<   2012年 07月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 2011年は辛亥革命100周年であった。昨年香港映画1911にもなってジャッキーチェンが軍事部門の指導者であった黄興を演じて話題になった。中国の革命家たちが日本の民族主義、そして、日露戦争に勝利した日本の近代化政策に触発されていたことは明らかだ。そして、内田良平の黒龍会、玄洋社の頭山満や萱野長知、キリスト者宮崎 滔天といった大陸浪人達が、辛亥革命を物心両面から支援してきた。日活の創始者梅川留吉、政治家の犬飼 毅などの存在が孫文の活動を支えた。このことは映画では全く触れられていないし、多分中国の歴史においてもあまり表には出しにくいことなのであろう。

 第一次革命が成功する前、日本に亡命滞在し、支援を求めていた当時、孫文は、革命成功のためには満州を日本に譲ってもよいとまで言っていた。これに刺激された内田良平などは、領土的野心を露骨に抱き、後に彼が中国で最も屈辱的といわれる、対華21カ条要求の素案を作ったといわれている。この条約は後に5.4運動として、排日機運をもたらし、中国との関係のみならず、日本を侵略国家とする理由になった。孫文の領土問題に対する見解がどのように変化したのだろうか。21ヵ条は実は当時の袁世凱かが提案してきた取引内容でもあったのである。このあたりが、ナチスドイツの侵略、特にバルバロッサ作戦などと同列に扱われることは残念である。何も日本は欧米のように、最初から侵略を計画していたのではなく、日露戦争後の利権政策でもあった。いわゆる東京裁判史観では、この条約から日本は侵略国と位置付けられてしまう。
 
 全ての満州浪人が領土に対する利権の考えを持っていたわけではないが、彼らの考え方が軍部にも影響を与え、次第に日本の中国侵略に正当性を与えるきっかけになった。北一輝は陸軍の青年将校に影響力があった。このことは王柯編「辛亥革命と日本(藤原書店)3民権、国権、政権ー辛亥革命と黒龍会」に詳しい。彼らは清朝を崩壊させ、中国を近代化することが日本の利益にかない、また、満州を大陸経営の基盤とすることに国益との一致を見たのであった。孫文は辛亥革命を成功させるために日本の支援を求めていたが、当時は一介の革命家であった。彼が中国で頭角を現す過程では宮崎らの協力が大きかった。孫文は日本に対して本心から感謝していただろう。とはいえ、領土問題を何も政府に言っていたのでもなく、日本からの支援を得るための便宜的発言であった。それに対して、頭山などは彼は売国的と非難していたくらいである。孫文は、第一次辛亥革命が成功、臨時大統領になるとすぐに、中国の領土定義において清朝の領土を継承することを宣言した。個人的な意見から、大統領としての主張には大きな方針変更がある。そのことに対して内田は孫文と決別し、満州国の立役者であった川島速波と結託し、満州分離政策を推進した。


 孫文が満州を日本に譲ってもよいといったことは一時期の革命派の意見であった。孫文自身の記憶にも根強くあったと想像できる。彼は革命後、袁世凱に大統領の地位を譲ってしまった。そして、袁世凱は革命派との妥協のために、国内紛争が続けば満蒙を日本に取られることを訴え、これを材料にして大統領の地位を得た。賢い孫文はこれを見通していたに違いない。その後、孫文は領土を条件に日本政府の国家承認を得ることに反対した。ただ、彼は1911年、記者会見で満蒙の現状に対する質問に答え、蒙古は必ず領土回復すると言っているのに、満州に関しては言及しなかった。これは革命派が満州に関しては領土としての認識が薄かったことを示してはいないだろうか。辛亥革命前は、とにかく満州族の清朝を倒すことに全精力を注いでおり、中国とは18省であると革命派は考えていた。しかし革命後は、袁世凱をはじめ多くの主張をまとめる都合もあり、満州を領土とすることに方針転換したのであろう。1911年、革命が成功すると孫文はあっさり、中国は22省に分かれ、蒙古、新疆、西蔵が加わることを言及している。1912年1月1日孫文は中華民国の建国を宣言し、南京での臨時大統領就任にあたり、国家の基本は人民である。漢、満、蒙、回、蔵の諸地方を一つにして一国家とすると宣言したのであった。孫文は、満州族から漢族の手に政権奪還を果たしたのだから民族の統一を果たしたと考えたのである。1919 年に起きた5・4運動は反日反帝国主義運動であり、これを機に共産党が台頭してくる。パリ講和会議で日本の対華二十一箇条要求が承認されたことに反対し 、政府にベルサイユ条約の調印拒否を約束させたのである。辛亥革命の成果に対する日本の貢献はこれで無に帰したといえよう。

