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聖餐について:未信徒の陪餐の問題

 近年、聖餐の乱れということがキリスト教会で問題となっている。その乱れというのは洗礼を受けていない礼拝参加者がパンと葡萄酒のサクラメント(秘跡)に預かる事を認める教会の事である。横浜の教会の牧師が開かれた聖餐ということで、受洗者との区別無く聖餐を行い、又、教団にこれを主張したため、教団総会で戒規違反で退任勧告されたことが知られている。この教会は、どのような経緯かは分からないが、未受洗ということで聖餐を受けられなかった中学生のことから、教会全体で自由聖餐をすることにしてしまった。その間一体どんな議論があったかは分からないが、何ともしまらない話だ。さらに、議決を導いた教団議長も乱暴な感じだ。一体今の教団の指導者の組織運営メンタリティはどうなっているんだろうか。牧師をもっと説得する過程があってもよく、そのような手段でしか教憲教規、聖餐を守れないというのは情けない。牧師はともかく、その教会員はどうなっても良いと言うわけではないだろう。また、その教会内部での議論の中で解決すべきだった。いくら何でも、教団の規定に違反している事を総会に持って来ても認められる訳が無い。皆で民主的に決めたからといって明らかに、憲法違反の事であれば、議会に出す前に罰するか、防止するのが組織というものではないでしょうか。
 日本ではクリスチャンは少数で、初めて礼拝に参列した方は聖餐の中で戸惑うのである。だから、この区別を厳格にしない教会は、不思議に礼拝出席者が多い。未受洗者にとって聖餐というのは差別されているような感じがあり、居心地の悪いものなのである。しかし、この部分は教会にとって妥協できない事であって、これを曖昧にした場合、礼拝の意味が損なわれ、おそらく、教会には未来が無いだろうと思う。キリスト教が2000年続いてきたことはまさに、この洗礼と聖餐を核に礼拝が守られて来た事による。原始キリスト教団の時代から、聖書正典が成立する以前から洗礼と聖餐は行われてきた。イエスキリストがまさにその秘儀において教会において臨在し、この体験よって信仰が守られているからである。洗礼と聖餐を曖昧にしている教会は長期的には信徒を失い、禍根を残すことになるだろう。確信を持ってその根本を踏み外す教会を導けないという教団の弱点を露呈したのではないか。その議論に関して、以下に整理する。






聖餐ということー赤木善光「なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか」教文館によると次のとおり。

1.未受洗礼者陪餐肯定の理由
 差別は悪だ、同じように礼拝に出席しているのに洗礼を受けているという理由で陪餐を許さないのは間違っている。洗礼と聖餐は無関係だ。受洗の有無は陪餐条件にならない。聖餐と愛餐を区別する必要は無い。必要な事は陪餐者相互の交わりであって、何を食べ何を飲むかという問題ではない。最後の晩餐のときですらユダはイエスからパンと葡萄酒を受けている。問題は救いを得ているかどうかで、その実感があれば信仰を得ているということで陪餐するのは当然である。問題は信仰を得て救われているかどうかだ。自分が信じている確信があれば聖餐を受けて良い。さらに、礼拝において区別する必要は無い。

2.未受洗者陪餐否定論
 サクラメントを定めている教会の伝統は聖書と同列ではないが尊重されるべきである。聖書か伝統かと二者択一的に考えるものではない。聖書は伝統と競合するものではなく、真理を生かすものとして存在する。未受洗者に陪餐を許さないのは区別であって差別ではない。信じる事も洗礼を受ける事も各自の自由意志によるもので、教会は一定の審査の後、洗礼を受ける事を奨励しているのだから、陪餐希望者は洗礼を受けるべきである。

 もし、未受洗者に陪餐を許すということは論理的に洗礼と聖餐は無関係で両者を切り離す事が出来るという主張、又は、洗礼否定論に結びつく。洗礼も聖餐もキリストの生と死にあずかるという意味において同一である。ローマ6-3〜4、Ⅰコリント10・16、12・13 洗礼とはただ単に入信の誓約や神への応答ではなく、キリストの死と復活にあずかり、キリストと共に死に、かつ、生きること、さらに、その連続している「キリストの体である教会」に組み入れられる事である。サクラメントという概念には「しるし」という意味があるが、洗礼も聖餐も単なるしるしではなく、恵みの手段である。一方において洗礼を執行しながら未受洗者にも陪餐をみとめるならば、首尾一貫しない。ユダも聖餐に加わったが、聖書はユダを正しいと認めていない。ふさわしくないままで陪餐してはならない。Ⅰコリント11:17〜34
「主の体のことをわきまえずに飲み食いするものは、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」という意味において裁きの意味もある。

