<   2015年 04月 ( 8 )   > この月の画像一覧

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 ウナギとか、アナゴ、鱧、ダツ、太刀魚など長い魚には美味しいものが多い。ウツボなんかも、干物にしたり、調理次第では結構いけるのではないか。その中でも、絶品の魚が「ヤガラ」である。先日、スーパーのウオロクに行った。最近このスーパー、ポイントシールをくれるので買い物はここにしている。当日はステーキにしようと思い、肉売り場に向かったが、途中の魚コーナーをちらりと見ると、何やら分けのわからん魚のぶつ切りが半値の250円で売っている。よく見ると「ヤガラ」と書いてあるではないか。これはほうっておけん。昔凄く美味しかったことを思い出した。買い物籠に放り込んだ。3日前に作って、今はスープばかりになった、ブイヤベースに一切れ入れて煮込んだ。もう一切れは、1センチほどの輪切りにしてお吸い物にすることとした。鍋に水と出汁の素少々、春菊と葱を入れてさっと煮込んで、そのスープを飲んでみたら、やはり「美味い」買ってよかった。もちろん、ブイヤベースも良く、ホウボウより身がしまっていた。この白身のプリッとした歯ごたえが凄い。味は鯛にも負けない淡白さ。見た目、奇妙な魚で売れ残ったんだろうが、煮付けにしても美味しい魚だそうである。大正解。
               お吸い物にしたら絶品でした
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紫雲寺浜で見た佐渡に沈む日本海の夕日
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中条の発電風車
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こんなところでキャンプしたい。
 アマゾンでテントを売っていたが、ネットで買えるとなると気軽な気持ちで買ってしまう。昨日、紫雲寺の海岸でテントを張って男女でキャンプをしていた方を見て、羨ましくなった。昔、山に凝っていたときに買った2人用の山岳テントを持っているのだが、中野に置いてあり、しかも、物置の一番奥にしまったので、前の荷物をどけなければ、テントも寝袋も、ザックも全て取れない。仮に引き出しても、新潟まで持ってくるのも大変。そこで、つい、ノースフェースの3人用のテントを買ってしまった。車でキャンプするなら、敢て寝袋は無くとも、毛布を持って行けばいい。テントマットは必要。後は銀マットを買い足せば、バーナー、鍋、炭火焼コンロ、クーラーも持っている。ランタンは最近、LEDの電池式があるから、昔の様なガスライトは不要である。実際、オートキャンプをしている人を見ると、テントの前にタープを張っていて、その下で優雅にチェアを置いてゆったり出来るようになっている。意外だが、テーブルも必要である。これはイオンあたりでバーゲンのものを買うとしよう。山と違って、車で何でも運べるから重さは関係無い。むしろ折り畳んだ後のサイズである。実際、クーラーは釣り用の大型の物だから、これだけで車のトランクは半分埋まってしまう。後はバーナー用の燃料タンクを買えばいつでも行けるぞ!粟島でも紫雲寺海岸でも、赤谷の滝谷キャンプ場や内之倉ダム湖のキャンプ場でもいい。楽しみだ。
 何故、ノースフェースにしたのかというと、単なるブランド好み。モンベルでもコールマンでももっと安いのがある。しかし、キャンパーも結構実は見栄があって、あんまりイオンのバーゲン品だあと寂しくなって、また買い替えたりすると、前のものがオクラのゴミになる。また、ブランドものを購入するのもこの道では結構重要に思える。キャンプ場は様々なキャンプ用品のパレード。そんな所で、シャビーな安物では寂しいというささやかな見栄である。テントくらいは高級品で、どうだと鎮座したいねえ。独り者だから、1人用で安く住ませるが、これも威勢を張って3人用でゆったりしたいのである。馬鹿な事かなあー?ホームセンターで買った炭火焼のバーナーで、タレに漬け込んだ牛肉や魚、タマネギやシシトウ何ぞをジュウジュウ焼いて、ビールを飲みながら星空を眺める。夢も広がる。翌朝はつけ込んだフレンチトーストでコーヒーとオレンジでも頂こう。しかし、その後は何をするのかな?侘しい感じもありますが、実際やって見たい。昨日の連中は2組とも彼女と楽しそうだったが、こちらは一人。
 昔、息子と穂高にテントを持って行ったが、大雨で大失敗し、ヘトヘトになり、結局、穂高小屋の世話になった。重いテントというより、寝袋や余計なもの、水タンク、食器等結構な重量。これらが全く無駄になってしまった。あれ以来テント行はやっていない。

