<   2017年 04月 ( 12 )   > この月の画像一覧

ボロディンのオペラ、イーゴリ公は壮大なロシアの異民族との戦いを描いた物語である。しかし、これがどんな史実にもとず、時代的背景があるのか、あまり知識が無かった。調べてみると、これはモンゴルの来襲以前のロシアの異民族との混乱の時代の話である。このオペラはロシアでは人気のある演目でボリショイ劇場改修のこけら落としでも演じられた。you-tubeでも見ることができる。
このオペラでダッタン人の躍りというのがあり、その雄壮かつ美しい調べはこのオペラのハイライトである。しかし、このダッタンというのは正確にいえば誤りで、ポロヴェツ人の踊りというのが正しく、西欧ではpolovitsion danceとされている。ポロヴェツ人もハザール人も13世紀のモンゴルの襲来によって完膚無きまでに破壊され、歴史から消えた。

ボロディンはこの作品を完成させる前の1887年に逝去し、リムスキー=コルサコフグラズノフの手により完成された。楽譜には「このオペラはリムスキー=コルサコフが序幕と第1・2・4幕、第3幕の「ポロヴェツ人(韃靼人)の行進」の編曲されていなかった所を編曲し、グラズノフはボロディンに残された断片を使い、第3幕を構成し作曲し、ボロディンが何度かピアノで弾いた序曲を思い出しながら再構成と作曲をした。」と書かれている。

初演は1890年

この踊りには振り付けが2通りあり、ボリショイ劇場やキーロフ歌劇団などで選択され、最近のものでは 民族衣装を考証し、ロシア的な雰囲気が表現されている。12世紀のことで遊牧民族ポロヴェツ人のことは不明であるが、かなり野蛮な連中だったようだ。彼らは13世紀になるとチンギス汗の子、バトゥに追われ、東欧に逃げる。アジア系のダッタンとは全く別の民族である。ハザール国との国交を目指したイスラム旅行家イブン・ファラドンの記録では、トルコ系のこの地域の民族グズ族は裸で、女も陰部を人前で平気で掻いたりびっくりするほど野蛮な連中とされている。だからオペラでも、ヘソだしスタイルの奔放な衣装で女性は踊るので、エロチックであり、これが意外と史実に忠実ではないだろうか。
http://kotobank.jpより:『イーゴリ遠征物語』は、1185年の春にノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリが遊牧民ポロヴェツ人コンチャーク)に対して試みた遠征の史実に基づいた物語である[1]。はじめポロヴェツに対して勝利し、やがて敗れ囚われの身となったイーゴリ公が、ポロヴェツ人の協力者を得て脱走し妻ヤロスラヴナのもとへ帰るまでが、韻律散文で書かれている。また作者は、祖国の南方ルーシをこの遊牧民の脅威から守るため、諸侯が内紛を止め団結して立ち上がるよう呼びかけている[2]。本文は南方の古東スラヴ語で書かれており、作者はキエフ人かチェルニーヒウ人であったと考えられる[3]ロシア文学史上高い評価を受け、アレクサンドル・プーシキンが「わが国文学の荒野にただひとつ立つ記念碑[4]」と呼び、ソ連時代に出版された日本語訳の解説などでも「中世ロシア文学の頂点[5]」と紹介される。古フランス語叙事詩ローランの歌』などと比肩される。
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by katoujun2549 | 2017-04-27 21:26 | Comments(0)

