<   2011年 09月 ( 15 )   > この月の画像一覧

My one and only :たった一人のあなたのために(2009年アメリカ作品未公開)
監督:リチャード・ロンクレイン
出演: レニー・ゼルウィガー、ローガン・ラーマン、
   ケヴィン・ベーコン

アメリカが最も繁栄していた1950年代のお話。レニー・ゼルヴィガーがいい味出している。2人の息子を持つ夢見る中年女性が、夫の浮気に愛想を尽かして、貸金庫のお金を持ち出してキャデラックを買う。家を飛び出し、息子達と良縁を探してルート66をひた走る。昔の良きアメリカが描かれる。出発点は勝手な母親の衝動的な行動に、この夫婦似た者で、ダメな親である。小説家志望の次男がストーリーテラーとなる。長男は俳優志望だが、かなり、オアネーさん。でも、立派な子供達で貧乏旅行の母を支える。結婚相手を求めて、ある時は軍人、又ある時は実業家と、昔の友人や町で偶然出会った男と結婚を目指すが悉く失敗。最後はハリウッドで落ちつく。
バンドマンで女好きの夫ダン(ケヴィン・ベーコン)の元を去り、お金持ちの再婚相手を探しに2人の息子とキャデラックで全米各地を回るロードトリップに出たアン(レニー・ゼルウィガー)。若い頃に数々の男たちを虜にしてきたアンは、2人の息子を抱えた今もその魅力が通用すると思い込んでいた。だが、近づいてくる男はお金を盗む男、若い女に寝返る男、結婚詐欺師・・・。災難はまだまだ続き、挙げ句の果てにはバーで知り合った刑事に売春婦と間違われ逮捕されてしまう。“何事もうまくいく”が口癖のアンは、その後も息子たちを巻き込み、新たな恋と女の幸せ探しの旅を続ける。生活費を稼ぐ為にキャデラックで車で客を乗せるサービスを始めるが、強盗に遭って金も取られる。
災難を乗り越えながら、ロサンンジェルスまで辿り着く。

浮気な父親と、ダメな母親にあんな忍耐強い子供達がいるってのは不自然。だいたい、この映画の両親がいたら不良になるのが普通。とはいえ、女の幸せが結婚でしかなかった時代のお話。レニーゼルビガーの野暮さとその裏に隠された演技派としての知性、したたかさが役柄としてはうってつけである。刺繍が大好きな、一寸レディ―っぽい長男とか、思春期の長男が旅とともに成長して行く様も描かれる。小品だが好感出来る作品である。
e0195345_1546406.jpg

[PR]
 スピリチュアリストという人がいる。江原裕之とか、癒しの世界、霊感があると称してデタラメを口にして立派な金儲けをしている。大したものだ。彼が見た事も無い死後の世界がどうして分る。お化けだとか、ポルターガイストといった霊魂、死者が、異世界から人間界から交信してくるとでっち上げして金儲けしているわけだ。死後の世界はそんなに偉いのか?全く笑わせる。
 
「全国霊感商法対策弁護士連絡会」は、日本放送協会と民放連に対し、番組内容の見直しを求める要望書を提出した。要望書には、「近年、霊能師が「オーラが見える」と語ったり、芸能人の未来を断定口調で予言したり、その言葉をそのまま出演者が信じたり、といった番組が増加しており、これらの番組が霊感商法による被害の危険性を高めている」美輪明宏も怪しげな格好を売りに、前世がどうのこうのと。もっともらしい語り口で人をケムリに巻く。テレビという虚構の世界が我々現実社会と交信しているだけである。テレビの世界は前世とか、霊的世界に通じるもがある。昔、ホラー映画、リングで山村貞子というお化けがテレビからご登場してお茶の間を恐怖の世界に変えた。来世と現世がそんなに頻繁に行ったり来たりするのははっきり言って迷惑である。
 
 かって、アウシュビッツとビルケナウでは600万人が殺されたという。それなら、その場所からは何かの霊の働きかけがあるのだろうか。とにかく600万の霊が、あの狭い場所に密集しているとすれば、未だに、そのようなところに漂っている霊は気の毒千万だ。死せる魂が我々に何かを働きかけるなんてあり得ない話である。そんな作り話は人の弱みにつけ込んでいるとしか思えない。ではキリスト教とか世界の宗教はどうなんだと言いたいだろう。そこで亡くなった人々に取って、神は何だったのか。東日本大震災の津波で多くの犠牲者が出た。4000人が行方不明である。そんなに霊と交信出来るなら、江原も美輪も彼等の居所を教えてくれ。それが社会的責任だろう。金にならないことはやらない連中だった。死せる魂は我々に何かを要求するんだろうか。そんな事はない。沈黙である。それこそ神の義なのだ。神は生けるもののために存在するというのが一つの答である。
 
 創世記には「世界の始めに、神は天と地を創造された。地は混沌としており、暗闇が深淵を覆い、神の霊が水の上を漂っていた」という。神はここからこの世を7日かけて作られ、人間も生まれた。人間が死ねば、その人はまた、元の世界に戻り、神と共に過ごすのだろうか。混沌の世界が待っているとすれば何ともつまらない。そんな世界に行きたい人がいるのか。イスラム教の天国は花が咲き乱れ、美女が踊り、美酒を飲める。だから、この世は堅苦しく、自爆テロをしたくなる訳だ。
 仏教は蓮の花が咲き乱れ、お釈迦様の周りで蓮の花の上に死者が瞑想しているというようなものだとすると、これも大して面白くない、地獄に行かなかっただけマシか。

イエスキリストは死後の世界と生きている世界を明解に語る。マルコ伝におけるサドカイ派との論争である。マルコ伝12章では復活を認めないサドカイ派がイエスに質問をする。
 
