<   2012年 11月 ( 7 )   > この月の画像一覧

新潟市の朱鷺メッセにある日航ホテル31階から新潟市内が展望できる。しかし、佐渡まで見渡せるタイミングは少ない。夏は雲や霞が多いし、特に初冬期は天気が悪いから、今の時期にはほんのわずかな機会しかない。11月25日の日曜日は珍しく晴れて、夕方素晴らしい日没の光景となった。日本海側では太陽が海に沈む。関東ではこれは見られない。村上市瀬波海岸の夕日は日本海に落ちていく。素晴らしいが、新発田からの夕日は田畑の彼方に落ちていく。
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何ともこれが美しい。朱鷺メッセの夕日も同様だ。
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 村上から北に30分、海岸線を車でひた走ると、海岸が岩場になった「笹川流れ」になる。奇岩、巨岩がつらなり、美しい海岸である。漁港から遊覧船が出ており、海からの海岸見物ができる。遊覧船からはカモメの群れが追ってくるところが感動的だが、この日は数が少なかった。
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さらに車で鶴岡方向に海岸線を走る。船からとは違う景色で、これもよい。目線が高いほうが美しいような気もする。海岸線沿いに羽越線が走っており、その列車から見た笹川流れはかなり上から見ることになり、さぞかし、絶景のことであろう。
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現在、磐越西線にはSL「 C57-180号機」がSLばんえつ物語号として11月まで一往復走っている。この羽越線でも04年あたりから何度か走っている。村上が中心であるが。さらに新潟駅 - 新発田駅 - 新津駅間を「SLご当地グルメ号」を臨時運転(全車自由席。新発田駅 - 新津駅間はDE10形が牽引)でSLが今年も走った。これらは新発田を起点に、是非続けて走ってもらいたいところである。一日お昼と夕方にして、列車内で食事ができるようにしてはどうだろうか。日本酒とワインの列車をアメリカのNapaのワイン列車のように往復するだけでよい。SLの起点は新発田で、かつての下越の中心だった時代をSLで取り戻すのである。新発田駅にはおそらく、今もSL基地としての機能が残されているはずである。商店街がシャッター通りになったのは、新潟までの7号線バイパスが通ったからである。バイパス周辺にはロードサイド型店舗、大型スーパー、量販店が多く立地している。それに反して中心市街地は閑古鳥である。そのために、市は、商工会議所の駅前立地、市民センターを計画中であるが、自分は無駄だと思う。経済と交通の流れには逆らえない。敢えて作るならばホテルである。新発田にはロクなホテルがない。ところが、駅の近くには大きな県立病院と、陽光苑という老人ホームがある。一体市民ホールで何をやるんだろう。毎日お祭りでもするのだろうか。さぞかし、官製のおもしろくないコンサートだの教養主義的なイベントが催されることだろう。新発田に似合っているのは、プロレスとか、かつてあったサーカスといった興行系ではないか。このセンスの無さにはがっくりである。 それに引き換え、村上の観光地としての団結は見事だ。旧商店街のお店は観光客が来ると、お魚屋さんでも、ようこそ、とお茶を出してくれる。
村上市の能登新という料理屋にお昼を頂きに行った。鮭ずくしがおすすめである。観光地は、見て楽しく、味わって満足、当地の人情に感動である。能登新の鮭づくし昼食は3150円で村上鮭が堪能できる。焼き、氷頭なます、特に美味がレバーの煮物。ハラコ、酒びたしなど。余談だが、この能登新の村上牛ハンバーグが絶品。価格は1200円とお手頃で最高であった。
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 阿賀野市の五頭にある、村杉温泉を最近愛用している。瓢湖で白鳥を見るのも、新潟に住んだ特権である。その帰りに、五頭を回って杉村温泉に入るのが楽しみになった。
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300円の入浴料で、野趣に富んだ露天風呂に入れる。岩ぶろで、周囲は森である。脱衣場と周囲を板塀で囲ってある。男女別浴である。43度くらいはあり、熱いが、ちょっとこらえて入ると芯から身体が温まる。そんなことから、毎週のように新発田から出かけて行くようになった。お湯から出ても、身体がほかほかして、結構持続してくる。ラジウム泉で、ラドンの量が日本一多いんだそうだ。微量な放射線は身体に良いという説があるが、そんなことはどうでもよく、気持がよければいいのである。
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 夕方に行くので、帰路、食事どころを探す。新発田に帰るみちすがら、おいしそうなところを探すが、何となく入った釜めし屋が結構いける。山茂登といって、このあたりでは、有名なんだそうだ。村杉温泉の帰りには必ず寄るようになった。予約をしていないと、満席のこともあり、また、釜めしの支度のせいか、えらく待たされる。予約をしておけば到着したときにはホカホカの釜めしが待っている。鮎、岩魚、山女の塩焼きとか、天然ナメコのおろし和えなども美味。温泉で温まったからだの中心の胃袋はペコペコだから、とにかく、釜めしがうまい。五目、鮭、カニ、鳥肉など15種類くらいの釜めしがメニューにはある。
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男はつらいよ寅次郎 夢枕 第10作目 1972年作品

