<   2013年 06月 ( 10 )   > この月の画像一覧

  書評 遠藤周作 「死海のほとり」 

 遠藤周作著作集の三巻に支倉常長のことを書いた「侍」を読もうと図書館から借りた。ところが、この間の半分は「死海のほとり」だった。もう、20年くらい前に読んだ本だが、憶えているかどうか、気になったので、読み始めたら一気に読んでしまった。やはり殆ど記憶になかったが、コバルスキー、「ねずみ」というあだ名の修道士のことはかすかに残っていた。遠藤のキリスト観の集大成のような作品である。この作品は主人公のイスラエル旅行と、戦中でのカトリックミッションスクール (多分上智大学) の思い出、そして聖書のイエスのガリラヤ伝道と最後の十字架の受難の物語が三層になって組み立てられている。
 主人公は大学時代、熱心なカトリック信者となった友人とイスラエルで再会する。友人は聖書学を現地で学び、国連職員として駐在している。主人公の旅の目的は、イエスの旅を辿り、イスラエルにいる強制収容所の生き残りから「ねずみ」というあだ名であったコバルスキーという修道士の消息を知る事でもあった。戸田と違い、常に迷いの中にある作者は、イエスにこだわり続け、小説家として、13番目の使徒という作品の取材に行くのである。友人の戸田はイエスを歴史的存在として調べるほど、信仰は薄れ、かつての情熱はすっかり無くなっていた。そこで、この小説では、戸田の描くイエス像に従って、主人公がイエスの受難の道を辿る物語が並行して語られる。この受難物語のイエスは、無力で、奇跡など起こす事が出来なかった、最後は周りから見捨てられたイエスである。しかし、愛の人という点では、古代の常識を超えた行動を示した姿が描かれる。この小さき者にしたのは、すなわち私にしたのである。この物語に織り込まれたイエスの受難物語は、友人の戸田から作者が受け止めた歴史的イエス像である。

 何故、主人公は「ねずみ」という修道士の最後を知りたかったのだろうか。ねずみは、修道士としては情けない、自己保身欲の強い、計算高い人物であったが、これは主人公の負の自分自身とも重ねている。そして、その対局に、強制収容所で、餓死刑を宣告された囚人の身代わりになって亡くなった「マディ」という神父の事が詳しく書かれている。この部分は実話として知られる、ポーランドのコルベ神父の話をモチーフにしている。遠藤周作は、自分自身を「戸田」と「ねずみ」を自分の分身、そして、学生時代に戸田に影響を与えたノサック神父と「マディ」神父をコルベ神父に重複させてモチーフにしている。自分のような自己中心的な人物に救いはあるのか、俗世間にいる人々にイエスの救いはどう関わるのかというテーマである。
 ネズミがドイツのゲルゼンという架空の収容所に収容され、そこでの彼の振る舞いを見せつける。コルベ神父をモチーフにしたマディ神父の逸話を対比させて我々の信仰を対比させている。
 ここでは、マディ神父や、学生時代の寮監だったノサック神父、さらには巡礼団のリーダー的存在だった大森牧師という正当派の信仰に見られる「勝利」するイエスと信仰が語られると同時に、戸田や作者、さらには「ねずみ」に代表される、敗北した信仰心、挫折と後悔に満ちた人生、無力な人間の姿である。遠藤はここで、ネズミの最後を通して、イエスは両方を支え、働きかける復活のイエスを語りたかったのである。

