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最近の小林克也氏

小林克也氏は日本のDJの中でもトップクラスであると同時に英語力、特に英語の発音に関しては第一級である。しかし、彼は留学経験もなければ、ハーフでもない純粋な日本人である。独学で、FEN聞き取りを通じた習得方法により国外滞在経験を持たないまま高い英語力や発音を身につけた。発音に関しては、口の形、舌の位置、口の周りの筋肉を鍛えることを重視し、独自の方法で身に着けた。日本ではあの人は「英語ペラペラ」という一種の神格化された評価がある。それはいくら英語の文法や語彙が適切でもペラペラとは言わない。英語が出来る人という程度のもの。ところが、彼はペラペラの部類である、それは発音に気を使った英語だからである。最近、テレビ番組「チューボーですよ」で堺正章のアシスタント、「すみれ」さんが、一発芸のごとく、流暢な発音で英語による紹介をしたり、コメントを述べるシーンがある。それほど難しい言葉を使っている訳ではないが、ハワイで育ったネイティブの発音でペラペラというのが何とも、その美的なスタイルや顔立ちで人気を博しているのです。やはり日本人は良い発音には弱いのである。これは試験や受験英語では出来ない芸なのである。
チューボーですよに出演の「すみれ」さん
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 小林氏は35倍の難関、通訳案内業国家試験を一発合格したのちに外国人相手の観光ガイドのアルバイトを始めた。当初は何を聞かれてもI don't know を繰り返し、観光客を激怒させてしまった。ところがその後、大いに反省、FENを聴き続けた時に得た音楽知識で大いに気に入られたという。ちなみにその客はアメリカのラジオ局の副社長だった。それから、彼の運は開かれて行く。

 高校時代彼は進学校にいたが、古文とか、受験科目を勉強することは苦手で、その影響か、大学受験では 入試科目に古典が一切なく、英語を重視する慶應義塾大学経済学部に入学。しかし、彼は英語にしか興味が無く、慶応も中退してしまった。ここに、日本の英語教育の問題が見て取れるような気がする。本当の英語を学ぶ場は慶応大学といえども無いのである。前いた会社には東大、一橋、京大、早慶の卒業生しかいない職場だった、連中で800点取れる人はゼロ。もっとも、今は750点無いと課長になれない。
 ということは英語を勉強するには何も東京でなくても可能ということ。新潟でもその気になればよい。要するに、環境さえ作れば、英語の学びは可能である。東京のマスプロ大学に行ってバイトで消耗するくらいなら、新潟にいて、生活費を浮かせれば、100万円はたまってしまう。それで大学生なら在学中夏休みに2回〜3回は留学とか、セミナーに行ける。 わが国の英語教育は基本的には40年前とそれほど変わっていないのではないか。ある、有名予備校の教員が一番優秀だったのは団塊の世代だったという。これは受験英語の事である。最も激烈だった時代だから当然である。英文法、英文解釈そしてリスニングであるが、TOEICなどの手法も取り入れられ、スコアで比較できる仕組みもできてきた。高校生活から離れてずいぶん時間がたった自分は今の学生の勉強内容からは遠ざかり、分かっていないが、少なくとも、受験英語で難関校に入った学生を何人か見ている限りでは、それほど向上しているようには見えない。昔の英語環境は映画か、FEN、ラジオ英会話くらいしか英語に接する機会も無かった。ところが、近年、学生の海外短期留学などの機会は増え、そうした留学組の英語力はぐっと向上している。自分の息子もTOEIC800点取ったのだが、まったく英語を使って何かをするレベルではない。会話は全く出来ない。あるいは、東京医科歯科大の大学院同級生に900点台もいたが、ゲストの外国人と会話をするレベルではなかった。むしろ何の資格も無い自分の方が、物怖じせず話すことが出来た。要は何かを話す、何を話すかが無ければ会話にはならない。もちろんディスカッションなど出来る訳も無い。もっとも、TOEICなどのテストを年に何度も受け、自分の能力向上をチェックできるようになったことは歓迎すべきことである。ところが、最近はこれが自己目的化している。日本人特有の目的と手段の転倒である。本来、語学の学習は、その言葉によって、その国や民族の歴史、文化、暮し方、人間どうしの交流の仕方などを学ぶことが出来る楽しいものである。これでは、全くの苦痛以外の何者でもない。
 
もう一度、小林克也さんに戻ってみよう。彼は、ポップス、ジャズなどの音楽においての見識は一流である。一時代を画したといってよい。その英語力は定評がある。発音も重要な要素である。彼は他の勉強を捨てても好きな音楽と英語を徹底的に学ぶことによってトップクラスの人材となったのである。もともと優秀だったのだろうが、音楽DJの一人者になるまでは相当な苦難があったに違いない。
小林氏はサザンの桑田との親交でも有名である。サザン1982年のアルバム『NUDE MAN』の1曲目「DJ・コービーの伝説」は、DJ・小林克也をモデルにした楽曲である。小林は『KAMAKURA』(1985年)収録の「死体置き場でロマンスを」にもMCとして参加している。また、2004年に発売されたサザンのDVD『ベストヒットUSAS』は全編ベストヒットUSAのパロディであり、小林もサザンのミュージックビデオを紹介するMCとして出演している。2008年の「サザンオールスターズ 『真夏の大感謝祭』 30周年記念LIVE」では、映像で出演し、ライブの開始を告げた。(wikipedia から引用)