このシリーズの名作といってよい。8作目の寅次郎恋歌、9作目の柴又旅情と山田洋二監督の絶頂期の作品である。長かったシリーズだけに、これはまさに、日本が高度成長から世界に羽ばたく経済大国になる間の記録映像でもある。このシリーズはとにかくファンがいて、全シリーズ48巻を見た人は結構いるだろう。自分はせいぜい20本くらいだ。さくらの倍賞智恵子、千代さんの八千草薫、東大助教授の役、米倉斉加年は健在だが、出演者の多くは既にこの世にいない。渥美清は平成8年(1996年)享年68歳で生涯を終えた。長野の宿での田中絹代、そして御前の笠知衆、3代のおいちゃん、下絛正巳、松村達夫も世を去った。最初のの森川信は早かったがタコ社長の太宰久雄 もだ。つね(おばちゃん)の三崎智恵子は今年の2月に亡くなった。20年も続けばそれも自然の成り行きか。毎回ストーリーの前半は同じようなストーリー。とにかく、配役が豪華で凄かった。シリーズごとに吉永小百合、浅岡ルリ子、栗原小巻、池内淳子、若尾文子と、名女優が最後の若さを発揮している。今の若い人は、八千草薫はあのヒアルロン酸の膝痛薬、皇潤のCMに出る上品な婆さんとしてしかしらないだろう。美人女優で有名だが、当時は50歳前でまだまだ美女。彼女はもう81歳、自分の親たちの時代のアイドルであった。寅さんはこの作品で、美女から初めてプロポーズされる。ところが、寅さんは、テキ屋の自分に気が引けたのか、本当は好きでたまらないのに、また、また、逆さまの態度をとってしまう。告白を受けたときの狼狽ぶりがいつも渥美清の大演技である。1972年というのは自分が大学を卒業し、就職した年。あれから40年である。長野の小淵沢周辺で撮った風景は、甲斐駒ヶ岳をバックに、茅葺き屋根の農家が連なっている。SLも走っている。そして、アナログチャンネルの箱形テレビ、さらに、山本リンダの歌声が聞こえてくる。あの青春時代が蘇ってくる。この映画の良さは、寅次郎を取り巻く人々が、それぞれ生き生きととした個性を持っていることである。寺男の源公(佐藤蛾次郎)にしても、工場の若者にしても、ちょい役、無個性のようでそれぞれしっかりドラマを盛り上げる役を担っている。寅さんシリーズには鉄道がよく出てくるが、まだこのあたりの10作目まではSLが走っているところが何とも懐かしい。
 寅さんシリーズのおもしろさは、ストーリーの基本がいつも同じであることだ。歌舞伎のように、同じ場面にいよーっと声を掛けたくなる。演劇の楽しさである。車寅次郎はテキ屋で、親がいないため、お寺に預けられて今は叔父の家に寄宿している。ところが、楽天的な性格である反面、短気でカッとなるし、おっちょこちょいで、女性には惚れっぽい。こんな人物が周囲にいたら本当に困るだろう。家庭では叔父夫婦の愛情と我慢を知って知らぬ振りで、勝手な振る舞いが周囲の気を遣わせる。風来坊になるきっかけは車家でトラブルがあったとき。迷惑を掛けないように気を遣って出て行く。出かけた地方で美女と出会う。あるいは、寅次郎が放浪中に彼の部屋に下宿してきた女性と出会う。いつも寅は恋に陥るが、美女はたいがい彼氏がいて、それを知って身を引くというパターンだ。女優ーマドンナは皆その時代のトップスターである。そんな構成だが、これをよく見ているとなかなか奥深いものがある。実はどこにも、寅次郎のような人間はいるのである。世の中理性的な人間ばかりではない。勝手な人間は必ずいる。また、車家のような円満な家庭もどこにでもある。その平和を破るのが寅次郎だ。我々が愚かなのは、相手の目の梁(丸太)を見て、自分の眼の塵を見ぬことだ。また、マドンナの悩みは若い女性の悩みをシリーズごとにあらわしている。そして食事の団らんは寅次郎の振る舞いでいつもぶち壊しになるのである。これが現実だと結構深刻な家庭状況だが、そこを渥美清の名演技、キャラクターで嫌み無く見せているのである。毎回同じパターンだから安心して見ることが出来る。48回も回を重ねることができたことは商業映画としても大成功である。八作目の柴又旅情では吉永小百合の美貌と役者としての「大根」ぶりが興味深い。あれから、彼女は演技においても次第に成長を遂げているのが分かる。

