人気ブログランキング | 話題のタグを見る

遠藤周作の「侍」:支倉常長(書評)

  遠藤周作の「沈黙」に続く作品で、野間文芸賞を受賞した。沈黙があまりにも有名でその陰に隠れているが、内容は沈黙に並び立つ優れた作品だと思う。日本人とキリスト教という課題を海外の視点から語っている。かつて歴史に埋もれていた支倉常長の7年にわたる長い旅の記録である。資料は殆ど無い中、遠藤は自らの渡欧体験や海外取材で優れた描写を行なっている。

 明治になって、岩倉使節団がヨーロッパを訪れたとき、ヴェネチアで支倉が訪問していた事を知り驚愕したという記録がある。ローマ法王に謁見し、拝領した当時の法衣や教皇の肖像画、短剣が仙台に残されている。また、彼の肖像画はベネチアで発見されたのである。今年、仙台では東日本大震災で破損した復元船の改修と記念館の再開が渡欧250周年記念に併せて行なわれる。

ローマ法王に謁見した時の支倉常長像
遠藤周作の「侍」:支倉常長(書評)_e0195345_14354839.jpg

震災前のサンファンバウティスタ号;流石に大きい。日本でこれだけの船が建造された事が凄い。しかも、5ヶ月で完成し、スペイン人もびっくり。
遠藤周作の「侍」:支倉常長(書評)_e0195345_14361568.jpg


スペイン側の記録にある支倉常長の雰囲気を表していると言われる肖像画

遠藤周作の「侍」:支倉常長(書評)_e0195345_14363715.jpg


東日本大震災により損壊した記念館とサンファンバウティスタ号の補修工事が進んでいる
遠藤周作の「侍」:支倉常長(書評)_e0195345_21574940.jpg


 支倉常長の渡欧と信仰の物語であるが、この物語はべラスコという日本宣教に情熱を燃やす神父の語りによって構成される。侍(長谷倉殿)と表現される彼は伊達藩の支倉常長のことである。支倉常長は太平洋をサンファンバウティスタ号に乗って、メキシコを横断し、大西洋をわたってスペインに行き、さらにローマ法王に謁見している。彼が、日本に帰国した時は既に禁教令が出され、鎖国に向けて日本が進んでいた時であった。なぜ彼はこれほどまでの大旅行を行い、何を見、異国の地で何を考えたのか。作家の想像力を大いに刺激する歴史的な出来事であった。この物語は、どんな事情で支倉達の大旅行が7年もかかったのかを語る。彼らを待ち受けたスペインや修道会の日本に対する宣教の方針転換の時期であり、語るポーロ会(フランチェスコ会)のべラスコ修道士と彼に敵対するペテロ会(イエズス会)のヴァレンテ神父との対決に物語が進む。支倉一行は仙台藩の家臣に過ぎない。幕府が公式の使節として派遣したわけではない。しかも、幕府はキリスト教を禁止する方向にあるというのが反対派の見解である。当時は既にキリスト教が秀吉によって禁教令をだされ、殉教も始まっていた。宣教と国交ー貿易とを一体にして国交を進めるスペインの外交は、日本に対して後退期に入っていた。日本の宣教が失敗であったとされると、支倉達がスペイン国王に謁見する理由がなくなる。そこで、使節一行は洗礼を受けるのである。使節団を案内したバレンンテ神父の勝利である。彼らはスペイン国王に会うことができる。しかし、同時に、仙台藩でもキリスト教の迫害と殉教者がでたという情報が伝えられる。

 支倉達の改宗はいかなるものだったのか、という疑問が次に起きてくる。彼らのスペイン国王との謁見を実現するために、敢えて信じたくもないキリスト教の洗礼を受けたのだろうか。さらに、支倉はローマ法王に謁見することで事態を打開しようとする。しかし、1612年の禁教令により、日本はキリスト教の宣教を禁じた。ローマ法王庁も、スペインも、支倉達の国交に向けた外交交渉を行う理由を失った。彼らの渡欧の目的は失敗であった。しかし、最後に法王は支倉達一行と謁見を行う。そして、彼らは伊達公の書状を読み上げることに成功する。
 「宗教に現世の利益だけを求める日本人。彼らを見るたびに私はあの国には基督教のいう永遠とか魂の救いとかを求める本当の宗教は生まれないと考えてきた。」「日本人たちは、奇跡物語や自分たちのどうにもならない業の話には心ひかれるが、キリスト教の本質である復活や自分のすべてを犠牲にする愛について語ると、とたんに納得できぬ興ざめた顔をすることを私は長い経験で知っているからである。」これはあくまでも遠藤のキリスト教と日本人というテーマである。

 支倉は日本に帰国後信仰を捨てたということになっているが、史実はどうも違うようだ。彼の女婿や下僕等、周囲の人々がキリシタンとして殉教しているのである。彼だけが棄教したとは思えない。彼は日本に帰国後2年で病死している。遠藤は、イエスキリストの受容、さらにキリスト教の信仰が日本という土壌に馴染まない理由をこの作品の登場人物の思考を自身に重ねて語っている。しかし、史実は必ずしもそうではないようだ。常長の子常頼は1640年、禁教令を破り、斬罪に処される。召使い3人と弟常道がキリシタンであったことの責任を問われたもので、召使い3人も殉教。また、支倉の旅の報告は伊達藩から幕府に対しなされており、闇に葬られたわけではない。伊達政宗は支倉の信仰を尊重し、彼が帰国後死んだことにして、山奥の寺に匿い、保護したという説が有力である。そこには彼の墓碑がある。
 支倉の信仰にしても、当時の日本の対応にしても、遠藤の描く日本は矮小な感じがするのが残念である。遠藤自身の問題意識を超えた所に支倉の真実はある。<2013-07-09 16:10/span>

by katoujun2549 | 2013-07-09 16:10 | 書評 | Comments(0)