<   2015年 11月 ( 5 )   > この月の画像一覧

(1)全体主義だった70年前の日本

① 20世紀は全体主義と個人主義社会の対立であった。そして全体主義は敗北した。
全体主義というのは個人が無い。70年前の日本でもそうだった。わが国では国家があり、社会があり、天皇を中心とする家があって皆その為に生きてきた。それが敗戦で崩壊し、戦前に生まれた人はとても戸惑った。そして、自分の親の世代だが、家庭や自分をさておいて、会社や商売優先で高度成長が達成された。しかし、一旦目覚めた個人はその欲望も、意欲、マインドもどんどん成長する。そしてこれらを制御する必要がある。ここが難しいところで、企業と個人、公害など環境問題などで混乱が起きた。昔の全体主義的な国体が無いからとか、最近は一億総活躍社会、目標GDP600兆などと首相は叫んでいます。一旦消えた考えが、最近亡霊のように現れています。しかし、勝負はついているのです。20世紀に生まれた全体主義国家は多くが崩壊した。ソ連、ナチスドイツ、東欧などである。21世紀にはイスラム圏でそのせめぎ合いが問題になっている。目指すべきは一人ひとりを大切にする社会である。一億が好きなら、一億総個人社会。

②キリスト教によって育まれた個人が明治の文化を支えた時代があった。
 さらに、150年前は江戸時代、その時は主君があって自分が無い、家があって自分の事は考えないということが正しかった。明治になり、キリスト教が入ってきて、主君を失った武士たちに受け入れられた。イエスキリストと自己の関係から強烈な個性が生まれた。彼らは大学を作り、事業家となり日本の近代化に貢献した。アサドラの花子とアン、あるいは大河ドラマ「八重の桜」の新島八重を見ると分かる。新島襄や内村鑑三、大逆事件の幸徳秋水、新発田の生んだ思想家、大杉栄もキリスト教に触発されたが、後にアナーキストとして歴史に残っている。明治末期から対象にかけて日本が安定していた時代はキリスト教が知識人を導いていた。政府はこれらを圧迫したが、禁止はしなかった。ところが、社会主義は弾圧した。それは日本が向かうところに近かったからだろう。日本は軍国主義への道を歩み始めたのである。この軍国主義と民族主義、天皇制が結び合い日本的ファシズムが生まれたことへの反省は未だに乏しい。

③内面を持った個人の誕生
故阿部謹也先生が本学の講演でも語っているが、人間が自分一人の事を考えるようになったのは12〜13世紀からで、それまでは皆集団で生きて来た。1215年カトリック教会のラテラノ公会議で成人男女は全て教会で告白をしなければならない事が決まった。これが罪であるというものがある。モーゼの十戒、そしてイエスキリストの教え。そしてこれが罪であると教会が定める。すると、何が罪であったかを憶えて、それを司祭に告白する。司祭はこうすれば許されると道を示してくれる。そこでは内面において善悪の判断を迫られる。内面を意識した人間が個人である。この個人の存在は何もキリスト教で無くとも成立する。しかし、その個人はエゴと同質である。このエゴをどうコントロールするかが現代の課題である。日本は全体主義を持ち込み失敗し、戦後は70年にわたり、経済優先、成長神話によって国家的なベクトルを定めたが、バブル崩壊後方向を失った。その象徴がオウム真理教事件である。3・11以降、日本は中国や韓国の攻勢に苦しみ、再び全体主義の道を模索しているが、流石に戦前には回帰できない。

