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マレーシア便り サンダカン捕虜死の行進とアピ事件

小高い丘の上の記念公園

Saba Tea Garden サバティーの産地の茶園に行った後、思いがけない出会いがあった。一つはサンダカン捕虜収容所から徒歩でやって来た日本軍の捕虜であったオーストラリア兵とイギリス兵が、終戦近く、移送され、悲惨な行軍の結果1850人のうち生き残ったのは6人。あまりにも多くの死者を出した事件があり、その最終地がラナウであり、コナキタバルから50キロに位置する。その近くにあるKundasunという街にある記念公園を訪問した。ラナウで生き残ったのは521人だが後に全員死亡、生還者は途中で脱走した6人だけという壮絶な行進であった。その事件の死者を記念したもので小高い丘の上にある。
詳しくは
http://www.geocities.jp/yu77799/worldwar2/Sandakan1.html参照
この事件のことは知っていたがまさかここで出会うとは思わなかった。実はこの事件には背景があり、この時日本兵も1万人が飢餓と疲労で亡くなっており、捕虜達はこの行軍に巻き込まれたのであった。捕虜を護送した兵士も500人ほど死亡した。当時の参謀の実態を知らずに決定した愚かな作戦の犠牲者は捕虜だけではなかった。この記念公園において日本軍を糾弾する表現が少ないのはそうした事情によるのと、あまりにも犠牲者が多く、資料も無いせいであろう。この作戦に関わった日本軍の6名は戦犯として処刑されている。
また日本軍が助言者として頼りにしていたボルネオ人が日本軍を快く思っておらず、わざと悪路を助言したことも悲惨さを拡大した。
インパール作戦と良く似た意外と知らされていない太平洋戦争の悲劇に出会ってしまったのである。ここに来る日本人は極めて稀であろう。

このコタキナバルには戦争の歴史が残っている。アピ事件という1943年事件。華橋と日本人の抗争があり日本人50名程が虐殺され、その報復として中国系413人が処刑された。アピとはコタキナバルのこと。これはアメリカの陽動作戦で、北ボルネオが翻弄され、日本軍の撹乱を狙ったテロで偶発的なものではなかった。今でもこれらの犠牲者を追悼する式典が行われている。マレー半島でも多くの華橋が殺されており、日本人旅行者は覚えておかなければならないことであると思った。

        ラナウの街は高原
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犠牲になった英兵、オーストラリア兵の名前、階級、年齢出身地が記されている
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記念公園入り口
データ
http://www.geocities.jp サンダカン死の行進によると
参考>
「日本軍政期における北ボルネオにおけるアピ事件について」上東輝夫元コタキナバル総領事による研究ノート(名古屋商科大学)


サンダカン収容所にいた捕虜達は1944年9月時点で2250名、1944年末時点で1850名、ということです。 その間、「強制労働」「虐待」「熱帯病」「食糧の大幅削減」で、400名ほどが死亡したことになります。
 すでにボルネオのすぐ北部に位置するパラワン島に上陸していた連合軍がボルネオ西海岸部とりわけブルネイ近辺に上陸してくるのではないかと第三七軍司令部は考え、 クーチンからアピに至る西海岸の防備を強化することを決定した。
 このため東海岸部の兵力を西海岸に転用することになり、タワオの五個大隊のうち三個大隊をブルネイヘ、 タウイタウイ島の二個大隊とサンダカンの三個大隊のうち二個大隊も西海岸部に移動させることになったのである。
二十年二月タワオ及サンダカンから北ボルネオ死の行進が開始された時期に、この行軍に関係した第三七軍の総員約二万名。 このうち一万余名が戦死、その大部分はジャングルの中で死亡しており、残りの一千余名はラブアン、ムアラ、ブルネイ、メンパクール、ボーホートの戦闘において戦死している。

by katoujun2549 | 2018-09-13 17:52 | 国際政治 | Comments(0)