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 2日間にわたるセンター試験が終わった。受験生諸君!もう少しで頂上だ。ここで気を抜かないことが成功の道だ。トップ校を狙っている皆様、これからの1ヶ月の過ごし方で勝負が決まる。これまでの、模擬テストの間違いを再チェックすることは絶対に必要だし、効率的な勉強法である。もちろん、センター試験の反省も抜かりなくやろう。受験勉強の計画を立てたのは昔のことかもしれない。そして実行してきた。そしてこれまでの失敗を見直す。そして、そこから更に難易度の高いレベルに挑戦する。PDCA法というのはこれからの人生にとっても有効なメソッドである。Plan,Do,Check,Actionという手順はこれからも、年齢相応に、社会人になっても有効である。これがなかなか出来ないのである。①Plan:まず目標を設定し、それを具体的な行動計画に落とし込む。 ②Do:組織構造と役割を決めて人員を配置し、組織構成員の動機づけを図りながら、具体的な行動を指揮・命令する。 ③Check:途中で成果を測定・評価する。 ④Action:必要に応じて修正を加える。 一連のサイクルが終わったら、反省点を踏まえて再計画へのプロセスへ入り、次期も新たなPDCAサイクルを進める。このサイクルは企業活動の業務点検の常道とされている。受験生諸君、使わない手はない。

母校の先生に見送られ、試験場に
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終わってホットしたひと時。チャーターバスに乗って帰宅。お父さんお母さんが待っている。
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先週の土日は大学は緊張の空気が張っている。受験生諸君も大変だが、会場になった大学は教職員が動員され、準備と当日の試験監督を行なう。土曜日の英語リスニングで頂点に達する。ハイエナのように新聞記者が何か起きなかったか、耳をそばだて、問い合わせてくるのである。下越地方は羽越線で架線事故があり、列車が45分遅れたようだが、我が大学では受験生の遅刻は無かったのが有り難い。いつも、この時期は雪のトラブルがあるが、今回は天気予報は外れで、困難な状況も無かったのである。
皆、ホットした。日曜日の理数テストを終了。ご苦労様でした。昨年は初体験だった自分は、何とストレスのせいか、大腸の憩室から出血、1月末に入院してしまったことを思い出した次第。

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013.gif1月19日と20日はセンター試験、世の受験生は今年の最初の試練であった。しかし、大学関係者も大変なのである。東京で開かれる試験実施要領や注意事項の研修会に行くことから、学内の説明会、前日からの準備、段取りに入試担当者達と教員、職員等学校を総動員して対応する。この仕事はマニュアル通り一部の間違いも許されない。100点満点が当然と見なされる。特に北国は雪という不確定性を抱え、列車の遅延対策、さらにはエアコンも完璧でなければならない。
今回は長崎の活水女子大で問題用紙が途中退出の受験生に持ち出されて予備校に渡され、監督者がチェックミスを問われ、記者会見に及ぶという事件となった。悪意の行為に対してまで監視するのは大変だ。

JWSSニュースによると 19日の大学入試センター試験で、活水(かっすい)女子大(長崎市)会場の女性受験生(19)が試験時間中に問題冊子を持ち出し、自分が通う予備校の関係者に渡していたことがわかった。試験時間中の問題冊子の持ち出しが発覚するのは初めて。大学入試センターは20日に会見して謝罪した。

 センターと大学によると、地理歴史・公民の試験開始から約30分後の19日午前10時ごろ、5階の教室にいた受験生が一時退出を希望し、問題冊子を手に持って室外に出た。冊子は机の上に置いていく決まりだが、6人いた監督者らは見逃した。付き添い役の係員も、受験生が「もう大丈夫」と言ったため、途中で付き添いをやめた。受験生はその直後、大学の門の付近で予備校関係者に冊子を手渡したという。机に問題冊子が残っていないことに気づいた大学側は、約20分後に1階の自習室にいた受験生を発見。事情を聴いたところ、事前に予備校側から依頼があったことを認めた。大学側は業務妨害の疑いもあるとして長崎県警に通報。予備校関係者は県警に「早く入手して模範解答をつくりたかった。不正をしてまで持ち出すことは頼んでいない」と話したという。

