カテゴリ:教育( 41 )

1.ソンケット

マレーシア、シンガポール、インドネシア、ラオスには今も手織りの布作りの文化がある。
マレーシアのソンケットはインドネシアのバリ島周辺でも共通の工芸品として根付いている。沖縄の花織も似たところがあり、宮古島にも、宮古上布といった手織りの文化が太平洋岸に共通であることが興味深い。
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東南アジアでは、マレーシアの隣りのインドネシア、スマトラ島のものが有名で、ほかにブルネイやフィリピンの一部、そしてタイにも同様の織物がある。インドネシアやマレーシア、ブルネイなどでは、マレー語と、文法や語彙がほぼ共通のインドネシア語が通じ、海を通じて交易をしてきた。いずれもイスラムの影響を強く受けたため、国を超えて共通した文化。ソンケットは、このマレー世界伝統のものとして受け継がれていて、マレーシアにはインドネシアから渡ってきた移民が伝えたと言われる。

クジャクモチーフの画像

すべて金糸で織られた、とても美しいクジャクモチーフのソンケット。思わず溜息が出てしまいます~

16世紀の王朝時代、この華やかな布は王族のみが身に付けられる特別な布でした。はたおりも王族の女性だけに許されたものでした。現在では、誰にでも出来るようになりました。 王宮から周辺の村に技術が伝わり、カランガッサム(Karangasem)、クルンクン(Klungkung)のほかに、バリ島北部や西部の王朝が栄えた場所の周辺に点在。

2.イカット

渋い色味とオリエンタルな紋様がお気に入り!絣の宝庫、インドネシア、スンバ島産の「イカット・パイクン」インドネシアの小スンダ列島、その東南にあるスンバ島。この島で「イカット」は生まれた。
「イカット」とは”結ぶ”という意味。「パイクン」は浮織布を意味します。このイカットという言葉が「絣布」の共通語として、インドネシア、そして、世界に伝わった。
イカット(絣)とは、糸を染める前に、部分的に他の糸でくくって防染し、織り上がったときに模様が現れるようにしたものです。技法の種類としては、経糸をくくって模様を出す「経絣」、緯糸をくくって模様を出す「緯絣」、経糸と緯糸の両方をくくって模様を出す「経緯絣」がある。
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3.バービアン

様々な民族が暮らすラオスには、伝統を受け継いだ染織文化が色濃く残されており、今もなお様々な民族衣装が使用される。

ラオスの女性用肩掛け布パービアンは、縦二つに折って肩に掛けたり巻くなどして儀式の際に使用される。その生み出される織物には、神話上の動物、身近な動植物、ドンソン文化の影響を受けた幾何学模様など、様々な文様が浮織りされております。緻密な浮織り模様が広がる名産地サムヌーア製から、華やかな彩りのビエンチャン製、そしてタイ・デーン族(赤タイ族)素朴さが魅力のコットンベースの物など様々なタイプ。

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マレーシア国立動物園 ZooN egara
お目当ての動物はマレータイガーとパンダ。絶滅寸前のマレータイガーはキャメロンハイランド周辺に生息するらしいが、この動物園に2頭いる。マレーシアにはオランウータンとテングザルがいるが、ボルネオに行かないと見ることが出来ない。ホワイトタイガーもいる。マレータイガー2010年には500頭ほどしか生息してないと言われていたが、2014年の調査ではなんとその半分の250頭ほどに減ってしまっているそうだ。減少原因は密猟と森林伐採や開発などによる生息地の減少。近年、野生の生存がほとんど確認されていない。
この動物園は種類は少ないけど、出来るだけ自然な環境にいる感じに、施設が出来ている。動物たちも伸び伸びしている。
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          動物園入り口
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マレータイガーは美しい縞模様だが、絶滅寸前
ホワイトタイガーはベンガル虎の系統てさすがに大きい。
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パンダは中国の習近平からナジブ政権に送られてきたもの。どこでもパンダは子供達に人気がある。特別扱いだ。昔日本でも大変な人気で、自分も並んで見に上野動物園に行ったもの。ここではフラッシュは厳禁だが、自由に写真を撮っても良い。
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国立博物館所蔵の火焔式土器
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京都大学所蔵の新潟県十日町の火焔式土器
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長野県茅野市尖石の縄文のビーナス

前から気になっていたが、国立博物館で開催されている縄文展は9月2日までということが分かり、急遽、市川の家から上野国立博物館に行くことにした。以前から縄文時代には興味がある。新潟には十日町に火焔式土器が出土し、その造形美に感動した。今回は全国レベルで縄文時代の土器や土偶が展示されている大きな展示。縄文時代は何と1万年も続いた。日本の縄文文化は世界的に見ても美術性に優れ、独創的で工夫に満ちていた。残念ながら文字の文化がなく、記録が考古学的な発掘しかない。当時を知る術がない。自分が高校の時、日本史を学んだが、縄文時代は歴史の進歩の中で弥生式土器時代に乗り超えられるべき時代てあり、採集経済とか、貫頭衣など旧世界として説明されていた。資料が無いという理由から随分軽くみられたものだが、三大丸山遺跡の発掘で見方が変わった。何といっても1万年ですから。
今回の展示で、土器の大きさとか、技術的な完成度を見ることができた。今回の展覧会では日本で縄文土器として教科書や関係図書に出てくるものの殆どが展示されている。土偶もそうで、幾つかは国宝や重文である。有名なものが上野国立博物館にあるが、新潟の十日町の火焔式土器や、長野県茅野の尖石の縄文のビーナスといわれる土偶を一度に見ることは難しい。
縄文土器として大型のものは高さも80cmくらいあり、大きい。繋げた後も見えず保存状態も良い。模様も丁寧に付けてあり、今日でもいざこれらを作るとなると製作には難易度が高い。土偶は一体何に使われたのだろうか。祭儀とか、お守りだろうか。死者と祭られたのだろうか。想像をかきたてられる。聖書は出エジプト記から3200年くらいだから、それよりも壮大な物語があるかもしれないのである。
日本で1万年という時空においていかなるドラマがあったのかである。


