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新発田生活、越後兵は何故強かったのか 北方文化博物館で感じた事

 自分が6月から住むようになった新発田市には自衛隊の駐屯地がある。この基地は新発田城の一部に立地し、明治以来の古い歴史がある。新発田の16連隊というのは、精強で有名であった。第2師団所属。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」であった。日清戦争からノモンハン、さらに大平洋戦争では中国戦線、ガダルカナルからインパールまで激戦地を全て転戦した。勿論多くの犠牲者が出た事であろう。軍旗は弾丸で縁の房だけになり、何度も取り替えられた。もっとも、越後の兵隊が強かったというのは、戦国時代からで、あの直江兼続で有名な天地人でも見られるし、上杉謙信の川中島でもその活躍は認められていた。新発田市は戦前は軍都として栄えた。村上や中条と比べて、料亭や盛り場が大きいのはその名残で、消費都市だった。だから今は取り上げる程の産業が育っていない。
 歩兵第16連隊の縁だけ残った軍旗
 
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 何も、こちらの人々が体格が良くて、ごつい感じという訳ではない。どこでも見られる典型的日本人である。自分は、新発田に来て何故ここの人が、それだけ強兵だったかを考え続けて来た。確かに、こちらは夏暑く、冬は雪、厳しい気候で、忍耐を要求されるが、食料は豊富だ。酒がうまく、人々の人情は都会よりあつい。互いに知らない間でも、出身地や学校などですぐに繋がってしまう。酒席は大いに盛り上がる。絆が強いのである。昔の軍隊は、地域の関係を利用して同郷で編成したから、自分だけ卑怯なことはできなかった。これは日本の軍隊共通である。鹿児島や熊本、東北地方の岩手、青森などの連隊も強かった。

 新発田16連隊の現存する木造兵舎
 
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8月5日北方文化博物館に行った。そこで、はたと気がついた。新発田や隣の聖籠町にも豪農の館というのがある。町には必ずと言って良いほど豪農の館が保存されている。その中でも、この北方文化博物館となっている伊藤文吉邸は豪華で大型である。
 
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 明治7~8年(1874~75年)に既に伊藤家は29ヶ村に122町歩余(122ha)を所有し、算盤と勤勉によって豪商の城を築こうとする五代文吉は明治10年(1877年)を過ぎる頃から広い屋敷を確保することを考えた。邸には土地五千数百坪(約18,000平米)が用意され、12年かけて完成された。材木とみかげ石の買い付けのために、会津・山形、遠くは秋田まで足を伸ばし、資材は、阿賀野川をいかだと船で運搬し、新潟方面からも材料が運搬された。現在、茶の間の廊下の上にある16間半(30m)の一本通しの杉の丸桁は、会津から雪溶けで水量の増した阿賀野川を利用して運ばれてきた。

 北方文化博物館に設置された農家 伊藤邸に比較して何と貧しいことか
 
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伊藤文吉邸</font>
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大きな勝手口と毎日50人の使用人がいた囲炉裏のある台所
大広間から見た庭園
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 そこで、はたと思ったのは、これだけの豪農がいたという事は、逆に、貧農もいたということである。農地を自分で開墾するばかりではなく、借金のかたに取り上げた農地もあった事だろう。そのために、豊かな土地に反して、多くの貧農がいたに違いない。彼等は、税金や、地代を払う為には労働力を期待して多くの子供を産む。ところが、土地は限られているから次男三男は出稼ぎとか、軍隊に入るしかない。豊かな地だが米を食べられない農民が多かった。米は、貴重な生産物だったからだ。悲しくも、彼等は軍隊には入れば白い米が食えると喜んで軍に入った。そして死んで行った。この土地の貧富の差こそあの豪農を生み、さらに多くの貧農の子弟が軍隊にいくしか食べることができなかった。

 だから、越後兵は強かったのである。大規模農地と酒にする程実り多き米。それを売買して豊かな農家はますます豊かになるが、それに反して貧しい農家も多かったに違いない。貧困こそ日本軍の強さの秘密であった。政府はこの仕組みを富国強兵策として利用した。伊藤家が資産を拡大したのは、むしろ明治以降なのである。だから、アメリカは農地解放で大地主を葬り去り、日本の生産体質を転換したのだ。戦勝国アメリカは何故あのような精強かつ凶暴な日本陸軍が生まれたのかを必死に研究した。その結果、行なわれた農地解放こそ、日本を骨抜きにする秘策であり、また、軍事力を減じる名案であった。この伊藤邸にもアメリカの将校が来て、建物を解体しようとしたところ、地主の伊藤文吉がアメリカのパンシルバニア大学卒業で同窓だったことが分り、急に協力的になって、保存されたのである。リベラルなアメリカだが、急に学閥に転じるところがアメリカの正体だ。そうでなければ解体されるところであった。それほど、アメリカは日本軍の強さの蔭に、これらを支える大地主と小作制度を敵視した。小作制度は廃止、独立自営農の国となった我が国、皮肉な事にこれが日本の高度成長の源であった。小規模農地で生産性の低い農業から若者は離脱し、都市に行き、大量生産製造業を発展させた。

 実はアメリカは小作農創設にはあまり関心が無かった。一方、アメリカはフィリピンの大地主を温存し、これが今日も産業の発展を拒んでいる事とは対照的である。農地解放は世界史上まれに見るー革命的改革だった。GHQがこの政策を歓迎したのは当時の食料事情である。そして、日本に共産主義革命が起きる事、すなわち、420万戸の小作農が農民組合など一大革命勢力になろうとしていたこと、戦争による欠乏に加えて敗戦の昭和20年が大凶作だったこと、などがあるようだ。GHQは日本の軍事力の源泉が小作農である事にも注目していたに違いない。政府主導で農地改革は断行された。それは革命を未然に防ぎ、生産性を上げて餓死を防ぐ、という当時の日本政府にとっては、何が何でもやらなくてはならない政策だったようだ。だから、GHQの影響力はもちろん無視できないにしても、戦後の政策の中では比較的に日本政府主導で行われた, 北方文化博物館ではこの歴史的意味には全く説明がない。農地解放で伊藤家はただの家持ちに過ぎなくなった。しかも、この邸宅を維持するのは困難になり、博物館と化した。これこそ、明治憲法からの大改革であり、日本の今日を定めたものである。世の改憲論者は一体この事をどう思うのだろうか。


by katoujun2549 | 2012-08-13 09:39 | 武道・剣道 | Comments(0)