買ったノ−スフェイスのテント
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大学と基礎自治体の崩壊という現実に立ち向かう


4月18日の新潟日報に、宗教学者、山折哲雄氏(元国際日本文化センター所長)がコラムに書いている。限界集落が増え、基礎自治体が消えていく現代の日本において、同様に危機を迎えているのが大学である。特に大学の人文科学系と地方の小さな大学は消え行くような政策が進んでいるように見える。限界集落と地方大学の危機に山折氏は一つの提言をしている。限界集落を教育の拠点とし、丸ごと買い取る。そして、教員を移住させ、草の根の民主主義の現場を作り、ここから基礎自治体の再生を企画し、野に遺賢ありの精神で教員と学生を育成する。世の大学におけるフィールドは機能していないという認識に立ち、新たな建学の精神を立てる。そこにおいて大いに議論をし、村落共同体的コミュニティを構築するという考えである。札幌農学校の再現ということを提言している。宗教学者らしい面白い視点だと思った。限界集落は皆高齢化によって活力が無い。若い学生や研修者を結びつけるのである。今、政府は地方創生と地(知)の拠点というコンセプトで大学を連携させ、地方活性化の起爆剤にしようとしている。善意に解すれば政府のアイデアも同じだ。大学の整理統合の口実にするのではなく、高等教育の場を構築する試みとして育成するということが地方私立大学の共感を得るかもしれない。しかし、何事も、先立つものは金であり、その資金はどうするかが頭によぎる。一方、真の教育は金ではなく、理想とか、志で生まれるという考えもある。山形県の小国には独立学園という内村鑑三の弟子が作った学校がある。小さな学校1学年25人ほどの高校であるが、奉仕の精神、礼拝、自立した学習を基本に教育的成果をあげている。大学受験のための勉強はしなないが、結構有名大学にも合格する。これが大学であれば地元の村落と結びついて地域創生の知恵袋にもなりうるのではないだろうか。新しい理念を全国に呼びかければ、志を同じくする教員と学生は集まるという淡い夢もある。教員の給与は初任給から上がらないが何とか山の中なのでやっていけるのだそうだ。敬和学園では今年から、新発田市をフィールドとして地域学のコースを設定し、中心市街地の活性化や、地域に奉仕する人材の育成を始めた。衰退しつつあった駅前の再開発においては、図書館と医療モール、市の観光協会と並んで、大学学生寮が建設される。居住することになる学生40人は全員新発田市民ではないが、住民登録し、市から大学は補助を頂きながら、地域に奉仕する人材育成の核になることを試みる。この施設を活用して、市が悩んでいる貧困家庭の青少年、小中学生の学力増進と図書館の活用を通じて大学が貢献する企画を練っているところである。何も、限界集落でなくとも基礎自治体の崩壊につながる都市機能衰退はこうした中心市街地にもシャッター通りとして存在している。ここも、大規模量販店の進出も原因のひとつだが、立ち直れない原因は高齢化である。かつて、アメリカのゴーストタウンや都市のスラム化のようなことは日本では起きない。炭鉱の廃止によって長崎県の貝島炭鉱跡の軍艦島のような所は全く隔絶された地域であるが、筑豊炭田の田川市、夕張市のような形で先細りしながら生き残り、福祉コストの増大など課題が解決できないまま残っている。難しいとは思うが、このような地域に、東京の資産家や企業が出資をして全寮制の大学ができ、研究拠点のようなものが誘致されれば、山折氏のアイデアは生きてくる。彼は米国生まれだからその発想がある。いやこの先鞭を大学でなくとも企業の移転でも良い。アメリカの大学でも実はこのように田舎に建学されたリベラルアーツの名門校が結構多いのである。GMなどの大企業本社は必ずしもニューヨークやワシントンではない。田舎町に本社機能が移転しても世界に情報発信している企業は多い。志のある篤志家や企業はわが国にはいないのだろうか。  山折氏のアイデアはそんな篤志家でもいない限り難しい。しかし、そうしたコンセプトは生きるかもしれない。何も限界集落だけではない。中心市街地においても空き店舗は多く、シャッター通りを構成している。そうした一角を大学が借り受け、再開発をすることも可能だろう。街中キャンパスを作り、市民との交流の場にする試みを多くの大学が行なっているが、これを大規模に計画するのである。            (完)