(2)個人の成長とキリスト教
①いかに自分を築くか
個人の成長とキリスト教は不可分であると自分は思う。現代の若者が、いじめに会ったり、孤独に悩んだり、生きる方向を見失って自殺したりする。それは「個」というものが生まれても、他人に対しても認められない、自分の「個」、自分自身をどう扱ったらよいかが分からない。親も同様であるならば、自体は悪いほうに行かざるを得ない。個を持った人間は他人の個を認めざるを得ない。それが無ければ、集団で行動する。自己を放棄して集団の為に生きる事を選ぶことは多くの悲劇を今日も生んでいる。世界の紛争の原因になっている。西欧のエリートたちが、学生になると皆学生寮で友人を作り、自分を磨いた。寮生活では多くの友人との出会いがある。そ自分探しというのは自分の適性とは何か、世の中で役に立つ自分、頼りにされる自分とは何かということであるならば、これは何歳になっても問われる。
② 自己はいつ出来上がったのかー罪の虜となった自分の発見
社会に出て、仕事を得て、結婚してどんなことになじんできたか、自分と言うものが見えてくる。しかし、様々な経験を積んだ大もとの原点も大切な自分で、それは高校と大学の学生寮で出来た。優秀な友人や先輩と比較して、何と自分は惨めな存在か、自信を失った。物事をうまく処理できない、規則が守れない、目的を達成できないなど様々な悩みの中から、自分の至らないところ、そして罪というものが自分を縛り付けていると言うことを感じ始めた。新約聖書のローマ人への手紙でパウロが述べている、罪に嵌った自己である。
③ 聖書の言葉が語りかけてくる
何とかそこから抜け出したいとあがくうちに、聖書に答えを見出す信仰を得たのだと思う。学生寮での生活は自分を見いだすこととなり、自分の信仰の原点であった。聖書は常にあなたならどう行動するか、考えるかを問うように語りかけてくる。
④ 自由な個人 真理は自由をもたらす
精神の自由をもたらす学びがリベラルアーツである。教育の目的として、自由な個人の成長を願っている。そして、イエスキリストの導きを理解できることが目標である。真理とは何かを問うことにより、偏見や独善から開放されます。精神の自由は自分の内面との対話から始まり、真理を学び、開かれた心から自由を得るのではないでしょうか。

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 新潟県の観光政策で見直したほうが良いと思うものがある。新潟県の名物は「笹団子」と「柿の種」である。自分は、これが問題だと思うのである。笹団子自体は笹にくるまれたあんころ餅で、笹の香りと新潟のこがねもち、北海道産の小豆を使った餡であるが、とても美味い。新発田の高田屋の笹団子は名品だ。あまり日持ちがしないが、くるんだ笹をはがすのに要領があって、笹の繊維に沿って剥くのがコツである。高田屋は1個100円、他の土産物屋で10個入りで1570円。15個入りで2350円とお手ごろ価格だ。高くても一個150円といったところで、東京の職場の土産には良い。高田屋はたいこ焼きも美味い。そして、新潟の名物は「おせんべい」である。さらっとした歯ざわりで、草加せんべいのようなバリバリといった歯ごたえではなく、実に軽やか。癖になるの
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は柿の種のクオリティだ。亀田の柿の種はそのピーナッツとの配合も研究し尽くされて、食べだすと止まらない。スーパーのお菓子の棚にはせんべいと柿の種、あられで2列埋まっている。一袋600円とかで買える。チョコでくるんだものや抹茶風味とか研究も進んでいる。一箱で640円とか、さらにお手ごろ。自分もこの柿の種は好きなのである。その他、さらっと揚げたオカキや煎餅などとにかく種類が多い。
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では、何を見直すべきなのか。柿の種も、笹団子も確かに手ごろであるが、何と言っても単価が安い。そんなものの割にはやたら種類が多いし、土産物の真ん中にのさばっている。売れるからと言って、こんなに安いものを主力にするのは如何なものか。笹団子は中身は漉し餡か粒餡なのだが、袋に入っている数と包装、箱入りなどで差別化している。この笹団子を土産物として頂いた方で食べ比べる人は少ないから、そこの笹団子が美味いかは新潟の人しか知らず東京の人には全く区別がつかないだろう。笹団子キャラメルとか、フルーツゼリーも売っているが、何とも実物の笹団子の方が美味い。柿の種はこれも、パッケージと包装くらいしか差別化できない。せいぜい劇辛くらいであろう。新潟から東京に帰る旅行者はいろいろな種類がある柿の種に迷ってしまい、貴重な時間を失う。そして3件分買っても2000円以内で済むから、土産物には柿の種又は笹団子で済ませて安心して帰っていく。
 全くこれがいけないのである。要は、もっと高い純米大吟醸の日本酒とか、加島屋の高級鮭ほぐし瓶詰めや鮭茶漬二個入り5300円とかを買ってもらわねば、新潟の経済に貢献しないではないか。新潟の人は全く欲が無い。新潟名物は笹団子と柿の種と平気で自慢するが、その神経が理解できない。だから、新潟は貧乏なのだ。佐渡の銘酒北雪、純米大吟醸で1800mlで 3800円~5400円を買わせなければだめ。とにかく、駅の土産物屋でも安さを競った品揃えの過当競争で品数が多すぎて迷ってしまう。結局、時間が無くなって単価の安い柿の種が笹団子で落ち着いてしまう。もし、この2つが無ければ鮭茶と日本酒はもっと売れるはずである。こうしたマーケティングは全く出来ていない。おまけに、駅では産直の野菜まで売っているが、そんなものせいぜい500円、東京だって買えるのに、こんなもの買ったら手荷物が増えて、重たい日本酒なんぞ興味なくなってしまう。商売のセンスが無い。新発田も菓子は種類も多くて美味い店が多いが、パッケージは5年も同じである。やる気があるのか。いらいらするのである。笹団子と柿の種が新潟の売りである事は否定しないが、それでは新しい工夫の目が摘まれてしまう。欲がないのが新潟県民の美徳かなあと思うが、結構不満もたまっているぞ。柿の種と笹団子ばかり売れるようでは、残念だが金沢の商売上手にはかなわないのである。span>

