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 アメリカは日本のように国民皆保険とはなっていない。ところが、国民一人あたりの医療費は経済協力開発機構(OECD)平均の2.5倍近くに膨張。民間保険の医療保険料が高騰し、国民の15%を無保険に追いやっている。無保険者はセーフティネットとしての医療を受けられない訳ではないが、一定額を超えると高額な費用負担に怯えなければならない。日本の場合はバイパス手術を受けても高額医療制度のお陰で、16万円以上はかからない。

 では、アメリカ人は何故国民皆保険に反対するのだろうか。制度というのはやはりその国の背景を見なければ分らない。オバマ政権の医療制度改革は高齢者の薬代とか、がんの検診などは保険適用となり社会的弱者を救済するのだから理想的に見えるが、どっこい国民はそう受け取っていない。良い事は政府が決めるのではなく、個人が選択し、決定する事なのである。政府が決めたことなど個人にとっては余計なお世話なのだ。

 アメリカというのは、人種、所得格差、様々な問題や差別を抱えた国で、どこに視点を持つかを決めないと、奇妙な論調になってしまう。この国の全てを語ることはなかなか難しい。ここでは、何故、オバマ改革が上手くいかないのか、何故日本人の目から見て良い事であるはずの国民皆保険に頑強な反対があるのかを考えたい。そこにはアメリカという国のそれなりの事情と、既得権者を中心とする幸福な社会とが垣間見えるからである。これらは日本人が夢見た世界でもある。もともと毎年多くの移民や違法入国者に悩む国でもあり、彼等に既に社会的地位を築いた人々と同じ権利を与える事が財政リスクを高め、国を危機に陥れるという恐怖感がある。彼等の平等感覚や自由、自己選択行動の尊重という精神基盤の琴線に触れることなのである。アメリカの異常な部分でこの国を見るとそれも間違いだと思う。日本と比較してみると彼等の政治感覚とか、経済を見る目は日本人より自覚的である。我が国のお任せ民主主義とは違った健全な側面を持っていることに気がつかない。えっ?何が健全?いや、文化の違いである。

  アメリカの学校給食でチョコレートミルクを廃止した。砂糖の分量が多く健康に悪いからという。ところが、子供達はミルクをボイコットし、家から甘いソーダとかジュースを持って来てミルクを飲まなくなってしまった。押しつけを嫌う国民性である。よかれと思った政策が押しつけとなる。

民主党オバマ政権は、規制を強化し、無保険者を減らそうと、医療保険制度改革に乗り出した。共和党は激しく反発。オバマ政権が議決した医療保険制度改革について、アメリカ人の38%が賛成、56%が反対という。この制度改革の背景には貧困層の増加がある。
 アメリカの貧困層の数は90年代には1230万人だったが、10年で4620万人に増加。低所得者層が集まる「貧困地区」の人口は同期間に33%増えたという。このため、4500万人の無保険者がおり、医療の恩恵に制約があるという。本当だろうか。実際は様々なセーフティネットがあり、貧乏人も質的には問題があるが、それでも、臓器移植とか高度な医療は受けられないが、日本並みの医療サービスを受けている。何も、全員がのたれ死にをしている訳ではないことをマスコミは報じていない。日本政府も、日本のマスコミもアメリカが変な国で、日本がいかに幸せな国かを国民に諭すのに熱心なのである。とはいえ、今、オバマ政権の医療保険改革は、今年の大統領選挙にも大きな影響がある。【ワシントン時事】米連邦最高裁は26日、2010年3月に成立した医療保険改革法をめぐる違憲訴訟の審理を開始した。米国民に医療保険加入を義務付ける規定が同法に盛り込まれたことが憲法違反に当たるかどうかが最大の争点。医療保険改革は、オバマ大統領が自ら1期目の最も重要な成果の一つと位置付けており、6月にも出る判決は11月の大統領選に大きく影響しそうだ。 医療保険改革法をめぐる訴訟は、共和党系の26州の知事らが全米各地で起こしたもので、すでにバージニア州、フロリダ州の連邦地裁でそれぞれ違憲判決が出て、政権側が上訴した。