  (完)
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 新潟では甘エビは安くて美味しい。スーパーで300円も出せば、ごっそり詰まったパックで買える。大きめの甘エビは新潟では南蛮海老といって、これはやや値が高い。しかし、この小さめの甘エビをオリーブオイルをたっぷり入れて、ニンニクを刻み、塩こしょう、鷹の爪1本入れて、低めの温度でじっくり揚げると素晴らしい甘エビのアヒージョになる。海老の頭の殻からまるで、東京で食べる川海老よりも美味い。特に頭がねっとりして甘みがある。もちろん、甲羅部分も食べられる。
これをアヒージョ用の素焼き陶器の皿に入れて、オーブントースターで熱すると何度でも食べられる。甘エビはナマが美味いとばかり思っていたが、最近はこれに限ると思うようになった。このカリッと揚がった頭と甘エビの胴体のやわらかな部分のうまみが混在したアヒージョはビールでも、ワインでも、日本酒でも何でもあう。新潟で食べる甘えびはあっさりした淡白な風味だが、東京ではもっとねっとりとして甘みがある。だから、甘エビなのだ。しかし、やはり魚介は新鮮な風味が命だ。新潟で甘エビを食べていると、東京のはただ古くなった腐りかけの甘さでしかない。新潟の甘エビをアヒージョにするとニンニクとオリーブオイルの味覚が加わり、実に風味があって良い。
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 レイチェル.ワイス 主演のアレキサンドリアをBS で見た。2009年製作のスペイン映画である。『アザーズ』『海を飛ぶ夢』のアレハンドロ・アメナーバル監督作品。CGを駆使した2000年前のアレキサンドリアの都市が再現されている。この映画の主役はこの都市風景である。群衆シーンなども合わせ物凄く金がかかった作品。壮大なテーマを抱え込みすぎて出来映えとしては自滅している。
 西暦4世紀、キリスト教が定着し異教の排斥が行なわれ始めた時代の、女性天文学者ヒュパティアの学問に殉じた半生をアレクサンドリアを舞台に描く。天動説に疑問を感じ、何らかの地動説を肯定できる理由を模索し続けた彼女は、弟子のオレステスや奴隷のダオスに愛慕を受けるが、それを拒み研究に没頭してゆく。もっとも、彼女が、地動説を唱えた記録は無く、全くのフィクション。彼女はギリシャ哲学の最後を飾る哲学者であった。壮大なアレキサンドリア図書館が描かれる。ヘレニズムの学問の中心である。
 その一方でキリスト教徒は、自らの宗教の絶対性を民衆に訴え、古来の神々を愚弄する。ヒュパティアの父テオンらはこれに憤り、剣を抜いて応戦するも退けられ、クリスチャンである皇帝テオドシウスは異教徒の一方的な罪を宣告、図書館はキリスト教徒に占拠され荒廃する。ニケア宗教会議を主導し、アリウス派を異端とした時代の皇帝である。アレクサンドリアの大図書館は異教の魔窟とされ、異教徒には改宗か出国しか道は残されなかった。その中で改宗を拒み、青年たちに学問を教え続けるヒュパティアは、司教から魔女とみなされる。彼女は歴史記録ではもっと残酷な酷い刑罰、カキの貝殻で肉を削ぎ取られるという刑を受けたため、ヘレニズム的教養を持った学者は皆アレキサンドリアを去り、この都市の文化的地位は消えた。映画では石打の刑となっている。肉そぎの刑も、ギボンの空想という説もあり、よくわかっていない。彼らを受け入れたのがイスラム教徒であった。この映画が製作されたのは、今のISIL等が勃興する以前の09年であるが、ヒュパティアを迫害するキリスト教徒が、まるで今の過激派そっくりである事に驚く。製作は、カトリックの影響の強いスペインであるせいか、キリスト教会の権力奪取後の横暴な振る舞いが、中途半端であること、栄光のローマ帝国が滅んで行く様をもっと鮮明に出せば、奥行きのある映画になっただろう。ヒュパティアの弟子達の愛とか、歴史的なフィクションがはいりすぎている事が残念であった。この映画の主役は都市のアレキサンドリアと滅び行くローマ帝国であるべきである。ローマ帝国滅亡の原因がキリスト教である事をもっと表現してもらいたかった。国家の統治能力がキリスト教勢力によって減衰していく様がよくえがかれていないが、この映画でも感じたところが新鮮であった。

