<   2012年 02月 ( 16 )   > この月の画像一覧

 1.河村たかしの南京からの訪問団への発言

 河村名古屋市長が、「南京大虐殺は無かった」発言をした。このために、南京市からは名古屋市との姉妹都市解消騒ぎになっていることがニュースになった。中国では南京で日本軍が30万人以上の民間人を虐殺し、その記念館が観光客に公開され、反日感情を高めている。南京大虐殺は東京裁判にも取り上げられ、死者20万人とされ、日本の平和に対する犯罪行為として、裁かれた。司令官、松井石根大将はその責を取って、戦犯として絞首刑になった。国民党の宣伝が共産党に引き継がれ、誇張された。しかし、不思議なことに、当時戦った国民党軍の蒋介石は、南京でこのようなことがあったことを台湾から日本人に抗議したことはない。むしろ、松井大将の死を悼んでいたという。この事件を拡大してプロパガンダに使うのは、南京と関係なかった共産党であった。いかにもヒステリー気味、共産主義者特有噓八百ではないか。

 江沢民などの中国政府の一派は、いまだに日本軍の蛮行を誇張してこれを取り上げ、反日感情を煽ろうとする。諸外国に蹂躙された記憶を忘れない為というが、実際の中国の悲惨さは実は内戦と共産党政権の失政にある。当時、日本軍に包囲された南京市民は多くが市街から避難し、10万人程しか市内にはいなかった。なぜ、これが30万人以上に膨れ上がるのか、多くの識者はここに疑問を呈している。河村たかし氏はまさにこのことがいつまでも日中間の刺のようになっている歴史認識を改めようとしている。まことに勇気ある言動である。しかし、暴言でもある。

2.中国の捉え方
 しかし、彼の意図にそって事は進まない。彼等はもっとしたたかであって、これは一南京市の問題ではなく、戦後の中国の対日政策、政府の見解も連なり、むしろ、虎の尾を掴んだだけで、何もこれでは動かないだろう。象の腹を蹴飛ばしたようなことになって、相手は暴れるだけで何も得られない。今後ネットによる嫌がらせ、政府からの抗議、南京市の批判など名古屋市は対応に追われるだろう。そうした混乱を河村市長は予測していただろうか。
 歴史を中国の側から見る視点を失わない方がいい。中国は日本を爆撃したリはしていない。戦場となったのは中国。本当の日本軍の無茶苦茶な行為は戦争末期だったはずだ。秦氏の説では南京では3〜5万人くらいという数字である。大きな数値であるから、全くなかったという主張は通らないだろう。というより、中国は、日本軍の中国での戦争行為の象徴として取り上げているのであって、否定するならば日本軍の中国侵略も無かったと言うに等しい。そのレトリックにどう答えるかを用意せずにいきなり南京大虐殺は無かったという事だけを主張しても反感を惹起するだけであろう。他国が戦場になれば当然多くの蛮行が起きる。戦場になった国民の立場に立たないと問題はこじれるのである。実際、日本軍との戦いで多くの中国人が亡くなった。さらに国共内戦、共産党支配の中での死者はその比ではない。でもこのことを言っても始まらない。歴史認識の問題は友好使節団に話すべき事ではないのである。沖縄で一少女が海兵隊に暴行された時の事を思い出すべきだ。昔はニュースにならなかったことかもしれない。しかし、今は違う。過去の事は現代では何十倍にも大きくなる。虐殺は無かったといえば、中国側は0ではないことを理由に攻撃して来る。所詮敵わない議論なのだ。30万人という規模は無かったといっても始まらない。無かったという言葉尻だけを取り上げられるのである。

3.南京事件とは
 そもそも、南京事件は、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の投降した便衣兵、一般市民などを殺したとされる事件である。東京裁判は1946年だから、9年も前の、しかも、戦場での出来事だから、証拠は証言以外には無い。この事件は日本でも研究者が、多くの研究を行い、民間人の死者数はさらに不明である。そうした中で虐殺があったか、無かったかも含め、死者数を論争することは全く意味がない。推測こそできるが、どのような状況で何が起きたかを理解する必要はある。しかし、一方では、政治の世界では歴史認識とか、領土問題から外交に入るのは絶対にタブーである。
 Wikipedia では次の説明がなされている。
 「南京事件以前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への暴行・殺傷・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。一方で、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人への暴行・殺傷、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある。また兵士の日記についても通常一兵卒が所持する事が出来ないはずの万年筆で毎日の様に記録されていることから、従軍中にそのような余裕はなく捏造ないしは誇張されたものであるとする指摘もある。上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、上海から南京へ向かう途中に日本軍による捕虜や民間人の殺害や略奪を目撃したことはないし、聞いたこともないという証言をしている。」当時の陸軍は世界有数の統率の取れた軍隊だった。しかし、従軍記者であった石川達三は行軍中の蛮行を書いている。真偽も不明だが、軍紀違反は秘密裏に行なわれ、南京事件も軍の指示ではないが、当時の松井司令官はその報告を受けて激怒したというから何かあった事は確かだろう。

4.歴史認識と研究

 秦 郁彦(はた いくひこ)『南京事件 虐殺の構造』中公新書 1986における研究が我が国では最も常識的な分析と言われている。もちろん日本の右翼などにはこれも否定し、ただの幻であったと主張する。嫌なのは石原慎太郎とか、あの横暴な軍部まで肯定しかねない人たちが勢いずくことだ。東京裁判を全て否定するグループはその傾向である。日本軍は第二次上海事変で南京に行くまでに日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出し、日露戦争の旅順攻略にも匹敵する凄残な消耗戦であった。さらに南京までの進撃中や、南京市街戦でも多くの犠牲をだしたが、勿論中国軍も10万人以上の戦死者を出している。特に、南京が包囲される時に、中国軍は脱出させなかった為に、多くの兵が取り残され、しかも、脱出しようとした兵士は自軍の督戦隊によって殺されている。市街から脱出出来なかった兵士は便衣に着替えて市民の中に紛れ込み、年齢もまちまちで、少年を含んだ兵士が占領した日本軍に摘発され処刑された。この際、市民も中には混じっており、また、摘発中に強姦や略奪が無かったとは言えない。そこを被害者である中国は主張しているので、後の1941年以降三光作戦も実施した日本軍の蛮行はあったから、全くなかったと加害者の日本は言えない。そもそも、第二次上海事変自体、国際的には中国側の攻撃も、民間地区を爆撃し、ホテルなどを破壊して多くの犠牲を生んでいるし、国民党軍は、当時のドイツから支援を受け、ゼークトなどの軍事指導のもとに、日本軍を叩きにかかったのである。日本軍は我慢を重ねた上で出兵している。国民党軍は当時の最新鋭であったチェコの機関銃を多く保有し、日本軍をトーチカに引きつけて犠牲を強いた。彼等の蛮行で多くの中国人が死んだが、それも日本軍のせいになっている。
 アメリカでは歴史を検証することもなく、議会や裁判で、何も知らない米国人に反日的な意識を植え付けて、金銭的な利益も上げようとする輩がいて、真実も何もあったものではない。日本軍をナチスと同列にして自己主張する危険性を孕んでいる。

