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咬む力が強いアメリカンピットブルだが、普段は優しく、飼い主に忠実である。
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                 攻撃性の強い犬に仕立て上げれば恐ろしい凶器になる
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ワン子と咬傷事故

 自分は実は猫よりは犬が好きである。感情をあらわにして、帰宅すると大喜びで飛びついてくる。犬は愛情の塊のような動物である。もちろん、猫も実はそうであることが飼ってみるとわかってきた。家で飼う動物にとって飼い主は全てであり、愛情によって生きている。家族の一員だが、実は必ず別れの時が来る。これが辛い。ペットロスである。しかし、命のはかなさ故に愛おしさも大きいのである。

 最近のネコブームに対して、わん子で頑張っているのはSoftbankのCMのお父さん(北海道犬:アイヌ犬)とギガちゃんの白いポメラニアンだろう。マンションに住む家庭が多くなり、犬よりはネコの方が飼いやすいこともある。猫は散歩に連れて行く必要がない。トイレは自分で決まったところでするから、おしっこのシートと糞の掃除さえマメにすれば良い。猫によっては春から夏にかけての抜け毛を梳いてあげる必要はある。それに対して、犬は部屋で飼う場合でも、活動的で、吠え声も気になる。餌も量が多い。特に大型犬になると糞の大きさが半端ではない。手間がかかる分一層可愛いのである。自分は子供の頃は家でスピッツを飼っていた。中学の頃は、犬に凝っていた叔父からもらったボクサーを飼った。これは4年であの世に逝ってしまった。フィラリアで晩年は苦しそうだった。心臓が弱って亡くなった。当時は犬を外で飼うことが常識だったから、蚊の媒介するフィラリアにみなやられていた。最近は予防薬や治療薬が開発され、この病気で死ぬ犬は減った。今は癌が第1位だそうだ。ボクサーは中型犬というが、力が強く、家の塀や器物を壊して周って困ったが、基本的には飼い主に忠実で優しかった。家族が家に帰ってくると、2mくらいジャンプして門に体当たりして喜ぶので、木製の門が破壊されてしまった。散歩も引きづられないように自転車で回っていた。ボクサーの筋肉隆々とした走りっぷりは見事で、美しかった。ボクサーが亡くなって1年後、フォックスハウンド系の犬を飼い、11年間育てた。この犬との付き合いが一番長く、思い出深い。もう一度できたら飼いたい犬種だが、ブリーダーはほとんどいない。50万円かければ海外のブリーダーから輸入できるそうだ。当時は近所の牛乳店で秋田犬を2匹飼っていたり、材木店では土佐犬がいた。大型犬が結構多かった。今は、トイプードルとか、ポメラニアン、ダックス、柴犬など小型の犬が、「可愛い」ということばかりで飼われているような気がする。一方、海外では、もちろん日本と同様な「可愛い」犬も人気だが、一方では大型の「猛犬」を好む人も多い。特に、一人住まいの女性や高齢者が大型の犬を飼うケースが多い。アメリカは犯罪が多いために番犬は強力な犬が好まれる。それも、アメリカンピットブル、ロットワイラーといった猛犬に人気がある。ドイツシェパードも多い。だから、こうした犬の飼い方に間違いがあると、とんでもないことになる。とにかく咬む力が凄い。ボクサーもそうだったが、実はアメリカンピットブルも、ロットワイラーも飼い主にはおとなしく、可愛らしい犬なのである。アメリカで、猛犬に殺されるような事故が結構多い。毎年450万件の噛みつき事故があり、その半数の被害者が子供である。また、郵便配達人が何故か、犬のターゲットになりやすく2013年には5581人もの配達員が被害にあった。そのほとんどが飼い犬である。事故を起こすのは雑種も多い。犬好きのドイツでも事故は結構あるようだ。欧米ではマッチョな筋肉質の犬が好まれる。日本では4000件ほどで、咬傷事故を起こす犬種は秋田犬が1位で2位はピットブルだそうだ。日本で数が少ない割にピットブルが2位というのはこの犬は結構凄いなあという感じだが、3位から6位までは小型犬が多かったのは、日本では小型犬好みで数も多いのだろう。また、大型の場合は力が強いので大きな事故になるが、小型犬は死亡事故にはならない。アメリカでは1979年から1998年の20年ほどの間で238件の死亡事故があり、死者の半分がピットブルに噛まれたという。時代に応じて、人気の犬種によって、ロットワイラーやジャーマンシェパードに殺されるケースも多かった。日本では反町・松嶋夫妻のドーベルマンが同じマンションの住民女性に噛みつき、それが原因で被害者が転居したため、裁判になり、管理会社に1750万円支払う損害賠償命令が出た。事故を起こした犬は殺処分が常識である。

 