カトリックでは輪廻転生といった考えに関してははっきりNoと言う。中世のフランスで異端カタリ派がそのような考えを持っていた。聖書にもとずく信仰を持っていたが同時に、マニ教やグノーシス的な考え方をもった異端カタリ派がラングドック地方、カルカッソンヌなどで勢力を持ち、多くの諸侯が信奉していた。カルカッソンヌには巨大な城壁をもつ城塞があり、ついにはアルビジョワ十字軍が編成され、カタリ派との戦いが繰り広げられた。当時の時代背景としてローマ教皇庁内部の腐敗に対して、カタリ派のもつ純粋な信仰と、清貧な生活に対して共感を持つ人々も多かった。カタリ派の教義は複雑で自分には説明できるほどの知識はないが、当時腐敗しつつあったローマ教皇庁への批判という意味においては後の宗教改革の布石となったといわれている。 アルビジョワ十字軍によってその拠点、カルカッソンヌがあっけなく落城し、カタリ派のみならず、多くの民衆が略奪暴行処刑によって命を落とし、フランス史における汚点ともなっている。「カルカソンヌを見ずして死ぬな!」と作家メリメが明言し、欧米ではモンサンミッシェルに匹敵するほど有名な、南仏の偉大な世界遺産となっている。全長3kmの城壁内では中世の街並みが広がり、寺院や野外劇場など多くの見所があるが、この城塞都市がカトリックの異端の中心であり、異端審問や大殺戮があった場所であることを観光客はどう見ているのだろうか。カタリ派の信仰は現代のキリスト教信仰にも示唆を与えてくれるが、教義的には誤りであると自分は思う。カタリ派ではこの世は穢れ、魂の救いは清貧の生活と選ばれたものが与えられるとするが、キリスト教では行為義認や自力救済は否定される。プロテスタントもカトリックも同じような禁欲を是とするが、結果は同じでも救いは神によって行われる。輪廻という考えもない。カタリ派はキリスト教の経典を利用した全く別の宗教で、これは今日のエホバの証人や統一教会にもみられる異端の特徴である。

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カタリ派は善悪二元論である。神は天、霊、魂を作った。地、肉体、物質は悪しき神が作った。ヨハネによる福音書を根拠にしているとも言われ、物質世界という悪しき牢獄を脱して真の故郷である天に還ることが人間の救いであると説いた。彼らは信仰共同体を成立させた。カタリ派では完徳者と言って、聖職者階級とは違うのだが指導的な階層で一般信者もいずれ完徳者になるのだが、それまでは普通の生活を営み、多くの一般信者は死を悟った時に唯一の秘蹟であるコンソラメントウム(救慰礼)を受けて完徳者として死去するため、肉体の枷から解き放たれるのである。

南仏では人口の半分がカタリ派となった地域もあった。カタリ派の考えは神・霊・キリストの三位一体を基盤とする神学を有するローマ教会と対立した。キリスト教はパウロの時代から聖書や教会の成立時からこうしたグノーシス主義の考えと戦いを続けてきた。これに対してローマ教会は、異端審問を制度化しアルビジョワ十字軍を送ってカタリ派の殲滅(改宗か火刑)を図る。イノケンティウス3世は、1208年には十字軍の招集を最終的に決断し、異端幇助者たち(南仏の地方領主)の財産を没収するというアメを十字軍に与えた。かくして、シモン・ド・モンフォールが大活躍する。しかし15年を費やしたアルビジョワ十字軍は最終的には敗退する(1224年)。南仏全体を接収するためには、やはりフランス王の出馬を仰ぐしかなかった。こうして異端撲滅とフランス王家による南仏併合が同時進行したのである。1229年のパリ和約によって、シモン7世の広大な領土はフランス王ルイ9世の手に渡ることになった。1244年にはカタリ派の拠点、モンセギュールが落城する。そして、フランスのラングドック進出が最終的に完了したのは1258年のことであった。


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by katoujun2549 | 2017-04-24 12:16 | Comments(0)
>2016年のノーベル賞はベラルーシの女性作家スベトラーナアレクセイビッチnに与えられ、村上春樹ファンをがっかりさせた。今日その作品の翻訳を手掛けている松本妙子さんを囲む会が中野中央町のモモガルテンという民家改造の喫茶店で行われた。
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チェルノブイリの事故で何が起きたのか、消防隊の死者が出たことや周辺住民の半径30キロメートルのエリアが立ち退きとなり、多くの人々の人生が狂ったのみならず、共産主義の夢がゴルバチョフ政権と供に崩壊していった契機ともなった事件であった。このチェルノブイリの祈りはそこにいた人々のノンフィクション取材による多くの物語を記したものである。死にゆく消防士の家族の声が聞こえてくる。
事故が起きたとき、周辺のアパートに住んでいたのは原発で働く人々だが、皆アパートのベランダから燃えている原発を見ていた。炎から様々な色の光が輝き実に美しく、これを見たいために他人の家に行って見物していた人もいたそうだ。驚くのは逸話、周辺地域では養蜂が盛んであったが、事故が起きたとたん30キロメートル四方の蜜蜂やスズメバチが消えてしまった。政府が事故を発表したのは発生の10日後だったが蜂は1日で逃げてしまった。事故翌日から釣りをるためにミミズを掘っても、どこにもいない。何と1メートル掘ったら出てきた。
昆虫やミミズは何故か危機を直ぐに察知出来たのだそうだ。チェルノブイリ周辺の市場でリンゴを売っていた。汚染されているかもしれないリンゴを買う人などいないだろうと売り子のおばさんに聞いたらよく売れるという。えっ誰が買うのだろうと聞くと、女性が姑のお土産買うんだそうだ。・ーーーというブラッジョークでした。こんな話題もー淡々と語る松本妙子さんのお話の夕べを過ごしました。</div>

