家屋を再利用したグループホームという空間では、そこで暮らす者にとって、身に付いたふるまいを残しつつ、他者との出会いに触発されて新たな暮らしを築くことができるという。このトキワ荘では各住戸は個室、プライバシーは守られている。共通の食堂などはない。

 16人の小さな学生寮というのは、コミュニティリビングという居住スタイルを取ることができる。4年間の大学生活で何を得るか、多感な若者の成長に寮というハードがどう関わるかを考えたい。同じ志を持つ若者たちが、集い、磨き合う機会を得ることが出来るなら幸せである。寮に入って様々な人格に触れて、時には傷つき、又共感され、理解し合う。寮が虐めや暴力の場になるリスクもある。実際、学生寮でも事件は起きている。

 大学生であれば問題解決は学生同士で行わねばならない。予測可能なトラブルを未然に防ぐ仕組みが必要である。

 4年の学生生活という人生における貴重なひと時をこれまでの家族から離れて共同生活をする。その象徴が、イエスを中心としたガリラヤ伝道集団であり、使徒達である。信仰共同体として生活を供にした集団として、ユダヤ教のエッセネ派があり、死海文書の発見とともに明らかになった。


 福音書の中にはイエスを中心に様々な時や場所で食事を囲む集いがあり、御ことばが語られていた。カナの婚礼から最後の晩餐に至るまで食事を囲んでのエピソードが多い。イギリスのパブリックスクールでは定例の食事が儀式化されたものもある。コミュニティにとり、全員が揃って食事をすることが大切な生活の要素であることは世界共通である。新たに改装された寮においてはそうした空間が豊かに準備されなければならない。


 近年、家庭において孤食化が増えたことは家庭のコミュニティが崩壊していることの象徴である。女性の就労や子供の塾や部活などの事情もあるが、家族の団欒は大切だと思う。ファミリーレストランや回転すし屋ビジネスは家族関係を取戻し、家族を認識しする場、喪失しつつある団欒の外食による代償行為でもある。コミュニティリビングでもこれを再構築する試みがなされている。学生寮も近年、共同キッチンを設けて自炊を軸にコミュニティを形成する施設が増えた。


家庭の団欒や食事を共にするという今は失われた家族コミュニティの要素が寮という共同生活の中で復活し、若者の成長に寄与するのである。孤食という現実に妥協するのか、共同体の原点に回帰し、食育といった教育効果を狙うかは寮運営のポイントとなる。

 共同生活をより快適にするには何が大切か。イエスは伝道旅行の中から使徒達の行動などからもヒントを得ていたと思う。弱きものに従う、小さなものを大切にすることは福音書のメッセージだがこれはコミュニテイを良くする原則である。その逆であったらその集団を支配するのは何であろう。強いもの、優秀なもの、豊かな人が中心になる。そうした力が支配する学生寮は世の中には存在する。社会人になればそれは常識かもしれないがそれでは幸せな社会にはなれない。寮の中心に聖書があり、イエスキリストが見守るならば、それによって学生の生活は守られるのである。クリスチャンが全くいない時代においても、国立の寮では聖書研究会が守られてきた。キリスト教主義の学生寮は今も守られている。

 こうした秩序を守るためには寮母の役割は大切である。もちろん男性でも良いが、食事の提供とか清掃、清潔の維持を守るには女性の方が好ましいと思う。寮母の役割は何も食事を作ることに特化する必要はない。しかし、メンバーの一人として、全員が揃って食事をするマネージメントは是非行って頂きたい。21世紀の学生寮のあり方を今後も追い求めていくのが一橋キリスト教青年会の役割である。


英国独立学校の監督生制度に関する一考察
―変容するプリフェクトに焦点を当てて―
古阪  肇 著
早稲田大学 教育・総合科学学術院 学術研究(人文科学・社会科学編)

寮運営の長い歴史を持つイギリスのパブリックスクールと現代に至る変遷について述べている。
学生寮を統治するため、自治の仕組みとして優秀な生徒をプリフェクトとして選定し、特権を与え、生活面の監督を行うもの。
過去においてはファッギングという付き人制もあり、リーダーシップを磨く仕組みとなっていた。日本では体育会の上級生の新入生支配に類するもので、生活上の雑務をこなすと共に徒弟的人間関係が形成された。イギリスのパブリックスクールは厳しい規律で統制され、勉強とスポーツに集中した生活を強いるもので、食事も貧弱で、苛めや男色の巣窟にもなった。豊かな貴族階級の師弟を鍛え上げる仕組みとなっていた。プリフェクトは食事中は食卓の端にいて世話や監督をする。校内室内の指導監督と火気の取り締まり、集会の指揮指揮と点呼、生徒間の紛争の仲裁解決仕事内容とする。今はプリフェクト制度の良さは評価されているが、ファギングは苛めや奴隷的使役の温床と批判され消えている。
20 世紀になっても依然状況の悪さが垣間見える描写が記録されている。1920 年代にリース校(The Leys School)に学んだ池田潔は,自著の中で,生徒が生活するハウスの様子を「教師の室と病室を除いては学校中に暖房設備というものがない。室内を吹き荒ぶ木枯に一夜が明けて,朝,目が覚めると毛布の裾に薄く雪が積っていること」もあったと懐述している。また,池田が独立学校に在籍した時代には学校で夕食がなく、パブリック・スクールの食事は「質からいえば,この食事はイギリス人のもっとも貧しい家庭の一歩手前のそれであり,量の点では,夜食が全然ないことからいっても,その標準にすら及んでいないといえるであろう」 と記している。無論 21 世紀現在は食事事情についても改善され,寄宿生は毎日 3 食の食事がハウスや食堂で提供されている。この報告では現代に至るプリフェクト、ファギング制度の変遷が焦点であり、パブリックスクールの前向きな記録は池田潔の「自由と規律 イギリスの学校生活」に詳しい。

お茶の水女子大学 高等教育と学生支援 2010 年 第 1 号
アメリカの大学の学生寮視察調査
―本学の学生寮への提案―
The investigation of dormitories at American universities:
A proposal to dormitories of Ochanomizu University
赤坂瑠以 (Rui AKASAKA)
お茶の水女子大学 学生支援センター

