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アイオワ州オレンジ市のチューリップフェスティバル

サイスダコタ州スーフォールズ市空港から2時間ほどでアイオワ州の小さな町、オレンジ市に到着した。この町は人口6000人ほどでここの中心にあるノースウエスタンカレッジが最大の集団で4000人程が学んでいる。大学を中心に営まれている街である。敬和学園 とは姉妹校として後援会のオレンジ会が交流を続けてきた。
5月17日はこの町のチューリップフェスティバルということで、パレードやエキジビションが企画されている。この町を開拓したのは改革長老派のオランダ人であった。蘭英戦争による母国の敗北後、オランダ人は西部に新天地を目指して移住して行った。シカゴ以西のアイオワ州、ダコタはスーインデアンの土地であったから、当然彼らとは衝突が始まった。この地がノースウエスタンというのは、当時のフロンティアがこの辺りであったことからくる。その後、南北戦争以降この地は急速に開拓が進んだ。サウスダコタ周辺は映画ダンスウィズウルブス(主演ケビンコスナー)、 原作はコマンチだが映画ではスー族になっており、この周辺の大草原が圧倒的なスケールの映像をたのしませてくれた。「大草原の小さな家(Little Houses on the Prairie11:NBC制作)」の舞台となったところでもある。この物語は1870〜1880年のことであった。主人公インガルス一家はウィスコンシン州、カンサス、ミネソタ州と移り住んで行った。ひたすら広大な豆とトウモロコシ畑が続いている。まるで映画のシーンのような農家が大草原にポツンと建っていた。日本の幕末に維新の志士が影響を受け、また、東京大学設立に尽力したフルベッキもこうしたオランダ移民の子弟として牧師の道を選び、日本に渡った一人であった。
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この地域はスー族インディアンとの接触が常に問題であり、また脅威でもあった。欧米人が持っていた南北戦争までの先込め式の単発銃では数秒で1本の矢を射るスーインディアンには対抗できなかったが、連発銃の登場で彼らを圧倒し始めた。オランダ人たちはここに教会を建て街を形成し、学校、さらには大学を建設する。大学を中心に街づくりが行われている。農業関連のみならず、ペイント製造会社本社も誘致し、ベンチャー企業に倉庫のようなオフィススペースを提供している。ここから育った企業も幾つか大きく成長しているようだ。単に工場誘致だけではないところがアメリカ的。

North Western Colledgeの学生が街を案内してくれた。男性のスゥエーデンからの留学生は今年卒業で、これから薬科大に進学しさらに6年勉強するという。後の女性二人は、南米コロンビア、中国からの留学生であった。市民ホールではオランダの民族衣装を着た若者達のショウがあり、終わると外のテントでフライドチキンとビールの昼食。

1時からメインストリートでパレードがはじまった。オランダのイメージや各種団体の山車が数十台登場。新発田市の山車が1台欲しいところ。次回は考えたい。この町出身の戦没者の名前を刻んだモニュメントと在郷軍人の行進に全員が起立した。オランダの民族衣装を着た人々がブラシで道路を清掃して水を掛け合う。最後は、ミドルスクール、ハイスクール、カレッジ、各種団体のマーチバンドが続き、とても賑やか。ここのマーチバンドはLAのローズボールのパレードにも出場しているんだとか。パレードが終わったら、再び街を見学、100年前の判事さんの家とか、小さな博物館にインデアンや開拓時代の農具なども展示してあった。この街を見て、ふと、スティーブンキングのホラー映画、ITを思い出した。平和な小さな街に、突然道化師の格好に身を隠した悪魔的怪物ベニーが現れる話。それを昔の弱虫高校同窓生が敢然と立ち向かい、戦う。彼の小説にはこうした平和な一般市民を突如襲う悪魔の話が出てくる。キングの小説は東部のメイン州の町デリーであるが、この町もアメリカのどこにでもある、キングのスタンドバイミーに出てくるような街なのである。そんなことでもなければ全く静かで平和な田舎町オレンジシティである。

