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8月28日(水)新発田祭りの最終日、伝統の帰り台輪が行われた。台輪というのは山車のことである。車を台輪というのは新発田だけである。280年ほど続く、賑やかなお祭りだ。6つの町会から山車が出て、諏訪神社からそれぞれの町会に再び帰還する。その時に、狭い道を先を争う場面に出くわすと、大変なことになる。長い綱で引き合っているので、場所を確保しなければ山車を引いたり、方向転換ができない。だから、山車の引き手は相手を抑えなければならず、昔は、けんかの種になり、けが人や死者まで出た。江戸時代の町方の心意気を示す台輪だが、明治になってから、金魚台輪というのが始まった。これは実際、町おこしとして今後も大いに期待される。それは子供や女性が引く台輪だからだ。幼稚園の子供などがボンボリにして商店街の軒先に飾ったりしている。まことにほほえましいもので、全国でも珍しい。
パレードなどで使う金魚は大型化するが、デザインなどは統一基準を設けた方が見た目は良い。

昔からの台輪は6つの町で保有され、献納されるのに対し、金魚台輪はあまり制約がない。大きさも形も比較的自由だから面白い企画が出来る。巨大なものから小さいかわいいものまで、いろいろあってよいだろう。祭りまでの盛り上げ役としても効果がある。各商店が店の前にに同じサイズのものを並べて電気の明かりで美しく飾ってもいいだろう。それを実行するだけの気力、活力があるかどうかだ。
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木遣りという甚句を歌う。勇壮で声の響きがよい
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山車を上下に激しく揺らす

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民謡流し

 新発田では8月の27日(月)から三日間お祭りなのである。27日には民謡流しといって、新発田音頭と新発田甚句に合わせて、町の街路を各団体が揃いの浴衣を着て、踊りながら回っていくのである。
新潟では関東で行われるような櫓に組まれた台の上で代表が踊り、その下を囲んで円を描きながら踊る盆踊りはあまり見ない。こうした民謡流しが主流のようだ。敬和学園でも学生と職員が60名ほど参加した。小生も、10日くらい前に民謡の先生が二回来てくれて、練習をしたのであった。とにかく暑い夜だったが、スクールバスで会場に到着、7時半から踊りが始まった。反対側のグループなどは見事な勢ぞろいで踊っている。我々は練習不足でバラバラ。でも、みなさん若いせいか、だんだん慣れてきて、前の位置のベテランや反対側の他の団体の踊りを見よう見まねで何とか覚え、最後はちゃんとやっていた。踊り手は結構楽しんだのだが、問題は、新発田の街のお祭りであるということ。踊っている人はいいのだが、見物人があまりにも少ない。この町には何かが抜けている。
 
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 聖書の奇跡物語に多くの人が戸惑うのではないか。新約聖書はそうした奇跡に関する逸話が満ち溢れている。それらを、まるで、ゴミのように取り除き、史実と思われる部分や、道徳的な言葉を取りだしてそこに価値を見出せばいいのだろうか。それは違う。聖書の主張はまさに奇跡物語のなかにあるのだから。たとえば、5匹の魚と五つのパンを5000人に分けたという。これはいったい何だろうか。聖書には象徴やサインとなった表現が多く、その意味はこれらを知っていると知らないとでは大違いだ。聖書では魚は信徒、信仰、パンはこの世の糧やキリストの身体、葡萄酒は収穫、活力、血とかキリストの体などの象徴となる。また、ブドウの木は教会に連なる信徒などの印、結婚式は神との交わりを示している。ディズニーが、一匹の鼠から始まったという言葉がある。これは鼠といってもウォルトディズニーが貧乏生活時代に部屋に現れたネズミをモデルに描いたミッキーマウスであるが、物事の起源を語る表現方法の一つである。原始キリスト教時代、魚というのはキリスト教の象徴でもあった。これが十字架に代わるのは4世紀に入り、皇帝によるキリスト教公認後である。