5 河村たかしの狙い

 河村氏の言うように、第二次上海事変当時は中国人の日本軍に対する印象は必ずしも悪くなかった。というより、恐れていたし、中国人は強いものには従順なのだ。八路軍が勢力を伸ばすにつれ、その巧みなプロパガンダに影響され始めた。国民党軍は略奪暴行が多く、むしろ彼等は自国軍を恐れていた。南京でも城内にいた中国軍は親日と思われる市民を殺害したり、横暴で、多くの死者が出ていたという。自分の知る範囲では、日本軍は駐留中、そこの土地の家族に迎えられて楽しくやっていた連中もいたのだ。自分の父親が南京で好意的に受け入れられたことを感謝すればそれで良かった。しかし、覆水盆に戻らずである。河村市長はそのことを言いたかったのだろう。彼は、今、橋下旋風に押されて名古屋では失望感が強い。そこを挽回する為に言いたい事を言ったマスコミ受け狙いの危険な行為だとも言える。

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 中山大三郎 作詞/作曲 の無錫旅情は尾形大作が25年前に歌い、ヒットした。無錫市はこの歌を日本との友好の象徴として、大切にしている。無錫市は日本企業を活発に誘致し、1,000社を越える企業が活動している、東芝、三井住友海上、IHI、富士フィルム、トヨタなどの三井グループのみならず、シャープ、三菱重工など代表的な製造業が工場を稼働させている。1兆円を超える貿易額を誇っている。そのことを一般には認識されていないが、これも地域的に親日の土地柄であり、日本企業も仕事がやり易いのであろうか。今、この街の中国における消費と交通の要港としての位置はますます価値を高めている。日本では上海や北京ばかりが中国だが、実際南京、大連など地方都市の興隆も猛烈である。無錫は太湖の沿岸であり、風光明媚、また、杭州にも近く、食の文化もレベルが高い。特に、上海蟹の産地でもある。観光地としても日本から成田、関空から週1便だが直行便がある。
 中国でのビジネスはこうした地方都市の方がやり易いのでないだろうか。大企業はやたら上海や北京で名を挙げたがるが、中国側は必ずしも歓迎ではない。もう彼等は外国の勢力に頼るものは無い。むしろ競争相手となる。とくに小売業はそうである。だから、以前、三光三越は北京で痛い目に会ったのである。首都ともなると、共産党の息のかかった企業が多く、これらが競争相手になるのだから初心者には厳しい相手である。彼等は裏に回って政府を巻き込んで抵抗するだろう。
 無錫市は今、太湖の環境汚染もあって、重化学工業かや製造業からアニメなどのソフト産業に転換の努力を始めた。また、交通拠点の開発や商業ゾーンのショッピングモール誘致などに熱心である。

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 20日に芝のプリンスタワーで無錫市の主催で、日本と無錫市の交流25周年に出席した。無錫旅情が歌われて25年にかけたイベントで実に巧みな演出で、多くのワークショップも開かれ、市からは200人を越えるスタッフが来日、招待者1,000人ほどの大宴会が行われた。企業トップ、政治家、無錫市長、共産党区書記が中心に多くのスピーチが続き、何と、2時間に及び、乾杯の後は堰を切ったような大宴会となった。名刺交換に大忙しの企業の人々、ボランティアの音楽演奏などで会は盛り上がる。もちろん太湖の環境汚染などは何処吹く風である。
 今の中国の勢いを感じさせる会であった。日本のパーティと違い、各テーブルでの着座式で、中国スタッフがお酒を注いで回るアジア式のパーティであった。尾形大作も来て無錫旅情などを披露し、会を盛り上げた。このパターンは日本も中国も共通で、欧米式とは全く形が異なるものである。最初から、最後まで、きちんと管理された宴会という感じであった。我が国がバブルで賑わった20年前を思い出して懐かしかった。
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 中国は今年政権交代の時期に当り、先週も習近平がアメリカを訪問し、元首並みの扱いを受けたが、オバマ大統領、バイデン副大統領以下のアメリカの首脳との会談は、アメリカからは中国の国際社会への関わり方の修正を求めるクールな内容となった。中国に取っては次期リーダーの地位を確立する為の国内向け訪米であったといえる。人権問題や元の切り上げなど、公平性の問題を依然変えようとしない共産党政権へのアメリカの目線は必ずしも温かいものではなかった。国際社会に対する中国の強引な姿勢、特に、台湾や海洋覇権への露骨な自己主張はアメリカに取っても危険な方向である。中国の重層的、複層的な社会構成をどうみるか、自分も戸惑いを感じるが、中国という国は大陸社会、日本人のような話せば何でも通じる社会ではない。また、彼等の独善的なしきたりを変えようとはなかなかしない。彼等は、鯨とか、象のような巨大な生物体として考え、その動きを無理にコントロールせず、彼等の無理の無い目標をこちらか設定して、導いて行くしか無いのではないか。そのためには言うべき事はきちんと言い、頭の部分はしっかり抑えておかねばならない。頭とは共産党と人民解放軍である。
 中国国内の問題として所得格差が指摘される。しかし、中国を見る場合、平均値という概念はほとんど意味をなさない。都市と地域・地方、指導層と人民、企業と労働者、商業・工業・農業それぞれ格差があり、指導層の所得は極端に高く、一般労働者はなかなかその恩恵に預かれない。しかも、行政や共産党の内部では、地位を賄賂で得たり、事業の利権を巡っての不正が横行しているという噂が絶えない。だから、中国は崩壊に向っているという人がいるが、それは間違いだろうと思う。むしろ、本来の中国に成長しているということである。


