<   2012年 04月 ( 14 )   > この月の画像一覧

 日本の政治は暗いトンネルから抜け出せないでいる。消費税で頭が一杯な野田総理。あの小泉退陣から、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田と続いた毎年の首相交代は日本の衰退を招いているのだろうか。いや、実は関係ないのかもしれない。ただの無駄なお騒がせ、国民とはつながらない連中なのだろう。だから、何か、緊急の意思決定が必要な時には大混乱となることが、あの3.11であきらかになった。残念ながら我が国は、官僚と企業で動いている。民主党が政治主導といって、下手な指示を出すから官僚がフリーズして全てが機能しなくなる。国会や企業では官僚OBがロビーイストであり、企業は政治家を警戒して、利用する事も憚っている。今や政治家は邪魔なのである。市場の行き詰まりは彼等では解決出来ない。日本のデフレはこじれにこじれ、日銀に景気対策を押し付ける政治家は我が国を衰退に落し込む。今日本を救うのは、女性と科学者のイノベーションである。それしかない。

 今後小澤一郎が党員資格復帰となって、どんな活動を行うのだろうか。先は総理の座を狙うことになるだろう。おそらくは鳩山をはじめ、性懲りのない小澤配下の程度の悪い議員が、やれ、報復だの、また、選挙対策だの、突飛なことをやって墓穴を掘るに決まっている。あの問責決議を受けた、山岡だとか、小澤配下の連中が薄笑いを浮かべている。それにしても、昨年、河村たかし名古屋市町と大村愛知県知事が、選挙後小澤に挨拶にいったが、あれは検察が厚生労働省の村木厚子を不法な方法で起訴した事件で信頼を失った時点で、勝負ありと見て、堂々と行ったのだろう。有罪は無理とはいえ、限りなく黒に近い無罪。とにかく、小澤派というのは小澤の指示なくては全く動きの取れない連中である。取り巻きが悪をなす。

 かつて、小澤を切れ者とか、次期リーダーとか、やたら持ち上げていたマスコミだが、彼はもう化けの皮がはがれ、メッキも色あせた。今の、消費税議論でもピントがずれているし、民主党内の討論にも参加せず、思い込みばかりが目立つ。小澤の国際感覚の無さ、経済音痴、国民への低い奉仕意識と高いプライドが良い結果をもたらす訳がない。ただの選挙屋、ずる賢い策士でしかない。彼が何か今のデフレ脱却の為のアイデアを出したことがあるだろうか。デフレ、景気悪化を理由に消費税増税に反対しているが、彼には将来の社会保障を支える財源に関する方策があるのだろうか。一度も聞いた事がない。彼のマニュフェストを守るという論理は、現実が許さない。アメリカからの評判もすこぶる悪い。恐らく、日米関係でもミソをつける筈だ。普天間も行き詰り、彼が出来る事は中国に媚を売って日本の地位を低くし、その代わり、民主党内部の支配を小澤馬鹿チルドレンを使って、悪辣な手段で政敵を葬ったり、内部抗争で終始するだろう。その辺りのバトルには天才的な力を発揮するに違いない。先は自分なら大胆な改革が出来る事をアピールする筈だが、この3年間、どうにもならなかった理由を明らかにしてもらいたい。まるで、自分がいなかったからできなかったのだという、英雄気取りだろうが、いずれにせよ、国民不在の暗黒政治は続く。大胆なインフレ政策で、さらに年金生活者や庶民の暮らしは苦しくなる。誰かがぼろ儲け。

 民主党という寄せ集めのシンボルが小澤なのだが、彼は政治屋としては、今の民主党では随一である。消費税増税反対を上手く使って、自民党や公明党と野合し、将来的には民主党を解体に導き、そこから自分が国家元首につく方法を考える筈。今の民主党も自民党もお粗末な人材しかいない。日本の未来は暗いが、ただ一つの明るい話題になるであろう未来は、高齢者と女性のパワーである。そして、技術革新をもたらす科学者の誠実な仕事に未来がある。