展示の行われた平成館
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写真撮影はこのコーナーだけ許されている。
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二月の1日、2日は都内の名門中学校、一貫校の入試がある。それに合わせて、塾や予備校の受験生が一生懸命に勉強している情景が報道される。自分は中学校から大学まで公立だったから、あのような家族も一体になった受験など経験が無く、いつも興味深く見ている。自分は小学校時代は放任され、親も自分が有名校に行けるとも思っていなかった。妹が生まれたのでそのことでいっぱいだった。自分の友人にも開成高校や名門女子高の卒業生がいる。連中は皆、あのような経験をしてるのだろう。親に期待されるなんて、羨ましい気持ちも半分ある。女子学院や雙葉に行った子が何であんなに勉強が出来たのか。こちらは釣りに行ったり、鉱石ラジオに興奮してる間にしっかり猛勉強してたのだ。ニュースはいつも開成高校や桜蔭の受験生がターゲットで、合格確実な塾から推薦された児が出ている。開成、麻布、筑波附属、学芸大附属、桐朋、海城、巣鴨といった中学が男子、女子は桜蔭、女子学院、雙葉、フェリス、豊島が岡、白百合といったところ。桜蔭が一学年600人と巨大。これら合わせて3000人くらいだろうか。中学生全体からすれば少数。昔から変わらはない。

実際は落ちる子供は何倍もいる。本当はスレスレな成績の子の方がドラマとして面白いのだが。受かった連中はこれから、東大、国立大の医学部などに型どおりの学校生活を目指し、お利口ぶりを発揮するに違いない。彼らはエリートの集中教育で大体高校1年か、中学校3年までに大学受験までの基礎教育を終えてしまう。開成高校の卒業生は半分は東大に行き、官僚、医師、大学研究者、弁護士、一流大企業社員になる。それでも、部活や趣味も要領良くこなすが、野球で甲子園に行くまでもなく、全国大会にまで行くほどではない。当然だし、何ともつまらない光景だ。報道としては、単なる風物詩か、興味本位に過ぎない。彼らの家庭がどのくらいの所得かとか、塾や模擬テストでいくら金をかけているか、学歴とか、お受験経験者などは全く触れない。くだらない興味本位の報道だ。

下の校章が憧れの慶應義塾、雙葉、開成、桜蔭である。

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1日に試験の無い名門校もある。何も開成や桜蔭ばかりを出すより、三流私立も何故公立に行かず、志望したかなど報道しないのだろうか。落ちた児は更に別の私学か、高校受験を目指して頑張るのだと思う。お受験の経験は無駄ではない。10歳から15才の成長期の可能性は大きい。その時期の猛勉強は悪いことではないが、今の教育はそれに答えていない。本当は大多数のトップ校に行かなかった連中に未来は大きく、職業も多様に開かれる。自分の周りにもお受験失敗者はたくさんいる。お決まりの道を歩む彼らに負けない人生がある。また、そのマジョリティの活躍こそ日本を良くするのだが。


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 日本は戦後、戦争の荒廃から見事に立ち直って20世紀末までに、経済大国となった。ところが、教育に関しては失敗の連続である。確かに近年もノーベル賞をとる人材がいるが受賞者の多くはむしろ戦前の教育の延長線上にあり、彼らが教えを受けた先生方は戦前の教育を受けている。あるいは、海外に留学して才能を伸ばしている人が多い。戦後の教育は大失敗ではなかったのか。個性ある創造力に富んだ人材を作れと政治家や経済界のお歴々は宣う。一向に生まれない。無い物ねだりとしか言いようがない。
 それは底辺の基礎学力のある人材が減少しているからである。創造性は無からは生まれない。昔は大卒は5%位の時代があった。明治時代の発展性は庶民の高い学力にあったと自分は思う。国語力などは昔の庶民の方があったのではないか。そのような親に育てられたてられた子供は学歴に関係なく立派な仕事をする。エリート教育と基盤の育成は両輪だ。いくら一部のエリートが立派な仕事をしても一般の国民がそれを生かす事ができなければ終わってしまう。確かに東大は優秀な人材集団だが、全体の底上げに貢献していない。
 