 5000人の人々にたった5匹の魚と5個のパンで全員が満ち足りたという奇跡物語は3つの福音書に記されている。マルコ8章では4千人に8個のパンと僅かな魚、マタイ伝では5千人に8個のパンと魚となっていてその説明はかなり執拗である。神は常に福音を証明することにに必要なものを備えて下さる。素直に読めばそういうことになる。あるいは、精霊の働きが多くの聴衆におよび、全員が満足したと受け止める事も出来る。
 
 出エジプト記の砂漠で放浪中のユダヤの民の上に降らせたマナの雨然りであり、旧約聖書はそうした神の奇跡の歴史であった。新約聖書ではイエスによって多くの奇跡が行われ、その最重要のことが死人の復活である。新約聖書の記述には奇蹟と例え話、イエスの講話や行動の記録で構成され、そこでの聖書の奇跡物語は一見荒唐無稽のような表現が現代人にはあるが、信仰生活 、教会生活を長い間送っているうちに、成る程と思うことがあり、聖書の読み方にもかかわって来る。とにかく二千年前に書かれた本である。イエスのパンと魚の奇跡にはかなり丁寧で執拗である。まるで手品のように無かった筈のパンや魚が行き渡った。何を伝えよとしているのだろうか。神は常に福音を証明することに必要なものを備えて下さる。
 出エジプト記の砂漠で放浪中のユダヤの民の上に降らせたマナの雨然りであり、旧約聖書はそうした神の奇跡がえがかれた歴史であった。「明日の労苦は明日にて足れり。」神は全てを用意されている。何も恐れる必要は無い。聖書の中で語られる神の言葉は理屈抜きに我々を導く。アブラハムが故郷を離れるとき、また、ノアの箱舟然りである。イエスは漁師のぺ照りに告げる、「私に従ってきなさい。これからは人間を漁る漁師になる」という。いちいち理由は説明しないのである。

 神は我々に必要なものを準備し、与えてくださる。神との関係においてである。求めよ、さらば与えられんである。また旧約聖書の申命記には出エジプト後の砂漠における民にマナを降らせる神に、肉を食べたがる民の姿、そして自らの無力を訴えるモーゼの信仰の危機が語られている。聖書は人間の精神の歴史であり世界そのものである。人間の心の世界は聖書で全て語られている。

福音派では聖書を文字どおり解釈する人が多い。歴史的な出来事と主張するが、中には象徴的な表現としたり旧約聖書には神話に起源を持つ物語もあることは譲れない。それらは神と人間、私たちとのふれあい、霊的体験の不思議や感動を表現している。古代の人々、新聞もテレビも無い人にイエスキリストがその教えを伝えるには、奇跡やシンボルが必要だった。文章を読んだり、本の普及していない時代、どうやってキリストの言葉を伝えることができるだろうか。文字表現として我々に感動を伝えるこうした表現を受け入れなければ聖書を理解し、学ぶことは難しいだろうとも思う。

 しかし、聖書を自分で読み、解釈することは間違いや誤解が伴う危険がある。そこで教会は様々なメッセージで我々にイエスキリストの恵みとして神の心を知ることができるよう「礼拝」を組み立ててきた。さらに音楽や演劇、祈りの場など、そして教会建築が神のメッセージを伝える手段となった。 ヨーロッパの教会で行われた受難劇は今日の演劇の起源だし教会音楽、聖歌や讃美歌は現代音楽、黒人霊歌はゴスペルやジャズに発展した。何も聖書を正面から理解せずとも信仰に至る道がある。日本では黒人霊歌だと思われがちだが、実際はそうではない有名な曲もある。賛美歌第二編第164番の)「勝利をのぞみ」("Weshallovercome,')と第167番)「われをもすくいし」("Amazing Grace,,)である。「勝利をのぞみ」は公民権運動歌として1963年8月のワシ ントン大行進でも歌われた。白人フォークシンガー、ジョーン・バエズ (IoanBaez)の十八番であった。ケネディ大統領亡き後引き継いだジョン ソン大統領が連邦議会での公民権法をめぐる演説を“WeShallOvercome ll で締めくくった場面は、公民権運動を伝えるドキュメンタ'ノー・フイルム には誇らしげに使われている。「われをもすくいし」がかつて奴隷船の船長 であった牧師ジョン・ニュートン(JohnNewton)によって1779年に書かれたものであることはあまり知られていない