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by katoujun2549 | 2017-04-22 00:06 | Comments(0)
聖ロシアの惑乱 野田正彦著

プーチン政権が14年、ウクライナ領クリミア半島を武力で自国に プーチン政権が14年、ウクライナ領クリミア半島を武力で自国に編入し、東部にも軍事介入したことで、ウクライナではロシア正教会離れが急速に進んでいる。15年の世論調査によると、モスクワ系の教会への支持は20%、一方のキエフ総主教庁の支持は44%に伸びた。14年以降、60~70の小教区がモスクワ総主教庁系からキエフ総主教庁にくら替えしたというロシア正教会はモスクワに本拠をおき、ロシアにおけるキリスト教の総本山である。プーチンは熱心な信徒であることは今日よく知られている。
宗教戦争はイスラム教のISのように凄惨な大量殺戮になりやすい。ヨーロッパの30年戦争ではドイツの人口がペストの流行と相まって半分になった。ロシア革命はソビエト政権という唯物論的な共産主義活動が実は宗教改革の無かったロシアにおける宗教戦争であり、ソビエト政権は共産党の一党独裁という「無神論的」党を偶像とする一神教の布教者であった。だからこそ、3000万人もの犠牲が出た。ナチスもカルト集団であった。ウクライナはキエフを中心としたキエフ総主庁がモスクワ総主教庁からの独立を画策している。ロシアのモスクワ宗主教庁傘下の約3万の小教区の3割はウクライナにある。「伝統的な宗教と核の盾がロシアを強国にそひ、国内外の安全を保障する要だ」といっている。
ロシア正教会はプーチン政権の一機関なのである。ウクライナはキエフ・ルーシ公国のウラジミール1世がコンスタンチノーブルから洗礼を受けたことから始まるロシア正教会発祥の地である。ところが、モンゴルの来襲により、ロシア正教は本拠をモスクワに移さざるを得ず、ロシアのツァーリズムと結合するニーコン改革を行い、ロシアの支配階層としての役割を果たした。レーニンは教会を否定、フルシチョフも弾圧した。ところが、スターリンはグルジアの神学生だったこともあり、第二次世界大戦を乗り切るために教会を利用した。かつて、教会で告白するとOGPUに通報されて逮捕されたり、教会はソビエト政権とも癒着を繰り返した。今のキリル宗主教はクレムリンに公邸を構え、親欧米に転じたウクライナを邪悪な一派として闘争を呼び掛けている。
そもそも、プーチンは祖父の代からニーコン改革に異を唱えた古儀式波という家系だったこともあり、ロシア正教の一分派であっった。ロシア革命当時は1000万人の信徒と3000人の神父がいた。革命政権から厳しい弾圧を受け壊滅的な減少となったが近年息を吹き替えしてきた。分離派ーラスコリニキ、スターロオブリャーツィという。今のロシアには西欧からバプテスト、メノナイト派などのプロテスタント、アジアからは統一教会、また、新興宗教がペテルスブルグのべサリオ、キエフの白い兄弟といったカルト集団も生まれ、終末論と救済を軸にロシアにおける精神的空白に取り入っている。ウクライナ正教の分離独立はロシアの解体に繋がる危機と見てプーチンの核の使用発言があったのだ。彼らの危機感は半端ではない。ウクライナ周辺ではコサックの再興、帰還運動、又、ドイツ人コミュニティの復活など民族運動もあり、民族運動としての古来宗教行事を復活させようという偶像崇拝正教といったグループも活動している。1991年のウクライナ独立はサボロージェコサックの夢でもあった。この野田氏の著作はロシアにおける様々な宗教、民族の活動を取材し、旅行記の形でロシアの宗教的実態を我々に示し、共産党政権時代も脈々と流れ続けられたロシア人の宗教世界を見せた作品となっている。