「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

 死から人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。』


 イエスが言いたかったのは、死後の世界の事ではない。生けるものの神という明解な解釈である。何も無い死後の世界から我々は縛り付けられることの不合理を考えて頂きたい。キリストの蘇りの世界は死後の世界である。しかし、その形は漠然としている。それが当然である。分らないのである。
 何故、来世から、我々が影響されねばならないのか。素晴しい人間も、ろくでもない馬鹿野郎も一度は死ぬ。その何だか分らない死が我々をとらえ、拘束する。あの世から霊が出て来ては我々に預言したり、驚かせたりする。そんな事は変ではないか。生けるものの神こそ我々は支配されるべきもの。騙されてはならない。2000年前の人々も死の世界に怯えて来た。イエスはそれに対して勝利の宣言をする。我々は死にうち勝った。これこそ重要な事である。

 リーインカーネーション、輪廻転生、ギリシャ神話にもある黄泉の世界すべて人間の創作、空想である。誰もあの世に行って帰って来たものはいない。イエスにとって、死後の世界の空想には興味が無い。神は、今生きているものに時代を超えた力で働きかけ、死んだものは姿形はどうでも良いのだ。我々には分らない。実に現実的であり、正直な答である。天にいる「御使い」とは正しい表現である。象徴的、隠喩的な表現でしか語れないものである。このイエスの死に対するクールさこそキリスト教の本質である。我々は今を懸命に生きることが求められている。時間は限られている。死は永遠の安息と考えればいいのである。


 
[PR]
「原発のウソ (扶桑社新書)、小出祐章著」

 原発を告発する出版物が増えている。著者の小出裕章氏は京大の原子炉実験所の助教として原発の危険性を常に訴えて来た。彼の専門は放射線計量、原子力に携わりつつ、その危険性を訴え、原発の推進に批判的な立場を取るということは、いわゆる原子力村の住民としては疎外されたのではないだろうか。しかし、原発周辺住民、さらに地域の人びとにとっては、こうした内部の人間の率直な意見が必要になる。我が国は原発を危険な施設であり、大きなリスクがあることを無視してきた。その結果が、今日の事故につながった。また、他の原発も何度かトラブルや事故があり、実情が隠蔽されて来た。

 安全神話にはじまり、原発や放射能の問題に関してはこれまで不透明、さらには噓が多かった。特に、3月の福島原発事故に至っては政府も、枝野官房長官の大本営発表的会見、原子力保安院、東京電力は情報の隠蔽、曖昧な言い回しや詭弁、誤った報告、ご都合主義的な国民を無視した発表が目立った。本書は原発推進側の噓や、勝手な解釈をひととおり暴いてみせている。福島原発で一体何が起きたのか。地震と津波が想定外という東電のいい訳に対して、人為的なミスー設計〜事故対応にいたる実態が説明されている。放射線被曝の危険性、特に内部被曝の恐ろしさ、また、これまで語られて来た火力発電に対する原発の優位性や経済性について容赦ない批判を展開している。こうした批判は、裁判でいえば一方的な検事の主張のようなものである。事故を起こした側からは、今は反論しにくいとことを叩きのめすように論陣が張られている。

 電力会社の噓や詭弁に関しては、「原発の闇を暴く(広瀬隆・明石昇二郎著)集英社新書」が原子力村ー原子力マフィアの実態を、また、放射線被曝の恐怖に関しては「内部被曝の脅威肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著(ちくま新書)」が啓発書としては説得力がある。後者は東日本大震災の前に出版され、人類の原子力利用の歴史において、とくに第二次大戦後、内部被ばくによる健康被害が軽視され、ときには意図的に隠蔽されてきた事実を告発している。

 「原発のウソ」はこうした原発告発本のダイジェストといってもいいだろう。原子力研究者による分かり易い解説本という意味に於いては成功している。総論としては、批判の論調が一方的な感じも拭えない。例えば、電力会社の送電コストは、ひと言では言い尽くせない複雑さが特徴だ。市場主義ではあり得ない僻地にまで送電義務がある事も語られなければならない。地域別に九州や四国など、原発依存度の高い地位域は生活用のみならず、工業用も原発依存度型か40%以上と高く、中部地方は原発依存度が低い。関西以西と関東の発電サイクルの違いから電気の融通ができず、トータルな電力使用量がピーク時でも原発無しでやって行けるかどうかの検証はなされていない。被曝による被害においても、やや過剰な被害設定が見られる。実際はこれも分らないことが多いのである。とはいえ、原発が55も、しかも、津波や地震など甘い想定、さらに人為ミスも重なった場合のリスク対応がお粗末な実態をさらけ出されると、もう原発はこりごりという印象になる。

 しかし、今なお世界のすう勢は原発を推進しており、廃止する国はドイツ、イタリアなどだが、これらも、原発で作った電力までは別に拒否していない。日本の場合、周囲の国からの供給は無いから、原発を廃止するとやはり、電力不足から来る産業リスクは高くなる。福島原発の冷温停止が終わらない今は、完全な安全は無いのだから、放射線被曝の恐怖や今後の事故の危険性を訴えた方が論理上批判的な立場の方が楽だろう。沈静化に向いつつある今、必要なことは安全性向上や、原状回復がきちんと行なわれ、稼働再開の可能性があるかどうかである。これまでの杜撰な体制が何処まで改善されたかを見守らなければならない。喉元過ぎれば熱さ忘れる国民性を彼等はじっと観察しながら、体制の復活を狙っている集団があるに違いない。

 戦後、少なくとも10年間、我が国は電力不足に悩み、自分が子供の頃は突然の停電は頻繁にあり、家庭にロウソクは必需品だった。高度成長期以降は電力は原発の貢献を否定することはできない。地域によって差があるが、豊富に供給されるようになった、ところが、原発の建設、廃棄物処理による高コストを耐えなければならなくなった。そのせいでアルミ産業などは完全に消滅した。日本の電力料金は先進国では一番高い。自然再生エネルギーへの転換は好ましいが時間がかかる。原発も急に止めるわけにはいかない。産業用ロボットやIT産業は電力依存度が高い。電力不足がどれだけ産業の空洞化や医療などのリスクを高めるかといった検証も必要だろう。脱原発を語るのは簡単だが実行は難しい。原発のウソにウソが無いのか、公平な立場からのエネルギー論が待たれるところである。