 キリスト教の根本は、神が愛という新たな律法を人間をすくうために、イエスキリストによってもたらされたということである。そして、キリストは十字架の苦難を経て復活した。神はそのひとり子をこの世にもたらされたという最高の愛を示された。この復活の信仰は古代のどの宗教にもなかった。もちろんユダヤ教も同様である。サドカイ派などは否定派の急先鋒であった。イエスは彼らと論争した。「もし死んだ兄弟の妻と弟が結婚したら、皆の死後、あの世でその嫁と兄弟はいったいどうなるのか?」とイエスに問いかける。イエスは、神は活けるものの神であるとその反論を一蹴した。「アウシュビッツで600万人のユダヤ人が虐殺された。この魂の復活はどうなているか?」と質問されたらどうするか。全く同じことが言えるではないか。こうした質問は単なる抽象論、あるいはひっかけ質問にすぎない。まともに答える必要はないのである。アウシュビッツで九死に一生を得た精神分析学者、フランクルは言う。「私の過去は今の私の財産である。私はそれでも人生にイエスと言う。Trotzdem Ja zum Leben sagen!」悲惨な過去に対する現在の自分への答えである。過去も未来も問題ではない。今の私こそ意味がある。未来の架空の話に対するイエスの答えと相通じるではないか。

 パウロは十二使途ではないが、その後殉教した。命がけでイエスの復活を伝えたのである。もし、復活がないとすれば、全く無駄なことを伝えようとしたことになる。もし、復活がなければ毎日楽しくお酒を飲んだりしていた方がましだとも言っている。イエスの復活が歴史的な出来事であったことが確かだとおもうことがキリスト教の信仰の柱である。復活のイエスを伝えることこそ教会の使命である。終末とは何か、そしてイエスキリストは永遠なのである。私たちの過去の負債はイエスの十字架によって帳消しになっている。そして、未来には復活の希望がある。だから勇気が生まれるのではないか。
 イエスは金持ちの商人にどうすれば天国に行けるかと聞かれたが、「あなたの全ての財産を貧しい人にささげなさい」それを聞いて商人は悲しい顔をして去って行った。その商人は明日が怖かった。
ペテロはイエスに従って網を打ったら網は魚でいっぱいになった。そんなによく取れるならばそのまま漁師になろうと思う人もいる。しかし、彼は目の前のイエスが神だと思ったから従った。目の前の神である主イエスを信じなかった金持ちの商人との差である。明日を恐れることはない。また、過去の自分の行為を悔いることも無い。未来も過去も神によって肯定されているかろこそ、私はそれでも人生にイエスと言う。Trotzdem Ja zum Leben sagen!」なのである。
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 長岡の花火大会のあと、車の渋滞がひどいとみて、小千谷に泊まる事にした。花火大会会場から出ようにも、全く車が動かない。観光バスが優先されて、駐車場から出て行く。一般車は渋滞で身動き出来ない。結局、高速に乗れたのは11時30分で2時間半かかった。小千谷の宿舎に到着したのは12時過ぎであった.