 大型犬というのは事故の面からは、子犬の頃からの躾が大事だが、その後も、家族との関係でとんでもない事故を起こすこともある。犬は家の中の秩序をわきまえており、家の大人夫婦が目上だと思っていても、子供は下に見ることがある。子供が散歩に連れて行くと自分が主導権を握ろうとして勝手に走ったりして、手を離した隙に興奮して人を咬むケースがある。反町家のドーベルマンもそのケースではないだろうか。大型の犬を飼う時には細心の注意が必要である。自分も本当は、マッチョな大きな犬が好きだが、将来、孫が遊びに来た時に万一のことがあってはならないので、飼育を控えている。小型犬は可愛いが、愛情表現は大型の方が豊かなのである。家で飼うには、ボストンテリアとか、ビーグルがいいのだが、こうした小さな犬でも咬傷事故はあるから気をつけねばならない。推測だが、飼い主が犬に注意を注ぎ、愛情深く育てていれば事故は起きない。ところが、人間にも事情があって、忙しかったり、愛情が持続しない時もある。そんな時に病気になったり事故は起きるのだろう。犬は飼い主の愛情の塊なのである。この愛の持続に自信がなければ飼わない方が良い。


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by katoujun2549 | 2016-04-21 01:47 | | Comments(0)
信長と光秀

 日本の歴史の大転換点は戦国時代の信長から家康の時代、そして、明治維新である。だから、今もなお、テレビドラマの時代劇はこの時代ものが多い。80%といってもよい。人気は信長、秀吉である。この2人は欠点も多いが、現代にも通じる改革を行い、独創性に富んだ成果をあげた。家康は前の二人が創造した成果を巧みに取り込み、250年の平和と権力を作り上げた。そしてそれを解体したのが明治維新である。最後に、日本の米英との開戦と敗北、再建の現代史である。明治政府は織田、豊臣、徳川について自らに都合の良い解釈を行った。豊臣は織田を、徳川は豊臣を批判し、自らの正当化の為に勝手な解釈や、文書の改竄を行った。そのため、今日の歴史観においても、不明、あるいは誤った出来事の記録がそのままになって後世に伝えられ、説明に用いられた。特に、歴史の教科書や、ドラマにデタラメな解釈が目立つ。人気のある太閤記などは講談などで秀吉を庶民の生んだ英雄として描こうとする。信長と秀吉という関係が強調される。しかし、実際は信長は光秀を最も頼りにしていた。太閤記は信長と秀吉が中心に語られるが、実際は光秀と信長の関係が軸に戦略は練られた。独裁者は必ず腹心を持っている。後に追放された佐久間信盛などは桶狭間の戦いの功労者で、1560年、今川義元との桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、恩賞とした鳴海城を与えられ、後においても多くの功労があった。ナンバー2として光秀の上であった。しかし、部下として使いにくいとなると容赦無く捨てられた。その後が光秀であり、信長は信頼していたはずである。通説と、現代の検証結果と違っていることは実に多い。

1.桶狭間の戦い
 先ずは信長の桶狭間の戦いである。雨中、信長が馬に乗り、隊列の伸び切った今川勢を迂回した丘の上から横を切るように急襲するシーンが映画や芝居で描かれる。しかし、これは戦法としても良い作戦ではない。横から切り取るように部隊が進むと、逆Tの字となって、横隊から集中攻撃を受け、攻撃側は壊滅しやすい。これはバルチック艦隊が敗北した時の逆Tの字型陣形でわかると思う。実際は信長は今川勢を正面から攻撃し、伸び切った縦の線をTの字型に攻撃した。その時部隊の数は10分の1でも、対峙する戦線は敵からは全体が見えず、しかも、豪雨で奥に大した兵力が無いのが見えない。先鋒から押されて逃げてきた味方と攻撃側が入り混じり、大混乱となる。その内、今川義元は大将で、やや前の方に先陣に近い場所に陣取るから、陣屋の周囲から責め立てられて、2人の武士に首を取られた。義元も武術の達人であったはず。一番槍は服部小平太だが、彼は小平太の膝を切り、小平太は動けなくなった。助太刀に入った毛利新助が二人がかりで攻めて首を切ったが、その時、義元は彼の指を食いちぎるほど抵抗した。こんな状況はドラマでは見られないが、再現したら凄まじい光景だろう。信長の勝利は正面攻撃と天候によって成し遂げられた。豪雨に遮られて、攻撃陣の全容が敵からは見えず、今川の陣は縦に伸びた。信長は正にその時を計算していたのである。実際に桶狭間に行くと、坂から賭け落ちるような急勾配は無いのである。雷雨の中、坂落としのようなシーンはあり得ず、これは、ドラマの演出で面白おかしく描かれたものである。