アメリカの学生寮では、寮生と教職員が連携してイベント等を企画・運営していることが1挙げられる。また、イベントは娯楽的なものばかりではなく、弁論大会、異文化交流等の教育的なイベントや、スポーツ大会等、多様なものが実施されている。このように、多様なイベントを実施し、間口を広くすることで、寮生が自分の興味の持てるイベントに参加できるようにし、様々な活動を通して、生活を充実させると同時に、新たなチャレンジを通して、将来の選択肢を増やすことが可能となるものと考えられる。一橋大学では、これまでは、教職員と学生とが連携してイベントを企画することはなく、寮生が主体的に実施しているウェルカムパーティなどのイベントや聖書研究会、クリスマス等が伝統として受け継がれてきた

 ハーバード大学では、学内で様々なイベントが催されており、多くの寮は学内にあるため、取り立てて寮
に限定したイベント等は行われていない。ただし、学内の寮では、寮生が個人個人で主体的にイベントを企画したり、参加したりすることがあり、寮にもよるが、寮内での交流は概ね行われている。また、上級生と下級生の交流も特別に企画されてはいないものの、寮生が集まる食堂で、授業の課題について教え合ったり、就職や進学の相談をしたり等、日常的に関わりをもち、助け合っている。
 大学からの特別な働きかけがなくても、このような交流が自発的に行われる理由として、一つには、学生が自立を目指し、寮でも主体的に生活する姿勢をもっていることが挙げられる。自宅からの通学距離の関係もあるが、アメリカでは、大学生になると親元から離れて寮で生活することが一般的である。そのため、学生も寮生活を通じて、自立していく意欲をもっており、寮内で、何か問題が起こった場合には、自分たちの責任として捉え、できるだけ当事者同士が話し合って、問題解決するという意識を持っている。

イギリスの学校生活 自由と規律 岩波新書 池田 潔著
 
 食事事情の悪さについては,小遣いで食べ物を購入することや,親から届けられる差し入れの食料,さらにそれらを友人と分け合うという経験を通し,友人の選び方を学び,親への感謝の心を育ませるという狙いも見られるため,予め教義に基づいて意図された訓育であると捉えることも可能であろう。20 世紀以降も英国独立学校の生活条件は,現在に比して劣悪であった。著者の池田潔は、三井財閥と日銀トップを務めた池田成彬の二男で、第1次世界大戦直後から満州事変直前の時期に、17歳で渡欧し、英国のパブリック・スクールのリース校、ケンブリッジ大学、独ハイデルベルク大学に、通算11年間学んだ。
本書は、英国の伝統的精神がいかにして育まれるのかを記した名著
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1.聖書の記述は嘘から出た真か

今年の復活祭は4月1日、エイプリルフールだ。敢えて虚から実ということを入り口に復活を考えてみた。受難週に入り復活祭までイエスの受難が教会で語られる。聖書のなかでも圧巻はイエスの十字架の死と復活である。しかし、使徒行伝や書簡におけるパウロやヨハネなどの記述も不思議や感動に満ちている。聖書の世界を一言で言うと、まさか本当にそうなるとは、瓢箪から駒である。信仰的には不適切な表現だが、「嘘から出たまこと」かもしれない。2000年前、キリスト信仰が今日の様な大きな世界になり、世界史において重要な役割を果たすとは思いもよらなかったに違いない。使徒や原始キリスト教の信徒たちは奇妙な迷信、イエスの復活を信じたことにより迫害され、伝道の中で殺害された。キリスト教信仰のネックになるのが復活であることは2000年前も同様であった。死者の復活を前面に出した宗教はイエスの復活信仰の前にも後にもない。そんなことはあり得ないと思うのが普通であろう。それを信仰の中心としているのがキリスト教であり、このテーマに至るにはかなり文学的な思考力が必要だ。もし、イエスが死後、神の世界とか楽園に行ったことを主張してもこれほどのインパクトはない。ただの、十字架にかかった不幸な一予言者でしかなかっただろう。復活のイエスは多くの人の前で現れ、パウロにもエマオへの途上で現れ、彼の人生を変えた。これを幻覚だとか文学的表現とするのはむしろ無理である。何かが起きたのだ。現代人がUFOに遭遇遇した以上の衝撃があったと見る方が自然である。嘘にそんな力があるとは思えない。復活の信仰のため、多くの殉教者が出た。命がけのことなのである。聖書の記述しか証は無い。殉教者が命をかけた復活を信じるかどうかだ。

2.瓢箪から駒

戯れに死人の復活を語ったのではなく、十字架と復活の事件から、10年から30年にかけて記録が書かれ、証人も生きていた時代の内容は考古学的にも整合することがある。信憑性が高いかどうかは主観によるし、この事件のもっとも詳細な記録が福音書である。なんせ2000年前のメモのようなものから福音書は書かれたのだから。本も新聞も無い時代の出来事だ。そして、後には使徒や証人は迫害にもかかわらず、地中海世界全体に伝道をしたことは事実。
瓢箪から駒という諺から考えてみる。そんなことが起こるはずがないという意味での使い方もされる。「瓢箪から駒じゃあるまいしそんなことが起こるもんか」という言い方。英語にもMany a true word is spoken in jest.(多くの真実が冗談で語られる)という表現がある。しかし、聖書ではそのような意味ではなく、すべてが真実として書かれている。福音書はイエスの言行録だが、多くの奇跡や例え話、比喩が満ちている。真理や感動を説明するために、イエスは比喩や例え話を多く使っている。分かり安く言うと、君は天使だというセリフがあるとする。何も、相手は本当に頭の上に光が輝いていたり、羽根が背中に見えたわけでは無い。感動や賛美の表現なのである。神の愛とか、神のご計画、罪とは何かを語るとき結論だけを語ることによっては何も伝わらないからだ。メタファという表現手法も教訓とか、道徳を語るときにしばしば使われる。狼が来たぞ!と嘘をいって、村人を驚かす少年がいて、最初はみんな驚くのですが、回を重ねるごとに信じる人が少なくなり、最後には少年のことを信用する人はいなくなってしまいました。そこに本当の狼が襲ってくるのですが、いくら少年が声をかけても誰も信用せず・・・・・という話。この話しはうそつきは信用を失うという内容のメタファーになっている。誰もその事件が、何年の何月何日に起き、証拠はあるか?とは言わなくても理解出来るだろう。物語のメタファーとは、よくテーマとか教訓といわれるものに使われる。印刷物もコピーも無い時代に伝えるためにはインパクトのある言葉こそ力だった。福音は口頭で読まれ、書き写しの写本で巻物として伝えられた。それが100年間で何百万人もに伝わったのだ。
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3メタファー