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 新発田市の米倉地区に蛍が出るというので見に行った。周辺の水田が有機農法に変わり、カワニナという貝が湧いたら蛍も戻ってきたそうである。ここは市の資源循環型農業のモデル地区、市の方が案内してくれた。学生も一緒に、6月14日(金)夜8時過ぎであったが新発田の中心市街から15分くらいの所にある農業用水路に行ってみた。水路にそって、見る事ができるということであった。はじめに、昔の新発田藩の大庄屋であった斉藤家の書院で説明を聞いた。ここは有機の里交流センターともなっている。昔、良寛も訪れたという。ここでは味噌作り体験、そば打ち体験等市民の生涯学習活動の拠点となっている。宿泊施設が無いのが残念である。
ここは 少し蒸し暑いが、外はそれほどではなく、空は曇り、月も見えない夜。こうした環境が一番良いという事なので期待して行ったら、いたいた。水路に沿って飛び交っている。400mくらいある水路沿いにホタルが乱舞している。
 Iphon4で撮影したが、見えるだろうか。
学生たちと斉藤家で、食の循環事業と斉藤邸の歴史について説明を受ける。このあたりにはビオトープもあり、さらに有機農法、畜産、堆肥製造所などがあり、匂いが気になったが、市の前向きな取り組みに感心した。米倉地区は、山内地区と併せ、会津会堂の名残の残ったところである。昔の松林も多少残っている。さらに昔の番書跡周辺は、いかにも街道の街と行った面影がある。
ホタルの光が点になって見える。光の軌跡を撮った方が良かったと反省しているが、かろうじて見える。
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 今や大学生の就職活動は大変なご苦労である。とにかく、まともな挨拶も出来なかった大学生がやかましい企業の人事担当者から日常のマナーを厳しくチェックされる。だから、キャリア担当は学生には「挨拶、あいさつ、」とうるさく指導する。そんなにうるさく言われると嫌になってかえってやりたくなくなるのが若者の習性だろう。会社訪問のときの人事担当者はまさに人を選別する強制収容所の看守のような存在かもしれない。言い過ぎかもしれない。でも、たじろいではいけない。良く似た事が、かつてアウシュヴィッツで行なわれた。命のかかった選別である。生きる人、死ぬべき人が選別された。そんな時に挨拶なんぞ思いもよらないだろう。

 コルベ神父の話をご紹介しよう。この実話を聞くと彼らも襟を正さざるを得なくなる。例えとするにはあまりにも恐ろしい話である。ポーランド人コルベ神父のことは遠藤周作の「死海のほとり」あるいは曽野綾子が詳しく紹介している。彼は長崎に3年ほどいたが、ポーランド帰国後反ナチス的活動のため、アウシュヴィッツに送られた。コルベ神父は修道士として長崎で(1930年〜34年)活動された方で日本ともなじみが深いのである。
 彼はポーランドで人望高く、その考えが反ナチ的だったという理由で1941年アウシュヴィッツに収容された。かつて結核を患った神父であったが、他の囚人と共に荒地で働かされた、湿地の埋め立て作業や死体の運搬をさせられていた。ところが、あるとき、脱走者が出たという疑惑がおこり、その連帯責任として10人が餓死室におくられるという選別が行なわれた。炎天下、水もパンも与えられず、狭い部屋で苦しんで死んでいく恐ろしい刑。そのときコルベ神父は所長の前に立ち、自分を身代わりにして欲しいと申し出たのである。この事件は当時の所長ヘスの記録にも残っており、多くの証言がある。 餓死刑を宣告された10人の罪のない囚人が地下の餓死室へ歩き出したその時、そのうちの一人フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が、自分には妻子がいるから助けと欲しいと泣きわめいた。「私には妻も子供もいる!死ぬのは嫌だ!・・」