[PR]
by katoujun2549 | 2012-04-27 11:33 | Comments(0)
 旧約聖書にアブラハムはウルで生まれたことが書かれている。ノアの洪水の後、セムの家系であったテラはセムの家系、テラからアブラム、ナホル、ハランが生まれ、アブラハムの兄弟ナホルの子がロトである。アブラムは後にアブラハムとなり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の基となった。旧約聖書創世記11章28章に「ハランは父のテラより先にカルデアのウルで死んだ」とある。このウルの存在は19世紀までは神話の記述と思われていた。というより旧約聖書が神話と思われていた。ところが、イギリスのウーリーが今のイラクで重大な発見をする。その友人があのアラビアのロレンスで有名な、考古学者時代のT.E.ロレンスである。ウルの発見は当時の人々を驚愕させた。聖書に書かれている事が歴史的な事実である事が分り、次々と発掘が進んだ。

 ロレンスとウーリーは1912年から1914年までヒッタイト時代の遺跡の発掘を行った。ウルでの発掘は1922年に始まり、ここでウーリーは王宮の墓地の発掘という貴重な発見をした。アガサ・クリスティーの小説「メソポタミヤの殺人」はこの王宮墳墓の発見にモチーフを取っている。クリスティの夫ははのちにウーリーのアシスタントのマックス・マローワンであった。

 メソポタミアの地は、わずかの間に、前例のない大繁栄を記録した。そして、空前とも言える政治権力が打ち立てられた。それは、美術、建築、宗教は言うに及ばず、社会機構、日常の細かな慣習から楔形文字の発明に至るまで、それらは、すべて、画期的偉業であった。世界最初と言われる船や車輪つき戦車なども、この頃、シュメール人によってつくられたのである。
 シュメール文明の後を古代バビロニア帝国が受け継いだ。そこからは大洪水の跡、さらにはジッグラトというバベルの塔の原形などが次から次へと発見される。高校の世界史では、この発見と旧約聖書とのつながりが何故か説明されない。
 
創世記11章で「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、及び自分の息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れてカルデアのウルを出発し、カナン地方に向った。彼等はハランまでに来るとそこにとどまった。

 旧約聖書創世記12章1節「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷父の家を離れて私が示す地に行きなさい。・・・・・・・アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ蓄えた財産全てを携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向って出発し、カナン地方に入った。ここにユダヤ教、キリスト教、さらにはイスラム教という一神教の物語と世界が始まったのである。
 

e0195345_21314151.jpg

 ウーリーの左にいるのがアラビアのロレンスである。
[PR]
『Ballad of a Soldier(原題)』 「誓いの休暇」という邦題である。中学生の時に予告編を見た記憶がある。最近はこうした沁みいる叙情のある映画が少なく、懐かしい。戦争映画として傑作だと思い、紹介したい。先日「戦火の馬」を観たが、戦争映画で最高は何かを考えたとき、自分は、やはりこの「誓いの休暇」ではないかと思った。プライベートライアンとか、僕の村は戦場だった、禁じられた遊びなど、戦時の市民生活とか戦場がテーマになった作品は多い。コッポラの地獄の黙示録も凄かった。しかし、この誓いの休暇は戦場から戦時下の町や村をひとりの少年兵士が漂いながら、通り過ぎて行くそのストーリーの流れはとても素晴しい。今は、DVDでしか見られないし、あまり画質は良くないらしい。
監督のチュフライはスターリン時代の民主化に向けての雪解けを象徴する人で、女狙撃兵マリョートカも、赤軍の女兵士と白軍将校との愛を描いた作品。かつてのソ連映画にはタルコフスキーの「僕の村は戦場だった」といった名作がある。「鬼戦車T34」などもユニークな作品である。 
Grigori Chukhrai グリゴーリ・チュフライ
出演 cast
ウラジミール・イワショフ  Vladimir Ivashov   - Alyosha
ジャンナ・プロホレンコ   Zhanna Prokhorenko - Shura
ソ連映画のモノクロ 1959年作品
e0195345_18294675.jpg