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   大学の学び
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 昨日(4月12日)母校一橋大学の新潟での地方創生シンポジウムに参加しました。先は地方創生のためには官、民、政が自分の役割をきちんと果たすことが大前提です。地方創生における政府の構想と対応、地域計画の課題に関する辻副学長の講演がありました。少子高齢化がすすみ、増田レポートで示された人口減少コミュニティの実態に関して、完全な人口消滅コミュニティは少なく、高齢者が残留することが福祉や社会保障の非効率化を生むこと、また、新潟の耕作放棄地の実態と都市計画に関して説明がありました。高齢化した限界集落の集約化には税制と都市計画が連携して初めて新しい社会と都市が生まれる。増田氏は地方都市と東京区部との連携や、二地域居住への環境整備を訴えている。しかし、中国ならまだしも日本ではこれは難しいのではないだろうか。
 また、如水会の会長である住友電工社長の松本正義氏(関西経団連副会長)、蓼沼学長からは一橋大学の教育方針の説明を受けました。松本氏は道州制の問題から、関西経済圏の活性化、さらにはそこにおける人材、変化に対応できる異端者であれ、また、柔軟な思考力を持った人材を育成すべし、といった経営者としての見識を感じさせてくれるものでした。
地方活性化のためには、一極集中になっている首都圏からの本社や工場移転が伴わなければ、掛け声ばかりになるでしょう。地方単独では無理なのです。受け皿になる地方も、人材育成、街づくりをきちんと整えねばなりません。人と企業の移転には住宅税制、法人税に配慮をすることが国の仕事だと思います。 「今回、ひと・まち・しごと」というコンセプトは過去の失敗を踏まえ、良いアイデアだと思う。大学も生き残りをかけてCOCに取り組んでいます。
 一橋大学としては新潟からも多くの学生を迎えたいということで、高校にもPRされたようです。一橋大学は将来のビジネスリーダーを育成するという基本方針をもとに、様々なプログラムが組まれているようで、まことに素晴らしい内容と思いましたが、留学制度や語学、また、学生にビジネスの基礎知識を教育する充実した仕組みに驚きました。でも、自分が大学生のときと比べ、今の学生は大変だなあという印象でした。もっとも、現役学生でも大学の期待どおりにプログラムに乗る学生だけではなく、エンジョイ派、部活派など多様なライフスタイルが一橋にもあって、それなりに自由な学生生活を満喫しているはずです。そこで培った友人と卒業後にさらに勉学にいそしむ層もあるだろう。それらを無視して、一橋の自由な校風にふれずに、がり勉のアカデミズムを強く押し出しても今の学生には受けない。大学も基本的な人間形成をどのように達成するかを学びにおいても組み込んだプログラムが無ければ社会における評価も魅力は半減するでしょう。