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1.ロシア革命は失敗した

ロシア革命はソビエト連邦という巨大な官僚制国家を生んだ。共産主義という目標のもと、多くの人々が犠牲になった。この事は中国の内戦、文化大革命で、又、カンボジアのポル・ポトの支配でも起きた。共通していることは、市場経済を導入することに失敗し、農業政策を誤り、官僚制の貫徹のために粛清が行われたことで、これは今の北朝鮮でもおきていることである。特徴的なのは、その規模が大きく、犠牲者の数が戦争より多いことである。ロシア革命は今年で100周年となる。ツアー体制の転覆には成功したが、革命のめざした階級のない社会、貨幣の不要な平等な社会の実験は恐ろしい結果とともに失敗した。

2.スターリンの敵は農民

ロシア革命は国内生産力の極端な低下を招いた。NEPという市場経済を一部導入した経済政策である。レーニンは共産制に移行するのが無理と見て、市場経済を導入した。ゴスプランという科学的な統計手法を使い生産と分配、供給の理論を使い、計画経済を進めた。これは間違った理論であったが戦後も続けられ、ブレジネフの時代まで続いた。ネップは10年続き、農村は疲弊し穀物の国家保有量は1913年を100とすると2年間で94%も減少し、10年経っても75%にしかならなかった。このため、餓死者は300万人~500万人にのぼり、クリミヤタタール50万人の死体が放置された。人々は人肉まで食べ始めた。レーニンは対策と称して教会財産の没収を始めた。賛成した聖職者も含め、聖職者達の8000人が処刑された。5ヶ年計画による生産力の増強を行ったが食料の農民からの収奪は続き、備蓄は回復したが農業政策は見事に失敗し、食料不足は続いた。これを富農、中農ークラークのせいにして農村人口の5%40万人を絶滅させるべく追放した。

3.コルホーズ

これはコルホーズという集団化の過程で300万人がクラークのレッテルをはられ追放された。彼らは貧農と違い、実際は生産性の高い農業の担い手であった。1932年に5ヶ年計画は終了したが、500万人~700万人の餓死者が出た。農民の反乱は1930年には300万件、900件以上の武力闘争をOGPUや赤軍が鎮圧した。スターリンの敵は農民であり、その責任をクラークにして貧農の憎悪の対象とし、コルホーズの推進に利用した。農業生産が回復しても、穀物は輸出に振り向けられ、軍備に使われたので都市の労働者の配給は依然少なかった。革命が労働者を中心に行われたかというと、そうでもない。確かにロシアの課題は工業化の遅れであった。工場労働者は1%にも満たなかった。ロシアは農業国だった。工業化の推進は虚三島の悲願だった。しかし、工業化は進み、その成果は軍備増強に向けられた。その結果、独ソ戦には大いに兵器を供給することが出来た。民生品は依然乏しく、これらが供給されるのは戦後、1960年後半まで待たなければならなかった。軍備は収容所列島の強制労働によって進められた。核兵器や宇宙開発の基盤は彼らによってなされたといって良い。民生品の供給不足は女性用の下着や靴下にもおよび、1960年代にソ連のバレー団が日本に来ると団員が下着や靴下を買いあさり、日本の招待者はびっくりしたという。

4.責任者はスターリンだけではない

こうした弾圧を実行したのがモロトフやカガノビッチである。失敗に対して反スターリングループが生まれたが、これに対する大粛清が始まった。1933年春の17回党大会の参加者は4年後1966人中1108人が逮捕され848人が銃殺された。1934年のスターリンの盟友キーロフ暗殺後粛清はピークを迎えた。1936年カーメネフ、ジノビエフなどの旧左派の幹部13人がスターリン暗殺を企てたとして処刑された。OGPU長官ヤゴダもブハーリンとともに銃殺された。次のエジョフは治安担当の党書記となり、中央、地方を問わず辣腕を振るった。
チェリヤビンスク州では4000名の指示に対して14000人を銃殺した。しかし、スターリン、モロトフが1938年に銃殺指令を出したのは3167人、最高裁で最高刑を宣告されたのは1937年から38年で38679人。党幹部、経済官僚、軍人など72,590人が銃殺されたが、地方では5倍の30万人は殺された。エジョフは137万2393人を逮捕、68万1692人を銃殺した。これは正式に裁判を経たものだけで、ゴルバチョフが明らかにした数字である。エジョフが銃殺しようとしたべリアが長官になると彼も銃殺されてしまった。その後のベリアはスターリンの忠実な部下としてその死後も活躍したが、フルシチョフとの権力闘争に敗れ銃殺された。まるで国家がテロリストに乗っ取られてしまった様相なのであった。スターリンが幹部を処刑している情報に一番喜んだのはヒトラーだったという。ソビエト連邦が軍事的経済的に弱体化することはナチスドイツの利益だった。共産党右派が粛清されたことは若手の台頭を後に促進することになる。ブレジネフやアンドロポフなどの成長によって戦後のソ連の発展が用意されたのである。ブレジネフはマルクスレーニンの著作に関心がなかったという。