 今やテレビの美人アナウンサーに東大卒がゴロゴロいる。あたり前である。あのような創造性のない職業、決まった内容を正確無比に伝える言語能力で出世できる。しかし、社会の発展には全く貢献しない。会社をおこしたり、発明などしない。難関のアナウンサー試験に合格しただけの人である。それこそ東大の得意とする分野。
 教育の目的には国民の一定の知識が国力の維持に必要な水準ということがある。しかし、その方法においてはやはり限界が生まれている。戦前は富国強兵を目標に一部のエリートの育成を急務とし、多様な教育制度が出来上がった。ところが、これらは崩壊、東大を頂点とするピラミッド形の構造になった。これが幅広い人材の育成を阻んでいる。特に憂うべきは底辺層の地盤沈下。近年日本の底辺層の学力は著しく低下し、文盲に近い。彼らは今や漫画しか読めない。また、高度な学力を身につけた指導層を形成するためのいわゆるエリート層を蓄積する事も大切であるが、そこにおいてもあまり成功していない。とにかく思考力が無い。勿論、家庭教育や個人の努力によって達成されている部分は統計的に認識されていない。実は家庭教育の優れた影響を受けた人間が僅かながらエリートの基盤を維持しているのであり、学校はあまり貢献していない。一国の総理大臣が高校生並みの漢字読解力であることが国民に知れ渡る程である。多分彼は学校でしか勉強しなかったのだろう。
 日本語の教育に失敗しているのに英語で成功するはずがない。未だに This is a pen.とかやっている。中学3年までの英語なら1年で習得できるはず。確かに今のやり方では落ちこぼれ続出だが、これを起こさない研究がなされていない。頭の良い学生ばかりを集めた開成高校あたりでは中3で高校までの英語力をつけるので不可能なことではない。学力段階別の英語クラス編成をすれば良いのだ。これがなぜできないのだ。仕組み作りに難点があるし、教育に熱意がない。
 日本の学校教育は人間をいかに従順な、組織内で要領の良い人物を育てるかを最大の目標としている。戦争で戦える体力も無い。創造的な知力を持つ人間は育てない。芸術に例をとると、実に低レベルで、役にも立たない小学生だけに通用する笛だの太鼓しか教えない。何でギターとかバイオリン、ピアノ、オルガンが教えられないのであろうか。教える人がいないという理由だけで、最初からその気が無い。今、世界的に有名な交響楽団がベネズエラにある。ベネズエラ全国青少年管弦楽団は日本にも来て感銘を与えた。これはそのメンバーが皆スラムの住人で不良少年から更生したものばかりということだ。カラカスのガレージで11人の子供に音楽演奏を指導したことからスタートした。現在は国と民間からの財政支援の下に、25万人の児童・青少年が参加し、計210のオーケストラを擁する全国組織に発展している。財団は、2歳半以上の子供を公募、無償で楽器を与え、年齢や習得段階に応じて毎日訓練する。14歳以上の優秀な子供には、カラカスの「ベネズエラ全国青少年管弦楽団」のメンバーとなる道を用意し、住居から生活費まで提供する。日本は基本的に個人に帰属するものに教育の公費を投入しない。国民の50%が低所得層の国でもここまで出来る。
 昔、学校で国語のテストが平均点以下だから親身に心配したり怒ってくれた教師がいただろうか。英語の成績が良いから海外留学を人生の目標にするアドバイスをしてくれる教師がいただろうか。彼らが怒るのは、遅刻をしたり、教材を忘れたり、くだらない授業で眠くなった生徒を自分の教え方が悪い事を棚に上げて、腹いせで癇癪を起こす時ではないか。出欠を取らないと授業に出る生徒がいなくなる恐怖感が裏にはある。彼らは何でも丸暗記し、一定のテキストの知識内容を消化し、要領よくこなす事だけを求める。だから、受験が無かったら殆ど覚えないし、受験しか動機が無いから、これが終われば全て忘れてしまう。要は考える事をしない学生にとっては今のままでも、どうしたって成長なんてしないから何もしないのと同じだと言う事です。規律に従うとか、学校が要求することをこなす事が勉強だと思って東大や京大に入ってそのまま官僚や大企業で昇進していく事が日本の将来を約束するとは到底思えない。マジョリティを大切にして、金を使わなければ良くならない。日本の受験の頂点東京大学は官僚の養成学校としては定評があるが、世界に通用する日本の製品、文化のうち、彼らが作ったものがどれだけあるだろうか。カラオケ、マンガ、青色発色ダイオード、ファッション、これらの日本の偏差値の高い学校出身者がどれだけいるのか。あの学力の固まりのようなノーベル賞でも、世界のトップ校として東大は少ない。これからの日本を支える人材作りに国家が責任を持つべきである。

今の日本の教育は集団指導をもとに発展し、個人のニーズに対応していない。江戸時代の寺子屋は実質的には個人教育であった。5~6才の子供から12才くらいまでが一緒に学んでいた。年長が幼少の子供を教えることもあった。先生は逆さまの位置から書道の朱を入れたり、集団のなかで個別指導できた。富国強兵のためには効率が悪かったから、今の教育が悪いとは言えない。しかし、AIなどのソフトの発展においては、これでは追い付かない。日本は完璧にAIにおいては、アメリカ、ヨーロッパ、中国に二周遅れとなってしまった。これを挽回するには個人指導の徹底が日本の教育のかだいであろう。


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1.安倍首相夫人の言葉

森友学園の小学校取用地得問題と、この学校の教育方針が話題になっている。名誉校長に就任した安倍晋三首相夫人の言葉が注目された。名誉校長は辞退したがその言葉は残っている。
瑞穂の國記念小學院は、優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます。 そこで備わった「やる気」や「達成感」、「プライド」や「勇気」が、子ども達の未来で大きく花開き、其々が日本のリーダーとして国際社会で活躍してくれることを期待しております。という台詞だ。この学校の院長は籠池という日本会議の幹部だ。こんなところに安部首相の本音が露になる。何も悪いことをいっているわけではない。これが安部家の教育観なのだとすると随分高尚だという印象すらある。