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 心臓バイパス手術は今や国内で年間1万5千件も行なわれ、成功率98%となっている。三井記念病院では死亡例はH18年で、3年に1回、0.3%ということであった。その患者さんは虫歯から菌が心臓に回って亡くなられたとのこと。そのため、虫歯の治療は必須となっている。バイパスは心臓の冠状動脈が2本以上狭窄している患者が選択する事が多い方法である。狭心症の治療では狭窄個所が1本1カ所であればPTCA(カテーテルによる治療)により、螺旋形状のステントを狭窄部に入れて拡張する方法が循環内科で行なわれる。最近は血液を固まらないようにする薬剤が形状記憶合金から出る素材があり、2カ所でも循環内科で治療できる。その為、心臓外科と、循環内科がその効果に関しては、術後の経過に関して今も、論争があり、どちらも譲らない。今回の天皇陛下のことで外科が脚光を浴び、外科はしてやったりといったところ。しかし、狭窄個所とその程度によって判断され、重症にはバイパスの方が後の結果は良いといわれる。今日、天皇陛下は4時間半で2本のバイパスを形成したが、これは流石に順天堂大学病院と東大病院の合同チームという最高の権威による手術てあり、その手術時間の短さなど、流石である。東大は心臓バイパスでは必ずしもトップではないから、適切な選択をしたということである。特に、血管縫合は職人技で大学とは無関係といってもよい。経験が全てで、むしろ、権威主義的なところは若いうちに手術経験が乏しいことがある。背に腹は代えられないということでしょう。 
 小生は今から9年前、三井記念病院でバイパス手術を受けた。3本のバイパスを天皇陛下と同様、オフポンプで心臓を動かしたまま、内胸動脈と、左橈骨(とうこつ)動脈をグラフト(バイパスに使う血管)に使用する手術で7時間の手術であった。心臓バイパス手術はだいたい、1本に2時間、その他の作業に1時間で4本であれば9時間になる。天皇陛下の場合、普通より1時間程早かったのではないだろうか。また、出血が少ないということは、執刀医が血管の位置を熟知しており、メスが血管を避けた結果と止血も上手だったのだろう。このあたりの医師の経験と技能には差がある。最も重要な、血管の縫合はまさに職人技である。接合部を奇麗に繋げる人が名人、糸を結合したところが団子状になって、猫の手みたいになる医師もいる。一本縫うのに5分とかからない医師もいるし、何十分もかかる場合もある。猫の手を作る程度の腕でも、テレビに出るとスーパー心臓外科医として紹介されている。順天堂の天野先生は、まさに、この世界でゴッドハンドといわれる人なのである。
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 天皇陛下は以前、東大病院で前立腺癌の手術を受け、その際、輸血用血液を採血し、冷凍保存してあり、これを捨てるかどうか問題になったようだが、今回は出血も少なく、その血液を使う事も無かったようだ。このバイパス手術に関してはかつて20年前は、東大病院でも、手術が成功しても、その後の再狭窄などで、病状が悪化して、数年で亡くなるケースが多かった。これらは成功率に換算されてしまう。実際は患者の病状に応じた成功率が真実の姿なのである。狭心症になる患者は多くが糖尿病や腎臓病になっている。そのため、入院しても手術に入れなかったり、血糖値を下げるために、数週間の入院を余儀なくされることも多い。手術後は2週間くらいで退院する。原則として、安静時血糖値が100以上だと術後の傷口がくっつかないため、回復が遅く、合併症の原因にもなる。外科はこの数値にこだわる。内科の領域である糖尿病そのものには関心が無いらしいが、そもそも、糖尿病で高齢の場合、血管がぼろぼろで、2ミリほどの血管を結合するときに、縫合時に血管が破れたり、術後の治癒や再狭窄のリスクも高い。病院評価でも実施件数と成功率だけが問われるが、実際は問題はその患者の状態にある。救急患者であれば、バイパスは行なわない筈。バイパスには準備が必要でこれが出来るのは幸せである。急患は恐らく血管造影検査を行ない、ステントを入れて一時しのぎするだろう。

 バイパス手術で直前に打たれた筋肉注射は鎮静剤のようだが、とても痛かった。手術前に麻酔医がどんな音楽が好きですかというので、2001年宇宙の旅にあやかり、「美しく青きドナウ」をリクエスト、しかし、音楽が聞こえ始めると、あっという間に目が覚めて手術が終わっていた。7時間が無意識のうちで、まさに死んだ状態。また、手術直後は、じっとしていれば切ったところは大した痛みではなかった。ただ、少し動くと痛いのと、人工呼吸器を抜くときに息が詰った感じがたまらなく嫌だった記憶がある。ICUに入る時に運搬ベッドをガツンとどこかにぶつけて、壊してしまった。乱暴な看護師だ。そこで、ベッドを交換というより、ヨイショと体を持ち上げられて隣のベッドに移された。ウヒャー痛あー。その後ICUや回復室での安静状態は退屈なだけで鎮痛剤が効いている限りは苦しくなかった。鎮痛剤はロキソニンで4時間ぐらいで切れてしまう。2日後から数日間、肺に痰が溜らないように、ネフライザーで吸引し、咳をしてこれを出すが、切った傷を刺激してとても痛い。恐怖の咳である。これを1週間以上かけて続けた。開胸する時には、真ん中の胸骨を開いて、ジャッキのような金具で開くので、体側のあばら骨が痛かった。胸骨はチタンの針金で結ばれる。咳をすると切った骨の位置に激痛が走るのである。とにかく、手術後は体中、首から胸、腹、腕などに9本も管がついていて、身動き出来ない。体腔内に溜った血や体液を排出するドレーンとか、首の頸動脈にも針が刺さっている。苦しいことも多いから、やはり二度と体験したくないことである。2週間で退院出来たが、麻酔のせいか、半年程は体がだるくて、元の体調に戻るには結構時間がかかった。過ぎてしまえば、大した事なく、上手くいったといえるが、生死の境を彷徨うわけで、やはり大変な出来事であった。

 
 

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 中国のような広大な国土と悠久の歴史、多くの民族と都市を我々には容易に理解することができない。中国と日本の交流は驚きの連続である。以前、中国人の事業家に、小生が理事をしている大学に留学生をもう少し増やした方がいいと思うのですが、と言うと、どれぐらいの人数が必要なのですかと言ってくれた。10名程でしょうと言うと、怪訝な顔をしている。そして、百人単位なら分るが、10名に絞るのは大変だという。来週、江蘇省のある市長が来日し、パーティを開くが、何と200人を引き連れてくる。びっくりである。数字に関する感覚が違う。

