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 千葉地裁の裁判員裁判で、被告、市橋達也は無期懲役の判決を下された。リンゼイさんの父親は捜査のときからしばしば日本に来て、テレビなどで発言してきた。彼は。裁判においても、被害者の家族として、検察から証言の機会を与えられた。「この邪悪な男は娘に邪悪の限りのことをしました。私たち家族は、彼に最高刑を与えたいということだけで気持ちを一つにして頑張っています(引用)」と強く訴えかけました。

 被害者家族の会の努力で、日本もようやく、裁判で被害者と家族の人権が認められるようになった。かつては遺族は被害者の写真も持ち込めず、裁判資料も見ることができなかった。市橋は懸命に死刑を避けるため、殺意を否認し続けた。3分間以上も首を締め上げて死なないと思う方がおかしい。また、彼女をバスタブに土を入れてその中に遺棄したことは計画性をにおわせる。彼女を監禁している間に、千葉大の園芸学部にいた彼は、土壌による死体の腐敗処理を考えた。何事も先読みする市原、死体の処理まで構想し、彼女を殺したに違いない。最初は殺意はなかっただろう。が、監禁して暴行したのだから当然であるが、彼女が全く彼を許さず、拒否していることに腹を立てた。このままでは犯罪となる事を思い犯行に及んだ筈だ。性的暴行や計画性、2年以上にわたる逃避行や顔の整形など、被害者への同情や、改悛の情を感じさせない。

 日本人の家族なら、死刑を願うだろう。ところが、彼女の父親は、死刑とは一言も言わず、この国の最高刑にを望むとしか言わなかった。イギリスは死刑廃止の国だ。判決が出た後のインタビューで『この日をずっと待ち続けていた。(判決に)満足している。娘のために正義を勝ち取るのに4年半かかり、やっと実現した』と話したということであり、また「代理人の絹川健一弁護士は『(判決が)遺族が最高刑を望んでいるという気持ちを理解してくれ、日本の量刑事情から、無期懲役が妥当だと遺族は理解した』と話した。」ということであるが、おそらく日本の被害者遺族なら「死刑」を望んだ事だろう。

 イギリス人の父親の感覚からは復讐としての刑の執行は望まれていない。日本という国における正義を要求している点が違う。偉い父親だと思う。被害者が最早生き返る訳ではない。しかし、正義は実現したい。犯人市原の逮捕までの執念も大変なものだ。未成年の場合だが、永山基準というのがある。複数殺人、残虐性、精神状態などが死刑判定の材料になる。東京都江戸川区の荒川河川敷で1999年、ホームレス仲間の男性3人を刺殺した として、殺人などの罪に問われた安藤義雄被告(59)の控訴審判決で、 死刑の1審東京地裁判決を破棄、無期懲役を言い渡した。 須田賢裁判長は判決理由で「法秩序を全く無視した理不尽極まりない犯行で、 当時完全責任能力があれば死刑を選択せざるを得ない」と指摘。その上で、 覚せい剤使用の影響で当時心神耗弱の状態だったと認定し、刑法に従い刑を 減軽した。 強盗殺人で一人を殺しただけで死刑になったケースもある。このあたりの整合性をどう見たら良いのだろうか。

 被害者遺族の感情として、死刑を望む気持は自分も理解できる。光市の母子殺人事件では遺族の本村洋氏が執念の「死刑判決」を勝ち取った。これまで、加害者の罪の改悛の情とか、更生の可能性といった要素が考慮され、死刑から無期に転じる要因にもなって来た。犯行時に未成年だった場合、無期懲役でも7年〜10年で出所する可能性が高い。これには誰もが納得できない。また、殺人を犯したときに心神耗弱状態であったときは死刑にならない。1981年(昭和56年)に深川で起きた通り魔殺人では川俣軍司は覚せい剤常用の幻覚症状とされ、子供を含む4人を殺害したが、無期懲役である。自分は覚せい剤を使った心身耗弱が何故減刑の理由になるか分からない。薬物を使って度胸をつけ、殺人を起こすような卑劣な行為は、即刻死刑だと思うのだが。池田小学校無差別殺人事件の犯人、宅間はすでに死刑が執行されたが、彼は精神薬、SSRIを使っており、この副作用による凶暴化が指摘されるようになった。今日なら死刑にならなかったかもしれない。薬物による心神耗弱で犯した犯行は、女性や子供など弱者に向けられる事が多いような気がする。犯人は大言壮語する割には気が弱い小心者が多い。そもそも、異常な人格だから犯行に及んだ訳で、そうした人物が極刑になることをためらう必要は無いと思うが。

