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終末 黙示録 アポカリプス APOCALYPES

 

 日本人に馴染みの薄い概念が終末という世界観だ。そもそも、仏教的世界では気の遠くなるような悠久の時間の中で、生命は輪廻転生するから、終末という感覚が無い。キリスト教は歴史的事実として展開する出来事に対する信仰である。一方、仏教はイマジネーションの世界である。膨大な経典という情報が迷路のように我々を導く。聖書は新約旧約の1冊である。コッポラの地獄の黙示録という映画があったが、これは変な題で、黙示録は地獄とは必ずしも結びつかない。聖書ではヨハネ黙示録と旧約のダニエル記が黙示文学である。黙示はギリシャ語で「覆いを取り去る」「隠されていたものが明らかにされる」つまりは啓示を意味している。あの映画の原題はApocalypse Now である。今起きている狂気と絶望といった感じだろうか。終末においては地獄も天国もぶっ飛ぶ。クリスチャンにとっては天国のイメージにもなる。

 キリスト教の世界観には終末という概念が重要である。人間はいつかは死ぬ。世界もいつかは終わるのです。それが、いつになるのかは分らないが、明日かもしれない。英語で現在完了とか、過去完了など時間の経過に厳密なのはそのあたりの影響もあると思う。日本語は、過去、未来の時制も時々曖昧だ。何でも現在形で通用する。自分の命も、他人も世界も、どこかで終わるのである。国家も、家族も、友人もいずれ終末を迎える。聖書はイエスによる最後の時の預言に満ちている。イエスは十字架の道を歩んだが、終末は復活によって克服される。絶対に復活という世界が必要である。これが無ければ永遠に死の勝利が我々を待っていることになる。イエス様は死に勝利することを宣言した。しかし,同時に地獄の存在も明らかにしている。西欧文明の価値観というのは、この終末という「時」を抜きには語れない。

 天国がどんな所かを説明した部分は少なく、天なる神の右に座すとか、霊の世界としての死後の世界は説明している。霊の世界では死者は時間を超越し、終末に導かれる。だから、天国というより、終末に展開する世界と、イエスキリストと共に過ごす千年王国が中心である。この中で最も具体的なのが「ヨハネ黙示録」である。世界の最後についてのヨハネのイメージが語られている。ヨハネ黙示録は22章からなり、神の姿とキリストの再臨についてヨハネが霊感をもって語った。何とも不思議な世界が展開されている。まるで交響詩とか、長大な絵巻物の世界である。このヨハネが見た世界は、あくまでも、2,000年前の世界におけるイメージであり、そのままの事が起きる訳ではないだろう。しかし、そうした世界の終末は誰もがいつかは体験することである。自分の終末がどのようなものであるかを思い描く事は信仰的な領域である。
 
 ヨハネはパトモス島という今のトルコ沿岸の地中海の島に捕らわれ、そこでみた夢をもとに黙示録を書いた。このイエスの再臨こそキリスト教の目指す世界の終末である。ヨハネ黙示録22章6節でキリストの再臨が語られる。恐らく、ヨハネという人は捕囚の身となる前から、イエスの再臨とか、黙示録の夢想的な内容を世に説いて、ローマから睨まれ、この島に送られたのであろう。そこで彼は、これまでの霊感で見た世界を手紙にまとめ、これをエフェソス、ラオデキア、スミルナ、ティアテイラ、ペルガモン、サルデス、フィラデルフィアの7つの教会に送ったとある。その手紙の後、天国の礼拝が、ラッパとともに始まる。バロック音楽のラッパの響きはこのイメージからくるのだろう。そして、様々な怪物達、虹や星、光り輝く宇宙の世界などが万華鏡のように展開する。そして、七つの封印をした巻物を開く。ラッパの響き、そして天使達と合唱。竜や奇怪な獣が象徴的に登場する。戦いを象徴する赤い馬、死をのせた青白い馬、最後に19章で白い馬が現れる。イナゴの大群、さそり、天災地変など当時の人々の恐怖の世界が描かれる。20章で描かれる1000年にわたるキリストと主に統治される王国のこと。いわゆる千年王国というのはここからきており、ナチスや共産党の世界観もこれと関係している。一体何を象徴しているのか全く分らない謎解きのような文章が連綿と続くのである。これはヨハネがローマ帝国の迫害を避ける為に、暗号のように使っていた言葉も含まれている。第17章に出て来る大淫婦というのはローマ帝国のことである。二億の騎兵、軍隊、そしてバビロンの崩壊が描かれる。そして子羊の婚宴、夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。最後の審判とサタンの敗北、そして最後の21章へと息をつかせず、大交響楽がフナーレにむかう。
 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいのなか神なる主は、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守るものは、さいわいである」。これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。

 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
 聖書はこの章で終わる。

by katoujun2549 | 2012-05-13 00:06 | キリスト教 | Comments(0)