人気ブログランキング | 話題のタグを見る

イースターはキリスト教の原点

  日本ではキリスト教というとクリスマスを思い起こすだろう。しかし、実際、信仰的に重要なのはイースターである。勿論、処女降臨のことや、ベツレヘムの馬小屋の物語も神学的な説明がなされるが、これだけではキリスト教にならない。キリスト教は、イエスの十字架と復活の奇跡、再臨の預言が無ければ始まらない。神に受け入れられる為には十戒を守らねばならないが、人間は完璧には守れない。そこで、もう一つの律法、愛を霊の賜物として受け入れ、その働きに従うことで律法を完成することができる。これこそ神の愛であり、その一人子イエスキリストをこの世に賜ったという神学である。その必然として様々な奇跡や復活が証としてなされた。

 新約聖書では、この死人の復活という、これまでの宗教には全く無かった世界観が展開されている。しばしば、進化論と創世記の天地創造物語が議論になり、インテリジェントデザインといった理屈も生まれた。しかし、この死者の復活という考え方、というより信仰は、いくら何でも2000年前の世界でも一笑に付されたのである。当時のユダヤ人もこの発想は無かった。だから、死者の復活を否定するサドカイ派の人々はイエスキリストに論争で挑戦し、その問答の中であっさりと逆手にとられている。

 キリスト教徒は、当時のローマでは女子供、奴隷、職人といった無教養な連中であるとされ、社会では底辺の人たちであった。復活の信仰は嘲笑の対象にすぎなかった。だから、皇帝ネロがローマの大火の犯人として仕立て上げ、見せ物にして殺したのも、キリスト教の教義というより、あの奇妙な復活を信じる集団は焼き殺してしまっても誰も政治問題にならないということからターゲットになった。ローマ帝国のキリスト教迫害は、後の事で、復活信仰が問題だからではなく、皇帝崇拝を拒否したからである。このことは故弓削達氏のローマ帝国とキリスト教迫害の論文に詳しい。
 イエスキリストは自分が復活しただけではない。ラザロは埋葬されて、腐敗が始まっていたのに生き返る。瀕死の病人であった役人の息子(ヨハネ4;50)、百人隊長の部下を癒し、回復させた(マタイ8章5節~13節)。こうした奇跡を4福音書は繰り返し語っている。復活信仰はキリスト教の中核である。イエスが十字架の死を迎えた時も、地震が起き、聖人達が復活した(マタイ;27章50〜55章)。
まさに繰りかえし述べられている。この記述に疑いを持つ事は簡単だ。その復活した人はその後どうなったのか、イエスは何故もっと多くの人を蘇らせなかったのか、しかし、理屈を考えることは信仰ではない。
その答えは、それを作り話と笑っていたら、2,000年のキリスト教は存在しなかったという事実である。何を言っているんだろう、そんな屁理屈を考える前に。自分の生と死を考えたらいかがでしょうか。結局人間ができることは祈るしか無い。
 使徒行伝はパウロが復活のイエスにエマオへの道で出会い、改心して新しい人生を得たこと、その後の教典となった書簡集で繰り返し復活こそ真実であることが書かれている。復活の信仰が力となり、教団、教会を形成し、信仰として受け入れられているという事実をどう考えるかである。いや、教会というのはこの信仰を維持するために形成され、聖書も編纂され、何度も改訂された。聖書、まさにこの復活の信仰が福音として書かれ、これを神の言葉として受け入れるということである。キリスト教がその象徴を十字架という当時の恐怖の的であった処刑具にした事の意味がある。キリストが、奇跡を起こした魚もキリストのシンボルである。キリストは病気の癒し、魚、そして十字架の復活をもって世界宗教となった。この奇跡が多くの人々に受け入れられた理由は何かを考える方が、この奇跡物語の意味を説明することになるのではないだろうか。
 四月にはいり、長かった寒い冬が終わり、桜が一斉に咲き始めた。日本人は、桜の木の下には死者が埋められているという言葉がある。毎年、桜を見に行く日本人の習慣である。自分も両親、そして家内と身内に多くが天に召された。するとその言葉が心に響くのである。皆が元気な時には全く理解出来なかったのだが。これが日本人の感性なのだろうか。しかし、復活という偉大なメッセージが私達に神から送られたのであるから、これを十字架とともに見つめたいものである。

ーーーーイエスの受難と復活への祈りーーーー

 イースターにあたり、主のご復活を祝し、その福音にあずかる喜びを申し上げます。世界の人々に希望と平和をもたらす、このイースターが、イエスの十字架の愛こそが真実であって、そのことを否定したり、誹謗する側には救いが無いことを思います。
 貴方の受難をもたらし、貴方を裏切る私たちの弱さ、罪深さを懺悔いたします。あなたは一人子を世に遣わし、私達の罪を解き、あなたとの正しい交わりの道を与えてくださいました。十字架の血の贖いに相応しくない罪深い私達にお与え下さいました救いを復活という奇跡によって完成されました。貴方の大いなる知恵と恵みに感謝申し上げます。あなたがお示しになられた愛が聖霊であり、新しい律法であること、そしてイエスキリストこそが我らの主である事を信じ、告白します。
 そのみ言葉を通して恵みに預かる幸いを感じます。私達が永遠の命を頂き、既に召された兄弟姉妹とともに再び会うことが出来ますよう願うものです。どうか私達が教会にあって主の十字架の贖いと復活により与えられた霊の賜物をこの世で証言し、貴方がイエスキリストを通して示された愛をもって歩み続ける事ができるように導いて下さい。イースターの礼拝で多くの友と祈り、喜びを共にする事をお許し下さい。この世界が、復活の信仰により、希望、愛と平和に支配されるものとなりますよう。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン




 

 

 

by katoujun2549 | 2012-04-09 11:46 | キリスト教 | Comments(0)