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桜、サクラ、さくら

今年の春は、4月に入り、思いがけない寒波に見舞われたり、気象変動が激しく、桜前線も乱れた。3月の20日過ぎには東京の桜は満開になった。丁度上京したので、東中野の神田川沿の桜並木に行くと例年通り満開であった。その後寒暖の繰り返しで、3月末の日曜日まで長く楽しむことができた。桜の木の下には死体が埋まっているとは何とも絶妙な表現だ。人は年に一度、満開の桜に酔いしれる。母も自分の家内も、毎年桜を見に行った。その後、次の春を見ずにこの世を去って行った。家内が死んだ年には毎年見に行ってlいた桜をどうしても見にいく気にならず、家に籠ってしまった。桜の花は新入生の晴れの思い出と、桜を共に楽しんだ去りし人の魂が一緒くたになっている。花の美しさより、無常を思う年ごろになってしまった。

東中野の日本閣あたりから見た新宿と神田川。
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敬和学園大学構内のサクラ林
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加治川土手の桜並木
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敬和学園大学のサクラと校舎
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新宿副都心と桜
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東京 市ヶ谷土手のサクラ
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 東京や関東では見られないのが、海に沈む夕日である。房総からは東京湾の向こう、山越になってしまう。また、房総や茨城は朝日だけになる。新潟では日は海に沈む。それが実に美しい。新潟市内にある朱鷺メッセから見た夕日、さらには西の方になる巻辺りの海岸、村上の瀬波温泉からの夕日も見事である。沈む太陽は大きく、赤く輝いている。
 新発田にはかつて、陸軍16連隊という、精強部隊が新発田城の一角に兵営を構えていた。今は自衛隊が駐屯し、当時の兵舎が今も残っている。この部隊は日清、日露戦争、シベリア出兵、さらに満州事変、日中戦争、ノモンハンと中国大陸の主要な戦争に全て参加し、勇猛果敢な事で知られていた。越後兵は強しという評価を得ていた。彼らは中国大陸で多くの犠牲を出した。ここはお国を何百里、離れて遠おき満州の赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下。兵士たちは大陸の夕日を眺めながら、故郷新潟の赤い夕日を思い出した事であろうか。冬、新潟の時メッセからの夕日は佐渡の方向に落ちていく。2月は日本海は雪と雲で閉ざされ、なかなか見る事が出来ない。

朱鷺メッセから見た夕日
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瀬波海岸の夕日
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新発田の夕日

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巻海岸の夕日
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 橋下大阪市長の従軍慰安婦問題発言でマスコミは格好の記事ネタを見つけて大騒ぎ。案の定というか、石原慎太郎のインタビューにも成功し、一蓮托生の証言も得た。これでマスコミも攻撃態勢は出来上がってリング対決なのだ。橋下もうかつな事を言っているようだが、敢て虎の尾を踏んで騒ぎを起こそうという魂胆で危ない話だ。「暴走する地方自治」の著者、新潟大学教授、田村秀氏が語っているが、暴走首長の共通点はマスコミを利用し、これまでの正論を批判、官僚を小馬鹿にして国民の喝采を浴びるという姑息な手口。ポピュリズムが蔓延している。何か批判が出たり存在感が薄れると、彼等は、さらに大きな問題を提起したり、刺激的な発言で本質をそらしてしまう。そこにマスコミは悪のりするのである。これに成功すると、権力者と化すようで暴言がはびこるのである。名古屋の河村たかし氏がリコール問題をクリアし、市長の座を確保したとたんに南京事件問題で中国の批判を浴びたことと軌を一にしている。

 当たり前の話だが、政治家は第二次大戦中の話はきちんと論理的に、誤解を受けないよう、関係者からの批判にどう答えるかを想定しないで発言してはいけない。なぜ、こんな当たり前のことが今の政治家にはできないのだろうか。権力者が奢ってくると必ず本音を言う権利がいつでもあるという錯覚に陥るのだろうか。彼らは何らかの計算をしている。この事が分からないほどの馬鹿ではないはずなのだ。国民の30%は自分の暴言を支持するはずで、曖昧にしている人よりは、共感を得た人達のパワーを吸収した方が得だと思っている。今の時代はマスコミに露出した方が得なのである。みんながやった事で良いこともあれば悪いこともある。悪いことは止めようというのが政治家の役割。風俗店を取り締まる人が使うことを奨励する筋合いではない。