2.国家主義

しかし、自分を振りかえって見ると、親というものはこんなことを考えて幼稚園児の子供を育てるのだろうか。自分はレベルが違い、卑しいのかも知れない。政治家の妻として当然の発言なのだろうか。安部家ではこのようにエリート教育を行い、日本のリーダーを再生産しているのかもしれない。自分の子供は健康で、友人に囲まれ、自立し、生計が確保され、良い家族を作ってくれるなら申し分ない。その為には何もエリートである必要はない。
その学院では教育の一貫として教育勅語を斉唱し、日本民族の自覚を高めているのだ。この方法で目的が達成できるのだろうか。はなはだ疑問である。児童が統制に順応する訓練である。軍隊が行進訓練をするのは全体の中の個を見失わせ、集団の圧力で勇気がなくとも敵に立ち向かう仕組みを作るのである。日本の教育は集団訓練を目標に構築されてきた。日露戦争で完成した。それが教育だと思い込んでいる。
 愛国教育を 受けなかった自分でも、日本人に生まれて良かったと思う。友を愛し、家族を守って生きてきた。これからの日本人はそんな教育が必要になっているのか。この学校の教育感覚は全く自分と合わない。あえて自分の国家感覚で、欠けているのは天皇陛下に対する敬愛の念が乏しいことくらいだ。でも、今の天皇の護憲感覚は素晴らしいと尊敬もしている。陛下のために命を捧げる気にならないという程度であれば、それもノーマルなことではないか。金一族に命まで統制された北朝鮮の人々は気の毒だと思うし、北方領土問題や尖閣諸島、竹島については悔しい思いをする。オリンピックの選手を応援し、メダルをとれば嬉しい。籠池さんはさらに意識が高くおそらく、天皇陛下に命を捧げる人なのだろう。そして、そのような人格を持った子供を育てたい。そんな意識では近代戦は戦えないことは第二次大戦で立証されているのであるが。

3.狙いは別の所に

安部首相夫人の言葉とは異質だ。彼は格安の不動産を手にいれるために首相夫人を利用したに違いない。権力に取り入り、国有財産を格安で手にいれようと奔走することで経営内容を良くして保護者を集め子供に教育をしたい。経営と教育を両立させなければ私立学校経営は出来ない。
このような学校に子供を入学させるのは日本の教育観からくるのかもしれない。個人主義の伝統の無かった日本では自己主張は嫌われることが多い。江戸時代は家とか藩はあっても国家や個人は希薄だった。明治になると家制度と国家中心。所属コミュニティ全体のために個人は後回しが善であった。日本の敗戦で家も国家も吹き飛ばされ、個人が核となったが、個人の核となるエゴを馭する思想がないまま、今日に至った。そこを苦々しく思う人が国体だの天皇陛下とか言い出している。先祖帰りみたいな思想で、これが悲惨な結果をもたらしたという反省がない。歴史観が歪んでいる。西欧社会ではモラルの原点はキリスト教だ。教会は人気がないが、神や十戒は今も生きている。

4.日本人の伝統的な思考

日本の中には統制とか躾、競争心、さらに官僚や知的エリートを階層的に尊び上昇することを善とする気風がある。それは明治以来の富国強兵策によって培われ、100年以上にわたり尊重されてきた「美意識」なのである。自由とか平等、人権を抑制しようとする考えに基づく。このような成長モデルは日本的なリーダーの条件なのだろう。世界では特殊な明治の価値観ではないか。国際感覚のなさ、人格的な貧困をー感じる。目的はあるにこしたことはないが達成のために何をするかではないのか。プライドというのは他者の評価から生まれる。ただ自分で得意になることではない。勇気とは社会における公平や公正、正義感、弱者への思いやりにもとずくべきだ。民族や国境を越えた善き友になることは幼児教育の目標にはならないのか。
宝塚歌劇団の卒業式をテレビのニュースで見た。皆さん美女揃い、優等生の集団だ。おやっと思ったのは、何と、あの北朝鮮の美女軍団を彷彿とさせる。選び抜かれ、競争を勝ち抜いてきた。統制された美だ。我が国の勝ち抜き選抜される教育の成果がそこにある。教育には選別機能がある。教員も生徒も生存をかけた受験競争というのは大げさかもしれないが、このような教育からどのような人格が生まれるのだろうか。中国も、韓国も台湾も教育は選別機能だ。そこから何か未来の世界に貢献する人材が生まれるのだろうか。そうは思えない。

5.若者の苦悩

今の若者の苦しみはそうした選別機能への不安だろう。満足する人は少なく、傷つく人がはるかに多い。自分の可能性はどこにあるのか。日本の若者は未来に希望を持っていないことが国際調査で分かっている。そのような教育の仕組みこそ変えるべきではないか。全体主義の遺物のような教育から何が生まれるのか。森友学院のような上から押し付けるような教育に期待している今の若い親たちが描く未来は明るい感じがしない。若者の希望や夢を導く教育であるべきだ。若者が夢を持てない国が栄える事はない。