 似たような人物がもう一人いる。大橋巨泉である。彼もジャズに詳しいタレントだが、英語は上手で、バンクーバーやオーストラリアで何年も暮している。ところが、こうした生(ナマ)の英語は日本では好まれない現実もある。帰国子女が中学高校で苛められるのは周囲には無い能力を嫉妬されるからだ。日本では皆が出来ない事を出来ても評価されない。ゴルフのように誰でも出来る事を少し上手い事の方が評価される。そして、高校の英語の先生も実は自信が無い。 
  
 点にこだわるようだが、地方の県立高校の教員でも、TOEIC800 点を取れない人が多いし、これまでやって来た英文解釈だの、文法問題、英作文、学生の受験英語も否定されてしまう。大学受験にしか役立たない英語を英語ではないということは禁句。これは彼らの英語であり、プライドを傷つけてしまう。だから、この日本人の英語を否定する方法は逆に反感を持たれてしまうリスクがある。では、彼らが努力している日本的英語と国際レベルの英語とを橋渡しするものは何だろうか。それは、英語とは別のジャンルにある。小林氏としてはジャズだし、「すみれ」はハワイ、彼女の美、石田純一の娘という売り。さらに、はキャリアにつながるチャイルドイングリッシュとか、通訳ガイド、英語の教職といった将来のキャリアにつながるアプローチである。何を言いたいかというと島国の日本で、英語力を磨くにはひとえに、どんなモチベ–ションかにかかっている。受験もその内の一つであり、これを攻撃してはならない。しかし、それぞれの限界を見ながら選択する事である。

 近年聞くだけで上達するというスピードラーニングという商品がある。確かにリスニングは有効だが、それは方法のひとつで、実際には、声を出して反復することが伴なわなければ効果が半減する。このことは一言も触れられていない。それはただ、教材を売らんかなということであって、全くの手落ちである。英語の出来ない日本人のコンプレックスを利用して金儲けされているのである。いくらテレビでゴルフの番組を見ても実際にクラブを手にとって練習しなければ、また、コースに出なければ上達しないのとまったく同じだ。小林氏の場合、類い稀な努力によって英語力を身につける事が出来た。しかし、普通の人はそうはいかない。例えばTOEIC400点くらいの学生が、300点スコアを上げる為には何をすれば良いのかである。実は簡単な事だが留学すれば可能だ。今、自分のいる大学の一学生が、カナダの語学長期プログラムに半年参加した結果、スコアを275点挙げる事が出来た。要するに英語環境さえあれば、本人の努力次第で300点くらいは簡単なのである。自分の知り合いでも、少し海外に行っただけで800点を超えた人を知っているし、自分の長男は、問題集を数週間練習しただけで800点を達成している。ベルリッツで1年間勉強したが、自分は全く問題集をせずに受けて720点、長男は国立大学の英語をクリアする自力はあったがトレイニングする前は法学部にいたせいか、何年も英語の勉強はしていなかった。SATやTOEFLはともかく、傾向と対策を学べばTOEICはそれほど難しい試験では無い。勿論950点以上は留学か専門に勉強しないと無理。テストを金科玉条のごとく祭り上げるのは良くある事、企業や市井の人々はこれを評価基準にしようとして、英語をさらにつまらないものにしているのである。日本人の英語教育は不幸な宿命なのである。毎日、雪隠詰めで、牢屋の様な所で運動をして筋力トレしていることに近い。実際孤独な戦い。一方、留学はハイキング気分でしっかり体力がつけられる。しかも、心がけではネイティブの発音が身に付くのである。
 何事も、上達の道は、練習、時間と金、良き師、そして一番重要な事は好きになる事である。当たり前の事だが、留学することが一番の方法だが、それが時間と金のいる事だから、これが無ければ、ひたすら残りの部分、ド根性で切り開くしかない。もう67才になる自分の正直なところは、面白くも無い勉強はやめてしまえ!と言いたい。

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再現された白壁兵舎
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 新発田城の横には自衛隊駐屯地がある。ここはかつて、帝国陸軍第二師団16連隊があり、勇猛果敢な連隊として有名であった。連隊というのは2,000人ほどの部隊だが、平時と戦時では人数が違う。この連隊では6,000人以上の兵士が英霊となった。日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満州事変から日中戦争、ノモンハン、インドネシア攻略(パレンバン)、ガダルカナル、インパールまで日本の主な戦争は全て出兵した連隊であった。そこの白壁兵舎は映画「八甲田山」のロケにも使用された。