 連邦高裁では、ジョージア州アトランタ高裁が8月、加入義務化には違憲判断を下す一方、法自体が無効とした1審のフロリダ地裁の判断は行き過ぎとして取り消した。オハイオ州シンシナティの連邦高裁は6月に、保険加入の義務づけも合憲との判断を下しており、司法判断が分かれる事態になっている。

 医療保険法は、医療費を支払えない無保険者をなくすため、14年から大半の国民に保険加入を義務づけるものだ。無保険者の比率は現在の約19%から16年には8%程度に低下する見込み。ただし、野党共和党は保険市場への政府介入や財政負担が増すとして批判を続けており、同党の各大統領候補も法撤廃を公約に掲げる。最高裁の焦点は、保険加入が、合衆国憲法で規定する「通商行為」にあたるかどうかだ。米国は一般的に州の権限が強く、連邦議会の管轄が限定されているが、憲法は各州間の通商行為については連邦議会に規制する権限を認めている。

 政権は、医療保険がこの「通商行為」に該当するとして加入義務づけは合憲との解釈だ。ただ、関係者は「社会保障の定義も含め、線引きが非常に難しい」とも指摘する。景気悪化で支持率低迷に苦しむ大統領にとっては、大統領選直前に政権の重要施策にお墨付きが得られれば待望の追い風だ。逆に敗訴なら共和党の格好の攻撃材料と化す。
 オバマ政権は所得格差に関する国民の不満、なかでも、NYなどで起きたデモとか座り込みを利用し、貧困層に訴えようとしている。年間20万ドル以上の富裕層に対する増税などである。アメリカで貧困層は増加の一途である。彼等は票田なのである。
 貧困層の増加に関する調査は00年~09年の国勢調査を分析したもので、「貧困地区」は4人家族で年収が2万2300ドルを下回る住民が40%以上を占める地域と定義。アメリカの貧困層のおよそ10%がこの貧困地区に住んでいると推定される。都市部の倍以上の速さで郊外に拡大「今のままでは、貧困地区の住民は公共教育の質の低下や失業問題、高い犯罪率など数多くの問題に直面する」と、ブルッキングス研究所は分析している。
 貧困地区が最も急拡大したのはデトロイト、トリード、ヤングスタウンなど中西部の都市圏。昔から都市部では貧困地区が他の地域よりもはるかに多かった。しかし近年、貧困地区の人口が急増しているのはむしろ郊外で貧困地区は過去10年間で都市部の倍以上のスピードで拡大した。住民の中ではアフリカ系アメリカ人が最も多く、45%近くを占めている。国民皆保険となった場合の医療制度の恩恵は彼等に集中する。彼等は生活保護のような支援を受け、働かずに暮らしているという冷ややかなまなざしをアメリカ人は持つ傾向にあって、一体何故、増税によって彼等の為に自分達の生活が影響されなければならないか、納得出来ない。中流層のアメリカ人は税金が上がるだけで、自分達のメリットは何も無い。払った税金は行政サービスによって戻って来るという彼らの常識に反するのである。

 もう一つの理由は、国民皆保険制度は将来的には増税無くしては維持出来ないし、破綻するだろうということを国民が予測していることだ。日本は、自民党の政権維持の人気取り政策で、田中角栄が、老人医療費無料を掲げたり、国民皆保険制度が我が国の医療の優れた点だと喧伝するが、これがまた、国家財政逼迫の原因一つである。この事を批判するのが財務省だけで、国民はその結果が予測されるにも拘らず、見て見ぬ振りをしてきた。医療に関しては眼をつぶる。国民皆保険などは恐らく大きな財政圧迫要因で、アメリカの財政赤字はこれのために加速するだろうという危機感がある。その点アメリカの世論は明解である。さらに、アメリカではこうした国の定めた制度としての保険に強制的に縛られることを嫌う国民性がある。選択の自由を奪われる事は国民意識を逆なでする事なのである。