 孫文と日本の親密な関係は5・4運動以降冷える一方であったし、日中戦争を経て太平洋戦争において取った日本の帝国主義的行動は、全く正当性を欠いたものであった。このことは満州事変から始まる日本の中国侵略のきっかけになり、東條英機などの軍人が中国人をチャンコロという侮蔑的な発言をするようになり、軍部をのさばらせ始めた。歴史は、様々な局面があり、時の流れとともに変化する。一点だけをとらえて自らを正当化することは正しい歴史認識とはいえない。軍部はドイツの人種政策にも共感し、ファシズムとみなされても仕方ないほど、全く弁解の余地がない。今の右翼たち、石原慎太郎などがのたまう、太平洋戦争肯定論などは歴史の反省を無視したものである。日本と中国の不幸がそこにある事を忘れてはならない。

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新潟から新発田は白新線というローカル電車で、新潟から30分、さらに村上まで40分ほどで行ける。この白新線というのが、時間通りに動かないことが結構ある。強風の時は必ずダイヤが乱れるというか、1時間くらい遅れたり、運航中止の時もある。学生は佐々木という駅にスクールバスが来るからココから乗降するが、自分は西新発田という小さな駅の方が便利です。時々無人になって夜は切符を放り込むだけ。先日、時間通りに駅に行ったが、ちょっと遅れたため乗り遅れそうになったが、何と、結構停車時間が長く、待ってくれていた。乗り遅れると40分も待たないければならない。有難いことだった。文句ばかりではない、感謝しつつ電車に乗りました。駅の反対側は田んぼ、表側はイオンのショッピングセンターがそびえている。なんとも奇妙な風景、シュールだね。
西新発田駅前に広がる田園
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西新発田の駅前とイオン
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  新発田に来て50日、この町のことが少しづつ分かって来た。新発田は溝口家が上杉に代わってこの地に入って280年、古い城下町である。城下町というのは道路が複雑だと言うのはよくあることで、この新発田も例外ではない。それは、城を中心として、放射状の道が少ない。城に向かって行き止まりになる道、あるいは突き当たりのT字路が多い。道路に面して、間口が同じ幅だから似たような大きさの家が続く。そんなことから、結構道に迷う。目印になる建物に向ってまっすぐに行く道がないから、急にその目印が消えてしまう。目的地が突然目の前に現れたりする。自分も一度道に迷って家に帰るのに1時間もかかってしまった。それは、たまたま、初めて西新発田の駅から、駅前のイオンで自転車を買って帰ろうとしたときのことである。夜だったこともあって、これまで学校から家までの道と家から西新発田駅までの道しか知らなかったのに、西新発田駅から帰ろうとしたのが災いした。街路が暗い上、昼間は見える遠方の目印が暗くて見えない。道路は旧市街と違って広くて立派だが、区画整理地のため、似た様な風景が多く、家並みも似ている。ぐるぐる回っているうちに突然自分の家が現れた次第。

 新発田で人気があるのは堀部安兵衛で、新発田の人は四十七士が大好きだ。それから大倉喜八郎も新発田の人。ホテルオークラと大成建設は彼の創業した企業である。今の東京経済大学(大倉高商)も彼の創立。戊辰戦争で新発田が奥州列藩同盟と新政府軍のどちらにつくか揺れているときに両方に武器を売って大もうけをした。それから、人気はないがあの、無政府主義で有名な大杉栄もこの地で幼少期を過ごした。彼曰く、東京から久しぶりに新発田の駅に着いて町を見たがあまり発展していないのでがっかりした。この町の商人は新潟の仲買人から何でも仕入れて利が薄い。富山や他県の商人が京都や産地に直接行って仕入れているのにのんびりと手近なところで満足しているから大きな企業に育たない。と嘆いている。これは今日も同じかもしれない。新発田で儲けているのはイオンでこれは四日市のジャスコだし、最近台頭しているハードオフ(ブックオフの大株主)は新発田に本社があるが、これは実は中条の出身である。新発田が発祥で大きな会社は無いのである。大杉栄は新発田では全く人気が無く、彼が何だか知らない人も多い。大それた野心がなく、何事もこじんまりした、コンパクトシティである。これも今日進みつつある未来の日本の姿かも。若干さびしい感じもある。

