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 1月に入るとセンター試験が行われるから、高校生、受験生は今必死である。日本の教育において客観的な学力判定は各大学の入試とこのセンター試験だけだ。大学生の学力を全国レベルで判定する試験は存在しない。大学生が就職試験時に測られる学力はSPIという択一式の高校生までの学力と読力、計算力のスピードを測定するテストだけで、後は面接で学生の社会性、意欲、対人能力を順位づけされて選考される。キャリア形成はそうした学生の適性、希望を早くから方向付けることが私立大学のサポート業務になっている。だから、センター試験が重要な選抜機能である事を否定する事は出来ない。しかし、近年、AOや推薦という制度でセンター試験をすり抜けた学生も大学生になる。

 大学の実力はその教育システムの善し悪しではなく、いかに偏差値の高い学生が集まっているかである。情けない話である。そこに、世間の関心は集まり、その意味で評価の高い国公立大学と、東京、大阪の大都市にある私立大学に集中する。この偏差値は確かに高校教育の結果を一面的には示している。高校教師の評価にもつながるのだろう。ところが、トップ校に入るのには家庭での学習や予備校、塾、家庭教師などのサブシステムが絶対的に必要で、高校教師の実力ではないのである。さらにおかしいのは、東大や京大、一橋といった高偏差値校には特定の高校が大量に入学する。これらは旧国立大学で、国民の税金で作られた学校である。国民の一部の恵まれた環境の学生が著しく有利になるような学校から独占的に入学者を受け入れるような仕組みは不公平と誰も思わない。それどころか、大学入学ランキングが週刊誌で特集され、偏差値教育だけの評価が社会的正義であるかのごとく公表される。本来、ジャーナリズムは、そうした偏差値の化け物のような学生が、社会に出てどんな活躍をしているのか、また、低偏差値でも頑張っている大学や、卒業後の苦労、さらには成功例などを研究すべきではないのか。少なくとも上位20%を除いた80%の大卒によって日本の産業界は維持されているのではないのだろうか。さらに、高校教師は世評を気にして、教育の目的がそうした指標で事足りて、自分たちの評価であるかのような錯覚を持っていることがどれだけ、日本の高等教育の障害になっているか。高校教師は、大学でどんな勉強が行われ、教育力の有る学校がどこであるかという情報をあまり持っていない。教え子たちが大学でどんな成績なのか知らないだろう。さらにキャリア形成に関する関心も意欲も無い。そんな実態と乖離した教育観、教育政策を取っているのは日本だけではないか。教育の意味をよく理解して、受験と学校選択に親身の助言ができる教師はおそらく異分子として学校では嫌われてしまうだろう。特に、あの先生は受験に熱心で、偏差値の高い生徒を送り込む名伯楽といった職人のような教師が高校でははばを効かせているに違いない。
 教育の公平性というのはなかなか判定が難しく、アメリカでは特に人種問題が絡むだけに、その扱いは慎重である。高校教師はそこにも配慮しなければならない。我が国の高等教育が常に良い結果を出せないのは、そうした公平性とか、定員オーバーで学生を入学させ、マスプロ教育で経営効率を上げている大学を見過ごし、地域や少数の、真剣に教育に取り組んでいる学校を見ない高校教師、マスコミ、父兄の無理解が原因である。偏差値に踊らされて、東京の大学に子供を送ろうとしている父兄の皆様、目を覚ましなさい。東京の国立大学は東大と一橋、お茶の水に東京外語大、東京農工大、電通大だけでしょう、全部合わせても1万人はいない。早稲田の一学年の方が多いでしょう。その他の私立に皆行くしか無い。そしてその私立に子供を入れている皆さんは、東大や一橋の生徒を養うために税金と、自分の子供の授業料の両方を負担しているんですよ。不公平とは思いませんか。これ全て偏差値でできあがった仕組みなんです。優秀な友達がいるからといって自分の子供が同じように勉強しているとは限りません。高偏差値大学でも勉強しない学生は沢山いる。そうした連中も入社試験では結構要領よく一流会社に入っていく。しかし、学暦は立派でも、仕事で本当に会社に貢献しているのでしょうか。新しいアイデアを出して会社を成長させているかどうか。中には、自分はそんな事で自分を売る必要は無い。勉強ができるし学歴も立派だから何もそんなに努力しなくても、人並みにこなせばいいと思っている。あるいは、人の批判ばかりして足を引っ張るタイプもいます。そんな連中ばかりが集まって日本の経済界が出来ているとすると、多様な人材を認めながら目的を達成する国際性ということにも疑問が生じます。何が国際性か、英語力だけが能力ではないのです。だめなのは、偏差値社会で勝手にヒエラルキーを作ろうとする日本の社会構造にあるのです。

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