 彼等が嫌うのは、国民「皆」保険といった全体行動である。選択性こそ自由ということである。一律という政府の押しつけ保険に入る事への抵抗が強い。彼等とって自由とは選択の自由の事であるからだ。まるで共産主義とか、社会主義的な結果が見えている制度であると考えるのである。政府の巨大な保険機構が出来、中途半端なサービスしか出来ないだろう。さらに、これまでの保険会社は危機感を感じている。彼等が猛烈なロビー活動を行うのである。彼等は選択の自由の無いサービスを信用しない。必ず無駄が出て、社会的不経済を起すという懸念を持つのである。この点、日本人はあまりにも受け身である。日本の医療保険も組合保険とか、国民健保、政府管掌保険とか、加入者の負担も様々だから税金ではないと思うが、国民経済的には税金と同じようなものである。個々の医療サービスの単価、あるいは定額払いの単価は、厚生労働大臣の諮問機関である中央社会保険医療協議会(中医協)が決定。これは公益、支払側(保険者)、医療側の各代表から構成されて地域により価格は若干異なるが、ほぼ全国同一価格であり、医療の質を無視した配給制度のようなものである。だから、闇も存在する。私立大学病院などで手術をすると教授に頼めば多額の謝礼が飛び交う。この健康保険の使い道や保険点数、医療費の決定は極めて限られた人たちが密室で決めている。その使途には国民の目が届いていないのが現実である。

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「ガタカ」のアンドリュー・ニコル監督が、ジャスティン・ティンバーレイクとアマンダ・セイフライドを主演のSFアクションサスペンス。科学技術の進歩によりすべての人間の成長が25歳で止まり、そこから先は左腕に埋め込まれた体内時計「ボディ・クロック」が示す余命時間だけ生きることができる近未来が舞台である。貧困層には余命時間が23時間しかない。主人公ウィルの母親もそれで亡くなる切ない前半の展開。富裕層は永遠にも近い時間を手にする格差社会が生まれていた。ある日、ひとりの男から100年の時間を譲り受けた貧困層のウィルは、その時間を使い富裕層が暮らす地域に潜入。大富豪の娘シルビアと出会い、時間監視局員(タイムキーパー)の追跡を受けながらも、時間に支配された世界の謎に迫っていく。このあたりから、ドラマはまるでボニーとクライドといった様相となる。時間を貯める電池のようなものを強奪して、貧困層に分け与え、大富豪のもっている時間銀行を攻撃する。

何ともユニークな発想で、時間という限りある道具を縦横に使ってドラマを展開して行く流れは見事である。場所は、何だか、現代のロサンジェルスなのである。彼等の階級社会が、古くさいマルキシズムの見た資本主義社会というのが気になる。何ともそのあたりの解釈が安っぽいのだが、ハリウッドの見た経済社会の限界だろうか。あるいは、今日の格差社会に対する象徴的な表現だろうか。いずれにしても、その視点のユニークさが場面を盛り上げてくれる。

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 国家の危機はまさに今迫っている。東日本大震災とそれに続く直下型地震の危険性が忍び寄り、無能な政権のお陰で北はロシア、東は中国と北朝鮮が力づくで日本の領土を脅かそうとする。長いデフレから脱却出来ない経済。企業も新しい展望が見えず、防戦状態が続いている。こうした国家の危機は誰かが訴えなければならず、それが橋下であろうと、石原であろうと、我々は今の日本が置かれている状況を何とか変化させようとあがいている。このことは経済会のリーダーや国会議員も同じだろう。何とも閉塞感漂う時代だ。そこに登場した橋下は世間の注目を集める事に成功した。

 二人の言動で共通しているのは、必ず敵を作ることである。この手はヒトラーがユダヤ人を敵とした事にも似ている。彼等の敵は、意思決定の遅い民主主義、権限を越えて動きの取れない役人、さらにはアメリカに押し付けられたと決めつけた日本国憲法、特に憲法第九条だろう。しかし、今も、そして行政がこれまで果たして来た役割を無能無策と決めつける。それなら彼等は一体何をしたのだろうか。

 石原慎太郎は、元山下汽船の役員の家に生まれ、当時の家庭における戦争による犠牲から逃れていた。石原慎太郎の思想の古くささは当時の教育にあるようだが、我が国が何故戦争に負けたか、その責任は誰にあったか、勝算のない戦いを進めた帝国軍人の責任を忘れて、戦争を語ろうとする。
 彼は本来、国を動かすほどの人材でないことを自分では良くわかっている。かつて、作家としては三島由紀夫の文章能力の後塵を拝し、演劇では浅利慶太には敵わない。さらに俳優としては石原慎太郎の足下にも及ばない自分に見切りをつけ、これまでの名声を利用して参議院議員で登場した。その志はあっても、運輸大臣として、また、東京都知事として大した業績は無い。小心な心は、一時そのチック症状に現れていた。小心者の特徴だが、敵を作って民衆の気持を逸らすが、その目的は自分の優柔不断をな心を見破られないようにである。