 1945年昭和20年に日本は無条件降伏したが、辛うじて天皇制と、国土の分割は免れた。何故このような結果になったのか、日本は何を目指すべきかについて吉田茂などの政治家は懸命に道を探り、田中角栄に至るまで、経済の復興を優先してきた。今日の日本を考えると当時の日本の敗戦という道の勇気ある選択こそ賞賛されるべきであった。これを本土決戦まで持っていけば、いまは北海道はロシア、九州は中国と韓国に分割され、日本は本州と四国ぐらいだったろう。

 戦後の民主主義と弱腰外交の流れは時として、国民には苦痛を伴った。大くの戦死者や犠牲を鎮魂する方法や作業が後回しになったからである。又、戦後の東西対立と共産主義への批判もあり、軍事体制の復活を進める必要もあった。そんな中で、戦後10年ほどで戦後民主主義や戦前の政治批判を論じた政治家や学者への反発する政治家、国民感覚に迎合するマスコミ、小説家も登場した。石原慎太郎などのグループは丸山真男などへの批判で世に迎合したのである。大衆はストイックな考えを好まない。大阪市長の橋下もその追随者である。彼らに共通しているのは、戦争という現実に起きたことを肯定し、戦争で起きた悲惨さ、悲劇を後回しにしてこれを全面に出す事を嫌悪、反省しないことである。自分の知らない時代は無かったことにしたい。慰安婦問題を語るほどの歴史認識は本来無いはず。彼が靖国神社に参拝したとか、遺骨収集に行った話は聞いたことがない。そこに首をつっこんだ彼らのベクトルは常に上から目線、この懲りない面々、いびつな感性こそ問題なのである。マスコミは早く彼の意図を暴き、無視で黙殺すべきである。語るに落ちた一件として。
 
 今回の橋下発言の読み違いは、アメリカから出た不快感を表す発言である。この橋下も石原慎太郎もアメリカという国の真面目さ、キリスト教を建前とする国家の基本をなす「感性」を全く分かっていない。建前と本音のつかいわなどという曖昧な言動を使い分けるlことに嫌悪感を持つ人々の存在である。言っていいことと悪いことがはっきりしているし、何でも自由を尊重する国民性だが、タブーはやはりある。アメリカ人のタブーは日本のように単純ではない。地域、州、階層、さらに人種によって違う。なかでも、セックスと人種差別、キリストを侮辱する事は共通しているが、内容は実に複雑。ところが、石原慎太郎も橋下もこの点を全く分かっていない性凝りの無い輩である。寅さんのよくいうセリフ、これを言っちゃあお終いよ。覆水盆に返らずである。日本の政治家でアメリカ政府に嫌われて成功した人はいない。



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 新潟の五十嵐方向に行ったので、ついでに評判のカーブドッチに行った。古町から車で40分ほどである。日本海の荒波を受け、海岸は砂山になっている。松林の防風林の横をひたすら海岸沿いに走る。巻まで行くとカーブドッチの看板がでており、道を左折すると丘陵地にワイン畑が広がる。そして、砂利道を建物が並ぶ方向に走っていくとカーブドッチである。ここは温泉も湧く。入湯料1,000円というのは新発田の人間には高い感じだが、全国から来場者があり、最近の国産ワインブームに乗ってなかなかの盛況である。いくつかの棟があり、レストラン、ワインショップ、土産物店、ホテル、お風呂と揃っている。


薪小屋と称するブルーワリーレストラン。地ビールと食事が楽しめる
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1階はイタリアンレストランで夕方は一食5000円〜8000円といったところ。地下がワインセラー
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土産物ショップ

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カフェの中庭。イタリアンジェラートとかコーヒー、パン、外国製食材店

