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二つの教会

     二つのプロテスタント教会  

1.祖父の教会と賀川豊彦

 大学卒業の直前、国立教会の宍戸牧師に導かれ、信仰告白した。就職後、市川の実家に帰ったので父が長老を務める牛込払方町教会に転会した。長老派の流れを汲む教団の教会である。幼児洗礼は祖父が牧師をしていた福岡県田川市の日本キリスト教団田川教会であった。この教会はメソジストの伝統を持つ教会であった。自分の教会観というのはこの2つの教会の体験が二重の層になって出来上がっている。日本のプロテスタント教会の歩みを象徴するような2つの信仰のあり方を体験したことになる。
 祖父米倉次吉は自分の信仰の出発点である。次吉が長崎のミッションスクール鎮西学院で洗礼を受けたのが1909年で、教師を勤めた後、2年後に関西学院の神学部に入学、伝道者としての道を目指した。そこで出会った賀川豊彦の活動に参加した。
 今年は賀川豊彦が社会活動を始めて100年になる。100年前第一次世界大戦の戦時景気で世はバブルの様相であったが、労働者は社会保障も無く、悲惨な状況にあった。その中で1909年神戸新川のスラムに入りイエス団という奉仕と伝道活動を行った賀川豊彦は関西学院の神学生だった祖父に影響を与え、その後の伝道活動の基盤となった。当時、祖父は、仲間の矢田文一郎、伊藤平次等の諸氏と毎集会に出席、イエス団を支え、スラム児童の世話に、また伝道によく奉仕した。イエス団は今日も社会福祉法人と学校法人として幼稚園、保育園など38の施設を持ち、神戸、大阪、京都など関西地区で活動している。
 当時、イエス団の代表的な活動は歳末奉仕であった。ひとつは餅をつき恵まれぬ家庭百戸に対し一戸当たり一升分を贈呈していた。いまひとつは、毎年古着の寄付を各教会に依頼し、これを纏めて古着市を開き貧しい人たちに最低値段で分配し、更に売上金をもって児童の学用品その他を支給し、多くの人たちに奉仕をしている。
 賀川豊彦は労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。今日、彼の考えは生協として受け継がれ、日本一の流通事業に発展した。年間総事業高3兆4千億円会員数2500万人という巨大流通事業であり、明治の伝道者の気概が今日も脈々と流れている。今もコープこうべのホームページには「平和とより良い世界のために」という彼のスローガンと共同生活の可能性についての賀川の理念の紹介が書かれている。
 祖父はその後、メソジスト教会牧師として九州各地を2〜3年で巡回した。大分県臼杵で6年杵築では7年在任し、仏教王国の中で困難な農村伝道を行った。杵築は士族屋敷も残る封建的な土地であるが、山路を超え、徒歩で農村をまわり僻遠の地で「草の根」の信徒を訪ね、共に聖書を読み祈る伝道活動であった。農村神学校の活動も賀川氏の提唱する活動で、禁酒運動にも熱心であった。困難な中、田舎臭い祖父に導かれた人々と、家族の団結は彼の宝であった。