 それから、もう一つ気がついたのだが、イオンに何度か買い物に行くうちに、来ている買い物客の姿が皆同じ姿に見えるのである。もちろん顔は違うのだが、雰囲気が皆似ている。子供も、大人も、年配者もである。感心することに、ここには若い人、子供も沢山来ている。何故かと思ったのだが、最近分かった。要するに、この店に来ている人は、洋服をイオンで買っている。大体、3000円くらいの品物が多いのだが、すっかりイオンファッションになっているということである。なるほど、田舎といってもイオンにくれば何でもそろう。スタバもある。しかし、選択の余地が無いんですね。要するに,田舎というのは今や情報も商品も東京並み。山田電機もK’s電気もある。しかし、ファッションも何でもここで揃ってしまう。商店街はシャッター通り。結局何でも大型ショッピングセンターで買う癖が付いているからそこのファッションになる。ウオロクファッションもあるのだろうか。そういえば、ウオロクに買い物に行くと出会う敬和の外人講師がいるが、なんとなく服装がバーゲン風でキリッとしない。彼はウオ六大好き人間だと言っていた。神戸ファッションとか横浜ファッションとかいうのも住民がその街のショッピングで皆が楽しんでいることからくる。そうした現象でしょうね。
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 シャッター通りを歩いてみると、興味深いことに、洋服屋さんや呉服屋がやたら多い。それから和菓子屋さんも。こんなに多くてやって行けるのだろうか。いっそのこと、新発田を和服とお茶菓子の町で売り出したらどうだろうか。何といっても新発田は喫茶店よりお茶屋がいい。ドトールやタリーズが寄り付かないのだが、これはイオンと同様どこの都市にでもある。町の特徴を出すにはお茶屋さんでコーヒーとお菓子というので連携した方がいい。街を歩くには和服が一番ということで町中が協力する。そして和服を着た人々、町中が和菓子屋さんでお茶を飲んで語らう街というわけ。
 
 それから、とにかく車が多い。やたら車が道を絶え間なく疾走する姿はアメリカにいる感じ。そして、バイクは全く見ない。自転車も朝中学生や高校生が載っている程度、そして軽4とワンボックスカーがほとんどである。長い雪に閉ざされた季節が全てを決めているのだろう。とにかく、外車、ベンツやワーゲンはほとんど見ない。冬は雪だし、狭い道もあるからその方が良いんだろうが、車は下駄と同じで実用品だから嗜好にあまりこだわらないのかもしれない。飲み屋で女の子が車の話をしていたのを聞いたが、都会ならスポーツカーとか外車の話だが、軽四の話だからね。これも田舎ということかなあ。悪口みたいになったが、結構皆のんびりしていい街なんです。映画館がない代わりにツタヤとかゲオがある。周囲にはほんの20分もするとやたら温泉がある。人情も豊かな感じだし。気に入っている。

 
白新線列車の内部:何となくアンニュイな雰囲気
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白新線阿賀野川鉄橋この川は大きい
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 辛亥革命から100周年を記念する歴史映画であると同時に、ジャッキー・チェンの出演映画100本目となる作品だという。こんな映画が中国で作られたことは全くの驚きだ。香港は共産党支配の中国とは多少言論の自由が保障されているとはいえ、中国政府がこれを認めたとは一体どういうことだろうか。もちろん、現政権も孫文の偉大さを認めており、中国最初の元首としての孫文を最大の敬意を持って扱っている。例の重慶での政変、毛沢東崇拝の市長が失脚、逮捕されたことはそうした変化の象徴である。
 多分、今の中国では毛沢東はスターリンと似た扱いなのであろう。この映画は中国、清代末期から辛亥革命の時代を孫文、黄興が率いる中国同盟会の視点からとらえた作品である。1911年の武昌蜂起から、1912年に孫文が中華民国臨時大総統を辞任するまでの時期、腐敗した清王朝が崩壊し共和制を樹立する歴史を描く。孫文は神格化されているから、そのパーソナリティはあまり面白みがない。むしろ、北洋軍閥の袁世凱が生き生きと描かれている。もちろん、ジャッキーチェン演じる黄興はスーパー軍人として、革命の軍事を担った人物として大活躍である。戦闘でも、また、本当かどうか分からないが、カンフーの達人ぶりも、孫文暗殺者を叩きのめす超人ぶりである。この映画で、日本人の名前として、孫文崇拝者として宮崎滔天の名前が出ていた。孫文の妻である宋慶齢は出てこなかったが、これは第一次革命であり、第二次からは袁世凱との戦いになる。北洋軍との戦いでは革命軍は敗れ、孫文は日本に亡命した。その時に宋慶齢と結ばれたのである。
 