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会員制のワイン畑
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日曜日だったこともあり、かなりの人出であった。ガラス工芸の美術館もあって、観光施設らしい雰囲気である。東京周辺ではうかい鳥山の経営する箱根ガラス美術館のような構成だが、ワイナリーとして、カントリータイプの建物である。地ビールレストラン(ブルーワリーレストラン)が薪小屋というネーミングで建っている。ホテルは食事付き1泊1人2万2千円ほどの高級ホテルである。平日ならもっと安い。地下ワインセラーの上がイタリアンレストランとなっている。一般にはガーデンテラスのある喫茶コーナーでジェラートとか、コーヒーなどを楽しめるようになっており、若い人のデートコースという感じ。ワインはカードブッチの商品であるが、なぜかやたらイタリア製とか、フランス製の皿などが売られている。商売にこだわった経営である。ここのワインは全てこのワイナリーで作った葡萄ではなく、他地域のものも加えてあるという噂である。
 最近はできるだけ国産ワインをのむことにしている。このカーブドッチのワインも上越市(高田)岩の原ワインー深雪花を交互に飲んでいる。ただ、やはり、味覚的には若い感じでフランスやイタリアのワインの味わいとは違う感じがする。歴史はもちろんだが、こだわりが何か違う。それに比べ、やはり、新潟は日本酒王国である。村上の〆張鶴、新発田の菊水、王紋、金升などに慣れてくるとワインは飛んでしまう。長岡の八海山、朝日山、津川の麒麟山など銘酒が揃っている。もちろん京都伏見の酒も、灘の生一本もいいのだろうが、新発田にいる以上は体が地元の酒dを求めているのである。

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 最近結構福島潟にはまっている。福島潟までは大学から20分くらいで行ける。これを見ると、何故新潟という地名がついたかが分かる。新潟市周辺は、昔はこのような湿地だったのである。新潟港を中心に、砂丘地の上に新潟市街が形成された。新発田藩は市島家の協力を得て、周辺を干拓、開発した。胎内市(中条)に近い紫雲寺の開拓事業なども干拓の難事業であった。当時の新発田藩は新潟市に近い所も領地としており、名目5万石だったが、10万石の実力があった。新発田藩は一度幕府から5万石を召し上げられている。しかし、幕末は7万5千石に回復しており、豊かな藩だったと思われる。福島潟は今は新潟市北区だが、町村合併前までは豊浦町であった。新発田藩はこの周辺を一大穀倉地帯に開発したのであった。その残りが今の福島潟である。福島潟には展望棟があり、この上から、飯豊連峰を望む景色は秀逸である。寒そうだったので冬に行かなかったが残念な事をしたと思っている。

 ここは冬、大ヒシクイが数千羽飛来する貴重な野鳥の王国である。冬は寒いので行かなかったが、春になって毎週通っている。ここに居着いているアオサギは何だかのんびりしていて癒される。白鳥、大鷲、鷹、イヌワシなども飛来する。今は鴨とかサギの楽園である。春には岸辺の菜の花が美しく、水辺の景観も素晴らしい。全国的にもバードウォッチングのメッカである。自分も最近は車に望遠鏡、双眼鏡を乗せて機会を見つけてはここに通うようになった。新潟の自然は素晴らしいが、時たま荒荒しく、水害、地震、暴風、竜巻など猛威をふるう。降雪も山間部はすごい。今は雪解けの雪崩事故とかあるが、雪を抱いた飯豊山は美しい。

