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医療・福祉の専門教育 日本の大学の不思議

 日本の大学は東京大学を頂点とした国立大学を軸に回っている。国立大学の使命は富国強兵、西欧社会に追いつくことであった。特に医学部は軍事の要請と一体だった。九州大学の米軍捕虜生体実験などが良い例である。日本には大学は750校はあるだろう。そのうち私立大学は578校あり、その46%が定員割れである。日本の福祉の大きな転換点は2001年の介護保険法施行である。しかし、福祉というのは何も高齢者を対象にしているばかりではない。難病、児童虐待、DV、不登校、ブラック企業の過労死、鬱病など病んだ社会は誠に幅も奥も深い巨大な闇だ。これらの原因の多くは市場社会の生んだものである。しかし、介護ニーズの高まりから看護、介護を軸に人材を養成するために、私立大学は迅速に対応したといってよい。ところが、介護や看護もそれほど高収入を望める仕事ではないし、特に介護は未だに低賃金である。従って、若い高校卒業のキャリア形成上失望感が生まれている。看護も、毎年40兆円もの医療費をどう抑制するかが課題の医療の世界では看護師の給与も頭打ちになる。この分野もいずれ大学経営上は厳しい合理化をすることになるだろう。
 現代の大学の殆どは欧米の大学のコピーであるが、日本は戦後、官僚主導の大学改革を進めた結果、世界に通用しない大学の仕組みが登場して来た。その一つが福祉を学科や学部構成とする大学の登場である。これは高齢社会市場を見据えた経営上の判断だった。しかし、この分野に若者が集まらない。一般に欧米の大学は4年間の教養教育を経て、専門大学院などで専門教育を行なうのであって、大学はその方向付けをするのが一般的である。ところが日本は6年以上かかるものを4年でやってしまおうというのである。これには無理がある。もともと、旧帝大系を中心に優秀なエリートを富国強兵のスローガンで早期栽培する為の仕組みであった。戦後、民主化が進み、医療、看護、介護も変化したが、高度成長で国際化も進んだ企業の変化ほどではなかった。そして高等教育のニーズの増大は私立大学に託された。要はマスプロ大学である。これによって日本の私立大学は今日に至るまで経営を安定させ、大量の中途半端な、学力の低い大卒を生んできた。これが日本の大学の現実であった。ちなみに、医学などはとにかく戦場の兵士の傷病治療から始まった。弾丸の摘出、手足の切断、伝染病対策などである。看護も同様だ。医療の大事な要素が、隔離であった。伝染病、結核に加え、痴ほう老人などもその範疇だ。学生を見ない教育、患者を診ない医療、高齢者を縛り付けて効率化を図る介護の時代が続いた。それが今日批判され、この10年改善されつつある。
 最近は変わって来たが、日本の病院はやたら患者を統制しようとする。それは医療の生い立ちから来る。今でこそ緩和ケアという言葉が定着したが、ほんの5年前くらいまで、患者は我慢するものだった。かなり前から改善されたのは産婦人科であろう。日本の医療・福祉はこうした特殊な発展を続けて来た。医療、看護、介護も一番大切なことはその患者であり、人間である。それを見失っていたのだが、キリスト教系の学校や病院ではそこを大切にしてきた。聖路加病院や聖母病院、衛生病院は無痛分娩で有名だった。淀川キリスト教病院なども緩和ケアでは先進的であった。

 自分のいる大学では福祉に取り組む専門コースがある。どうしてこの学校にこのコースが出来たのか。設置されて10年目である。今のところ学生募集は順調である。大学に、そうした専門コースを設けることの可否に関して議論があったと推測出来る。自分なりに考えて見ると、キリスト教各派において福祉に関する取り組みについて微妙な差がある。かつて、賀川豊彦は神戸のスラムに飛び込み、救貧活動や児童福祉に取り組んで来た。カトリックはマザーテレサの修道会が有名である。キリスト教主義学校である本学が、福祉に取り組み、人材を要請する事は社会的にはキリスト教のあるべき姿かもしれない。かつては救貧活動であり、女性の人権活動などにキリスト教主義学校は重要な役割を果たして来た。今は少子高齢社会おいて、介護や児童福祉などに焦点が当てられる。何故本学に福祉の専門コースがあるのか。学校経営上の戦略、学生を集めるためとする理由もある。しかし、本学ではやはり聖書や教会の信仰との結びつきを考えるべきである。

 東京神学大学で長い間学長を務められた故松永希久夫先生はプロテスタント教会の危機に対して、キリスト論、教会論を基盤にした教会形成ープラットフォームを呼びかけており、なるほどと思う所が多い。松永先生は、近代以降、イエス理解が多様化する中でイエスを ①体制の否定者 改革者 =ローマ帝国ー政治経済の体制否定者、革命拠点としての教会形成 ②社会福祉家 人道主義ヒューマニスト 自己犠牲ー社会福祉センターという整理をされ、さらに結論としてあるべき姿である
③信仰告白にもとづく教会形成におけるイエス、罪の贖い主 復活のイエスによって新しい命を与えられる。イエスキリストへの感謝と賛美による教会形成といった整理をされています。かつて、故賀川豊彦先生は信仰と福祉、さらには組合の結成などにおいて日本の歴史の貴重な1ページを築かれた。しかし、当時からみて、福祉の世界は大きく変わり、国家や自治体、NPO団体など多くのセクターが取り組んでいる。福祉に貢献する主体はキリスト教会だけではなくなった。伝道活動や信仰の証としての福祉をとらえるにはあまりにも社会も制度も複雑になった。専門家の要請が求められる。

 しかし、聖書は①も②も③もイエスは訴えているのであって、全てが結びついているという視点を失ったら、現実の課題と隔絶してしまうのではないか。リベラルアーツの理念を持つ大学において福祉に取り組む理由がある。何も、教会は社会改革の拠点でもないし福祉センターでもない。でも、その顔は保っていなければならない。③だけでは社会に対して何のインパクトも与えられない講座的な関係でしかない。聖書には改革者としてのイエスもあり、ヒューマニストとしてのイエスも見えている。そして、大学という社会に開かれた場において、隣人を愛する人材を育てるという目的を果たす為にも、福祉は重要な要素である。

by katoujun2549 | 2014-08-27 10:04 | Comments(0)