2.明智光秀
 明智光秀は信長の懐刀であり、最も信頼された智将であった。信長の部下で、織田家の信長の若い頃からの武将よりも働きが良く成果もあげたのが、明智光秀であり、羽柴秀吉であり、柴田勝家であった。戦陣で消極的な行動で負け戦の原因を作った旧臣の佐久間信盛等は追放の憂き目にあっている。信長は越前を光秀に与え、安土城や京都に近い丹波亀山や大津坂本に城を築かせている。これは監視しやすいというより、頼りにしていたことの方が重要な点だ。信長は先を見る目があったし、あくまでも経営者として、戦略家として優れていたが脇は甘かった。最も横暴で疑い深かったのは苦労人の秀吉であろう。信長は光秀と謀略を練っていたという。戦略家としては光秀に一目置き、自分に反対意見を言える唯一の人物だった。その光秀が謀反を起こしたのは、戦略家たる彼の資質であった。光秀がどの様な出自であったかは不明と言われるが、実は土岐氏の足軽だった記録がある。当時の上司は細川藤孝であった。信長の光秀の重用により立場は逆転していた。光秀は自分の三女たま(後の細川ガラシャ)を藤孝の長男忠興に嫁がせている。その仲人は信長であった。信長から毛利領に大津から転封を命じられた事が謀反の原因というのは全くの誤解である。そのようなことはこれまでもあったし、いつでもあり得たからだ。
信長は彼に本能寺での家康の暗殺と天下布武の後、中国ー明の侵略を計画し、相談していた。信長は光秀を足げにしても逆らわない忠実な部下であると思い込んだ。光秀は、四国の長宗我部や家老の斎藤利三、細川と土岐氏の一族であり、再興を夢見る人物だった。その意味で、忠実な官僚であり、天下を取ろうとは思っていなかった。信長の包囲網は武田亡き後、家康と組めば完成する。そもそも、柴田勝家は信長が暗殺した信行の家臣で、信長の死後は織田家の忠臣だが、信長の子に義理はない。勝家も味方に付くだろうし、羽柴秀吉は毛利攻めで動けない。盟友の高山右近も味方にすれば信長の後継者は簡単に潰せると読んだ。土岐氏の再興は四国の長宗我部元親と構想していた。信長の支配と長宗我部の四国制覇を両立出来ると秀才らしく考えたが、信長はあくまでも平定しようとした。これが石谷文書で立証され、長宗我部元親から、信長謀殺の催促が出ていたことがわかっている。光秀は信長の家康謀殺を阻止し、光秀との密約もあり、家康は容易く伊賀抜けして清洲に帰ることができた。家康は光秀の家には感謝し、齋藤利三の娘を秀次の側室として、家光の乳母、春日局に仕立て上げたのであろう。光秀は信長と同じ考えを持ち、かつ戦略家だったからこそ、緻密に考えた信長殺害の閃きをえたのである。光秀の本能寺攻撃は彼の冷徹な判断の結果であり、思いつきではなかった。しかし、秀吉の予想外の大返しとも言われる急迫と高山右近や細川藤孝が山崎の合戦で味方にならず、敵方となったこと、又、思いもよらず、深手を負ってしまい、打ち取られたことは全くの計算外だった。謀略の達人でも合戦、特に野戦は上手くなかったようだ。光秀は山崎の合戦の後、家康のバックアップを期待したが、自身が深手を負うという最大の誤算で敗北した。

3.家康
 彼の功績は近代日本の基礎を築いたことである。明治維新ではなかったのかと思うかもしれないが、日本の国土を構成する土木工事、河川改修、田畑の整備の70%は徳川が成し遂げた。その主なものは、江戸ー東京という都市を築いたこと、利根川や木曽川の河川改修、寺子屋などの教育制度、官僚制度など。明治維新で薩摩長州に負けたのは軍事技術であった。江戸時代は教育や文化、自然の循環など現代でも学ぶべきものが多くある。これらを否定し自分達が西欧化の主役とした、明治政府は後に米英、西欧列強と戦うというミスを犯した。西欧化の主体は幕府が育てた多くの若者、海外留学生が成し遂げた。新島襄や山川健次郎などを見るとわかる。秀吉をやたらに持ち上げたのは、彼が朝鮮出兵し、これが日本の大陸侵略を正当化することに役立ったからである。信長と秀吉の唐入りは歴史の謎を解く鍵。信長に叛旗を上げた最大の原因であった。秀吉は朝鮮出兵が諸侯の反乱に繋がる事を信長の前例で知っているからこそ、事前に手を打ち、検地、刀狩、千利休切腹と秀次の抹殺を計った。家康は秀吉の失敗を見て、朝鮮や明との国交回復を目指した。明治政府はこの事も歴史から葬ってしまった。幕府政治は近代国家を西欧に互する力は無かった。しかし、薩長は家康は天皇をないがしろにしたと決めつけ、江戸文化をも西欧文化より劣ると否定した。歴史改竄の張本人は明治政府であり、こうした傾向、情報捏造の伝統は第二次大戦の敗北招き今日も続いている。安部政権より家康の方が余程世界を冷静に分析していた。秀吉は小牧長久手で家康に勝てず、徳川を最大の脅威と考えたことは信長と同じである。朝鮮出兵を危機と考えたのは光秀も同様であり、秀吉も、周囲の反発を恐れていた。その結果が利休切腹と英次抹殺っだった。日本ー明治政府が家康に学び海外派兵さえしなければ全く豊かな国になっていたであろう。