 鄧小平が改革開放政策で何をやったのか、その後の目覚ましい中国経済の発展は謎が多い。北朝鮮と中国は構造的には似ているが、経済発展では大きな差がついているように見える。天安門事件後、毛沢東の路線を大幅に改革したが、それは一体どのようなものであったのかである。人民公社を軸に、多くの企業が生まれた。製鉄、石油精製、化学をはじめ、消費物資も含め、殆どの企業は全くうまく機能していなかった。これを幹部の首を大幅にすげ替え、経済特区を作り、金融機関をはじめとする市場経済を築いた。若手の有能な共産党幹部の子弟が登場、彼等の多くがアメリカの経営大学院に留学、また、欧米の金融業や資本主義的経営手法をどん欲に学んだ。そのグループが太子党であり、その代表格は習近平である。彼は今回の訪米でもアイオワ州でのホームスティ先を訪問している。こうした企業経営刷新は日本の大企業より急進的に行なわれ、あたかも、日本の財閥が解体されて、サラリーマン重役が行動成長の原動力になったことに似ている。今も、中国の企業の幹部は共産党員が各層に浸透している。また、州市町村の長より配置された共産党の書記が大目付として事業、特に人事に影響力を持つ。企業や行政の幹部も40才代から50才代前半である。組織が若く目標達成意識が高い。そうした組織のコントロールの徹底ぶりはまるで、党と唯物論を軸にした宗教国家のごとくである。こうした人事的改革は、大きな影響があったに違いない。政権を支えている人民解放軍も巨大な産軍複合体である。党の権力を支え、これ自体が一つの国家的規模になっている。行き場の無くなった若者の吸収源でもあり、これが社会不安を防止する歯止めであり、これが暴走すると昔の日本や北朝鮮のようになってしまうだろう。
軍が膨張する時に歴史の中ではろくなことが起きていない。

 勿論、元の固定相場と対ドル平価の不均衡も大きな要素だ。これが中国の貿易黒字を招き、大量の米国債を保有、共産党に後ろ盾された強権的な都市開発と不動産バブル、軍需産業、都市部の生活向上と消費の拡大がその結果生まれた。そして、今後問題となるであろう地域格差、所得格差の固定化が進んで来た。さらに、知的所有権の侵害を公然と行なって来た。今、アップルのIpadが中国の商標権を侵害していると2,600億円もの訴訟となっている。盗人猛々しいのか、無神経なのか、訳が分からなくなる。そうした無神経なエネルギーが中国という世界なのだろうか。

 地域格差と所得階層分化の固定化が今の中国の政治体制を覆す規模になるには相当な時間がかかる。今の強大な人民解放軍で北朝鮮のような軍による不満層の封鎖が可能である。チベットや新疆ウイグル地区の民族運動の弾圧がよい例で人権抑圧が政治的には成功している。また、企業ー党ー政治が一体となった史上初の市場主義国家を彼等は、欧米などの資本主義国家を越えた優位性と自賛している。日本はこのような国と付き合う事ができるのか。市場主義と専制国家という二面性をどう見分けながら付き合うかであろう。中国には反日感情と同時に親日的な感情も存在する。国の将来を考えるとそうした善意の力を育成するしか無い。武力や攻撃的な政策は意味をなさず、両国に取って不幸なことである。
 
 地域や都市の差、階層社会における対応のみならず、間違ってはならないのは、日米との感関係を対中政策によって見誤らない事である。対米貿易は今や対中貿易に凌駕されているが、対外資産の規模は遥かにアメリカの方が大きいし、中国に輸出している貿易物資は、結局、これらも製品としてアメリカに輸出されているのである。だから、アメリカの景気は日中双方に大きな影響がある。特にマスコミや政治家は誤ったサインを国民に送らない事が大切であり、また、国民は勝ち馬に軽薄に乗ろうとする政治家をよく注意すべきである。鳩山元首相が主張したような日米中の等距離外交といったことを口にすることも著しく我が国の立場を悪くした。これまで、日本がアメリカに築いた人的、物的、資産を台無しにするのである。利害調整を使命とする政治家のすることではない。

 
 
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by katoujun2549 | 2012-02-17 16:27 | Comments(0)
 世界の宗教のうち、キリスト教はカトリック、ロシア正教、プロテスタント、聖公会などであるが、2002年の集計で約20.4億人(うち、カトリック約10.8億人、プロテスタント諸派計約3.5億人、正教会約2.2億人、その他教派約3.9億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えている。キリスト教の旧約聖書とコーランにある創世記のアブラハムを始祖とする点では31億人が共通の教典を信じている。ユダヤ人も1400万人おり、これに加えられるであろう。では、20億人のクリスチャンは一体何を信じているのかということだ。教会に行って礼拝する人がキリスト教徒であるならば、何を祈っているのか。これが日本ではどこまで、理解されているのだろうか。日本人がお寺でお経を聞く、あるいは神社で祝詞を聞くのと、教会で説教を聞いて祈るのとどう違うのだろうか。日本人がお葬式でお坊さんが声を上げてお経を読んでいても内容を理解している人はどれだけいるのだろう。また、神社で神主が導くそこの神社の神のことを分っているのだろうか。殆どの人はどうでもいいような感じ。ところが、キリスト教の場合は、キリストの言葉と十字架、復活を信仰している。その内容は至ってシンプルである。

 旧約聖書ではユダヤ民族の神と民族との関係が延々と語られる。一神教である神をイスラエルが時には離反し、偶像崇拝におちいり、神の怒りによって離反と捕囚の苦しみを受けた。しかし、イスラエルは神によって約束の地を与えられるという信仰を持ち続け、今日のイスラエル建国に至っている。しかし、イエスキリストは、歴史を自らの存在によって断絶する。バビロン捕囚後カナンの地に戻ったユダヤ人はローマ帝国の支配下に置かれる。そうした政治的苦難からの現実的解決を待ち望んだイスラエルに対してイエスキリストは自らのユダヤ社会における正当性を訴え、独自の神との関係を民衆に説き続けた。ユダヤ人の既存勢力はイエスを十字架への道に送る。
 イエスが十字架の苦しみを乗り越えて述べた、ポイントは、現実世界と共に、人には霊の働きと霊の世界があることである。聖書には「マタイ5:4 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と道徳的な言葉もあるが、その中心は何とも普通の日本人には理解し難い十字架の死と復活、死者の復活を信じるということである。これらは信仰によって成り立つ言葉であり、信仰無くしては受け入れ難い。このことが、その後に生まれたイスラム教とも全く異なるのである。