[PR]
 
 東日本大震災で海外から多くの支援を頂いたが、支援金が一番多かったのが台湾で、5月までに160億円もの支援を頂いた。同じようにかつて日本の支配を受けた韓国が42億円なのとは大違いである。中国からの国民党支配に苦しんだ台湾の人々がいかに日本に期待しているかである。

 日本の敗戦後、国民党が共産軍に追われて台湾に侵攻した。共産軍は金門島で阻止され、毛沢東は台湾侵攻を断念した。台湾に入った国民党軍はまるで乞食の軍隊のようだったという。彼等は、日本軍が去った間隙を利用し、武力で台湾を制圧した。そこで発生したのが白色テロであった。国民党を脅かす危険性のあるインテリなど、2万人を処刑したと言われている。蒋介石・蒋経国の一党独裁政治により、台湾人は押さえ込まれた。その為に日本時代に培われた社会インフラが破壊され、都市の衛生状態は最悪となって赤痢やマラリア,デング熱が蔓延して多くの犠牲者が出た。そのような状況を横目に、民主主義の旗手である筈のアメリカは独裁者の蒋政権を支え、選挙買収や教育による中国化、メディア操縦を図り、アメリカの国益と対共産主義の防波堤として台湾を利用して来た。

 蒋介石はアメリカの後ろ盾を得て、中華人民共和国―毛沢東と対決、東西冷戦を泳いだ。そこで、少数の国民党は台湾人を封じ、様々な特権、権益を手にして台湾を支配し続けた。その抑圧的政策は、台湾人にとって長い苦しみとなった。中国人は力の政策で台湾人の自由を束縛、また、権力者特有の腐敗や不正がはびこる政治状態が今日も続いている。台湾の人たちは経済成長を続ける中国との経済交流に目がくらみ、馬英九氏を選択してしまった。馬氏は中国と一線を画しているように見せながら、中国化の既成事実を築こうとしている。あからさまな、中国の手先という色を見せることは決して無い。

 馬英九氏は、香港九龍で生まれ、その後両親とともに台湾に移住し、台北市で育った。ハーバード大学を卒業、在学中は国民党系雑誌の編集長をしながら台湾の独立、民主化勢力の監視と報告に従事した。馬氏は完全に中国に育てられたスパイ、台湾独立を阻止し、中国統一に向かって、中国の指示通り動いてきた人物であるという根強い見方がある。総統選挙で豊富な中国資金と巧みなメディア戦略で台湾国民を安心させて初当選、民進党が腐敗していた事が災いした。

 しかし、中国は共産党支配が続いており、中国の台湾侵攻を抑えられるのは国民党に支配された軍だけである。とはいえ、長年の国民党支配もほころびが見え、軍も台湾人の影響が増すに従い、李登輝政権で台湾人の台湾人による国家が実現するやに見えた。中国の経済的影響が飛躍的に増すに従い、今の馬政権がその影響力を増すようになった。台湾福建省への投資が進み、相互の人的交流が進んできた。最終的には中国が台湾を併合する環境づくりの意図と、矛盾するような形で台湾の国民党が経済支配を続け、軍事力を誇示して中国に抵抗するつもりである。これは自分達の利権を確保する為のみせかけの抵抗である。
 
 ところが、何とオバマ政権は新型のF16の売却を拒否。その理由はいまだに不明だが、オバマ政権のアジア情勢の見方が甘いのか、あるいは、馬政権が中国共産党政権と通じていることを知っており、警戒感を抱いているのかであろう。アメリカに取って台湾は中国の大平洋進出を妨げる防波堤である。当てにならない危険な馬政権とは一線を画し、アメリカは事故の軍事力で対抗出来ると判断した結果であろう。

 共産党支配の中国と、かつては東西冷戦、今は中国の軍事拡張の脅威とアメリカの大平洋支配の狭間で台湾人は身動き出来ず、苦しい状況にある。中国は経済と軍事は別個に動く国である。軍が上位にある。次期指導者、習近平は太子党グループであり、江沢民の優等生である。日本は、そうした危機にある台湾の実情と、中国の拡張主義を理解せずに、億縄の普天間基地問題や、安保条約を考える必要がある。平和主義や、反軍主義では解決出来ない状況に今の日本は置かれているのである。中国は図々しくも、台湾中国の一部であるという既成事実を気づくのに躍起である。その一環として、尖閣列島問題がある。ここは台湾の領土であり、それを統治すべき中国が領土主張をすることで、台湾の主権を侵害しようとしている。そうした、策略を日本の菅直人民主党政権は読むことができなかった。
 台湾は断じて中国の領土ではなく、本来、台湾として独立した国家になるように日本は後押しすると、それが中国の最も恐れることでもある。尖閣列島の領有権と台湾との連携は中国の領土野心を制する生命線なのである。

 中国が台湾をその一部としたいからといって、歴史的には台湾は中国に支配された時期は極めて少ない。200年前の台湾は、中国に抵抗し、国家がその支配を進めても、海岸沿いの一部の地域であった。むしろ、日本の統治の方が長かったくらいで、かつ、台湾人に対する影響力も強かった。特に、中国人の権力による統治方法、露骨な権謀術策で台湾人を欺こうとする欺瞞的な戦略に台湾人は辟易としている。だからといって、何も日本の統治時代を正当化しているわけではない。国民党が支配した台湾は共産党政権の中国ではない。実は国民党の台湾でもないのだが。中国が台湾を中国の一部とする根拠はそれほど無いのである。中国が台湾を自分の国だと主張することを認めれば、沖縄や石垣諸島も危ない。
台湾原住民の民族衣装と歌
e0195345_91759100.jpg

