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リベラルアーツの役割

         リベラルアーツと大学

 大学で何を学ぶかということは、学生にとっても、教育する立場からも大きな問題である。特に、大学は教育機関というより研究の場という観念が教員の側からは強いだろう。日本の大学は国立大学を中心に、大学院や研究所が付属しており、多くの研究者を擁している。リベラルアーツという概念は、かつては大学に一般教養という仕組みがGHQから組み込まれ、専門科目に向けての学習の障害であるかの様な扱いを受けていた。

 しかし、受験勉強偏重の高校教育においては、一部の心ある教員の努力と優秀な学生によってしか、大学の研究に向かう基礎的な学力、思考力を養う学習は行なわれていなかった。一般教養をただ、暗記や教科書の購読による学習とすれば研究に向けての準備にもならず、無駄といわれざるをえ無かっただろう。しかし、大学で文学や哲学を学ぶ事は経済学や法律学を学ぶ学生に取って、また、理系の学生にとっても有用である。というより、今の大学生にとって必須であるということである。

 自分は今新潟県の小さな私立大学に籍をおいているが、この県の教育環境は他県、特に東京とは違い、大学進学者の高卒者に対する比率が低い。今でも50%を切っている。その原因として新潟県は実学志向であるという通念もあり、また、専門学校に行く学生も多いのが現実であるからだ。新潟ではNSGグループという専門学校経営企業が幅を利かせていて、新潟駅にも交流の場を持っており、また、新潟医療福祉大学はそのグループの一つで巧みな経営を行なっている。学生募集が上手で学生を引き寄せ、「実学志向」という新潟の土壌に合っているかのように見える。しかし、実態は、あまり勉強の得意でない学生の吹きだまりでもある。もちろん、中には優秀な学生も行くので、一流企業に就職する人もいるが、中退する学生が多く、結果的にフリーター予備軍である。これは日本が向かう方向とは別の動きである。もちろん、この専門学校群が無ければ、高卒者の進学率も上がらないし、東京の専門学校に吸い取られるだけかもしれない。若者の教育と故郷離れ防止に貢献している。新潟の高等教育に対する期待度が薄いのは、学習意欲の問題より、家庭の所得が私立大学に進学させるだけのレベルに無い事が大きな原因。さらに、親は高卒が多いので、大学教育に対する理解が無い。文学だとか政治を勉強して何になるのだという感覚が強い。これは全国的に見ても、親の学歴と子供の進学に関する相関性は高いことから読み取れる。今、諸物価が20年のデフレによって低迷しているが、大学の授業料は下がっていない。年間100万円はかかるし、生活費や部活、本代など諸経費を入れれば50万円以上余計だし、新潟県内でも、遠隔地ならばアパート代も入れれば200万円である。これは夫婦共稼ぎでなければ支えられない。10万円でも安ければ専門学校に流れるのである。
 高校までの勉強と大学における学問と決定的に違うのは、大学で古典の本やテキストを読む上で、その背景や歴史、現代における意味等、様々な角度から知の光を当て、ものを考えるということである。本を読めばいいというのではない。統計や抽象的な理論の背後を探る事や自分の考えをまとめることなど、領域が広い。大学院になればさらに自分のテーマを掘り下げて行く。こうした体験は、社会に出ても同じ事である。野球の一流選手は高卒が多いが、彼らも、自分の領域で成績を上げ、ファンにサービスし、心身の健康を守って行く為に努力をし、立派な考えを持っている。イチローや松井秀喜など英語だって話せるようになっている。大学を出なくても一筋に極めれば相当な所に行きつくのである。では、大学に行かなくても良いと言うのではない。何もイチローや松井のようにならなくとも、4年間大学に行けば見識のある人物に成長できるのである。もちろん時間効率もよいのだが、その代わり授業料を払うということにはなる。
 大学不要論は例外的な成功事例を挙げて反論しているだけである。リベラルアーツの学びというのは大学院も目指すような研究者や社会人としての基礎的な力を付ける教養を学ぶのである。そして、常に、課題の原点に密着し、上から目線ではなく、当事者意識を持って現実から出発することが学びの姿勢だと思う。


by katoujun2549 | 2015-10-13 14:01 | Comments(0)