 橋下氏は、もう少しましな感じがある。しかし、彼も、自分の力の無さを隠す為に、敵を作る事に余念がない。彼が狙うのは、石頭の小役人とか、日の丸や君が代に敬意を表さない変わり者の教師である。彼等は何も今日の日本の停滞を招く程の権力も、影響力も持ち合わせていない。生贄にして周囲を震え上がらせれば良いのだから。彼の歯に衣着せぬ言動は、これまでの行政に不満だった人々、というより、不景気に喘ぐ人々の共感を得ることに成功した。維新の会の政治塾300人定員に4000人も応募して来たのだから。彼はこれを民意だと思うかもしれない。実際は、いろいろな思惑をもって入って来た人々だろうと思うが、そんな事は気にもしないであろう。そうした楽天的なとことが彼の良さかもしれない。
 
 二人のそうした考えが実際は政治的には結構意味を持って来て、これを利用する人々が生まれる。民主主義の意思決定プロセスは実際面倒であり、決定に時間がかかる。これを補うような仕組みがなかなか生まれない。アメリカの大統領制度はその中で解決策ではある。橋下氏にしても石原氏にしても、組織を引っ張って行くにはもっと別の力が必要だ。第二次世界大戦の時にチャーチルが果したように結束を呼びかけ、皆の能力が発揮出来るよな取り組みがそれであり、これは協調、共同、絆、愛情といった概念である。彼等はこれが決定的にかけている。ビジネスでも、何も競争ばかりではない。橋下氏は司法試験に勝利し、選挙にも勝ち、競争の覇者だから、競争が大切dと思うかもしれないが、世の中を動かすきっかけはそればかりでは無い。外交政策にしても、経済でも競争ばかりでは無く、互恵的な関係こそが、社会を向上させるのではないだろうか。今日の平和は、そうした互恵的な関係に入れば、戦争など起きる余地が無くなる。中国でもそうではないか。北朝鮮やロシアと敵対するばかりでは衝突のリスクは増す一方ではないか。互いの面子などは小さな問題になるように経済関係を築いていくことこそ
安全保障の道である。しかし、敵対的な北朝鮮のような国には制裁が必要なことは論をまたない。彼等そうした中にある拉致被害者のことに対しては何故か無頓着に見える。多面的な視点の無い、橋下、石原両氏の強引な政策が、それに慣れない国民を再び破滅の道へと導家内とも限らないのです。


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 人間いつ死ぬかというのは我々の判断出来る事ではない。最後を迎える時でも、昏睡状態が何日も続くことがあるかと思えば、数日とか、1日ということもある。とにかく、命の事は最後まで我々人間の領域ではない。危篤状態ということは医師も判断できるが、何日とか、何ヶ月先ということも無理だろう。医療の立場からは、経験上予想はできても、患者や家族には何時亡くなっても不思議は無いという表現しか出来ない。延命措置をするか、しないかの決断を迫ることくらいで、患者の方も、辛い決断であろう。しかし、今日、癌など、病気で回復不可能という場合は、人工呼吸器や心臓マッサージなどの延命措置は行なわないのが通常の措置になってきた。

 今日、在宅でかなり病院に近い設備が設置出来る。しかし、それらの機器の性能は終末期に対応した内容ではない。酸素吸入器は在宅用で5L/分が最高である。だから、肺癌なの呼吸困難を終末期に伴う病気では対応出来ない。病院の機器は10L/分が可能である。終末期に必要となる痰の吸引も家庭でも可能だが、例えば、ALSなどの患者なら家庭で行ない、長期の療養である為、家族も慣れて来る。

 しかし、病変は時を選ばないし、全く予測不能な時が多い。しかも、癌の末期には疼痛とか、肺癌などは呼吸困難を伴い、患者は苦痛を訴えるだろう。そうした場合はやはり、病院に救急搬送し、病院での治療となるだろう。患者に経済的余裕があれば、病院の差額ベッドで2.5万円〜3万円/日くらいで広くて設備の良い部屋を提供してくれるから、家族や親族が看取りや看病に訪れるためには病院の方が都合がよいと思う。ただ、病院でも可能な治療というのは終末期には限界がある。では、家庭でどうかであるが、昔のような大家族なら人手もあるが、今のような核家族で、しかも家族が仕事を持っているような場合はやはり家庭では難しい。在宅の看取りには時間も人手もかかるのである。