優秀でも挨拶ひとつ出来ない、人を人とも思わない傲慢な人間を生むことは害となる。エリートほど謙虚であるべきで、豊かな人間性が求められます。一橋の良さは自分の時代は学生数も学年800人ほどでした。ゼミの教官やクラス担任などと知り合ったり、酒を酌み交わす機会も多かった。先生方の学生へのまなざしも温かく、そこがすばらしい雰囲気だったことを思い起こした。如水会を軸とした先輩との交流も多く、部活などで先輩からご指導を受けたし、国立大学として珍しい校風であった。大学の学びの良さはまさにそこにあるのではないだろうか。 
  新潟に来て3年、地域の高校の進学指導教員、若者の心情に触れることが多い今日、高校の受験事情もわかってきた自分としては今回の一橋のPRが新潟の学生にアピールする内容かどうか、心配になった。新潟県の学生は、実学志向が強いが、リーダーシップということにはあまり関心が無く、職人的なプロフェッショナルを志向する印象が強い。だから、司法試験や公認会計士、教員などのプログラムを持った大学に行きたがる。新潟高校などの名門校でも、比較的、東京大学の文Ⅰなどよりは理系や新潟大の医学部に多く行っているのではないだろうか。今年の新潟県の東大合格者は新潟高校8人、長岡、高田が各2人といった具合で、傾向がつかめる程の人数ではない。一橋に至っては新潟高、長岡高で1人か2人といった具合で、県下の学力上位の学生は東北大、北大、新潟大学に行く数が多い。本来、東大や一橋、京大に行くポテンシャルを持った学生も多いと思うが、230万人という県人口の割りには少ない。新潟県人、特に男子は控えめで、出る釘は打たれる意識が強く、何事も目立たぬように振舞う若者が多い。そこで、ビジネスリーダーなどというコンセプトには気持ちも引いてしまうかもしれない。一橋は資格でも結構頑張っている。司法試験の合格者も人数の割には多く、学年150人ほどの法学部から、毎年40人~50人は輩出しており、公認会計士を目指す学生の合格率も高いと思われる。新潟ではそうしたことが評価されることを念頭に置いたプロモーションのほうがよい。専門教育とリベラルアーツ教育をどう整合させるかということである。
 新潟県の若者はむしろ大学において地域に貢献する仕事との関連、医療とか女性は看護といった専門職志向が強く、その分NSGなどの専門学校が栄える傾向。地域の学生の気質、特性は県によって相当違うとみてよく、そこを見ずにプロモーションを行っても共感が得られない。伝えたいことは盛り沢山だろうが、土地のニーズをよく分析して企画すべきである。実学面が強調されたが、一橋のよさは、むしろ歴史学やアダムスミス、ウェーバーなど哲学の学びも盛んで、自由な学風が人間教育になり、特に友人の絆の強い大学である。Cool head but warm heart.な経済人を育てる人間教育が今日ほど求められる時代は無いのではないか。 