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本能寺の変431年目の真実 明智憲三郎著 文芸社文庫


 この本の著者 明智氏は明智光秀の子孫にあたるそうである。明智光秀は主君に背いた逆賊と思いきや、その子孫は結構残っており、明智家の系譜であることを隠し、全国に散った土岐一族に側室の子などが匿われたという。処刑された斎藤利三の娘、後の春日の局はおそらく、長宗我部に匿われたと思われる。この本で本能寺の変のみならず、後の秀吉の秀次や利休の切腹命令といった歴史の謎が解かれてきたように思えた。歴史の謎は決定的な証拠がなければ推測の域を出ない。その時代において常識的な思考によって解釈されることは否めない。この書は歴史の解釈に新しい知見を与えてくれた。信長も光秀も世を去り、2人の間にどんな謀議や関係があったのかは闇の中である。しかし、光秀の部下や関係者の手紙などから何が起きていたかを推測できる。この著者、明智氏は過去の太田公一の信長公記、秀吉の惟任(これとう)退治記などの矛盾した記述を解き明かし、又、文書などを検証、比較し、従来の通説や戦記物にとらわれない見解をベースにしている。これまでの戦記物ではない文献を基にしていることが説得力を与えている。通説をもたらした文献の意図が、変の前、5月24日に行われた連歌の会に発句として光秀が詠った「時は今雨が下しる五月かな」という句についてである。句会は直前の28日ではなく、反乱の決意表明ではなかったことを明らかにしている。光秀が信長に対する野望と怨恨によって個人的事情から謀反を起こしたことにしたかった。秀吉はこの句を「土岐氏である自分が天下を治める5月になった」と反乱の決意を述べたものにしたかった。この日付は28日で6月2日の変の直前とした。しかし、真実は24日で自分の属する「土岐氏は今この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる五月である」と詠んだのであった。このために連歌会の当日は雨の日であり24日だったことを文献から3人の日記、多聞院日記、言経卿記、家忠日記を調べている。石谷文書が裏付けた長宗我部元親の記録にあるように信長の長宗我部攻撃を前に、土岐一族の苦脳を伝えたものだった。光秀は土岐一族である石谷氏、家老の斎藤利三、長宗我部と同盟を結んで団結していたのである。それが信長によって崩壊し滅亡することを恐れていた。文献による緻密な検証は本能寺の変が信長の四国攻撃に対する長宗我部の謀略の一環であったことが明らかになった。しかし、これだけでは説明しきれない部分は状況証拠しかない。著者の見解では、秀吉は光秀を腹心として信頼していた。光秀は謀略の相談相手であり全てを知っていた。その中で、信長は天下を統一した後は「唐入りー中国侵略」を計画し、外様の大名を海外侵略に使い日本から追い出そうとしていたこと、また、邪魔者になった家康を招き、本能寺で暗殺することとそれに光秀の軍団をを使おうとしていたこと、それが成功すれば次は自分が責任を取らされ滅亡につながるという苦境にあったことである。これらはあくまでも推測だが、その後の光秀の一族が徳川から重用されたことや、家康や秀吉の行動に不思議がなかったことは、十分納得できる見解である。さらに興味深いのはフロイスやオルガンチーノが信長の情報をかなり掴み、また、記録も日本に無いものが残っていることが驚きであった。信長のボディガードとして送られた彌助という黒人が生き残り、詳細な報告をイエズス会に送っていたのであった。明智氏の従来説が、時の権力者によって改竄された結果であり、国策として残されたのであろう。信長と光秀が対立した原因となった幾つかの出来事は、その後、秀吉の朝鮮出兵や、千利休切腹、秀次の抹殺などに原因を与えたことも興味深い。家康の改易、春日局の重用などの謎に解釈を与えてくれた。

明智氏の本能寺のへんに関する解釈や、信長と光秀の関係につていは今後ドラマなどで新しい作品のインスピレーションを与えてくれるものであろう。著者は「織田信長432年目の真実」という本も幻冬舎から出している。この本の内容は、当時の武将が孫子の兵法、論語、韓非子を熟読し、そうした思想を元に政治、軍事を展開していることを実例をもって示している。文献と当時の思想に立ち返って歴史を見直すと、また違った風景が見えてくる。しかし、この信長編にかかれているものは、殆どこの本能寺の変バージョンに書かれている。


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SLばんえつ物語号に乗って会津に


新潟駅で
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                  Webから頂いた100年前の喜多方〜山都の
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 4月9日(日)9時30分新潟発の「ばんえつ物語号」の切符を2日前に買って会津に行った。このツアー、2年前の今頃切符を取ろうとしたら、満員とのことで諦めた事があった。人気かと思っていたが、今回は座席は半分も入っていない。客層を見ると、SLマニア風で、関東か来た方もいたが、大半は幼稚園に入る前のお子ちゃまと、夫婦、あるいは孫と一緒の爺婆なのだ。どちらかというと、例えば、動物園に何の因果か、来る羽目になったような家族連れが多い。アベックとか、ギャルからは敬遠されている感じなのだ。自分の趣味の悪さを感じてしまった。たしかに、いまどき、春の休日は車でドライブか、スポーツだなぁと思ったが、何せ孤独な60も終わりに近づいたオジンには相応しかったかもしれない。