 イスラムはキリスト教の律法は不完全であるという。これをコーランによってムハンマッドが啓示を受けて完成させた。その教えはユダヤの律法をさらに強化し、日常生活の細部にわたる戒律となった。キリストが律法からの解放を訴えたのとは逆である。しかし、その律法は法学者によって時代に応じて解釈される柔軟性があり、今日のイスラムが民衆に受け入れられている所以である。
 キリスト教は父と子、キリストと聖霊の三位一体といった本質を外れた神学を作り、一神教から逸脱したと非難する。しかし、キリストのメッセージはひとえに、この聖霊、神が愛であり、そして死に対して復活があることを、イエスが伝える為に世に遣わされたことを、あらゆる場面と、たとえ話、さらに、旧約聖書の解釈を自らのユダヤ教パリサイ派、サドカイ派との論争を通じて述べている。

☆ヨハネによる福音書
4:24 神は霊である、だから神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
6:63 命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたに話した言葉は霊であり、命である。
そして、最も重要な事は、神の計画は人間の救済であり、その中心は愛である。そして、その愛の行為として、死を克服する力として復活の希望があることが、信仰の中心である。これは神がこの世界を築いた目的を完成させ、世界に神の再臨を預言することで完成する。このことをイエスキリストは十字架の死と自らの復活を示す事で我々に伝えたのである。
 復活ということは、仏教や神道、また、他の宗教には無い信仰である。この復活の信仰を伝える為に、イエスキリストの11人の使途とパウロは命をかけた伝道を行なった。また、その後も、キリスト教信仰の中心的メッセージである。この死者の復活信仰を持つ人々が20億人もいる。「信仰」ということであって、これは科学ではない。日本人が最も理解しにくい事がこの復活信仰という事ではないだろうか。この復活の希望こそキリスト教の中心である。

☆コリントの信徒への手紙一15章では復活の信仰について正面から向い解いている。
4;「すなわち、キリストが聖書に書いてある通り私たちの罪のために死んだこと。葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと。ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで五百人以上の兄弟達に同時に現れたました。」
16〜32
21:死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
29:そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか、死者が決して復活しないのなら、なぜ、死者のために洗礼を受けるのですか。
32:もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしよういではないか、どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
まことに、雄弁である。この真正面からの問いかけを受け入れるかどうかである。そしてキリスト教の信仰も、教会もキリストの復活を伝える情熱によって今日に至るまでその歩みを続けている。

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by katoujun2549 | 2012-02-16 21:15 | Comments(0)
 バレンタインデーはカトリック教会の聖バレンタインがローマ軍兵士の結婚禁止令を破って皇帝の逆鱗に振れ処刑された日である。カトリック教会ではこれを愛の日として記念してきた。カトリックでは教会の指定する祭だったが、プロテスタントでは教会暦には入っていない。日本では女性が好きな男性に愛を表現する日としてチョコレートという筋書きだが、これは日本だけである。アメリカではカードが一番良く売れる。男性からでも、女性からでも、好きな人に愛を表現する機会としてバレンタインデーがある。日本では全くの企業が商業的に作ったお祭りである。愛を前面に出していた時は普及しなかったが、「義理チョコ」ということになったとたんに普及し、特に、小学生を巻き込んで大成功であった。バレンタインチョコの売上げは高級化によってさらに伸び、300億円以上だそうである。
Wikipedia によると(http://ja.wikipedia.org/wiki/バレンタインデー)
日本で誰がバレンタインデーを始めたかは、諸説ある。

1.モロゾフ説

 神戸モロゾフ製菓(現在のモロゾフ)説は、東京で発行されていた英字新聞『ザ・ジャパン・アドバタイザー』1936年2月12日付けに同社が広告を掲載したことを重視するものである。「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーの広告であった[9]。確認されている最も古い“バレンタインデーにはチョコを”の広告である。

2.メリーチョコレート説

 メリーチョコレートカムパニー説は、同社が1958年2月に伊勢丹新宿本店で「バレンタインセール」というキャンペーンを行ったことを重視する説である。


3.森永製菓説
 また森永製菓が1960年より「愛する人にチョコレートを贈りましょう」と新聞広告を出し、さらに伊勢丹が1965年にバレンタインデーのフェアを開催し、これがバレンタインデー普及の契機となったとする説がある。しかし、「バレンタインデー」の文字がある広告が、1956年の西武デパートや松屋の新聞広告や、1959年の松坂屋の新聞広告に掲載されている。

4.ソニー説
 ソニー創業者の盛田昭夫は、1968年に自社の関連輸入雑貨専門店ソニープラザがチョコレートを贈ることを流行させようと試みたことをもって「日本のバレンタインデーはうちが作った」としている。
ただいずれにしても、すぐに大きな反響があったわけではなく、商品もあまり売れなかったようである。各種の説があるが、バレンタインデーが日本社会に普及したあとに、自社宣伝のために主張されたために誇張も含まれると思われる。

 総じて昭和30年代には、「バレンタインデーの贈答品はチョコレート」とする意識はまだなかった。当時のバレンタインデーの新聞広告によると、購入を勧める贈答品にチョコレートは登場しなかった。森永製菓の広告ですら、チョコレートは贈答品のおまけとして位置付けられていた。バレンタインデーの起源の一つとされる1960年の森永製菓の新聞広告には、「チョコレートを贈る日」ではなく、「チョコレートを添えて(手紙などを)贈る日」として書かれていた。バレンタインデーに贈答品を贈るのは誰かという点でも女性に限定されていなかった。ただ「愛の日」という点は強調されていた。

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 我が国のバレエ、特に、女子のレベルは国際的にも向上が著しく、海外で活躍するダンサーも増えた。昔は大根足がなんとも眩しい時代もあったが、いまや、スタイルも足長で立派になり、かつての面影はない。女性らしいしなやかさに、まるで、機械仕掛けのような正確さと日本風の優雅さを兼ね備えた踊りに驚く。日本人の体型も練度も向上した。

