剣道七段をいただきました

昇段審査 七段

 長年剣道に取り組んできた自分にとっておそらく最終的な課題である七段昇段を11月28日に東京武道館で果たすことができた。多くの剣道人にとって、試合に勝つことも目標だが、やはり最大の関心事は昇段である。七段が集まって100人に1人の難関八段は夢のような世界で、普通の稽古やセンスでは取ることができない領域であるが、七段までは何とか努力で得られると思う。剣道に取り組んだ人で五段を取った後ならここまでは執着したい領域。50才から60才くらいは体力もあり、25%くらいが受かる。70才以上になると歳をとってから始めた方も多く、合格率は20人に1人の狭き門となる。

 審査では2人の相手と対戦するが、1分30秒の間必ず1本は取らなければ評価されない。最初の相手は睨み合ったまま、なかなか動かない。相手が動いた瞬間、出鼻の面を先に打つことができた。残心を取った。なかなか次が出なかったが、剣先を下げた時、剣道形2本目のように、いきなり小手が見えたので飛び込み小手が決まった。再び構え直し対峙したところで止めの合図。次の方は背は高いが痩せ型だったので、体力的には行けると思い、積極的に攻めた。最初の面は中途半端だった。もう一度と思い出たところを小手を打たれたが、自分の面も打ち込んだ、さらに引いたところを面を打ったがこれは見事に決まった。審査員席が相手の背側で見えないと思い、次に出てきたところを出小手で抑えた。そこで止めの合図。

手応えはあったが、前回もあれだけ打って受からなかったので、不安も残った。合格発表に自分の番号A488があった。形の稽古はよくやっていたので自信があった。やっと取った七段であった。

 嬉しいというより、肩の荷が下りホッとした感じ。1年前から、これまでの剣道を見直し、真っ直ぐな面、トリッキーな技は封じ、相手から好感をいただける稽古を目指した。70歳近い剣道と、40歳の猛者の剣道は違う。審査員も相手を尊重する姿勢を求めている。品格といっても抽象的だが、狡い技、相手を痛めつけるような攻めは不快感を持つはず。このようなことをしないように気をつけた。ただ打てば良いというのではない。そこが試合とは違う。剣は人なりと見ている。

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     写真は全剣連ホームページから複写させていただきました。

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北斎漫画から江戸時代の剣術、柄を余して握っている。

 六段を取ったのは52歳で当時は会社勤めだった。45才で剣道を再開し、今70歳だから紆余曲折、七段まで18年かかったことになる。当時は週2回、中野の興武館で安藤宏三八段、小沢博八段のご指導を頂いた。会社の地下にも小さな道場があり、会社の剣道好きの仲間とも週1回稽古ができた。東レの柴田英一郎七段、大沼新太郎七段も加わって東レ社員クラブでの後の第2道場がが楽しみだった。週3回の体制であったが、仕事の関係で週1回になることもあり、平均すると2回がやっとだった。昇段は大目標だが、稽古を続けるということも日常的な目標である。稽古の時間を作るということが大変。18年の間、健康や生活上のことから剣道を中断せざるを得ないことがあった。六段を取って七段挑戦まで6年間は審査を受けることができない。59歳の時、日本武道館で審査を受けたが落ちた。2回受けてみたという感じで、今から思えばそんな姿勢では受かるわけがないと思う。七段はやはり、何処の道場でも指導者の立場で、六段とは違う審査基準がある。これを理解しないで受けていたからだ。鹿島で三井グループの合宿があり、そこでいつもなら、強い先生に積極的に稽古をお願いしていたが、そのときに限り気力が出ない。これは体調に異変があると思い、三井記念病院で検査をしたら冠状動脈がビラン性で11箇所も狭窄しているからバイパス手術をしなければ危ないと言われた。手術後七段挑戦はこのとき諦めざるを得なかった。柴田先生が入院中見舞いに来てくださり、七段は逃げずに待ってくれるよと励まして下さったのがありがたかった。

 家内が倒れ、要介護状態となったことも大きな中断要素で、毎日の介護で結局5年後に亡くなるまで、稽古もままならない状態となった。会社も辞めた。時間はできたが、東京医科歯科大学で修士を取る勉強もあり、結構忙しくなった。それでも、週1回は中野の上高田剣道クラブで清水薫七段、木村耕一七段と稽古は続けた。昇段は視野に無かった。その間、自分を励ましてくれた安藤先生と柴田先生が亡くなるという衝撃もあり、意欲もなくなっていたのである。

 2012年に家内が天国に召された。呆然とする日々だったが、新潟の大学に常務理事兼事務局長のお誘いをいただき、単身新潟の新発田市に移った。見知らぬ土地で何とか定着するには剣道を通してという下心で新発田市の剣道連盟の稽古に参加した。新潟県剣道連盟の会長をされていた斎藤栄先生が70歳で七段を取られて頑張っておられるのを見て自分ももう一度やってみようという気になった。新発田市のスポーツセンターでの稽古と近所の発慶館、聖籠町町民センター道場が新発田市の稽古場であった。そこで多くの新潟剣道人との出会いがあった。新発田高校の教員をされていた松川七段とも親しくおつきあいいただき、マレーシアの剣道指導にも同行させていただいた。

 新発田に来て1年後山形の審査、仙台、名古屋と受けた。昨年東京に戻り御茶ノ水の三井住友海上の百練館道場に個人会員として受け入れてもらった。自分の剣道を見直す良い機会となった。その年から、元警視庁の濱崎八段が師範となられ、毎週水曜日にご指導いただくことができた。自分の剣道はかつて母校一橋大学剣道部で師範をされていた中倉清先生のイメージが強く、天才剣士の形だけを真似たもので、今から思うとお恥ずかしい限りであった。しかし、今日まで、剣道を続けてこられたのも中倉先生の奇跡のような剣さばきに憧れたことが大きい。剣道の持つ精神的な面、礼儀、稽古の中身は忘れ、ただ打ち合って相手をやっつければ良いというような、中倉先生とは懸け離れたものであった。そのうちに、体力も衰え、病気を経て、何とも奇怪な剣道になっていたことに気がついた。打たれても良いから変えてはならない自分の剣道軸を模索し続けた。京都、長野と受けたが失敗。さらに反省。七段の先生方は皆様それなりの核心をもった剣風を持っている。そこが六段との違いだろう。稽古の時も、相手と同時に、周囲の仲間から見た良い立ち姿、素直な面打ち、打突の機会を作る工夫を自分なりに研究し、身長の低さ(154cm)を乗り越えて攻めを利かす工夫を続けた。百練館の七段の皆さん、小名木、小田、高津、植松各氏からは厳しいご批判と、心のこもった激励を受けた。一橋剣道部の同期の内藤君は既に八段挑戦中。都剣連副会長と全剣連の役員となり、彼の接する八段の先生方のご意見などを寄せてくださり、自分にとって良いアドバイスとなった。日本剣道形は世田谷剣連の藤野七段女史のご指導を毎月1度お願いした。自分は、体格にも恵まれず、剣道では無才ではあるが、一流の師、素晴らしい剣友に恵まれた。段を頂かずとも有難いことであった。東京に戻って5回目で何とか頂いた七段、これからも品格ある剣道を目指し、皆からお誘いを受けるような交剣知愛を続けていきたい。

 

 


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by katoujun2549 | 2017-11-29 10:38 | 武道・剣道 | Comments(0)