5.収容所列島

銃殺されなかった者は収容所に送られ、白海バルト運河、モスクワボルガ運河などの強制労働に従事し、多くが死んだ。1938年には225万9000人が収容所に送られた。独ソ戦開始時1941年230万人が収容され彼らは軍隊と経済生産要員に振り分けられた。第二次世界大戦での犠牲も凄惨である。ドイツ軍の捕虜になった者は開戦直後の1941年だけで380万人、全体では620万人であり、そのうち戦後解放されたのは4割、60%のほとんどが餓死した。解放された兵士も捕虜になったことを批判されシベリア送りとなった。レニングラード900日の攻防戦では市民230万人が餓死やドイツ軍の攻撃で死んだ。収容所列島は戦後も存在し、核開発のためのウラン鉱山、輸出のための木材切り出しなどの過酷な労働に従事した。

6.第二次世界大戦

第二次世界大戦で866万8400人が軍人として亡くなり、ペレストロイカ後の調査では国民の2760万人が犠牲となった。確かにスターリングラードなどの激戦で亡くなった兵士もいるが、無謀な突撃や人命軽視の作戦での犠牲も多かった。これだけの犠牲に対して全く反省のないのが、ソ連を支えたモロトフなどのスターリン官僚である。このような国と日本は国防や北方領土交渉でお付き合いしなければならないのである。我々が高校生当時、歴史の教員は共産主義に共鳴したものが多かった。彼らはこのような実態を知っていたが知らん顔をしていたか、本当に知らず、この実験国家をアメリカ資本主義の批判することでソ連を擁護していた。共産主義は歴史の必然とまで説いた。





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ソ連 党が所有した国家 下斗米伸夫著

鉄のカーテンに閉ざされた共産主義体制の牙城ソ連の誕生から崩壊までの政治史教科書といって良い。グラスノスチにより情報公開され、ソ連の実態が明らかになった。ロシア革命は「内戦、階級闘争が逆に巨大な官僚制を作り、そのにないてになることに何の問題も感じていなかった。いな、国家の巨大化を通じて「国家の解体」と社会主義の勝利が可能であるという背理を内包していた。党は自ら組織化し、官僚制となり、その担い手を粛清した上で大衆党と化した。226p」その中でモロトフを軸にその栄枯盛衰を語っている。ソ連の出来事は新聞で断片的な情報しかなかった。ペレストロイカによってその全貌がわかってきた。第二次世界大戦でロシアの戦死者は軍人で800万人、ソ連時代に政治要因によって処断された1150万人は公式数字である。国民全体では2750万人である。
追放移送、食料の没収によって餓死や死亡した国民は1000万人は下らない。スターリン死亡時に収容所には250万人が拘束されていた。その政策のほとんどに関係していたモロトフを軸にソ連の歴史を語っている。我々の世代は資本主義国家アメリカと対立したソ連を教条的にしか学んでいない。ロシア革命は労働者の革命だったのか、1925年時点で工場労働者は191万人と人口の1%しかいなかった。ソ連は農業国だった。ボルシェビキも、SLも農地の解放を訴え、共産党は軍備のため農民の穀物を輸出のために取り上げ、何百万人もの餓死者を出した。平等な社会を標榜し、特権階級ノーメンクラトゥーラを生んだ。物資の適正配分の仕組み、ゴスプランが機能していないのに市場経済を批判した。ロケットや宇宙開発、軍備は収容所列島の強制労働によって実現出来た。そのような仕組みはどこかで行き詰まる。自壊したのも当然であった。この書ではスターリン以降も政策の中核にいたモロトフを軸に、フルシュチョフの権力闘争、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ、そしてゴルバチョフの政策を概観できるよう丁寧に書かれている。

