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オウム事件はナチスと同質 アイヒマンが何故生まれたのか

1.オウム事件は何だったのか

オウム真理教の元信者平田が自首し逮捕されたことが裁判の終結になり、昨日の麻原らの死刑執行となった。何故、多くのオウム幹部があのようなことを仕出かしたのか。なかには社会ではエリートといわれる医師、優秀な技術者・研究者が麻原彰晃にマインドコントロールを受け、松本や地下鉄サリン事件、坂本弁護士殺人事件を起こしたのか。謎は解かれていない。問題はマスコミがやたら闇とか、神秘的な裏話、都市伝説をもとめて同じようなニュースをながすことに要注意である。こうした安易な行動が彼等を増長させた。彼等の幼稚な宗教論に始まり、実は、過去の歴史にに学べば簡単な話、誰でも組織の一員として取り込まれると悪を悪と思わなくなるという人間の本性からくるのだ。かつては連合赤軍、中学校の苛めなど皆同じではないか。その規模とか社会的インパクトが違うから違った様相になるだけである。カルトが社会化し、国家の規模にまで膨らんだ例は歴史に学ぶことができる。ナチス、かつての日本軍、今は北朝鮮がそうではないか。哲学者ハンナアーレントはナチスのメンバー、アイヒマンの裁判において、蛮行は現代人にいつでも起こりうることと看破した。

2.歴史に学ぶーナチスを真似たオウム

 しかし、歴史を遡れば、かつてのナチスが引き起こした戦争や強制収容所の事件などの想像を絶する行動にかなり似通ったものがあることに気がつく。麻原がナチスを真似たことは昔から言われているが、何処をどう真似たのか。独裁の仕組みは北朝鮮も同じで,彼等のお手本もナチスだろう。ナチズムは成功例ではない、大失敗政策なのに未だに真似るというのはどういう訳であろう。歴史に学ばない悪例である。

 実際ナチスの仕組みや、行なっていたことは多くの研究があり、教科書程度の知識では分らない。彼らは国家を乗っ取るのに時間もかけ、実に巧妙、緻密に巨大な組織を作り出した。教団はナチスの人事構成などを参考に省庁制といった階層的組織を築いたのであろう。過剰な義務とか責任、そして弱者への容赦ない攻撃が組織論理であった。それが大失敗であったことは見なかった。キエフのBaby Yarで10万人のユダヤ人を銃殺したことで起訴されたナチス親衛隊アインザッツグルッペン幹部24人の死刑執行が4人ほどだったことに比べて、オウム殺人犯の死刑が13人というのは随分多いような気がする。もっとも、ナチス占領地でのユダヤ人殺害の実行者は殆どが、地元協力者や補助警察官だった。このような情報は、多少踏み込んだ書物を読まないと分らない。

 どこを真似したのかであるが、彼等が学んだのははナチスの犯罪的な部分であり、ろくなことではない。これはもともと、松本が犯罪者だからである。サティアンという収容所で電気炉を使って遺体を焼却し、証拠隠滅をはかった事でも共通している。ナチスは当初、収容所の遺体を穴に埋めていたこともあるが、ドイツの敗戦を感じ始めたころから、高性能の焼却炉を死体を焼く為に特注し、アウシュビッツには70基ほどあったという。既に埋葬していた大量の死体も焼却した。記録映画で見るダッハウにあるような小規模なものではない。ビルケナウのクレマトリウムという巨大施設であり、多くの証言がある。これを製作した会社も分っている。もちろんユダヤ人を抹殺しようとしたチクロンBもチフス対策の害虫駆除のためではない。一度に何万人も殺せる量をきちんと計算してIGファルベンに発注している。ところが、ソ連軍が侵攻したときには破壊されて無くなっていた。証拠隠滅に熱心に取り組んだ事も似ている。
  
3.カルトとしてのナチス

 ナチスも一種のカルトであった。はじめは軽蔑していた既存勢力は、彼等が力を得るにつれ、上手く利用しようとしたが、想像を超える悪辣さに既存勢力も巻き込まれた。そうした姿がルキノヴィスコンティ監督の作品「地獄に堕ちた勇者ども」に描かれている。その中心はもちろんヒトラーであるが、そのナンバー2のヒムラーも相当アブノーマル男であった。これをパワーアップしたのがゲッペルスであり、彼等はアメリカの分析では知能指数も高かった。彼等を軸に、ゲーリングさらにボルマン、ハイドリッヒといった悪漢が加わり、巨大な暴力的官僚システムを作り出した。階級社会であるドイツにナチスが浸透することは協力者がいないとできない。貴族から庶民、子供に至るあらゆる階層に浸透するシステムを構築し、産業界も公共投資などで潤ったため、嵌ってしまった。戦争経済で多くの経営者が潤ったのである。シンドラーのリストではユダヤ人を救う話になっているが、実際彼の会社は収容所からの安い労働力で維持されていたのである。アウシュビッツの隣にIGファルベンの工場があったことは象徴的である。敗戦時までドイツの生産力が落ちなかったのはそうした奴隷労働が寄与している。