 先日、東電OL殺人事件で無期に服しているネパール人ゴビンダに再審の可能性が出て来た。DNA鑑定で新たな結果が出たのだ。彼は冤罪かもしれないということが言われていた。捜査当局の関係者は彼の自白は虚偽ではないという。しかし、死刑では取り返しがつかない。近年の検察のやり口が明らかになると、この判決にも疑義が生じる。そんな裁判で死刑を執行されてはたまらない。これまでも足利市の幼児殺人事件の冤罪、菅谷さんの件もあった。

 死刑判決を受けた犯罪者は、死刑までの間、拘置所で何年も過ごすうちに、改悛していき、最後は、何でこの人間がそのような犯罪を起こしたかと思うばかりになり、執行者も同情することもあるという。しかし。これは死刑があるからだろう。死刑という現実を前に犯罪を犯したことを悔いるのだ。殺人者の更生のために死刑があるというのは、随分穿った理屈だ。むしろ、被害者にかわって復讐する応報刑といった色彩も我が国では強い。光市の母子殺人などもその傾向だ。ところが、法務大臣が最終的に決裁印を押さない為に、多くの死刑囚が拘置され、判決から執行までに2年以上かかり、10年以上も拘置所にいる死刑囚は毎日死刑の恐怖に怯えながら精神を病んで行く。少しでも、疑義があったり、政治的な影響があると殆ど執行されない。オウム真理教のサリン事件犯人などがそうだ。我が国では実質的に、曖昧なまま、死刑を実行しないという奇妙な慣習になりつつあるし、裁判においても、裁判官は何とか回避しているようにも見える。裁判官も、自ら死刑を宣告、判決を下したくない人が多い。最近裁判員制度の方が死刑求刑には厳しい判決が出ているのもうなずける。

 とはいえ、国際的には死刑制度は廃止の傾向だ。ロシア、殆どのヨーロッパ、トルコ、中東の幾つかの国々、カナダ、米国の半分くらいの州で廃止されている。日本は死刑制度を持ち、毎年執行されている先進国ではむしろ珍らしい国だ。あらゆる犯罪に対して死刑を廃止している国:95通常の犯罪に対してのみ死刑を廃止している国:9、事実上の死刑廃止国:35 法律上、事実上の死刑廃止国の合計:139存置国:58であり、世界の3分の2が廃止した。
 アメリカでは13州で廃止している。
アメリカ合衆国の州別の死刑制度
■青: 死刑を廃止した州(13州=2009年現在)
■橙: 死刑が憲法違反であるとされた州(2州)
■緑: 1976年以降死刑を執行していない州(2州)NYを除く
■茶: 死刑が執行される州(33州)
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 では、人権弁護士のような形で、法廷闘争を通じ、何が何でも反対するという方法が正しいとは思えない。奇妙な人権弁護士が跳梁跋扈する原因を考えたい。日本と中国は死刑の多い国と言われる。このギャップをどう考えるかだ。被害者感情からは応報刑であるが、国家が犯罪の抑止や社会的正義の実現を行なう為に死刑を行なっているのか曖昧だ。刑罰というのはその国の国民感情、宗教観、社会の雰囲気に影響される。そして権力を持っている政府が決定してきた。民主的な方法や善悪で決まる訳ではなかった。だから、国が決定したことに忠実であるかどうかが問題なのだ。今の日本は死刑を支持する人が多い。これは死刑に関して、国の制度としての仕組みを知る情報がない。そのために関心が薄いことからくる、感情的な選択であるようにも見える。我が国では死刑囚に対する長期拘留により多くが精神障害になっている、自己の罪の自覚まで失う死刑囚が多いという。

 冤罪の発生。検察の証拠捏造、判を押さない法務大臣など、この国は死刑を実行する能力や国民に対する責任がいいかげんであり、そんな国に応報刑としての死刑をさせていいのだろうか。世界のすう勢、日本国内での議論を、実態を明らかにすることで、その意義などを議論して国民投票などで決めるべきだ。死刑の是非をいきなり問うのではなく、死刑を社会正義として実行するに相応しい国なのかを先は問いたい。執行する刑務官こそ被害者ではないのだろうか。死刑を肯定するか否かよりもその前の国の仕組みと実行する責任者を問いたい。死刑反対の人権弁護士は実は反体制の人々で、裁判をそうした闘争に利用しているだけなのである。