大日本帝国陸軍16連隊兵舎は今も残されている
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新発田駐屯地で公開された戦闘ヘリ、ベル・ヒューイコブラAH-1
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飛び去って行ったブラックホークヘリコプター(シコルフスキー社製)
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再建された白壁兵舎
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フランス式白壁兵舎は映画八甲田山の出陣シーンのロケで使われた
緻密な復元作業で再建された

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構内にあった朽ちそうになった兵舎を移築し、再現したものである。集団的自衛権の問題が喧しい中、自衛隊の皆様のご案内で見学することができた。中身は、昨年見た資料館の展示物がそのまま置かれていて、新味のものは少なかった。かつての16連隊の、房だけになった連隊旗が厳かに飾ってあった。自民党の解釈によって交戦権が生じるのだろうか。今の政権は戦争の出来る国にしたがっているようにも見える。そもそも、国家と言えども、生存権とか抵抗権はあるはず。現行憲法でも我が国の攻撃と見なせば反撃出来るはず。では同盟国はどうかといえば、もし攻撃された同盟国の艦船や戦闘機を防衛するために軍事行動に出れば、他国の紛争に巻き込まれ、我が国がコントロール出来る範囲を超えてしまう。それが同盟と言うものだ。同盟国とはアメリカだから、この国が至る所で戦争をして来た事を思うと、うすら寒い感じ。この危ない国から守ってくれたのが憲法第九条ではなかったか。しかも、国内には沖縄のみならず米軍基地は三沢、横田、横須賀、岩国、佐世保など至る所に米軍基地がある。これらへの攻撃は我が国への攻撃と同じでしょ。自国が攻撃されても何もしないということを想定するのは変だ。当然、反撃するか、予防措置をとることが政府の責任である。憲法第九条を目の敵にする人々は恐らく、この16連隊の6,000人という犠牲を全く念頭にない、歴史に学ばない人々であろう。何故、自民党が集団的自衛権の解釈を急ぐのか。中国や韓国からの攻勢をかわす為であろうと思う。しかし、これは全く一時しのぎである。実は現政権の権力保持の為に有効だという事である。
もう一つ、自分の様な一庶民には想像の域を出ないが、日本はアメリカの産軍複合体の標的だという事だ。これは超能力戦闘機F35の導入決定とか、早速オスプレイを購入することになっているなど、尖閣列島の緊張は、兵器の購入につながっている。時はアメリカがアフガニスタン撤退を決めた後、アメリカの兵器産業は新たな市場を求めていることだろう。彼らは国際緊張がないとと困る。超高価なF35を買うのはイスラエルである事を見れば分かる。尖閣諸島の騒動は香港の活動家が上陸騒ぎを起こした事から始まったのを思い出せば、あの人達はひょっとして、CIAから資金をもらっているかもしれないということである。はした金で彼らは動くから、これで数千億〜数兆円の商品が売れてしまう訳で、実に効率が良く、大成功。全く推測の域を出ないが、そうだとすれば、アメリカの兵器産業はさぞ、にんまりしているだろう。そんな尻馬に乗っているのが自民党政権のアホ首相だということである。アホ首相のアホのミックス。三バカ大将三頭政治。アホ三羽ガラスたち!いい加減に馬脚を顕す時が来ているのである。

155mm砲は実際に空砲実演があった。榴弾は20km飛ぶそうだ
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尖閣諸島に上陸した香港の活動家だが、この人物
古思堯という方。 CIAの工作員だというもっぱらの評判。中国のネットで話題になった。
というのは反政府のデモの時は自分の国の国旗を焼いている写真を撮られている。
ドジ踏んでるから、多分もう出てこないだろう。
http://www.asyura2.com/12/warb9/msg/823.html から引用です
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 昨年、彼女の映画が公開された。イェルサレムのアイヒマンという彼女の著書を巡っての物語である。彼女はドイツに生まれ、若き哲学者として、ヤスパースやハイデッガーと親交を重ね、戦後の国際政治学において独自の地位を得た。特に、冷戦時代から米国の衰退にいたる20世紀の国家と歴史を読み解く上で彼女の見方は欠かせない。彼女はハイデッガーと不倫恋愛状態となり、20世紀の哲学の総括的なポジションを得たといってよいだろう。もともと哲学者であり、神学にも造詣が深く、ティリッヒ、ブルトマンなども学んでいる。映画は彼女のアイヒマン裁判との関わりを中心に描かれている。アレントはユダヤ人としてドイツを追われ、さらにアメリカに逃れた。ドイツのナチス政権が何故生まれ、それはスターリンの社会主義政権とどう違うのか。何故、ユダヤ人はドイツで抹殺されねばならったのか。彼女の著作、全体主義の起源、人間の条件などで、国家、民族、そして革命を政治学者として述べ、20世紀政治哲学の小惑星と言われた。
 ナチスの大物戦犯の一人、アイヒマンがイスラエルのモサドによって1960年に逮捕され、イエルサレムで裁かれ、死刑になった事件にてアーレントは裁判を傍聴、その著書の中で「悪の凡庸さ」という表現を使った。「悪の凡庸さ」は、人類史上でも類を見ない強制収容所でのホロコーストという悪事は、それに見合う怪物が成したのではない。思考停止し己の義務を淡々とこなすだけの小役人的行動の帰結として起こったとする記述はイスラエルから強い反発を受けた。アレントはさらに、ナチスのためにゲットーに追われたユダヤ人にも問題があることを指摘した。そうしたアレントの哲学的思考による解釈は今や常識となった。しかし、当時はそうではなかった。