061.gif物語ー
 冒頭いきなり喪服の母親。ナレーションが彼女の息子は戦争から帰らなかったことを告げ、それからその息子の物語が始まる。つまりこの映画は、戦死した若い兵士の物語、ドイツ軍との戦い、ソ連軍の兵士の群と戦車が前線に向かう。女兵士が、戦車と兵士の列を交通整理する雑踏が印象的。急かせるような音楽が切ない。監視塹壕にいた兵士アリョーシャは急迫してきたドイツ軍戦車に追い掛けられる。独身者や老人は最前戦に送られる現実が見て取れる。放置してあった対戦車銃でニ両を撃破、褒美として6日間の休暇を貰う。帰るのに二日、母親と過すのに二日、戻るのに二日。帰省の途上、片脚になった兵士、シューラという美少女とのひと時の淡い恋、出征した兵士を捨てて他の男と暮らす妻、ウクライナからの家族。予想外の出来事に遭遇し、休暇日数は減っていく。ようやく家に着いても母はいない。農作業で出かけていた母とやっと抱き合うが、もう時間がない。帰りのトラックが待っていた。アリョーシャは母に手を振ってまた戦場に戻っていく。
アリョーシャとシューラとの淡い恋物語、最初は喧嘩したりしているが、だんだん仲良くなり、やがてお互いに恋心を抱くようになる。短い間の出会いだけれども、その中に喧嘩、和解、別離、再会など、ラヴ・ストーリーのすべての要素が詰まっているのである。
戦争という異常時だから起きる唐突な出来事、そして若者らしい恋。
 片脚となって妻のところへ帰る兵士のエピソード、兵士の妻に石鹸を届けるがその妻は別の男と豊かな暮らし。さまざまな人生模様が描かれる。背景にあるのは常に戦争だ。そしてタイムリミットが迫って来る。もう30年も前にNHK教育テレビで観て、録画していたが、当時は何とβだった。
素晴らしい映画である。最近の映画のテンポとは違う、淡々とした演出がかえって心に残る。自分が三度観ても飽きないのはこの映画とカサブランカ、第三の男、そしてシェーンだ。

[PR]
またもや、国土交通大臣と防衛大臣の問責決議である。自民党の小姑的な野党ぶりにはうんざりさせられる。早く、重要案件である消費税を決めてもらいたい。自民党は政権担当としても人材がいないことが既に証明されているのではないか。民主党もこのざまだ。
ふと気がつくのは、安住財務大臣とか、小宮山厚生労働大臣は、厳しい質問に、必ずしも納得のいく説明ができていないにも拘らず、新聞ではあまり非難されない。これは多分、ご両人ともマスコミ出身だからだろう。とにかく、今のマスコミは昔の陸軍にも並ぶ、権力を持っている。だから、身内には甘い。とにかく、マスコミ、テレビと新聞が世論を支配し、政治家の評価も行っている。これを野党は利用する。こんな図式が浮かび上がって来るではないか。

[PR]
太平洋戦争最後の証言 大和沈没編 門田隆将著 小学館

これで、証言シリーズ3部作は終了した。門田氏が全国の当時の生き残りの方々を訪ねて書き下ろした力作である。小説ではない。とにかく、証言をひたすら集めた結果の作品である。大和の巨大な主砲が発射された時はどんな具合だったのだろうか、興味が湧くところは全て抑えて書いて頂いた。
今、第二次大戦を生き抜いた人々は急激に少なくなっている。この試みは、太平洋戦争を戦ったアメリカからみた証言、さらには、戦場になった土地の人々へと展開することが出来ないだろうか。

戦艦大和のプラモデルを中学生の時に作ったことがあった。現代の兵器として見事なまでに完成された姿に魅了されたものである。大和が沖縄の海に海中に眠っている姿は、かつて、潜水調査で撮影されている。あの力強い姿は、今の日本人の心おも揺さぶる力がある。戦艦というのはその国の象徴でもある。宇宙戦艦ヤマトという漫画もあったが、やはり日本人にとって大和は永遠である。

自分が学生時代は、先輩の中には学徒動員で戦地で過酷な体験をした方々がいた。合宿の打ち上げの時など、先輩が来られて当時の話を聞く機会があった。その中で、T先輩は戦艦大和の最後を目撃した方であった。大和の僚艦、冬月に乗艦しており、機銃士官として防空戦を体験したのであった。
米軍のパイロットが、大和を雷撃し、僚艦の真横を反転して猛烈なスピードで通り過ぎて行く。その時、横を向いたパイロットが機銃座にいたT先輩と目が合ったんだそうだ。若いパイロットで少年のような顔をしていたのが印象的だったという。

大和は、最後に大爆発を起こして、沈んで行ったが、その時、びっくりしたのは、天から人がバラバラになって降ってきたという凄い経験をされたといっていた。海に放り出された大和の乗員を、必死で救出したが、最後はいつまでもいられず、現場を離れなければならなかったのが辛かったと言っておられた。吉田満氏の著書、「戦艦大和の最後」で駆逐艦「初霜」が大和乗組員を救助する際、軍刀で生存者の手首を切ったとする部分については、現在も論争の原因となっているのだそうだ。しかし、T先輩は海で浮いていた大和の乗り組員を探して、懸命に救おうとしたといっていた。彼等を放置して行ったというのは噓だと憤慨していた。
e0195345_936251.jpg