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書評 <ヒトラーのウィーン >中島義道著

    この作品は、あの20世紀最大の悲劇と破壊を生み出したヒトラーの青年期に焦点を当てている。彼が、その暴力性と独特のイデオロギー、いかに反ユダヤ主義を形成したか、幼少期から家系、さらには主題となった人格形成期の彼の実像に迫るものである。同時に、彼が政治思想を最初に揺籃したウイーンという街の姿、そして雰囲気を語っている。著者も自費留学生としてこの街に滞在し、当時の貧乏学生ヒトラーが辿った生活に類似した体験を描き出す。そのさわりには説得力がある。とは言え、彼の青春時代とその生活の場であった街との関係が、ヒトラーの栄光と狂気にどこまで関わったかについては歴史的に成功した分析にはなっていない。ウィーンの街の影響はむしろ無関係なくらいで、政治的歴史的事象であったナチズムをこの出発点だけでは説明し切れるわけもない。とはいえ何らかの兆候を懸命に鋭く描き出そうと務めている。

     しかし、彼の幼少期は、両親の 親の代に近親相姦の経歴を匂わす特異な過去があったこと以外は、ドイツを狂気に陥れた原因を感じるものは無い。当時は叔父と姪の子が生まれることは不名誉ではあったがよくあることで、これをヒトラーはゲシュタポを使ってひた隠しにした。後日このことがユダヤ人血縁説という俗説を産んだが、この本では家系の分析をきちんと説明している。学生時代にしても、このくらいの挫折や、世の中に対する感受性は若者に特有なものである。著者は思春期の平衡を欠く若き独裁者の姿を物語るが、これとても誰もが体験する不思議なものではない。ヒトラーというのはどこからモンスターになったのか。反ユダヤ主義も当時の市民感覚の範囲内だ。オーストリア帝国議会が全くの茶番でしかない姿に絶望したのも彼だけではない。彼の政治的活動を方向づけたのは従軍体験と共産主義のドイツ社会での蔓延という社会状況であったことは余りにも明らかだからだ。問題はなぜ彼が飛躍したような理想主義的国家像や極端な行動を生み出したかは今だに謎が多いが、その主張の多くは我が闘争に書かれている。
  
   ナチス国家を築いたのは第一次大戦後のドイツの苦境と共産主義勢力に怯えたユンカー。資本家、さらには彼の取り巻きであったゲッペルス、ボルマン、ヒムラー、ハイドリッヒ、ゲーリング達の反階級社会グループ、そして改革を待望した国民自身だからだ。プロファイリングをすれば、彼らは大なり小なりヒトラーと同じような挫折からのし上がってきた。ヒトラーはその象徴として祭り上げられ、捨てられた。

  ウイーン時代のヒトラーには同郷の友人クビツェフがおり、同居生活をしていた。ヒトラーの青春時代はかなり明らかになっており、その後の彼の異常性はそこから見出すことはできない。この本がやや退屈な印象を残すのは、著者がその後のヒトラーの変化の兆しをあまり見つけていないからである。美しい街並み、シェーンブルン宮後を背景にリングシュトラーセ沿いの風景が観光旅行のごとく描写される。本書では宮殿、国立歌劇場に通う貧乏学生の姿を自らに投影させ、何とかヒトラーの青春時代の苦悩に迫ろうと、彼の自伝「我が闘争」の記述を引用しつつ、彼の描いた虚構を暴こうと青春時代の研究との比較をしている。

    ヒトラーが美術学校入学を果たせなかったのに対し、彼の友人、チェコ人のクビツェフは一回で音楽院に合格した。そのため、プライドの高いヒトラーは自分の失敗をひた隠しにして同居生活を続けるという、彼にとっては不安な、劣等意識との戦いを続けていた。まるでムンクの叫びに描かれた分裂した精神が理想と現実に対する奇妙な割り切りを可能にしたことが想像できる。後にスターリングラードの敗北を美化しようとし、また、ベルリンに迫ったソ連軍にも勝利を信じるという現実的な世界が脳中にあっても、これをドイツと自己の滅亡という終末観で処理しようとした。この辺りのヒトラーの心理構造を形成するに至った、ウイーンでの学生生活を著者は描き出すことに成功している。クビツェフの描いたヒトラー像は、後の思い込みと虚言に満ちた我が闘争や、彼をモンスター扱いした他作家のヒトラーの青春時代の描写以上に説得力がある。

   しかし、一方で、ウイーンの美しい街並みやパプスブルグ帝国の崩壊などの描写は、かえってそうしたヒトラーの人となりとの関係を分かりにくくしている。かがやける画家、建築家の夢断たれ、浮浪者施設で俗な絵を書いて糊口をつないできた数年間から、戦争という狂気に自分の居所を見つけたヒトラーの心の謎はまだ解かれていない。
  