日帰りのツアーである。この列車、会津に到着するのは13時30分。ずいぶんゆっくりである。

4時間かけてSL旅行というのは全国でも珍しいのではないか。自分が最初に記憶に残っているのは、生まれてまもない3歳くらいで、福岡県田川の祖母の家に預けられたこと。その時に筑豊炭田の石炭を運ぶSLの汽笛の音が物悲しく、祖母に背負われて陸橋から記者を見るのが楽しみであったことを覚えている。今回のSLはD57で、終戦直後のSLとは違い、汽笛の音も上品に聞こえたが、やはり、心を揺すられる音である。電車の電気音響を感じさせるブワーという音とは違い、心にしみてくる音色だ。新潟駅を出ると、日曜日の朝ということもあり、沿線の家に住む人々が手を振ってくれる。野球場の横を通ると、ユニフォームを着た少年が一列になって帽子を振ってくれた。電車には無い感動である。この磐越西線は汽車の写真マニアのメッカらしく、沿線のカーブ地点やトンネルの出口など撮影スポットにはカメラを持った人々が待ち構えている。手を振ってくれる沿線の人々の顔は皆良い顔をしているから不思議だ。世の中の暗い話題、バカバカしい話を拭い飛ばしてくれるかのようだ。SLの旅はなぜか爽やかなのである。沿線は桜並木は無いのだが、時に名も知れぬ桜の大木が満開になって我々を迎えてくれる。まだ、雑草が伸びる前、枯れ草からスイセンの花が群落になって黄色く輝いている。三川から津川にいくと阿賀野川沿いに渓谷が滔々と水をたたえ、ゆったりと流れてゆく。水は澄んでい無いのだが青い美しい色をしている。新津のJRターミナルを過ぎ、五泉の田園を抜けると咲花、そして三川から山都までは阿賀野川の絶景を楽しむことができるのである。喜多方から会津までは磐梯山を遠く望み、田園と防風林に囲まれた農家が田畑のなかに島のように点在する。昔、昭和44年に大学生であったが、会津若松で剣道の合宿をした時を思い出した。東京から会津に入ると、霞の中に点在する茅葺の農家が周囲を木々に囲まれ、島々のように田園に浮かんでいた。まるで江戸時代にもどったかのような原日本的風景に驚いた。今は二階建ての家が立ち並び、茅葺の家は覆いをトタンで冠り、青や赤の色ですっかり愛らしさを失った。

 この「ばんえつ物語号」は途中で乗務員の挨拶やら、新潟観光案内ガールのパンフ配り、記念ストラッププレゼントのじゃんけんゲームなど趣向を凝らして退屈させないようにしている。自分は楽しかったが、実はこの企画は客を遠ざけていると思った。ちょっと、ダサイのだ。昔を思い出したが、子供が小さな頃、休日に何処へ行くかが課題だった。一番辛かったのは遊園地のゴレンジャーショウとか、子供はフィーバーしてるが、こちらは面白くない。よその母親を見ていると結構楽しんでる感じなのが不思議。女は子育てを命だから偉いと思ったものだ。アンパンマンやドラエモンの映画が春休みになると長編になり、子供の心がときめく。こちらは15分だから見ていたのだ。長男が小学校高学年になり、エバンゲリオン見たいと言ったときはホッとしたものだ。宮崎駿などは救世主だ。脱線したが、もっと大人の企画をしなければ、この企画は保たないなと思う。会津まで必ずしも行く必要はないが、家族で大人往復8千円近くかかるのは、新潟では贅沢だ。この金額に見合った満足感が得られる人は自分のような暇人だろう。


天守から見た鶴ヶ城の桜
屋根瓦は新潟県阿賀野市の安田瓦
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 13時30分に会津若松に到着、帰りは15時25分だから鶴ヶ城に行って変えてくるくらいしか時間が無い。下車後タクシーに乗って鶴ヶ城に行くと桜が満開。これまで2回きたことがあるが天守閣には行ったことがなかったので510円払って登ってみた。この天守はコンクリート製で復元されている。天守内部は歴代城主の遺物や兜などが展示されているが、何といっても、戊辰戦争の攻城戦がハイライトである。松平容保を大将に政府軍との激戦がこの城の外で繰り広げられた。政府軍は城に向かって大砲を打ち込んだが、その穴だらけの天守閣が痛々しく写真に撮られて展示されていた。白虎隊や八重の奮戦など、歴史ドラマに残っているし、大体の予備知識があったので適当に流して天守閣に登った。会津若松の市街が一望できる。駅周辺には8階建てのマンションやホテルもあるが、ほぼ、鶴ヶ城を中心にこの町はできており、町の全てを一望できた。場内は桜が満開で人も満員。桜はさっさと写真に収めて大慌てで駅にもどるべくタクシーを呼んだ。花見の客で場外に出る車で渋滞しなかなかタクシーが来ない。15時25分ぎりぎりで列車に飛び乗り変なスリルを味わった。しかし、野沢の先、徳沢の線路際で火災、野火だったが約1時間遅れとなり、三川を過ぎロコとは真っ暗になってしまった。結局新津で降ろされ、別便で新潟に向かった。結局、新発田に戻ったのは9時であった。

 