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 1月の末に将棋の竜王タイトルを取った渡辺明氏(九段)の竜王位就任式が帝国ホテルで行われ、臨席する機会を得た。渡辺氏は聖学院中高のご出身で、自分の長男と中学時代は同級だった。仲もよく、中野の小宅に遊びに来たり、長男も彼の家にお泊まりしたりしていた。中学時代から天才と言われ、奨励会のメンバーで、すでに高校生15歳で奨励会を卒後し、プロの道に入っていた。自分の長男は将棋は全く下手で、もちろん渡辺氏と将棋を指したこともない。しかし、彼は競馬が好きで、息子も一緒にダビスタとか、競馬雑誌を読んで楽しんでいた。この将棋の世界は囲碁もそうだが、天才の集まりである。将棋ほどプロとアマの差がある競技は少ないのではないか。普通の将棋ファンでアマの有段者でも、小学生もいる奨励会のメンバーにはかなわない。渡辺氏も10歳で奨励会に入っている。プロも段位は十段まであるが、今は九段が20名である。加藤一二三が先般引退したが、彼も一時代を画した。
タイトルは名人、棋聖、王位、王座、竜王、王将、棋王の七つメジャーである。竜王とか王将、棋聖といったタイトルを取るのはさらに難しい。羽生、谷川、佐藤、渡辺といった6名ほどのタイトル保持者が一人で複数のタイトルを取るので新しい人が入るのは容易ではない。平成7年には羽生が七大タイトルすべてを取ったし、10年くらい5つタイトルを持っていたから、その間というもの他には、平成になって米長、谷川、渡辺、森内、久保、郷田他10名くらいしか取っていないし、彼らは連覇するから、一つだけ一回でもタイトルを取った人は他には数名である。中でも、読売新聞が後援している竜王は賞金も3800万円と最高で、次が名人戦2000万円、棋聖1000万円、王位750万円、王座500万円、棋王500万円、王将300万円と大きな差がある。他には朝日杯将棋オープン戦、NHK杯などがあるが、渡辺氏の取った竜王は断トツであり、4っタイトルを取ったほどの価値がある。
 天才、渡辺氏は小学4年生で小学生名人戦で優勝、中三の3月に四段を取りプロ入りした。20歳で史上最年少の竜王となり、近年(2014年)の棋王戦では羽生に勝っている。羽生とは昨年までに68局対戦し通算34勝34敗で分けとなっている唯一の騎士である。この竜王戦の挑戦者は昨年カンニング疑惑があった三浦九段であったが、彼が辞退したために急きょ丸山九段との対戦となり、接戦を制したもの。将棋連盟の審査では羽生なども含め、7人全員が疑惑を訴えた。しかし、三浦九段の疑惑は本人の否定と証拠がないなど結局シロとなり、谷川将棋連盟会長の辞任という結果になった。このパーティの翌日に谷川氏の辞任の発表があり、三浦疑惑の告発者であった橋下八段と渡辺竜王は微妙な立場におり、今行われている棋王戦の行方も注目されている。
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日本の大学は世界の大学ランキングではシンガポールや中国に負けてしまう。しかし、ノーベル賞を取る先生方は殆どが大学教授である。変ではないか。それは、大学教育の内容に違いがあるからである。これからの日本の大学はリベラルアーツを理念とすべきだ

 大学で何を学ぶかということは、学生にとっても、教育する立場からも大きな問題である。特に、大学は教育機関というより研究の場という観念が教員の側からは強いだろう。日本の大学は国立大学を中心に、大学院や研究所が付属しており、多くの研究者を擁している。リベラルアーツという概念は、かつては大学に一般教養という仕組みがGHQから組み込まれ、専門科目に向けての学習の障害であるかの様な扱いを受けていた。

 しかし、受験勉強偏重の高校教育においては、一部の心ある教員の努力と優秀な学生によってしか、大学の研究に向かう基礎的な学力、思考力を養う学習は行なわれていなかった。一般教養をただ、暗記や教科書の購読による学習とすれば研究に向けての準備にもならず、無駄といわれざるをえ無かっただろう。しかし、大学で文学や哲学を学ぶ事は経済学や法律学を学ぶ学生に取って、また、理系の学生にとっても有用である。というより、今の大学生にとって必須であるということである。

 自分は今新潟県の小さな私立大学に籍をおいているが、この県の教育環境は他県、特に東京とは違い、大学進学者の高卒者に対する比率が低い。今でも50%を切っている。その原因として新潟県は実学志向であるという通念もあり、また、専門学校に行く学生も多いのが現実であるからだ。新潟ではNSGグループという専門学校経営企業が幅を利かせていて、新潟駅にも交流の場を持っており、また、新潟医療福祉大学はそのグループの一つで巧みな経営を行なっている。学生募集が上手で学生を引き寄せ、「実学志向」という新潟の土壌に合っているかのように見える。しかし、実態は、あまり勉強の得意でない学生の吹きだまりでもある。もちろん、中には優秀な学生も行くので、一流企業に就職する人もいるが、中退する学生が多く、結果的にフリーター予備軍である。これは日本が向かう方向とは別の動きである。もちろん、この専門学校群が無ければ、高卒者の進学率も上がらないし、東京の専門学校に吸い取られるだけかもしれない。若者の教育と故郷離れ防止に貢献している。新潟の高等教育に対する期待度が薄いのは、学習意欲の問題より、家庭の所得が私立大学に進学させるだけのレベルに無い事が大きな原因。さらに、親は高卒が多いので、大学教育に対する理解が無い。文学だとか政治を勉強して何になるのだという感覚が強い。これは全国的に見ても、親の学歴と子供の進学に関する相関性は高いことから読み取れる。今、諸物価が20年のデフレによって低迷しているが、大学の授業料は下がっていない。年間100万円はかかるし、生活費や部活、本代など諸経費を入れれば50万円以上余計だし、新潟県内でも、遠隔地ならばアパート代も入れれば200万円である。これは夫婦共稼ぎでなければ支えられない。10万円でも安ければ専門学校に流れるのである。
 高校までの勉強と大学における学問と決定的に違うのは、大学で古典の本やテキストを読む上で、その背景や歴史、現代における意味等、様々な角度から知の光を当て、ものを考えるということである。本を読めばいいというのではない。統計や抽象的な理論の背後を探る事や自分の考えをまとめることなど、領域が広い。大学院になればさらに自分のテーマを掘り下げて行く。こうした体験は、社会に出ても同じ事である。野球の一流選手は高卒が多いが、彼らも、自分の領域で成績を上げ、ファンにサービスし、心身の健康を守って行く為に努力をし、立派な考えを持っている。イチローや松井秀喜など英語だって話せるようになっている。大学を出なくても一筋に極めれば相当な所に行きつくのである。では、大学に行かなくても良いと言うのではない。何もイチローや松井のようにならなくとも、4年間大学に行けば見識のある人物に成長できるのである。もちろん時間効率もよいのだが、その代わり授業料を払うということにはなる。
 大学不要論は例外的な成功事例を挙げて反論しているだけである。リベラルアーツの学びというのは大学院も目指すような研究者や社会人としての基礎的な力を付ける教養を学ぶのである。そして、常に、課題の原点に密着し、上から目線ではなく、当事者意識を持って現実から出発することが学びの姿勢だと思う