水路に悠々と飛ぶアオサギ。白鳥と同じくらいの大きな鳥
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菜の花が美しい
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帰りに夕立に出会ったが、大きな虹がかかった。
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 これまた、豪農の館か。というより、新発田の名門、市島家の屋敷である。市島家は、新発田に溝口一族が輪島から移ってきた時に、一緒に来て、農地の開発に貢献した。当初、溝口家の新発田藩は5万石であった。これを新田開発により実質10万石まで成長させたことに貢献した。実質30万石あったという説もある。明治維新後も農地を拡大し、日本の多額納税者の2位となった。第四銀行の設立に関わり、また、早稲田大学の大隈重信とも親交して、大学に財政支援を行なった。そんな関係か、新発田には早稲田の卒業生が多く、また、今も新発田高校からは慶応にはあまり行っていない。東京の私立大学として早稲田の方が人気があるようだ。新発田においては、今もその親戚筋で市島酒造という酒蔵が、銘酒「夢」とかおいしい日本酒を作っている。新潟の生んだ教養人で詩人、会津八一もこの家の親類筋である。その市島家の屋敷が新発田の豊浦にあり、これを見学する機会を得た。この屋敷の門が立派。非常に繊細なつくりで、屋根の勾配が柔らかい。入ってすぐ右にかつての土蔵を改造した博物館がある。この中には市島家の歴史や雛人形、婚礼用品などが飾られている。親族である会津八一の書、大隈重信が訪問した時の写真など貴重な文物が多い。北方文化博物館の伊藤文吉氏はただの豪農という感じだが、市島家は地域の文化に大きな貢献をした事が分かる。
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上越新幹線車内の月刊誌トランヴェールと通販カタログ『Train Shop』は毎月楽しみにして読んでいる。トランヴェールには随筆、東北の食や文化などが満載で、旅の情報と東北の文物をこれ程丁寧に説明してくれるものは少ないのではないか。通販グッズではあまり買う気にはならないが、アイデア商品があふれているのである。カバンや旅行用品にとどまらず、ファッション、家具、植木の手入れ用品、仏壇まである。これまで、電動耳かき機、小顔づくりの、もっとほうれい線エキスパンダー、携帯おしり洗浄機、背中のむだ毛そり機など、ユニークな商品をこのブログでもご紹介した。今回はあまりユニークなものは無かったが、この通販で一体誰が買うのだろうかと不思議な品物に出会ったのでご紹介したい。
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「うつ伏せ寝が出来る気持ちよいベッド」という代物。うつ伏せが気持ち良いかどうかは人それぞれだが。これはよく、マッサージ屋とか、整体院などで見かけるものである。うつぶせになった時に顔を置くように穴の空いたベッドである。16,800円とは通販アイデア商品としては高い方だろう。これを自宅で使う人は、誰かをマッサージするとか、自分の体をこれに横たえて、家族にマッサージでもさせたいのだろうか。あるいは他に何か利用方法があるのだろうか。しかも、これを通販で衝動買いした人は家族からどんな顔をされるのか、想像してしまう。何とも、通販カタログに載せる商品として不思議な気がするのだが。<
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 またまた、元大地主のお屋敷が阿賀野市にあった。五十嵐邸という。この豪邸を活用して、レストランや結婚式場があった。多分所有者が経営している施設である。ここではスワンという地ビールを作っており、ワインやパン、イタリアンも楽しめる。結婚式場にもなったり、ど田舎にしてはシャレた空間となっている。感心するのは、他の地主様の御邸宅は必ずといっていいほど、500円から800円の入場料金を取られるが、ここはレストランで収益が上がるせいか、無料で見学できるのである。好感度が高い。とにかく、新潟は米所で、どの町に行ってもこの手の豪農の館があるのだ。北方文化博物館も、その敷地内に伊藤文吉さんの子孫が今もお住まいなのである。
 

 五十嵐邸の倉と本館
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 この五十嵐邸は見学だけ、just watchingで失礼して、村杉温泉の公衆露天風呂で一服した。この温泉はラジウム泉である。とにかく新発田の周辺にはいろいろな種類の温泉がある。月岡は緑色の硫黄泉、聖籠町と紫雲寺の風呂は塩泉でしょっぱい。瀬波は塩泉と言われているがすこしも塩辛くないし、澄んだお湯で、心地よい。城山温泉も、関川温泉も同じ感じである。村杉温泉の露天風呂はお気に入りのお風呂。毎週でも行きたくなる。新発田市からは少し遠いが、瓢湖の白鳥を見に行った帰りが好都合である。
 
 聖籠町「ざぶーん」の露天風呂
 
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 五頭村杉温泉「公衆露天風呂」
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 村杉温泉のひなびた町並み
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五頭の山茂登屋の釜飯
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 温泉につかった後はお腹もすいてくる。そこで、釜飯屋、五頭の山茂登に電話して、釜飯を予約する。ここは季節がいいと夕方はお客さんで満員になって、えらく待たされるから電話予約が必要。
温泉から車で5分くらい。新発田方向に国道を走ると右手に看板が出ている。熱々の釜飯は実にうまい。カニ釜飯から五目、鮭など10種類くらいある。値段は1000円前後である。その他、イワナ、アユ。ヤマメの塩焼きなど、おつまみも沢山ある。ここのカキフライもいける。