 中でも、杵築中学で教鞭を取っていた澤正雄先生は祖父から導かれ、受洗した。彼はその後熊本の回春病院で救ライ活動で有名なエダ・ライト女史を支え、後に新宿高校、桜美林大で英語教師として活躍し、慕う卒業生は多く、一橋YMの斉藤理事長もその一人である。1938年に福岡県直方、3年後に田川市と27年間炭坑町の牧師として奉職し、70才まで炭坑に働く人々の伝道活動に情熱を注いだ。その間、賀川豊彦は講演活動等の支援にその田舎教会に訪れている。祖父のひたむきな伝道への情熱には家族全体が軍隊の一小隊のように応援せざるを得なかった。交通も不便な時代で、どこへ行くのも徒歩であったから、祖父は根気良く賛美歌を詩吟にして歌いながら伝道した。母はオルガニストとして女学校時代から礼拝を支え、母や他の姉妹も付属の幼稚園の先生になるべく、清和などのミッションスクールに行って当時としては先進的な幼児教育を行っていた。長男の叔父、米倉充は九州大学の哲学科から、アメリカのドゥルー神学校(後にマクグラスも教鞭を取っている)に留学し、長崎の活水女学院や関西学院の教授を勤めた。79年に芥川賞を取った主婦作家、重兼房子さんも田川教会で祖父から受洗した。叔父も田川の実家に帰ると教会学校の教師もしていたから、まさに家中が祖父の伝道に巻き込まれていた。父が戦後復員し、三井鉱山の田川鉱業所に転勤し、祖父の教会に来るようになったが、その時母と結婚したのである。自分はその祖父の教会で昭和22年に生まれ、父の転勤で3才で上京し、千葉県市川市に住んだ。祖父が教団の仕事で上京して来たり、高校生の時に九州に行くと、食事のときや、寝る前等普段は適当にやっていた自分に取って、いつも祈ることを要求されて困ったが、その体験が今の信仰生活にも生きている。父はこの田舎牧師の次吉をとても尊敬していた。だから、聖職者はいつも貧乏で、世事に疎く、無私の存在で、クリスチャンというのは皆そのようになるもの、俗人は到底信仰生活は無理だと思っていた。自分にはそうした祖父のようなキリスト者は荷が重かった。
 実は祖父の姿に疑問も持っていた。賀川豊彦がそうであったように、明治の男の特徴だろうか、妻や子供の迷惑は顧みない。大目標のためには家族は常に従うしか無かった。祖父を支えた祖母やその家族は献身的に協力せざるを得なかったが、同時に田舎の炭坑町で戦争中の家族の苦難には無関心であった。戦争中に特高につきまとわれたこともある。警察官からキリストと天皇はどちらが偉いと聞かれたりした。そんな時は、比較すべき対象ではないと答えたと聞く。祖母は牧師婦人として6人の家族と教会員の世話や雑務を支えたから、家族に取っては祖母は聖人であった。祖父は牧師という職業人ではあるが、善き家庭人ではなかっただろう。現代においてはこの調和も要求される。自分が信仰に入ったのは祖父のことから一歩間を置くようになってからである。
 祖父の説教は伝道活動の体験や信仰に至った青年の話とかが記憶に残っている。聖書解釈などは上手くなかったと思われる。田川教会には三井鉱山の幹部の家族も多く、田舎の社交クラブでもあったから、スマートな説教を望んでいる信者もいて、そうした信者の不満に家族は悩んでいた。その万事につけて不器用ではあったし、都会の教会に招かれる事は無かった。叔父の充は次のような思い出を書いている。「いつも黙々と行動し、地味で目立つ事の無い人柄の彼は醇朴で正直な農村や鉱山の人々の間にいるときが最大の喜びであり、慰めであった。不思議な事にこのような人々から、いつも変わる事の無い尊敬と愛情を受けたが、これは田舎牧師の特権であり、天与の賜物であった。」祖父は田川教会の牧師を70まで続け、大分県の湯布院で92才で召された。