 (1)リベラルアーツ教育の目的は人間教育

 いま、自分が勤務する敬和学園が柱としているリベラルアーツ教育とは何か。 その目標は人間教育である。大学は職業訓練の場ではない。しかし、自立した社会人として、どのような職を得るかは重要な問題である。社会人として進むべき道やどのような職を得るかを学び備えることも必要である。そのために専門職を目指す道もあるが、これは大学4年間だけで出来ることではない。大学はその前に一個人として社会に認められる人材を世に送り出す接点である。専門知識だけでは世の中では生きていけない。資格を持っていなければ仕事が出来ない職種がある。弁護士や医師、会計士に代表されるが、その他、司法書士や行政書士、薬剤師、検査技師、また、教師もその一つです。新潟県の若者はそうした排他性のある資格に人気がある。専門職は資格を取ってさらに研修を受けてから初めて職務につくが、医師や弁護士ですら、1年ぐらいは仕事が出来ない。企業でも即戦力を期待するが、実際は新入社員集合教育から始まり、OJTで学び、業界必須の資格、例えば建築士や宅地建物取引主任者などを会社に入ってから取る。又、企業ではチームで仕事をするので、先輩や同僚などとの社会的適応性も大切で、挨拶から飲み会に至るまで、また、朝の出勤から勤務態度まで厳しくチェックされる。 
リベラルアーツが目ざす人間教育は個人の成長を大切にする。団体訓練が殆どありません。それは個に基づく人間作りを目指しているからだ。世の中楽な仕事だけではない。団結力、忍耐力や目標に向かう意思の強さも必要で、その点、体育会で鍛えた根性を評価する職場もある。とはいえ、最初から全て整った万能選手はいないし、それぞれのポジションに要求されている能力をどこまで育て、発揮できるかである。日本では社会人になって個人の努力による成長を期待される。

(2)敬和学園でめざす人間形成
大学生活4年間は長いようであっという間に過ぎてしまう。一定の時間にどれだけの学びが出来るかである。敬和学園大学では、語学力、自発的な奉仕の精神、PCなどの情報処理能力に重点を置いて個人の成長を支えている。大学入学後、自分の進路を決める学生には教員資格、社会福祉士など資格を取らねば行なえない仕事がある。一定の知識量を習得する必要があり、また、受験対策も必要で、大学のカリキュラムでは不足する学びの内容がある。推薦やAO入試により大学受験を体験していない学生が増えていますから、これに取り組むには決意が必要である。
本学では、教員が学生一人ひとりの成長に関心を持って接しています。社会人として良識ある行動、言動を行なえる人材を育てます。それは、相手の意見に耳を傾け、相手の立場に立った行動を取れる能力です。これは、日本のみならず、国際的な環境でも言えることです。そのために、語学教育を大切にしています。何も、英語のエキスパートを育てるということではなく、語学の学習の過程には、そうした相手の意見や、発言を注意深く聞く学びが必要です。そこで培った能力は、国内でも通用するということである。
敬和はキリスト教精神によって人を育てることを柱にしている。キリスト教は神と個人との関係を信仰の基盤にしているが、聖書において隣人に対する愛が最も重要な規範である。学生を信者に育てるということを必ずしも目的にしていないが、このキリスト教の根本の精神を教育するために、ボランティア活動、チャペルアワー、聖書の学びを必修としている。語学の学習、国際活動、福祉の学びなど、本学の教科すべてに「愛」を育む人材を育成することこそ、忍耐強く、課題に挑戦する精神、協調する能力を高めることにつながるという信念をもって学生を育てている。このことは多くの企業や、団体に就職した学生の良い評価につながっている。こうした基盤をもった自立した社会人の育成こそ今最も求められている。そのために、リベラルアーツの理念に基づくカリキュラムを4年間で学ぶ組み立てを行なっている。