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「西洋史学の先駆者達」土肥恒之著 中公叢書 を読んで

 日本人が何故西洋史を学ぶのか。特に学問としては研究しようにも日本には資料も乏しいし、語学の壁も厚い。日本の歴史研究は主としてドイツで学んだお雇い外国人教授からスタートした。その意味においては日本の歴史研究は欧州の研究から始まっており、今の中国や韓国の歴史家と違い、西欧的思想を基盤としている。日本の歴史学は学問的な普遍性をもっていると思うが、韓国や中国はどうであろうか。外交において歴史認識という言葉がしばしばキーワードとなる。日本の歴史学を概観するこの本によると、日本の西洋史研究は東京大学に招聘された、ドイツ人歴史学者ルードウィッヒ・リースから始まった。彼は近代史学の祖、ランケに傾倒し、厳密な資料批判に基づくランケの政治史学を基に弟子を育てた。その教え子達は坪井九馬三、村川堅固、幸田成友、坂口昴であった。日本では実証的資料が西洋史を研究しようにも乏しく、欧州留学における研究は無理と思っていた。当初は外交史、交流史から出発し、キリシタン研究、江戸時代の漂流譚、大黒屋光太夫に関する研究からギリシャ史、ヘレニズム研究など文献研究から始まった。 後に歴史を政治史から経済、文化へと幅を広げていく過程において、経済史は東京商科大学と慶應義塾大学理財科によって開花した。福田徳三は経済学のみならず、歴史学にいたる巾の広い見識をもち、両校の教授として後進を育てた。慶応義塾では最初にドイツで社会政策学会のシュモラーに学んだドロッパーズから始まり野村兼太郎の英国経済史研究で花開いた。一橋では福田徳三がブレンターノに師事し、その流れを汲んだ坂西由蔵と野村と同じイギリスのアシュリーに学んだのが上田貞次郎であり、福田門下がイギリスの産業革命を軸に研究を展開した。国立の一橋キャンパスに彼の銅像があるが、自分の学生時代は何をなされた方か知らなかった。第一次大戦後はロシア革命の影響で京都大学では河上肇がマルクス経済学を経済史の1ページに加えた。文化史においてはブルックハルトがイタリアルネッサンス研究で君臨したが、東北大学では大類伸が中世史をリードし、東大の堀込庸三に引き継がれた。マキャベリ研究、ダンテ、ルネッサンスを中心とする中世史を柱となした。大類は京都帝大でも講師を務め、彼の薫陶を受けた学者は多かった。ルネッサンス研究で会田雄次、ホイジンガの中世の秋を翻訳した塩見高年に受け継がれ、京都帝大と東北帝大がルネッサンス研究の拠点となった。東大では羽仁五郎が大内兵衛などとマルクス史観によるマキャベリ研究やルネッサンスに関する歴史学の重鎮であった。羽仁から刺激を受けた東京大学の教授は多く、明治維新研究の遠山茂樹、家永三郎などが出た。一橋は商法講習所が起源だが、大学として、リベラルアーツ的な教育と、哲学や歴史学、思想史、経済史の研究が盛んであった。特に、アダムスミスやマックスウエーバーについては学生は必ず学んでいた。