 台湾を初めて統治したのは、鄭成功である。彼は、何と日本人を母に持ち、長崎の平戸で生まれた。彼は父の後を継いで、鄭一族の指導者として滅亡した明の再興を期し、清と戦った。   
 しかし、果せず、勢力を立て直すために台湾に渡った。1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。この物語は、近松門左衛門が1715年(正徳5年)の時代物『国性爺合戦』として竹本座にて17ヶ月の連続公演となる人気を博した。
 その後、清朝は鄭氏を滅ぼすが、台湾を本格的に統治しようとしたのは19世紀も末であった。清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化の為に1885年に台湾を福建省から分離して台湾省を新設した。台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになった。

 電気と電灯、電信、1887年には基隆―台北間に鉄道などの近代的社会基盤を整備し、本土から商人資本を呼び寄せ、興市公司を設立するなど積極的な政策を進めた。だが、日清戦争に敗北した為、翌1895年4月17日に締結された下関条約に基づいて、1895年6月台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、これ以降、1945年10月25日までの50年間、台湾は大日本帝国の外地として、台湾総督府の統治下に置かれた。台湾の近代化、工業化を促進したのは日本である。
 


[PR]
 日本剣道形が制定されたとき、その意図は何だったのだろうか。自分の推察だが、以下に述べたい。
 剣道形の制定は学校剣道の成立と関係している。警視庁では今日までに警視流という各流派の特徴ある形が継承されている。ところが、個々に秘伝という形で伝えられる当時各流派の形は集団指導にはなじまず、消滅の危機にあった。これらを残していくためには多くの剣道修行者に練習させる必要があり、覚え易いように統一した作法、形が必要だった。必ず3歩出て、5歩退くというルールは簡素化の典型である。剣道普及のため、重要なことは、中等学校で剣道を正課として採用する事が小澤愛次郎議員の尽力で決まったことである。その為に、剣道の授業や、段位についても基準が必要になった。また、授業での剣道の中心を竹刀剣道とするが、当時はまだ各流派も道場などで刃挽きの形が継承されていた。竹刀剣道と日本刀の関係を明確にしなければならないという難問を解決する為には、日本刀の刀法を形として残し、学生というより、教員にも教えられる、教育面から学生が学ぶにふさわしい可能な技を決定する必要が生じた。しかし、教育の現場で日本刀を使って形の稽古をすることはない。このあたりが、指導と理念上の矛盾であるが、学校ではせいぜい三段までの練度が限界であったから、日本刀までは必要なかったのである。
 
 根岸信五郎(神統無念流)、辻真平(心形刀流)、門奈正(水府流)、内藤高治(北辰一刀流・直心影流)、高野佐三郎(小野派一刀流)などが主査を務め、25人の制定委員をまとめた。それぞれの流派の極意が合成された形となった。現代剣道は学校教育の中で確立されて行ったが、その貢献者小澤愛次郎は小野派一刀流・直心影流を学んだ。形の制定委員ではないが、主査はこのあたりにも配慮し、その影響が強く出ている。直心影流は、当時の免許皆伝者、山田次朗吉師が武徳会と一線を画したため、あまり採用されていない。4本目の八相の構えは心形刀流の構えに似ているが、切り込む技は他流であろう。小太刀の1本目は直心影流の小太刀の打ち込みに似ているが、構えは小野派一刀流である。二本目三本目は小野派一刀流にそっくりの形がある。各派の技の合成なのである。25人の委員の各派が夫々どこかに入るように工夫している。だから、その流れとしては整いすぎて不自然なものもある。
 
Wikipediaによると次の説明となっている。
 大日本武徳会としては、それまで禁止されていた武術教育が許されたため旧制中学校で剣術を教える教師養成のため、明治末に剣術各流派ごとの形から師範学校用の教育用統一形を創った。その後全国教育で「剣道」教育をおこなうにあたって、基本概念とそのための形が必要となったため、1911年(明治44年)12月に調査委員会を発足させて師範学校用形を元として草案形の制作をはじめ、1912年(大正元年)10月に太刀の形7本、小太刀の形3本の計10本で構成される大日本帝国剣道形を制定した。その目的は、剣道の原点である刀の扱いやその部位、用法の基本を学ばせるという目的であった。

 そもそも、教育的な意味が強いため、各流派の、殺人剣的な相手を切る技は、封印された。精神的に相手を制圧する極意、理合、姿勢、礼を中心に構成されたのである。だから、各技には相手を切るという形はそれほど入っていない。特に、切り合いで多く使われた、トンボの構えや霞の構え、袈裟切りの技は全く無い。例えば、二本目の小手にしても、小手を抜くという技は難位度が高く、実践では不可能である。小手は横に払って返す刀で首を狙った方が合理的だから、直心影流の刃挽ではそのようになっている。しかし、それではいかにも人を殺傷する色が強く、学校教育には好ましくない。だから、さらに難しい抜き技にし、小手に返すという極意技を採用、見た形も良くしたのである。


根岸信五郎談;引用ーwww.shuhari.info/negishi.html
[PR]
e0195345_22231595.jpg
19日月曜日が全日本実業団となり、日曜日と重ならないので武道館に行き観戦することができた。決勝戦は東洋水産と、日通商事の対決となった。前半、先鋒、次鋒、中堅が二本勝ちして、勝負が決してしまった。副将は引き分け、大将戦は日通商事が勝ち、何とか面子を保ったが、どうも、日通は、準決勝で体力気力を使い果たしてしまった感じだ。とにかく、朝から8回くらい試合が続くから大変である。

 番狂わせといえば、今年は関東実業団での優勝チーム、優勝候補の三井住友海上がコート決勝で東芝テックに敗北してしまった。東芝テックの副将、佐伯が外ノ内に引き面をとらえたのが殊勲だった。三井住友はポイントゲッター、エースの辰巳が腰痛で休場したのが痛かった。宮本も転勤になってしまったが、先鋒の鈴木が強い。しかし、中堅の高村は本調子ではない。絶対のポイントゲッターがいない。大将小田口は勝ち上がってくると、相手も警戒するし、すでに研究されていて負けはしないが勝てない。
 