福音書、新約聖書の物語はイエスの言行、奇跡、復活と死などすべてがメタファーに満ちている。聖書の書簡集はパウロやヨハネの教会や信徒に向けた信仰のあり方を書いたもので、特にローマ人への手紙は神学論である。聖書の根幹をなす神の愛とは何か、聖霊の働き、我々の希望である復活が現実であり真実であることを思うためには聖書の例え話やメタファの意味を考えることが理解の道である。
なぜなら、キリスト教の復活の世界は黙示録に記され、象徴とイメージの世界、さらにメタファをふんだんに織り込んだ世界である。これはイスラム教の天国が地上の楽園を模したり、仏教の極楽世界とも違う奇っ怪な未来世界であり、霊の世界が象徴的に描かれている。これはイメージと感性でしかとらえることが出来ないのである。

4.イエスは私たちと共におられる

自分は死や死後の世界を説明することは出来ない。イエスも復活後、人々にあの世の話をしたわけではない。語るべきことは実はこの世をいかに生き、人々の罪とや苦難を癒すか、また、神の存在を確信させるかである。その為に復活というメタファをもって我々に示された。見たこともない天国や地獄ではない。身体の甦りがあり、死ではなく、復活という世界観がある。死んだ親兄弟、妻や友人、子供と再び会える。それによって我々に勇気が生まれ、の新しい世界が広がる。我々に希望や恐怖から解放することは復活への信仰によって得られる。復活は信仰そのものなのである。キリスト教の信徒にとっての喜びは今もイエスは我々と共におられるということである。それは一体どこに?それは信仰のなかにある。
この復活の現実は何もないところから生まれるのではない。信仰と祈り、それを表す聖書の言葉、それを受け継ぐ教会の礼拝、牧師、信徒の交わりによって顕在化される。個人的なことではなく、教団、伝道、正餐、祈りを通じ、復活のイエスは我々と共におられると思う

4.聖書から
聖書のコリンコリント第一の手紙15章にパウロの復活への確信が告白されています。
パウロが「キリストの復活」というテーマを取り上げたのは、コリントの教会がこのことに関しても問題を抱えていたからです。教会には人間が復活することを否定する人々がいました。しかし、これは別に不思議なことではありません。キリスト教において「身体の復活」は、いつの時代にも人々が躓いてきた信条だからです。現代人のうちのいったいどれほど多くの人が、使徒のように「身体の復活」を信じていることでしょうか。

コメントより、聖書のパウロの言葉こそ最高の信仰告白をあらわしています。
15:12さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 15:13もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 15:14もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 15:15すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 15:16もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 15:17もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 15:18そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 15:19もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 15:21それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 15:22アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。15:23ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 15:24それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 15:25なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 15:26最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 15:27「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 15:28そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。
15:29そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。 15:30また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。 15:31兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。 15:32もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。 15:33まちがってはいけない。
「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
15:34目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。
15:35しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 15:36おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 15:37また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 15:38ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 15:39すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 15:40天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 15:41日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
15:42死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 15:43卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 15:44肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 15:45聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 15:46最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 15:47第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 15:48この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 15:49すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
15:50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 15:51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 15:52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 15:53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 15:54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56死のとげは罪である。罪の力は律法である。 15:57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 15:58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。



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クリスマスの祈り

在天の父なる神さま、クリスマスを祝う恵みを与えられますことを感謝します。あなたの一人子をこの世に賜り私達の罪を贖いくださいましたことを記念する良き日に兄弟姉妹と共に心から我が主イエスキリストの御名を賛美し、あなたの一人子、我らの主の十字架の苦しみと贖いによって私達が救いの中にあります事を感謝します。
 ご恩寵を覚えず、自らの罪を覚える愚かさ、罪深さを懺悔いたします。私達が与えられたこの世界がご計画によって作られ、貴方の栄光を表すものとして築く事ができますよう道をお示し下さい。世界は過去の教訓を忘れ、再び力と富こそが世界を主導するという誤った考えが蔓延しつつあります。愚かな核兵器によって力と力の恐怖によって世界を支配することは許されることではありません。
主が十字架によってお示しになられた愛と絆こそが力であり、新しい世界を導くものであると信じます。その事を証しし、聖霊の御力によって福音を伝える使命を果たす事ができますよう導いて下さい。 あなたの一人子のご降誕の奇跡とそこに示されたご計画を信仰をもって受け入れます。
 私達一人一人がクリスマスの喜びと感謝をもって、新しい年を迎えますように。「いと高きところに栄光神にあれ、地には平和が御心にかなう人にあれ」と福音にあるように、主と共に歩み続けます。どうかこの罪深き私達が多くの悲しみの中にある人びと共にあり、祈り、奉仕することを許して下さい。災害に遭われた方々の復興、あるいは、平和のために尽くす力を強めて、我が主の御心に適う良き働きを行う事ができますよう。
これから新しい年を迎えるにあたり、社会にあっても、又、個人生活においても様々な試練が待ち構える事と存じます。どうか私達が良き決断と目標を与えられますように。貴方の選びの中にあって問題を解決できるよう知恵をお与え下さい。クリスマスにあたり感謝と願いを貴き主イエスキリストの御名においてお祈りもうしあげます。