こんな作為にあっては大学は敵わない。問題冊子保有を見逃したことが第一問題だが、予備校側と入念な打ち合わせをしたはずである。センター試験が今や大学入試の重要な選別手段になって、高校生の学習目標として占める位置は大きい。高校教師は本来的な学生の学力向上や自分の教育手法を駆使して授業を進めるべきだが、高校全入時代においては学生のレベルがまちまちで、知的好奇心に訴えるのは無理だと思っているだろう。こうしたテストや偏差値の高い難関校を学習目標にすることが学生と保護者の人気を得る近道だと思っている。保護者と学生、教師も選抜されるということが何よりの喜びである。
アメリカでワーキングプーアが生まれる理由は専門家の供給過剰である。
センター試験と偏差値が支配する今の高校教育だが、これが一体社会に出て何の役に立つのか。文系では私立と国立の大きな差は科目数の多さと数学である。この点国立出身者は基礎学力と忍耐力は学習という点ではしっかりしている。東大、京大、一橋あたりの超難関校受験生はセンター試験は85〜95%取るから、ここはあまり差がつかない。しかし、彼らも含めてこの能力は人間の能力の一部である。100m10秒で走る能力のようなもの。受験生は塾や予備校、家庭教師など、一種の投資をして対応している。その証拠に、難関校子弟の家庭の所得は高い。対策スキルの差である。しかし、このセンター試験があるお陰で日本人の学力は守られている。日本で全国的な学力判定の機会は今や大学受験だけである。わが国の公平な選抜機能はあまりにも少ない。大学入試もAOや推薦入試が横行している。就活がなかったら、日本の若者は腑抜けになってしまうだろう。しかし、その後の勉強が問題である。大学での学習でも、又、社会人になれば別の能力が要求される。歴史の年号を暗記したり、英語の穴埋め問題には意味がない。要は受験のための教育は教育ではない。単なる受験対策。自分の進むみちを自分で決め、学ぶ姿勢と方法を身につければ困難を乗り越えられる。可愛げのある人物、応援したくなる人物に育てる学問こそ求められる。リベラルアーツの目標はまさにそこにある。瀧本哲史 氏(エンジェル投資京大客員准教授)によると、アメリカの教育の優れた点はリベラルアーツ教育を経て専門分野に進むことだという。わが国もこれに習おうとしたが失敗した。それは具体的な教育技術を無視して、学部教育の延長線で行おうとしたからだ。国立大学の教養部では座学を中心に、教師によっては新入生にいきなり自分の研究中のノートをそのまま講義に使うような横着な授業をした。これでは高校生からいきなり専門分野の課題を叩き込まれたようなもので消化不良を起こしてしまう。勉強嫌いの量産である。それでも学生が文句を言わなかったのは難関校の学生の見栄やプライドのためである。だから、一般には普通の学校では教師は飽きさせないよう落語漫談的講義となってしまうけいこうもあった。これではレベルが上がらない。
教養の本質は知識の深さではない。世の中には多様な意見が存在することを認め、俯瞰して比較し、その中からよく選択した上で、主体的な判断をするための考え方を身に付けることである。

現代は全員が賛同する正解はない。先が見えないから自分で課題を設定して問題を解決できるリーダーが求められる。
より高度で進んだ専門知識は大学よりビジネス現場にある。少人数での議論、文章を書くトレーニングが必要で手間がかかえうのである。
IQ と心の知能指数(情動指数、Emotionally Intelligence Quotient)のバランスが大事な要素である。これは必ずしも学力に比例しない。

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 1月に入るとセンター試験が行われるから、高校生、受験生は今必死である。日本の教育において客観的な学力判定は各大学の入試とこのセンター試験だけだ。大学生の学力を全国レベルで判定する試験は存在しない。大学生が就職試験時に測られる学力はSPIという択一式の高校生までの学力と読力、計算力のスピードを測定するテストだけで、後は面接で学生の社会性、意欲、対人能力を順位づけされて選考される。キャリア形成はそうした学生の適性、希望を早くから方向付けることが私立大学のサポート業務になっている。だから、センター試験が重要な選抜機能である事を否定する事は出来ない。しかし、近年、AOや推薦という制度でセンター試験をすり抜けた学生も大学生になる。