 今年の全日本選手権に出場が決まった、NTT東関東の山本選手は素晴しく、さすが警視庁の猛者を制して東京都大会で全日本の出場権を得ただけあって、素晴しい試合を見せてくれた。準決勝で優勝の東洋水産とチームは本数負けしたが、実質的な決勝戦という感じだった。何故、山本の試合が素晴しいかというと、実に堂々とした試合振りだったからだ。はっきり言って、決勝戦にしても、一本打ち込んでは竹刀を上げて、左拳を頭の上に乗せてガードする構えが多く、一本打の後は竹刀の手元を上げて凌ぐか、体力にまかせた打ち込み、引き面とか、運よければ当たるといった技の応酬が多くて、見ていて見苦しい試合が繰り返された。山本は姿勢を崩すことなく、剣先を中心から離さず、相手を崩していく正攻法であった。
 
 日通、日通商事、東洋水産の選手にも多く、面白くない試合だ。期待していたパナソニック電工も準決勝で負けてしまった。住友海上とパナソニック電工の決勝が見られず残念である。これが実現で来たら王者の剣道の激突となったであろう。理合の剣道を見せてもらいたい。いかにも、勝ちだけを意識した知性の無い剣道はうんざりだ。さすがに、運送屋とか魚河岸の兄ちゃんの馬力は凄い。これが武道だと好きな人もいるかも。応援団も、審判に圧力をかけるような、当たってもいない技にうなり声を出したり、学生時代のお里が知れる人がいた。審判は三人とも八段範士の先生方である事も知らないのだろう。実業団の決勝、準決勝ともなれば、気、剣、体の一致など、タイミングや当てただけで判定している訳ではないのです。
 むしろ、準決勝までの試合に堂々とした試合があった。何でも勝てばいいというものではないだろう。高校、大学の試合の悪い部分が、実業団でも引き継がれている。社会人らしい、手本になるような試合を期待したい。
e0195345_22162590.jpg


[PR]
 
 ヴィクトリア女王の系統は、もっぱら女系が強く、また、女性が優秀である反面、男にはろくな人材がいなかった。今の、エリザベス女王は立派で王に相応しいが、その息子、チャールズもどこか間抜けた感じで、離婚して国民の不興を買っている。イギリスの首相チェンバレンがヒトラーとの融和策を取って、まんまと乗せられ、チェコ併合からポーランド侵攻までのやりたい放題を招いた原因の一つが、ミュンヘン会談であった。チェンバレンは、ドイツのノルウエー侵攻も許し、何とかヒトラーと妥協しようとした。その原因は、実は、王室や、当時のエリートにナチス派が沢山いたことである。これは映画、「日の名残(アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン)」でも描かれている。本当はジョージ6世も責任の一端があるが、イギリスは参戦し、勝利したので不問になっている。チェンバレンだけがお人好しの首相として歴史の悪評を受けている。彼は、開戦後、胃がんで亡くなったから、あまり言われないが、余程、ヒトラーとの会談に悩んだのだろう。

 大英帝国ヴィクトリア女王の子孫は多く、ヨーロッパの王家と縁戚となった。特に、王女の一人女王の長女ヴィクトリアとドイツ皇帝フリードリヒ3世の息子がヴィルヘルム2世。ヴィクトリア女王の長男エドワード7世とデンマーク王女アレクサンドラ(クリスティアン9世の娘)の息子がジョージ5世で、この映画では後継者を心配しつつ亡くなります。

 ロシア皇帝ニコライ2世(ヴィクトリア女王の次女アリスの四女アリックスの婿)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は従兄にあたり、従兄弟同士が第一次世界大戦で敵同士として戦ったことになる。ロシア皇帝ニコライと従兄弟にあたるジョージ5世は髭のせいか、そっくりさんである。血縁はない筈だが、ロシア皇帝はそもそも、エカテリーナがドイツから来ているからDNAがつながっているかもしれない。名君ヴィクトリア女王に比べ、この孫達はあまり優秀ではなかったらしい。その為、くだらない戦争を繰り返し、第一次世界大戦で、ドイツ皇帝も、ニコライ2世も結局追放され、国を失った。特に、ニコライ2世の息子アレクセイは血友病で、これはヴィクトリア女王の家系から来ている。血族結婚のせいである。その母親であった女王の4女アレクサンドラ(アリックス、ニコライ2世の妻)が、ラスプーチンに何でも頼ったために皇室への民衆の離反が始まり、ロシア革命が起きた。

 その、ジョージ5世の息子エドワード8世もシンプソン女史とゴタゴタを起こし、王位を捨てた。国や国民そっちのけで女に夢中になる、いい加減な男であった。ビクトリア女王はさぞかし、天からため息をついた事だろう。特に、エドワードはシンプソン夫人だけではなく、ナチスと結託してジョージ6世を板挟みにして悩ませた。とんでもないアホであった。ジョージ6世は問題はあったが、懸命に国王の責任を果たそうと努力し、第二次世界大戦を乗り切った。大戦中、また、その後の大英帝国の解体に翻弄され、英国の権威の維持に懸命に奔走し、56歳で逝去した。善良王として英国民の評判は良い。今のエリザベス女王の父上として良い結果を出すようになったといえる。日本の皇室は平成天皇がヨーロッパ王族にみられる血族結婚の悪影響を心配して、小泉信三慶大教授の助言もあり、皇族以外からお妃を選び、美知子妃殿下が伴侶となられたのである。
e0195345_10301945.jpg
 
 甥である英国王はこれまでの国王より多少ましで、懸命に使命を果たそうとした。これがジョージ6世である。だが、ドモリで困った。そのドモリを克服すべく、心理療法の専門家ローグと懸命の努力をする国王のノンフィクションである。戦争の開始を告げた国王の演説は国民を鼓舞することとなった。この映画では、イギリス、特にロンドンの空気とか、気候、時代の雰囲気が見事に再現されている。映像作品として高い水準を達成し、今年のアカデミー賞を獲得した。