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2017年11月26日(日)13時30分~15時
キリスト教信徒で構成される音楽集団ユーオーディアの皆様による木管五重奏の集いが行われた。菅井春恵フルート、姫野徹オーボエ、柳瀬洋クラリネット、今井潤子ファゴット大森啓史ホルンによる演奏。デーヴィス作the Little Drummer Boyからはじまり、8曲+αの曲目が演奏された。100人を越えるご家族連れが教会に集った。子供達も多く、多少騒々しいかと思いきや、演奏者のご配慮で楽器解説もあり、at homeな会となった。小さな子供の育児を抱えているとなかなかコンサートには行きにくい。多くの小さな子供連れが
加わったが、意外と静かに皆さん聴いてくださった。ファルカシュのハンガリア舞舞曲集団、イベール3つの小品、ラッターのスターキャロル~クリスマスララバイ、聖歌、クリスマス讃美歌など飽きさせない構成であった。普段の礼拝には30名ほどだが今日は140人を越す聴衆となった。
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140人を超える聴衆がつどった
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各奏者はトップクラスの実力派で、演奏の内容が素晴らしく、小さな子供も聴き入っていたのではないかと思った。教会は大抵音響効果も良い。小さな音楽団体の演奏の場になることが増えつつあるのだが、教会の会堂という場では、やはり、演奏者の信仰とか、キリスト教の伝道という要素を見失わないよう、演奏家の意図や考え方も考慮して、教会は適切な演奏者を選ぶべきだと思う。その意味でも柳瀬洋さんの証しもあり、充実した内容だった。



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神戸女学院の階段
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青山学院の礼拝堂とパイプオルガン
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  NHKの朝ドラ、「花子とアン」は吉高由里子主演でヒットしたが、実像はドラマとはかなり違う。実在の文学者児童文学家の村岡花子(1893~1968)をモデルにしている。ヒロインの安東家はドラマでは貧しい小作農家である。甲府の出で、父親が奔放でもめ事が多かったことは同じだが、ドラマでは兄は奉公人、妹は製糸工場の女工と当時の貧農の典型である。しかし、実際は彼女が5歳の時上京し、品川で茶業を営んでいた。東洋英和女学校を10年かけて卒業し、系列の山梨英和女学校に英語教師で就職した。尋常小学校の代用教員ではなかった。
 昔から、ミッションスクールに通う学生は、市街地の商家、豪農の娘、高学歴サラリーマンの子弟であった。近年、異変が起きている。それは地方都市を中心に、中心市街地の商業が衰退、地方の大企業の工場は海外に移転、都心のホワイトカラーもエリートではなくなってしまった。こうした階層の変化に学校というのは容易に移転はできないし、学生の供給は地元に頼らざるを得ないから、自ずと学生募集に苦労するようになった。特に苦しいのが女子大である。また、地方都市のキリスト教会も同じ悩みを持っており、高齢化、信者の減少により、かつてのように学校を支えることができない。魚のいなくなった場所で釣りをしているようなものである。もちろん、地方の高校や大学は同じ悩みを抱えている。優秀な学生のみならず、低学力の学生も首都圏、阪神圏の大学に吸い寄せられている。地方都市に彼らをとどめる魅力がないのだ。
 このことは、当然、文科省も大学改革に頭を痛めているが、大学側が改革のスピードを上げない。高等教育というのは世界標準があり、先進国では4年間はリベラルアーツ教育で語学や幅の広い教養を古典などを通じて学ぶ。日本はドイツの制度をモデルにしてきたが、本質的に違うのは、ドイツは階級社会で、大学に行くのは、ゲルマンのエリートである。授業料はタダ。移民が多く、彼等は高等教育には進めない。形だけ真似した日本は特殊だから、国際的にも評価が低い。世界ではゼミナールなどで専門性を方向付け、大学院に進学して社会に出ることが人材育成の道になっている。医学や法学はこうしたリベラルアーツ教育を受けてから医学部やロースクールで専門家として育てるのである。職業大学院など、文部科学省はエリート育成のための方向付けを国立大学を中心に行っており、特に、理科系は大学院に進学する学生が増加しており、就職においても学部卒はむしろ不利である。
 国立大学は今後文系もそのような方向を取ると思われるが、私立学校はそうした余裕がない。大学院も無いところが多い。社会は文系においては大卒を就職試験で振り分け、選別している。企業は地頭の良い、高偏差値の学校を中心に優秀な学生を得ることに躍起となる。また、大多数の学生は大学での勉強や資格すら問われることなく、企業の人材育成にかなった素質を中心に選別される。体育系の教員養成の大学でも一般企業に就職するし、音大卒でも最近は採用される。
 こうした現実に対して教員はアクティブラーニングなど必死の努力を始めているが成果は出ていない。高校教員が大学の現実に無知だからだ。彼らの大学観は10年以上遅れている。そうした中で先は学生の確保でが最重要課題である。そのために、地方私立大学は何をしたらよいか。自分は
 1つはリベラルアーツ教育の徹底、2つ目は学生寮の整備を上げたい。全国からの学生を集め、市場開拓のためである。リベラルアーツ教育の柱は英語教育を中心とする語学力向上である。それは将来大学院に入学するためのもので、できれば海外の大学院に入学できるTOEFLレベルを目指すのである。学生寮は賃料を頂くが、当然赤字である。しかし、これがあれば来る学生の学納金と併せ収支を取れば採算は合うはずである。これとキリスト教教育を柱に全人教育を行うのである。そして、これは一つの大学で単独で行うのではなく、ミッション系の大学は合同してシステム設計を行い、必要なスタッフもFDなどで育成する。都市の応募者の多い大学はこうした人材育成に協力するという形である。勿論。ミッションスクールの第三の柱はキリスト教である。