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  寅さんを演じた渥美清がカトリック信者であったことを知っている人は少ない。この著者はカトリック司祭で、清泉女子大教授である。寅さんー渥美清ーキリスト教という流れで寅さんとイエスの共通点を解説している。いろいろな理屈をつけて、寅さんとの共通点を述べているが、著者の言いたいことはこの本最期の「あとがき」に殆ど述べられているような気がする。ヨハネ福音書の21章、イエスの復活の個所である。そもそも、聖書はイエスの生誕ークリスマスから書かれているが、論理は逆で、イエスキリストの十字架と復活から全てが始まり、イエスの生涯を福音書で語っている。生涯といっても、イエスが伝道を始め、十字架までの短い数年の出来事である。そこで、イエスの説法とか、議論、奇跡、弟子との言葉のやり取りが記録されたものが福音書である。福音書の最期はイエスが再び現れたときの弟子たちの驚きを生き生きと描写した部分である。

 興味深い着眼点である。著者は寅さんシリーズ「男はつらいよ寅次郎、48作品」と「負けてたまるか」全作品を何度も見ながら、新約聖書のマルコ伝を中心にイエスキリストとの共通点を語っている。なるほど、イエスは漂泊の人。そして、そのたとえ話や振る舞いは寅さんに似ているところが結構ある。イエスキリストというとなんだか聖像画にある霊気はあるが、体温の抜けたような姿のイメージが多い。しかし、聖書に書かれている姿は、実際想像してみるとなかなかエネルギッシュである。カナの婚礼からしてイエスの行動は「酒」と縁が深い。イエスは当時、「大酒飲み、大飯くらい」と敵側から悪口を言われていた。いつも女性や子供に優しく絶対に怒らない。しかし、神の愛にそむく行為や、偽善には徹底的に厳しく、戦う。そして、イエスの説法はユーモアと絶妙なたとえ話、パリサイ派、サドカイ派との議論は、意表を突く反論で相手を沈黙させる。イエスが何千人もの聴衆を前に言葉を述べられたが、それだけの人数が集まった背景として、その内容は皆に分かりやすく、聞いていて楽しいものだったに違いない。当時の体制に対して、皮肉やたとえ話で感銘を与え、大いに盛り上がったはずである。時には皆と笑い、宴席でも座を大いに盛り上げた。だから、多くの信徒が使徒たちを招き入れ、自宅でイエスの話を聞きたがったのだろう。ただの大酒飲みで愚痴とか独演会だったら敬遠されてしまう。聖書には笑うイエスの事は書かれていない。イエスの伝記である福音書は、とにかく彼の十字架と復活というシリアスな、また悲劇的な人生を語っているので、そうした要素は不要として削除したのだろう。
柴又帝釈天
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 聖書の福音書は最初にマルコ伝が書かれ、ヨハネは最後と言われている。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書はイエスの生涯を語っているが、エピソードの記録は違ったものが入り混じっている。それは実際はQ文書というイエスの活動を書いたメモがあってそれを、最初にまとめたものがマルコ伝だという。実際は、最初に書いたのはキリスト教徒ではなく、マルキオンというグノーシス派の学者が、先に書いてしまった。彼らが参考にした元の文書があったから書けたのである。マルキオン(Marcion 100年?-160年?)は2世紀のローマで活躍した小アジア(現トルコ)のシノペ出身のキリスト教徒。シノペのマルキオンとも呼ばれる。 聖書の「正典」という概念を初めて打ち出し、自らの基準に従って独自の「聖書正典」を作り上げた。彼はグノーシス派として、パウロなどが最も警戒した考え方だが、マルキオンはパウロに傾倒している。ナグハマディ文書というグノーシス派の文書がエジプトの村から出土した壺の中から大量に発掘され、聖書との関係が明らかになった。