Wikipediaより、映画のあらすじ
e0195345_19472995.jpg

1925年、大英帝国博覧会閉会式で、ヨーク公アルバート王子はエリザベス妃に見守られ、父王ジョージ5世の代理として演説を行った。しかし、吃音症のためにさんざんな結果に終わり、聴衆も明らかに王子の演説に落胆してしまった。アルバート王子は「専門家」による治療を試すものの、結果は思わしくなかった。
1934年、エリザベス妃は言語聴覚士であるオーストラリア出身のライオネル・ローグを紹介され、アルバート王子は仮名を使って、その療法を受けるため、ローグのみすぼらしいオフィスを訪問した。第一次世界大戦によって戦闘神経症に苦しむ元兵士たちを治療してきたローグは、当時、本流とはいえない療法をもって成功していたが、アルバート王子に対しても、愛称(バーティーとライオネル)を使い合うことを承知させ、くだけた環境を作り出して療法を始めようと提案する。これに対してアルバート王子は反発し、治療法そのものに納得しない。ローグは最新の録音機を使い、王子に大音量の音楽が流れるヘッドホンをつけることで自身の声を聞けない状態にしてシェイクスピアの『ハムレット』の台詞を朗読させ、その声をレコードに録音させた。王子はひどい録音になったと思い込み、また治療の見込みがなさそうなことに腹を立てて帰ろうとする。それならと、ローグは録音したばかりのレコードを王子に持って帰らせる。
ジョージ5世のクリスマスのためのラジオ中継が行われた後、国王は王太子デイヴィッド王子とアルバート王子の将来について心配していることを告げる。国王はデイヴィッド王子について次期国王として不適格だと考えているようであり、弟であるアルバート王子が王族の責務をこなせるようにならねばならないことを強調し、きつく接する。帰邸後、落ち込んだアルバート王子は、いら立ちとともにローグから受け取ったレコードを聴く。だがそこには、吃音の症候はまったくない『ハムレット』の台詞が録音されていた。王子はエリザベス妃ともども、自分の声を聞いて驚く。そして、王子はローグの治療を受け続けることにして、口の筋肉をリラックスさせる練習や、呼吸の訓練、発音の練習などを繰り返し行う。
1936年1月、ジョージ5世が崩御し、デイヴィッド王子が「エドワード8世」として国王に即位した。しかし、新しい国王はアメリカ人で離婚歴があり、まだ2番目の夫と婚姻関係にあるウォリス・シンプソン夫人と結婚することを望んでいたので、王室に大きな問題が起こるのは明白だった。このような状況下、アルバート王子は、吃音症の治療により一層真剣になり、またローグは問題の原因となっていると思われる、王子の幼少期の体験による心理的問題、肉体的問題による背景を知り、より適切な解決を図ろうと試みる。
その年のクリスマス、ヨーク公夫妻はバルモラル城で行われたパーティで、国王とシンプソン夫人の下品な姿を目の当たりにする。見かねたアルバート王子が兄王に、離婚歴のある女性との結婚はできないことを指摘すると、王は吃音症治療は王位がほしいからなのかと責め、兄弟の関係は険悪になる。さらに、アルバート王子が即位することを望むローグとの意見対立から、王子は治療を中断してローグの元から去ってしまう。
結局、エドワード8世は、即位して1年も満たぬうちに退位[2]し、アルバート王子が国王として即位することを余儀なくされた。それまで、海軍軍人としてのみ公職を持っていたアルバート王子は、この負担に大きな苦しみを感じることとなる。しかしヨーロッパにおいては、ナチス・ドイツのファシズム、ソ連の共産主義が台頭し、一触即発の機運となっていた。英国は王家の継続性を保ち、国民の奮起をうながすため、立派な国王を必要としていた。
英国王として即位したアルバート王子は、父親の跡を継ぐという意思表示をも含めて「ジョージ6世」を名乗ることになった。しかし、新国王の吃音症は依然として深刻な問題だった。同年12月12日の王位継承評議会での宣誓は散々なものとなった。ジョージ6世は再びローグを訪ね、指導を仰ぐこととした。1937年5月、ジョージ6世は戴冠式でローグが近くに臨席することを望んだが、カンタベリー大主教コスモ・ラングをはじめとする政府の要人は、ローグは満足な公の資格を持たない療法者にすぎないので、他の専門家による治療を受けるようにと要求し、ローグを国王から遠ざけようと試みる。しかしジョージ6世は、それまでにローグとの間に築き合ってきた信頼関係を第一とし、また彼自身が吃音症を克服しつつあることを自覚して、ローグを手放すことをせず、彼の治療方法を信頼することにするのだった。
[PR]
 
 かつて、ソニーがウォークマンやCD、VTRと続々とヒット商品を継続して世に送り、常勝、プレイステーションで確立したホームエンタテイメントのシステムが出来上がった。ところが、SONYワールドにほころびが生じている。その象徴が、今年の大量の顧客情報漏洩である。ソニーのゲーム機プレイステーション3(PS3)とプレイステーション・ポータブル(PSP)のネットワーク接続「プレイステーションネットワーク(PSN)」の不正アクセス事件で、7700万件にも及ぶ個人情報流出事件が起きた。ネットワークに入って個人のカード情報が盗まれてしまうなんて、全くの信頼性喪失である。ソニーのシステムは危険を感じさせてしまった。ソニーはブルーレイも、薄型テレビも伸び悩んでいるという。かつて、VHFとベーター対決で敗北し、常勝ムードは消えた。SONYは、録音機や携帯ラジオといった何でもコンパクト、ハンディにする製品で勝負して来た。ところが、大型テレビ、オーディオ、パソコンでは今イチだ。この分野は、むしろ、アップルに侵略されてしまった。この起死回生の試みが、キュリオシティということになる。映像や音楽コンテンツを配信するサービスでネットワークを構築しようという。これまでの豊富なメディアコンテンツがどう生かされ、新たな顧客を生むかである。ソニーは、Qriocity(キュリオシティ)によるプレミアム映像配信サービス 「Video On Demand powered by Qriocity (“キュリオシティ” ビデオオンデマンド)」を2011年1月、日本でネットワーク対応の液晶テレビ<ブラビア>向けに、開始。(Qriocityサービスのサイト: http://www.qriocity.com)
 20世紀フォックス、ユニバーサル、パラマウント、ソニー、ワーナーなどの映画会社が提供する最新のハリウッド映画や話題の邦画および先行・独占配信を含むアニメーション作品などをストリーミング形式で提供する映像配信サービスである。対象機器をネットワークに接続するだけで、高画質(HD)および標準画質(SD)の映像を手軽に楽しめる。サービス開始時には200作品以上のタイトルを準備、順次ラインアップを拡大する。価格帯は、1タイトルあたりHD版が500~1,000円(税込)、SD版が350~700円(税込)。ネットワーク対応の<ブラビア>に加え、その他のソニーのネットワーク対応機器に展開する。ソニーは今もウォークマンで日本でシェア50%を越えているが、アップルが成功した、PC、iPod,iPhon,iPadといったPC機器の統合には大きく遅れを取った。キュリオシティは起死回生の道を切り開くだろうか。