全体主義の起源 Wikipediaより
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丹下左膳 百万両の壺は「中山貞雄」監督によるもので、彼は1909年11月8日生まれ、映画監督になって5年間に26本の映画を監督したが、軍隊にとられ中国戦線に、そして1938年9月17日に中国河南省で28才の若さで戦病死してしまった。彼の作品は殆どのフィルムが失われ、現存する3本のうち「人情紙風船」とこの丹下左膳がDVDで残されている。見たのは一つ500円の廉価版である。2つとも見たが、いずれも素晴らしい作品。1935年という時代を超えている。丹下左膳は初期トーキーの名優、大河内伝次郎であり、もう一人の女優が喜代三という無名の女優である。この喜代三というのは当時の歌手で、芸者だったそうだが、なかなか切れ味の良い雰囲気を出している。歌手としても人気があり、キングレコードで民謡などを歌っていたが、何とこの人、あの名カメラマン木村伊兵衛と結婚しかけて破談になった経歴の持ち主で、後に作曲家、中山晋平の後妻になった。もの凄い酒豪で、一升瓶を空にするのは朝飯前だったそうだ。そのせいか、59才で胆管ガンで亡くなっている。作品中も三味線の弾き語りで粋な歌声を披露している。
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Wikipediaより
映画の中の楊弓場
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大河内伝次郎と喜代三
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この丹下左膳は、江戸時代のゲームセンター兼バーである的屋(楊弓射的場)に居候し、女将の用心棒でいつもゴロゴロしている浪人である。隻眼、片腕、目に大きな切り傷のある特異な容貌で、剣の腕が抜群である。江戸の町には矢場という楊弓場が栄えていた。これらが後に縁日の的屋の原型になった。当時の楊弓場の雰囲気が出ていた。1935年当時にはその楊弓場は無くなっていたのではないかと思うが、良く再現している。

百万両の埋蔵金の在処が塗り込められた壺を巡って、大名、武家、これを手に入れた長屋の子供が入り乱れての人情喜劇となっており、後の丹下左膳とは違った面白味が出ている。この山中貞夫監督は江戸時代の庶民の生活を描くのが実に上手である。彼が江戸長屋の庶民を描いたら右に出るものはいない。江戸時代の風俗を良く知っている。この物語で、大名の次男が江戸の道場の婿になり、毎日退屈な生活を送っている。そして、丹下左膳も同様の遊民である。すっとぼけた役柄を演じた大名の次男 源三郎役は沢村国太郎という俳優で、沢村定子、加東大介の兄、甥は長門裕之、津川雅彦の父である。

的屋のトラブルで殺された男の一人息子を引き取るところから物語は進展する。この子供が同じ長屋に住む、廃品回収業を営む二人が道場主から二束三文で払い下げられた壷を金魚の入れ物に貰い受けた。壷を巡り、大名家、道場主、的屋の女将、丹下左膳が大騒動となる人情喜劇である。丹下左膳が剣を抜くのは、子供の親を殺した敵を居合い抜きで倒す所と、借金返済の為に、道場破りに行き、柳生流の道場からまんまと60両を貰うシーンである。道場主の妻と的屋の女との浮気事件、子供がメンコで勝って得たお金を巻き上げられるシーン、何ともひょうきんな廃品回収業の二人などそれぞれが生き生きと描かれる。もし、中山貞雄が生きていたら、黒沢明、溝口健二、小津安二郎クラスの名監督になっただろうと言われるのもうなずける。編集テンポの良さ、台詞掛け合いの軽妙さ、配役の選択、人情や物語の人間洞察の奥行きなど、当代一流の感じがする。



楊弓場
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 1948年イギリス映画「赤い靴」を久しぶりに見た。バレー映画の最高傑作である。本屋で買った
500円のDVDだった。この映画は美しいカラー映像で有名だった。残念ながら、このDVDは劣化した画面であった。『赤い靴』は、1948年英国映画。監督はマイケル・パウエル。原作はアンデルセンの童話『赤い靴』である。自分はこの映画を今から60年前今は亡き母と市川の松竹映画館で見た記憶がある。思い出の作品だ。
 同作へのリスペクトを公言していた、映画監督のマーティン・スコセッシがオリジナル・ネガ修復作業に着手し、2年の歳月をかけて完成された<デジタルリマスター・エディション>が、2009年カンヌ国際映画祭で世界初公開された。自分は5年ほど前、テレビで再現された映像を見て、テクニカラーの美しい色合いに見入ってしまった。