 戦争の真実というのはなかなか伝わらず、無責任なフィクションや、言い伝えが主流になってしまうことが多く、困った事である。大平洋戦争の証言には段階がある。最初は将官や参謀が回顧録を出す。そ彼等は、当時の年長者であった。次第に将官、兵士とそれぞれの階層に下りて来る。今、実際に戦った当時の若者が既に80歳代〜90歳代と高齢になり、次々と鬼籍に入っている。門田隆将氏は、それらの生き残りと直接インタビューをし、証言で全てを構成する。

 この大和篇は「大艦巨砲」主義の象徴、戦艦大和の体験者の証言である。要するに役に立たない無用の長物ということである。しかし、3,000人を超える兵士がこの船に乗り、日本の未来を守る為に出撃した。航空支援もない中、無謀な特攻だと批判することは簡単だ。しかし、そこで死と直面した人々にそんな説教は無意味である。
 沖縄特攻に参加した人ばかりではなく、最初に建造したときからの体験をまとめている。さらに最後に海の墓場となっている現在の海底の大和から遺物を引き上げた時の話も最後を語っている。圧巻はやはり最後の姿、大和と運命を共にした時の多くの兵士の姿である。

[PR]
 今、大飯意原発の再稼働が揺れている。現政権は再稼働を目指している。しかし、周辺の滋賀県、大阪府などは反対している。大飯町に381億円の電源三法交付金が支払われている。とことが、対岸の小浜市には60億円である。現在の自治体の都市計画は市町村単位で決定出来るという構造からきている。原発を立地させる為に、建設される場所の自治体だけを相手にすれば交渉も楽という便宜的な制度である。影響のある範囲を最小にする事で成り立つ考え方だ。ところが、昨年の3・11以来、都市計画レベルの範囲設定では済まなくなった。万一、事故が起きた時の範囲は、立地自治体の周辺で止まらない。50キロ圏とか、大きな範囲が事故の大きさによって想定されるようになった。しかし、政府の対応は、これまでのままで押し切ろうという乱暴なやり方だ。民主党というのは法令を盾にするが、過去の教訓にもとづく政治判断をしようとしない。彼等が考える政治というのは官僚との調整ばかりである。何が政治主導なのだろうか。調整というのは言葉はいいが、言いなり、時には自己保身ということである。有権者は得る者が無いという結果が見えて来る。原発という巨大技術に対する、合意形成の方法が安全神話にもとづいて旧態依然であることに加え、大阪市などの大きな自治体の運営についても、既に限界に達している我が国の行政構造を改革しなければ、国家のメルトダウンはさらに進むのである。
 
 野田総理も、民主党の幹部には松下政経塾出身が多い。彼等が学んだ時代の政治家の観念はそのようなものだったかもしれない。演説が上手で、人をコントロールできる人材であるが、必ずしも国民の利益を代表する方法は育っていない。どうやって代表するか、投票者に約束を守ることができる人材か、日本の政治と経済のあり方についての見識を育てるのに失敗している。国民を支配し、自分の身分を守る方法は教えたのだろう。しかし、政治というものをはき違えている。松下幸之助は企業のオーナー経営者ではあるが、国民を代表してものを考えたことは無いだろう。国の将来を憂えても、それは自分の会社を守るということにおいてである。だから、企業人の目からみた統治者としての力を育てようという事で、民主主義国家の指導者の責任とか、思考方法の柔軟さ、どうやって官僚を使うかといった勉強はしていない。いや、彼等は、東京大学法学部を卒業者した人材の学力、知力に負けている。そうした人々が政経塾に行ったのであろう。官僚をやめて政経塾に行く人は少なく、それよりは彼等はハーバードやケンブリッジ大学に留学することを目指すのだと思う。