ーザリ・カガノーヴィチロシア語: Лазарь Моисеевич Каганович1893年11月22日 - 1991年7月25日)は、ソビエト連邦政治家官僚ウクライナ共産党第一書記、ソビエト連邦運輸人民委員ロシア語版(運輸大臣)を歴任した。また、ヨシフ・スターリンの側近を務めていた。

ヴャチェスラフ・モロトフロシア語: Вячеслав Михайлович Молотов1890 - 1986年)は、ソビエト連邦政治家革命家。ソビエト連邦首相、外相。第二次世界大戦前後の時代を通じてヨシフ・スターリンの片腕としてソ連の外交を主導した。「モロトフ」はペンネームであった。
この2人はソビエト国家=共産党の独裁体制をスターリンと共に半世紀にわたり支えた官僚である。
ロシア革命はレーニンとスターリンによって地獄と化した。NEPと農業政策の強引な推進によって飢餓が生じた。革命時の民主的な統治や自治、組合運動は共産党一党独裁の中央集権に反する、反革命、労働者の敵とされた。革命の始まりだったクロンシュタット水兵と労働者1万5千人が殺害された。レーニンが始めた赤色テロは恐怖政治の始まりでチェカー、GPU、KGBといった秘密警察が逮捕監禁処刑を推進した。歴代の秘密警察長官は皆粛清された。輸出のための穀物調達は略奪と化した。これにより農村は数百万人の餓死者を出す。こうした施策はスターリンとその取り巻きによって実行された。その首謀者がこの2人であり、彼らはソ連崩壊直前まで生き延び、天寿を全うした。
世界はソ連で粛清によって大量殺戮が行われていることは知っていたが、その規模や過酷さはペレストロイカ後の情報公開まで知ることができなかった。ソ連の悲劇はスターリンだけではできなかった。多くの小悪魔達が仕出かしたこと。その筆頭であった2人は大量の犠牲者も革命と社会主義国家実現のため許容されるという考え方を死ぬまで捨てなかった。流石に中国共産党も日本の共産党もこうした事実は知っていたが、反スターリンの立場をとり、自らの社会主義思想を正当化していた。日本共産党の幹部の30人以上がソ連で処刑されている。野坂参三は共産党の最高幹部であったが、100才を越えて、実は日本公安のスパイであったことがソ連からの情報で明かになり除名された。こんな政党が今もなお国会や地方政治に関わっていること自体全く理解できない。彼らの人権抑圧体質は今もかわらない。彼らの社会主義が共産主義とともに破綻した考え方であることを今なお宗教のような理念として保持しているとしたら恐ろしいことである。彼らの理想とする社会は一見理想の国家、平等や人権が守られ、理にかなった統治が行われるかのように見せ、実際は秘密警察や軍隊、裏切り密告が横行する世界なのであるカルト集団のような体質を今なお持った政党がもっともらしく、時の政権に反対意見を述べ、便利なのでマスコミは流すが一体どういう了見だろうか。中国も北朝鮮も全体主義的中央集権統治であり、ナチス以上の国家犯罪を産み出す共産党、共産主義を許すわけにはいかない。




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ブータンという国がある。人口70万人の小国。昨年、日本に国王夫妻が来日し、皇室とも親交を結び、マスコミはGDHの高い国として、貧しくとも国民が幸せと思っている国として、紹介されることが多い。我々はブータンに関してはネパールに近いヒマラヤの麓にある農業国位しか知識がない。この国が人権抑圧国家であることも知らない。この国がなぜ成り立っているかというと、ヒマラヤから流れる河川で水力発電を行い、外貨を獲得し、これを医療費や教育費にあて、社会福祉を行って国民の不満を抑え、一部のエリート以外は海外の情報を遮断、国民の個人主義をコントロールし、消費を拡大しない政策を行っている。これは江戸時代の日本のように鎖国政策を行い、情報を遮断、GDPならぬGNH(GrossNationalHapiness-国民幸福度指数)という訳の分からない指標で国民の目くらましをしているのである。ブータンは、政策決定に当たって経済的発展より国民の幸福を優先した政策決定を行うことを国是としている。よく誤解されているように、「GNHが高い=国民すべてが幸せ」な国であるわけではない。この国がネパール人10万人を国外に追放し、彼らが今なお難民生活を送っていることは報道されない。現在ブータンの名目GDPは約20億ドル(2015年、国際通貨基金による)。調査対象となっている189カ国中166位と、世界でもかなり貧しい国のひとつであり、GDPが支配的な評価基準となっている国際社会で存在感を示すには、それ以外の尺度が必要だった。
Huffingtonpost オカチヒロ氏のブログを要約すると次の通り
http://www.huffingtonpost.jp/chihiro-oka/the-country-of-happiness_b_9467046.html