 その時、ある男が身代わりに死ぬ事を申し出たのです。
「私はカトリック神父です。私をその人の身代わりにして下さい」。その男とはコルベ神父でした。
 地下の餓死室に全裸で入れられた10人は1滴の水さえ与えられる事無く次々に死んで行きました。 そのとき、彼は最後まで看守に挨拶をし続けた。 部屋の中からは祈りの声が聞こえ、コルベ神父は苦しむ他の人々を励ました。14日後、最後まで生き残ったコルベ神父は毒薬の注射を受け亡くなりました。そのときのコルベ神父はまるで死ぬことを喜んで望むような穏やかな表情で自ら腕を差し出し、注射を受けたと、当時の担当者ー看守だった人が証言しています。あの鬼のような収容所看守たちも、コルベ神父のいる部室に行くのを最後は怖がっていたという。コルベ神父は1941(昭和16年)8月14日、愛のために生命を捧げ、亡くなりました。彼は1982(昭和57)年10月10日バチカンにおいて、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世により殉教者としてカトリック聖人に列福された。
ガヨヴィ二チェクは何と生き残り94歳でまで生きた。彼はコルベ神父の列福の証言者となっているのです。遠藤周作の死海のほとりでは彼は死んだことになっている。
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 汝の敵を愛せというのは厳しい言葉である。果たして自分にこれが出来るだろうか。
小さな事から、出来ることから行なう。それが挨拶だろうか。実はなかなか出来る事ではない。苦手な人、自分にとって批判的な人、馬鹿にしている人、攻撃的な人ー自分から挨拶をする事で道が開かれる。でも、逃げていては何も始まらない。何も生まれない。勇気を持って挨拶してみることから何かが生まれる。

 コルベ神父は何故挨拶したか。これも愛の形なのである。これ以外には何も出来ない。過酷な運命に対して「愛」をもって望む事は普通は難しい。しかし、彼は自分の死を確かめる為に覗き込む看守に挨拶をしたのである。彼は主の定められた律法、愛をもって汝の敵に接するというご命令に忠実であった。何故彼がこのような勇気があったのか。彼には万軍の主、イエスキリストが共にいたからこそなし得たのだと思う。

 人間、辛い心を癒すために何をするだろうか。酒、暴力、セックスだろうか。いや、実際はそうはならない。生死を、あるいは人生をかけた苦しい局面にそのようなものは役に立たない。初めはそうしても長続きはしない。何を言いたいか、それはイエスキリストが支えてくれるということだ。復活のイエスと出会う事が出来る。代償行為だろうか。心理学ではそうかもしれない。しかし、自分はそうは思わない。心の平安をイエスキリストに支えられて得たことをお話ししたい。7年前のこと、ぽっかり空いた空虚な闇。3年間に両親を失い、一人の妹が腫瘍で入院、さらに妻が末期癌になり、あと半年の命と宣告。さらに自分は心臓の冠状動脈が11カ所も狭窄し、バイパス手術を受ける。この厳しい運命を受け止めることは難しい。自分の無力に打ち拉がれた。

 自分は9時間にわたる手術の後、苦しかったときの事を思い出す。朦朧とする意識の中、この状態がいつまで続くのか、このまま、闇のなかに引き込まれてしまうのかという恐怖感の中にいた。そのとき、自分の隣に誰かがいた。そして、このままこの苦しみは続かない、そしてあなたと共にいるという言葉が浮かんだ。これはマタイによる福音書28章16〜20に書かれている。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という言葉そのままである。夢うつつの中ではっきり覚えている。勇気をもらった感があった。目が覚めた後どれだけ自分が強められたかである。イエスの言葉は私たちにどれだけ勇気をあたえるかである。

さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て、言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28・16~20)

 これらのいと小さな者の一人にしたのはすなわち私にしたのである。マタイ25・40
コルベ神父はまさにこのことを行なった。コルベ神父はカトリック教会で列福者となった。これは殉教者の群れの中に位置づけられて、天国の階級の中に叙されているのである。実は、これは自分のようなプロテスタントにとってとても違和感がある。カトリックでは行為義認という理念が大切である。信仰よりも行為として何を行なったかを問われる。しかし、この世の多くの人々は、あのコルベ神父のようなことは出来ない。おそらく、助けを求めるあのガイオニチェクを前に恐怖に震えるしかなかっただろう。いや、イエスキリストは、むしろ恐怖に震える私たちに向かっているのである。主はコルベ神父を通して、私達に語りかけているのではないか。私はいつもあなた方と共にいる。