露天風呂でだるーくなった体をここの座敷で休めながら、釜飯を頂くと至福の一時である。仲間が大勢いればもっと楽しいだろう。一人で行く事が多いが、それも一興である。

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「ゆーむ」でくつろぐ幸せなひととき。
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  連休最後の日、関川村に行った。胎内市(中条)と村上市の奥にある、人口6000人ほどの小さな町だ。山の村というイメージで温泉もでるというから、谷間の部落かと思ったら、何と、小さいがしっかりした家々のある町であった。最近、この町は「大したもん蛇(じゃ)祭りで」有名になった。今年はThe MATSURI サミットin関川村というイベントが開かれ、全国16のお祭り、阿波踊りなどがここに集まる。

たいしたもん蛇祭り


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荒川という美しい川のほとりにある。この町にも豪農の館というのがある。町役場向かいの一番良い場所に、渡辺家が屋敷を公開している。新潟県は、どこの市にもそうした豪農の館がある。最初は北方文化博物館に行き、凄いなあと感心したが、最近、うんざりしている。この手の家は新発田には市島邸、隣の聖籠町には二宮家とそれぞれの町にある。渡辺家は村上藩の勘定奉行も務めた家柄だそうだ。

道の駅で買ったお弁当

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明治時代、小作農をかかえ、富国強兵策で肥大化した。幕末から、自作農から田畑を奪い、農地改革まで搾取を重ねたのだろう。周りのお百姓さんは貧しく、学校も高等小学校どまり、次男三男は東京に丁稚とか集団就職するしかない、あるいは軍隊に入って全滅するか特攻隊にいったり悲惨な時代もあっただろう。その反面、地主様のお坊ちゃまは東京の大学に行ったり、アメリカに留学したりご立派な方が出ている。あの歌手の黛ジュンさんや作曲家の三木たかしさんもここの一族らしい。美しい山々、清流、イワナやヤマメの釣れる川があり、温泉も湧く。しかし、過疎に悩む村。「ゆーむ」という町営の温泉があり、ここに入った。入り口に道の駅があり、そこで山菜弁当と鮎の塩焼き、トチ餅を買った。温泉は露天風呂があり、清潔で、ジャグジーやサウナもついて500円だ。お湯も澄んだ気持ち良い温泉、匂いも無い。温度は42.5度とちょうど良い案配。お風呂から上がると大きな座敷があって、近隣の家族がごろごろしてテレビを見ている。自分も、ここでのんびりと遅い昼食。時間がゆっくり過ぎてゆく。まるで、桃源郷と思った。
 ところが、後で分かったのだが、ここは大変なところ。WEBで見たら、何と、2004年のこと。村八分問題に揺れたんだそうだ。今時、えー?という感じ。自分のような世間知らずには想像のつかない田舎のどろどろ。村のイワナつかみ取り大会にお盆だから休みたいと奉仕を断った住民11人を村八分にして、村の他の行事、ごみ収集、山菜採りなどの行事から一切排除した。一種のいじめで、村の実力者が手引きしたようだが、36戸ほどの小さな部落。それまでにこの11家とは何らかの確執があったのだろう。苛めもどちらが被害者か分からん泥仕合。ところが、時は現代、しかも人数が多かったのか、逆に裁判で訴えられ、区長などは220万円の損害賠償命令を新潟地裁から出されて、2007年に高裁で控訴棄却された。さらに、寄付してもらったイワナを買った事にした補助金の使い込みも発覚、大騒動になった。こんなに素晴らしい風土に似つかわしくない、陰湿な人間関係があった。若い人がいなくなる訳である。新発田の赤谷もまるでカナダに行ったような美しさだが、熊に用心しなければならない。田舎も結構危険なのだ。関川村ね、まあ、イワナのつかみ取りも凄いが、人間のつかみ合いも凄かったということか。