 一方、アップルは今年の秋、iCloudというネットワークを構築する。今年 iTunes による映画コンテンツを配信することができるようになった。その中に、見たい映画があるかどうか。そして、これは料金を払えば保存も可能だ。http://gigazine.net/news/20110607_icloud/このクラウドの前に、iWorksで、ネットワークにメール、データベースなど情報をストックするサービスを作っている。しかし、PCやiPhoneのデータ同期という仕組みが、PCとの円滑なデータ交歓にネックがあり、評判は今イチだった。これを乗り越える形で出て来たのがICloudである。自分がアップルに期待するのは、その知的世界である。勿論、ゲームもあるが、SONYのホームエンタテイメント、家族で楽しむというより、個人で楽しむ、パ—ソナルな世界である。しかし、これは大衆を何処までとらえられるかは不明である。クラウドによって、iPhone, i PadがITunes,写真や動画データがインターネットを通じ、アップルのネットワークとデータベースに直結する。これはPCを介さずともデータの受信や蓄積が可能で、一人5ギガの要量が割り当てられる。アップルを今日の姿に育てあげた、スティーブジョブズ渾身のシステム構築である。この2つの仕組みが、今後の情報世界を一歩進めるだろう。アップルはこれをユーザーフレンドリーに集約したサービスと機器の開発を続けられるか、まt、音楽や映像コンテンツを集められるかに命運がかかる。特に、iPadにおける電子書籍の使い易さと価格である。情報という知的世界をiCloudが席巻するだろうか。

[PR]
 ニュースによれば、 公立校の教職員に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例案が3日、大阪府議会(定数109)で成立した。同府の橋下徹知事が率いる「大阪維新の会」府議団が提出。公明、自民、民主、共産の4会派は反対したが、過半数を占める維新の会などの賛成多数で可決された。
 条例は賛成59票、反対48票で成立。自民の1人が退席した。条例名は「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」。府内の公立小中高校などの学校行事で君が代を斉唱する際、「教職員は起立により斉唱を行うものとする」とした。府立学校など府の施設での日の丸の掲揚も義務化した。君が代の斉唱については、都道府県教委はこれまで、各学校に対し国旗・国歌法や学習指導要領などを根拠に起立斉唱を文書で指示。校長が起立を拒む教職員に職務命令を出し、各教委が従わない教員を処分してきた。大阪府教委も2002年から各学校に指示し、大半の教職員は起立斉唱をしているのが実態だ。大阪府の橋下知事は、入学式や卒業式での君が代斉唱時に教育委員会などの指導に従わず「勃起」しない教職員について「辞めさせるルールを考える」と述べ、排除していく考えを明らかにした。うひゃー!失礼、起立の間違いでした。
 
 公立学校では、やはり、日の丸と君が代には敬意を示さないといかん。それがいやなら、ミッションスクールとか、朝鮮学校でも行けばいい。ミッションスクールでは賛美歌を歌うことはあっても、君が代は流石に歌わないでしょう。自分は市川市の私立、日の出学園の幼稚園と小学校に8年間通っていた。この小学校は、今の平成天皇が生まれた時に設立され、制服も学習院のような蛇腹のついた制服だった。だから、事あるたびに日の丸と君が代を抵抗無く歌っいた。公立学校で、教師達が一体なんでそんなに抵抗するのか、全く知らなかった。分らないくらい自然に君が代を歌っていた。

 でも、あの歌は、何とも、民主国家に相応しくないね。君が代というのは専制君主である明治天皇の感覚が強すぎる。また、我が国は、太平洋戦争の責任追及もいい加減で、一億層懺悔何とか言って、戦争指導者の責任を曖昧にしようとした。原爆記念日で、可愛い子供が、答辞を読んだ。「過ちは繰り返しません?」何それ、彼等は何も間違っていない。子供に言わせて逃げようかってんだ。間違ったのは、当時の、日和見政治家、近衛だとか、頭の狂った軍部、東条ではないか。
 
 東京裁判でもなければ全く反省する気が無かった、性懲り無い国民だからね。今になって、東京裁判はアメリカの茶番だとか、東京裁判史観は間違いだと言っているが、何で、あのときも、その後何十年も言わなかったのか。怖くて言えなかっただけだろう。じゃあ、どんな史観か。まさか、道徳教育で教育勅語を採用しろと言うんじゃないよ。確かに、父母を敬えとか、いい事言っている。でも、何もこれを天皇の権威で言わせることじゃない。モーゼの十戒にも書かれていることで、当たり前。意図は、これに天皇の権威を持って来て、そのご威光で威張り散らそうとした連中の陰謀なのである。そんな弱虫連中ー石原都知事などー総理大臣は怖くてなれない、国家元首ではない人がやたら威張ろうとする、何か権威が欲しい。ご冗談でしょう!堂々と、都立学校で「海ゆかば」を歌おうと言えばいいのに。それほどの自信は無い。だから、いい加減だと言っているんだ。
 