 イエス様は人間が失ったものを取り戻してくださる。それが愛であり、大切な時間である。「風天」には時間がたくさんあり、いつも旅をしている。そんな寅さんの人間性は現代人が失ったもの。そして、子供のころ寺に預けられた寅さんには故郷がない。柴又は寄宿しているのだ。しかし、追い求める女性や周囲の人々には故郷がある。寅さんを見ると我々は失ったもの、家族、思いやり、友情、義、田舎、美しい海や山を思い出す。寅さんの台詞にはユーモア、逆説、比喩-メタファーが込められている。聖書も同じではないか。その中心はユーモアと愛である。

 ヨハネ福音書の最後に記されたイエスの復活の中心テーマは「愛」である。そしてイエスはいつも周囲をなごやかな気持ちにさせてくれる。神は人となってこの世に一人子をつかわされた。そして人間である以上は怒り、悲しみ、そして笑う。寅さんもそうである。相手を思い、自分を殺して悟らせるためには、ユーモアをもって語る。そこに愛がある。そしてイエスは愛のすがたをもって永遠に私たちをとらえてくださるのである。
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尼崎の連続死体遺棄・殺人事件は驚きの展開となり、連日テレビ、新聞報道となった。複数の行方不明者、不可解な人間関係…。内偵捜査に着手後すぐ、美代子被告をめぐる異様な状況が次々と判明。瞬く間に広がっていく相関図を前に、捜査幹部は長期戦を覚悟し、捜査員に徹底解明を命じた。
 結実したのは今年夏以降。県警は、行方不明者の1人として把握した女性の年金を盗んだなどとして、窃盗容疑で三枝子被告と美代子被告の義理の娘、瑠衣被告を逮捕。美代子被告と近いとされる2人の逮捕を機に口をつぐんでいた周辺者らが徐々に証言を始め、捜査は大きく進展した。
 「美代子被告の恐怖から徐々に解放されたのではないか」と捜査幹部。10月には証言に基づき、民家から3遺体を発見。ほかの行方不明者らに関する情報も次々と明らかになり、橋本次郎さん死体遺棄事件での立件にこぎ着けた。
 ただし、捜査は緒に就いたばかり。さらにドラム缶に入れられ、港に沈められた遺体の発見から、殺人事件へと捜査が展開している。この事件、テレビでは美代子被告のマインドコントロールとか、家族の絆を利用した巧みな人心掌握術などが話題となり、解説されている。連合赤軍事件などにもたとえられているが、事件解明は意外と進むはず。主犯とみられる美代子容疑者一人に責任をかぶせるように共犯者が供述を行っている。彼女が支配してた構図の中で、共犯者が死刑を逃れようとあがき、全てを検察に白状するだろう。複数の人物が関わっており、それぞれの供述の矛盾点が必ず出てくるから、これ糸口に実態は解かれてくるのではないだろうか。
それにしても、どうしてこのような事件が起きたのだろうか。背景には、長期にわたるデフレと失業問題が絡んでいることを語る人がいない。というのは、これらの家族の多くが、どこかに勤務していたり、働いている様子がない。美代子被告などは、被害者の資産を食い物にしているのだから当たり前だが、皆、犯行のあったマンションに籠って生活できているからこのような閉鎖的人間関係が形成されたにちがいない。これはまさに、不況型の社会的雰囲気を現していると思う。皆が商売しているわけでもなし、多分、殺された被害者の資産を食いつぶしながら、それが尽きた段階で別の餌食が求められた。仕事があったり、勤務するところがあれば誰かに相談出来たはずだし、親族とか近所の人以外に内容を知る人がもっといたであろう。また、近所の人というのが、全く当てにならないということもわかる。被害者はマンションから出れば住むところも金も無いから途方に暮れ、脱出する意欲を失うのだろう。揚句の果て、監禁され、衰弱死している。

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 自分の学生時代を振り返ると、二年生、三年生のときに荒れ狂った大学紛争の記憶と、剣道に打ち込んだ4年間、そしてYMCA一橋寮での生活がほとんどである。大学の勉強はゼミしか記憶がない。津田真澂先生の労働問題のゼミであったが、先生は体調を崩されて休講が多かった。そんな時、スケジュールが余って、ゼミ仲間と酒を飲んだり、議論したのが楽しい思い出である。正直なところ、語学力は受験英語以上のものはついていなかったし、学問も中途半端、それであっという間に4年間過ぎてしまった。というより、3年の終わりに就職試験があり、第一志望の三井不動産と三井物産に内定していたので、4年生の時は、後の会社生活とは全く関係のない自由な勉強が出来た。これはまるで、天国のような1年間だった。

