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半藤一利著「ソ連が満州に侵攻した夏」文春文庫1999年

半藤一利著 「ソ連が満州に侵攻した夏」文春文庫 1999年

 1945年8月9日、広島に続いて長崎に原爆がおとされた同じ日に、ソ連軍は満州に侵攻した。日本はポツダム宣言をその後受諾決定し、8月15日の玉音放送となった。ソ連の侵攻はあくまでも満州でのことであったから、日本が敗北を決定的に感じたのは広島,長崎の原爆であっただろう。半藤氏はこのポツダム宣言受諾の経緯は日本のいちばん長い日(1965年)に書いており、本書では、むしろ、ヤルタ会談からポツダム会談に至るスターリンに対する連合国の緊張感溢れる戦後処理に関する条件交渉の模様が詳しく書かれている。ソ連軍の満州侵攻はヤルタ会談で既に決まっていた。ソ連自身もこの時期には原爆製造は進行中であった。ポツダム会談で開発の成功をトルーマンから告げられた時、その事もスパイの情報で知っていた。彼は原爆が大戦の終結に決定的であることを理解し、満州侵攻を予定より早めたのである。スターリンはまるで悪魔のように、世界の成り行きを見通していた。彼は大戦後のアジアが米英に独占されることを恐れた。ポツダム会談ではトルーマンに北海道の留萌から釧路に至る北東側を要求し、侵攻するつもりもあった。しかし、南樺太と千島の占守島での日本軍の激烈な抵抗にあい、断念したのである。

 私の叔母の夫は、シベリアに抑留され、戦後20年以上も行方不明者であった。旧制中学教師であり、軍人ではなかったが、捕虜になり、抑留された。ハルピンで叔母と従兄弟達は家族の柱を失っただけではなく、満州から決死の思いで逃避行を続け、ソ連軍が進駐する中を引き上げてきた。叔母は日本人が機関銃で撃たれ、蜂の巣のようになるのを目撃している。教員だった彼が何故抑留されたのかは、この本で明らかになった。ソ連軍は捕虜の数が不足すると、あたり構わず、民間人を捕えて、数合わせした。その被害者になったのだ。また、自分に身近なところに、この惨禍に会った人がいる。ある時、剣道部の70過ぎの大先輩が、牡丹江からの引揚者であることを話された。それに同情したつもりだったのだが、一般住民に対して、ソ連軍の侵攻を察知して軍人の家族が真っ先に逃げて、開拓民が悲惨なことになった話に憤慨した。よく生き残れましたねと言ったら、実は自分と家族は真っ先に逃げた方ですと告白され、返す言葉を失ってしまった。この手の話は気をつけなければいけないと思った次第。誰もが生きる為には必死であったし、自分が決定した訳でもない。軍部の無策と本来の責務放棄が原因である。

 軍部はソ連が満州に侵攻しようとしていた事を知っていた。日本の弱みに付け込んだ火事場泥棒とソ連を罵る気持にもなるが、これは真実ではない。知っていたにも拘らず、この現実に目をつぶり、満州開拓民を見殺しにした。あの国土を焦土として抵抗したナチスドイツですら、東プロイセン(ダンチヒやケーニヒスベルグ)の住民200万人をヒトラーの命令を無視して、ドイツ国内に海軍を総動員して避難させた。日本の軍部は満州開拓団を自分達の盾に使った。これは沖縄でも見られたことで、当時の軍人がいかに堕落していたかを思わせる。この辺りを歴史修正主義者はどう見るのか。

 メドベージェフが戦争終結は9月2日のミズリー号上での降伏調印であるというのは根拠が無い訳ではない。ソ連軍は満州侵攻で8000人も死んでいる。日本軍は7万人が戦死したのだが。日本軍の停戦命令が届かなかった部隊は8月末、所によっては9月に入っても戦った。特に、ウスリー河沿いの虎頭要塞、猛虎要塞などの要塞群には40㎝の巨砲もあり、果敢な抵抗を続けた。弱体化した日本軍70万人に対するソ連軍は独ソ戦の歴戦を経た157万で圧倒的な戦車、航空機、重火器を保有していた。ソ連がこれだけ圧倒的な兵力をシベリア鉄道で運び、前線に配置したことを軍部が知らない訳は無い。見て見ぬ振りをしていたのだと思う。それは都合の悪いことは無かった事にしようという誠に奇妙な思考方法がまかり通っていたのである。

 スターリンは満州を支配し、ソ連が独ソ戦で受けた損失を埋め合わせるために捕虜の強制労働と資産の没収を計画的に行なった。今の北方領土問題もこの満州侵攻と千島占領がどのように行なわれ、国際社会において、何が決められたかを国民的な知識として共有していなければならない。そこに当時の政府の国際感覚の無さ、情報の不足が招いた悲劇を学ぶ事になる。今なお延長線上にある現実を見ることになるだろう。だから、国はあまり知られたくないのである。

by katoujun2549 | 2011-01-04 22:42 | Comments(0)