 民主党は労働組合あがりが多い。労働組合というのは、本質的には生産的な団体ではない。組合員の
権利、利権のための圧力団体に過ぎない。人数は多く、それらを組織的にまとめるんためには官僚的な組織となるから、その仕組みは、実際の国家や自治体よりははるかに小さな目標しかない、彼等の生活、賃金と身分保障という保守的な団体の官僚だから始末におえない。そうした組織からリーダーシップのある人材を求めることは無理である。小選挙区制のなかでは、国会議員の人的スケールは町長並みなのである。我が国の政治家で情けないのは、中途半端な学校教育、そして、労働組合という国家を導くには不適当な人材集団から多くの政権首脳を構成しているということである。これに鳩山とか、政治家二世が加われば、その中身は知れたものである。弁護士出身の政治家が跋扈する理由は、彼等の旧司法試験は100人に1人という難関をくぐって選ばれてきたという人材である。だから、国家議員としても、彼等は医師よりのさばっている。これは自民党も同じである。あの3年前の政権「交代」は、国政の衰退、「後退」現象なのである。

 原発の話に戻るが、今の政権がその程度の行動しか出来ないというのは、彼等の能力の限界を物語っている。多分、県知事や国土交通省、経済産業省の官僚よりも小さな人材が表に立っているからこそ、このような結果を招いている。今後、原発はこうした広域的な地方行政をまとめていく必要があるとすると、何も出来ない。現政権は、原発を使わなければ産業が維持出来ないと焦っていることだろう。しかし、常に多くの反対を受ける。普天間も然りである。県知事の方が国政よりも力がある。石原知事の尖閣列島買収の提案にも現れている。これは本来国の仕事ではないか。そんな状態では脱原発とか敢えて言わずとも、再建も、新設も出来なくなるのである。

[PR]
 ヒューゴの不思議な発明は映画タクシードライバー(76年)、カジノ(95年)などの名作を世に送り出した、マーチンスコセッシ監督の力作である。初期の作品ではロバートデニーロ、ディパーテッド(06年)やギャングオブニューヨーク(01年)、シャッターアイランド(09年)などではディカプリオをしばしば使った。次の作品は遠藤周作の「沈黙」である。彼は若いころ、カトリックの司祭を目指したことがあった。
 今年のアカデミー賞は作品賞はアーチストだったが、いずれも映画草創期の映画への愛を描いたもので、戦火の馬のスピルバーグといい、今回のスコセッシといい、ベテラン監督の作品が賞を占めた。その点は、新鮮味に欠ける印象でもあった。
 有楽町のヒュ–マントラストシネマで3D版を見た。アカデミー賞では11部門でノミネートされ、作品賞は取れなかったが、5部門で授賞した。20世紀初頭のパリ、時計職人の技術をもった孤児の少年と映画事業誕生時代の大作家、メリエスとの交流を描いたものである。何故このような内容と違った題名を配給会社がつけたかは原作の題がセルズニックのベストセラー「ユーゴの不思議な発明」だからだが、内容はスコセッシの映画への愛を描いたもの。
e0195345_20312192.jpg

 この映画の、発明とは映画であり、何もヒューゴの発明品ではない。正確には「ヒューゴと発明」。原題は「ヒューゴ」である。何だかファンタジー映画を期待していた観客はがっかりするだろうが、後半、映画づくりをのメリエスの世界をファンタジーとして、そしてハッピーエンドとなるのもその結果と思えばよいのだろう。映画はフランスが発祥の地、ルミエール兄弟が発明者である。だから、その伝統でフランス製のレンズ、アンジェニーは世界の映画用カメラを支配していた。駅の時計職人の孤児になった少年、ヒューゴは博物館の修復師だった父親から受け継いだ、自動機械仕掛けの人形に魅せられ、これを修理し続けて来た。彼は駅の時計台に暮らし、孤児狩りの保安官から身を隠し、また、食べる為にコソ泥もやっていた。そこで、駅の近所でオモチャ店を経営していたe0195345_1981898.jpgジョルジュ老人こそ、史上初の商業映画監督、メリエスであった。彼が映画製作を止めた後、玩具店を始めたのは史実である。機械人形を作ったのは彼であった。
 
e0195345_1975134.jpg

 20世紀初頭、第一次大戦直後のパリの駅頭が3Dで生き生きと映し出される。時計台の歯車に囲まれた時計塔内の不思議な造形美と3Dの動きが面白い。この時代はまさに機械の時代。蒸気機関車、ゼンマイ仕掛け、そしてアナログの世界であった。この物語の軸は“機械人形”と“映画”。父がヒューゴに遺した機械人形の修理が完了した時、機械人形は動き出し、「ジョルジュ・メリエス」という署名の入った月の絵を描く。その名はヒューゴの友人イザベルの養父、映画界からこつ然と姿を消した、世界初の映画監督の名前でもある。子どもたちの冒険が老人の頑な心を溶かし、忘れていた映画への夢を蘇らせる。20世紀初頭の機械文明最盛期のパリ、モンマルトル駅の雑踏が美しく、生き生きと描かれる。
e0195345_10173510.jpg