  また、全くヒトラーの人生とは無関係な著者のウイーン自費留学中の体験は情緒的で、彼の狂気とは無縁の要素であるはずだ。我々をウイーンという人工都市の観光旅行をさせてくれ、自分も10年前に行った思い出を懐かしむだけの内容描写にはなっている。当時の絢爛んたる世紀末ウィーン、クリムトやエゴンシーレ、マーラー、フロイトといった一流の芸術家とは全く無縁な、土産物の絵としては結構売れたらしい土産物級絵描きの才能しかなかった彼の芸術性は、ドイツの悲劇的結末とそれまでの繁栄を彷彿とさせる。テレビや映画といった当時として空想的テクノロジー、ユダヤ人への悪魔的対応という狂気を描くことになる。この辺りのいきさつは、むしろ過酷な第一次世界大戦従軍とその後の政治的体験において、彼の致命的欠陥である理想と現実を並行して処理できないまま物事を進める性癖がつきまとった。その結果、神話的国家を築き上げる俗物的な壮大な実験へと突き進んだのである。


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by katoujun2549 | 2012-05-28 15:44 | Comments(0)
 

 日本人に馴染みの薄い概念が終末という世界観だ。そもそも、仏教的世界では気の遠くなるような悠久の時間の中で、生命は輪廻転生するから、終末という感覚が無い。キリスト教は歴史的事実として展開する出来事に対する信仰である。一方、仏教はイマジネーションの世界である。膨大な経典という情報が迷路のように我々を導く。聖書は新約旧約の1冊である。コッポラの地獄の黙示録という映画があったが、これは変な題で、黙示録は地獄とは必ずしも結びつかない。聖書ではヨハネ黙示録と旧約のダニエル記が黙示文学である。黙示はギリシャ語で「覆いを取り去る」「隠されていたものが明らかにされる」つまりは啓示を意味している。あの映画の原題はApocalypse Now である。今起きている狂気と絶望といった感じだろうか。終末においては地獄も天国もぶっ飛ぶ。クリスチャンにとっては天国のイメージにもなる。

 キリスト教の世界観には終末という概念が重要である。人間はいつかは死ぬ。世界もいつかは終わるのです。それが、いつになるのかは分らないが、明日かもしれない。英語で現在完了とか、過去完了など時間の経過に厳密なのはそのあたりの影響もあると思う。日本語は、過去、未来の時制も時々曖昧だ。何でも現在形で通用する。自分の命も、他人も世界も、どこかで終わるのである。国家も、家族も、友人もいずれ終末を迎える。聖書はイエスによる最後の時の預言に満ちている。イエスは十字架の道を歩んだが、終末は復活によって克服される。絶対に復活という世界が必要である。これが無ければ永遠に死の勝利が我々を待っていることになる。イエス様は死に勝利することを宣言した。しかし,同時に地獄の存在も明らかにしている。西欧文明の価値観というのは、この終末という「時」を抜きには語れない。

 天国がどんな所かを説明した部分は少なく、天なる神の右に座すとか、霊の世界としての死後の世界は説明している。霊の世界では死者は時間を超越し、終末に導かれる。だから、天国というより、終末に展開する世界と、イエスキリストと共に過ごす千年王国が中心である。この中で最も具体的なのが「ヨハネ黙示録」である。世界の最後についてのヨハネのイメージが語られている。ヨハネ黙示録は22章からなり、神の姿とキリストの再臨についてヨハネが霊感をもって語った。何とも不思議な世界が展開されている。まるで交響詩とか、長大な絵巻物の世界である。このヨハネが見た世界は、あくまでも、2,000年前の世界におけるイメージであり、そのままの事が起きる訳ではないだろう。しかし、そうした世界の終末は誰もがいつかは体験することである。自分の終末がどのようなものであるかを思い描く事は信仰的な領域である。
 