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書評「なぜ君は絶望と闘えたのかー本村洋の3300日」門田隆将著

 門田隆将氏の代表作といっていい。あの光市母子殺人事件の少年が、広島高裁で無期懲役から死刑判決を受けたことは記憶に新しい。被害者の家族、夫である本村洋さんが、無念の気持を抱えながら、命がけで司法と闘った記録である。被害者の家族が、何故司法と闘わざるをえないのか。被告ではない。被告は当初、二審までに無期懲役を言い渡されて被告は勝利したと思った。逆に被害者にとっては敗北なのだ。それは、被告は犯行時18歳の少年で、その場合、無期懲役は7年に短縮され、出所することが出来る。それに対して、犯行の残忍性などの真実と、被害者の人権が尊重されない裁判制度を被害者家族は訴え、ついに最高裁で差し戻し、被告の死刑を勝ち取った。

  今日、死刑制度に批判が多く、刑法学者でも死刑廃止論者は多い。日本は死刑の多い国でもある。アメリカでは半分くらいの州が廃止、ヨーロッパやイスラム圏でも廃止しつつある。死刑は犯罪の抑止にはならないという。しかし、こうした議論は本来、個別の事件から事例を得て、これを前提に成立するだろう。一般論というのは空論だ。成人の社会常識を持った人なら、殺人を犯す事はよほどの事だということが分っている。しかし、死刑にならないという前提で殺人を犯す、モラルハザードという課題もある。特に、少年犯罪においてはしばしばこれが見られ、死刑の存在は抑止効果がある筈で死刑は恐いのだ。死刑があるから反省し、殺人者は死刑を待つ間、拘置所で命の重みを考え、真人間になる。抑止効果よりも、加害者に反省を促す力がある。ところが、刑罰を厳しくすると犯罪がなくなるかというと必ずしもそうではない。死刑の犯罪抑止力には疑問をもたれている。死刑を効用として考えるとそうかもしれない。
 
 死刑、あるいは刑罰が、国とか、民族、文化的な背景によって社会での受け止められ方が違う。その社会が殺人や重大犯罪をどうとらえ、死刑を制度として容認するか、刑罰の目的が何かということである。その国において、死刑がどのような効果をもたらしているかだけではない。我が国では被害者の立場、家族や関係者にとってどうかということでもある。重大犯罪は、被害者のみならず、周囲に大きな精神的かつ、経済的損失をもたらす。日本人においては、西欧より個人と家族という関係を重視する。部族社会においてはその一員が生命財産に被害を受ければ部族全体で受け止めるだろう。相手の部族同士の抗争となり、凄惨な戦いが始まるかもしれない。マフィアの抗争も同様だ。

 要は、その社会が家とか部族、家族との絆を基盤にしているのか、あるいは個人を単位として考えるかえ大きく方向が違ってくる。今の日本は家族、いわゆる夫婦を基準とする標準家族である。犯罪の被害は家族全体に及ぶという考え方である。もちろん個人社会の欧米でも、家族の被害に対して残された遺族は決然とした態度を取る。先般の英会話教師、リンゼイアンホーカーさん殺害事件でもイギリスから家族は裁判で被害者家族として公判で発言できるようになり、厳しい態度で臨んだ。家族もかけがいのないものを失ったという意味では同じだ。彼は被告の市橋を最高刑に付してもらいたいと言ったが、死刑判決を望むとは言わなかった。そこが違う。日本人は殺人に対しては死という応報的な感覚が強いのではないか。この理由は宗教観から来ているのかもしれない。キリスト教では死は終わりではない。ところが最近の日本人で来世を信じ無い人が多い。このあたりに応報的になる原因がある。






 

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 裁判員制度になり、法曹関係者以外の一般社会人が死刑という重要な決断に関わるようになった。マスコミは先般の耳かき店員殺人事件の無期判決に不満な人を視聴させようと、被害者家族インタビューを続けている。彼らは死刑制度をどの位学んでいるのだろうか。制作当事者はともかく、企画者は殆ど勉強していないのではないか。それよりも、今日の死刑制度がどのようになっており、そこで、裁判員がどれだけ苦渋の選択を迫られているのかを考えていない。今日、死刑を考えれば考える程、その制度の存在意義に疑問が生じる。遺族の報復感情で判断がつくような事でもない。折角、封建的ともいえる日本の裁判制度が民主主義国に相応しい形を取ったのに、まるで、後戻りしろとでもいうのか、マスコミという権力に裁判員制度が先を越したのが不満であるかのようだ。死刑制度が今直面している世界的な流れや、日本での実態、何が判断を難しくしているかを説明せずに、いたづらに報復感覚で煽る報道に異議を唱えたい。
 今日、死刑を最も多く行なっている国は中国で、日本も多い方の国だという事だ。アメリカは凶悪犯罪が多い国だが、州によっては廃止している。アメリカのカリフォルニア州では死刑廃止の方向だが、財政圧迫の原因の一つが刑務所コストの重圧で、これは教育予算を超えている。それでも廃止しようとしている。アジア、アフリカでも死刑廃止国が多い。昔、片っ端から政治犯を銃殺していたロシアも死刑が無くなっている事をマスコミはどうして伝えないのか。