 ローザンヌ国際バレエコンクールで日本人(神奈川県大和市)の菅井円加(すがいまどか)さん(17歳)が1位で入賞を決めた。お隣の可愛い、しっかりもののお嬢さんという感じの高校生。このコンクールは新たな才能を発掘し、バレエの専門教育機関やバレエ団への道を開く、新人バレエ・ダンサーの登竜門である。プロダンサーや、入団が決まった者は参加資格がない。かつて浅田真央チャンがアイススケートで登場したように、この世界は高校生でも素晴しい演技をする。というより、生理的年齢としてはもっとも筋力とスタミナが強い時期ではないだろうか。さらに凄いのは、日本には菅井さんクラスのバレリーナが数多くいることである。事前審査を通過してコンクールに出場した79人のうち、日本人は最多の19人。決勝に駒を進めた21人の中にも、5人がいた。決勝進出者の4分の1は日本人だったのである。

 第1フェーズはDVDによる審査で、80名程度の候補が選ばれる。第2フェーズ以降がボーリュ劇場で行われる。決選でのフリー・バリエーションの審査は、振付の優劣によりダンサーの資質を見誤ることのないようクラシックとコンテンポラリーのバリエーションを1曲ずつ選択肢の中から選んで踊ることになった。20名程度が決選に残り、6-8名が入賞する。決選進出者には、入賞できなかった場合でも、1,000スイス・フランの奨励金と夏に行われる講習会の受講料免除などの特典が与えられる。

 バレエはそもそも、体型、身体バランス、運動能力など生まれながらの素質、才能に恵まれないとこうした国際コンクールレベルは難しい。しかし、菅井さんは、加えて地道な努力と、バレエに向う情熱で他の参加者から抜きん出た。競争相手は、留学したり、有名な先生について鍛えて来た人が多いが、彼女は地元(大和市)のバレエ団で育った。菅井さんは毎日5時間の稽古を続けてきたが、これはこのバレエ団の皆が強制されてやっている訳ではなく、彼女の自主的な努力であったようだ。勿論国内コンクールでも2連覇し、その実力は知られていたが、それでも、そのバレエ練習所では皆と混じって掃除もするし、一メンバーとして黙々と自らを磨いて来た。その指導者の情熱も、隠れた存在だったに違い無い。一流になるには、指導者に恵まれる事は大事な条件、所属していた佐々木三夏バレエアカデミーで熱心な指導者に恵まれたに違いない。というより、このバレエ団、多くの団員がコンクールにチャレンジし、優勝や上位を取った。何と、菅井さんが優勝していないコンテストもある。多くの先輩が鍛えあうバレエの「虎の穴」のようなところなのである。勿論、指導者の佐々木先生も優勝の経験がある。ここのバレエ団の公演は見ものだろう。
  
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 剣道の稽古でも、有名な先生ばかりを求めて懸命に昇段を目指して稽古している人がいる。それはそれで大変な努力だと思うが、必ずしも、正しい稽古方法とは思えない。有名な先生には多くの志願者が並んで、稽古時間は少ない。そして、仲間などの助言を聞かなくなる。自分の未熟を師のせいにしている。だから、そうした修行者で全く進歩しない人もいる。何か、茶道とか、踊りの稽古と勘違いしているのではないかと思われる。剣道は相手がいることが決定的に違う。人間関係も広がり楽しいのだろうが、効率が悪い。大切な事は人より多い稽古量、それから、自分自身の創意工夫だと思う。特に、古来、独り稽古というのが武道では大切である。素振り、打ち込みなどの基本稽古が極めて有効である。一流の選手は皆こうした稽古をしている。北海道の栄花選手は、一番早く道場に行き、雑巾がけと素振りを欠かさない。菅井さんも独り稽古をしていた。かつて、中山博道は朝4時に道場に行き、毎日居合の稽古をしていたそうである。

 また、小生の恩師、中倉清範士は、毎日、上段からの打ち込み稽古を1,000本したという。中倉先生は、戦後、故郷に戻り、農耕をしていたときに、荷車が跳ねて左足を複雑骨折し、これまでの鋭い踏み込みが出来なくなった。第二回全日本選手権でも優勝候補でありながら、3位にとどまるという屈辱を味わったが、その後、上段を自らの努力で習得し、東西対抗100連勝の偉業を達成した。足が完治してからは、中段に戻られた。有信館も無くなり、鹿児島に帰省されたが、中倉先生より強い相手はいなかったため、先生は鹿児島商業の高校生と稽古した。その時、高校生の早いスピードに対して、自分の技を80%成功すること、10回振ると8回1本取ることを目標に稽古をされて、これが一番自分に取って成長した稽古だったという。高校生は理合よりもスピードに優れ、何処から打って来るか分からない。菅井さんも、スケートの浅田真央さんも高校生でトップになった。素早い彼等の動きを捌くのは容易ではないと言われていた。高校生だからといって受ける稽古をしなかったところが先生の偉大なところである。高校の剣道教師には受ける稽古ばかりしているために、成長が止まった先生方が結構いる。

 東京オリンピック柔道で優勝したアントンヘーシンクはオランダでは周りに強い選手はいなかった。しかし、それでも彼は毎日8時間の稽古と筋トレを欠かさなかった。一方、多くの優秀選手に囲まれた日本のエース神永選手は乱取り中心の稽古を毎日していたがせいぜい3時間で、昼間は日本製鉄社員、始めから勝負はついたようなもので、ヘーシンクに組伏された。
 
 何も、優秀な師とは強いことが絶対条件ではない。弟子をよく指導する師につくことが条件である。勿論、中倉先生は中山博道の門下三羽がらすといわれ、当時の名だたる頂点の先生方全てに稽古をつけて頂いた筈だが、先生が、最も成長したのが高校生との稽古であったというのは傾聴に値する。稽古毎の進歩はやはり、自分自身の工夫と稽古量、目標設定が大きな要素だと言うことがわかる。もちろん、菅井さんもいろいろな有名な先生のご指導を受けた事があるはずで、国内選手権で何度も優勝しているくらいだから。でも、地道に自分を磨く創意工夫の賜物だと考えるべきではないだろうか。

 

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ユーロ危機と超円高恐慌 日経プレミアシリーズ  岩田規久男著