 それにしても、当時の日本からは孫文は最大の支援を得ていた筈である。そのことは全く触れていない。この映画ではしっかり、軍の役割が重要であることを強調しているあたり、今の人民解放軍へのサービスと考えられる。革命には軍事行動が不可欠ということである。孫文が、武力ではなく、外交と言論によって革命を成し遂げようとした影には軍事がこれを支えた、その立役者が黄興であると言いたいのである。
 革命と言えば、これまで、毛沢東一辺倒であった。中国の革命観が変わったのだろうか。この辺の事情がまだ良く飲め込めない。今の中国が、共産党独裁と資本主義の二路線を取り続けるには、孫文を持ち出さざるを得ないということである。そして、人民解放軍の存在を何とか合理化したい。そのための政治的な魂胆が見え隠れする映画だが、作品としては中国でなければ撮れない映像がちりばめられており、見応えのある映像である。清朝が瓦解するときの紫禁城内部の様子が興味深く描かれている。また、彼らの食事シーンが何とも生き生きとした雰囲気を醸し出している。
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 日活を創設し、実業家として手腕を振るった梅谷庄吉の伝記である。日比谷公園にある松本楼の常務である著者はそのひ孫にあたる。梅谷庄吉の養女の千世子は著者の祖母である。その祖母が残した文献には梅谷庄吉と、昨年百周年を迎えた辛亥革命の父、孫文との交流記録が詳細にわたり残されていた。それをまとめたものがこの本である。孫文が辛亥革命の父であり、中国という国の創始者であったことは現代共産党支配中国も否定できない歴史である。梅谷庄吉の当時の活動は日本の映画史でもある。日活という会社が「日本活動写真株式会社」であり、梅谷庄吉は必ずしもこの経営に成功していない。しかし、日本の映画が近代的企業となるきっかけを作ったのである。彼の制作した記録映画、白瀬南極探検隊は日本の映画史に残るもので、自分もこれを見たことがある。彼は、孫文の革命支援に多額の資金を、この日活の資金も使ったに違いない。そうした不透明なところを批判されて日活を辞した。

 その孫文は、当時の日本の知識人や政治家とも親しくなり、また、多くの援助を得ながら辛亥革命を成功させた。孫文が革命中に日本に亡命していたことは有名な話で、鎮西学院卒のクリスチャン宮崎 滔天や頭山 満などが親交があり支援した。しかし、この梅谷氏が財政的支援を始め、もっとも強力な支援者であったことは歴史の中に埋もれていた。何と、あの宋慶齢と孫文の結婚式は、梅谷庄吉の自宅で行われたのであった。梅谷の妻が仲を取り持ったのである。第二革命が失敗した後多くの革命の志士が日本に亡命してきた。中国革命の中心には多くのクリスチャンがいた。孫文も、その妻となった宗慶齢もキリスト教徒であった。孫文は革命の中で、最初からリーダーだったわけでない。多くの志士たちがいたが、その人格と指導力によって次第に頭角を現した。彼あってこそ革命が進むところまでこぎつけるには、宋慶齢や梅谷庄吉などの支援があったからであり、この本においてそうした秘話が語られている。

 孫文は「革命今だならず」という名言を残してこの世を去った。孫文の妻の宋慶齢の妹が宋美齢で蒋介石の妻であった。孫文が作った士官学校の政治部副主任が周恩来であったから、周恩来が日本との国交回復に熱心に取り組んだ理由が理解できる。辛亥革命の最終段階は、軍閥との戦いであり、その中心の袁世凱との対決であったが、孫文はこれに勝利する。しかし、孫文の死後、ロシア革命の影響から力を得た共産党と国民党の対立は、孫文の心を痛めた。孫文は58歳で肝臓がんでこの世を去る。日本の中国進出と、毛沢東の共産革命の前夜はこのようにして日本と中国の緊密な関係があったことをこれまでの歴史は語らなかった。2008年胡錦濤は松本楼を会場とする福田康夫首相の私的夕食会で孫文が残した記念の資料を見て、中日友好世世代々と記帳された。実はこのことを最も知っているのは中国なのである。