 ヨハネはパトモス島という今のトルコ沿岸の地中海の島に捕らわれ、そこでみた夢をもとに黙示録を書いた。このイエスの再臨こそキリスト教の目指す世界の終末である。ヨハネ黙示録22章6節でキリストの再臨が語られる。恐らく、ヨハネという人は捕囚の身となる前から、イエスの再臨とか、黙示録の夢想的な内容を世に説いて、ローマから睨まれ、この島に送られたのであろう。そこで彼は、これまでの霊感で見た世界を手紙にまとめ、これをエフェソス、ラオデキア、スミルナ、ティアテイラ、ペルガモン、サルデス、フィラデルフィアの7つの教会に送ったとある。その手紙の後、天国の礼拝が、ラッパとともに始まる。バロック音楽のラッパの響きはこのイメージからくるのだろう。そして、様々な怪物達、虹や星、光り輝く宇宙の世界などが万華鏡のように展開する。そして、七つの封印をした巻物を開く。ラッパの響き、そして天使達と合唱。竜や奇怪な獣が象徴的に登場する。戦いを象徴する赤い馬、死をのせた青白い馬、最後に19章で白い馬が現れる。イナゴの大群、さそり、天災地変など当時の人々の恐怖の世界が描かれる。20章で描かれる1000年にわたるキリストと主に統治される王国のこと。いわゆる千年王国というのはここからきており、ナチスや共産党の世界観もこれと関係している。一体何を象徴しているのか全く分らない謎解きのような文章が連綿と続くのである。これはヨハネがローマ帝国の迫害を避ける為に、暗号のように使っていた言葉も含まれている。第17章に出て来る大淫婦というのはローマ帝国のことである。二億の騎兵、軍隊、そしてバビロンの崩壊が描かれる。そして子羊の婚宴、夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。最後の審判とサタンの敗北、そして最後の21章へと息をつかせず、大交響楽がフナーレにむかう。
 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいのなか神なる主は、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守るものは、さいわいである」。これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。

 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
 聖書はこの章で終わる。

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太平洋戦争最後の証言 大和沈没篇 門田隆将 

 この大和篇は戦艦大和の体験者の証言である。「大艦巨砲」主義の象徴、要するに役に立たない無用の長物ということである。しかし、3,000人を超える兵士がこの船に乗り、日本の未来を守る為に出撃した。生き残りは280人程、航空支援もない中、無謀な特攻だと批判することは簡単だ。しかし、そこで死と直面した人々にそんな説教は無意味である。
 今、第二次大戦を生き抜いた人々は急激に少なくなっている。零戦、特攻、玉砕といった修羅場の生き残りが証言出来る時間は僅かである。彼等は多くの友を戦場に残して生き残り、戦後必死に仕事や家族、社会の為に格闘して来た人々である。感謝の気持をもって門田氏は筆を運んでいることが分る。この試みは、太平洋戦争を戦ったアメリカからみた証言、さらには、戦場になった土地の人々へと展開することが出来ないだろうか。

 戦艦大和のプラモデルを中学生の時に作ったことがあった。現代の兵器として見事なまでに完成された姿に魅了されたものである。大和が沖縄の海に海中に眠っている姿は、かつて、潜水調査で撮影されている。あの力強い姿は、今の日本人の心おも揺さぶる力がある。戦艦というのはその国の象徴でもある。宇宙戦艦ヤマトという漫画もあったが、やはり日本人にとって大和は永遠である。

 沖縄特攻に参加した人ばかりではなく、最初に建造したときからの体験をまとめている。現在の海底の大和から遺物を引き上げた時、出てきた茶碗などの仲間の生の痕跡を見て生き残りの方々は絶句した。この部分が印象的であった。圧巻はやはり最後の姿、大和と運命を共にした時の多くの兵士の姿である。

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太平洋戦争最後の証言(1) 大和沈没篇 門田隆将 

この大和篇は「戦艦大和」の体験者の証言である。3,000人を超える兵士がこの船に乗り、日本の未来を守る為に出撃した。航空支援もない中、無謀な特攻だと批判することは簡単だ。しかし、そこで死と直面した人々にそんな説教は無意味である。
 今、第二次大戦を生き抜いた人々は急激に少なくなっている。零戦、特攻、玉砕といった修羅場の生き残りが証言出来る時間は僅かである。彼等は多くの友を戦場に残して生き残り、戦後必死に仕事や家族、社会の為に格闘して来た人々である。感謝の気持をもって門田氏は筆を運んでいることが分る。この試みは、太平洋戦争を戦ったアメリカからみた証言、さらには、戦場になった土地の人々へと展開することが出来ないだろうか。

戦艦大和のプラモデルを中学生の時に作ったことがあった。現代の兵器として見事なまでに完成された姿に魅了されたものである。大和が沖縄の海に海中に眠っている姿は、かつて、潜水調査で撮影されている。あの力強い姿は、今の日本人の心おも揺さぶる力がある。戦艦というのはその国の象徴でもある。宇宙戦艦ヤマトという漫画もあったが、やはり日本人にとって大和は永遠である。

 沖縄特攻に参加した人ばかりではなく、最初に建造したときからの体験をまとめている。現在の海底の大和から遺物を引き上げた時、出てきた茶碗などの仲間の生の痕跡を見て生き残りの方々は絶句した。この部分が印象的であった。圧巻はやはり最後の姿、大和と運命を共にした時の多くの兵士の姿である。