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  NTT東日本のバドミントン選手たちが違法賭博に手を染め、桃田選手を始め、オリンピックの選手選考にも影響が出る事態になった。巨人軍の野球賭博問題がまだ冷え切らぬうちにこのような事件となった。名選手、清原の麻薬犯罪も合わせ、次から次へとスポーツエリートの犯罪スキャンダルが続く。社会人として不適格な人間がスポーツエリートとなってもてはやされる時代になった。それも個性だろうか。昔よく言われたことだが、運動会で輝く学生はそれでよいではないか。人間には特性がある。勉強が全てではない。ところが、今日問題なのは、劣等生を製造し続けるコースができていること。彼らは体育館やトラックでは生き生きとし、中にはオリンピックに出るようなエリートもいるが、多くは教室ではカス状態なのである。そして問題はそうした学生を継続的に生産する仕組みが出来上がっていることだ。少子化の生き残りのためもあるが、そのような学生を受け入れている学校の経営者は営利第一で、学生の教育成果は二の次である。彼らの言い分は、スポーツ選手にも学歴を与えてあげたい、なのだ。商品としての学歴の質は問わない。学生に課された目標は試合に勝つことだけ。

 さらに、彼らを受け入れる企業の仕組みもできている。就職させても彼らはまともな仕事は与えられない。電話当番とか、コピーやデータのパソコンインプット程度の発展性のない仕事をあてがわれる。NTT東日本は勉強のトップ校卒を採用するが、宣伝のために、スポーツバカのカス学生も集めているのだ。これらの共通点はいずれも学校教育の中で育まれている種目なのである。だから、プロレスとか、ボクシングでそんな問題が起きても、やっぱりと思う程度でそれほど問題ではない。これは相当に根の深い現実である。というのは、近年、かつては大してお金が儲からなかったスポーツも結構、高収入の道が開け、トップアスリートになると20代でも数千万円の年収が得られる。金が儲かるスポーツが相撲と野球に限られた時代は終わり、野球も進化した。アメリカのリーグにスカウトされれば、十億単位の金が手に入る。こうなると、多少頭は弱くとも、自分の子が運動神経抜群と見た親たちは苦手な勉強など放り出し、子供の頃から英才教育で自分の果たせなかった夢を何とか見るようようになる。親の道徳教育もそっちのけ、学校をサボることも平気になる。中学高校も学力が無くとも、スポーツ推薦で進学先があれば送り込んでしまうのが現状である。これほど、極端な傾向になっていることをマスコミは問わない。敢えて言えば、今や彼らはスポーツを除けば学生としては底辺である。彼らの中には大学生でも中学生以下の学力しかない者もいる。昔は高校野球がその典型だったが、今やあらゆるスポーツに見られる現象だ。優勝すればちやほやし、学校や企業はCMで使おうとする。宣伝で使うのは企業だけではないのだ。アイススケートも、テニスも世界で勝つにはもう学校の部活では無理だ。ところが、バドミントンも、卓球も、ラグビー、サッカー皆学校スポーツで育つ。そして、スポーツは必ず一人で成長するわけではない。多くの競争者が必要なのである。コーチ達も試合に勝つことだけが評価の対象である。選手達がいずれはアスリートを引退し、トップとして稼げなかった選手は路頭に迷うすことを全く考えない無責任な使命感である。スポーツエリートになれない底辺の連中は、実は親もリストラなどで自分のことで手一杯で教育は放棄し、スポーツの檻に子供を放り込んで共稼ぎに邁進し、高い私学の授業料を払っている。これも彼らにしてみれば子供のためである。トップアスリートの陰ではその何倍もの底辺がいるのだ。だから、今回も、桃田などが違法カジノにいけば、忠告することもなく、何人も一緒について行って誰も疑問に思わない。思考停止状態なアホ連中なのである。彼らが人間として、また、社会人として無能である状況を作り出していることを社会は容認しているのだろうか。かつて東京のK大学やT大学はほとんど、無学者の集団で、スポーツ選手で知られていたに過ぎないが、さすがに最近はボトムから抜け出した。というより、さらに学力のない高校生を引き受ける大学が次から次へと出てきたのである。また、ある名の知られた大学もAO入試のおかげで試験でその学校の普通の試験なら0点に近い学生も、面接と誤字だらけのレポートで入学させてしまう。一般には60から70の高偏差値校である、W大学やC大学でもスポーツ推薦の学生は偏差値で言えば50以下である。中位以下の大学であればもっとひどい。社会常識とか道徳観も合わせて学力と無縁ではない。これらは自ら学ぶことで基礎を積み上げ、一定の知的トレイニングを忍耐強く行うことによって得られるものである。

 とはいえ、高ー偏差値の化け物のような東京大学を頂点とする大学では、また別の問題が起きており、発達障害やアスベルガー症候群、精神病を持った学生をチェックできない。これは、試験の点が全てで育ってきた連中。教育が人間作りであることを忘れた結果である。かつて、寺子屋は人間教育が目的であり、四書五経を学んだ。読み書き算盤ができる一人前の社会人になることが目的だった。能力選別は、咸宜園とか、適塾などではあったが、基本は自由で大らかであった。日本のみならず、19世紀後半、富国強兵が世界競争となり、日本は西欧に追いつくことが国家的目標であった。学校制度は選抜機能である。自由平等を放棄して日本は競争社会に突入し、寺子屋は淘汰された。明治に日本に来た欧米人が感動した微笑みの国、奥ゆかしい日本人も消えた。高校や大学に人格者、いや、教育者もいない。選別し、考課する教員がひしめいている。我が国においては戦後もなおそうした教育目標から抜け出せていないというより、酷くなった。選手の不祥事があると、道徳教育をしろとか、もっともらしい意見が出る。これは日本においては根が深く道徳教育をしても無駄だと思う。