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 オウム真理教事件で逮捕され、サリン実行犯のうちただ1人だけ死刑を免れ、無期懲役になったのが林郁夫でした。彼は慶応大学病院の心臓外科医でした。他の被告同様、何故彼がオウムに入信したかは謎です。彼は同じく医師の妻と子供を伴い、全財産を寄付して麻原の元に飛び込んだ。優秀な心臓外科医として、彼は様々な生命の神秘を体験したという。自分が完璧に成功したと思った患者が亡くなったり、その逆もあり医療はどうして無力なのかに悩んでいたという。人並みはずれて仕事熱心で突き詰める性格の彼が何らかの心理的トリックに嵌ったとしか思えません。
 しかし、自分も、社会人として東京医科歯科大学の医学部で介護と住宅の研究をしていたときに、多くの医師と接したが、彼らも同様の悩みを抱えていました。人間の身体は分からないことだらけである。常識も覆ることが多い。基本的とも言える現象が説明できない。例えば、偽薬(プラセーボ)が効いてしまう。何故、脳には薬が回らないのか。脳血管関門の存在がその理由だが詳しくは不明である。だから脳の薬は開発が難しい。薬、抗がん剤なども結果的に効いたので使っており、何故効くかは推定しているだけのものが多い。実際ペニシリンや抗がん剤なども偶然見つかったもの。完全に制圧した伝染病は天然痘とポリオなど数えるほどです。結核もマラリアも、新種が出来て、これまでの抗生物質が効かなくなってしまう。先進国では病気にかかりにくくなっているのも確かで、胃がんは冷蔵庫の普及、増加率と減少率が一致しています。それは保存のための塩分が食物から減少したからで医療行為で減ったのかは不明です。結核も、栄養状態がよいと感染はしにくく昔は隔離されたライ病も今は完全治癒できる。確かに進歩しているがそれは医療外の成果もある。癌の新しい分子レベルの治療法などが発見されたことが新聞では発表されるが、治療に結びつくのは10年後だったりする。今なお、20年も前に始まった抗がん剤が一番効いたりします。次から次ぎへと新薬が出る。抗がん剤は25%効けば承認されるから、新薬ほど効かないという見方もあります。20%が効くという意味で、治るという意味ではない。80%の人は全く効かず、副作用だけが残る。高齢者の場合は老化により様々な疾病にかかるが、動脈硬化、リウマチ、腰痛、癌、認知症などはほとんど治らないと考えたほうが良いでしょう。もちろん改善や現状維持はあるが、完治は難しい。病院での治療の常識も時代によって変化している。かつて、お産などは痛くて当たり前で、女性には我慢を強いたが、最近の周産期病室はまるでホテルのように立派。痛みを極力短くする工夫もなされてきた。癌の治療でもオピオイド系の麻薬を使った緩和ケアは常識となり、癌も昔のように疼痛で苦しみぬくことは稀になった。こうした、麻酔で苦痛を和らげたり、治療環境においては格段の進歩となっている。また、切断された体をつなげたり、心臓や脳の外科手術、臓器移植は昔では考えられない大進歩を遂げている。ところが、慢性病やインフルエンザ、昨年のエボラなど、現代医療では歯が立たない病気も多く存在する。病気になったときに感じるのだが、特に癌の場合は、一体何故自分だけが癌にならざるを得なかったのかとひとり悩むことが多い。病気は誰かのせいでなるものではない。もちろん、ストレスや伝染病の感染は大きな原因ではあるが、防衛することもある。しかし、癌は発見されたときは進行していることもあり、手術で除去したり、抗がん剤で消えても再発の恐怖は残ります。病と心は表裏一体。女性の場合、癌と宣告されて夫から離婚を申し立てられる場合が結構あります。ほんの10年前までは、癌になることを告知するかどうかが大問題でしたが、今は医師はためらわずに診断結果を伝えるようになりました。
病気というのは患者本人の治癒への意欲とか、周囲の思いやり、治療環境、病室なども大事な要素です。自分は在宅治療の場合の住宅改造のありかたで、論文を出し、修士をいただきました。2000年前、聖書ではイエス様が多くの病人を治癒させたことが記録されています。このヨハネによる福音書9章1~7はシロアムの池というところで、イエスが盲人の目を見えるようにされた奇跡物語です。このヨハネ伝には5章でベテスダの池でも38年間病気に苦しんでいる男を癒されたことが書かれています。この箇所と、シロアムの池の違いは、生まれながらの盲人をイエスが癒されたというところが違っています。昔は病気や不幸は何かの罪の結果であると思われていたのです。日本でも、何か悪いこと、病気などでも因果応報という考えがあります。イエスはこのことをキッパリと否定されています。38年間闘病していた人は、病気になる前は何か罪の行為をしたのではないかと決め付けられたが、イエスはそれを直された。この9章では生まれながらですから、何か罪の行為をしたわけではない。そこにイエス様の奇跡が働いた。
 
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2 弟子たちがイエスに尋ねて言った、「ラビ、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか、それとも彼の両親ですか」。 3 イエスはお答えになった、「この人が罪を犯したからではなく、また両親が罪を犯したからでもない。それは、この人に神の業が現れるためである。
イエスはビックリするような方法で、目の見えない男を治されました。これは普通は信じられないことでしょう。この奇跡物語でもうひとつ聖書が語りたかったのは、イエス様がユダヤ人達の反感をさらに高めていく姿です。この9章の後半はイエス様が奇跡を行なったのが安息日であり、ユダヤ教の禁を破ったことから、パリサイ派の人々がイエスが神の子であることを否定し、イエスへの攻撃度合いを強めていった様子が描かれていることです。ベテスダの池の病人を癒されたのも安息日。イエスは、ユダヤ教の規則を乗り越え、苦しんでいる病人や盲人を救う行為を行ないました。多くの奇跡でご自身が神の栄光をあらわす力があることを示されました。
4 わたしたちは、わたしを遣わされた方の業を、まだ日があるうちに行わなければならない。だれも働くことができない夜が来る。 5 わたしは、世にいる限り、世の光である」。 6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で泥を作り、その泥を彼の両目に塗られた。 7 そして彼に言われた、「シロアム―遣わされたという意味―の池に行って洗いなさい」。そこで、その人は行って洗い、見えるようになって帰ってきた。
(ヨハネ9章8~16)
 14 イエスが泥を作り、その人の目を開かれたのは安息日であった。 15 そこで、ファリサイ派の人々は再びその人に、どうして見えるようになったのかと尋ねた。その人は彼らに言った、「あの方が泥をわたしの目に塗り、わたしが洗うと見えるようになったのです」。 16 そこで、ファリサイ派の中のある人たちは、「その人は、安息日を守っていないのだから、神のもとから来た人ではない」と言い、他の人たちは、「罪のある人がどうしてこのようなしるしを行うことができようか」と言った。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