 ミッションスクールで国歌を歌わないのも良くない。彼等は、結構私学助成金に頼って経営している。国民の一員でもある。でも、ミッションスクールが明治天皇を讃える歌を歌わなきゃならないなんて、やはり屈辱。だから、新しい国歌を提唱しよう。それは、あの、故郷という歌だ。東関東大震災の避難施設で、歌手の慰問が来ると、結構歌っていた。その時に、君が代なんぞ歌うアホはいない筈。これがいい。故郷。これを第二国歌にしよう。これなら皆で歌えるぞ。どうだ、相撲は天皇杯が出ているから、君が代だが、これも一緒にもう一つ歌おうではないか。いい歌だ。オーケストラでもしっかり旋律を出せる、メロディーです。
 
1.
兎追ひし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

2.
如何(いか)にいます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思ひ出(い)づる 故郷

3.
志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は靑き 故郷
水は淸き 故郷

[PR]
 1997年に製作された日本映画。 女流の監督、河瀬直美は、第50回カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞)を受賞した。というより、授賞してしまった。こうした、日本風景に展開する、静かな人々の日常といったモチーフがヨーロッパ人のインテリに受ける舞台設定なのだろう。以来、河瀬監督はカンヌのレッドカーペット組である。映画として、ドキュメンタリータッチの、16mmで撮った映像が興味をそそるが、単なる習作と言った程度のもの。昔は、こうした美的な風景を描く映像に感動したが、最近はすっかりひねくれてしまった自分が情けない。もっと、純粋に楽しんでもいいのだが、リアリティがありそうで、底の浅いところが見えてしまう。不甲斐ない。過疎化が進む奈良県吉野村、この山間の村にある田原家、当主の孝三、妻の泰代、母の幸子、そして孝三の姉が残していった栄介と、孝三と泰代の子・みちるの5人が暮らしている。台詞が少ないうえ、俳優の発声が悪く、ナレーションも無いから、この関係が良くわからず、半ばまで、首をかしげながら見た。これらを映像で理解させようとするのは無理であることに監督は気がつかなかったのであろうか。

 この、萌の朱雀というわけの分らん映画の題、朱雀というのは怪獣だが、夏という意味もあるらしい。映画の中での話だが、舞台設定に慣れるのに一苦労、時間の経過が良くわからず、いつの間にか子供が大きくなっていた。台詞も状況を把握するのにはつぶやきが多過ぎ。河瀬監督の作品は最近の第60回カンヌ国際映画祭にて『殯(もがり)の森』がグランプリを受賞したが、何でこんなに読めない漢字を使うんだろうか。いかにも、都会のインテリ監督が、山村の生活を描いている感じ。山の生活はもっと厳しいんではないか。新藤兼人監督の裸の島(乙羽信子、殿山泰司)を見なかったのかね。8mm映画で過去を回想したりする手法はベンダースの「パリ・テキサス」でもあった。こんな素晴しい映像があるのに彼女は見てないのか。参考にしてほしいね。舐めとる。あれが村の生活かなー、分ってないんじゃないか。失踪した亭主は8mmで村人を撮影したり、静かなクラシックを聞いたり、仕事もしないで、何やってんのか。村では変人として、かなり噂の種になるのが普通。美しく描きたいのは分るが、現実は違うぞ。

 映画というのはもっと面白くなくてはいけないんではないか。あまりにも、静的に、日常が描かれ、何処にでもあるような山の風景が有難そうに出てくる。それはそれで、自分も、大分の湯布院の一角に親類がいたから分る。あの何処にでもある山の風景というのは、住んでいる人には退屈だが、都会の人間が数ヶ月過ごすと、良い思い出になる。住んでいる人間からすれば、馬鹿野郎、一体何が面白いんだ。何十年も住んでて毎日見ていると、緑の森は全く美しいとは思わなくなる。なれちゃうし、雑草とか、不便なことが苛立つんだよね。俺たちは何も、好んでこんな生活をしているんではない。都会に移ると何とも良い思いでになるから不思議だが。住民としては、昔から、ここに住んでいるし、他に行く場所がないから暮らしているんだと言いたいだろう。でも、都会から来た、気鋭の監督が、映画に撮りたいと言えば、何となく嬉しくなって、協力してくれる。全くの退屈しのぎには格好の話である。それを、素晴しい生活の様に撮影されると、さぞかし、気恥ずかしいことだろう。

映画 萌の朱雀の舞台となった奈良県の山村

e0195345_1184682.jpg
e0195345_1183026.jpg


奈良県の山奥の集落に住む、元土木技師とその一家の幸せな日々、トンネルまで作った鉄道計画が廃止になって、彼は鬱になる。家族が崩壊して行く話である。普通はなかなか無い大事件だが、この家族、平然としているのは不思議。実は、地方都市では時々こんな話題はけっこう転がっている。しかも、浮気話なんかも織り込まれて、ドラマチックです。亭主が失踪したならもっと慌てるんじゃないか。泣いたり、わめいたり、一家で狼狽するんじゃないか、冷たい一家だね。閉鎖的な、山奥の生活で、あんな美人の人妻と可愛い、女子学生がいたら、健康の塊のような絶倫男ー(失踪した亭主の甥)が一緒に静かに生活しているなんてあり得ない。退屈な生活して、我慢出来る分けない。2人きりでお寺なんかに行けば、たちどころに、近所の百姓どもの婆さんの噂の種になる。何で、一緒に生活してるんだ、ありゃ、出来とるくらい言われて、娘だって疑われますね、それが田舎というもの。卑猥なんだよ日本の村落共同体は。いかにも、知的な女性の描いたきれいごと家族と村である。全くのお嬢様作品だが、ヨーロッパ人には受けるんでしょう。それを有り難く、清潔な映画として崇められ、しかも、今や、大監督でもてはやされてるのは、苦労が当たり前の映画人には眩しい事だろう。朝日新聞や岩波ホール好みのおすすめ映画である。

[PR]