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 iPs細胞による発生レベルの医療技術が期待される時代である。生命の誕生にも迫ろうという科学技術の進歩は、医療にも大いに貢献している。医療の最前線は分子生物学の進歩により開発された癌治療や先端機器を駆使した外科的技術のように見える。しかし、全体を見渡して、治療技術の進歩が病気との闘いにどこまで成果を上げているのだろうか。先日、新聞で老人ホームにおける結核集団感染の報道があった。かつては死の病といわれた結核であったが、戦後、抗生物質の発見、普及で患者は激減した。1950年に12万人だった患者は2000年には4万人、04年で3万人。人口10万人当たりで平成10年で18.2人だ。ところが、これは欧米との比較ではアメリカが4人、ドイツが5人ということで、日本は結構多い。患者の50%以上が70歳以上の高齢者ということが特徴で、高齢者の多い日本はその分比率が高くなる。ストレプトマイシンや結核予防のための早期発見、ツベルクリンなどの努力で若い人の感染者は減っている。しかし、近年耐性菌が登場し、抗生物質が効かなくなっているという。ペニシリンの効かない耐性菌、バンコマイシン耐性腸球菌(VRE:バンコマイシン・レジスタント・エンテロコッキー)により、バンコマイシンが効かないメチシニン耐性菌MRSA、黄色ブドウ球菌や緑膿菌が病人や高齢者を狙う。
 
 人類の細菌との戦いは、勝利に向かっているかのように見えた。19世紀初頭のジェンナーによる種痘の普及で天然痘は制圧され、今は研究所の冷凍庫の中にその株が眠っている。歴史的な悲劇を引き起こしたペスト、また、コレラなども流行を防止することに成功している。戦後流行した小児まひ、ポリオ菌も制圧され、今は生ワクチン接種者が運悪くワクチン活性化のため感染する他はこの世に患者はいなくなった。こうした成果が幼児死亡率の低下に貢献し、平均寿命を伸ばすことに貢献した。19世紀までは、人間が成人するまでに同年代の出生者の半分以上が死亡していたというきびしい状態が続いた。だから、成人や元服というのは誠におめでたいことなのであった。戦争で死ぬ恐怖もなくなった現代の若者の死生観を大きく変えてきた。
 
 ところが、先ほどの耐性菌をはじめ、人類は21世紀に入り、新たなウイルスの攻撃にさらされるようになった。鳥インフルエンザなど、次から次へと敵はDNAの構造を変えて人類に挑戦してきている。さらに、抗生物質の効かない耐性菌の登場である。古典的な伝染病であるマラリアも今だに克服出来ない。毎年アフリカなどで全世界で100万人以上が命を落としている。胃がんの死亡率が低下している。これは早期発見やピロリ菌の影響がわかり、初期治療に効果を上げた。しかし、大きくみると、実は電気冷蔵庫の普及の影響の方が貢献しているという説がある。電冷蔵庫がない地域は塩漬けの食品や、塩分の摂取量が多く、発がんの確率を高めているというのである。
 医学の進歩で制圧した病気の種類はそれほど多くないのである。では病院はどうだろうか。

 第二次世界大戦以前は病院に入院するということは死にに行くようなものであった。入院したら帰って来れない。特に結核が死病だった時代、日本の病院はそうであった。今ではお産はもちろん、ちょっとした風邪などでも病院に行くようになった。日本では戦前の病院、特に大学病院は「富国強兵策」から生まれた軍事組織のようなものだった。象牙の塔なる雰囲気もここから生まれたのだろう。
実際、急性疾患や伝染病は別だが、今でも、必ずしも、病院で病気が治っているわけではない。慢性病、生活習慣病は生活の中で治すしかない。手術とか検査は病院でなければできないが、治療に関しては病院より自宅で行うことの方が多いし、環境次第ではその方がよい。病院は院内感染の危険もあるし、いろんな病人があつまっているから衛生的にも良くない。また、夜は救急患者が飛び込んできたり、痴呆の患者がわめいたり、静かな環境ではない。治療環境として医師や看護師が近くにいるくらいのメリットだけである。もちろん在宅訪問医療は必要である。入院は患者のためではなく家族が助かるという事情もあるだろう。だから、長期入院した患者はわかっており、在宅を好む。病院で病が全て治るなら、人間は入院しさえすれば永遠に生きてしまう。そんなことはないのだ。近年、胃がんによる死亡者が減少しているが、これは手術や早期発見の効果とも見えるが、実際は電気冷蔵庫の普及で、塩からい食べ物を食べなくなった事の方がはるかに影響があるという。冷蔵庫によって塩漬けの食べ物が減り、がん遺伝子の発現が減ったのである。