[PR]
 
 丸の内ピカデリーで戦火の馬を見た。なかなかの力作であった。主人公はやはり馬であろう。アカデミー賞3部門に輝いた。戦場シーンなどいかにも大作である。映画の持っているクラシックな映像文法が積み上げられている。ドラマ性で訴えかけるが、そもそも、奇跡のような物語なので、それなりに意識してのめり込む必要がある。文部省推薦優良映画といったところだろうか。第一次世界大戦でイギリスから海外へ送られた100万頭の馬のうち、帰ってきたのはわずか6万2000頭で、残りの馬たちは戦死したかフランスで食肉処理された。大戦はイギリスの男性人口に多大な影響を及ぼした。88万6000人の男性が死に、これは戦争に行ったうちの8人に1人、国全体の人口の2%に当たる。この惨禍の記念碑として作られたといってよい。もとの作品は「軍馬ジョーイ」という芝居だそうである。

 イギリスの田舎で競売に出された馬に魅せられた零細農家のオヤジが30ポンドで落札した。気難しいが力強く美しい馬だった。ジョーイと名付けられ、この家の少年アルバートと強い絆で結ばれる。この馬を見事に調教し、農耕にも使えるようにしたアルバート、馬との友情が生まれる。イングランドの美しい丘陵と田園が画面一杯に広がる。ストーリー展開も飽きがこないテンポである。馬との友情が何故生まれたかは説明が弱い。しかし、第一次世界大戦が勃発、友情は引き裂かれ、馬は徴用されてしまう。最初は騎兵将校の愛馬となるが、最初の戦闘で将校は戦死、馬はドイツ軍に軍馬として大砲の牽引など重労働に使われ、何度も命の危険に曝される。ドイツ軍から一時フランス人の老人と少女に救われるが、再びドイツ軍に捕獲される。

 戦場シーンは大迫力である。第一次世界大戦の悲惨な前線とそこで繰り広げられる過酷なドラマが息をつかせない。当時の戦争では人も馬も厳しい環境の中で傷つき、死んで行った。戦場では思いがけない奇跡が度々起きるといわれている。この話も、実話ではないが、似たような話はあったのだろう。少年も馬との再会を夢見て軍に志願し、前線に出る。ソンムのドイツ軍との戦いが始まった。戦車、毒ガス、砲撃戦と恐しい戦場を馬も生き抜く。英軍兵アルバートは毒ガスのために目を負傷する。激しい塹壕戰の中、混乱から脱出したジョーイは両軍対峙する中間点で、鉄条網にからまれて身動き出来なくなる。両軍から出て来た兵士が互いに馬を助けようと歩み寄り、ドイツ兵の助けで、馬は救出される。コイン投げで買った方が馬を手に入れることになり、イギリス軍に馬は返される。馬も負傷し、射殺寸前で持ち主の少年と病院で出合う。戦闘中に助けた将校や部隊の仲間の友情に助けられて、さらに元の少年のもとに戻ることが出来たというハッピーエンド。さらにこの作品は84回アカデミー作品賞ノミネートされたのあるから終わりよしである。何となく個々のエピソードがあっけなく、深みに欠けるのは、主人公がもの言えぬ馬であること。また、原作がWar Horse が、1982年に出版されたマイケル・モーパーゴによる児童小説ということもあるのだろう。


[PR]
 ヨーロッパの通危機は統一通貨ユーロを信用基盤としたことからはじまり、未だに危機下にある。サッチャー政権最後のときに、内閣のムードに反し、頑迷なまでにこれを拒絶した首相の決断においてイギリスは正解だった。この先見性というより、政治哲学からくるものでサッチャーの本領である。彼女は階級社会のイギリスで、食料品店の家に育ち、オックスフォード大にすすみ、女性として下院議員、保守党党首と男社会の逆風も越えて国家元首へと登った。生活感に反した決定を彼女はしない。その意志の強さ。戦いを物ともせず、保守の思想を基盤に、労働組合とテロリストIRAとも戦い、フォークランド紛争、国家財政再建、東西冷戦での勝利、そしてユーロ参加への独自路線の構築など、その政策は国を何度も救った。