河合継之介・岩村軍監会見の場
慈眼寺山門と座敷
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 翌日は小千谷市内の錦鯉センターとか、物産館、そして河合継之助が官軍の軍監と会談した慈眼寺に行った。慈眼寺は同じ職場の課長の故郷ということで、ご両親に案内して頂いた。そこで感じたのは、これまで、河合継之助を開戦に踏み切らせた岩村軍監は、司馬遼太郎にいわせると、単なる軍事しか考えない、単細胞の将官で、河合継之助と人間のスケールも能力も違う、アホと捉えるむきが多い。河合継之助は正しく、岩村は悪という捉え方は小説の世界であって歴史ではない。しかし、当時の状況を推定すると、官軍の本隊はまだ新潟に上陸していない。長岡には新発田藩が態度を決めないまま、どちらかというと列藩同盟側で迫ってきた。後に新発田は官軍が大軍で新潟に上陸したことを知って官軍についたが、その時点では分からず、岩村の部隊は挟撃される危険性があった。そこで、長岡藩が「局外中立」ではいつ攻撃されるか分からない。岩村が長岡に武装解除して降伏することを要求するのは当然であったと思う。当時は、官軍につくか、列藩同盟側となるかしか道は無かった。それを幕府と官軍の間に立って、調停役を務めようというのには無理がある。岩村は長岡藩が守備の要所から撤退していたことを気づくことなく、河合を一方的に降伏か否かと迫った。
 河合は長岡藩の名誉をかけて、会津攻撃側につくことを拒否した。その為に、交渉は決裂、北越戦争は開戦となった。長岡藩は住民のことを考えずに街を破壊、砲撃した。そのために、戦場となった小千谷や長岡は戦火に焼かれ、住民は生活の術を奪われた。だから、地元としてはその後の山本有三が発掘した米百俵の逸話を誇りにするが、河合の評価は、むしろ何で、不要な戦争で住民を苦しめたのか、反発も大きいのである。
 会談の場であった慈眼寺に司馬遼太郎が訪れ、会見の場をや管主の話を聞いて帰った行ったのだそうであるが、彼の小説では、岩村が何とも悪く書かれている。司馬史観とかいうが、これはジャーナリズムのおべんちゃらであって、司馬遼太郎は、本の売れ行きを考えて、岩村を悪人に仕立てたかったのであろう。

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 自分が6月から住むようになった新発田市には自衛隊の駐屯地がある。この基地は新発田城の一部に立地し、明治以来の古い歴史がある。新発田の16連隊というのは、精強で有名であった。第2師団所属。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」であった。日清戦争からノモンハン、さらに大平洋戦争では中国戦線、ガダルカナルからインパールまで激戦地を全て転戦した。勿論多くの犠牲者が出た事であろう。軍旗は弾丸で縁の房だけになり、何度も取り替えられた。もっとも、越後の兵隊が強かったというのは、戦国時代からで、あの直江兼続で有名な天地人でも見られるし、上杉謙信の川中島でもその活躍は認められていた。新発田市は戦前は軍都として栄えた。村上や中条と比べて、料亭や盛り場が大きいのはその名残で、消費都市だった。だから今は取り上げる程の産業が育っていない。
 歩兵第16連隊の縁だけ残った軍旗
 
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 何も、こちらの人々が体格が良くて、ごつい感じという訳ではない。どこでも見られる典型的日本人である。自分は、新発田に来て何故ここの人が、それだけ強兵だったかを考え続けて来た。確かに、こちらは夏暑く、冬は雪、厳しい気候で、忍耐を要求されるが、食料は豊富だ。酒がうまく、人々の人情は都会よりあつい。互いに知らない間でも、出身地や学校などですぐに繋がってしまう。酒席は大いに盛り上がる。絆が強いのである。昔の軍隊は、地域の関係を利用して同郷で編成したから、自分だけ卑怯なことはできなかった。これは日本の軍隊共通である。鹿児島や熊本、東北地方の岩手、青森などの連隊も強かった。

 新発田16連隊の現存する木造兵舎
 
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8月5日北方文化博物館に行った。そこで、はたと気がついた。新発田や隣の聖籠町にも豪農の館というのがある。町には必ずと言って良いほど豪農の館が保存されている。その中でも、この北方文化博物館となっている伊藤文吉邸は豪華で大型である。
 
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 明治7~8年(1874~75年)に既に伊藤家は29ヶ村に122町歩余(122ha)を所有し、算盤と勤勉によって豪商の城を築こうとする五代文吉は明治10年(1877年)を過ぎる頃から広い屋敷を確保することを考えた。邸には土地五千数百坪(約18,000平米)が用意され、12年かけて完成された。材木とみかげ石の買い付けのために、会津・山形、遠くは秋田まで足を伸ばし、資材は、阿賀野川をいかだと船で運搬し、新潟方面からも材料が運搬された。現在、茶の間の廊下の上にある16間半(30m)の一本通しの杉の丸桁は、会津から雪溶けで水量の増した阿賀野川を利用して運ばれてきた。