 癌の末期では、疼痛とか呼吸困難が始まると、あとは緩和治療だけである。抗がん剤などで癌を叩く治療そのものが死を早めることになるからだ。人間最後は、脳が停止するか心臓停止、または呼吸が停止すれば人は死ぬという厳しい現実があることだ。ただ、何時、何日後、あるいは何週後かも医師といえども予測出来ない。経験上、何時天に召されてもおかしくないと言うしか無い。死というのは医療の領域というよりやはり、神様や仏の世界なのである。医師は法律上確認する事しか出来ない。


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 精神病の治療をどうすすめるか

1.発病に気がつくかどうか

 毎年3万人以上の自殺者が出る我が国であるが、そのうち7割以上は何らかの精神疾患にかかっている。自殺を精神的、倫理的、宗教的にとらえることから脱し、医療的に対応する事ができるようになったが、その道はまだ始まったばかりである。薬も、病院も万能ではない。出来ない事の方が多いのである。何故精神病になるかが殆ど解明されていない。セロトニンといった物質が絡んでいる事は分かって来たが、仮説であるし、精神病の内容も、一応の分類をしているにすぎない。個人ごとに本来治療も違うのである。病気とはいえ、伝染病や風邪とは違う。原因が明確ではないだけに、完治は難しいということだ。

キリコ 
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 家族に精神病の症状が出た場合、先はそれが、家族との人間関係による気分的なものか、病気の症状であるかを見極めるのが難しい。本人の性格的な傾向とみて好意的に理解しようとすることもあろう。ところが、鬱病や、統合失調症は早期治療による改善が得られる病気なのだからこれを早く見付けなければならない。家庭の人間関係というのは日常性が目的であるから、何とか元に家族は戻そうとする。そのうち、治療の機会を失うと状況は悪くなる。
 鬱病が困った病気なのは、ある程度治療が進んで、治りかけた人が自殺をする事例が多いことだ。年間3万人を越える自殺者の70%は何らかの鬱症状ー鬱病である。病気でぐったりしている期間は、口では「自殺する」と言っても、元気も無い。注意しなければならないのは治りつつある時、衝動的に行動する元気が出てしまうのである。何らかの兆候を見つけて、早いうちに家族が治療に向けて支えなければ、手遅れになる。困ったことに、症状が軽いと病状がなかなか把握できない。医師も間違った診断をしやすい。

 鬱病にしても、統合失調症にせよ、患者本人の自覚が初期の場合乏しく、どうも周囲の人間関係がうまくいかないことに本人と家族がそれぞれ一人で悩む場合が多いのではないだろうか。世間体も気になるから隠そうとしてそれが治療のタイミングを遅らせる。だからそうならないように兆候を掴まねばならない。
 鬱病の場合は朝寝床から起きる事ができないとか、部屋を暗くしないと眩しい、また、眠れないなどの症状が出て来る。しかし、この程度では家族は気がつかない。つい頑張れとか、何やってんだと言ってしまう。これが患者にはとてもつらい。統合失調症の場合、鬱病と同様の症状に加え、様々な形があり、妄想や幻覚が出て来るが、それには、患者だけが家族には告白せず、自分だけで抱えている。そうした症状につながる奇妙なことを口走ったり、何らかの行動を取ったりするようになると、家族以外の近隣の住人や学校や会社の同僚などから指摘されて発見する事も多い。精神病は人間関係が正常に続けられない事が困ることである。家庭内では皆が我慢すればいいが、社会性に問題が出ると家族は隠しきれなくなる。現代は企業も、組織も一定の常識の中で動いており、これに外れた言動は排除されてしまう。古代においては統合失調症というのは存在しなかったという説もある。夢見る人、不思議な幻覚が見える神秘的な人として特別能力者扱いされていたこともある。巫女とか預言者などもそうした性格があったのではないだろうか。精神病を隔離し、社会から排除するようになったのは近代であり、この点を指摘したのがフランスの哲学者ミッシェル・フーコーである。彼は『狂気の歴史』『監獄の誕生』でこのことを明らかにしている。

