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復活について質疑応答:キリスト教徒のイースター

「友人の質問1:グノーシスは復活を否定している」

 高尾利数氏が「イエスとは誰か」の中で、「同時代(注:イエスの)のグノーシス主義においても、復活を文字通りの意味で受けとるものは『愚か者』であるといわれていた」云々とある。イエスの最後の言葉が普段使い馴れたアラム語(この曲でも原語のママ)になっているのが痛々しい。さぞや本音なんだろう(素人目には新約聖書のハイライト!あーあ言っちゃったよ。それを言っちゃあお仕舞い!とか?)。部外者(不信心者)からすれば「預言を成就する」なんて台詞よりは、よっぽど共感するがね…。マタイの福音書でも「復活」は最後に申し訳に付いているだけのように見えるから

「答え1;十字架のイエス」

 福音書は順序は逆だが復活の話から遡って書かれたと思う。だから、前の方でも信じなさいとイエスは何度も言っているが、これは復活の意味。福音書でいきなり出てくると戸惑うが。しかし、復活の記述は弟子達の記憶とか口伝をそのまま書いたから支離滅裂に見える。でも、そこにリアリティがある。エリ、エリ、レマ、サバクタニは多少違うがマルコ伝にもある。が他の福音書には別の言葉だ。でもこれは、イエスが最後に我が神全てを委ねますという意味で、どうしてお見捨てになったのですかという字面どおりには解釈されていない。4福音書で違っている所が面白いんです。

「質問2;復活はメタファーか」

 お袋が30年前、洗礼を受けた時(?)に確か「使徒信条」みたいなことを確認させられたと思う(堅信式?)。「天地創造」とかは地域的神話の流れとか「その宗教独特のカラー」として受け入れられる気がするが、日本人にとって(アウトサイダーにとって)一番高いバー(違和感?)は「復活の話」。これは「何かのメタファー」なのか、それとも、信者は「事実」として受け入れるべき必須の事項なのか?(「使徒信条」では要求されてるようだが…)。アウトサイダーには、新約の世界の「本質」のように見える。マルコには「技術的に難しい中で遺骸が無くなった事実」以外には本当に「復活」してガリラヤに現れたかどうか、白衣の若者の説明以外には後日譚はない(補遺にはある)。マルコが言いたいのは飽くまでも「メタファー」であるかも知れない。その意味では、マルコはマタイより正確・正直(現実的?)なのか。

「答え:グノーシス」

 グノーシスに関して先は答えます。これは1世紀から4世紀に流行った思想。マルキオンという学者が有名。物質と精神の二元論でマニ教もその流れ。復活の受け止め方が全く違う。彼らはイエスを実体のない幻のような存在にしている。イエスは肉体となってこの世に現れた歴史的存在と考えるのがキリスト教である。だから、に人間としての苦しみを共有し、霊的存在であり、それ故に神なのだ。

 キリスト教にとってグノーシスは生物の擬態に相当する。パウロが最も警戒を求めた異端。今の教会でも社会的地位や教養中心、儒教的階級意識が存在し、パウロが敵は内部にいると唱えた理由が分る。彼らが異端たるところはまさに復活の解釈。グノーシスは形を変えて教会内部ですら錯覚的な誤解を招いてきた。その流れを汲むと思うが、中世カタリ派は諸侯を集めローマ教皇に抵抗しアルビジョワ十字軍の大虐殺に至った。彼らは一種の神秘主義者で教養中心のエリートのみを相手にする。高尾氏は現代のグノーシスだ。学問の煙幕を張って福音の本質を曲げて伝える。日本人インテリに受けるが、信奉者には失礼、時間の無駄。小生の魔女狩審問官的見解かな?

「答え:復活について」

 マルコ伝は他の3福音書より先に書かれたという説が主流。脚色抜きのそのままのイエスの姿が読み取れるような気がする。実像は聖書しか情報が無い。
 常識的にはまともには理解出来ないのが普通。2千年前だってあり得ないと馬鹿にされた。だからパウロは信仰の愚と称した。使徒達もバカな話を伝える連中という事であんな変な奴皮剥いじゃえとか磔とか酷い殺され方。ローマでは二百年くらい女、子供、奴隷とかが信じてる困った宗教だった。パウロもギリシアの教養人間には全く伝道がダメで匙投げてる。復活に一番邪魔なのは教養だね。信者である自分も正直なところはっきり分かる話ではない。弟子達ですら茫然自失した様が書かれている。皆何事か分からなかった。福音書によって違う記述にリアリティがある。心の中に起きた事かもしれない。聖書は何も物理法則を説明している訳じゃないから、これでよい。仏教の仏様の変化だって見えるわけじゃない。これはメタファという大雑把な概念から一歩進んで信仰というものだね。弟子達はその後変身(変心?)する。これを伝えるためトマスとナタナエルはインド、ヤコブはスペインにまで行き、ヨハネ以外はパウロ含め全員殉教した。これは伝承ではあるが、夢とかメタファでは不可能。原始キリスト教会の歴史はこの現実から始まった。信仰は読んだだけでは生まれない。信仰サクラメント、洗礼、聖餐、礼拝を通じて育てる。だからこれを基盤に2000年教会が存続出来た。ただ聖書読んでるだけでは続かないし、だいいち、昔の人は聖書は読めなかった。
 