3.未受洗者の陪餐を認める考え方の背景
 キリスト→イエス(兄弟愛と社会実践の人)、教会→イエスにに出会った人々の集まり、礼拝→キリスト教講演会、説教→話、洗礼→入会式、聖餐→愛餐、聖書理解→意味さえ理解すればよい→頭さえ使えばよい。こうした考え方はグノーシス的主知主義である。この傾向はキリスト教が異文化に接触したときに受ける試練である。未受洗者の思考方法に妥協したもの考え方と言える。教会の外部世界への妥協を容認した思考方法といえる。個別の教会に孤立したプロテスタント教会が陥り易い誘惑である。これに対して、キリスト教の聖餐というのは具体的なものである。信仰は内的なものだが、外的なものが不可欠であり、聖餐の秘儀性を伴い、キリストの実在を聖餐において実体験し、キリストにあずかるということである。

 以上の聖書と教会理解により、聖餐は洗礼と一致し、未受洗礼者は陪餐すべきではないと思うが、実際にこの問題に関しては、我が国のキリスト教会が、圧倒的な異教世界のなかにあるという前提で、礼拝における我が国の伝道的な手法に関しては、再度研究する必要があると思う。それは聖餐を尊重することから、更にそれを徹底する方向で行われるべきである。例えば、カトリックのミサにおいては聖餐時には受洗者は最前列に出て、神父から聖体を受けるもので、むしろ、プロテスタントよりきちんと位置づけている。形式として葡萄酒は神父が飲むもので信徒はパンのみである。むしろ、聖餐時の未信徒との区別が徹底されていないところにこの問題が発生する隙になっているのでないか。その区別は司式者が言葉で説明する方法も含めて日本人の感性を考慮して語られるべきである。日本人の神道や仏教では式典での差別が階層の上下という感覚で行われる。区別は上下ではない事を説明する必要がある。欧米では、未信徒が存在するが、国民の多くが信者であることがむしろ一般的である。しかし、日本では一歩教会を出ると、周囲は未受洗者、異教徒で満ちあふれている状態である。教会に来る求道者というのは実は圧倒的多数派から導かれたのであって、教会員の方が少数派である。自分も聖餐にあずかる権利があると潜在意識のうちにあるとすれば、求道者からみてこれを認める教会は良い教会、あるいは親しみの持てる礼拝ということになってしまう。というより、教会員の方が信仰に導きたいあまり妥協する危険性がある。求道中の人が聖餐のあり方を要求する訳が無いだろうと思う。教会はその礼拝の中核である洗礼と聖餐形式においては社会に対して伝統の尊重という方向を持つべきだ。また、聖餐式は月に1度や祭礼時ではなく、より回数を増やすべきではないかと思う。また、キリスト教の道徳性や十戒などの戒律性は日本古来の思想にも共通点がある。そうした民族的基盤はキリスト教は世界中で接ぎ木されてきた。例えば親鸞の善人なおもて往生すいわんや悪人おや、とか、仏の慈愛といった概念は、日本人の既成概念に根強く浸透しており、こうした伝統的思考の影響を受け続け、キリスト者も文化的背景として共有している。何処の国でも、キリスト教の様々なメッセージが土着の思想にを通して理解され、発展していった。それに対して、サクラメントというのは日本の伝統的思想には無かったもので、そのまま受け入れざるを得ない。これこそキリスト教の中核である事を伝道においても明確にする事が大切である。我が国の礼拝の洗礼と聖餐に関する意識の低さが今日の混乱を生んだと行って良いだろう。

参考;カトリックの聖餐
 カトリックでは聖餐式のパンと葡萄酒はキリストの体そのものに変化する神聖なもの。聖体は薄いウェファースのようなもので共通である。礼拝時には受洗者だけが神父の元に進んで拝領する。
受洗者は堅信礼を経て信者となる。葡萄酒は神父だけが飲む。これは以前葡萄酒は回し飲みしていたが、衛生上の問題や、老人などがこぼしたりするので、神父が代表して飲む事になった。2000年の歴史のなかで、厳格に執行されている。この洗礼と聖餐の秘跡がカトリック2,000年の歴史を守って来たといって良い。

by katoujun2549 | 2009-12-19 19:16 | キリスト教 | Comments(0)