 神父の行為はまさに賞賛されるべきものだが、自分自身にそれを問うた時に実に無力である。餓死室の彼の挨拶は最高の勇気によってなされた。命を込めた挨拶。我々は時には反射的に挨拶をする。時には日常的にそのような挨拶をする。しかし、オウム返しのような挨拶は決して相手のこころは捉えない。アリバイ作りのような挨拶をしたくないという若者は多いと思う。それが正直な感覚だろう。挨拶という行為の重みである。日常の「こんにちわ」そして「ありがとうございます」「さようなら」これら簡単なことがなかなかできない自分たちを振り返るとき、むなしい気持ちになる。しかし、聖書にはもう一つ価値のあることばが我々に与えられている。「ローマ人への手紙6.7.8」人は信仰によって義とされる。挨拶をするとかしないとかが律法のように我々の前立ちふさがるものではない。我々は弱く、わがまま勝手な存在だ。罪深い。でも、聖霊の働きが我々を導いてくれる。ここに救いがある。

 義とは神様と人間の正しい関係である。挨拶をするかどうかは律法ではない。そしてそれはモーゼの十戒に定められることでもない。しかし、その律法は拡大されるゆえに我々は自由を失う。誰もが強制されて挨拶もしたくはない。しかし、聖書を読むと、そのモーセの律法の以前に義とされていることがある。創世記16-6に「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。我々は挨拶を義務とか律法としてとらえるのではなく、神から与えられた自然の心として感謝の気持ちを表すことができる。皆さん、主イエスキリストが共にいてくださるのです。勇気をもって主に向かって「有難う」そして「こんにちは」と声高らかに言いたい。そこから全てが始まるのではないか。

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 スピルバーグ作品「リンカーン」を見た。イオン亀田のワーナーに行ったのは、時間帯が6時10分からの部ということで帰りの時間が丁度良かったからだ。物語は猛烈な白兵戦シーンから始まる。南北戦争はアメリカ合衆国建国以来最も死者の多かった戦争であった。60万人が戦死した。この映画を見て、昔世界史の授業で習った南北戦争を思い出した。冒頭で兵士達の語るリンカーンのゲティスバーグ演説。これはアメリカ人が皆暗唱させられる。映画の配役はともかく、時代考証がきちんとした感じなのはさすがにスピルバーグである。そのせいか、リンカーンの顎鬚はじめ、やたらにひげ親父が多い。色んな髭があって、まるで髯ファッションショウの感があった。
 
