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介護給付 現金給付はありうるか

介護保険について現金給付はあり得るか
 
 要介護者を抱えた人物のぼやきととってもらってもよい。国民経済における影響を分析するまで論陣を張るような知識は無い。そこまで言わなければ国民としての要求をするなという事でもないだろう。でも、現金給付は万能ではないが、大事なポイントだと思っている。福祉には現金給付は結構ある。失業給付金とか、障害年金(審査が厳しい)、住宅改修補助金、自治体の障害者給付金、給食費補助、お襁褓補助なんかもそう。でも、申告しなければ出ない。しかも、使いづらい。自治体の福祉課等の職員はこうした給付制度を実は説明できるほどは、ほとんどの職員が知らない。それはいかに使われないかだ。選挙対策で打ち上げたが、結局使われないものもある。例えば、中野区では低所得者(中野区では区民税144,000円以下だから、ハードルは低い)には訪問給食代550円以上が補助されるが、高齢者でそんなに昼飯は食べないし、供給業者の単価もこんなに高い昼食代の業者は無い。
 手続きも面倒なものが多い。小生はその辺抜け目無いように活用しているつもりだ。現金給付は、目的と範囲、アセスメントをきちんとしなければ、まさにバラマキだ。
「老人介護」に望まれる「要求項目(ニーズ)」は、「質も量も千差万別」だから、統制的な内容では目的を達成しにくい。これを管理する社会的コスト(ケアマネ、地域支援センター、自治体職員の養成)もあり、細かくすればする程限界コストが上昇するだろう。「公的介護保険制度」は、財務的な裏づけは「自己負担+介護保険+税金投入」の「財源のマダラ模様」であることは健康の自己管理や在宅療養も含め、健康保険も同様である。
 「ヨメを介護から解放する!」ことを目標とした「介護の社会化(第三者の関与・分担)」にしても「現場の介護の担い手」も家族と介護事業者の「現場の担い手のマダラ模様」(中途半端な社会化)であるが、福祉はさらに立体的にしてほしい。ヨメの介護や家事を金銭換算した分析とか、費用化もせずに、これまでの地域介護のコストで算定しただけではないのだろうか。教えて頂きたいし、反論を期待する。

 医療と介護の交流、競争、ヘルパーの人材確保、国際化、ボランティアの養成など。問題点が揃っている。制度的な面で現物給付だけでは対応できないという事である。現在でも、住宅改造は現金給付である。  顧客満足度に優先する財務当局からの支出抑制圧力が恒常的にある。このことを今日の介護保険制度の中で、当然の事にしてしまうのは良くない。福祉だけではなく国家全体の問題だから他の財源との優先順位の検討が必要だ。確かに、発足当初の2倍の財政支出となっていることは異常な事だろうか。これからもっと増えて行く。それに見合う税収が無い事や他にいい加減な支出があることが問題なので、高齢者福祉の社会的コストは合理的現実だろう。「公的資金投入」はサービスの「標準化マニュアルに基づくゲートキーパーによる恣意による裁定」という「ニーズの足切り」をせざるを得ない。不可避的な「選択可能なサービスのメニューと提供レベルのマダラ模様」ではなく、需給ギャップやニーズとの差にすぎない。だから、制度発足してから10年経った時点でのアセスメントをして初めて議論すべき事ではないか。様々なニーズを受給者が勝手に要求することで合成の誤謬になることを想像する人もいるが、現物給付でも今のようにケチケチ給付ではそんな事になる以前の段階だ。合成の誤謬がおきたらすぐにでも訂正できる事ではないか。