 とはいえ、近年、患者の苦しみを和らげたり、手術の苦痛を感じさせない工夫、痛み止めなどの進歩が大きい。延命技術などは格段の進歩である。癌の緩和ケア、出産などはその代表例である。モルヒネの進歩、手術の精緻化など、戦争による傷病者の治療が大きく貢献した。今や、大腿部に拳が入るほどの穴があいても足を切り落とさずに治療できるという。これは第二次世界大戦やベトナム戦争、アフガン戦争といったアメリカのしでかした度重なる軍事行動のおかげである。残念なことに、今なお、そうした外科治療技術は進歩し続けている。

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 新発田市は新潟から白新線で約30分ほどの位置にあり、豊臣秀吉の時代から続く城下町である。明治維新後は、師範学校や勇猛で知られた陸軍16連隊の駐屯する軍都であった。自分が6月から勤務する敬和学園はその新発田市の西のはずれ、聖籠町と接した位置に建てられた大学である。付属高校は新潟市で隣の北区にある。

 新発田城は市の観光遺跡の中心である。そもそも新発田は、溝口家を城主とする町であった。新発田藩10万石が豊臣秀吉の時代以来280年間も治めてきた。初代藩主は溝口秀勝。秀勝は上杉家が会津に移封された後に、越後の藩主となった堀氏の与力として加賀の大聖寺4万4千石から移ってきた。関ヶ原では徳川方につき外様ではあったが6万石、後に新田開発などで9万石を増やし、一部幕府に召し上げられたが最後幕末では10万石の大名であった。当初は上杉の領地だったところに、家臣50人ほどで乗り込み、治水や新田開墾の努力を続け、10万石にまで育て上げた手腕はなかなかのものである。土地が米作栽培に向いた風土があったことも幸いしただろう。忠臣蔵で有名な堀部安兵衛は新発田藩家臣、中山家の長男であった。また、解体新書で有名な杉田玄白の父親も新発田出身である。

戊辰戦争の時は奥州列藩同盟に一時は加わり、長岡藩の政府軍との戦いを支援したが、政府軍主力が新潟に上陸すると態度を一転、同盟軍に加わらず、政府軍を迎えた。機を見て新政府軍に合流、庄内、米沢、会津藩と戦った。一時は旗色を鮮明にしないことに怒った同盟軍に新発田城が包囲された。藩境では会津軍と戦ったが、このあたりの変化の読みといい、すぐれた経営手腕であった。しかし、奥州列藩同盟側からは新発田は裏切りとみなされ、その後も、新発田の負い目のようになった。この戦いで大もうけをしたのが大倉財閥のもととなった大倉喜八郎である。

 隣接の村上藩は同盟側だし、長岡も政府軍と戦ったから、新発田は周辺からは裏切り者とみられた。しかし、当時の判断としては、結果的には賢明であったが廃藩置県後は何も得るものはなかった。。明治に入っては軍都として、16連隊が駐留し、また、もともと学問の盛んなところで、師範学校もあった。今は新潟大学に吸収されている。新発田は地方都市として、戦火を免れ、美田の多い、経済的にも豊かで学問の盛んな地域であった。そんな土地柄であったから、閉鎖的で外の人間はなかなか馴染みにくいとも言われている。連隊長の子弟であったのが大杉栄である。江戸時代の武士のモラルである「義」を失ったかもしれないが、政治的には農民や町民を大切にした藩政は間違いではなかったと思う。武士の時代は終わったのだから。

 6月から新発田に来て2か月になろうとしている。最初困ったのだが、道路が覚えられない。
城下町というのは道が入り組んでいる。実際、よく似た街並みがあり、道を間違えると何度も同じ道を回ってしまう。旧市街はわざと道が入り組んでいるといわれているが、旧市街はそれほど苦労なく覚えた。ところが、新しい西新発田町がけっこう難しい。道路が区画整理で立派だが特徴がない。また、微妙に方位がずれている。いつもは車や自転車で通る道が、方向を失うと大変である。夜、西新発田のイオンから家に帰ろうとしたら、結果的に1時間も徘徊してしまった。夜になるといつも見えていた目印が見えない。さらに、道が暗く、似たような道路、コンビニ、住宅の外見が続く。まったくもってこの年になって初めての経験であった。
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日本国憲法―平和憲法は押し付けではない。

昨日、NHKの番組 石橋湛山と、民本主義の吉野作造について特集を組んでいた。誠に感ずるところの大きな内容であった。Eテレ特集シリーズ「日本人は何を考えてきたのか」第六回大正デモクラシーと中国・朝鮮である。姜尚中氏(東大教授)松尾尊充(京大名誉教授)増田弘(東洋英和教授)の対談もよかった。
 