この言葉にあるように、私たちは様々な事柄を知ることが無く、特に若いころは盲目の状態にあります。それを象徴するようにイエスキリストは世の光であるとして、シロアムの池に行って洗いなさいと盲人を遣わされ、見えるようにされたのです。ところが、周囲の人々はそのことよりも、規則として安息日に奇跡の業を行なったことを根拠にイエスを否定しようとしました。
イエスキリストの奇跡の業には盲人を見えるようにしたり、足の悪い人を歩けるようにしたり、精神を病んだ人を正気にさせたりする医療の業が多くあります。こうした奇跡の行為は、イエスキリストだけではなく、当時の宗教指導者がしばしば行なっていたという説もあります。しかし、福音書に書かれていることはそれよりももうひとつ、この行為を行なったイエスが力を見せつけるためでしょうか。奇跡の目的は、この世界が神の支配にあって、そこをイエス様が規則を超えて、苦しんでいる人のために行なったことに意義があるのではないでしょうか。自分はこの奇跡を信じています。イエスはこの奇跡によって神の存在を見せ、人々は信じたのか。イエス様の十字架への道を考えると人々は離反した。聖書が言いたいのはそうではない。イエスは復活されて神の子であることを証明された。それを信じるから、この不思議な出来ごとも信じている。復活という信仰を前に、あらゆる奇跡の記録が、福音書においてもインパクトが弱くなる。まるで、太陽光線の中では電灯も光が消えてしまうのと同じである。

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 イエスのガリラヤ伝道に見られる様々な奇跡物語は、イスラエルにおいては必ずしもイエスだけのものではなかったと自分は思っている。史的イエスの問題としても、イスラエルの危機的状況の中から、バプテスマのヨハネなど多くの伝道者や奇跡物語などの記録が残されている。イエスの記録は福音書以外には無い。当時の状況はユダヤ戦記を書いたヨセフスの詳細な記録がある。       

 しかし、イエスの神は愛であるとか、死人の復活といった考え方は衝撃的だった。イエスの思想は伝統的なイスラエルのパリサイ派やサドカイ派の考え、さらには、ゼロテとか、熱心党などの政治集団とも違った。当時のユダヤ人の社会状況に対する宗教的な風潮はこれまでの律法とか、礼拝を厳格化し、ローマ帝国の支配状況にユダヤ人の自覚を促す民族的な先鋭化するものだったようだ。ところが、イエスはガリラヤの土着的な考え方を柔軟に取りこんできた。その柔軟性に注目したい。キリスト教が2000年にわたり社会に受け入れられたのは、まさに、その点にある。聖書は常にその様に読まれ、解釈されてきた。カルトとか、イエスを神性と人間性を切り離したりするとたちどころに色褪せたものになる。イエスの行動はむしろおおらかで、常にその目は民衆を向いていた。だから、聖書の記録されているイエスの言行は度々、既存の権威、通説、通念に挑戦的に表現される。革命家、改革者イエスの姿である。

 今日、キリスト教は世界人口の3割以上22億人が信仰している宗教だが、なぜそこまで広がったかの理由がそこにある。中世の異端審問とか、魔女裁判の暗黒時代をキリスト教的な非妥協性を指摘する人がいるが、全くの間違いである。クリスチャン、特にプロテスタントは聖書を読み、解釈し、現在の自分にその言葉を生かそうとして来た。先日、東京ではハロウィンで大騒ぎだったが、クリスマスだって、ローマ帝国の皇帝のお祭り、太陽祭りを取り込んで、実は何時かは不明のキリストの誕生日にしたのである。こうした柔軟性こそキリスト教の本質なのだと思う。日本のキリスト教信徒の中で、ユダヤ的なものだけをキリスト教信仰の規範に取り込もうとしたり、欧米の教会の習慣を正統であるかのように主張するのは間違いである。既に日本のキリスト教会も日本的なのである。
フロムは愛について、その著作「the art of loving 」の中で次のように語っている。愛は技術である。そして愛は学ぶ事が大切であるという。誰しもが愛されたいと望むと言う前提はあってよいだろう。しかし、一生懸命に努力しても愛されない人はいる。また、もって生まれた天性のように愛され、人気を得る人もいる。愛は本来人間がもって生まれた才能なのだろうか。E.フロムはこれに対して反論する。
1.愛について学ぶことはないと考える第一の理由は、たいていの人は愛の問題を、「愛する能力」の問題ではなく、「愛される」という問題として捉えているからだ。
つまり人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるかということなのだ。
2.愛について学ぶことはないと考える第二の理由は、愛の問題は「対象」の問題であって、「能力」の問題ではない、という思い込みである。
愛することは簡単だが、ふさわしい相手をみつけることはむずかしい、人びとはそんなふうに考えている。
3.愛について学ぶことはないと考える第三の理由は、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。
4.愛の失敗を克服するただ一つの方法は、愛の意味を学ぶこと、その第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であるということを知ることである。
愛の技術を習得するには理論に精通し、その習練に励み、その技術を習得することが究極の関心事にならなければならない。
5. 利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。

この本には愛に関する名言が満ちあふれている。
我々は人間として愛を語るにはあまりにも日常の雑事に追われ、また、弱く、自分の心を制御する能力に欠けている。時として、自らの愛の無さ、相手を知らずに傷つけてしまい、後からそれを知って愕然とする。そして愛することが出来ない自分に絶望する。その時にどうすればよいのか。フロムの見事な分析では解決しない。
 
 フロムはネオフロイト学派の心理学者、社会学者である。極めて明晰な理論で愛を語り、分析している。彼はフロイトの精神分析学を発展させた。フロイトの生理学的洞察から実存的次元へと移し変え、深めていったといってよい。
 しかし、自分はフロムの洞察にも限界があるような気がする。彼の述べる愛には限界があるということだ。人間の愛は裏切る事もある。愛せない自分、愛されない自分の悩みは続くのである。また、どんなに理論を学んでも、実践しなければ能力はつかないだろう。いくらピアノの演奏を聴いても、評論を読んでも、実際にドレミファと鍵盤を叩いてみなければ弾けるようにはならない。この本は必ずしも愛の指南はしてくれないのである。この時に一体どうしたら良いかの示唆はこの本から得られたなら幸いである。 
  誰からも愛されないのに人を愛することが出来るだろうか。これは人間同士の愛する、愛されるということであって、キリスト教の聖書に書いてあるアガペーとは違うのだろう。彼は第二章愛の理論で、愛の対象として、兄弟愛、母性愛、異性愛、自己愛、神への愛と分類し分析している。神の愛とは何か。最後の神の愛を至上のものとするキリスト教では神は愛であるという。イエスキリストは真の愛の人であり、自らを犠牲にして神と人との和解を示された。そして十字架の死と復活。愛されなかった自分、そして裏切られ捨てられた自分は他人をそれでも愛することが可能だろうか。愛について語るには、更なる状況を設定しなければならない。