(3)専門知識の習得
とはいえ、社会では大学の学びからどのような専門性を持った人材を育てるのかを問われます。資格を取ることを目指している学生も支える必要があります。研究系の大学では、資格取得は個人の問題で大学は対応しないことが多い。一人ひとりのニーズを大切にするためにはこれに対して無関心ではありません。敬和学園は学生数も1学年180人という小さな大学です。また、大学院も無いのでそれぞれの講座において専門家を育成する仕組みは持っていません。こうした大学は、アメリカなどを中心に多く存在し、そこでは文学、哲学、音楽、歴史、政治学、数学といった基礎科目を学ぶ仕組みになっており、専門分野はさらに大学院で学ぶようになっています。また、研究大学としてハーバードなどに代表される優秀な研究者を育てる大学もあります。リベラルアーツの大学を出るとそうした研究大学の大学院に進学する学生が多いのです。例えば全米でトップクラスのランクであるアマースト大学などがそうです。わが国の大学はほとんどが研究大学を志向しています。日本とは違った教育システムとの整合性を図るために本学は人文学部(教養学部)として、そうした進学を希望する学生、また、資格を取りたい学生などにも丁寧に対応できるように教員を配置しております。本学では新潟においてニーズの高い教員の養成(英語、社会、倫理社会、小学校英語)、社会福祉士の育成コースなどで学生のニーズを受け止めています。現代の変化の大きな産業界においては、実際の業務において、専門知識は細分化され、必ずしも大学での学習は即戦力にならないのが実態であり、日本の企業は専門性に対して独自の教育の仕組みを持っております。また、高度な専門性はアウトソーシングしています。ですから、本学のみならず、必要とされる能力における専門性の順位は高くない。しかし、近年の高校までの教育制度において、自主性を持った人材、創造性を持った人材、国際性を持った人材の育成において日本は成功していません。むしろこれらは企業などで人事プログラムを持ち、また、社会人になってからの個人の努力に負うところが大きい。学生の進路に応じて、その業務に必要な学びを支え、協調性をもった社会人の育成は大切な目標である。

(4)新潟県で期待される人材
 新潟県の高校教員採用は英語が80人応募に対して10人、中学英語が138人応募で12人、中学社会は180人に対して7人という結果であった。特に、新潟市内の学校は公立学校は全て求人は0という厳しさであった。私立学校においてはもう少し緩いかもしれないが、少子化の折、教員試験は困難な状況である。本学では教員を志願する学生に対して教員を配置し採用も行なってきた。新潟県では公務員、教員に対する高校生の憧れは他県より強いように見える。それは生活の安定と社会的評価が高いということである。採用数が少なければそれだけ試験は厳しく、憧れの度合いも高まる。しかし、教職志願者が殆ど採用の道がこれだけ狭い中、私立大学が体制を準備すること自体大きな負担である。

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 名古屋で今度は高校生が夜中に殴られ、河で行方不明になるという痛ましい事件が起きました。つい4ヶ月前には中学生がリンチされやはり川原で殺された悲しい事件があったばかりである。こうした事件が起きると被害者の通っていた学校の校長や担当教員がインタビューに出て、被害者の思い出や無念さを語るのが常である。しばらくすると、日本の教育がなっていない。ゆとり教育の結果だと、学校に矛先が向けられてゆく。しかし、日本の少年犯罪の少なさは先進国のなかでは群を抜いて低い。また、青少年の凶悪犯罪というのは教育というより、社会が混乱したり、家庭の崩壊といった学校外の要素のほうが大きな原因である。それをゆとり教育のせいだというならその根拠は統計的なデータを使って示してもらいたい。
 たしかに、ゆとり教育は弊害があった。しかし、それは新しい政策を実行するに当たり、何を変えるのか、ゆとり時間を使って何をすることによって創造力ある、個性的な人材を世に出すことが出来るのか。試行錯誤が必要だったのだ。着地点だけが示され、そこに至る方法が充分検討されなかった。競争とか、市場論理を持ち出せば解決すると誤解している輩が多い。大阪市長などがその典型である。日本が鳴かず飛ばずの20年の間に、マイクロソフトのビルゲイツやアップルのスティーブジョブズ氏を代表とする天才が、新しい情報社会を切り開いた。グーグルやフェイスブックがどこから生まれたのかである。こうしたビジネスリーダーが海外に留学したエリートたちなのか。グローバル人材は英語ペラペラ人物から生まれるのだろうか。日本だって、IPS細胞や、青色発光ダイオードの発明、その他中村博士、山中博士などノーベル賞を毎年のように取ったではないか。イノベーションは天才によって作られることがあるが、その背景には、それらを受け入れる社会、それを支える多くの人々があって初めて達成できる。ビルゲイツもスティーブジョブ氏も一時は落ちこぼれた経験がある。しかし、そうした人材を再出発させ、さらに飛躍させる環境もあったのではないか。市場原理も、競争も進歩を生み出す大切な要素である。FacebookやGoogleがそのような世界から生まれたのだろうか。
 しかし、日本が生み出した教育手法としての集団指導は世界でも稀な成果があったのではないだろうか。それでは新しい社会、グローバリゼーションやイノベーションを生み出す教育とは何かだ。個性を生み出すためにはそれなりの専門的なトレイニングが必要である。世界で活躍する人材は日本で鍛えられるよりは世界に既に出ている。文科省の政策ではない。全仏オープンで活躍した錦織選手は子供のころからテニスの個別指導を受け、アメリカの有名テニススクールに留学した。世界で戦う人材の育成というのは時間とお金がかかる。 世の中変われば教育も変化が必要だ。改革が不要というのではない。言いたいのは、そうして改革をするにあたって、何が間違っていたのか、そして何を残すべきものなのか、充分に検証したのだろうか。今日の欠陥を教員のせいにしたり、良きものまで破壊することはかえって弊害が大きい。国が何も変革しなければ、民衆は工夫をして対応する知恵を持っている。真っ当な努力が正しく評価され、個性を尊重する社会基盤が大切である。文部科学省行政の問題ではない。国の財政支援は戦略的に行われねばならない。教育にはお金をかけて人を育てるという姿勢が日本にはなさ過ぎる。文科省の役人は自分の子供を東大にいれるためにどれだけ金を使っているのか。塾、模試、私立受験校などだ。わかっているくせにやらない。