 北方文化博物館に設置された農家 伊藤邸に比較して何と貧しいことか
 
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伊藤文吉邸</font>
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大きな勝手口と毎日50人の使用人がいた囲炉裏のある台所
大広間から見た庭園
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 そこで、はたと思ったのは、これだけの豪農がいたという事は、逆に、貧農もいたということである。農地を自分で開墾するばかりではなく、借金のかたに取り上げた農地もあった事だろう。そのために、豊かな土地に反して、多くの貧農がいたに違いない。彼等は、税金や、地代を払う為には労働力を期待して多くの子供を産む。ところが、土地は限られているから次男三男は出稼ぎとか、軍隊に入るしかない。豊かな地だが米を食べられない農民が多かった。米は、貴重な生産物だったからだ。悲しくも、彼等は軍隊には入れば白い米が食えると喜んで軍に入った。そして死んで行った。この土地の貧富の差こそあの豪農を生み、さらに多くの貧農の子弟が軍隊にいくしか食べることができなかった。

 だから、越後兵は強かったのである。大規模農地と酒にする程実り多き米。それを売買して豊かな農家はますます豊かになるが、それに反して貧しい農家も多かったに違いない。貧困こそ日本軍の強さの秘密であった。政府はこの仕組みを富国強兵策として利用した。伊藤家が資産を拡大したのは、むしろ明治以降なのである。だから、アメリカは農地解放で大地主を葬り去り、日本の生産体質を転換したのだ。戦勝国アメリカは何故あのような精強かつ凶暴な日本陸軍が生まれたのかを必死に研究した。その結果、行なわれた農地解放こそ、日本を骨抜きにする秘策であり、また、軍事力を減じる名案であった。この伊藤邸にもアメリカの将校が来て、建物を解体しようとしたところ、地主の伊藤文吉がアメリカのパンシルバニア大学卒業で同窓だったことが分り、急に協力的になって、保存されたのである。リベラルなアメリカだが、急に学閥に転じるところがアメリカの正体だ。そうでなければ解体されるところであった。それほど、アメリカは日本軍の強さの蔭に、これらを支える大地主と小作制度を敵視した。小作制度は廃止、独立自営農の国となった我が国、皮肉な事にこれが日本の高度成長の源であった。小規模農地で生産性の低い農業から若者は離脱し、都市に行き、大量生産製造業を発展させた。

 実はアメリカは小作農創設にはあまり関心が無かった。一方、アメリカはフィリピンの大地主を温存し、これが今日も産業の発展を拒んでいる事とは対照的である。農地解放は世界史上まれに見るー革命的改革だった。GHQがこの政策を歓迎したのは当時の食料事情である。そして、日本に共産主義革命が起きる事、すなわち、420万戸の小作農が農民組合など一大革命勢力になろうとしていたこと、戦争による欠乏に加えて敗戦の昭和20年が大凶作だったこと、などがあるようだ。GHQは日本の軍事力の源泉が小作農である事にも注目していたに違いない。政府主導で農地改革は断行された。それは革命を未然に防ぎ、生産性を上げて餓死を防ぐ、という当時の日本政府にとっては、何が何でもやらなくてはならない政策だったようだ。だから、GHQの影響力はもちろん無視できないにしても、戦後の政策の中では比較的に日本政府主導で行われた, 北方文化博物館ではこの歴史的意味には全く説明がない。農地解放で伊藤家はただの家持ちに過ぎなくなった。しかも、この邸宅を維持するのは困難になり、博物館と化した。これこそ、明治憲法からの大改革であり、日本の今日を定めたものである。世の改憲論者は一体この事をどう思うのだろうか。


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by katoujun2549 | 2012-08-12 21:49 | 国内政治
 

1.武道と審判
 ロンドンオリンピックの柔道が熱戦を繰り広げているが、シロオト目で恐縮だが、見ていて面白くない。というのは決勝戦も3位決定戦も、殆どが判定で勝負が決まる。投げ技の妙味は無い。とにかく駆け引きばかり。しかも、審判が、なかなか注意をしない。逃げ回ったり、攻撃の色を見せずに、カウンターや返し技で積極派を抑えている。