 
 テレビのバラエティ番組を見れば、周囲には見たこともないような馬鹿を装ったお笑い芸人が低脳ぶりを発揮し、やたら東大がもてはやされる。B級グルメを食べ歩き、おかま、変態が人権を得て、デブ男が女装し、いい年した男がパンツ一丁で街を歩き、人気を博す。トップアスリートがこのような状況であるとことは日本の教育の象徴である。山口組の抗争がニュースになっても当たり前。従って、この異常な世の中は学校にも及ぶ。一般の学生の中にも、難関校に限らず、誰でも入れるアホバカ大学でも同様な危機が生じている。アスリートがこんなに知的に低級な国は日本くらいではないか。アメリカには野獣のようなボクサー、マイクタイソンとか、セックス依存症のゴルファー、タイガーウッズもいたが。今回のトップアスリート達のスキャンダルは今の日本の教育の欠陥を物語っているのではないだろうか。オリンピックを主管する文科省は見て見ぬ振りなのである。


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by katoujun2549 | 2016-04-09 22:22 | Comments(0)

 1.明智光秀は信長謀殺の機会を覗っていた
 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫) 文庫 – 2013/12/3明智 憲三郎 (著)が話題になっている。何故春日局が徳川家で重用されたのかが自分は分からなかった。彼女の父親は明智光秀の重臣、斎藤利三であったからだ。それが、少し分かってきた。日本史最大の謎は明智光秀の本能寺の変であろう。昨年大原美術館で石谷家文書という戦国武将との手紙が発見され、その中で長宗我部元親とのやり取りを示すものがあり、明智光秀が苦境に立たされた原因が明らかになった。この手紙は信長に恭順の意を伝えるものだが、無意味となったため、石谷家に保管されることになった。明智光秀の部下で本能寺の変を画策したと言われる齋藤利三の親族が石谷家であった。信長は長宗我部元親に四国を平定させ、恭順させる交渉を光秀に任せた。おそらく、知者光秀の策だったのだろう。信長はこれが気に入らなかった。光秀は、元親から信長に恭順する約束を取り付けたにもかかわらず、信長は気が変わり、羽柴秀吉に四国攻撃を命じて、丹羽長秀を総大将にする方針に転じた。明智光秀は石谷家を通じて交渉を進めていたが、信長の突然の方針変更に面子が潰れた形になり、信長への不信感は頂点に達した。
 「長宗我部元親が斎藤利三に宛てた天正十年五月二十一日付書状には元親が信長の命令に譲歩する意思が書かれていますが、信長は既に二月時点で長宗我部征伐の発動を行い、五月七日には三男信孝に四国国分けの朱印状を与えていますので「時、既に遅し」です。そのためこの書状は斎藤利三には渡されなかったか、あるいは受け取りを拒否されて『石谷家文書』に所蔵されることになったものと思われる。」
 石谷家文書には長宗我部家との文書があり、これが長宗我部元親を記念した元親記の内容を裏付けるもので、この中に斎藤利三が信長謀反を急ぐ記述もあった。このことから、天正10年に入って、信長が行った様々な行動に対して光秀は既に謀反を企てていたことが伺える。

2,信長のリストラ
 天正8(1580)年8月10日、佐久間父子の追放処分を下した信長は、さらに老臣の粛清を断行。組織の若返りを図ったと思われるが、既に50代になっていた光秀はいつか切り捨てられるという不安を抱いたはず。石山本願寺の視察を終えた信長は京に到着。そしてこの時筆頭家老とも言うべき存在の林秀貞(通勝)と美濃三人衆の一人である安藤守就とその子・尚就さらに丹羽氏勝(長秀とは別家)の追放を決断します。その矛先は徳川家康にも向けられていた。信長は富士山を見に駿河に行って、富士山を絶賛したが、何も山見物に行ったわけではない。これは徳川偵察であった。
 明智光秀は秀吉支援に向かう途中、本能寺に向かったのである。従来は秀吉の応援は不名誉だと光秀が苦しむ場面がドラマではあるが、実際はそのような応援はよくあることで、参謀として行く訳で当たり前のことであった。信長と光秀の間に何があったのかは両人があの世に行ってしまい、証言できないので、ここは謎として常に残る。しかし、信長が朝鮮と明に侵攻する計画を実際に立てて、外様の武将をそこに送り込もうとしたことは光秀のみが知っており、このことへの危機感は相当なものだったと思われる。直接的な動機は別にあり、光志での読みは、四国の長宗我部と家康が味方になれば信長の家臣、特に、羽柴秀吉と柴田勝家に対抗できると考えたことだろう。家康とどのような約束があったかはわからないが、なんらかの恩義を家康は光秀に感じていた。海外派兵と家康攻撃は明智光秀にとって耐え難いことであり、これを抑えることは正義でもあった。