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姜尚中著 「心の力」「続悩む心」を読む

 姜尚中氏が続悩む心に続き、現代人の生き方を問う著作である。何故、今日このような問いかけに人々が答えを求めているのだろうかと思うところから読んでみた。姜尚中氏は自分より3年年下である。団塊の世代からは少し遅れ、全共闘の学生騒乱の時代を眺めてきた。彼の時代を読む目はひとつは日本の敗戦後の平和と高度成長時代、そして、全共闘の騒乱時代、そして、3.11東日本大震災後の時代認識の変化に注がれている。
 悩む力において、彼はマックスウェーバーと夏目漱石を取り上げ、二人の共通性、また、何を問題にしたか、をあげながら現代社会の傾向に関して新しい視点を提供しようとしている。自分は夏目漱石も、マックスウェーバーも読んだのは50年も前のことで、すっかり忘れていた。改めて読んでみようかなという気にもさせられた。「続悩む力」では、ウェーバーから、さらに漱石が学んだとされるウィリアムジェイムスを取り上げている。さらに、イギリスの無心論者ドーキンス、経済学のシューマッハ、夜と霧を書いた精神分析学者フランクルにも枝を広げている。悩みを求める人間の究極の答えは、フランクルにあるようだ。フランクルが人間の価値として1.創造、2.経験、3.態度 にその真価があるとしている。幸せをつかむ道である。人間はいつかは死ぬ。その中で幸せとは一体何かである。楽観論も悲観論も受け入れて、死や不幸、悲しみや苦痛、悲惨な出来事から目をそらざず、だからこそ、過去を大切に人生を存分に生きる道筋を真面目に考え、示すことが存分に生きる道であることを姜氏は伝えようとしている。「心の力」ではトーマスマンの魔の山の主人公ハンスと夏目漱石のこころの後日談として先生の相手役、私こと河出育郎の後日談として、二人が日本で出会うという著者の創作小説を組み込み、トーマスマンと夏目漱石の見た時代と現代を対比させながら、「心の力」に必要なものは何かを追求している。トーマスマンやマックスウェーバーが置かれた時代環境と、夏目漱石の時代の日本、そして現代が非常に似ているという。第1次世界大戦前の教養主義的世界をトーマスマンは魔の山のサナトリウムで小宇宙のように描いている。夏目漱石は日露戦争後の日本、さらに姜氏は「心」の後日談として戦中戦後の日本を河出育郎を、また、魔の山のハンスがワイマール時代からナチス時代を生き抜いた人物として日本の箱根で出会わせる形で小説タッチで描いている。「語り継ぐ」ということで心の先生の万年筆を、また、ハンスの記憶にある代々伝わる銀の洗礼盤を象徴として悩む力から心の力を得る道を説いている。
 東日本大震災と原発事故は日本人のこれまでの時代観を先の見えないものにしてしまった。先の見えない生きにくい時代である。科学や市場経済8への不信、さらにはイスラム世界の悲劇を名度を前にわれわれは立ちすくむ。そこに未来を切り開く処方箋として「悩む力」を心の力に振り向けることを提言している。

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地方創生の落し穴

1.地方創生の陰に

 地方の時代とか、地方分権、首都移転法など、これまでも、多くの政権が東京一極集中を転換しようと試み、失敗してきた。今日の都市化の波は、世界の潮流であり、逆らえない大きな動きの中にあるのだが、日本の東京集中は極端である。経済効率からみると集中は効率が良いように見えるが、ここまで進むと増田レポートにあったように、豊島区の消滅とか、福祉を含む都市機能の限界が、思わぬところから見えてしまった。今回の増田レポートからみた対策は、地方中核都市の活性化で、東京集中の分散を図り、これを拠点に地方の衰退の防波堤にしようというものである。これは経済面では確かに必要なことであるのだろう。しかし、問題は別のところにある。地方を地方たらしめているのは、実は周辺の限界集落に近いような、切り捨てられようとしている地域の文化、地場産業、農業なのである。そうした地域の祭り、特産物、食生活などの生活習慣である。この担い手は人である。それらは地域の農業や産業とも関係している。日本は北海道から沖縄まで、全く違う風土の中に共通の言語を持った1億4千万人が住んでいる。地域によって固有の文化風習がある。例えば沖縄の人々の宗教観と東京、北海道とはかなりの差がある。冠婚葬祭から、学校の行事、人々の地域との交流の仕方などである。それが、中核都市に人口や産業が集中していくにつれ、すべてが東京化する恐れもある。地方文化が形ばかりになって消滅する。そこで、地方文化の発信がどこからなされるのか、また、限界集落から移動できない高齢者などの生活をどのように支えるかである。伝統文化だけではない、未来においても期待される地方の存在をどこから育てるかという問題であって、単なる人口論ではすまされない。例えば新幹線の駅を見れば、どこも同じような駅舎で、特に新幹線側出口(駅裏)などは、タクシーやバスなどのターミナル広場、駐車場があって、ホテルなどもあるが、商店も少なく閑散としている。同じような風景が見られる。そうしたことが象徴的に出ており、その土地らしさは駅の感じからは判別できない。現在、地方の中核都市は集中が始まっており、この流れは既に地方創生を叫ばずとも進み、止められない。