 あの村井をヒムラー、上祐をゲッペルス、早川をボルマン、新実をハイドリッヒ、医師の遠藤をメンゲレに例えたらどうだろうか。輸送担当の車両省大臣平田はアイヒマンといったところか。潜伏16年というのもそっくり。内部ではナチスもそうだが、激烈な競争や勢力争いがあったに違いない。そうなるように麻原と家族を中心に縦割りの組織を構築した。オウムがマスコミに出るようになってから、便乗するような学者がいた事も記憶に残る。彼等は殺人をポアといっていたが、ナチス幹部はユダヤ人絶滅とか抹殺とかいった言葉は一切使わなかった。ヒトラーもヒムラーも人前ではユダヤ人を殺害する話はしなかった。身内でも、ヒムラーがユダヤ人をアウシュビッツで何人始末したかをヒトラーに報告した時、側近のボルマンはそんなことを口にするなとたしなめたという。最終解決とか、移送ということがユダヤ人の死という意味であった。そうした言葉の使い方もそっくりである。組織悪の研究をしっかりしているのである。今でも、ホロコーストは無かったという説を持ち出す人物(イランの大統領)が出る理由はそこにある。実際、サティアンで何人が殺され、処理されたかは不明で、地下鉄サリン事件後に突入した警察官の話を実際に聞いた事があるが、かなりの人骨があったそうである。
 
ー親衛隊員アイヒマン中佐ー
 
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4.官僚制度とアイヒマン

 アイヒマンはその中で、歯車になった官僚にすぎない。ところが、この命令に忠実、糞真面目な官僚がまるで悪魔の仕業のように残虐な結果をもたらしたのである。ユダヤ人絶滅の首謀者の1人であったアイヒマンがアルゼンチンで逮捕されたのが1960年、その翌年アイヒマン裁判というのがあった。この裁判によってイスラエルのホロコーストに対する姿勢が変わった。イスラエルはワルソーゲットーでのユダヤ蜂起を絶賛し、それまで、収容所に従順に送られていたユダヤ人をイスラエルは不名誉な事として、むしろ国民には隠す方向だった。それが、このアイヒマン裁判とその死刑執行によって、イスラエルの建国理念にホロコーストからの出発という概念を取り込んだ。その意味において極めて政治的な裁判であった。

 イスラエルにおける裁判の過程で描き出されたアイヒマンの人間像は人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む、一介の平凡で小心な公務員の姿だった。彼はその意味では怪物ではなかった。まさにあの忌まわしいホロコーストは人間の仕業なのであった。普通の人間が何故あのようなことが出来たのか、原因を追究した。

 ーイスラエルでの裁判中のアイヒマンー
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「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか?  それとも、家族の誕生日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか?」という疑問が提起された。これに対して、実験心理学の実験ーアイヒマン実験(ミルドマン実験)が行なわれた。実験者AはBに対し、質問をする。答えられない場合、別の部屋にいるCがBに電気ショックを与える。本当はこれは演技で電気は無く、Bはわめいたり苦しんだりするのである。段階的に電圧を上げて行き、危険なレベルと分っていても一定の条件であれば構わずに高圧電流を流し続けたのである。その結果、人間は一定の条件、無責任、強い命令のもとでは残虐行為を平気で行なえる事が立証された。

 しかし、実験と違いアイヒマンは自分の昇進のため、常に命令を求め、それを忠実に実行することを生き甲斐にのし上がって来た。敗戦が近づいていることがわかっても続け、証拠になるような写真を一切撮らせなかった。それは、単なる命令に従っただけの人物であろうか。結果も理解した上で命令を待っていた。証言では500万人を移送したそうであるが、この犯罪者の自慢は信用出来ない。

 彼はアウシュビッツで何が行なわれているか、彼の決定だけではなく、自分が勤しんでいる仕事が何百万人もの命を奪う事も知っていた。彼は、ハンガリーで戦争末期でもう移送が出来なくなった状況でも、真冬に徒歩で収容所まで180kmも歩かせ、移送中に多くの犠牲者を出した。犠牲になった人間の生命、苦しみ、感情を全く無視する事が出来たのである。そうした意味においてモンスターであったが、誰でもそうなりうるという事でもある。

5.誰もがモンスターになりうる

 何処にでもいる青年や女性が、オウムという組織の中で反社会的、さらには悪魔の仕業をやってのけたことはまさにナチスという組織犯罪と同じである。その組織にいて一定の役割を果すこと自体が犯行のひとつである。しかし、その社会学的、心理学的分析は殆どなされていない。マスコミはオウム事件を一宗教法人の犯罪として捉えて、興味本位に解説する。このことは日本社会においても同様で、官僚制度がリーダーの誤った政策によって、とんでもない結果をもたらすということである。そこでの因果関係が再発防止のために学習すべき事で、これは法律や裁判では分らない。一定の条件があれば誤った政治が行われる事を日本人も例外ではないことを学ぶべきである。北朝鮮は70年前の日本そのものであり、いつでも日本にも起こりうることである。重要性に気がつかないだけである。