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by katoujun2549 | 2012-05-05 09:38 | Comments(1)
 5月17日から1週間アメリカ合衆国アイオワ州のオレンジ市に出張することになった。敬和学園大学の姉妹校であるノースウエスタンカレッジとの交流が目的である。カリフォルニア州にもオレンジ郡というのがあり、これはいかにもカリフォルニアということで果物のオレンジから名前がついたことが推定出来る。何でアイオワにオレンジなのか、始めはピンと来なかった。とにかくトウモロコシと豆ばかりの土地である。調べてみると、オランダ人が開拓した土地かどうかは分らないが、最初はHolland そして、オレンジ公の名前を取ってオレンジ市とした事が分った。オランダ村のようにオランダをテーマに町おこしをしているようなのだ。オランダの町のような外見の建物が街路に並び、チューリップが名物で5月にはチューリップ祭りがある。実はオーストラリアのニューサウスウェールズ州にも同じ、オレンジ市というのがあり、アイオワのオレンジ市より大きな町だが、これもオレンジ公から名前を頂いている。ここは牛久市と姉妹都市となっていて、現在スーダンから人道的難民受け入れを行なっている。
 
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 南アフリカにオレンジ自由国というのがあった。1854年にブール人(アフリカーナー)が建国、第二次ブール戦争後の1902年イギリスの植民地になった。国名の「オレンジ(オラニエ)」は、南部国境を形成するオレンジ川にちなんだもの。そのオレンジ川という呼称は、オランダ王家のオラニエ=ナッサウ家に由来する。オランダ語でOranije-Vrijstaatである。英語ではOrange Free State(英語)

 このオレンジというのはオランダ人が大好きな名前である。アメリカには、かつてオランダも植民地を多く持っていた。例えば今のニューヨークはニューアムステルダムといいオランダ植民地であった。
 1624年、ニュー・アムステルダムのオランダ提督"ピーター・ミニュット"は、インディアンからマンハッタン島を$24相当のビー玉や、短剣、布切れと交換して買い取った。
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インディアンはあまり土地に執着していなかった。その後、イギリスはオランダとの覇権争いに勝ち、1664年、ニューアムステルダムはイギリスの植民地となった。イギリスの国王は、北米経営に不熱心で、弟のヨーク公にここを譲り、ニューヨークとなった。当時はオランダ人が多かったが、彼等は次第に西へと追いやられる。ニューヨークはイギリス人 ユダヤ人やアイルランド人、イタリア人などが勢力を増し、ドイツ人も西に追われて行く。
 
 アイオワという名前はスーインデアンの言葉、眠たがりという意味だそうだ。日本人にはアイオワ型戦艦の方が馴染みがあるだろう。アイオワ型戦艦はアメリカ最後の戦艦である。
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 アイオワ州の主要な農業生産品は豚、トウモロコシ、大豆、カラスムギ、牛及び酪農製品である。ここの産業生産品は食材加工、機械、電気設備、化学製品、出版及び一次金属である。アイオワ州はアメリカ合衆国最大のエタノール生産地。穀物を転換して燃料にしている。人口が多い州ではないにも関わらず、大統領選挙で最も重要な州と捉えられており、候補者が最初に演説する地としても知られている。何故かというと、どうも、予備選挙は2008年もアイオワ州から開始され、最初に結果が出るアイオワ州党員集会やニューハンプシャー州の予備選挙で勝つことにより、候補者は大きな注目を集めることとなる。その後の争いを有利に展開することが出来、6月の「メガ・チューズデー」までに両党の候補者が実質的に決定するという流れなのだそうだ。ただそれだけの理由で、このとき以外は殆ど注目されない州なのだ。

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by katoujun2549 | 2012-05-04 21:45 | Comments(0)
 領土問題の解決は難しい外交課題だ。戦争の危険すらある。尖閣諸島は中国が主権を主張するようになった。これは領土というより、資源問題である。中国のアニマルのような資源獲得への野望は、かつての帝国主義を思わせる横暴なものである。尖閣諸島は実は台湾が領土として主張している島々で、この台湾が自分の国だといって憚らない中国が、その資源を狙って領有権を主張している。このような強欲な動機のある領土問題は断固とした対応が必要だが、その反面、戦争を誘道するような問題でもある。北方領土も豊かな天然資源がからんでおり、日本が100要求を通すには軍事的解決しかないだろう。そんなことは出来る訳はないから、国際世論に訴えるとか、外交交渉、経済的交流によってしか解決の道は無い。100%要求を通すという交渉はあり得ない。