 南北戦争は何故勃発したのか。産業革命の影響で、急速に工業化が進んだ北部と大規模プランテーション農業の南部諸州の対立であった。綿花の輸出を基盤とする南部は自由貿易、当時ヨーロッパの優れた工業製品を警戒した北部は保護貿易論であった。でも実は北部の議員にも奴隷解放を反対する議員は多かった。開戦の理由はは歴史の闇のなかにあり研究テーマである。当時の高校の歴史授業はマルクス史観の影響が強かった。全てが政治と経済によって説明された。奴隷解放宣言は、あくまで、北部側が奴隷解放を黒人に呼びかけ、南部を弱体化するため、黒人を味方につけるための戦略、アメリカという国の合理主義と政治家リンカーンの狡さを印象づけるものだった。確かにそのような側面はあっただろう。でもリンカーンは奴隷解放論者で彼が大統領になったとき戦争の危険は頂点に達した。教科書では大統領としてのリーダーシップや人権、黒人や弱者へのヒューマニズムを排除していた。現実を科学で説明しきれるものではない。もし、ヒットラーがこの世にいなかったら、スターリン、毛沢東がいなかったら歴史は変っていたに違いない。リーダーの重みをどう説明するのか。この映画は政治の世界という極めて泥臭い姿を描くことで、社会科学の背後にある決定要因を見事に説明している。まさに映画の力。しかし、大半が議会とホワイトハウスの人間劇であるせいか、客の入りはパラパラであった。真面目な作品は大衆には愛されない。それと同時にアメリカ人にとっては極めて愛国的、教育的な映像であった。今この作品を世に出す何らかの国家意志をも感じさせる。
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 この映画は、リンカーンの人間味豊かなエピソードや、正義感、家族愛などを中心に展開する。そして目的を達成するまでの粘り強い戦いと、政治家としての権謀術策を描き出し、単なる理想主義者ではない、複雑な政治家としての冷徹な側面も描いている。捕らえどころのない巨人だからこそ、世界を変える事が出来た。日本の西郷隆盛もまさにそのような人物だったと思う。しかし、その家族は普通の人間である。当時は大統領夫人も家庭の主婦でなければならなかった。サリーフィールド演じるリンカーン夫人も歴史に翻弄された人であった。アメリカでは彼女の評判は芳しくない。大統領夫人としては悪妻の部類であった。彼女の苦しみ、特に夫の大統領という職務のために、チフスの息子の死に立ち会えず、ノイローゼ気味になったこと、さらにホワイトハウスの改造や、パーティ、さらに衣装などで国費を浪費したことへの国民の批判が後世にも語り伝えられた。そんな汚名を晴らすように、彼女の苦悩をサリーフィールドは見事に演じた。最後に奴隷解放を確実にする合衆国憲法13条修正を下院が議決し、それが戦争を終結させる前になされるよう、そして、早く戦争を終わらせることが同時に求められた。戦争は始めるより終わらせることが難しい。先に戦争が終われば憲法修正の意欲は減退する。リンカーンの妻は出征中の愛する息子を救うという個人的な願いも果たせると踏んで大統領の夫に発破を掛ける。まさに猛妻ぶりを発揮する。議会工作の日程と戦争の進行が緊迫しつつ、終戦に近づいていた。そのスリルは実は作品ではあまり伝わってこない。本物を知っている訳ではないが、リンカーンとその夫人のパーソナリティはまるで生き写しという感じであった。

リンカーンを演じたダニエルTルイスはこれでアカデミー男優賞を取った。下院での反対派を抑えるためのロビースト達のえげつない策略も描かれている。もし、南部の代表が和平交渉に来れば、議会は戦争の終結を確信して、人種差別を禁じる憲法修正を認めなかっただろう。当時も人間は平等であることを推進する理想主義者もいた。法の下に平等であるという解釈で議会の反対派を抑える有力議員はトミーリージョーンズが演じていた。
 今、我が国では憲法の改正を画策する動きが急である。是非改憲論者にこの映画を見てもらいたい。国の根幹を変える憲法の改正はどれだけ大変なことか。それを動かす政治と流血の戦争という大きな犠牲の下に憲法と国家は変わっていく。我が国の憲法を変えるということがどんな重みのあることか、現行憲法の成立に先立ち、第二次世界大戦という大きな犠牲があったことを安部とか、石原はどれだけ理解しているのだろうか。


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by katoujun2549 | 2013-06-16 22:52 | Comments(0)
茨城キリスト教大学

日立市大甕町にあるミッションスクール、茨城キリスト教学園に行った。キリスト教学校同盟の総会出席のためである。正直な所、こんな場所に幼稚園から中学高校大学さらに大学院まである学園があるとは知らなかった。茨城キリスト教学園は1947年に短大と専門学校を設立し、その後、拡大成長を続けた。現在、幼稚園から中学校、高等学校、大学、大学院まで設立してきた。University is not a building.これは、母校一橋大学に経済学者マーシャルが来た時に、美しい国立のキャンパスを当時の学長が自慢げに説明した時に言われたことだ。しかし、マーシャルはアメリカやヨーロッパの大学が素晴らしい施設を持っていることを知って言っている。施設は整備されて当然なのである。もちろん、大切なのは行なわれている教育であり、研究内容であることだ。大学というのは逆に言えば建物なのである。研究者や学生の場を提供することを怠ってはいけない。地方から来る学生があれば、近所のアパートに住めば良いでは論外だ。寮を用意して備えなければならない。新しい研究機関を設立したらその事務所は用意する。今までのものを兼用とか、汎用という考えでは中途半端になるのである。だからこそ、大学は大きな敷地を用意してある。