(赤い靴のモイラシアラー)
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 買ったDVDは残念ながらこの版ではなかった。色ぼけしたものだったが、安かったから我慢して見た。やはりカラー映像の美しさと、バレー映画の躍動感は一体のもので、この安物のDVDではいまいち感動は無かった。主役のビクトリア・ペイジ役はモイラ・シアラーであった。マイケルパウエルはこのモイラシアラーを使って、もう一つ「ホフマン物語」を製作している。ところが、ホフマン物語では、赤い靴の最初のシーンに出ている名バレリーナ役、ボロンスカヤ役でリュドミラ・チェリーナも使っている。ホフマン物語のベニスの舟歌のジュリエッタ役であり、ホフマン物語では彼女の方がモイラシアラーより光っていた。人形オリンピア役のモイラシアラーよりリュドミラ・チェリーナの方がずっと魅惑的に撮られているように見えたのである。映画女優としてはモイラシアラーは赤い靴の成功のお陰で有名になった。リュドミラはバレーは殆どなかったが、まるでVOGUEのモデルのような美しさであった。恐らく、パリ・オペラ座のプリマであったチェリーナのほうが格上だったはずである。彼女はフランスでは最高のバレリーナとしてレジオンドヌール勲章をもらっている。ホフマン物語もデジタルで再編集されている。

 赤い靴はバレーに命がけの興行師と恋人オペラ作曲者ジュリアンとの板挟みになったバレリーナ、ビクトリア・ペイジの悲恋ものだが、そこで踊ったモイラシアラーは最高の踊りを見せている。ただ、肝心の赤い靴の音楽にほとんど感じるものが無かった。そして、劇中、後半、リュドミラ・チェリーナの白鳥の湖がシーンとして数秒あったのだが、風格も、スタイルも全く、モイラシアラーより格上なのであった。たったの数秒で感じさせるのだから凄い。

 (ホフマン物語のリュドミラ・チェリーナ)
 
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アンデルセンの赤い靴は魔法にかけられた赤い靴を履き、死ぬまで踊り続ける少女の物語である。それと興行師レイモントフの野望を重ね合わせた作品であった。モイラシアラーは赤い靴だけではなく、白鳥の湖、コッペリア、ジゼルなども踊るシーンが盛りだくさんで楽しませてくれる。しかし、マイケルパウエルはどうしてもリュドミラ・チェリーナを入れてもう一作作りたかったに違いない。それほど彼女の気品のある美しさは抜群で、子供の頃見たホフマン物語の中で、何と美しい人だろうと思った記憶がある。マイケルパウエルは恐らく、リュドミラに入れ込んだに違いない。そんな監督の心が見て取れた。その証拠に、彼女を使った映画をホフマン物語の後3作も作っている。 (1961年)ハネムーン、(1956年)美わしのロザリンダ(1954年)異教徒の旗印などである。モイラシアラーはサイコスリラー「血を吸うカメラ」以外は無い。かつてのフランスの映画女優は、演技ならアルレッティといったコメディフランセーズの女優、オペラ歌手、リュドミラチェリーナやジジジャンメールのようなバレリーナなど、その道のエリートだった。ところが、戦後、映画から生まれたスターによってこの傾向は塗り替えられた。フランソワールアルヌール、ブリジット・バルドー、の登場であった。(驚いたことに後の3人は今なおご存命である)肉体美と個性が売りの女優である。ルイ・マルやトリュフォーなどヌーベルバーグの監督達が活躍、しかし、その後、フランス映画はハリウッドに吸収されたかのごとく衰退する。