 ドイツの制度は日本が参考にしたが、現金給付に関しては日本は全く論外の扱いだった。ドイツの福祉はビスマルクの社会政策の基盤が今も残っており、福祉施設の量とか都市等の社会資本のレベルが日本とは違う。03年に小生がベルリンで見学したが質的には日本と良く似ていて大した事ない感じがした。むしろチェコやウィーンの方がよかった。だから、ドイツは、家族介護を軸とするように転換したいというお国の事情もある。
「ドイツの5つの失敗」という現象を経験したがその背景をもっと見るべきだろう。(多かれ少なかれ日本の「現物支給方式」でも起こっている項目でもあるが。)
1.実態にあわない低すぎる給付額という指摘
 施設介護と家庭介護の比率が日本とは違う。日本は圧倒的に家庭の主婦にや家族に負担がかかっ ている。ドイツは被介護者の幸せは何かという国民的コンセンサスから家庭介護を優遇する事に した。低すぎるかどうかは日本では分らない。誰でも充分とは言わないだろう。
2.軽い介護の人を対象外にする
 日本では、財務省からの圧力から、要介護認定をひごろ関わりのない役所側のケアマネが介護保 険で認められる介護を限定する。要介護者との癒着を避けるためだろうが、官というのはこんなところに良く気がつく。自分達が癒着の温床だからだろう。
3.過酷な要介護認定
 日本の基準から見て過酷というのは、認定するケアマネや福職員の権限が強く、また、給付した 現金に対するチェックも厳しいからそうした評判になる。
4.現金給付が引き起こすモラルハザード
 ドイツ人は巧妙なモラルハザードを考えるから油断も隙もできない。陰険な連中もいる。
 しかし、ナチス時代から、地域の監視が厳しく、お節介とやっかみも露骨にある。窓辺が汚いと隣が文句を言ってくる。供給側も健康保険等わざと高齢者が来ないように受付を階段の無いビルの3階に置いたりするから、どっちもどっち。「介護給付が家族の生活費などに使われている」、「老人が家にいると現金が入るので施設には入れないといったことは、そもそもの現金給付とは裏腹だから予測の付く事。
「ドイツの介護保険は、全国に現金をばらまく壮大な『お手当て配り制度』になってしまった」、が、現金給付は現物給付の額の半分であるため、十分な介護をする余裕はなく、『殴る、蹴る、縛る、介護放棄する』という家庭内の老人虐待の温床になった」といった批判は、そもそも、昔からあった。今の日本でも痴呆高齢者のケースが多いが解決されていない問題。(結局、後追いの保険料値上げ、公的支出の増大で糊塗して行くことになるという指摘については、これが解決できれば完璧に近い。)
5.スゥエーデン
「高負担高福祉」のモデルであり、「介護の高度な社会化」を目差したスウェーデンはどうだったろうか。約925万人というコンパクトな人口を言い出したら問題が道州制まで拡散する。1992年に導入された「エーデル革命」が大失敗だったかは今の結論であって、制度が無駄とは言っていない。制度は18年もすれば問題が出てくる。彼らもそれに気づいて改革しようとしている。発足当時、医療との連携が旨く行かず、制度の谷間のなかで、施設が減少し、人不足や老人の孤独死が問題になった。しかし、今なお介護サービスのきめ細かさとか、額の大きさは飛び抜けている。次元が違う。
 
 しかし、モラルハザードは個人主義的な社会ではいつも起きる事だし、日本だって起きている。逆にこれが起きるくらい普及しなければ意味が無い。スゥエーデンはフィンランドも含め、以前国民の高負担が市場主義者の攻撃の的だったが今や、こうした負担を抱えながら、国民の幸福度、経済成長、世界政治への影響も含め、世界でトップクラスだから日本は何も文句をつける資格は無い。教育も含め、日本がスウェーデンに学ぶことは多い。「現役世代の税金の高負担」という原則が国民的コンセンサスを得ているのは何故かだ。日本では無理なのか、目標として旨くいっているところをモデルにするのを人口だけを比較して嘲笑する人がいる。人口約925万人程度という「大東京圏人口」の1/3以下という「国のコンパクトさ」の差が効率的なら、道州制も含め、行政、福祉に関しては広域的に考える必要があるという意味で答えが出ているということでしょう。
 福祉が市場経済になじまないのか。それは介護保険上の福祉だけを見ているからではないか。福祉を受ける、家族も含めた人々の消費力とか、医療産業、健康産業、福祉機器製造業といった部分も入れて経済効果も考えたい。しかし、基礎資料が無いから結論が出ない。現物給付というサービスの供給制限をしておきながら企業に「やる気」を出せというのは無理だ。車いすに参入するメーカーだって保護されていて自由ではない。なんだかんだと規制が多いみたいだ。国内産業の保護もこれまで日本の介護事業に協力してくれた(というのは官僚に対してだが)日本の弱小メーカーを保護して上げたいのだろう。とにかく、外国製品はちょっとデザインや性能がいいと日本製の3倍くらいになってしまう。外国のメーカーは国内ではそんな価格で供給していないから首を傾げる。そんな状態の中で「企業としての動機(収益機会への期待)がない中では、リスクテーク(資源の投資)は行われず、結果としてデマンド側にとっての選択肢も増えない」 ということを先に結論を出す段階では無いだろうと思う。医療だって情報の非対称とか、保険、税の投入といった不確定要因から、市場が成立しないから、経済学になじまない部分はあるが、製薬業や医療産業全体確実に成長産業ではないか。医療は死にそうな人間を財政負担を理由に治療中止にする訳にはいかない。しかし、介護は出来るだけサービスをきちんと定義すれば予測可能だ。医療とはそこが違う。

by katoujun2549 | 2010-04-13 16:20 | 医療介護福祉 | Comments(0)