 当時のウエーバー研究の第一人者は東大の大塚久雄であり、あたかもウエーバー教の使徒のような位置にいた。この本の第4章は上原専禄、5章は大塚久雄を軸に展開している。上原は東京商大で三浦新七の弟子として、師と同様、ウィーン大学でランブレヒトやドープシェに師事した。ドイツ史を軸に西洋史においても原史料主義を基盤に史料批判という歴史学の方法を示した意義は大きく、この方法論は今日においても、阿部謹也などにも受け継がれた。上原専禄は日本の歴史学のバッハのような地位にいて、一橋の史学研究の礎であった。 自分が学生時代に、西洋史の増田四郎先生や、ビザンチン経済史の渡辺金一先生、日本史の永原慶二先生など、歴史学の巨匠が多くおられたが、大学紛争の渦中で講義を聞く機会が殆ど無かったのは残念であった。上原氏もまだご存命であった。当時の一橋は経済学は近代経済学が主流だったが、マル系の先生もおられ、東西冷戦時でもあり、民青学生のみならず、マルクス系の史学も盛んに勉強する学生がいた。この本にも出てくる三浦新七や上原専禄についてはこの本でその業績を知った。戦前の歴史研究は殆どがドイツに留学し、ドイツのウェーバ、マルクス、ブルックハルトなどの影響を受けた。実際は、20世紀に入り、フランスのアナール学派等の歴史学潮流があったのだが、帝国大学の研究者はドイツに向かった。ブローデルなどについて全く触れていないのは残念だ。この本では大塚久雄の功績を詳しく述べている。彼の学問の発展とウエーバーとの関係を簡略に整理し、大塚久雄の著作を読んだことの無い自分にも分かったような気にさせてくれる。大塚の師は本位田祥男であった。多くの学者が戦前ドイツで研究者となったが、当時起きていたナチスの勃興に関しては「無関心」だったが、日本が三国同盟を結び軍国主義化するにしたがって疑問を持ちながら取り込まれていったといってもよいだろう。1920~30年代にウェーバーは紹介されてきた。ドイツはまさに超インフレからの脱却に苦しみ、失業やナチスの全体主義に入ろうとしていた。大塚が株式会社の起源やイギリス毛織物工業の勃興を研究している間に、世界は軍需産業や鉄鋼業が全体主義と共産主義の勃興を生んでいた現実に目を背けていたように見える。日本もまさにその時代で、マルクシズムが弾圧され、軍国主義に突入していた時であった。世界の歴史を支配していたのが「暴力」であったことに全く触れずに経済のみを見ていたことが当時の歴史学の限界であろう。歴史学の先生方はそれに眼を背け、象牙の塔に籠った研究であれば自分も安全で良かったのである。大塚の師である本位田も、元官僚であり、大政翼賛的な経済統制の政府委員などもしており、体制批判は無理としても、全体主義に関しては肯定的であった。大塚史学とウエーバーの理論が敗戦日本の前近代性を克服する理論、民主的市民社会のエートスとして社会に受け入れられることになり、1970年まで日本の史学を支配した。特に、1962年に出された西洋経済史講座は40人の学者が加わり、高橋幸八郎、松田智雄と共に編纂されたもので一時代を画した。大塚史学はその後、マルクス系史学の立場から服部之総、イギリス経済史からは矢口高孝次郎、大塚の英国国教会とピューリタンの解釈から批判され70年以降精彩を欠くようになったが、日本の経済史に果たした功績は大きかった。
 日本の歴史学が今日的問題を読み解く形を取ることができるかは重要な問題点だ。戦前の軍国主義の嵐の中で、歴史学者がどのような立場をとったかについて、上原や大塚も又、日高六郎などの若手も戦時体制に本音を語れない。皇国史観からみて西洋史の立場は弱かった。帝大の史学科でも戦争を賛美し戦果を誇る新聞報道とさしてかわらぬ風潮があり、世界史的観点から発題した日高は追われる立場となった。イギリス殖民地政策の批判も行なった信夫清三郎の「ラッフルズ」も発禁となった。
 当時の西洋史も、イギリス帝国の没落や、植民地主義批判など敵国のイギリスを批判し、ドイツのヒトラー政権に対する評価を与えた「ナチス国家の基礎、構成、経済秩序」三巻の翻訳刊行で、「新独逸国家体系」は日独防共・文化協定による国家事業であった。上原はドイツ史のホッペの著作をナチスのドイツ政治との「幸福なる有機的調和として肯定的に評した。また、大東亜共栄圏の必然性を説くなど、戦争体制に沿った理論構築を行なった。彼の西洋史家の指導者としての立場は戦後、暗部となったが、彼は世界史という観点から歴史を述べる立場を展開した。歴史家としてはドイツの歴史の汚点であるナチスの暴力性を見抜くことは出来なかった。最初に登場した大類伸は91歳の長寿で、戦争中も文化史の重鎮として、西田直次郎と大政翼賛的な政府の学問統制に協力した。また、京都帝大講師も勤めた関係で、日本諸学振興委員会委員として活躍した。特に、京都大学の国史学者や西田幾太郎など京都学派哲学の重鎮と結びついた鈴木成高は「ランケと世界史学」を著し「民族」や国家の世界史的な意味を大東亜共栄圏の理論と戦争の意味を述べた。日本における西洋史の出発点に戻ったのだろうか。高坂正暁といった、今から見ると右翼歴史家の部類だが、当時としては世界史という観点から歴史を捉えた哲学的視野をもっていた。ランケ選集にも加わり、対談も出した東大の林健太郎は時勢に迎合的であった京都学派と一線を画した。戦時下を体験した歴史学者達は、自分が学生時代の70年代は当時まさに日本の学問の重鎮であった。全共闘運動はまさにそうした学者達のベトナム戦争や安保に関する学生の情念、意識に対する無理解への反発が大きかった。今日、イスラム圏で起きていることやテロリズムなど、まさに世界史的転換点にいる我々が歴史学者に耳を傾ける時代が来ている。