 じゃあ君は復活を信じているのと聞かれたら、Yesと答えるよ。答えるしかないという事だね。事実として確かめるという以前に信じる事にしたのです。そもそも、事実は確かめようが無い。信仰とは未だ見ぬことを信じることだとパウロも言っている。見ても信じない人は信じない。鳩山さんがよく言っているが、仮定の話は止めてください。答えません。
 自分の認識できる世界なんぞちっぽけなもの。五感と脳と脳幹で感じた世界に過ぎない。これで満足している。この世は宇宙の出来事のひとつだが、昆虫より多少ましな自分が描く世界なんぞ、嫌になるくらい貧弱なものだ。意識だって豚とたいして変わらん。美味いもの食いたい。たっぷり昼寝したい。餌をくれるならしっぽ振るよ。本は読まんが。山の大木の方が何百年も生き、世界を見て自然を知っている。

 このつまらん世に見切りつけたような気持ちかな?信じてみると不思議な事が色々ある。まず聖書が昔より理解出来た。聖書というのはまさに信仰者のための本だね。イエスが信仰しなさいと言ったものが何かだ。復活 という霊的世界観。 何度も繰り返すが、自分は霊の世界を教えに来たので、政治家ではない。自分の常識捨てるのは嫌だよな、誰だって、でも電車に飛び込むより遥かに楽。不思議な事に捨てると逆に欲も出る。他人のものも見える。よくいう生まれ変わるということだ。しかし、自分と他人、他者を意識する自分スミスの道徳情操論の世界。世界は神の築く構造の中にあって、それぞれが目的を持って意志に従い生きている。ネズミだってそうだ。命はたまたま自分が預かったもの。子孫に引き継ぎ、他人の命を尊重する。自分は命を支配しているのではない。と考える方が全て治まる。





『 Wikipedia  グノーシスから 』
グノーシス主義は、エジプト、シリア、パレスティナ、小アジア、ギリシア、ローマなどで興隆した「西方グノーシス主義」と、イラン、メソポタミアなどで成立した「東方グノーシス主義」の二つの大きな宗派に分かれる。これらの宗派は、より多数の宗派に更に分岐するが、地理的な差異以外に、救済思想・神話構成においても、区別が存在する。
「西方グノーシス主義」
ウァレンティノスの宗派が代表的であるが、グノーシスの立場に立つ者と、そうでない者を峻別し、宗教原理よりして、グノーシスの立場に立つ者は、禁欲を旨とし、世俗的な快楽を避け、生殖に通じる行為を一切してはならないとした。新プラトン主義の哲学者であるプロティーノスの「一者」よりの流出説を採択して、善なる永遠界は流出によって生じたが、その過程において「ソピアー神話」が示すような過失があり、この結果、「悪の世界=この世」が生まれたとした。
西方グノーシス主義は哲学的・思想的であり、信徒には高い知性を持つ者や、中流階級の者が多数属した。高潔な理想を説き、みずからも禁欲を守り、生殖を避けた結果、西方グノーシス主義は外部要因(キリスト教のローマ帝国での国教化等)以外に、内部の思想原理からしても、永続し得ず、4世紀から5世紀頃には、その宗派は消えてしまった。
「東方グノーシス主義」
マニ教が代表であるが、西方グノーシス主義諸派よりも少し遅れて興隆した。従って、西方グノーシス主義諸派の理論を取り入れる余地が多数あり、また、ペルシアのゾロアスター教などの二元論的宗教の影響の元にもあった。イラン、インドの古くから存在する神々やその神話をも取り入れ、グノーシスの立場に立つ者を二つの段階に分けた。これはマニ教に特有の信徒制度である。
創世神話においては、プロティーノスの流出説も採用しているが、ゾロアスター教の流出説も援用しており、その結果、絶対善が原初に存在したとするのではなく、善の原理と悪の原理が二元的に原初より存在したとする思想を持つ。二つの信徒階級を定めた結果、救済宗教として広く一般の人が入信することとなり、西方グノーシス主義の知的エリート主義を乗り越えることができた。生殖も一般信徒は可能であったので、宗教として永続し、マニ教は15世紀まで、マンダ教は、二千年のときを経過して、現在も存続している。
by katoujun2549 | 2010-02-16 14:42 | キリスト教 | Comments(0)