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復活とは、今年のイースターはエイプリルフール

1.聖書の記述は嘘から出た真か

今年の復活祭は4月1日、エイプリルフールだ。敢えて虚から実ということを入り口に復活を考えてみた。受難週に入り復活祭までイエスの受難が教会で語られる。聖書のなかでも圧巻はイエスの十字架の死と復活である。しかし、使徒行伝や書簡におけるパウロやヨハネなどの記述も不思議や感動に満ちている。聖書の世界を一言で言うと、まさか本当にそうなるとは、瓢箪から駒である。信仰的には不適切な表現だが、「嘘から出たまこと」かもしれない。2000年前、キリスト信仰が今日の様な大きな世界になり、世界史において重要な役割を果たすとは思いもよらなかったに違いない。使徒や原始キリスト教の信徒たちは奇妙な迷信、イエスの復活を信じたことにより迫害され、伝道の中で殺害された。キリスト教信仰のネックになるのが復活であることは2000年前も同様であった。死者の復活を前面に出した宗教はイエスの復活信仰の前にも後にもない。そんなことはあり得ないと思うのが普通であろう。それを信仰の中心としているのがキリスト教であり、このテーマに至るにはかなり文学的な思考力が必要だ。もし、イエスが死後、神の世界とか楽園に行ったことを主張してもこれほどのインパクトはない。ただの、十字架にかかった不幸な一予言者でしかなかっただろう。復活のイエスは多くの人の前で現れ、パウロにもエマオへの途上で現れ、彼の人生を変えた。これを幻覚だとか文学的表現とするのはむしろ無理である。何かが起きたのだ。現代人がUFOに遭遇遇した以上の衝撃があったと見る方が自然である。嘘にそんな力があるとは思えない。復活の信仰のため、多くの殉教者が出た。命がけのことなのである。聖書の記述しか証は無い。殉教者が命をかけた復活を信じるかどうかだ。

2.瓢箪から駒

戯れに死人の復活を語ったのではなく、十字架と復活の事件から、10年から30年にかけて記録が書かれ、証人も生きていた時代の内容は考古学的にも整合することがある。信憑性が高いかどうかは主観によるし、この事件のもっとも詳細な記録が福音書である。なんせ2000年前のメモのようなものから福音書は書かれたのだから。本も新聞も無い時代の出来事だ。そして、後には使徒や証人は迫害にもかかわらず、地中海世界全体に伝道をしたことは事実。
瓢箪から駒という諺から考えてみる。そんなことが起こるはずがないという意味での使い方もされる。「瓢箪から駒じゃあるまいしそんなことが起こるもんか」という言い方。英語にもMany a true word is spoken in jest.(多くの真実が冗談で語られる)という表現がある。しかし、聖書ではそのような意味ではなく、すべてが真実として書かれている。福音書はイエスの言行録だが、多くの奇跡や例え話、比喩が満ちている。真理や感動を説明するために、イエスは比喩や例え話を多く使っている。分かり安く言うと、君は天使だというセリフがあるとする。何も、相手は本当に頭の上に光が輝いていたり、羽根が背中に見えたわけでは無い。感動や賛美の表現なのである。神の愛とか、神のご計画、罪とは何かを語るとき結論だけを語ることによっては何も伝わらないからだ。メタファという表現手法も教訓とか、道徳を語るときにしばしば使われる。狼が来たぞ!と嘘をいって、村人を驚かす少年がいて、最初はみんな驚くのですが、回を重ねるごとに信じる人が少なくなり、最後には少年のことを信用する人はいなくなってしまいました。そこに本当の狼が襲ってくるのですが、いくら少年が声をかけても誰も信用せず・・・・・という話。この話しはうそつきは信用を失うという内容のメタファーになっている。誰もその事件が、何年の何月何日に起き、証拠はあるか?とは言わなくても理解出来るだろう。物語のメタファーとは、よくテーマとか教訓といわれるものに使われる。印刷物もコピーも無い時代に伝えるためにはインパクトのある言葉こそ力だった。福音は口頭で読まれ、書き写しの写本で巻物として伝えられた。それが100年間で何百万人もに伝わったのだ。
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3メタファー

福音書、新約聖書の物語はイエスの言行、奇跡、復活と死などすべてがメタファーに満ちている。聖書の書簡集はパウロやヨハネの教会や信徒に向けた信仰のあり方を書いたもので、特にローマ人への手紙は神学論である。聖書の根幹をなす神の愛とは何か、聖霊の働き、我々の希望である復活が現実であり真実であることを思うためには聖書の例え話やメタファの意味を考えることが理解の道である。
なぜなら、キリスト教の復活の世界は黙示録に記され、象徴とイメージの世界、さらにメタファをふんだんに織り込んだ世界である。これはイスラム教の天国が地上の楽園を模したり、仏教の極楽世界とも違う奇っ怪な未来世界であり、霊の世界が象徴的に描かれている。これはイメージと感性でしかとらえることが出来ないのである。

4.イエスは私たちと共におられる

自分は死や死後の世界を説明することは出来ない。イエスも復活後、人々にあの世の話をしたわけではない。語るべきことは実はこの世をいかに生き、人々の罪とや苦難を癒すか、また、神の存在を確信させるかである。その為に復活というメタファをもって我々に示された。見たこともない天国や地獄ではない。身体の甦りがあり、死ではなく、復活という世界観がある。死んだ親兄弟、妻や友人、子供と再び会える。それによって我々に勇気が生まれ、の新しい世界が広がる。我々に希望や恐怖から解放することは復活への信仰によって得られる。復活は信仰そのものなのである。キリスト教の信徒にとっての喜びは今もイエスは我々と共におられるということである。それは一体どこに?それは信仰のなかにある。
この復活の現実は何もないところから生まれるのではない。信仰と祈り、それを表す聖書の言葉、それを受け継ぐ教会の礼拝、牧師、信徒の交わりによって顕在化される。個人的なことではなく、教団、伝道、正餐、祈りを通じ、復活のイエスは我々と共におられると思う

4.聖書から
聖書のコリンコリント第一の手紙15章にパウロの復活への確信が告白されています。
パウロが「キリストの復活」というテーマを取り上げたのは、コリントの教会がこのことに関しても問題を抱えていたからです。教会には人間が復活することを否定する人々がいました。しかし、これは別に不思議なことではありません。キリスト教において「身体の復活」は、いつの時代にも人々が躓いてきた信条だからです。現代人のうちのいったいどれほど多くの人が、使徒のように「身体の復活」を信じていることでしょうか。

コメントより、聖書のパウロの言葉こそ最高の信仰告白をあらわしています。
15:12さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 15:13もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 15:14もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 15:15すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 15:16もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 15:17もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 15:18そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 15:19もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 15:21それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 15:22アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。15:23ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 15:24それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 15:25なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 15:26最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 15:27「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 15:28そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。
15:29そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。 15:30また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。 15:31兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。 15:32もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。 15:33まちがってはいけない。
「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
15:34目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。
15:35しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 15:36おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 15:37また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 15:38ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 15:39すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 15:40天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 15:41日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
15:42死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 15:43卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 15:44肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 15:45聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 15:46最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 15:47第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 15:48この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 15:49すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
15:50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 15:51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 15:52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 15:53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 15:54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56死のとげは罪である。罪の力は律法である。 15:57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 15:58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。



by katoujun2549 | 2018-03-04 17:33 | キリスト教 | Comments(0)