 以前千葉法務大臣が拘置所の処刑場を公開したが、処刑部屋を公開しただけである。死刑反対論者が執行許可をし、その言い訳のような行動。民主党の行動は言い訳が多い。辞任に追い込まれた柳田法務大臣も含め、そんな軽い人に死刑執行命令されるのではたまらないだろう。実際は、死刑囚の生活から、処刑方法、その結果どのような処理が行なわれるのか、処刑人の選定や執行者の考えなど公開すべき情報は多い筈だが、その一部だけというのは何もしていないのと同じだ。

 何の為に死刑を行なうのか。犯罪の抑止効果は無いというのが今は定説である。日本の殺人犯は組織犯罪の者が多い。そこで、下積みの人間が強いてやらされる事が多い。また、殺人を計画的に行なうケースは少ない。海外の陪審制度は事件の証拠や証言の真偽を判断することが中心で、刑を判定することは少ない。裁判員の重圧は裁判官の責任を軽くする為にあるかのようだ。また、日本の無期懲役はかなり厳格に実施されており、恩赦などで刑期途中で減刑されて出獄する人は100人に一人くらいだという。このあたりも、一般の人々の懸念と実態が違う。冤罪も今の、検察の起訴手法を見ると結構予想される。そんな中で、死刑の決断を下す人が抱える苦悩は制度を少し勉強すれば大きなものにならざるをえない。

 おまけに、日本の制度では死刑が確定してから執行までの期間が2年から3年もあり、待機中に精神異常を起こしたり、拘禁神経症になり、自分の犯罪認識もあやふやになってしまう人が多い。麻原彰晃等はもう心神耗弱状態で公判にも出られない状態だという。精神科医の小説家、加賀乙彦氏もこのことを重視している。(死刑囚の記録)何事も、厳しくすることが責任ある行動で進歩だと考える人もいるが、あまりにも単純だ。その意義や効果について良く考えてほしい。陪審制度は民主主義の形なのだ。しかし、日本人の民主主義は「おまかせ民主主義」であって、選挙以外は国民が参加していない。

 かつて、ナチス時代にフライスラーという判事が、弁護もさせずに何千人もの反政府主義者を処刑したり、魔女裁判、ソ連の粛清など、国家が必ずしも公正ではないことが歴史的に見られる。処刑方法も議論が多い。アメリカでの電気椅子は今は行なわれていない。注射による死刑が残酷だとこれを違憲とする裁判が行われ、最高裁で却下されたほど,死刑はアメリカでも議論になっている。ギロチンというのはもともとドイツで発明されたが、ルイ16世が、これまでの死刑があまりにも残虐で処刑者の苦痛が大きかったので、人文主義の観点からギロチンを採用した。彼自身にこれが採用されたのは皮肉だが。ドイツでは第二次大戦中、白ばら運動のゾフィーショルなどもこの刑を受けた。戦後もギロチンは行なわれたが今はフランス共々廃止されている。イスラエルも死刑はない。テルアビブ事件の岡本も死刑になっていない。絞首というのは床が落ちて自分の体重で首の骨が損傷するので気を失い苦痛は少ない。自分の家の鴨居に縄をかけて自殺する場合とは違うのだそうだ。その場合は気を失うまでに時間がかかり、苦痛が大きく、舌や目玉が飛び出したり、脱糞したり、始末も大変なのだそうだ。日本でも、戦前の大逆事件など冤罪が多かった。江戸時代は打ち首だが、首切り朝右衛門最後の処刑者が高橋お伝だという。江戸時代は年間何千人もが処刑され、これも冤罪が非常に多かったと言う。打ち首は処刑人の負担が大きい。