「キリスト教精神に基づく人間形成」を目的として設立されたのは1948年。以来、一貫してこの建学の精神と教育方針を 貫き、愚直なまでに一歩一歩着実に前進してきた事を感じさせる。大学のキャンパスは礼拝堂、学生寮、校舎、グランドなど全てが揃っており、総合学園としてふさわしい陣容を保持している。敬和学園も、リベラルアーツ大学として、建学の精神を実現するために、学園施設も含め、学生により良い施設環境を提供することを常に念頭に、時代に即した教育内容ーFD開発を怠らないことが大切であると思う。広い敷地に美しいキャンパスがあり、チャペルや図書館も立派だ。この学校がここまで発展するには色々な努力や苦労が当然あったはずだ。時代の波にうまく乗ったことも大きな経営要素である。一番大切な事はキリスト教を前面に出して、世の中の共感と特色を出したところである。これが大いに貢献していると思う。建学の理念が名前に現れ、名が体を表している。世間の評判に流され、やたら国際とか、情報と言った名前を付ける事ではないだろう。

開会前に中学生の美しいコーラスを披露してくれた。なかなかの水準
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チャペル外観と内部 薔薇の花が美しい
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 仙台発6時5分の仙石線で松島海岸まで30分。仙台駅から通勤電車のような路線だ。多賀城も通る。高城町まで快速が走る。二年前の津波はこの路線までは到達しなかったようで何事も無かったかのような日常があり、毎日通勤者を仙台のビジネスゾーンに送っているに違いない。しかし東塩釜あたりからは海岸線が見えるにつれ、空き地が水際線に沿って目立つから、やはり津波の爪痕が見て取れる。東松島は酷くやられたと記憶しているが、松島は点在する島々が防御帯となって日本有数の景勝地は無傷となった。松島の景勝は相変らず美しい。しかし、翌日、石巻の方向に行くと、瓦礫はまだ山積みになっているところがある。海岸は様相を一変する。とにかく、空き地と破壊された建物が見えるようになって、やはり、津波が襲ったのだなあという感慨が押し寄せてきた。そして、周辺で何百人も亡くなったり行方知れずになった場所がある。電信柱を超えた波の高さに驚く。跡形も無くなった幼稚園、解体工事中の県立病院が空しい。地震・津波のあった時間には幼稚園児はいなかったはず。しかし、家にいて逃げ遅れ、犠牲になった子供たちが沢山いた。至る所、地盤沈下で水が溜まり、大きな池とか、湿地のようになってしまっている。未だに、破壊された乗用車が山のように積まれている。平らになった海岸線沿いの土地には、白いクローバーが咲き誇っている。この辺りから北上するに従い復興は進んでいないのだろう。海岸を高層の建物で囲ってしまう手もある。2階までは駐車場とか、市場、倉庫にして港湾施設として使えばいい。再び高い防潮堤を作っても安全という保証は無いのである。