 被害妄想の場合、自分が病気であることを否定し、周囲に対する警戒感を膨らませ、病院に行く事や服薬を拒絶する。そこが家族の悩みでもある。家族が本人のいない部屋で、対策を話し合ったりすると、じっと息をひそめて、何をされるか敏感に察知し、その対抗策を考えて抵抗する。もの凄く神経が研ぎすまされ、超能力を発揮する場合もあり、2階にいても1階での話し声を聞いている。苦痛の原因が自分の身体状況である事に気づくと一歩前進である。

 映画、ビューティフルマインドでは統合失調症に罹った、天才数学者ジョン・ナッシュが自分の小屋に籠り、宇宙からの攻撃を防衛する基地を作っているシーンがあった。統合失調症になると、部屋に落書きしたり、部屋を暗くし、幻覚の世界に入って行く。その病気の特徴を見事に描写していた。また、鬱病の患者も、掃除をしないので、部屋がゴミだらけになったりで、家族は次第に発症に気がつくようになる。鬱に悩んでいた友人の家に行ったが、土足で部屋に入らないと歩けない程汚れていた。異様な感じになる。映画では、ラッセルクロウ演じるナッシュ先生が講義中にソ連のスパイに追いかけられる妄想にかられ、逃げ出すシーンがあった。周囲も普段は気がつかないか安定しているのだが、突然、パンツ一丁で街路に飛び出したり、公園で大声を上げて叫んだりすると全く家族は困って、精神病院につれて行くことになる。他人に暴力を振るったり、時には殺人に及んだりするのが被害妄想系の統合失調症だが、実際ここに至るのは稀。全く気の毒な病気である。鬱病なら閉じこもるし、女性の統合失調症では夢見る恋人の名を路上で叫んだり、架空の恋人を雨の深夜にバス停で待ち続けたりする。そのひとの社会的な立場によって症状も変化する。ここに至ると奇妙な事をしてしまった自分に気がついて、従順に治療をうけるようになる。そうした場合、宗教に凝ることは現代の医療では嫌う。治療の機会を逸し、悪化することが多いからだ。

2.投薬治療に入れば成功か

 精神病の初期治療はとにかく、医療機関に行く事で半ば成功である。家族との話し合いとか、カウンセリングでは治らないから「病気」なのである。インフルエンザが話し合いで治らないのと同じだ。カウンセリングで治る程度なら、風邪を引いたようなもの。ところが、薬を飲んでも治らなくなると、肺炎になったようなもので医者通いとなる。
 もちろん、精神病の治療にはカウンセリングと投薬がある。患者からヒアリングをしながら症状を探り、適した薬を選択する。かつては副作用の強い薬が多く、倦怠感や体のだるさからやはり寝込む事が多く、仕事を持っている患者には辛い治療であった。ところが、近年セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)という薬の開発が進み、かなり改善されてきた。パシキルとかジェイゾロフトという薬の名前である。いずれも症状を抑え、高低差の激しい患者の気分を平衡状態にさせるものである。薬で大切なのは血中濃度である。これを測って適量を判定する。しかし、困ったことに、どの薬もそうだが、副作用がいやで止めたり、長期間使用すると効果が薄くなってくる。だから、薬を変えたり、治療方針を変えたい。ところが、医師はなかなか変えない。何とかしようと病院を転々とすることになるが、前の病院の紹介とか、引き継ぎがあって、これも変化がないまま時間がたっていく。患者も家族も疲れ果てる。例えばの話だが、雅子妃殿下の治療に芳しい効果がない理由は、多分高名な医師についていて治療方法が変化せず、角度を変えた治療を試みることができない。特に皇室内では経過観察が難しい、特殊な環境のせいであろう。