2.歴史の古い牛込払方町教会

 父は東京の牛込払方町教会で中学生のとき、女子学院の学生だった叔母に率いられ、当時アメリカのユニオン神学校出の田島牧師に導かれて受洗した。東京商大専門部に入学して応召するまで、戦中の困難な環境の中、青年会で信仰を育んだ。YM会員の戸叶先輩やカトリックの白柳枢機卿の兄と同級生であった。叔母の長男で従兄弟の昭彦が長老をしている田浦教会にYMの先輩 阿部史郎ご夫妻が教会生活をされている事を知ったのはつい最近である。父は東京の洗練された、英語もご夫妻上手で一徹な田島進牧師にも傾倒し、その後教会の長老をしていたときも口には出さなかったが歴代の牧師と比較していたと思う。父はそれとは対照的な、地味で小柄な田舎牧師であった祖父を信仰の面からは最も尊敬していた。
 日本のプロテスタント教会は明治6年禁教が解かれる1年前、明治5年に横浜で日本キリスト公会として生まれた。牛込払方町教会は5年後、新宿区の牛込の地に生まれ、日本で初めて牧師になった小川義綏(ヨシヤス)師が初代、2代目がヘボンと共に聖書の翻訳に貢献した奥野昌綱師が牧師であった。横浜に来た米国の宣教師達は幕末の志士に大きな影響を与えたフルベッキ、ローマ字で有名なヘボン博士、クラーク、ジェーンズ、バラなどの米国人宣教師達は母国でも上層階層の人達であった。ヘボン博士はプリンストン大学出身の眼科医、クラークはアマーストカレッジからドイツで博士号を取ったし、ジェーンズはウエストポイントを出た北軍の将校であった。彼らは米国では勝ち組で、当時の日本人青年に布教したが、その中心は札幌農学校の生徒など旧武士階級とその子弟であり、又,宣教師とは対照的に明治維新では負け組であった。札幌農学校でクラーク博士が「青年よ、大志を抱け」と述べた事は有名であるが、そこにいた青年達はもともと家族の期待を一身に受けて、後に内村鑑三や新渡戸稲造、新島襄などアメリカに留学した人達も多く、言われなくとも大志を抱いていた人々であった。日本のプロテスタント教会が武士階層や社会の上層部を中心に伝道が進められたことは日本の近代化に貢献したが、その後の教勢の拡大を制約する原因にもなった。宣教師達とは後に対立するようになったし、教会形成においても、主知主義的傾向が強く、東京大学の学長や教授がクリスチャンの典型では教会も敷居が高かったのである。韓国や台湾の教会が庶民から伝道活動を成功させ、大きな勢力となっているのとは対照的である。原始キリスト教の時代も使徒達は徴税人や漁師、その後は奴隷、機織り職人、洗濯人、奴隷、職人、底辺の婦女子から信徒を集めたことを考えると、やはり日本は特殊である。
 宣教師達はニューイングランドのピューリタンであったことが、その後の日本のプロテスタント教会に大きな影響を与えた。彼らは聖書を日本語に翻訳し、ミッションスクールを設立した。日本の近代化に残した足跡は大きい。と同時に、日本の教会にピューリタンの倫理も持ち込んだ。日本のクリスチャンに「敬虔」という接頭語がつけられるのはそのためである。明治のプロテスタントは我が国の近代化に多くの貢献をしたが、そのいくつかを紹介すると、禁酒運動とか、一夫一婦制、更には廃娼運動があげられる。戦後も売春禁止法の成立に日本のクリスチャン婦人の団体、婦人矯風会の貢献は大きく、その中心が宣教師の影響を強く受けた禁酒運動や廃娼運動の中心、久布白落実や矢島楫子であった。この偉大な二人の活動家は牛込払方町教会の会員であった。
 彼らは日本の女子教育にも力を入れ、女子学院、東洋英和、津田塾、東京女子大などの今日の名門校が産声を上げたことからも、日本のキリスト教の布教において、女性の役割は大きかった。当時の日本は男性社会であったが、特に士族の没落とも相まって酒癖の悪い人が武士階級にも多く、家族に暴力を振るうために、女性は苦労した。例えば、首相にもなった黒田清隆などは酔って刀を振り回し、妻を斬り殺したが酔った上の事として罪に問われなかった。女子学院を創設した矢島楫子は夫から、手裏剣で刺されたりした。また、江戸時代からの伝統で、妾を持つ事は余裕のある家庭では当たり前のように行われていたし、士族階級でも、女癖は悪かった。これらを罪とするキリスト教は教養ある女性には救いの道に思われた事であろう。アメリカの禁酒運動が実は新興勢力のカトリックを抑えるための教派闘争が背景にあったのに比べると純粋なものであった。現在も矯風会館が新宿の大久保駅のそばに残っている。プロテスタントが当時の武士階級や富農層から布教されたことが今日のプロテスタント教会を大衆から敷居の高いものにしたが、当時の女性からキリスト教が根強く受け入れられていったことは注目すべきである。今日も、教会の礼拝の出席者はどこの教会も女性が男性の2倍はいて、教会形成の基盤となっている。結婚式をキリスト教で挙げたがる傾向も、女性の好みが強く出ており、日本の女性にキリスト教は好感度が高いのである。
 しかし、第二次大戦が終わると、日本の教会は社会活動から次第に遠ざかるようになった。払方町教会においても、故深津文男氏のように房総の「かにた村」という人身売買の被害者の更生施設を運営することと礼拝の説教内容とのギャップに悩み、結局、教会から離れていった信徒もいた。 日本のキリスト教会の実情は戦後の盛り上がりの中で信仰を得た信徒が、次々と召され、どこでも世代交代の試練のときである。ところが、昭和世代の減少に見合った次世代の若者は教会に来ないのがどこの教会でも共通の悩みである。しかし、日本の女性に対する貢献において自信を持って良いだろう。これからの教会における女性の力は大いに期待できる。