 日本の右翼、国士ぶった石原慎太郎や桜井よし子などが憲法改正をしきりに唱えて産経新聞などを読むと、明日にも憲法改正案ができそうな論調だが、とんでもない話だ。今の日本国憲法に関しても自由民権運動以来の長い話がある。彼らはマスコミを使って、大した憲法知識もないのに、やたら発言している。要するに、憲法第九条と天皇陛下の地位に関する部分を目の敵にし、小学生も知っている民主主義や基本的人権が憲法によってどれだけ守られてきたかに関しても批判の矛先を向け、たたきつぶそうと画策している。彼らは人間的にも偏屈な人々で、つまらないことにこだわる連中だ。領土問題などその典型で、彼らはこのことが国民感情を刺激し、勇ましい発言をすると人気が上がるのを知っている。近隣との境界問題とか、電車の中のマナーなどでエキセントリックになる人がいるが、その類だろう。 さらには、自己主張の強さに反比例して他人の心を踏みにじることには鈍感だ。石原都知事の横柄な発言を見ればわかると思う。人間の自由とか、人権という感覚が希薄なうえに、やたら攻撃的な論調で自分の存在感をアピールし、本の売り上げを伸ばし、金を儲け、権力を手にしようというえげつない連中である。

 我が国の憲法は日本がどん底の時に作られた。当時は幣原喜重郎が首相の時、終戦処理ということともあり、マッカーサーの顔色をうかがいながらの情けない状態の日本であった。そこで日本政府は、政府として正式に憲法に関する調査研究を開始することとし(担当大臣は松本烝治国務大臣)、同年10月25日には松本を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置した。ところがその案は 保守的かつ理念がお粗末でマッカーサーらGHQには全く相手にしてもらえない、情けないものであった。その前に、鈴木らの憲法案がGHQの賛同を得ており、彼らの作業は既に始まっていたのだ。政府はそのことが癪で仕方がないから、こうしたことをひた隠しにしたのかもしれない。官僚というのは執念深く、女の腐ったようなところがある。

 石橋湛山は日蓮宗身延山の高僧久遠寺83世法主のもとに少年期を過ごしたのであったが、甲府中学(現甲府一高)時代に校長の薫陶を受けたことが、後の自由主義的な発言や行動の原点であった。その校長大島正健はクラーク博士の札幌農学校の一期生であった。だから、石橋湛山が、甲府一高の学生に揮毫した言葉は、墨で書いた「Boys be ambitious!」であり、いかにその影響が強かったかが分かる。また、石橋湛山は日中国交回復の礎となった活動を田中角栄の外交の前に行ったのであり、田中角栄はそのことを訪中前に既に病床にあった石橋を訪ね敬意を表し、当然このことは中国での周恩来との会談においても触れていた筈である。日中国交回復の時に、井戸を掘った人というのは石橋湛山であり、日韓平和条約のときは吉野作造である。

 吉野作造は民族自決という第一次世界大戦後の世界の流れを敏感に察知し、朝鮮半島や満州の日本の政策を批判、朝鮮の3.15運動に関わった韓国人と深く親交を続けていた。吉野作造の民本主義は、戦後、我が国の新憲法作成に花開いた。その弟子である鈴木安蔵博士がその後継者であった。
東京大学教授の鈴木安蔵が、日本の敗戦後、GHQに対して、日本側の憲法案を提案し、その骨子に賛同を得、骨子を取り込んだ形で、新憲法が作成された経緯を何故、マスコミは国民に明らかにしなかったのだろうか。今回のNHKは大ヒットである。彼は、自由民権運動の植木枝盛の研究、世界の憲法を比較研究し、当時の日本では、もっともリベラルな意見を持ち、平和日本にふさわしい提言をまとめた。占領軍は何もない状態からあの短期間で日本国憲法を創案したのではない。
日本国憲法を占領軍の一方的な押し付けであり日本国民の自主性が無視された形で成立したかのような主張が、近年の改憲論者においてまかり通っている。とんでもない間違いである。これには悪意すら感じてしまう。

 日本国憲法発布を当時の国民は歓迎したのみならず、この骨子は、明治時代から連綿と引き継がれた、自由主義、主権在民の考えを反映したもので、世界の憲法においても優れた見識を示すものだった。戦後まもなく鈴木安蔵を中心として、高野岩三郎、森戸辰夫ら戦争中弾圧を受けた民間人による「憲法研究会」が作成した画期的な憲法草案が、実はGHQが憲法案をつくる際のお手本となっていたという事実を何故か表に出そうとしないのが政府であり、右翼どもである。確かに、鈴木安蔵はマルクス主義であり、彼らとは相いれない部分があり、自分も意外であったが、その根本的な部分、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という基本原則は借り物ではない。