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(WIKIPEDIA ミルドマン実験より引用)
 実験の略図。被験者である「教師」Tは、解答を間違える度に別室の「生徒」Lに与える電気ショックを次第に強くしていくよう、実験者Eから指示される。だが「生徒」Lは実験者Eとグルであり、電気ショックで苦しむさまを演じているにすぎない。
被験者たちはあらかじめ「体験」として45ボルトの電気ショックを受け、「生徒」の受ける痛みを体験させられる。次に「教師」と「生徒」は別の部屋に分けられ、インターフォンを通じてお互いの声のみが聞こえる状況下に置かれた。そしてこの実験の肝とも言うべき部分は被験者には武器で脅されるといった物理的なプレッシャーや、家族が人質に取られているといった精神的なプレッシャーは全くないことである。
参考;http://hikarinowa.net/kyokun/generalization2/psychology1/03-2.html
「教師」はまず二つの対になる単語リストを読み上げる。その後、単語の一方のみを読み上げ、対応する単語を4択で質問する。「生徒」は4つのボタンのうち、答えの番号のボタンを押す。「生徒」が正解すると、「教師」は次の単語リストに移る。「生徒」が間違えると、「教師」は「生徒」に電気ショックを流すよう指示を受けた。また電圧は最初は45ボルトで、「生徒」が一問間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げていくよう指示された。
ここで、被験者は「生徒」に電圧が付加されていると信じ込まされるが、実際には電圧は付加されていない。しかし各電圧の強さに応じ、あらかじめ録音された「『生徒』が苦痛を訴える声」がインターフォンから流された。電圧をあげるにつれて段々苦痛のアクションが大きくなっていった。また電気ショックの機械の前面には、200ボルトのところに「非常に強い」、375ボルトのところに「危険」などと表示されている。これは記録映像を見ればわかるが、音声はまるで拷問を受けているかの如くの大絶叫で、生徒のアクションはショックを受けた途端大きくのけ反る等、一見してとても演技とは思えない迫力であった。
75ボルトになると、不快感をつぶやく。
120ボルトになると、大声で苦痛を訴える
135ボルトになると、うめき声をあげる
150ボルトになると、絶叫する。
180ボルトになると、「痛くてたまらない」と叫ぶ。
270ボルトになると、苦悶の金切声を上げる。
300ボルトになると、壁を叩いて実験中止を求める。
315ボルトになると、壁を叩いて実験を降りると叫ぶ。
330ボルトになると、無反応になる。

被験者が実験の続行を拒否しようとする意思を示した場合、白衣を着た権威のある博士らしき男が感情を全く乱さない超然とした態度で次のように通告した。
続行して ください。
この実験は、あなたに続行して いただかなくては。
あなたに続行して いただく事が絶対に必要なのです。
迷うことはありません、あなたは続けるべき です。
四度目の通告がなされた後も、依然として被験者が実験の中止を希望した場合、その時点で実験は中止された。さもなくば、最大ボルト数として設定されていたXXXボルトの電圧が三度続けて流されるまで実験は続けられた。ちなみに死にいたる感電では重要なのは電流である。電圧ではいくらいくら高くとも通常死ぬことはない(スタンガンなどは数万ボルトから数十万ボルトである)。電流が1アンペア以上になると危険であり、通常のコンセントの100ボルトでも感電死する。




http://www4.dr-rath-foundation.org/japan/chemnitzprogramme/chemnitz07.html より引用

ニュールンベルグ裁判により、IG ファルベン社はバイエル社、ヘキスト社、BASF社に分割された。今日、IG ファルベンから分岐したこの3つの会社は、その親会社であったIG ファルベン社が絶頂期であった第二次世界大戦の最後の年1944年の規模より各々20倍も大きくなっています。さらに重要なのは、BASF社、バイエル社、ヘキスト社の最高職である各社の取締役会長の座がナチス党の元党員によって第二次世界大戦後30年間にわたり占められていたことです。

1974年までBASF社の取締役会長を務めたカール・ヴルスターは、戦時中チクロンBガスの製造役員会の委員でした。70年代までヘキスト社の取締役会長を勤めたカール・ヴィナカーはナチス突撃隊の隊員であり、IGファルベン社の役員でした。70年後期までバイエル社の取締役会長を勤めたカート・ハンセンは「天然資源の獲得」部門における欧州占領の共同主催者でした。

このリーダーシップの下で、IG ファルベン社の子供達であるBASF社、バイエル社、ヘキスト社は、彼らの利益をバックアップする政治家を支援し続けました。1950年代および1960年代、これらの会社はBASF社の所在地ルードビヒスハーフェンの郊外出身の若い議員の政治家としての経歴に投資しました。彼の名は:ヘルムート・コール。1957年から1967年まで、若きヘルムート・コールは、ドイツ製薬化学産業カルテルの政治的駆け引きを行なう中心的な存在である化学工業協会の有給ロビイストだったのです。
by katoujun2549 | 2012-01-04 20:37 | Comments(0)