 大学の実力はその教育システムの善し悪しではなく、いかに偏差値の高い学生が集まっているかである。情けない話である。そこに、世間の関心は集まり、その意味で評価の高い国公立大学と、東京、大阪の大都市にある私立大学に集中する。この偏差値は確かに高校教育の結果を一面的には示している。高校教師の評価にもつながるのだろう。ところが、トップ校に入るのには家庭での学習や予備校、塾、家庭教師などのサブシステムが絶対的に必要で、高校教師の実力ではないのである。さらにおかしいのは、東大や京大、一橋といった高偏差値校には特定の高校が大量に入学する。これらは旧国立大学で、国民の税金で作られた学校である。国民の一部の恵まれた環境の学生が著しく有利になるような学校から独占的に入学者を受け入れるような仕組みは不公平と誰も思わない。それどころか、大学入学ランキングが週刊誌で特集され、偏差値教育だけの評価が社会的正義であるかのごとく公表される。本来、ジャーナリズムは、そうした偏差値の化け物のような学生が、社会に出てどんな活躍をしているのか、また、低偏差値でも頑張っている大学や、卒業後の苦労、さらには成功例などを研究すべきではないのか。少なくとも上位20%を除いた80%の大卒によって日本の産業界は維持されているのではないのだろうか。さらに、高校教師は世評を気にして、教育の目的がそうした指標で事足りて、自分たちの評価であるかのような錯覚を持っていることがどれだけ、日本の高等教育の障害になっているか。高校教師は、大学でどんな勉強が行われ、教育力の有る学校がどこであるかという情報をあまり持っていない。教え子たちが大学でどんな成績なのか知らないだろう。さらにキャリア形成に関する関心も意欲も無い。そんな実態と乖離した教育観、教育政策を取っているのは日本だけではないか。教育の意味をよく理解して、受験と学校選択に親身の助言ができる教師はおそらく異分子として学校では嫌われてしまうだろう。特に、あの先生は受験に熱心で、偏差値の高い生徒を送り込む名伯楽といった職人のような教師が高校でははばを効かせているに違いない。
 教育の公平性というのはなかなか判定が難しく、アメリカでは特に人種問題が絡むだけに、その扱いは慎重である。高校教師はそこにも配慮しなければならない。我が国の高等教育が常に良い結果を出せないのは、そうした公平性とか、定員オーバーで学生を入学させ、マスプロ教育で経営効率を上げている大学を見過ごし、地域や少数の、真剣に教育に取り組んでいる学校を見ない高校教師、マスコミ、父兄の無理解が原因である。偏差値に踊らされて、東京の大学に子供を送ろうとしている父兄の皆様、目を覚ましなさい。東京の国立大学は東大と一橋、お茶の水に東京外語大、東京農工大、電通大だけでしょう、全部合わせても1万人はいない。早稲田の一学年の方が多いでしょう。その他の私立に皆行くしか無い。そしてその私立に子供を入れている皆さんは、東大や一橋の生徒を養うために税金と、自分の子供の授業料の両方を負担しているんですよ。不公平とは思いませんか。これ全て偏差値でできあがった仕組みなんです。優秀な友達がいるからといって自分の子供が同じように勉強しているとは限りません。高偏差値大学でも勉強しない学生は沢山いる。そうした連中も入社試験では結構要領よく一流会社に入っていく。しかし、学暦は立派でも、仕事で本当に会社に貢献しているのでしょうか。新しいアイデアを出して会社を成長させているかどうか。中には、自分はそんな事で自分を売る必要は無い。勉強ができるし学歴も立派だから何もそんなに努力しなくても、人並みにこなせばいいと思っている。あるいは、人の批判ばかりして足を引っ張るタイプもいます。そんな連中ばかりが集まって日本の経済界が出来ているとすると、多様な人材を認めながら目的を達成する国際性ということにも疑問が生じます。何が国際性か、英語力だけが能力ではないのです。だめなのは、偏差値社会で勝手にヒエラルキーを作ろうとする日本の社会構造にあるのです。

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センター試験国語問題 鷲田清一の身体論 

 2011年のセンター試験の国語第1問は鷲田清一氏の「身ぶりの消失」からの出題であった。評論はおそらく「昭和住宅メモリー そして家は生きつづける。」に収められている。住宅雑誌に載った随筆で、彼の出版した本にはない。図書館で探してみよう。
 掲載された新聞の活字があまりにも小さくて読むのに一苦労した。高校生なら問題ないのか、遠視が進んだ自分の高齢化を思い知らされながら読んだが、第1問に取り組んでみた。彼の文章は受験問題に頻出するらしい。ということは難解であまり良い文章ではないのかもしれない。鷲田氏は大阪大学の総長で哲学者。敬意をもって好意的に読むと、流石に緻密な文章展開に啓発される。氏はファッションなどにも一家言あるらしい。この短い文が身体論の面白さを伝えてくれたことは流石である。 優れた評論は、読んだ人に様々な思考を啓発させてくれるところに妙味がある。ところが、センター試験ということになると、限られた時間と「正解」探しという何とも厳しい現実が、読んだことによる思考の発展を妨げてしまう。高校生が優れた文章を読まされながら、それを正解の為に苦闘しなければならず、自由に思考することを妨げられるのは気の毒だ。受験が終われば、こうした文章を読むのはこりごりということになる。美味しいケーキを3秒で食えとか、その成分を当てろとか言われてこれを何十回も繰り返したら、ケーキなんぞ食べたくなるのと同じだ。
 
 作者は哲学者であり、このような目的に自分の文章が使われるのは本意ではないだろう。芥川賞選考委員の黒井千次が、昔、自分の書いた文章「春の道標」がセンター試験(共通一次)に出たので挑戦したら、自分の文章なのに正解が10問中3つしかなかったので、キレたという話がある。それ以後、生きている人の作品を出題することに慎重になった。鷲田氏は国立大学総長だからこんな発言はしないから安全なのだ。