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 憲法記念日において改憲論議が高まっていた。安倍政権はこれで歴史に名を残したいのか。麻生太郎の靖国神社参拝から始まりこの政権の実情を見て取れる。三ばか体制の頭の悪さである。何で59条を改正するんだ。三分の二のハードルはそんなに高くはない。憲法改正が過半数で決められてたまるか。憲法の重さを分かっていない。何でオーム真理教事件を防止するために憲法を改正しなければならないのか。現行の破壊活動防止法の適用にもたついただけではないか。ちょっとした政策の間違いが大きな歴史の転換を招いた例が配属将校の学校配備である。戦前の教育体制を大きく変えたのが、将校の学校配備であったことをだれも声を上げていないのはなぜであろうか。
 日本が70年前、戦時体制一色になっていった原因の一つに教育がある。政府の戦争指導体制に教育が大きく関わってきた。これは教師の責任であるかのような自己批判もあり、戦後は彼らが180度民主主義の旗振り役に転じたことはしばしば批判されている。しかし、教師の責としてその国家メカニズムにいかに組み込まれたかを考えないのは片手落ちである。彼らがなぜ戦争を肯定する教育を積極的に行ったのかである。当時の教養人であった学校教師がいとも簡単に鬼畜米英と天皇の神格化を子供達に教え込む事になったのかである。学校教育に軍が関与し始めた大きなきっかけは軍事教練と退役軍人の学校配置ー配属将校制度の成立であろう。これが国民総動員という国家体制に大きく貢献した。ドイツのヒトラーユーゲントのような団体的な集団ではなく学校全体を戦時体制教育に巻き込んだきっかけである。学校というコミュニティを通じて相互監視の仕組みが出来上がる。町の中では隣組や町内会が機能した。国家総動員体制をコミュニティに浸透させていった。配属将校に睨まれると教師自身も将来の軍への召集など、子供達のみならず、不利益を被ることになった。訓練中にウッカリ銃を落としたとか、つまらないことで睨まれた例もある。将来の不安を利用し、国家権力は学校に大きな影響を与えるようになった。軍事教練のみならず、反抗的な教師や学生は軍隊に入隊後、様々な不利益を被ることになった。これは一種の恐怖政治であった。
http://www.c20.jp/p/ukazusig.html
大正末期の軍縮による4個師団の廃止により余剰の現役将校2500名がリストラされた。その他2000名以上が現役将校学校配属令によって隊付をはなれ中等以上の学校に軍事教練教官として配属された。配属将校というと旧制中学生に自ら手取り足取りして教練のイロハから教えることがイメージされ雑用が多く、左遷配置と思われがちである。実際はどうだったのか。戦前の体制や我が国の敗戦とあの軍事国家の批判ができない政権が憲法を改正するのはどうも違和感を覚える。

1925年宇垣一成主導で現役将校の公立中等学校以上の学校に配置が始まった。どうも実際に教練を教えるのは学校に雇われていた予後備退役の佐尉官、准士官、下士官教師たちが主。従って配属将校の役割は生徒の軍事訓練の考課表を作成する事と、課目としての教練の総活管理が主たる任務ではなかった。配属将校の学校内の地位は校長の下、教頭の上。配属将校は将来の予備役将校・下士官の養成を通じて民間一般への軍事思想の普及、陸軍へのシンパシーを醸成するのが公的任務。ところが受け入れる学校側は特に初期には現役将校を学校に迎えるについては学校側で難色を示したところもあった。学校教練が開始される以前より兵式体操という課目で予後備退役の佐尉官、准士官、下士官たち、すなわち在郷軍人教師による軍事教練を既に実施している学校が多かった。その教師と同等視されることによりイメージの低下につながっていたのかもしれない。しかし、学生の側からは軍事教練で好成績だと軍隊に入った場合の特典、幹部候補生への道や訓練期間の短縮などのメリットがあった。反対に終了証書がない場合は様々な差別を受けたから、純朴な学生は必死になって教練に励んだ。そんな環境を無視して、あの時代の教師はけしからん、さらに、敗戦後急に民主化教育で旗を振るとはといわれるが、だれでも国家権力が猛威をふるっているときに抵抗するのは難しい。

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