 あの東大紛争で総長を務め、運動鎮圧に功績があった、林健太郎元東大総長は東大紛争後どのような意識の転換をされただろうか。歴史を学ぼうとする多くの学生が失望し、大学を去ったのではなかったのか。その後遺症は今あるのだろうか。大塚久雄におけるマルクス史観からの批判とマックスウェーバーの近代資本主義の発展への史的洞察が70年代も論争が続いていたことを思うが、当時は大学も騒然とし、史学の先生たちも沈黙していたように思う。今ではあの大塚史学も輝きを失ったようである。 
大塚先生もICUに去り、沈黙してしまったように見える。あの大学紛争の影響は大きかったのだろう。その後30年の間、ベルリンの壁解体やソ連の崩壊、イスラムの混乱など新しい世界史的事象に今の歴史学はどこまで関わることができるのかが今後の歴史研究の方向を決めていくのであろう。残念ながら、21世紀の歴史学に関してはこの本は語っていない。

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辻褄が合わない事実:慰安婦問題、南京事件、原爆投下

1.謝罪すべきは嘘を重ねている韓国と中国だ

 安部首相は中国やアメリカから、随分右よりの政治家という評判であったが、その内実に関しては、4月の訪米とオバマ大統領との会談以来多少誤解が解けてきた感じもある。しかし、自分は、今回ユネスコの世界記憶遺産登録で問題になった中国の南京事件資料や慰安婦問題が過去の出来事としてお倉入りすることは無いだろうと思う。当時南京事件を世界に報道したのはアメリカだし、慰安婦問題を拡大し、韓国系アメリカ人の要請に答え、慰安婦像を設置した。これらの歴史が明るみに出されたのは、中国とアメリカにおいてである。パリセイズ・パークをはじめ、9箇所も設置されている。これは韓国がアメリカを利用して日本人を世界から締め出そうとする陰謀である。南京事件も、慰安婦も、原爆も、邪悪な日本帝国というイメージ作りに格好な材料であって、これは中国やアメリカの悪しき国民感情にかなっている。それに悪乗りしているのが、何とか戦勝国の一員でありたい韓国なのである。従軍慰安婦の問題は、日本のみの問題ではないにもかかわらず、韓国は日本叩きをして、自分の政権維持に利用しているのみならず、嘘を重ねている。これはむしろ、大統領自ら日本に謝罪すべきことではないか。海外に展開している日本人の名誉に関わることなのに、マスコミもその部分には触れない。捏造記事を出した朝日新聞などは国辱をもたらしたことをどこまで自覚しているのだろうか。アメリカにいる韓国人も、中国人も偽りの歴史教育を受けた結果、アメリカで日本を叩くことが正義であると思い込んでいる。慰安婦像の要求は主としてアメリカで行なわれており、アメリカ異民族社会の根底にも関わる民族対立の問題でもある。与野党挙げて世界に日本の無実を訴えるべきことである。
 そもそも、日本は韓国を西欧諸国のような形で植民地支配しなかった。むしろ、近代化を進め、日本国内と同質化することで近代化を図った。少女を官憲が何万人も強制的に拘束して拉致したりはしなかったし、そんなことをしたらいくら日本軍がいても武力闘争になっただろう。日本国内でも、遊郭の脱走事件などは、一部の官憲が業者側に立って軍の慰安所からの人数要請がああり、女性を捕まえたりしたことがあったことは想像できる。今のパチンコ屋同様、斡旋業者には警官退職者が多かったという。勿論、当時朝鮮人の警官も60%いたのである。