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経済は人間の幸福において重要な役割を果たすが、物質的な豊かさのみならず、精神面、文化の安定と繁栄、環境保全が経済と同様に重要である。経済的な発展は達成しても、同時に独自の文化が脅かされたり環境破壊が進んだりする恐れがある。ブータンでは近年、道路が整備され外国資本と外国人が流入し、税制や教育制度など近代国家としての体制が出来上がり、現在に至っている。といっても近代化が本当に進んだのはここ20年程度のことで、テレビ放送が始まったのは1999年だ。それまではテレビ受信機の所有は原則として違法、インターネットが解禁されたのも同年である。首都への一極集中、貧富格差の拡大、そしてブータン人そのものの価値観の変化に直面している。政府は地方の活性化と農業促進を目指すが、都市部での生活を知った若者は田舎に帰りたがらず、親が子どもに農業をやらせることを望まないという。少子化も進んでいる。環境問題にも熱心に取り組み、無農薬感心が強い。世界の多くの国が半世紀以上をかけて経験したことをブータンはその半分以下の期間でやった。数年前までは世界でも最貧国の1つだったが、水力発電と観光業を主軸に据えた経済政策で国は発展を遂げている。発展途上国の中で貧しいなりに最低限の生活は保障されている。医療は基本的に無料だし大した産業が無いから、失業者が無くならない。医療水準が低いから、金もかからない。その程度なら日本だって無料にできる。2007年に実施された議会制民主主義への移行後、国民によって選ばれた初の政府となったティンレー政権がGNHを前面に押し出したのに対し、2013年の選挙で景気拡大を公約に掲げて当選したトブゲ首相はGNHのプロモーションに慎重な姿勢を見せている。経済界を始め知識人の間では「GNHは諸刃の剣」という意見も多い。経済発展と精神的な豊かさ。近代化と伝統。開発と自然保護。これらのバランスを取ることは難しい。理想の国をめざし、鎖国政策のようなことを行った北朝鮮やソ連のような悲惨さはない。この世の楽園を標榜し、地獄を生んだ中央集権国家は歴史上多いのだ。ブータンはその点平和である。

ブータン政府はGNHの定期的な調査により「心理的幸福」「時間の使い方とバランス」「文化の多様性」「地域の活力」「環境の多様性」「良い統治」「健康」「教育」「生活水準」の9分野で33の指標の達成率を見る。指標には「世帯収入」「識字率」「睡眠」といった数値化が比較的容易なものから、「人生の満足度」「地域社会との関わり」「政治参加」「技芸」など多岐に渡り、達成率が77~100%は「非常に幸せ(deeply happy)」、66~76%は「広範囲で幸せ(extensively happy)」、50~65%を「かろうじて幸せ(narrowly happy)」、0~49%は「幸せでない(unhappy)」と定義される。

2015年の調査では全人口の約1%に相当する7,153人を対象に対面で各人に148の質問をし、「非常に幸せ」は8.4%、「広範囲で幸せ」は35%、「かろうじて幸せ」は47.9%、「幸せでない」は8.8%という結果が出た。若者はともかく、国民の識字率が半分に満たない国の調査なのだ。イギリスのレスター大学のエイドリアン・ホワイト教授の調査(2006年)ではブータンはスウエーデンの次で8位、日本は90位なのだそうだ。日本は中国より低い。しかし、別の調査では逆転している。そもそも、このような主観的な調査にどれだけ意味があるのだろうか。今の日本人でこの国に住みたいと思う人は少ないだろう。