地盤沈下で池のようになった海岸の土地
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釜石の市街は既に商店街が復興し、にぎわいがあった。もともと、道路の狭い所、さらに、地盤が下がって舗装道路もがたがたである。バスはやたら揺れるので、宿に帰るまでに気分が重くなったのに加え、肉体的にもずっしりと疲れてしまった。
瓦礫に電話の受話器が混じって朽ちていた。ここに人が住んでいたのだ。
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津波にさらわれた住宅地
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松島の美しい島々は健在
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 新発田の自衛隊は、かつての大日本帝国陸軍歩兵16連隊のあった新発田城址の兵営を引き継ぎ、今も駐屯している。ゴールデンウィークに市民公開イベントがあったので入ってみた。この自衛隊敷地からは新発田城三階櫓がよく見える。この櫓は復元されたのはいいが、自衛隊の敷地内を通らないと行き着けないため、普段は見る事ができない。この日は外から見えない角度で写真に納めることができた。日曜日の午後、新発田城の方から、いきなり、ドカーンという大砲の発射音が響いた。続いて、パン、パパンと機銃の音。公開射撃をしているようだ。正門から敷地に入ると、大変なにぎわい。テント仕立ての売店が並び、人気のメニューには見学者が行列している。グランドには大砲だの、対戦車ミサイルTOW、装甲車、迫撃砲が展示してあった。これらの映像をご覧ください。この榴弾砲は射程が30Kmで、新発田から長岡までが射程内だそうだ。また、大型の迫撃砲があったが、これで400m四方エリア内の敵を殺傷することができるんだそうだ。機銃といい、恐ろしい兵器の進歩を感じさせてくれる。既に、第二次大戦の時ですら、敵兵を目視して狙撃射撃することは一般兵は稀であった。敵が見えないところに雨あられと射撃し、その辺りにいた敵は容赦なくなぎ倒される。ベトナム戦争のころには、偶然遭遇しない限り敵兵を狙って撃つ機会は少なかったという。敵は大概見えない。戦争映画は殆どでたらめということだ。戦場の兵にドラマは無い。人は不条理のうちに死んで行った。
 太平洋戦争では海上で撃沈されて50万人もの将兵が海の藻くず。弾に当った名誉の戦死は少なかった。ほとんどが餓死、病死、または砲爆撃での大怪我か、粉々になって死んだ。スピルバーグのプライベートライアンにしても、ノルマンジー作戦の悲惨なバトルが描かれていたが、あのように全体を俯瞰するような状況把握は戦場の兵士には出来なかったはず。何が何だか分からないうちにバタバタ遣られていった。弾は当る時には音がしない。ビュとか、ヒュンという音がした時は助かった時だ。大砲の直撃では一瞬で終わりか、手足が無くなったりして呆然となる。八重の桜が評判だが、戦場では赤痢やコレラ、脚気とも戦わざるを得なかった。重傷者はほとんど助からない。怪我をすれば感染症に襲われた。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、皆戦病死の方が弾に当たった死者より多かったのである。

 自分の上司が昔、中国戦線で負傷した時のことを語ってくれた。彼は無錫あたりで駐屯しており、何ヶ月も毎日が気楽な日々だったそうである。そのうち、中国人女性と仲良くなり、家にも呼ばれ、彼女と懇ろになった。移動命令が来て泣く泣く分かれたが、彼女と親族一同に何時間も後を追って見送られ、感激したそうだ。ここまで聞くと中国戦線は天国。ところが、ある日、山に入った時戦闘が始まり、上から石ころのような物体が落ちてきた。いきなり破裂、気がついたら腹から血が出て動けない。手榴弾でやられたのだ。何もしないうちに傷病兵として入院した。何とも運が悪いと嘆いたという。ところが、彼の部隊はフィリピンに転戦命令が来て、仲間は皆行ってしまった。悔しい思いだったが、後で、部隊の船は潜水艦の魚雷にやられて全員死亡し、彼は九死に一生を得たことになったんだそうである。運が良かったという。まあ、そんなラッキーな事ばかりではない。大多数はアッという間に海の藻くずとなったのだ。若者の人生、未来が空しく消えて行った。無意味以外の何者でもなかった。戦争とは何ともやり場のないつまらないものだ。石原慎太郎とか、今の憲法を軽んじ,強力な軍隊が日本に必要だと昔の軍隊を懐かしむかのような連中は一体どんな体験をした結果あのような主張をするのだろうか。彼は親が軍人で、美味い汁を吸っていたが、不運にも終戦で惨めな生活に落ち、裕次郎と悔しい思いをした。戦争中の軍人が大いばりだった時代が懐かしいのだろう。