 北方領土のように、実際にロシア人が多数既に戦後60年以上も居住している場合、これを退去させることはロシア側においても国家の威信にかかわることでもあり、絶対に譲歩しない。主張はしなければならないが、交渉は現実を見ながら、足して二で割る以外にはない。それにしても、歯舞色丹だけではそうならない不平等な結果であり、あくまでも4島返還を要求する権利を日本は放棄してはならない。

 尖閣諸島は中国台湾では魚釣島である。韓国とは竹島、ロシアとは北方領土という問題が控えている。こうした問題を抱えているにも拘らず、日本は腰の引けた外交を続けている。今回石原慎太郎都知事は国の対応を迫る形で都の購入を主張、そして既に7千万円以上の寄付申し出があるという。何という世の中だろうか。東京都という一行政が行なう事でもないのに、願望だけが先走っている。これをおかしいと思わないのか。あの橋下大阪市長といい、本来の実績や能力を検証することもせずに強いリーダーシップを求める国民の願望は恐ろしく危険な感じがする。あの二人にどんな行政手腕があったのだろうか。何も橋下市長や石原慎太郎が独裁者になることはないだろう。そんな人物ではないから恐れる必要は無い。ヒトラーは、本当は、ただの小心者だが、あのドイツという国が、モンスターを育て上げたのである。いつか日本にもモンスターが育っていくことを予測させるようなマスコミや、言論界の悪のりが怖い。ファシズムというのは領土問題、労働問題、政治、文化など重層的に進化したものだ。悪化する既成の体制に対し何か新しい者を求める国民に、夢のような目標を見せ、パレード、ファッションなども組み込んで行く。

 領土問題に関して難易度が高まるレベルには段階がある。戦争による占領、住民が居住するなどの実効支配、軍隊の駐留などである。日本は歴史的経緯だけをもとに相手の政府に対して外交ルートで訴えるだけである。中国や韓国は、それらの領有についてデモや国民運動、教育などで強力な自己主張を続けているにも拘らずである。その反動として、石原などの右翼が保守という名の下で舞い上がっている。モンスターが生まれるのはこれからだ。今は、その寝床が用意されているにすぎない。今回東京都
が何故あれほどまでに熱心に土地購入の意欲を示しているのか分らない。そもそも、島は既に個人所有で国も賃借しており、何か施設を作ろうと思えば可能だ。所有権が移転して何が起きるのか。数十億の都民の税金が使われる意味が分らない。中国との関係で嫌がらせをしているにすぎない。国民感情を掻き立てて、やれ憲法改正だとか、国民を戦争に駆り立てる準備のようにも見える。ここは騙されないようにすべきだ。憲法改正の声も産経新聞を中心に出て来ている。これに便乗しようという知識人、学者も出るだろう。今のところ、大した学者もいないし、論拠もそれほどの理論的説得力もない。しかし、、これが国民感情を沸き立たせないという保証はない。

(WIkipediaによると)
 現地調査の結果、いずれの国の支配下にもないと確認した日本政府は、1895年(明治28年)に尖閣諸島を日本の領土に編入することを閣議決定。同年、尖閣諸島は実業家古賀辰四郎に期限付きで無償貸与される。1880年代後半から1940年(昭和15年)にかけ、尖閣諸島には日本の琉球諸島の住民が建設した船着場や古賀が開設した鰹節工場などがあった。
中国と台湾が領有権を主張し始めたのは、1968年(昭和43年)に尖閣諸島付近海底調査で石油や天然ガスなどの大量地下資源埋蔵の可能性が確認されて以降である。
1978年(昭和53年)に右翼団体日本青年社が魚釣島に私設灯台を建設し、保守管理してきた。日本国政府からの「灯台を正式に海図に記載し、今後は国が灯台の管理をしていきたい」との申し出により、2005年(平成17年)2月に灯台は国に譲渡され、海上保安庁によって魚釣島灯台として管理されている。その他、北小島にも灯台がある。
 この島現在も個人所有である。これを石原慎太郎東京都知事は故人から都として買収することをアピールした。これを受けて、野田総理は国として、石原知事と会見しているがその結果は分らない。石原知事は島の購入問題は持ち出さなかったらしい。

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by katoujun2549 | 2012-05-02 21:59 | Comments(0)