ナチスのような政府の関与はなかった。ナチスですら、ユダヤ人のホロコーストに関しては証拠隠滅しているが、これと同質ではない。日本はそれ程緻密な人種政策はできなかった。日本の朝鮮支配は戦争という問題で彼らにも犠牲が出たが、戦場になったわけでもなく、むしろ、米軍の空襲もなく安全であった。朴正熙元大統領は日本の士官学校を優秀な成績で卒業した。軍務も平等であった。これを支配というのは無理がある。海軍の特攻基地も元山などの朝鮮半島にあった。朝鮮の人々と日本人は表面上良好な関係であった。それを破壊したのは米ソと李承晩である。その政治的伝統が今も続いている。彼らは自分たちが近代化に遅れを取り、夷狄である日本にしたがわざるをえなかったことを屈辱とし、慰安婦を象徴にしている。慰安婦は気の毒に、多くが親に売られたのである。それは日本も同様。
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2.南京事件と原爆投下
 先は南京事件は第二次上海事件で1937年に起きた。東京裁判での告発までに13年経っていた。しかも、戦勝国の一方的な断罪であった。敗戦国日本は、中国の告発を受け入れざるを得なかった。東京裁判は戦勝国が敗戦国を告発するという世界史ではじめての裁判で、法理上裁判を維持するには、日本軍が犯罪組織であるナチスと同列である必要があった。南京事件の証拠写真がでっち上げだからといって、そこで何も起きなかったとするのは無理がある。ドイツは250万人以上のソ連軍捕虜を餓死、銃殺により殺害させた。しかし、ユダヤ人殺害を行なったことと同列ではない。20万人しかいなかった南京市で30万人が虐殺されるわけが無い。そんな簡単なことも国際的には反論されていないし、アメリカも日本の主張を認めていない。何故だろうか。慰安婦問題は、韓国の現体制維持のため、南京事件は中国の共産主義体制に正当性を与えるため、また、東京裁判はアメリカの原爆投下と以後の核戦略に関わることなのである。今年日本が提唱した核兵器廃絶の国連活動に関しても米国、中国などは反論し、日本の反核行動を非難した。
 日本人にとって安部首相が日本人の名誉を傷つける、戦前の日本軍の蛮行を否定したいという気持ちは、充分共感できる。しかし、この事は安部首相の系譜からみて戦前の国家体制復帰への疑念を生じさせるリスクが高い。70年談話においては、過去の村山談話を踏襲している。だからといって、安部首相の取り巻きも含めて、全体主義的な風潮をもっているのではないかとする懸念はある。とはいえ、戦前の日本は全て間違いで戦後から民主主義の歴史が始まったわけではない。また、靖国参拝や、南京事件を否定することで戦前に回帰する計画を安部総理が抱いていると勘ぐられることも変わりが無い。

3.日本の過ち
 
 そもそも、日本が戦争に突入した最大の誤りは、日独伊三国同盟であった。ファシズムというより、犯罪組織であったドイツ、ヒトラー政権に歩み寄ったことは、東京裁判の格好の口実になったし、そのために、南京事件は必須だった。慰安婦問題はそこでは全く取り上げられていない。ナチス並みで規模が大きかった731部隊の生体実験もうやむやで、むしろ、九州大学の米軍捕虜の生体事件(8名の犠牲)が断罪された。日本は第二次大戦におけるアジア諸国を戦場にしたことへの反省と国民教育が足りないことも確かである。日本が敗戦国であったことを知らない若者がいること自体驚きである。