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古町演芸場
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不気味な僧侶像
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新潟市の古町は近年、万代の商業発展と、イオンなどの大型商業施設に押され、元気が無い。昔からある商店街だけに、不思議なお店とか、風景が見られる。そういった点から、近代的な町には無い、「味わい」もある。その一つが、芝居小屋だ。アーケードの奥の方に地方芝居の小屋がある。東京でも十条とか、浅草にも残っている。梅沢富美男などの芸人がそこから生まれた。新潟では古町演芸場というのがあって、年配の方々の憩いの場となっている。入場料も安い。そして、三越伊勢丹の裏に行くと、突然、混み合った中小ビルの間から、モンスターのような地蔵様がぬーっと立っていて、びっくり仰天。
これもシュールな光景である。こんな雰囲気はIONとか原信などでは見られない。独特の町の風景である。そんなのはどうでもいい、新しいものが大好きな方はどうぞ、ショッピングモールで298とか、398のお買い物をなさったらいいでしょうね。

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新発田の素晴らしい名店、登喜和寿司

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自分が新発田に来て、何とか1年経った。一人暮らしの寂しい夕餉を支えてくれたのが、この登喜和寿司である。家族経営の典型的な町のお寿司屋さんであるが、なかなかの内容である。東京の日本橋や神田、銀座の一流どころと比べても遜色無い素晴らしい寿司を握ってくれる。東京から友人が来ると必ずここに連れて行く。季節の旬のネタもあるが、やはり、新潟特産の、ノドグロとか、甘エビ(南蛮エビ)などのエビ類、貝類、魚の産地も地元にこだわらず、質の良いものを選んである。鯛であれば広島の瀬戸内産、コハダは三重産といった具合である。南蛮海老は甘エビと同じで、新潟の佐渡とか、巻あたりのものがうまい。新潟のものは新鮮で、さっぱりしている。ぬめりを感じる東京の甘エビはどうも、古くなったものを食べていた事が分かった。いつもイカから始めてノドグロ、鯛、ヒラメ、赤貝、コハダ、夏はイサキ、赤身、南蛮エビそして最後はかんぴょう巻か、当店自慢の稲荷寿司で閉める。この稲荷寿司は中に木の実などが入っていて、東京には無いもの。白身は種類が豊富で、キンキなどもある。こんなに食べても、一貫づつなので、食べ過ぎということはない。写真で見られるのは海老の卵を軍艦にしたもので、美しい緑色をしている。登喜和特製の一品である。これだけ食べても、3000円台ですから、財布にも優しい。お酒は勿論別、新潟の銘酒、特に下越のもの、麒麟山、菊水、金升、王紋などが揃っている。寿司屋のカウンターでの楽しみは板さんとの会話だが、親父さんと跡継ぎの坊ちゃんが交互に応対してくれる。いつも御立ちはカウンター満員で応対も大変だが、そこはお上さんが絶妙なタイミングでフォローしてくれる。この掛け合いが独身の自分には楽しいのである。この登喜和での2時間は至福の一時である。2013年6月7日
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 新潟には各地に元大地主がいて豪邸を持っていたが、戦後の農地改革などで田畑を失い、大きな家も維持出来なくなって、入場料を取って一般公開している。聖籠町には二宮家という立派な邸宅があり、そこには今も御当主が住んでいる。バラの栽培というご趣味をお持ちで、素晴らしい花園を育てている。趣味の良さが伝わってくる。お庭も弁天潟という小さな沼があり、冬には白鳥が飛来する。土曜日に梅雨期にもかかわらず、さわやかな好天で、ここにいって見る事にした。お昼は新発田高校の前にあるパン屋でポテサラサンドとアンパンを買って弁天潟のベンチで昼食となった。バラ園は小規模だが、二宮家の奥様が丹精込めて咲かせたもので、素晴らしかった。
コーヒー一杯500円は高いなあと思ったが、フランス製のカップでゆったりベランダで薔薇を愛でながら至福のひとときとした。ところが、もともと貧乏性なのか次に見たいものが頭に走って落ち着かない。時間から解放されるはずが、時間ばかり気になってしまうのは寂しい限り。薔薇を丹精込めて作る心のゆとりを持った二宮家の奥様の境地にはほど遠いということか。


二宮邸の門構えと日本間
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 バラ、ばら、薔薇

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