 労働組合は弱者保護という名目で国家財政を破綻させ、労働意欲を失わせ、国家の衰退を招いた。国民として税金を払い、自主独立の精神と勤勉な国民こそ国家の基礎であるとして、バラマキ型の恩恵的な福祉を排撃した。そして、小さな政府を目指したことはまさに、今の日本が学習しなければならないことである。彼女の思想は、一介の庶民であることからはじまり、イギリスに多くいる独立自営の小規模事業者であった家庭環境から生まれている。彼女は、既存社会からの偏見と慣習に敢然と挑戦した。その人生は戦いの連続であった。だから、フォークランド紛争で出兵の決断もアメリカからの助言ももろともせずになされた。当時のヘイグ国務長官は、自分の戦争体験を語ったが、サッチャーは自分も戦いの連続であって少しもひるむ事が無い。アルゼンチンは独裁政権が続き、彼女は邪悪な政権と位置づけ、徹底抗戦を叫ぶ。巡洋艦、ヘネラルベルグラーノを撃沈する決断を自ら下した。フォークランド諸島は確保したものの、イギリスには苦い勝利となった。艦船や兵士の犠牲に見合った勝利だったかどうか今でも論争がある。

 これまで、ゆりかごから墓場までといわれていた高福祉と産業保護政策は政府支出を肥大化させ、イギリスの国力の衰退を招き、英国病といわれた。サッチャーは小さな政府により、財政健全化をはかり、規制緩和を行ない国家の衰退を止めようとした。しかし、規制緩和は金融ビッグバンを招き、ロンドンのシティはいわゆるウィンブルドン現象として崩壊した。ポンド危機、そして、人頭税に対する反発は、サッチャー政権を崩壊させた。英国の伝統産業であった炭鉱も崩壊し、地方経済は疲弊した。失業者が再び増え、イギリスは労働党政権に政権を譲った。しかし、サッチャーの政策は、長期的にはイギリスを救っている。彼女の内政に関しては、結局、労働党ブレア政権以降、後退した福祉政策の再建、特に、医療制度や公営事業、競争的な教育制度などは元に戻ってしまった。

 本来、人々の幸せを守るべき労働組合が障害となったイギリス、社会保障が労働意欲を失わせ、無責任が満ちあふれ、国家財政を破綻に導く。彼女は国の基盤は小規模企業事業者が成長する事で達成されると主張した。ベンチャーも含め、そうした成長産業が国を押し上げた。政治家の役割は、状況を変えることである。外交的には、国家悪と戦う姿勢を貫いた。弱き者には容赦なく悪が襲いかかる。その悪ー共産主義と戦わなければ書くの脅威に支配されるだろう。政治家とは妥協とか、調整がその行動原理だあったが、これを彼女は否定した。妥協とか、自分は圧政者ではないという口実のもとに深淵を曲げることをしなかった。調和、信頼、希望が彼女の指針だった。保守というのは原点に戻るということである。何も体制擁護とか、アメリカ寄りといった表面的なことではなく、保守には原則が無ければいけない。鳩山の、東アジア共同体といった幻想でもない。

[PR]
by katoujun2549 | 2012-04-14 13:14 | Comments(0)
映画 鉄の女の涙 マーガレットサッチャーを見て
 
 このサッチャーさんを見て日本の政治を語る事は空しいのでやめよう。政治家としてのリーダーシッップが今こそ求められている時代は無いのだが、彼女は100年に一度の人材なのだろう。比較するだけ野暮というもの。今年はフォークランド戦争から30周年でもある。
 世界で知られている彼女の実像を描こうということだろうが、伝記映画として、鉄の女という彼女の強さを表す内容ではない。だから鉄の女の「涙」となっている。とはいえ、I don't want to be on my own ! 私を独りにしないでと涙を流す人物はあまりにも通俗的で、ここは泣かない方が真実に近い。この映画のような場面で涙を流す人とは思えない。サッチャーさんは今もご存命である。しかし、認知症で療養という、その姿を描いてしまった。この映画はメリルストリープの為にあるような作品となった。老婆となったサッチャーさん生き写しであり、口調も「そっくりさん」を見事に演じた。アカデミー賞、女優賞は文句なく彼女のものである。映画の評価よりメリルの演技の方が高い。サッチャーさんが退陣したときのバックミュージックはカラスのトスカだった。最初はミュージカル「王様と私」と効果的に音楽が使われるところがイギリス的。
 鉄の女にも妻や母としての顔があり、知られざる孤独と苦悩があった。マーガレットを支えた夫デニス役にジム・ブロードベント。監督は「マンマ・ミーア!」のフィリダ・ロイド。第84回アカデミー賞ではストリープが3度目の主演女優賞を受賞。