 選択問題には大体類似の正解に近い選択肢が必ずあり、不正解だった選択肢もあながち間違いとも言えない場合がある。悔しいながら、11問題中2題不正解。問い4を間違ったのだが、「木造家屋を再利用したグループホームという空間では、ひとのふるまいが制約されているということとひきかえに、伝統的な暮らしを取り戻す可能性がある」と正解の「木造家屋を再利用したグループホームという空間では、そこで暮らす者にとって、身に付いたふるまいを残しつつ、他者との出会いに触発されて新たな暮らしを築くことができるということ」との差が何だか分らない。木造家屋に残された過去の暮らしに失われた記憶を蘇らせ、痴呆の改善効果を狙っている、建物との関わりによる治療効果、あるいは進行抑制効果があることは、介護、精神医療の世界では認められつつある。このことを知っている読者は前者(回答選択肢①)を選ぶ可能施が高いだろう。冒頭の漢字問題、キョソという言葉の漢字を選択させる問題もあったが、この「挙措」—立ち振るまいという意味を知っている学生が一体どれだけいたのだろうか。やま勘で、挙動とか、暴挙とか挙という漢字がふるまいという意味を持っていることに気づけば問題は解ける。漢字問題のため、この語句を文章中で漢字を書かずにキョソと仮名になっているから、何が何だか不安定な文章になる。しかし、この語句は全く筆者の語彙選択の好みであって、この語句は「立ち振る舞い」という表現で足りるし、分らなくても、文章の意図や狙いを理解することが可能である。文章中。挙措とかいてあれば、大体、挙という字から「ふるまい」のことだな、と想像して読解には支障がない。漢字とはそこが面白いところだ。そもそも、この語句は口語では使わないからカタカナにされると何だか分らなくなる。まさに、受験生を苦しませる為の設問である。この文章問題には、グループホームをはじめ、使われている語句に10箇所も注釈を添えているが、これらの言葉こそ、この文章を読む人は知っていなければならない語句なのである。
 
 とはいえ、この鷲田先生の「身体論」というのを読んでみたくなった。自分は、住宅の仕事を以前やっていたこともあり、住宅の持つ可能性には関心がある。東京医科歯科大学での修士論文にも書いたのだが、慶応大学の渡辺朗子先生の研究(頭の良い子が育つ家)では、有名お受験校、慶応、開成、麻布、櫻蔭、女子学院などの合格者では、個室で勉強していた子供が極めて少ない。むしろ、自分なりの勉強場所を見つけており、それもかなり多様である。学習空間を自分の方法に合うように選択している。社会は家族のいる場所、算数は自室とか、学習の内容によって変化している。しかも、結構「ながら族」も多い。むしろ、家族のいる空間が多い。それは、最難関校受験は、子供だけの思考ではとうてい解けないレベルの問題もあり、時事や、思考レベルを大人と「同期」し、小学校での受け身の学習やただの暗記から脱していなければ、他の強豪受験者から1歩ぬけだすことは出来ないということなのである。これは介護空間でも同じことである。

 要介護者を個室の限られた空間、たとえば病院の個室などに長期間寝かせておくことは、介護する側は楽だが、患者に取っては生きるための多様な刺激を遮断してしまう。だから、むしろリビングのような開放空間で、周囲の目が注がれるところが、精神的にも、病気への抵抗力、免疫力の増進にも効果がある。これは重介護の典型であるALSの患者を介護するには、そうした、家族に囲まれ、また、外部の訪問看護が容易にアクセスできる環境が患者にはむしろ必須であることからも分る。患者もテレビを見たり、食事をしたり、本を読んだり、また、家族との語らいなど、行為は連続しているのであって、それを遮断する空間は、重篤な要介護者には好ましくないと思う。鷲田氏の身体論にはどのようなことがかかれているのか興味を持った次第である。

 鷲田氏はメルロポンティ、パスカルなどにも詳しいらしい。介護の問題にもふれ、彼のサイトにこう書かれている。

「ケアの現場って自由じゃないものばっかりでしょ、死とか、病とか。しかもケアする方は、特に家族の介護とかいったら、もう奴隷みたいにかんじることもある。なんで私がここまでしなければと、ケンカになったりもする。息子夫婦がケアを通じて危機に陥ったり、別れることになったり、そんなのいくらでもあって。ある意味では、他にしたいことがあってもケアだけは、職業であれ家族であれ、どうしても、仕方なく、と、必然の世界と思われていたけれども、「弱いものに従うことこそ自由である」と。だから「めいわくかけてありがとう」、そういえるような関係に、自分が入れた、すると本当の意味での自由に自分は触れた、というふうにつなげていきたい。こっちにたこ八郎がいて、こっちにパスカルがいて(笑)。そういうモチーフが、いま、僕にはあるんです。」


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