3.典型的な日本基督教団の教会ー牛込払方町教会と日本のプロテスタント教会

 08年は日本のプロテスタント伝道150年、さらに今年は賀川豊彦が社会活動を開始して100年である。明治のクリスチャンは大きな目標に向かっていた。若者も情熱を燃やす事に値する使命に燃えていた。今、150周年は日本のプロテスタント教会の伝道活動、さらに社会貢献の意味を考える機会である。賀川豊彦はこれまで、偉人としては認められているが、日本の伝統的なプロテスタント教会からは引き合いに出されることは少なく、むしろ過去の存在であった。このあたりに何か見落として来たものがあるのではないのだろうか。教会の社会への関わり、さらに神の国の実現という賀川の課題と、社会の流れとは別に存在する教会形成という二つの流れは日本の教会の大きな課題であり続けている。
 牛込払方町教会は日本キリスト教団の長老派教会として創立132年目を迎える。牧師として加藤常昭師や松永希久夫師が奉職され、東京神学大学とはご縁が深い。日本のプロテスタント教会の典型とも言える教会ではないかと思う。私がこの教会の記憶として残っているのは1952年に両親と日曜礼拝に行った時で、幼少であり説教とかは記憶に無い。父は5年前に召されるまで長い間長老をしていた。この教会の当時の青年会の仲間が大学教授になったり、社会的な指導者として立派な活動をしていたことを誇りにしていた。自分がYMの寮生として信仰の世界に接し、信仰告白をした時から40年になろうとしている。当時の払方町教会の青年会には東大の学生が8人もいて、バルトやボンヘッファー、トゥ—ルナイゼン等を読んだし、普通の学生もマルクスだけではなく、キルケゴール等も結構読んでいた。彼らは大学紛争が終わり、社会人になると会社や職場に専念し、教会から卒業し、当時の会員は残っていない。また、70年当時の万博キリスト教館問題や社会問題に関心を持もった若者は教会を去った。そうした青年は今や60才代だが全く教会には来ない。時々来る青年は、教会に新しい哲学や思想を求めているわけではない。精神を病んだり、仕事や人間関係の悩みを持った若者が多いのであるが、教会はなかなか求道者を掴みきれていない。我が国の自殺者が3万人を超える時代に対して教会は無力なのである。これから社会を担う30才台の人達に犠牲者は増えている。世の中には病院も心療内科もあるから教会の出る幕は無いのだろうか。世の必要とする道を教会は備えることができていない。