  人間は他人を愛することが出来るだろうかという問いがキリスト教の本質的な命題である。その領域にどうした至ることが出来るのだろうか。

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 12月に入るとイエス様の御降誕を祝うクリスマスを待ち望むアドベントに入ります。クリスマスは自分にとってどんな意味があるのだろうか。イエスキリストと私、私とキリスト教を原点に返って考える季節であります。キリスト教において私達は罪人として生きている。人間は罪深い。そのような自分の発 見がなければ、恐らくキリスト教はただの儀式、クリスマスやサンタの世界になります。 私達の営みを歴史的に見ることが重要です。それに自分の人生を振り返ってみる。この6 0年間、自分は思う通りに生きて来たのだろうか。歴史と人生を重ねる。この習慣が日本 では薄いのかもしれないと思う事もあります。しかし、明治維新を見てみれば、どうでし ょうか。薩摩や長州は関ヶ原の恨みを戊辰戦争で晴らしたともいいます。結構過去の恨み を忘れていません。そんな復讐心に燃えた人間をどう思うかです。広島や長崎の原爆を忘れ てはならない。これはそこで亡くなった何十万人もの同胞の命を思い、その意味を問い続 けるということは大切です。でも、アメリカに報復の原爆を落とせと言っている人がいないことは日本人の心として素晴らしい事です。以前、ブログに書いたのですが、あの原爆は冷戦の始まりでもあり、日本が本土決戦を思いとどまり、日本が分割されなかったことに貢献しているのではないかと思う。彼らの死は無駄ではなかった。私達の人生においても忘れられない出来事、許せない友人の 行為、親にも厳しい思いを持つ事があります。やられたらやり返す。世界はその繰り返し でしょうか。

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 それは自分の姿に当てはめてみたい。 そうした自分自身を振り返り、何ともいたたまれない気持ちになることがあります。イエス様の癒しはそのような時に働かれるのです。自分の罪をどう扱ったら良いのか。自分 は完全無欠ではないし、人間全体にもこれは言える事です。そう思わなければ救いも求め ませんし、キリストの愛も分かり難くなってしまうのです。皆さんはいかがでしょうか。 日本はおおらかな社会です。もっと楽天的でもいい。でも、実際には様々な問題を抱えて しまいます。友情、親と子、兄弟の愛情などうまく行っている時ばかりではない。自らを 振り返って反省する事も多い。幾つかの思い出に中に罪深い自分の姿がうかんでまいります。

 何の問題も無い順調な時、和気藹々として交流を楽しむとき、そのような時には神の愛 は意識されない。相手に裏切られた時、怒りに任せる事、それもままならないとき。罪を 感じ、それをどうしたら良いか分からないとき。その感情を神のもとに持ちより罪が正し く処理されるために、イエスキリストの存在がある。御子イエスはあがないの供え物 としてこの世に使わされた。私達が神を愛したのではなく、私達が罪人である事を思うと き、誰にも相談出来ないとき、聖書は語りかけてくれます。私達を神は愛してくださって いる。この御言葉は伝えたい。神が愛と言うのはどのような意味か。 幾つかのエピソードを通して、自分が体験したイエス様の愛と癒しを皆様にお伝え出来 たら幸いです。何と言っても、アドベントに入りクリスマスの季節です。イエス様のご降 誕を祝うと意味は私達の罪からの解放が始まったことを祝う事でもあります。

 人より豊かな生活。地位、誰からも愛される自分。これらを追い求めているうちに疲労感が溜まってくる。ああ、そんな時にわかってくる。神様は何も、一生懸命にならなくても疲れたら支えてくれる。愛ということを真剣に向き合ったことがあまりなかった、今迄 自分はどうやったら多くの人々に愛されるかということばかり考えていた。出来るだけ外 観を良くして、学歴、試験に勝つ、試合では負けない、勝者になることは一角のものと認 められることであると思っていた。しかし、信仰というのはこれとは全く違う次元の事。 そして自分は人を愛せない情けない人物であるということを見せつけられた。 こんな自分を一体誰が受け入れてくれるのだろうか。人を愛 せなければだめだ。一体どうすれば人を愛したりできるのか。聖書に汝の隣人を愛せと か、十戒では自分の親を敬えとか書いてあるのに親を憎んでいる自分もあった、どうなってんだろうか。情けないではないか。それこそ罪人である自分の姿。イエス様はそんな自分を支えてくれる為にこの世に生まれ、そして、自分の様な人 間が十字架にかけたのだと思うと、教会に行って礼拝することが自分の心を癒す道かもし れないと思う様になった。皆様、クリスマスというのはそうした古い自分の終わりを示し てくれる日なのです。


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 イエスのガリラヤ伝道に見られる様々な奇跡物語は、イスラエルにおいては必ずしもイエスだけのものではなかったと自分は思っている。史的イエスの問題としても、イスラエルの危機的状況の中から、バプテスマのヨハネなと多くの伝道者や奇跡物語などの記録が残されている。イエスの記録は福音書以外には無い。当時の状況はユダヤ戦記を書いたヨセフスの詳細な記録がある。        
            ガリラヤ
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 しかし、イエスの神は愛であるとか、死人の復活といった考え方は衝撃的だった。イエスの思想は伝統的なイスラエルのパリサイ派やサドカイ派の考え、さらには、ゼロテとか、熱心党などの政治集団とも違った。当時のユダヤ人の社会状況に対する宗教的な風潮はこれまでの律法とか、礼拝を厳格化し、ローマ帝国の支配状況にユダヤ人の自覚を促す民族的な先鋭化するものだったようだ。ところが、イエスはガリラヤの土着的な考え方を柔軟に取りこんできた。その柔軟性に注目したい。キリスト教が2000年にわたり社会に受け入れられたのは、まさに、その点にある。聖書は常にその様に読まれ、解釈されてきた。カルトとか、イエスを神性と人間性を切り離したりするとたちどころに色褪せたものになる。イエスの行動はむしろおおらかで、常にその目は民衆を向いていた。だから、聖書の記録されているイエスの言行は度々、既存の権威、通説、通念に挑戦的に表現される。革命家、改革者イエスの姿である。