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by katoujun2549 | 2017-04-12 16:08 | Comments(0)
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「外套」(Шинель)は、1842年出版のニコライ・ゴーゴリの短編小説。本作は近代ロシア文学の先駆けとなり、多くのロシア作家に影響を与えた。ドストエフスキー は、「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と語ったと言われる。この短編の何が凄いのか、読んだ直後は良く分からなかった。一緒に入っていた「鼻」も読んだ。この外套の主人公も、鼻もロシアの官吏の話である。貴族や将軍の雄大な物語でもない。外套も鼻もある種の空想物語か、何のメタファか自分には見当がつかなかった。外套は糞真面目な大して給料も多くはない公文書の清書を仕事としているアカーキィ・アカーキエヴィチの物語。倹しい下級官吏が必死の思いで外套を買い、これが強奪され、そこから人生が終わってしまう気の毒な話である。取るに足らない庶民の姿をゴーゴリは愛情を持って書いている。彼の作品からはペトロクラードの寒々した街路や、うらぶれた街角のイメージが伝わってくる。鼻はある下級官吏の鼻が無くなってしまい、その鼻が一人歩きするという奇想天外な物語り。村上春樹の小説を思わせる。これが19世紀の初期に書かれたところが凄いのではないか。19世紀にはドイツではホフマン、アメリカではポーが怪奇な世界を描いている。その出発点がこの外套と鼻なのである。確かにスノビズムがあるかもしれない。サロンで話題になるような物語をゴーゴリは書いて、奇想天外な発想を読ませ、皆を唸らせたかった。ところが、そこが天才作家の凄みで、当時のロシア社会や人間の未来までも描いてしまう。外套や死せる魂にも役人や地主階級などが登場人物だが、半世紀後に凄惨なロシア革命が起きるなど予測できなかった。しかし彼はロシアの社会の行き詰まりを描き出していた。ドストエフスキーもトルストイも影響を受けた。鼻のメタファーは強烈だったのだろう。

鼻はショスタコビッチが書いた最初のオペラ。ソビエト社会主義の中で体制側としてスターリンの寵愛を受け、その批判との二枚舌に揺れた芸術家が何故これを書いたか興味深いそれまでの小説にはなかった革新性が二つの物語りの中にあるのだ。死せる魂も今読んでいるところだが、これも死んだ農奴の戸籍を集めるという奇妙な話なのである。19世紀の前半、ナポレオン戦争後のロシアは啓蒙思想や自由主義に揺れていた。ゴーゴリの生きた時代はロマノフ王朝末期のロシアである。ヨーロッパの近代化に遅れ、農奴制度や官僚制の重圧に社会は停滞する。デカブリストの乱『1825年』が鎮圧された後の、閉塞した時代をゴーゴリは生きた。近代化改革を行ったアレクサンドル2世が暗殺され、革命の扉が開く以前の古いロシア時代を生きた。官僚社会を見事に描き、それが当時の読者の共感を得たからこそ名作として残っているのである。ゴーゴリは社会改革者ではないし、フランスのビクトルユーゴのような社会批判を雄弁に語るのでもない。その時代の精神とは何か、自分はロシアの歴史や社会に関する知識もなければこれまで興味もなかった。しかし、昨年の暮れ、you-tubuでロシア映画のタラスブーリバを見て、これが昔のハリウッド映画の隊長ブーリバであり、その作者がゴーゴリであることを知って急に興味がわいたのである。ポーランドの大平原で繰り広げられる戦いの中にあって展開するコサックの父と兄弟の物語りにゴーゴリはロシアの自由な精神と大地が表現されたと思った。彼は他に名作『検察官』を書きこれも官僚制に辟易とした庶民の姿を描き喝采を受けたのだ。ゴーゴリの凄さはまさに彼の生きた時代の精神を見事に描き伝えたところにあるのではないだろうか
。話はかわるが、今なお化石のような社会主義?中央集権国家の北朝鮮の脅威が恐怖に変わろうとしている。世界から切り取られた鼻が一人歩きしてテロをはじめたとしたら。現代にも鼻は生きている。
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吉祥寺の東京女子大学前にあるケーキ屋さん
アテスウエイのモンブランが最高との評価がある。モンブランだけのためにわざわざ吉祥寺まで行く気にならないが、一度味わってみたいものだ。しかし、ケーキの味にランクをつけるなら、一体どんな基準だろう。個人の嗜好の要素もあるし、価格も無視できない。自分は大久保駅にほど近いトリアノンのモンブランを標準とし、市川市八幡にあるドルチアのモンブランを東の横綱としたい。web情報だが銀座サロン・ド・テ アンジェリーナ プランタン銀座本店のモンブラン美味いらしいが、価格は485円と高め。市川は370円だからねえ。さすが銀座。

西の横綱
アテスウエイのモンブラン
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東の横綱
ドルチェのモンブラン
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今年の桜は4日ごろから満開が始まった。市川八幡の境川の桜は遅く、2分咲き。中野通りの桜は満開になってきた。
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