チェリーナの素晴らしいバレー(瀕死の白鳥)を写したものを最後にご紹介
http://www.youtube.com/watch?v=Eo3d-DtYYvI

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地方の若者人口減を防ぐものは何か


 新潟県は関東、近畿圏を除くと全国では若者人口の多い県である。長野、群馬、栃木より多い。勿論数の上では東京や茨城、神奈川、大阪、名古屋は若者が流入する所であるから当然多くなるのだが、新潟は流出県としては最も人口が多い。今、この流れを変えなければ、地方の衰退は止まらなくなる。そして、若者が集まるところには中高年層も集まるのである。この人口減少の最大の原因は、直接的には毎年2万人の高校卒業生の25%が県外に出て行くという現実である。もちろん新潟県内の就職先が無いとか、都市に魅力が無いといった要素もあるが、第一の原因が学校であるということを見逃しては次につながらない。人口の移動というのは大きな潮流である。これを防波堤ー高校の教員指導だけで防ぐことが出来ないという現実を直視すべきである。大学に行く能力があって、本人が東京の学校を希望すれば親は何とかして実現させてあげようとするのが人情だ。子供が県外に出ていく、最初の原因をどう解決するかということを無視しては、次の対策の効果も薄くなる。要は、新潟県が高等教育の面で優れた県であることを示さなければ若者は出て行くし、他県からも入ってこない。今、新潟県の大学で他県から入学者を集められる大学が幾つあるだろうか。新潟大学くらいではないか。後の大学は、新潟に残った新潟大学に入れなかった学生を取り合っているのが実態ではないか。新潟県では公立の大学は新潟大学、上越教育大学、県立大学、長岡造形大学の4校であり、後は皆私学である。新潟大学は国立大学の中では偏差値50代後半校でまあまあの水準で、問題はあるが、それでも、医学部の70%は他県から、一般学部でも40%は他県から来る。
 国の私学補助は行なわれているが、県の補助は殆ど無いに等しい。現在、高校は「全入」時代であり、その為に授業料補助は大学より遥かに多く出されている。高校は潰せないということだ。それでも、定員に満たない高校が多くある。では大学がつぶれてもいいのか。生き残った大学がその分を吸収すれば良いという経済合理性で説明出来るのだろうか。そもそも、大学は経済面では企業とは全く異なる仕組みを持っている。だからといって、企業の合理的な仕組みが参考にならないと言っているのではない。 
 大学は入学者の数を確保することが命である。他には収入源は無い。資産運用できるほど資金を蓄積できる大学は歴史と伝統があるトップ校だけである。一旦入学者が減少すると、その減少分は何年も修復出来ない。企業であれば、単年度でも在庫をディスカウント販売したり回収、復旧の方法はある。しかし、これは大学では効かない。減少した分はその学年が卒業するまで続く。減少した分を取り戻すには翌年にその倍を確保しなければならない。コストダウンはどうだろうか、これも、減少した学生の学納金が多ければ、それに対応するほどのコストダウンは無理である。文系の大学では元々、分かりやすく言えば紙と人件費が原価である。そして、これらは入学者に対して約束した講義内容を4年間は確保しなければならず、簡単に人員整理出来ない。唯一の方法は賞与や給与を減らすことである。新潟のような田舎の大学に来てくれる教員人材を確保するには給与カットはその大学の教育の質にもかかわることである。残されているのは、海外の留学生を増やすことくらいであるがこれも限度がある。教育というのは公平な市場原理が効かない。各校の教育内容は実態として高校生には分からない。その価値は偏差値で判断される。要は入学後行なわれている教育の内容の情報を得ることが出来ない。そして、その偏差値のランキングで学生の質が左右されるから、初めから公平な競争にはならない。教育の内容は卒業生の進路、学生の質でしか社会では判断されない。医療と同様、市場原理が失敗するケースなのである。それに企業や市場論理をもって判断することは本質を誤る。
 日本の大学政策は国公立大学を中心に展開している。補助金の8割は公立が占め、残りを私学が取り合う。しかし、私学の在校生は遥かに多い。大学教育はかつては贅沢だったかもしれない。しかし、今や全国では54%、首都圏では65%が大学生になる。それでも、OECD諸国では日本の高等教育進学率は決して高く無い。韓国では8割を超えている、このことは技術立国を目指す国としては大変な事態である。日本は高等教育後進国なのである。しかも、文系を軽視している。日本の光学系などの補助金の不正使用、流用に対して文科省は頭を痛めている。理系の人たちにも、バランスの取れた人づくり教育が必要なのである。そのためにも大学の文系は重要である。技術系の研究所で奇人変人が跋扈するのでも困るのである。理研のSTAP細胞論文事件でも、なんだか変な感じが拭えない。
 これまでに述べた実態を無視して、大学の内部改革だけを要求しても効果は乏しい。企業であれば倒産や統合で解決するだろう。しかし、大学はそれぞれ地域的な制約もあり、簡単に移転が出来ない。ローカルな事情があって、統合するならば既存の学生にも不利益がある。高校や小学校の統合とは違う。統合ではなく、廃止の道しかない。実態として日本の高等教育を担っている私立大学が真の教育、建学の精神にもとづく教育を続ける方法はただ一つである。質の低下に目をつぶって学生数を確保し、赤字を出さないことである。定員を超えた学生確保が行なわれている。学生の増加に対応して教員が増えているわけではない。それに成功した学校だけが生き残って行ける。こんな奇妙な市場原理があるのだろうか。粗悪品を出せば儲かる。そして国はそれを奨励している。実に奇妙な政策である。日本の大学の信頼感は社会からは低い。それは海外の大学に比べ、学生が勉強しないという評判だからである。とにかく、自宅で学習する時間は他国の学生に比べ低い。しかし、学生の数を増やし、行き届かない教育体制をごまかしながら続けている大学が生き残るという不思議な現象を無視して、一体何が市場原理だろうか。
 20年にわたるデフレ脱出の道は製造業の技術革新と言われる。しかし、産業が空洞化している今日、即効性は無い。では何がポイントかというと、国、いや、県を挙げて高等教育を充実させることである。これは地方都市の復興にもつながる。私学助成の額は高校の3分の一であり、高校よりは大学の経費は多いが、これを高い学納金、保護者からの納付金でまかなっている。県からの補助は200万円を超えない。前述の矛盾した教育政策を見直し、優秀な人材を育成することに加え、底辺層の底上げを同時に行われなければならない。新潟に高等教育で残る学生が1万人として、一人年間10万円で10億円である。安いものではないか。100億円使えば他県から来る。先は新潟大学から奨学金を1年間だけ一人年間50万円出したとして、せいぜい10億円程度である。かつて、国立大学は授業料は月千円だった。これで人口問題は解消する。この部分の投資は、最小4年で生産性の向上といるリターンが期待出来る確実な方法なのである。しかし、国はここに着目せず、何年かかるか分からないiPS細胞の活用とか、10年は結果のでない産業政策にかけている。現実を直視してもらいたい。新幹線の延伸に投下する費用を高等教育の施設整備、理系の研究費、教員の育成や人件費に投下すれば、必ず資金は回転する。これに何故気がつかないのだろうか。