 柔道はレスリングと同じ競技になりつつある。レスリングは女子が奮闘してテレビで応援したが、日本選手が活躍しなければ見る気はしない。ゲームとしても全く面白みが無い。フォールするまで戦えばいいのだが。競技時間を倍にしてへとへとになるまで戦わせればフォールできるはず。
 日本選手は真面目に攻撃するが、空回り。そこを返されたり、逆を取られて初戦でメダル候補が敗退する始末。柔道というのは相手の力を利用して、心の隙とか、敵の技が尽きたときに攻め勝つというのは定石だが、審判がその兆候を上手く捉えないと、凡プレーが続出する。見ていて審判が場を盛り上げようとしていない。その結果の判定だから信頼感が出てこない。消極プレイを放置する感じすらある。おまけに決勝で判定が覆される有様だ。恐らく、各国の審判の技量がまちまちで、しかも、その差を無視して、各国から均等に審判が選出されるからだろう。オリンピック柔道は武道ではない。このことを忘れてただの商業スポーツのように観戦してしまうから始末に負えない。テレビのタレントのおべんちゃら、そして技量が二の次になっている。

2.武の心を忘れた日本柔道の末路
 剣道がオリンピック種目になっていないのは全くハッピーだ。そもそも、篠原の攻撃柔道というのが疑問符。柔道のみならず、日本の武道は攻撃に対して逆を取ったり、出ばなや返しの技で効果を取る技が多い。実際、外国選手は、猛然と攻撃ばかりを繰り返す日本選手を返し技で仕留めている。連中の方が武道を理解している。篠原はじめ、選手強化に当たった幹部はアホとちゃうか。大体篠原はオリンピックでも金を逃している。

 日本は柔道の元祖だが、今や柔道は世界中で多くの選手が育っている。ブラジルとか、ハンガリー、オランダなど、これまで韓国が日本の地位を脅かそうと遮二無二勝ちにこだわった試合をしていたが、これもなかなか通用しなくなってきた。ロシアだけではなく、ドイツ、イギリス、フランス等の選手が日本のお家芸という感覚や恐れを全く持たずに堂々と戦う。時代が変わったのだ。もう一つ選手層の厚さが違うのではにないか。自分の周りで、柔道をやっている子供を見たことが無い。仕方が無いから学校で武道を正課にすることになったが、全くの逆効果だろう。武道は優れた指導者においてのみ一流選手は育つ。中途半端な体育の先生がにわか仕込みでは全く話にならないどころか、武道嫌いが増えるだけである。学校教育ではなく、個人のクラブ制を育成し、柔道教師がきちんと生活して行ける道を作ることから始めなければならない。

3.悲しいマスコミの無知ー選手がかわいそう
 
 マスコミは金メダル候補選手を自分で勝手に作り上げて、選手に圧力を加えるのはやめてもらいたい。軽量級は体格も小柄で、デブは少ないから、何かとタレント性が強調されて日本の選手を国内だけで評価して現実の厳しさを報道しなかった。ただの野次馬根性でタレント、特に、松岡とか中居を使ってはやし立てるのは、単なるオチャラケであってマスコミの悪いところしか出てこない。武道はアミューズメントではないのだ。

4.日本柔道の将来を悲観する

 体力的にも優れた連中が日本人よりも多くの選手層を持ち、熱心に練習すれば自ずから結果は明らかだ。日本の柔道人口はフランスの十分の一という。だから、日本の柔道はウィンブルドン現象なのであって、今後10年以上金メダルにはお目にかかれないかもしれないのである。柔道を普及するためには学校教育では無理だ。子供の人口がこれから半分に減る。子供たちへの期待は過剰である。学校が全てのニーズに応えるのは無理。いじめ問題も元はと言えば家庭や地域の子供の教育放棄に問題がある。教師を過重労働に追い込んでいる中、余計な仕事を与えても、効果はないだろう。文部官僚が何でも手の届く、自分の権力が及ぶところにしか金を出さないようでは先が思いやられる。



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by katoujun2549 | 2012-08-02 00:59 | Comments(0)