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2.若者は帰ってくるだろうか
 
 増田レポートでは、2040年に自分のいる新発田市は人口が40%減る。そうした減少した分は、何も、首都圏ではなく、新潟市に向かっているのである。中高教育がそこで重要な役割を持つ。東京に行くことを妨げることはできない。だから、地域にとって魅力ある大学が増えることも必要である。若者の意識改革が中高で行われなければならない。高校で言えばかつては地域の名門校であった県立村上高校や新発田高校は定員割れにおびえている。それはトップクラスの学生が学校群がら外され、全県自由になったため、みな市内に集中し、交通の便の良いところは吸い上げられてしまう。新潟県で東京大学に入る学生は殆どが新潟高校か、長岡高校に偏っている。現代の地方経済や文化において高校の果たす役割も大きい。なぜなら高校卒業生の大学進学者の40%が県外に出て行き、帰ってこない。また、定員に満たない学校は学生の学力レベルも低下し、マイナスのスパイラルに陥る。既に、地方教育のバランスが崩れている。企業経営と地域経営との違いは、大企業がうるおえば、その下請けや周辺産業に波及するが、地域の場合は人が吸い上げられると戻ってこず、循環しないのである。大切なことは自分の育った地域を愛し、いつか戻ってくる人材であり、他地域で培った力を故郷で発揮できるかどうかではないだろうか。

朱鷺メッセから見た冬の新潟
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3.受け入れる方の課題

 この循環という考え方が大切である。東京も含め、集中は必然であるとすれば、循環も必然にしなければならない。その方策は何かだ。若者が他の世界に憧れ、旅立つのは自然ではないだろうか。しかし、そこから帰ってくる人も大切である。故郷に新しい風を吹き入れる人材である。UターンやIターンだけではなく、行ったり来たりする人もあってよい。一年のうち半分は東京とか外国、半分は地方でもいいではないか。生活拠点の多様化の仕組みが大切だと思う。諸外国、特に先進国は一家庭で家を二軒持ち、季節によって住み替えている富裕層も多い。地方も都会もいまや空き家が急増しているのだから。マルチハビテーションというスタイルがあったが、あれはいかにも都会中心で、東京の人間が蓼科や軽井沢、那須に住む別荘ライフであったが、そうではなく東京を別荘にし、地方都市や農村に暮すのである。高齢化社会になれば何も勤務先に拘らずに、好きな景色、歴史ある地方の街が待っているのである。そこで、伝統工芸を学んでもよいではないか。機織などは認知症の予防になるといわれている。農耕も良いし、工芸なども年を取ってからだって学べばよい。東京以外の土地の歴史、芸能だって楽しめるのである。それには既存の住民が新しい人を迎える工夫も必要である。漁業などは確かに大間のマグロ漁は無理だろう。しかし、定置網の収穫なら出来るし、網のつくろいとか、網に絡んだ魚を取り出すことなどは可能である。新しい土地でも何かが出来るように地域が協力しなければ、限界立地の田舎は生き残れないことも確かである。それぞれが道を模索すればよいのである。

それには既存の住民が新しい人を迎える工夫も必要である。漁業などは確かに大間のマグロ漁は無理だろう。しかし、定置網の収穫なら出来るし、網のつくろいとか、網に絡んだ魚を取り出すことなどは可能である。新しい土地でも何かが出来るように地域が協力しなければ、限界立地の田舎は生き残れないことも確かである。それぞれが道を模索すればよいのである。

新たに東京から戻った方々を単なる新参者と捉えて、地元の下に位置づけてしまっては、全く意味が無い。帰郷された方々を伝統的な仕事やしきたりに閉じ込めるのではなく、新たな風を呼び込むための知恵袋として活用することである。コミュニティの中にどう位置づけるかという仕組みやプログラムが用意されるべきである。単に、仕事があります、ではそこで労働力として貢献してくださいというのでは無意味である。外に出て行った人間、あるいは、どこの馬の骨とも分からぬよそものに物を言わせない、あるいは声を聞かないという閉鎖性を打破することが大切である。



福井県三国の町なみ
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