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韓国セウォル号沈没事故犠牲者が拡大した理由

 韓国のフェーリー、セウォル号が沈没したニュースには、世界中で驚きの声が上がっている。300人を超える死者行方不明者もさることながら、韓国という国の欠陥が露わになり、国の対応に問題が多いことが分かって来た。交通システムの安定は国家の基盤である。日本も福知山線の事故(2005年死者107人)が起きたのは経済構造が変化したころ、安全より経済性を優先させた経営者が批判を浴びた。他人事ではない。かつて、戦後の混乱の中で、洞爺丸事件が起き、1,430人の犠牲者が出た。ドイツ第三帝国の崩壊時に起きた1945年グストロフ号の沈没は9,300人が犠牲になった。そしてフィリピンでは1987年ドニャ・パス号(MV Doña Paz)の沈没で4,375人が焼死、溺死した。前年にマルコス政権が崩壊し、国政が混乱した時機である。交通の大事故というのは全て政治や経済の混乱が背景にある。日本でも高度成長期に起きた三河島、鶴見の脱線事故で多くの犠牲が出たことを思い出す。これは古い交通システムが大量輸送に伴う安全性確保の技術的対応に追いつかなかった為に起きた。その後ATS( Automatic Train Stop)の技術が開発され、類似の事故は起きなくなった。

 今回の事故は全く韓国的な現象であるように見える。要は手抜きの連鎖である。かつてのデパートの崩壊事故、橋の崩落事故の教訓が忘れられている。朴政権も首相が辞任に追い込まれて、何とか命脈を保とうとしている。全てが泥縄式なのである。世の乱れが大事故をもたらす。あるいは大事故が世の混乱を生む。今、この国を支配しているのは利己主義であることが分かる。サムソンや現代の成功がこの国にとって何だったのか。多くの若い命が失われたことは厳然とした事実であって、経済や社会の虚構をはぎ取ってしまう厳しい結果である。

  今回の海難事故では多くの高校生と教員が犠牲になった。もっと早く船から脱出していればこれほどの多くの犠牲者にはならなかったという。そこで、疑問として。高校の教員は何をしていたのだろうかと思う。艦内放送で待機指示が何度もあったが、教員は高校生を引率しておいて起きている状況をどう判断し、船に対して何か、確認したのだろうか。ニュースに出ないのは被害者だからなのか。もし、船の判断がおかしいと思えば、彼らが独自に判断し、生徒に指示を出せたはず。救難の船が来るまで待たねばならない。救助艇の数が極めて少なかった。さらに、救命設備のイカダやボートが放置され、動かなかった。それも、彼らには分からなかった。事情もあったろうが、船内に閉じ込められることは避けねばならなかった。船が傾く間なぜじっとしていたのだろうか。よくわからない。
この壇園高校というのは竹島問題で、反日的行動で有名になった高校でもあり、済州島でも反日的な歴史を学ぶ予定だったとか。韓国という嘘で固められた国家で、その現実に気がつかない国民を象徴した事件でもあった。

  こうした失態を、北朝鮮はどう見ているだろうか。同じ民族の悲劇として哀悼の意を示すだろうか。どうもその気配がない。彼らからみて、韓国の脆弱性を見て、軍事的にこの国は戦争には耐えられる国ではないと判断するかもしれない。恐ろし、朝鮮半島は恐竜時代のように弱肉強食のエリアではないか。国境の無い我が国とは事情が違うのである。戦国時代なら、あっという間に攻め込まれるだろう。北は目下核実験の準備と政治利用で虎視眈々と機会を狙っている。朴大統領の抗議の声も空しい。朴が反日、慰安婦問題で国民の注意をそらしている間に、国の土台が崩れていることに気がついていない。韓国の反日、竹島問題で踊った高校が自国の杜撰な社会システムの犠牲になったのではないだろうか。
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1921年 ホン・モー号(シンガポール)1000人
1939年 インディギルカ号(ソ連)700人以上
1943年※高千穂丸(日本)844人
1944年※対馬丸(日本)1484人
1944年※順陽丸(日本)5620人
1945年※ビルヘルム・グストロフ号(ドイツ)9343人
1945年※シュトイベン号(ドイツ)4500人
1945年※阿波丸(日本)2000人以上
1945年※ゴヤ号(ドイツ)6666人
1945年※カップ・アルコナ号(ドイツ)5594人
1945年※ティールベク号(ドイツ)2800人
1945年※小笠原丸・第二新興丸・泰東丸(日本)1708人以上(3船殉難事件。終戦後の8月22日に発生)
1948年 江亜号(中国)1100人以上(2750~3920人説あり)
1954年 洞爺丸(日本)1155人(台風15号により洞爺丸、第十一青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸の5隻の青函連絡船が沈没。犠牲者総数1430人)
1987年 ドニャパス号(フィリピン)4375人
1993年 ネプチューン号(ハイチ)500人以上(1700人説あり)
1994年 エストニア号(スウェーデン)852人
1996年 プコバ号(タンザニア)894人
2002年 ジョラ号(セネガル)1863人
2006年 アル・サラム・ボッカチオ98号(エジプト)1018人
2008
by katoujun2549 | 2014-05-06 12:23 | Comments(0)