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 昨日(4月12日)母校一橋大学の新潟での地方創生シンポジウムに参加しました。先は地方創生のためには官、民、政が自分の役割をきちんと果たすことが大前提です。地方創生における政府の構想と対応、地域計画の課題に関する辻副学長の講演がありました。少子高齢化がすすみ、増田レポートで示された人口減少コミュニティの実態に関して、完全な人口消滅コミュニティは少なく、高齢者が残留することが福祉や社会保障の非効率化を生むこと、また、新潟の耕作放棄地の実態と都市計画に関して説明がありました。高齢化した限界集落の集約化には税制と都市計画が連携して初めて新しい社会と都市が生まれる。増田氏は地方都市と東京区部との連携や、二地域居住への環境整備を訴えている。しかし、中国ならまだしも日本ではこれは難しいのではないだろうか。
 また、如水会の会長である住友電工社長の松本正義氏(関西経団連副会長)、蓼沼学長からは一橋大学の教育方針の説明を受けました。松本氏は道州制の問題から、関西経済圏の活性化、さらにはそこにおける人材、変化に対応できる異端者であれ、また、柔軟な思考力を持った人材を育成すべし、といった経営者としての見識を感じさせてくれるものでした。
地方活性化のためには、一極集中になっている首都圏からの本社や工場移転が伴わなければ、掛け声ばかりになるでしょう。地方単独では無理なのです。受け皿になる地方も、人材育成、街づくりをきちんと整えねばなりません。人と企業の移転には住宅税制、法人税に配慮をすることが国の仕事だと思います。 「今回、ひと・まち・しごと」というコンセプトは過去の失敗を踏まえ、良いアイデアだと思う。大学も生き残りをかけてCOCに取り組んでいます。
 一橋大学としては新潟からも多くの学生を迎えたいということで、高校にもPRされたようです。一橋大学は将来のビジネスリーダーを育成するという基本方針をもとに、様々なプログラムが組まれているようで、まことに素晴らしい内容と思いましたが、留学制度や語学、また、学生にビジネスの基礎知識を教育する充実した仕組みに驚きました。でも、自分が大学生のときと比べ、今の学生は大変だなあという印象でした。もっとも、現役学生でも大学の期待どおりにプログラムに乗る学生だけではなく、エンジョイ派、部活派など多様なライフスタイルが一橋にもあって、それなりに自由な学生生活を満喫しているはずです。そこで培った友人と卒業後にさらに勉学にいそしむ層もあるだろう。それらを無視して、一橋の自由な校風にふれずに、がり勉のアカデミズムを強く押し出しても今の学生には受けない。大学も基本的な人間形成をどのように達成するかを学びにおいても組み込んだプログラムが無ければ社会における評価も魅力は半減するでしょう。優秀でも挨拶ひとつ出来ない、人を人とも思わない傲慢な人間を生むことは害となる。エリートほど謙虚であるべきで、豊かな人間性が求められます。一橋の良さは自分の時代は学生数も学年800人ほどでした。ゼミの教官やクラス担任などと知り合ったり、酒を酌み交わす機会も多かった。先生方の学生へのまなざしも温かく、そこがすばらしい雰囲気だったことを思い起こした。如水会を軸とした先輩との交流も多く、部活などで先輩からご指導を受けたし、国立大学として珍しい校風であった。大学の学びの良さはまさにそこにあるのではないだろうか。 
  新潟に来て3年、地域の高校の進学指導教員、若者の心情に触れることが多い今日、高校の受験事情もわかってきた自分としては今回の一橋のPRが新潟の学生にアピールする内容かどうか、心配になった。新潟県の学生は、実学志向が強いが、リーダーシップということにはあまり関心が無く、職人的なプロフェッショナルを志向する印象が強い。だから、司法試験や公認会計士、教員などのプログラムを持った大学に行きたがる。新潟高校などの名門校でも、比較的、東京大学の文Ⅰなどよりは理系や新潟大の医学部に多く行っているのではないだろうか。今年の新潟県の東大合格者は新潟高校8人、長岡、高田が各2人といった具合で、傾向がつかめる程の人数ではない。一橋に至っては新潟高、長岡高で1人か2人といった具合で、県下の学力上位の学生は東北大、北大、新潟大学に行く数が多い。本来、東大や一橋、京大に行くポテンシャルを持った学生も多いと思うが、230万人という県人口の割りには少ない。新潟県人、特に男子は控えめで、出る釘は打たれる意識が強く、何事も目立たぬように振舞う若者が多い。そこで、ビジネスリーダーなどというコンセプトには気持ちも引いてしまうかもしれない。一橋は資格でも結構頑張っている。司法試験の合格者も人数の割には多く、学年150人ほどの法学部から、毎年40人~50人は輩出しており、公認会計士を目指す学生の合格率も高いと思われる。新潟ではそうしたことが評価されることを念頭に置いたプロモーションのほうがよい。専門教育とリベラルアーツ教育をどう整合させるかということである。
 新潟県の若者はむしろ大学において地域に貢献する仕事との関連、医療とか女性は看護といった専門職志向が強く、その分NSGなどの専門学校が栄える傾向。地域の学生の気質、特性は県によって相当違うとみてよく、そこを見ずにプロモーションを行っても共感が得られない。伝えたいことは盛り沢山だろうが、土地のニーズをよく分析して企画すべきである。実学面が強調されたが、一橋のよさは、むしろ歴史学やアダムスミス、ウェーバーなど哲学の学びも盛んで、自由な学風が人間教育になり、特に友人の絆の強い大学である。Cool head but warm heart.な経済人を育てる人間教育が今日ほど求められる時代は無いのではないか。 

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