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J.ダワー 敗北を抱きしめて 上

 本書は03年ピューリッツァー賞を授賞した上下2巻からなる終戦直後の日本の状況を描き出した秀作である。天皇制軍事国家であった日本が、8月15日を機に一気に民主主義国家に変貌して行く姿をアメリカ側の資料も駆使し、さらには当時の日本文化、太宰治や坂口安吾などの小説家も含めカストリ文化とも言われる世相を病出している。猥雑な焼け跡闇市の世相を日本人に思い起こさせる作品。米国のイラク侵攻後のイラクの民主化が、不成功であり、イラク侵攻の意義が否定されている今日、この本の意味は何処にあるのだろうか。アメリカは日本の占領を成功ととらえ、これを参考として軍事占領が民主主義や社会の安定をもたらすと考えた。ダワーの「敗北を抱きしめては」2001年に書かれたが、まさにその米国の侵攻後のアメリカ国民に、占領の成功がどのようになされたかを示し、民主党の考えについては警鐘を鳴らす目的があったのだろう。この本はアメリカ人が日本占領が、日本人にどのような変化をもたらしたかを、驚きとともに、民衆の視点を詳細に記録している。この見方は、驚く程、自分の戦後記憶と合致している。恐らく、朝日新聞が、戦後の報道姿勢が、アメリカ軍政を代弁する傾向があり、自分も、子供の頃から家の新聞を読んでいたせいだと思う。第1部は1945年から1947年に日本社会が戦前の軍国体制から大転換し、民主主義と言論の自由、マッカーサーによる制度改革のまっただ中にあった日本の姿を説明している。著者にとっては米軍側の資料が容易に手に入るから、様々なエピソードが日本人には気がつかなかった視点から掘り起こされている。半藤一利の昭和史にも書かれていたが、米兵の日本人女性に対する危害を防ぐために、大森に米兵相手の売春宿を急遽作り、3000人程の女性が集められたが、このために、梅毒や淋病が蔓延し、彼女の8割が性病感染者になった。そこで、米軍はペニシリンを日本に大量に送った。そのために日本のペニシリン供給量は戦後の困窮にも関わらず欧州等に比べて普及が早かったといったことである。何故か、アメリカ人ときたらセックスマシーンのような連中と勘違いしていたのは、戦争指導者たちだった。成功したのは疑似恋愛付きのパンパンだ。実は、自分達がそうなのだ。昔の一般日本人男性は女性をセックスの対象としてしか見ていなかった。彼らは少し金が出来ると妾を持った。庶民もそうだったし、軍隊では略奪暴行は、特に、中国で日常茶飯事だった。彼らは自らを鏡に写して恐怖した。皇軍の実態はあまりにも美化され、実態とかけ離れたものだ。その目論見は必ずしも的を得なかった。半年で大森は閉鎖された。失敗ということだ。かつて日本が開国の時にも同じことがあった。唐人お吉といわれた下田のハリスにあてがわれた女性は実はアメリカ領事館では女中に過ぎなかった。ハリスは厳格なクエーカー教徒であり、まるで石部賢吉、鼻の低いモンキーのような女性には興味が無かった。その当時の幕府の役人並みの知性の持ち主が当時の日本のエリートだった。勿論論語は読んでいただろうが、アメリカ人に関する知識はジョン万次郎以下。
 ダワーは日本のエリート、GHQ、民衆の各層にわたる終戦時の行動を描いている。アメリカ人らしい民主主義観や政治論を批判されるかも知れない。偉そうな日本の進歩的文化人の民主主議論や戦後社会の解説はこれを越える内容ではないと思わせる。これほど、米国人からヒューマンな目で、日本人が穢れのように隠していたことがあからさまになることに不快感を持つ向きもあろう。学問的な背景もしっかりしている著者が、焼け跡にもがく日本人の姿を描いた作品は歴史書としても、また、ノンフィクションとしても希有な内容である。ジョン・ダワー (John W. Dower,1938年-) は、米国のリベラル派の歴史学者である。専攻は、日本近代史。妻は日本人。
彼はロードアイランド州生まれ。アマースト大学卒業、ハーヴァード大学で博士号取得。
アマースト大学時代はアメリカ文学を専攻していたが、1958年に来日し金沢市滞在を契機に日本文学に関心を移し、ハーヴァード大学大学院に進学後、森鴎外の研究で修士号を取得。その後、アメリカ空軍勤務や、金沢女子短期大学の英語講師、出版社編集助手を務めた。帰国後、博士課程では日米関係を専攻し、後に刊行される『吉田茂とその時代』の前半部分に相当する戦前の吉田茂の研究で博士号を取得した。現在、マサチューセッツ工科大学教授。彼の卒業したアマースト大学はアメリカのリベラルアーツ部門では常に一位のランキングの学校で、これ程の学校が日本人には知られていないいことが不思議だ。
 8月15日の民衆の反応を日本人以上に活写している。新聞や日本のメディアは紋切り型のその日の状況しか何故か伝えない。人夫々の8月15日がある。自分がある老婦人から聞いた8月15日の様子を記そう。Yさんはかつて市ヶ谷大本営の職員であった。8月16日に市ヶ谷の駅から職場に向かう途中、外堀から今の防衛庁に向かう橋の上に、一人の老女が立っていた。頭の髪はボサボサで、何やら大きな声でわめいている。大本営に向かって叫んでいたのは、自分の息子のことであった。そして、彼女には3人の男子がいたことが分った。そして、大声で、私の子供を返せーと叫び続けていた。彼女の3人の息子全員が戦死したのだ。Yさんはその悲痛な声を背中に、終戦直後、事務の後始末に大本営に向かって歩いて行ったが、その声が市ヶ谷の駅に立つと頭の奥に響いては離れなかったそうだ。民衆の声を当時のエリートも、マスコミも何処前真摯に受け止めていたのだろうか。焼け跡、闇市、猥雑な日本文化の渦の中で、そうした声は小さくなって行った。靖国神社が悲しみの老婦人代表していると考えることは到底出来ない。この本では確かに、アジアの視点や朝鮮半島における米国の冷酷な政策について触れていないことを批判する向きもあるが、そうした批判者のある種の「悪意」こそ問題である。

by katoujun2549 | 2010-06-13 21:21 | 書評 | Comments(0)