 メリルがキャンペーンで日本に来て黒柳徹子と「徹子の部屋」で対談しているのを見て、黒柳徹子の通俗的な会話に失望した。サッチャーさんのキングスイングリッシュをよく演技されましたねとか、名女優であれば当たり前のことをしゃあしゃあと聞いてのける無教養な感じで何十年も長寿番組を続けている黒柳の馬鹿さ加減にげんなり。サッチャーの英語はミドルクラスの英語で、エリザベス女王から庶民的すぎると嫌がられていた。だからいいのだろう。この映画ではキッチンでお皿洗いも自分でするサッチャーさんの姿が描かれたが、またメルリストリープも主婦業をこなしながらの女優業ということを自らと重ね合わせて語ったことに何のコメントも出さない黒柳。この作品で頻繁に語られるサッチャー哲学についてメリルがどう考えているかくらい質問してもらいたかった。

 イギリス宝くじ協会がスポンサーである。イギリス人の描いた伝記的映画はいつもレベルが高い。英国王のスピーチしかりである。強烈な個性が物事を成功に導くという図式が必要なのだろうか。日本で伝記映画になりそうな人格の持ち主が少ないのだろうか。必ずしもそうではないだろう。例えばヒトラー最後の14日間といったドキュメンタリーもあった。日本では昭和天皇陛下を描いた「太陽」、東条英機の東京裁判などがその部類だろう。世界の偉人の持つ強烈な個性、哲学、皆が知っていることの裏に何があるかが興味深い。しかし、当時の北アイルランドのテロリストIRAとの戦いなどはもっぱら被害者、描ききれてはおらず、これこそ鉄の女の面目だろうが、映画としては惜しい部分もある。

サッチャー元英国首相の功績は、斜陽のイギリスを財政面で再興し、労働組合を抑え込み、フォークランド紛争に勝利して国家の威信を守った。さらには東西冷戦の勝者としてイギリスを導き、通貨面ではユーロ経済圏に入らずに今日の通貨危機から国を救った。EUに対する冷淡さは当時彼女の失脚の原因であったが、今は高い評価である。彼女は国を二度救った。この映画が製作されたことは通貨危機から免れたイギリスが彼女を再評価したことでもある。彼女の功績をトレースすることは既に多くの著書や自伝があるから制作意欲がわかない。この映画はそうした表の世界とは違う、個人としての姿を描こうとしている。

 この映画で見えるのは、認知症と高齢に取り憑かれた、女性の姿である。鉄の女という姿からは程遠い。イギリス首相を11年間務めたサッチャーの老後、そして夫を失った孤独な日々が描かれている。映画の題とは裏腹な、人間的な弱さをえぐり出そうとしている。人生の最後を彼女がどう過ごしているのか。言葉や記憶を取り戻そうと苦しんでいる一人の年寄りとして、10年前、既に先立った夫デニスとの物語と対話を軸に展開する。夫はいないが、幻覚として登場するして過去を語る。彼女は二人との思い出がその政治活動と錯綜して、あくまでも彼女の心を支え続けた夫デニスとの愛の物語でもある。
「私の望みは世界を良くしようと思った事」とサッチャーは言う。そして夫は、「そして、君は成し遂げた」と答える。

 サッチャーさんは、一介の食料品店の娘であった。それがオックスフォード大学に進み、イギリスを救う大政治家に成長した。彼女が主張したのは、独立自営の小規模事業者が健全であり、その成長こそが国を興すという彼女の哲学である。階級社会であるイギリスで庶民からのし上がり、女性議員として周囲の偏見や圧力とも戦う姿が描かれる。そのタフな政治家ぶりも遺憾なく描かれている。ただ、物語の展開に既に知っている事が多い割に冗長な感がある。このあたりが作品としては難である。天は自ら助けるものを救う。彼女の哲学は God helps those who help themselves.
である。


[PR]