Wikipediaによると
この案が新聞に発表された5日後の12月31日には連合国軍総司令部(GHQ)参謀2部(G2)所属の翻訳通訳部の手で早くも英訳され、詳細な検討を実施したGHQのラウエル法規課長は、翌年1月11日付で、「この憲法草案に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と評価し(1959年にこの文書がみつかった)、翌1946年1月11日に同案をたたき台とし、さらに要綱に欠けていた憲法の最高法規性、違憲法令(立法)審査権、最高裁裁判官の選任方法、刑事裁判における人権保障(人身の自由規定)、地方公務員の選挙規定等10項目の原則を追加して、「幕僚長に対する覚書(案件)私的グループによる憲法草案に対する所見」を提出、これにコートニー・ホイットニー民政局長が署名しいわゆる「ラウエル文書」が作成された(以前からGHQ草案を基にした憲法が制定後、憲法研究会の「要綱」と似ていることが早くから指摘されていたが、ラウエルが「要綱は民主主義的で賛成できる」と評価した文書の発見で、要綱が大きな影響を与えたことが確認された)。

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 宮古島に伝わる重要文化財、宮古上布が思いがけなく手に入った。新潟県の新発田市にある敬和学園 大学にひょんなご縁で勤務することになった。引っ越すために、荷造りをしたが、その時に、妹が、荷崩れしないように段ボールの間に布地を詰めてくれた。荷解きの後、この布切れを拡げてみたら八年前に亡くなった父親の浴衣だった。自分にはサイズが合わない。しばらく放っておいたが、夏が近づいたので、たまには浴衣もいいなあ、以前病院に入院した時には寝間着用の浴衣を買って持っていたが、あれじゃあんまりだから、これを直してもらって、今年は浴衣で長岡の花火でも見に行こうと思った。寸を詰めるのにイオンのサイズ手直しショップに行ってこようかなと、浴衣を手にしてみる。何とも手触りと紺の色合いが良い。これが結構上等なもののような気がしてきた。そこで、新発田の呉服屋に持って行って直してもらうことにした。すっかりシャッター通りになった商店街の古臭い呉服屋に行くと、そこのオヤジがこの浴衣を見て興奮し始めた。

 「こりゃあ上布ですよ、多分八重山か沖縄のものだから大事にした方がいい。」「ええ?でもちゃんと直すと金がかかるじゃないか、裾をつめるだけでいいよ」と答える。「良い物を粗末にしては行けない、切らずに直して上げるよ」「お客さん。自分はプロだから、良い物と悪いもの位は分る。こりゃ、ひょっとすると宮古上布かもしれない、調べさせてくれ」という。自分の店にある最高級の上布の反物一本50万円の品を見せてくれたが、これよりものがいいという。それにしても、シャッター通りの呉服屋の奴、客も無いから一見の客をからかっているのではないかという疑いも。二束三文の古着を仕立て直して、いくらなんでも数万円はかかる。既成の浴衣なら2〜3万くらいであるじゃないか。「お客さん、こんな良いもの着るなら、帯はこのくらい、ええ一本10万円!「馬鹿野郎」何だこりゃ、いい商売されちゃう。「もし安物だったら止めるよ」といって店を後にした。10日くらいして電話がかかって来た。「やっぱり宮古上布です。京都まで持って行って調べたら、糸の細さからして、100万円は下らない代物です。」うひゃ、オヤジの奴こんなお宝を持っていたとは。そんなら、ネットオークションで売り飛ばそうかと思ったが、たまには贅沢してもいいかと、考えを改め、仕立て直してもらう事にしたのである。呉服屋のおっさんに押しまくられた。ひょっとして、お宝発見かという期待も手つだって、着道楽となってしまったのである。

 今年の夏は一人暮らしだが、棚ぼたのような豪華な浴衣に下駄とパナマ帽子のいでたちで、花火見物といこう。何とも豪華な浴衣だ。世の中悪いことばかりではない。

沖縄には宮古上布の他に、紅型の着物、芭蕉布、読谷織、ミンサー、八重山上布といった織物の宝庫である。その頂点にあるのが宮古上布なのである。織柄や色合いによっては反物だけでも200万年とか300万円といったおそるべき価格がついている。この伝統工芸というより重要文化財として沖縄では保存に頭を痛めているのである。沖縄の織物については澤地久枝著『琉球布紀行』(2000年、新潮社→新潮文庫)に詳しい。







 
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