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 韓国のフェーリー、セウォル号が沈没したニュースには、世界中で驚きの声が上がっている。300人を超える死者行方不明者もさることながら、韓国という国の欠陥が露わになり、国の対応に問題が多いことが分かって来た。交通システムの安定は国家の基盤である。日本も福知山線の事故(2005年死者107人)が起きたのは経済構造が変化したころ、安全より経済性を優先させた経営者が批判を浴びた。他人事ではない。かつて、戦後の混乱の中で、洞爺丸事件が起き、1,430人の犠牲者が出た。ドイツ第三帝国の崩壊時に起きた1945年グストロフ号の沈没は9,300人が犠牲になった。そしてフィリピンでは1987年ドニャ・パス号(MV Doña Paz)の沈没で4,375人が焼死、溺死した。前年にマルコス政権が崩壊し、国政が混乱した時機である。交通の大事故というのは全て政治や経済の混乱が背景にある。日本でも高度成長期に起きた三河島、鶴見の脱線事故で多くの犠牲が出たことを思い出す。これは古い交通システムが大量輸送に伴う安全性確保の技術的対応に追いつかなかった為に起きた。その後ATS( Automatic Train Stop)の技術が開発され、類似の事故は起きなくなった。

 今回の事故は全く韓国的な現象であるように見える。要は手抜きの連鎖である。かつてのデパートの崩壊事故、橋の崩落事故の教訓が忘れられている。朴政権も首相が辞任に追い込まれて、何とか命脈を保とうとしている。全てが泥縄式なのである。世の乱れが大事故をもたらす。あるいは大事故が世の混乱を生む。今、この国を支配しているのは利己主義であることが分かる。サムソンや現代の成功がこの国にとって何だったのか。多くの若い命が失われたことは厳然とした事実であって、経済や社会の虚構をはぎ取ってしまう厳しい結果である。

  今回の海難事故では多くの高校生と教員が犠牲になった。もっと早く船から脱出していればこれほどの多くの犠牲者にはならなかったという。そこで、疑問として。高校の教員は何をしていたのだろうかと思う。艦内放送で待機指示が何度もあったが、教員は高校生を引率しておいて起きている状況をどう判断し、船に対して何か、確認したのだろうか。ニュースに出ないのは被害者だからなのか。もし、船の判断がおかしいと思えば、彼らが独自に判断し、生徒に指示を出せたはず。救難の船が来るまで待たねばならない。救助艇の数が極めて少なかった。さらに、救命設備のイカダやボートが放置され、動かなかった。それも、彼らには分からなかった。事情もあったろうが、船内に閉じ込められることは避けねばならなかった。船が傾く間なぜじっとしていたのだろうか。よくわからない。
この壇園高校というのは竹島問題で、反日的行動で有名になった高校でもあり、済州島でも反日的な歴史を学ぶ予定だったとか。韓国という嘘で固められた国家で、その現実に気がつかない国民を象徴した事件でもあった。