 今日、キリスト教は世界人口の3割以上22億人が信仰している宗教だが、なぜそこまで広がったかの理由がそこにある。中世の異端審問とか、魔女裁判の暗黒時代をキリスト教的な非妥協性を指摘する人がいるが、全くの間違いである。クリスチャン、特にプロテスタントは聖書を読み、解釈し、現在の自分にその言葉を生かそうとして来た。先日、東京ではハロウィンで大騒ぎだったが、クリスマスだって、ローマ帝国の皇帝のお祭り、太陽祭りを取り込んで、実は何時かは不明のキリストの誕生日にしたのである。こうした柔軟性こそキリスト教の本質なのだと思う。日本のキリスト教信徒の中で、ユダヤ的なものだけをキリスト教信仰の規範に取り込もうとしたり、欧米の教会の習慣を正統であるかのように主張するのは間違いである。既に日本のキリスト教会も日本的なのである。

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 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである。(ヘブライ人への手紙11:1)。

 復活を現代の我々が信じるには大きな壁を乗り越えなければならない。科学の垣根は高い。しかし、奇跡や霊の働きのことがキリスト教2000年の歴史を築いて来たことも確かである。そして我々がそれを受け止めるには聖書を読むしかないのだろうか。

 あの使徒達ですら、キリストの蘇りの姿に向かい合っても、手を傷跡に触れるまで分からなかった。自分はこのことを信仰する者であるが、これがどのような事実であり、どう受け止めるかを一生かかって追い求める事なのだと思っている。

 使徒達、そして多くのクリスチャンが、この信仰を守り殉教し、迫害を受けてきた。それが消えるどころか、ますます力を増したのだから大変な事である。信仰は個人の自覚において継承されてきたが、それは教会において育まれ、伝承されてきた。教会無くしては、初期の信徒達の命がけの信仰は引き継がれなかった。


 死人の復活はあるというのが、聖書の記述である。近代合理主義、あるいは自然科学では到底理解できない世界。しかし、復活の思想は、世界で受け入れられ、キリスト教の2000年の歴史を形成してきた。遠藤周作は小説「侍」の中で、宣教師べラスコの言葉でこう述べている。「宗教に現世の利益だけを求める日本人。彼らを見るたびに私はあの国には基督教のいう永遠とか魂の救いとかを求める本当の宗教は生まれないと考えてきた。」「日本人たちは、奇跡物語や自分たちのどうにもならない業の話には心ひかれるが、キリスト教の本質である復活や自分のすべてを犠牲にする愛について語ると、とたんに納得できぬ興ざめた顔をすることを私は長い経験で知っているからである。」我々は、聖書を今日、本屋で売っている様々な本と同様に読む事が出来る。しかし、約2,000年前に書かれた文書であるという事、また、聖書は皆に読まれるように書かれていた訳でもない。様々な証言や記録を、その信憑性に応じて編纂したもので、4福音書の記述は一つの事柄について異なる表現や記述となっている。この部分に研究の余地が多い。「イエスの復活とその福音」(レオンデュフール著:心境出版 三保元訳)ではその言語的差異、福音書、パウロの表現等詳細な比較検討を行っている。


 復活信仰は我々の文化的習慣と相容れない部分があるのだろうか。しかし、宗教というのはそもそも、そのような不合理な部分を敢て横において、「信仰」という価値観に従って生きるという事である。一人の人間の人生は多様である。生まれて間もない時に亡くなる子供もあれば、戦争で亡くなる人もいる。癌で病死することもある。人間の生というのは、生まれた人の数だけあり、合理的な整理は難しい。人生に関しては人間は明日を予測する事も出来ない。ひたすら、後ろー過去ーを見ながらその軌跡をたどるしかない。キルケゴールはそれを後ろ向きにオールをこぐボートに例えている。科学では分析する事は出来ない領域だ。もちろん、人間存在を行動面から経済活動や政治、医学、生理学などの視点から理解する事は長い間行なわれてきた。しかし、人間が何処から生まれ、何処に向かうのかを問うことは極めて哲学的な問題である。そしてこの部分に関わるのが宗教であり、そこから答えが出されてきた。この復活という考え方を受け入れるかどうかは、宗教的な行動を受け入れるかどうかの問題である。


 イエスの時代、今よりずっと死は人々と近いところにあった。疫病、戦争、処刑、そして幼児の死。彼らは死をどう受け入れるかについて、我々よりはるかに真剣であった。真剣であるがゆえに復活という概念も真実味をおびてくる、しかし、実際にそれを目撃したり、体験したりした人は聖書に記されたこと以外は見当たらない。ということは、復活は何らかの象徴として受け留められたのではないか。いや、メタファーではない。生と死は現実なのである。生と死、永遠と有限を橋渡しするものである。復活はイエスキリストで終わったのか。もしこれが、後の世でどこかの聖人によって度々おこるようなことでは意味を失ってしまう。信仰という点からいえば、復活とは何かを分析することは意味がない。この不思議な、歴史的な事象を信じることによって何が生まれるのかである。そこから何らかの力が生まれるのであればそれで充分である。


 旧約聖書がユダヤ人の歴史であるように新約聖書はキリスト者の人生を導く。人生を蘇らせることは実際に起きてきた。信仰によるrebirth、生まれ変わりである。パウロはエマオの途上で復活したイエスに出合った。このパウロなしにはキリスト教は形成されなかった。そしてパウロによって教会によって信仰が継承され、復活が語られ、体験される。そうでなければ原始キリスト教で終わっただろう。パウロの教会形成、さらに教団の基盤が彼によって出来上がった。イエスキリストの十字架の死によって、イエスの使徒たちの教団は解体された。しかし、イエスの復活によって再び生まれ変わり、使徒行伝にある伝道活動が生まれた。さらにパウロが新しいイエスとの出会いを体験し、キリスト教のさらなる発展の礎を築いた。私たちの信仰も、使徒たちの体験、そしてパウロの導きによって生れ、理解される。それは、使徒たちの経験した、実体験としての復活ではないかもしれないが、一人一人に与えられたイエスとの出会いがある。このことは死に打ち勝つ永遠の世界があることを知らせてくれる。これ以上の福音はあるだろうか。


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