 円高、ドル安、そして我が国のデフレ。これが世界のなかで、きちんと語られているだろうか。日本のデフレに対する政府と日銀の対応は果して効果は上がっているのだろうか。さらにドル安はドルの基軸通貨としての価値が失われる危機をもたらしたのだろうか。そうした疑問に答えてくれるのが、本書である。ギリシャの金融危機がユーロ安と金融収縮、経済の停滞を招いている。欧州金融ファシリティ、欧州中央銀行の機能とは何かについて分かり易く解説してくれる。EUとアメリカは金融収縮による企業の衰退やデフレを警戒し、3〜4%のインフレ目標をもって経済運営している。では、日本はどうだろうか。デフレから抜け出せず、日銀は金融政策による経済活性化をしようとしない。

 本書では通貨に関する基本知識を新書で説明することにかなり分量を割いているのであれもこれもになっているが、結局、彼の主張は日本は2~3%程度のインフレ容認策で、日銀は貨幣供給を増やせと言っているわけで、目新しいものはない。この1年野党が言い続けていることである。デフレ対策に大きな影響があるのが、今後、迷惑垂れ流しで世界を汚染する中国と元の行方である。共産党の支配する一党独裁国家は民主国家を越えるのだろうか。また、消費税、さらには税と社会保障の一体改革がどこまでできるかだ。ココまでアホな政党による改革はかえって病状を悪化するだけだ。底辺層へのバラマキと、一番の問題である中間層や、若者への支援が全くないという。震災復興も政府やマスコミが言っている事と現実の差が激しい。デフレ脱出の目標がが分っていない。

 中国は元高を避けようとドルを買い、元を売ってアメリカ国債を買い続けてインフレや土地バブルなど資産高となった。しかし、金融引き締めについては昨年金利を上げたが、それ以上は行なおうとしない。金融を引き締め元高になると、バブルは崩壊、中国の輸出は打撃を受け、海外の資金が流入する。経済不況が中国経済を襲うだろう。投資マネーが国内に溢れ、金利が上がり、資金の行き場が無くなって産業が活性化しないのに、かつての日本のプラザ合意以後のバブルのように土地が高騰したりする。元の切り上げをしないように中国は懸命に外交努力を続け、EUの支持を得ようと金融支援を行なう。

 最大の輸出国、米国の金融政策が固定相場の為に機能しない。結局アメリカ経済の悪化が中国の輸出に影響し、中国のバブルは崩壊する。中国も変動相場制に移行すべきというのが筆者の考えである。
 共産党独裁政権という実態をどう考えるかだ。この視点が中国を考える場合見落とせない。中国は史上初めて登場した国家と党、企業が一体となった構造を持つ国だ。彼等は貿易黒字で溜ったドルを使って軍備を拡充することを考えるだろう。海外からハイテク機器を買って軍事に活用する。これを使って周辺諸国を恫喝し、アフリカや北朝鮮を軍事支援し、資源確保を企んでいる。彼等は、手段を選ばない。国民が不平等であろうと共産党が維持出来ればいい。3,000万人が餓死しても平気な国。北朝鮮が中国に支えられているのは政体が同じだからだ。恐ろしい国だということを民主党の小澤や鳩山は分っていない。中国のスーパーコンピューターは何に使われているのだろうか。宇宙開発やハッカー、軍事利用に違い無い。流石に餓死や粛清は無くなった。これは鄧小平の功績だ。国民の所得や生活格差などは昔より生活が向上すればそれで国民は抑えられると共産党政権は考えているのだろう。

 ドルが基軸通貨としての権威を昔のようには持っていないかもしれないが、今日も尚、安定通貨としての価値を失った訳ではない。ただ、日本円だけが、ドルに対して極端なドル高なのである。ユーロ危機において、各国はドルに回帰していることが、著者の数値データで示された。ドルはもう終わりという訳ではない。また、アメリカ経済はリーマンショック後巧みな金融政策を行ない、経済は回復しつつあるが、10%近い失業率の回復は遅々としている。国内製造業の復興が課題という事である。

 著者は,日本のデフレと円高の原因が、日銀の金融政策にあるという。日本も3〜4%のインフレ目標を持つべきであり、マネーサプライを増やすことを提言している。しかし、日本のデフレの原因が、社会保障費の増大と、若年労働力の減少などの金融政策を越えた課題を持っている以上、そうした構造改革を並行して断行しなければデフレからの脱出はできない。消費税を5%上げて、GDPが下落し、税と社会保障の一体改革の中身がガタガタだったらデフレも止まらない。TPPで貿易収支が向上しなければ円高メリットも消える。マイナスだらけでは金融政策という治療も効果がない。また、日本のように政治の意思決定が遅く、日銀の対応の硬直した感じからするとインフレを金融政策でコントロールする力がどれだけあるかである。目ざとい政治家がマネーに群がる姿が目に浮かぶ。彼らは選挙の事しか目がないからだ。それを目の当たりにしている日銀はなかなかインフレ政策を取らない。また、円高により国際競争力が低下しては産業の活性化も望めない。特に東日本震災復興による経済活力の再建が急務である。これをバネにイノベーションによる日本製品の国際競争力がどこまでついて来るかが今後の鍵である。


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1.治療の進歩と現実

 癌治療は日進月歩というが、その種類の多さ、進行度、個人差など、実に複雑で、なかなか、昔のストレプトマイシンで結核患者が救われたような劇的な治療手段は未だ見つかっていない。緩和医療も大幅に進歩し、患者の苦痛改善の手段も増えた。かつてのように、癌=死=苦痛という図式ではなくなって来た。PETやCTスキャナーなどの先端医療機器が開発されて、早期発見が可能になったことは大きな進歩である。しかし、これも、見つかればラッキーと思った方がいい。全部見つかる訳ではないからだ。5mm以下のものでも胃や腸の内視鏡で見ればすぐに分るが、肺、膵臓などは見つけるのが難しく、CTで見つかっても治療は大変である。特に、転移した場合は手術よりも、放射線や抗がん剤での治療が選択される。重粒子線や陽子線治療、ガンマーナイフなどは小さなもので、手術不能な脳の部位とか劇的な効果がある場合もある。しかし、テレビの民間医療保険コマーシャルで「重粒子線治療も出来るのね、」これが使えれば助かるといった印象を与えるのは間違いで、結構限られたケースにしか使えないのである。手術後に転移が発見されることも多い。お金はないと困るが、お金さえあれば命が助かるかどうかは分らない。神のみぞ知ると思った方がいい。癌はいずれは転移すると考えるべきである。現実は、癌での死亡は増えている訳で、治療の改善はこれからも時間がかかることである。