3.治療の成功例

ある患者は統合失調症の治療に10年以上苦労していた。癌になり、大学病院に入院した。彼はそれまで既に癌になっている事を知っていたが、自分は幻覚の名医に相談し、治療をしているという錯覚に陥っていた。末期になるまで家族にも黙っていたが、遂に癌が背骨に転移し、激痛が走るようになって初めて家族に告白したのである。そこで家族は病院で精神病の治療もするように勧めた。抗がん剤治療のため別の病院にも入院し、同様に精神科医の治療を行った。更に在宅で訪問の医師の診断を受け、結局3人の医師の診断で薬を選択した結果、統合失調症の症状はすっかり消えてしまった。末期がんであったが、精神的な平衡を保ち、家族との円満な人間関係を回復すると癌の進行も緩やかになり、結局、延命することができた。その患者は6年後に癌で亡くなったが、家族は患者と精神面で症状が消えたため正常な関係を結ぶことができた。最後は幸せな日々を過ごすことができたのである。
 こんな事例は稀で、普通は医師の格好のお抱え患者、お得意さんとなり、体のよい金ズルになってしまう。その状態から脱出するのは容易ではない。親類などは、何で病院に入院しないのかといぶかるが、実際入院する段階かどうかを判断するのは医師だから困る。家族の都合では精神病院を隔離施設としてしまう。今日、開放病棟とか通院治療が主流となっていることに無理解なのである。

 患者の自覚的な療養というのは、自分の症状を本人が理解し、自分の症状に程よく付き合う事である
。統合失調症などは完治は難しいのであるが、程よくコントロールすることは可能である。これが上手くいかなければ、嫌なことばだが、「廃人」という状態になってしまうか、自殺したりする。自分自信をコントロール出来なくなるから、家人の介護状態となるのである。そうならないように、早期発見することが大切である。

ムンクの叫び
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 イエス様の奇跡物語で5000人の人々にたった5匹の魚と5個のパンで全員が満ち足りたという箇所がある。マルコ8章では4千人に8個のパンと僅かな魚、マタイ伝では5千人に8個のパンと2匹の魚となっていてその説明はかなり執拗である。このパンの奇跡は新約聖書の4福音書全てに書かれている。何かが起きた事は間違いない。イエスが奇術の技を持っていたという説もあるが、そうではない。一体何を示しているかを考えると、聖書の読み方も変わって来るだろう。その奇跡を分析する程つまらないことはない。

 荒れ野で大勢の群衆を前に、イエスは神の国を説いた。そのとき、現代とは違って。皆旅をして来る。場合によっては何日もかけて来る。そうした場合、近所の人は食料を必ずしも持っていないが、遠路の人は必ず持っている筈だ。ガリラヤ湖のほとりで魚は捕れるし、干した魚なども売っていたかもしれない。だから、イエスがそうした食事に対して、象徴的にパンと魚を皆の前で並べて示すとそれが食事の合図となり、皆が分け合って食べた結果、7篭ものパン屑が集まったのだろうと考える事ができる。しかし、教団にとっては、食事の支度をしなかったことがイエスに救われたため、その感動を伝えたのかもしれない。何だー結果オーライではないか。というとつまらん。そんなことはどうでも良い、素直に奇跡を受け入れればいい。

 神は常に福音を証し、述べ伝える時に必要なものを備えて下さる。出エジプト記の砂漠で放浪中のユダヤの民の上に降らせたマナの雨然りであり、旧約聖書はそうした神の奇跡の歴史であった。神は全てを用意して下さる。神は信頼関係をもてば必ず、答えて下さるという事である。
 聖書の奇跡物語は一見荒唐無稽のような表現が現代人にはあるが、信仰生活 、教会生活を長い間送っているうちに、成る程と思うことがあり、聖書の読み方にもかかわって来る。福音派では聖書を文字どおり解釈する。歴史的な出来事と主張するが、中には象徴的な表現としたり旧約聖書には神話に起源を持つ物語もある。このパンの奇跡は、教会での集会などで、不足の物があったりしても何とか旨く治まることがある。全く、不思議な感じになることがある。当時も、そのようなことがあったに違いない。

 教会では聖餐式で小さなグラスで葡萄酒と二センチ角のパンでキリストの身体を象徴としていただく。カトリック教会は葡萄酒は神父が全てミサの後飲んでしまい、信徒は聖餅という丸いウエファース状のものパンの代わりに神父から頂く。キリスト教にとってこの儀式は最も重要なサクラメントー秘蹟である。この扱い解釈をめぐって宗教改革の論争がおき、教会の分裂を決定したのである。

 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
(マタイによる福音書:14章14節~21節)

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