 また、大日本帝国陸海軍が世界的に非常識な思考と国際感覚の欠如から、無謀な真珠湾攻撃に走ったことは、日本国民にとっても、また、軍の兵士にとっても悲劇であった。軍首脳部の不見識は、特攻の失敗や作戦の過ちなど断罪されるべきものであった。兵士といえども、生命の軽視と、さらに捕虜の扱いの過酷さを世界から指弾されても仕方が無い。軍部の無能こそ日本にとっては最大の悲劇だった。東京裁判史は確かに不条理な問題を抱えていた。しかし、このことは今日の核兵器保有の問題にも通じる根の深いことである。ナチスと結託した旧日本軍部の蛮行が、原爆投下に正当性を与えているが、これも真の原因ではない。
 沖縄の地上戦の激しさは米軍にも1万2500人以上の戦死者が出た。しかし、日本は、ポツダム宣言をソ連の侵攻を機に受け入れたので、原爆が原因ではなかった。原爆はむしろ、アメリカが東西冷戦を見据えてソ連を牽制するために使用した感じが強い。従って、日本は原爆のお陰で、日本列島をソ連、米国、イギリス、中国に分割されずにすんだのであって、広島長崎の犠牲者は無駄ではなかった。東京や大阪の空襲とは全く違う25万人以上の同胞の犠牲によって今の日本は支えられている。
 慰安婦問題は、韓国の朴槿恵大統領にとっては人気取りのために必須なアイテムである。そもそも、韓国は男尊女卑の国だが、大統領になったことだけでも風当たりは強い。さらに朴 正煕を父とすることで、親日というレッテルを貼られる事を避けるためにも慰安婦問題は最後まで譲れない。さすがに、彼女は竹島に上陸して人気を取ろうというような前大統領の手は使いたくない。そもそも、人口二千万人しかいなかった朝鮮で、二十万人もの女性を官憲が拉致したら、当時の社会で何が起きたのか、むしろそれが見過ごされたとしたら、韓国人は無策の集団ではないか。韓国はサンンフランシスコ講和条約の時も戦勝国に入ることを拒否された。だから、今回、中国の戦勝パレードに朴大統領は恥知らずにも列席してアメリカから見識を疑われた。そもそも、あのパレードは対日ではなく、台湾の来年の選挙に対する威嚇行為であることに気がつくべきである。慰安婦問題はアメリカの韓国人が熱心で、70年前の出来事を現代のアメリカ人の感覚で糾弾するという歴史に対する根本的な間違った取り組みである。戦争中だから、軍の後方支援で割りの良い仕事があると言われて、親から仕事に出された女性は多かった。そこは日本人も同じだった。

4.南京事件の真実
南京事件は確かに多くの犠牲があったと思われる。早稲田大学の秦郁彦教授の分析が中公新書「南京事件」で詳細に分析されており、これが自分は最も現実的だと思うが、笠原十九司氏著南京事件(岩波新書)もあり、いずれも多く見ても5万人以下である。自分も根拠は無いが恐らく3万人ほどの市民を巻き込んだ犠牲者が出たと思う。責任の半分は当時の国民党軍で、南京市撤退の杜撰さにある。日本軍に対する降伏手続きもしなかった。脱出者を督戦隊が銃撃したり、脱出を手順よく行なわなかったために、軍服を脱ぎ捨て、市民の家にもぐりこんだり、多くの便衣兵がいたことなどが原因で、占領者としてはこれらの摘発に手荒なことを行なわざるを得なかった。南京に駐留しても、こうしたことに気づかなかった日本軍部隊もいたのである。だから、数年前、名古屋市長の河村隆氏が姉妹都市である南京で、南京市民が友好的であったと発言し問題になったのである。彼の父親は兵士として南京に突入した。しかし、共産党政権にとっては、この事件は国民党軍が日本軍と戦った当事者であることを打ち消す格好の材料なのである。共産党政権は日本軍と戦ったのはゲリラ戦だけである。日本と戦っていたのは国民党軍であって、かれらは対戦集結までに日本軍と戦いには勝利していなかったし、消耗を招いたことが共産党軍に敗北した原因である。国民党政府はティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する東中野修道氏の見解もあるが、結果的には東京裁判で日本軍の蛮行を証明するために使われたことは確かである。今の中国政府はユネスコの記憶遺産に取り上げたが、かつて、毛沢東自身はこのことには殆ど触れたことがなかった。むしろ記念館はその後、鄧小平や江沢民政府によって広報施設として建設されたといってよい。アメリカのアイリスチャンの「the Rape of Nankin」などはそうした反日機運に乗じたフィクションである。

5.核兵器を正当化したいアメリカと中国
 
 国連総会第1委員会は2日、日本が提出した核兵器廃絶決議を賛成多数で採択した。同様の決議案提出は22年連続だが、初めて世界の指導者らに被爆地訪問を促すことを盛り込んだ。中国と北朝鮮、ロシアの3カ国は反対した。中国代表は「広島・長崎の悲劇は日本が始めた侵略戦争の必然的な結果だ」と主張、再び歴史問題を持ち出し対日批判を繰り返した。決議は賛成156票で可決した。韓国や米英仏、イランなど17カ国は棄権した。共同提案国は107カ国だった。昨年共同提案した米英は、核兵器の非人道性を訴える非保有国に態度を硬化させ棄権に回った。アメリカの核の下にいる日本は被爆国でありながら、この決議の法的整備に関する決議は棄権したのである。この核兵器の問題こそ、南京事件や今回の安保法案の核心部分である。それぞれの思惑から歴史を歪曲しているのは韓国、中国、そしてアメリカだということである。