2.ハラヴェンへの期待 

 抗がん剤で日本独自の薬品開発の成功例は驚く程少ない。今回エーザイが出しているハラヴェンは、クロイソ海綿から抽出したもので、多転移癌の患者に延命効果があったとして、海外からも注目され、今、各国で承認が進んでいる。乳癌の3〜4期の転移癌にはこれまでなかなか効果が無かったから、その意味では画期的である。奏効率21%を高いと見るかであるが、これまでの治療に対して、2.5ヶ月の延命効果が2相の治験で示された。
 2011年4月22日、「ハラヴェン®静注1mg」(一般名:エリブリンメシル酸塩)が厚生労働省より日本において「手術不能又は再発乳癌」の効能・効果でエーザイが製造販売承認を取得たことを発表、2010年3月に日米欧同時申請がなされてから約1年、米国(2010年11月承認)、欧州(2011年1月承認)、そして日本と主要国で承認された。開発が始まってから19年かかっているのである。

 ハラヴェンの元になったHalichondrin B(ハリコンドリンB)は1986年、名古屋大学の平田・上村らにより単離・構造決定され、1992年ハーバード大学の岸グループにより世界初の全合成が達成された。それから19年余り、Halichondrin Bの右半分を中心骨格としたハラヴェン(E7389)が日本の製薬会社により研究・開発され、新薬として産声をあげた。

3.ハラヴェンの使用対象・副作用・問題点

 ハラヴェンはパクリタキセル(タキソテールやアブラキサン)、アントラサイクリン系の抗がん剤がを使った後の選択肢となっており、最初から使う訳にはいかない。副作用は一番注意しなければならないのが骨髄抑制で好中球減少、免疫機能が落ちることである。血液検査を頻繁に行なわければならない。倦怠感、ムカムカ。口内炎、脱力感、発熱である。脱毛は少ない。とはいえ。一日グッタリ、食欲不審は困ったものである。4回めくらいからそうした副作用はキツくなって行く。食欲不振、無気力、倦怠感が激しくなる。37度〜38度の発熱も毎日あるが、気力が減退する原因であろう。これで、効果が出なければ泣けて来る。体調と骨髄抑制の状況をよく見ながら使用すべきである。

 抗がん剤で患者のQOLはどんどん失われるのが、大きな問題点である。価格はアメリカでは1mg850ドルで、1ヶ月に2回から3回静脈注射するから、検査代とか診療費などを入れると、日本でも月20万円〜30万円、保険適用でも7万円〜10万円かかる高価な治療である。大変なことである。癌のタイプがゆっくりなタイプならば、こうした強力な抗がん剤を避けても、使用した場合とそうでない場合の有意差は少ないような気がする。選択の問題ではないだろうか。

4.不思議なハリコンドリンB (http://ja.wikipedia.org/wiki/ハリコンドリンB参照)

 房総半島以南の潮間帯でよく見られるクロイソカイメンから、腫瘍細胞の増殖を強力に抑えるハリコンドリンBと名付けた分子を発見し、その複雑な構造を1985年に報告した。
 海にいる生物でも、海綿のような定着した生物は細菌のターゲットになり易く、それに対して生物体内で様々な抵抗の仕組みがあり、これもまた、多くの細菌が関係しているらしい。 これまでに類のない特徴的な構造は多くの研究者との熾烈な競争の末解明することができたのである。 しかし、実際にこの分子を抗がん剤として利用することを考えると、自然界からの供給だけではとても足りない。 解決には、化学合成と真の生産者の培養という2つの方法が思い当たる。 前者は、ハーバード大学の岸義人教授の研ぎすまされた合成研究の過程で、注目の作用は分子の右半分だけで生じることがわかり、一気に進展した。 実際にはこの右半分から改良設計されたものを化学合成により年間に数キログラム供給できるようになり、現在耐性のある乳がんの特効薬として提供されるようになったのである。 後者については多くの研究者が挑戦しているが、困難を極めている。 海洋に存在する細菌のうち現実に培養可能なのは1%以下ともいわれる状況を見ると大変難しそうである。

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 初めて十条に行った。聖徳大学の教授をしているSさんの誘いで行ってみた。夕方雨上がりの6時30分、タウンウォッチングである。駅から小さな広場から長く伸びたアーケードがあった。ひたすら長いが途中で一部左右に分かれている。十条銀座商店街の奥にある、むさしや菓子舗(03-3900-5355)の割れせんべいが美味い。醤油がしっかり割れたところにも染み込んで、とても濃厚な醤油味。この十条商店街にはやたらお菓子屋さんがある。八百屋、魚屋、呉服屋など、東京の商店街から姿が見えなくなったお店が結構ある。お惣菜屋さんも多く、とにかく値段が安い。周辺は住宅街で、学生や高齢者にはとても暮し易そうである。

 篠原演芸場
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焼き鳥屋、揚げ物(唐揚げ、コロッケ30円など)、ドテラを売っている呉服屋さん。ドトールコーヒーもあるが、意外とパチンコ屋が少ない。直線のアーケード沿いには飲食店舗はそれほど多くない。夜でも、結構通行人が多いし、シャッターを下ろしている店が無いのが立派。 十条商店街の中程を曲がると、何と、演芸場がある。篠原演芸場といって、大衆演劇で有名なのだ。梅沢富美男などもここで公演するそうで、東京では浅草の木馬館、大勝館と並ぶ劇場である。ここのおにぎりが美味しいと聞く。昭和レトロな街である。一昔前の商店街。スーパーとかショッピングセンターの整った、合理的な店舗デザインからはかけ離れているが、親しみのある温かな感じに感激した。篠原演芸場の向いにあるフレンチで夕食となった。中はテーブルが6卓くらいの小さなレストランであった。カフェレストラン、キリンという店。店内は学校の先生風のお客と、おばあちゃんとその孫2人が入っていたが、安心して食事を楽しめる雰囲気であった。エスカルゴ、蛸の柔らか煮、マグロのカルパッチョ、チキンのフリッター、野菜のピクルスにビール、ワインはシャルドネを頼んで、1人3000円とリーズナブルなお値段であった。これはイタリアンだと思うが、何でフレンチなのか、これが十条という街。カフェレストラン・キリン東京都北区中十条2-5-7
TEL 03-3909-8786


篠原演芸場
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