3,独裁者のナンバー2は粛清されやすい
 金正恩がナンバー2張成択を粛清したのは記憶に新しい。ヒトラーのナンバー2ヘスもイギリスに亡命した。スターリンはジェルジンスキー、エジョフ等を次から次へと粛清。独裁者にとってナンバー2は知りすぎた邪魔者なのである。
 信長は光秀を自分の言いなりになる忠実な部下と思い込んでいた。しかし、当時武田を滅ぼした後の徳川家康の対策について信長との意見の相違があり、これが信長の癇癪を招き、信長饗応役であった光秀の解任と彼を足蹴にした暴力行為につながった。光秀は家康攻撃に反対していた。光秀は信長の家臣として知りすぎた男であった。四国攻撃の方針の違いと、光秀の面子が潰され、危機感を抱いたことだけが動機ではない。
信長に対する謀反の原因は、単なる恨みから突発的に本能寺の変を起こしたのではなかった。光秀謀反の危機感は秀吉も予測しており、彼の迅速な大返しの準備を怠らなかった理由にもなる。

4,春日局を家康が厚遇した理由
 また、家康は光秀にはむしろ感謝し、恩義を感じ、光秀の家臣,利三の娘を春日局として重用した理由がそこにある。信長は本能寺に少数の手勢しか持っていなかった家康を招き入れようとしていた。家康も危険を察知すれば上手くいくかは分からないが、術策にはまれば実行するつもりだったろう。本能寺への家康招待を利用して光秀に殺させる手立てが、逆に自分に向けられた。光秀は信長の謀略の相談相手だったから全てを知っていた。天下布武のため毛利、長宗我部、上杉、伊達と強力な大名との戦いが残っていた信長にとって、徳川家康の暗殺は絶好の機会だった。信長と家康は昵懇の間に見えるが、現代の我々には計り知れない冷徹な関係である。信長は家康を幼少の頃から知っているが、家康の嫡子信康を切腹に追い込み、正室も殺害させている。感情の問題ではなく、戦国の力学にもとずく厳しい政治的関係で動くのである。信長も弟を暗殺している。
 信長は家康を高く評価したが、武田滅亡後はむしろ脅威であり、機会あれば攻撃をもくろんでいたに違いない。秀吉も後に徳川家康を警戒し、小牧長久手で一度戦っている。鋭い信長が手を打たないはずはない。天正10年信長は家康を招待した。これは彼を光秀に討たせようという謀略であり、このことは当時の噂にもなっていたほどであった。
 
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5信長の謀略
 信長は、徳川家康を本能寺に呼び寄せ、光秀に討ち取らせるつもりだった。ところが、この計画を聞いた光秀は、ゆくゆくは明智一族も滅ぼされると思い、家康と織田家打倒を決意。家康との談合の末に、信長と息子の信忠の間隙を縫って決起したのが本能寺の変だったという説が有力になってきた。信長が指示した家康暗殺を光秀が行ったとすると、信長は大義名分を自分のせいにはせず、光秀が証拠隠滅のために狙われることは明らかだからだ。この計画が上手くいっても、結局は光秀と秀吉は戦うことになっただろう。秀吉は信長から家康暗殺が成功したら光秀を打つように指示されていたかもしれない。推測だが、秀吉が大返しの準備をしていた理由も納得できる。とはいえ、光秀と信長の関係は両者しか分からぬ謀議が背景にあり、本能寺の変の謎は今もなお深い。従来の信長公記など限られた資料のみをベースにした戦国物語はドラマ設定は今後大きく変わるであろう。
以下、
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/746430c823d3cd630ff0816b9f3e596aからの引用。
< 岡山の林原美術館所蔵の『石谷家文書』から本能寺の変にかかわる長宗我部元親の書状などが発見されて話題になりました。これについては林原美術館プレスリリースに解説されているのでご覧ください。
 今後、研究者が次々と見解を表明することになると思いますが、このことの意義を正しく把握できている研究者が果たしているのか疑問です。方向違いの意見が出てくることが懸念されますので、その意義を解説しておきます。
 >>> 新発見!「四国説」を裏付ける?長宗我部元親の書状

 『元親記』という書物があります。長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が元親三十三回忌に当たる寛永八年(1631)五月に元親を偲しのんで書いたものです。
 その中に次のような記述があります。(泉淳現代語訳『元親記』による)
「重ねて明智家からも、斎藤内蔵介の兄の石谷兵部少輔(いしがいひょうぶしょう)を使者として、信長の意向を伝えてきたが、これをも突っぱねてしまった。そこで信長は、火急に四国征伐の手配をした。御子息三七信孝殿に総支配を仰せつけ、先手として三好正厳(康長)が、天正十年五月に阿波勝瑞城に下着、先ず一ノ宮、夷山へ攻撃をかけ、長宗我部の手から、この両城を奪い返した。信孝殿は、すでに岸和田まで出陣していたという。斎藤内蔵介は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」/font>

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by katoujun2549 | 2016-04-06 09:58 | Comments(0)