 陪審制度の民主主義的な意義は大きい。日本では社会で適合できない人間、犯罪者、高齢者、ハンディキャップのある人々を隔離しようという感覚が強い。犯罪人を更生させるのではなく、刑務所に隔離し、自分は平和に暮らせると思う楽観主義だ。刑務所に入った人間の再犯率は高い。犯罪者も市民であり、罪の更生こそ刑の目的であることを認知させるべきである。殺人は死刑によって購うということでは犯罪は無くならない。終身被害者の為に奉仕する人生とする事の方が受刑者には厳しい生活だろう。意味が曖昧な我が国の死刑制度の為に、多くの国家予算と時間が費やされている。犯罪の報復のためなら終身刑で充分ではないだろうか。被害者の家族も、死刑という事の意味が分からずに、加害者への死刑を望んでいるのである。

 
 

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  昨日、加賀乙彦氏の講演を聴いた。「老と幸福」という演題でお話されたが、肩の凝らない語り口で、敦煌旅行で砂漠の会という旅行会を編成して行った時のこと、フランスで巡礼者用ホテルで1ヶ月20万円のお値打ち旅行を企画して、自由な生活を満喫する方法をご披露頂いた。年を取ると、男性は特に孤独になりやすい。女性は仲間作りが上手で、おしゃべりを楽しむ術を心得ている。孤独にならないことが免疫力や生きる力を与えてくれる。このことが、平均寿命の差になる。自分が何か社会の中で役に立っているということが幸福感をもたらすという加賀氏の体験から、60歳過ぎてからの生き方に示唆に富んだ話であった。ハンディキャップを背負った若者が、ハンセン氏病患者のお世話に情熱を燃やす中で生き甲斐を見出したことなども事例として話された。「不幸な国の幸福論」を読んで彼の論旨は分っていたので、目新しい感じは無かったが、悠々とした語り方に好感を覚えた。

 彼は死刑制度反対論者でも有名だ。特に、死刑制度の実態を描いた「死刑囚の記録」小説「宣告」などで制度に対する考え方は伝わってくる。拘置所の医官をしていた加賀氏は死刑囚の精神病を調べ、研究された方である。勿論その囚人の過去の罪は重い。かつて、死刑はヨーロッパでは公開され、斬首、車裂き刑、磔など残虐な方法がとられたし、死体も曝されたり、死刑囚の人権は無視され、見せ物にもなっていた。残酷な印象のギロチンはむしろ当時としては苦痛を最小にする工夫と言われた。これをルイ16世は人道上の理由から導入したが、自分がこれにかかる皮肉もあった。

 しかし、残酷な刑に犯罪の抑止効果がないことは通説である。死刑囚の人件も尊重されるようになった。ヨーロッパでは死刑は廃止され、イスラエル、アジアでも中国、北朝鮮、日本、マレーシア以外では行なわれていない。アメリカでは死刑制度を廃止した州も多い。何故80%の日本人が死刑を容認するアンケート調査結果が出るのか。それは死刑の実態を情報公開していないことから来る。先般の千葉法務大臣の指示による公開は、処刑場の無機質な感じが伝わってくるに過ぎない。しかし、処刑場を公開しただけで、その実態を必ずしも説明していない。むしろ、人道的な扱いをしていることをPRするかのような報道であった。処刑されるまでの拘禁の実態、判決から処刑までの期間の長さなどは日本の場合むしろ異常である。アメリカでは死刑は関係者に公開されるが、日本では闇に葬られるのである。日本人は社会の制度としての効果や意味に対する感度が低い。感覚的なものの見方が多く,あまり考えようとしない。

 国民感覚というものが実にあやふやなのである。加賀氏の意見では死刑が多かった江戸時代からの伝統的意識、応報感覚などが多くの支持を得ている原因である。実態として、判決後、長期にわたる拘禁状態が2年以上続き、死の恐怖は毎日だ。死刑囚の独房は狭く、無機質である。そうした中で精神の異変を起こす死刑囚が多い。刑を執行する意味が何か、受刑者も執行者も分からない状態になる。それなら、一定期間以上執行されない囚人は終身刑によって生涯被害者の為に刑務所で過ごし、罪を償い、労働奉仕することの方が社会的には意義が有るのではないかと思う。死者は還ってこない。被害者遺族の気持ちは理解しなければならないが、加害者を死刑にすることで、被害者の遺族は満足するのだろうか。さらに被害者の家族の苦しみはかえって複雑なものになるのではないか。現状のままであるならば死刑を廃止するメリットの方が大きいということが加賀氏の見解だと思う。

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