 日本は今、100万人のキリスト教徒がいると言われる。日本の伝道活動は成功したのだろうか。数の上から中国や韓国に比べると不成功の部類である。しかし、かつて植村正久や内村鑑三の時代には100万人を目指したことを考えると、何とか達成している。これはカトリックも含んでいるし、福音派の教会や、愛餐を中心にする教会は結構出席者が増えている。長老派の教会はこうした方針を持たない。不調なのは日本キリスト教団であって、今や自分の世代から高齢者までしか礼拝に来ないのが実情だ。有機農法の国際研修機関でキリスト教主義のアジア学院という学校法人がある。牛込払方町教会の長老の一人が校長をしていたので、教会として支援している。ワークキャンプには多くの若者が体験に来て、礼拝にも参加する。海外研修で信仰に入る人も多いという。ところが、その体験と信仰の喜びを抱いて日本の教会に来ると、教会に行くのをやめてしまうと言われている。何も、アフリカやフィリピンの教会の真似をすればいいという事ではないが。
 また、教会員の中には、町の精神を病んだ人々の憩いの家、エナジーハウスというNPOに尽力されている御婦人もいる。まさに、こうした現代病の中に教会がどう取り組むのか。心を病んだ人にこそ教会は手を差し伸べるべきではないのか。そして、若い人の信仰の情熱をいかに掴むか、受け入れる教会がそうした社会活動の精神との受け皿になるような教会形成、牧師の説教、活動の場を用意する時機が来ているのではないかと思う。この夏日本は民主党政権に交代し、大きな路線変更が期待されている。しかし、日本が本当に民主的な、人間尊重の国家になるためには、人口の10%くらいはキリスト教でなければ達成できないという気概を持ち、日本のプロテスタント教会も目標をもって戦略をたてるべきであろう。
 社会活動に対する教団の教会の姿勢は間違っているわけではない。しかし、我が国の現状において、今日もなお社会活動から伝道に向かう方法もありうるが、そこに適材が振り向けられるかである。また、教会形成にむけて、きちんとした聖書解釈と礼拝を整える努力、正餐の厳格化も必要である。アジア学院、エナジーハウスも教会としては献金とかバザーでは支援しているが、教会員が積極的にこの活動に加わるかどうかは個人の自由である。今、社会活動を進めるには、既にNPOといった形で多くのボランティアが活動の基盤を持っており、教会の専売特許があるわけではない。実は自分は礼拝人数の増えない点は残念だが、地味な山本牧師の説教を気に入っている。今賀川豊彦のような活動家が牧師なら、きっと、逃げ出しているだろう。
 祖父の傾倒していた賀川豊彦が撒いた種は教会の外で大きく育っている。社会福祉や生協、労働組合等だ。彼の目指した神の国をめざすことも我々なりに考えなければならない。しかし、これが教会員の使命だと思うと荷が重い。なぜなら、どんな手段が適切か、方法が見つからない。彼が発案した事業は、生協や労働組合として、既に社会活動の基幹を担っている。教会独自の活動となると選択肢が少ない。教会内部のコンセンサスも議論百出でまとまりにくい。とはいえ、聖書解釈とか、正餐論争は教会形成として必要であり、これだけでも大きな課題である。とはいえこれが教勢の拡大につながるとは思えない。若い人を引きつける大きな目標と教会形成との調和が課題だ。特に日本の教育でのミッションスクールの貢献は大きく、ここでキリスト教を学び、親近感を持つ卒業生はかなりの数になるだろう。これらシンパをどう取り込むかである。でも自分は今の静かな教会と聖書解釈中心の説教が気に入っている。今の教会がもし、賀川豊彦のような活動を自分に要求したら信仰を守る事は難しいかもしれない。社会活動には意見のぶつかり合いもあるし、教会内部も騒々しくなる。人数が少ないのも悪いことではない。大体同じような意見や、教養の人が一緒に日曜日を過ごす事は、安息日としては大事な事である。それがいつもごたついているようでは日常生活に影響し、疲れ果ててしまう。礼拝であんまり興奮するのもどうかと思う。教会は動物園のようでは困る。毎週月曜日がくたびれてしまい、勤務に支障が報じるようでは教会が社会から離脱してしまう。教会は自分にとっての憩いの場、オアシスであってもらいたい。


by katoujun2549 | 2009-10-13 16:48 | キリスト教 | Comments(0)