  こうした失態を、北朝鮮はどう見ているだろうか。同じ民族の悲劇として哀悼の意を示すだろうか。どうもその気配がない。彼らからみて、韓国の脆弱性を見て、軍事的にこの国は戦争には耐えられる国ではないと判断するかもしれない。恐ろし、朝鮮半島は虫類時代のように弱肉強食のエリアなのではないか。国境の無い我が国とは事情が違うのである。戦国時代なら、あっという間に攻め込まれるだろう。北は目下核実験の準備と政治利用で虎視眈々と機会を狙っている。朴大統領の抗議の声も空しい。朴が反日、慰安婦問題で国民の注意をそらしている間に、国の土台が崩れていることに気がついていない。韓国の反日、竹島問題で踊った高校が自国の杜撰な社会システムの犠牲になったのではないだろうか。
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世界の大型海難事故犠牲者
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by katoujun2549 | 2014-05-06 12:23 | Comments(0)
 夕方、早めに学校を出て、車で福島潟まで行った。大学からは20分ほどの所にある。新潟の自然を間近に体験出来る。冬は白鳥や大ヒシクイが群生していたが、今は皆大陸に帰ってしまい、寂しくなったが、今を盛りと菜の花などが咲き始めた。水温む中、黄色と白い花が一面に咲き、後ろに連なる五頭山脈や飯豊山、二王子の山脈が未だ白い雪を残している。
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自分はこの季節が新発田では一番美しいように思う。
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夕日に影となった茅葺きの東屋と鯉のぼりがシルエットになっている。
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これから初夏に入り、水面には菱の葉が生い茂る。
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by katoujun2549 | 2014-05-02 18:50 | Comments(0)
 八重の桜といい、今の朝ドラ、花子とアン、軍師官兵衛にしても、これらは皆クリスチャンなのである。しかし、生活を描くドラマの中でそれらしきものを感じさせるものが見当たらないのは故意に抹消しているとしか思えない。もちろん、江戸時代の日本は宗教国といってよいくらい、仏教、神道、寺社仏閣でとのつながりが大きかった。庶民が御百度参りに行ったり、お寺参り等はドラマや映画でもしばしば出て来るシーンである。ところが、キリスト教となると途端にハードルが出来ている。例えば、八重の桜では、キリスト教の家庭で行なわれる食前の祈りとかは全く出てこない。礼拝のシーンも無い。新島襄が神に祈るシーンはあった。同志社系のクリスチャンはとにかく、朝のお務めの様な祈りは大好きで、義務のように行なう人がいる。新島襄と八重は当然、ことある度に神に祈ったと思う。また、花子とアンも、女学校シーンが中心だが、あれは明治の東洋英和女学校のことで、この学校もミッションスクールとして、昔から礼拝や祈祷は熱心である。何も、毎回、祈るシーンを出せと言っている訳ではない。何と、その反対に、花子に葉山様は礼拝堂で「神などあるのか」と問いかけ、花子が黙ってしまうシーンがあった。そもそも、いくら何でもあんな貧農が東京の女学校に行ける訳無い。実話は彼女の実家は商家だった。甲府市内の教会に家族で礼拝に行き、最初に勤務した学校は山梨英和である。銀座の出版社は教文館なのだ。百蓮の駆け落ちした男は孫文を支えたクリスチャン、宮崎滔天の息子だった。又、黒田官兵衛も熱心なカトリック信者であった。キリシタン大名であった。当時50以上のキリシタン大名がいたから、人口比からいえば今日よりキリスト教は栄えていた。大名は西欧の武器や技術欲しさに転向したということを言う人も多い。しかし、昔の侍の倫理観はそんなものではない。今よりも、ずっと宗教的、思想的である。そこをマルクス的利害構造しか見えない人はそう解釈したがる。それも動機にはなっただろう。今でも少なくなったとはいえ、異性交遊の場として教会に来る人はいるだろう。でもそれでもいいのである。黒田官兵衛は、四国攻めの後、キリスト教に改宗した。神への信仰がかれの寛容を生んだその姿が無いと、何とも、ただの戦国物語になってしまう。国民の受信料で放送しているNHKはそんなに宗教的に中立のふりをするのだろうか。その割には不公平に歴史をゆがめてまでキリスト教を抹殺しようというのだろうか、今後どのように描かれるだろうか。それなら、寺社仏閣のシーンは全て消してしまわねばならないではないか。そんな感覚が政治のNHKに対する介入であることに国民は気がつかない。キリスト教は表現しては国民感覚を傷つけるとでもいいたいのだろうか。二つのドラマはキリスト教徒の生活や信条抜きには語れない内容にも関わらず、それを抹殺して表現している。
 とはいえ、どうしてNHKはそのようなキリスト教系の人物にスポットを当て、おまけに真実を歪めてドラマ作りをするのだろうか。当時の人々の深い宗教心、精神世界を何故世に示そうとしないのだろうか。全くの疑問である。最後にNHKの自然科学番組、ダーウィンが行くも、生物の進化を19世紀のダーウィニズムと重ね合わせた解説が多い。日本人は75%が進化論を認めているが、アメリカではむしろ40%程度で少数派である。それは何も進化は無かったといっているのではない。きちんと学習すれば生物の進化の原因は、今なお謎が多いことを知っているからだ。ダーウィンの弱肉強食?適者生存、選択的自然淘汰などの学説は乗り越えられている。彼は進化を理論づけた科学的な見方を創設した点では大きな功績であるが、今のネオダーウィニズム、分子工学的進化論などが主流である。19世紀的なダーゥインではないのだ。日本人は高校の教科書を鵜呑みにして、キリスト教の創世記を読みもしないで、文部省は努めてその天地創造の意味を考えないようにしてきたのである。NHKはお先棒を担いでいるということである。

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