 津田先生はマックスウェーバーや、和辻哲郎、労働経済学の本をテキストにしていたが、それ以上に、先生の企業経営観とか、歴史観を聞くのが楽しみであった。卒業後も、経済や、経営問題においてその時の先生のお話を思い出しながら、自分なりに整理することができた。若いころというのは、単純なことでも、心に響いたことは繰り返し反復して思い出すものである。そんなところに大学での勉強の意味はあったのかなと思うことが多かった。子弟というのは貴重なものだという気持ちは今も変わらない。

 大学の勉強なんか社会に出たら無意味だというようなことを言う企業人が多い。経営者にもいるが、彼らは大学時代を要領よく切り抜けてきた人なのだろう。学問の楽しさや意味を見いだせないまま卒業してしまった。大学人からみると残念な発言でしかない。大学の学問は何も役に立つからやっているものばかりではない。もちろん、社会において必要な知識、知性を与えたいという願いを何処の大学も持っている。建学の精神があるのだ。その意味で、人づくりである。市場のニーズだけを考えれば、予備校や専門学校の方が「教育的」である。では資格を取れば社会で受け入れてくれるかというと、資格だけで飯を食っている人はいない。そのことを専門学校はどう考えるのだろうか。大学時代、部活で得たのは、人前でのスピーチとか自己紹介、考え方の違う人との接し方、あるいは、他校の学生との交流などで気持を通じあう話題や話方など、若いうちに身につけておくべきものだった。こうした事は学校の座学や授業では得られない。

 学生時代を振り返ると、多くの社会人の先輩が、剣道の指導やOB会に来られて、学生時代の勉強は、殆ど役に立たないから、部活とか、友人作りをしておけばいいと言われて、そんなものかなあと思い過ごしていた。でも授業やゼミは楽しかったから、そんなことは構わず好きな本を読んで暮らしていた。会社に入って、体育会出身の仲間に聞くとそういう経験を皆していた。しかし、賢明な先輩は、先輩によっては、戦争で仲間が皆死んでしまって、無競争だったから偉くなれただけで、今の我々はそうはいかないから勉強をしたおいた方良いという忠告も頂いた。
 自分が入社した当時、社長は江戸英雄という方で、彼は、東京大学で高文ー上級国家公務員試験のために、勉強しすぎて病気になって失敗し、三井合名に入った方で、これまで、自分が出会った不勉強を自慢するような方ではなかった。そうした経営者を尊敬して自分は三井不動産に入った。さすがに、当時の役員には東京大学を首席で卒業したような人とか、高文を合格したような秀才はたくさんいたのであった。

 確かに、会社に入ってみると、多くの先輩は、自分はいかに勉強をしなかったかを自慢する人が結構いた。しばらくすると、あれは一種の照れ隠しであって、実際は良く本も読んでいるし、仕事も早く、いろいろな常識を持っていたことが分かった。確かに、大学時代の勉強がそのまま会社に入って役に立ったことはあまり無いように思えた。それは、会社の仕事に関する知識というのは、自分の仕事の範囲だけで、幅が狭い代わりに、本にも書いていないような細かな知識を要求される。だから、そうした専門知識に関する勉強はまめにやっておかないと、何も得ずに終わってしまう。
 また、自分は社会学部出身で、法律や経営学、簿記の勉強もしなかったから、いつも取り残されるという不安感があり、会社が要求する、宅地建物取引主任者とか、コンサルタントの試験などは積極的に講習会に行ったり、簿記の知識は、同じ社会学部出身の仲間と、土曜日に勉強会をしたりして何とか学んだ。必要な知識を得るために卒業してからも学ぶ習慣は後に大いに役に立った。
 出遅れ感があったが反面、周りを見回しても、会社の要求する知識を全て身に付けている人などは
殆どいないし、その時その時で必要な勉強に悪戦苦闘している人が多いことに気がついた。しかし、自分が卒業した一橋大学の連中は、皆、周囲から、経理知識はあるはずとか、英語はできるだろうとか、先入観を持たれていて、それを裏切らないように、また、先輩や、後輩に迷惑をかけないように
学生時代の不勉強を補うように努力はしていたように思う。そのような意味においては大学時代の勉強の意味は結構あって、問題を解決するために、周辺の知識を吸収したり、資料をあさったり、本を読む、研究会に出る、友人を作って情報を得るという習慣は、やはり、学生時代の学習習慣で得たものだと思うから、無駄とはいえないと思う。<
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