6.日本の名誉は傷ついた
 安保法案騒動から早くも3ヶ月。自分は自衛隊がこれ以上拡大することは反対だし、憲法第九条は日本の誇りだと思っているが、日本も国際社会にあって、様々な国と接し、親善と同時に攻撃対象になっていることも現実である。日本はアメリカという超軍事大国の傘の下にいるため、国防という問題に関しては国民の意識が高くない。3.11によって、日本が先行き不安な状態になったときに、台湾や韓国からも多くの支援金が寄せられたが、同時に、尖閣諸島など領土問題においてはこれに付け入ってきたのがロシアや中国、竹島問題では韓国が日本の政権運営の間隙をついてきた。暴漢に銃を突きつけられて、話せば分かるといっても無意味なこともある。軍拡で人民解放軍は政府の制御が聞かなくなりつつある。中国、北朝鮮の核。再び強いロシアを目指すプーチンなどの動きは日本の安全に脅威である。また、紛争やテロに対して国連は武力行使の定義を変え、国際社会の役割分担の意味から、また、国連に自衛隊を派遣する日本はこれらを無視できない。そうした中で、安保法案をどう考えるかである。沖縄の米軍基地も、一地方自治体の意向をどこまで尊重すべきなのか。普天間などを返還することから沖縄の負担軽減は始まる。辺野古の埋め立て以外に方法はあるのだろうか。ここまで進んだ沖縄米軍基地をめぐるアメリカとの交渉を去らない進めるためにはどんなロードマップが必要なのか、国はそれを示すべきだと思う。安保法案反対、安部政権の右傾化への警鐘を含め、大学では安保法案反対の署名も行なわれたが、自分は国防のことを考えると参加する気にならなかった。日中韓三カ国会談で、日本の首相に昼食会も用意できない朴大統領は相変わらず慰安婦問題で日本を攻め続け、中国は南京のでっち上げを正当化しようとしている。歴史を直視せよというなら、韓国、アメリカ、中国が、これらの歴史を検証し、真実を知るべきである。真の解決策はこれしかない。日本の歴史的汚点といわれる南京事件と慰安婦問題、さらに広島長崎の悲劇をどう考えるかについて自分の率直な感想を述べた。

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新潟東港の漁港で夕方釣りを楽しんだ。
11月3日 午前中大学のオープンキャンパスに出たが、午後は役も無いので失礼した。午前中雨で釣り船もお休み。当日は鯛江丸でアオリイカ釣りを予定したのだが、風が出たせいか船が出ないので午前中は学校に行ったのである。どうも釣りマインドが収まらない。予想通り天気も回復したので新潟東港の漁港にある導入堤防に入り、アジ釣りを試みた。3時から5時半までの間、ミンチコマセのパックを使って6本針のサビキで落してみた。既に年配の釣り人が20匹ほどアジを釣っていたので、魚はいるなあと思ってコマセを周囲に撒いてあたりを待った。暫く音沙汰が無かったが、やがてブルッと竿先が震えたので上げてみると15センチくらいの豆アジ。餌を入れ替えて試みるがあたりが遠のいた。そこで竿を上げたら、仕掛けが防波堤の下で根掛かりしてしまった。引っ張ると浮きのところからプッツンとすっぽ抜けてしまった。サルカンの糸の結びが甘かったのか。仕方が無いので、仕掛けを換えても再度チャレンジ。コマセを周辺に投げて肴を集めてみたら、いるわいるは、水中に銀色に魚体が光っている。なんでこんなにいるのに掛からんのだとコマセの煙幕にサビキを落とすとたて続けに掛かった。今度は一段と強い引きで上げてみると25cmくらいのコノシロ。コマセを入れ替えて落とすとその度にアジがかかる。10匹ほど取れたが、下を見ると、あの根掛りした仕掛けが、小型のコマセかごと共に浮いているではないか。そこで、使っていた仕掛けで引っ掛けてもう一度引っ張ると上がってきた。ところが、サビキ仕掛けが絡まって
ドウシヨウモナイ。 もつれをほどいている内に日が暮れてきた。シマッタ、ライトを車に忘れてきた。モウ4時45分にハ辺りは暗くて糸が見えない。そこで、納竿とした。まあ、大した釣果ではなかったが、夕食のおかずには充分だ。夕食は昨日買っておいたアオリイカを使ってサトイモとイカの煮付け、それと、仕込んであったボルシチで食べきれない。日曜日に買って置いた越後杜氏の純米酒カップを煮酒に少し取った後ちびりちびりとやりながら、アジのから揚げを食べたが、やはり取れたてだけあって、美味かった。

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