<   2010年 10月 ( 15 )   > この月の画像一覧

 
1.待ち遠しい第15シーズン

 モンスター長寿テレビドラマ、ERは長いシリーズを終えた。第1話から見ていたが、延々と続くシリーズに途中飽きが来て見るのを止めてしまったこともあった。最近、シーズン14を見た。ERはアメリカのNBCで放送されたテレビドラマシリーズ。1994年9月から2009年4月にかけて331エピソードが放送された。日本ではNHKが2010年10月7日からBS2で第15シーズンを放送するが、自分はBSに入っていないので、見る事ができない。いい役柄の俳優が降板してしまう。配役がどんどん変わり、グレイズアナトミーのような二番煎じにかき回されたため、人気は後半低下した。主要メンバーがあっさり死んだり、贔屓俳優が転勤(実は降板)してしまうのでがっかりして見なくなる。病院内のエピソード品切れの感もあったが、やはり番組制作の力量は群を抜いている。いくつかの話が並行して展開する、そのスピーディなシナリオ展開、戦場のようにめまぐるしい場面の変化に圧倒された。似たような日本の長命番組は「渡る世間は鬼ばかり」ということだろうが、何とものんびりした展開だ。ERも終わったとなると、ふりかえるにつけ、やはり凄い番組。

2.個性的な俳優達

  第1シーズンでは、クエンティン・タランティーノが1本だけ演出、この際に小児科医ダグラス・ロス役のジョージ・クルーニーが( 第5シーズン)脚光を浴び、今日の大活躍となった。シーズン15はこれまで、アメリカでもやや中だるみだった視聴率が、一気に回復し、途中で降板となったスタッフも顔を見せ、最後を盛り上げた。いずれDVDで見られるだろうから楽しみだ。マイケル・クライトンの「五人のカルテ(ハヤカワ文庫)」が原作。シカゴが舞台。ドラマではカウンティ総合病院の救急救命室(Emergency Room、略称:ER) で働く医師や看護師たちの日常をリアルに描いたドラマで、様々な登場人物が、とても個性的な存在感を示す。

3.アメリカの救急病院

 とにかく、アメリカのこのような、ER病院には、とんでもない人柄の患者や場合によっては犯罪者やヤク中も来るし、頭の狂った人も拒めないようだ。しかし、アメリカ人の患者というのは、何とも自己主張が強い。患者は、何かの事故とか急病で担ぎ込まれるからおとなしいが、治療に抵抗する人もいる。保険に入っていない為に治療が出来なかったりする厳しい現実も描かれ、医師達は、何とか患者の為に工夫する。ところが、治療に不満があると逆に訴えられたりする。義理も人情も無い誰もが生き抜くのに必死なジャングルのような社会。無保険者の多い地域には救急車がいやがって行かない事もあるそうだ。うっかり運び込んだために治療費を救急隊員が請求されることがあるのだ。もっと大変なのが、突然の事態にパニックになった患者の家族である。診察室で大暴れする奴がいたり、日本の病院では想像がつかない自己主張。
 びっくりしたのは、初期の頃、看護師だったスタッフが、医者になっていたり、どうしようもない医師アーチー・モリス(スコット・グライムス,シーズン12)が、大活躍している。厳しい競争と敗者復活のある社会、これがアメリカの強みなのだと思った。アビー・ロックハート(モーラ・ティアニー)は看護師だと思っていたが、シーズン14では医師になっていた。アメリカでは上級看護師は大学と修行は6年で、その専門知識に関しては大変な権威がある。医師看護師という資格もある。だから、何年か再教育を受け、試験に合格すれば医師になれるのである。日本とは大違いである。ルカ・コバッチェ先生(ゴラン・ヴィシュニック)ほ後半の主役格で部長になったり、海外医療奉仕で殺されそうになる。不思議な事に皆、病院を出ると色あせて、ただの色気違いとか、家庭内トラブルの持ち主になって、平凡なドラマが展開する。何といっても、この作品を貫いている主役は常時大混乱の「病院」なのだ。第1話から11話まで中心スタッフだったジョン・カーター(ノア・ワイリー)はシーズン15で再登場だそうだ。この番組では、アメリカの医療最前線も垣間みる事ができる。当初は無かったが、後半では腹腔鏡手術などもやっているシーンがある。考証も大したものだ。
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4.シーズン15で再会

足が不自由で杖をついて活躍する部長役、ケリー・ウィーバー(-第13シーズンまで)(ローラ・イネス)も個性的な名演技だった。レイフ・ファインズの元妻だったのが、エリザベス・コーデイ(〜第11シーズン,アレックス・キングストン)でイギリス映画超大作かつ駄作、女王ブーディカにもでていたが、ER最終章で登場。 ニーラ・ラスゴートラ(パーミンダ・ナーグラ)もレギュラースタッフだ。彼女も途中で医師を断念して、レストランやコンビニで働く苦労人のインド人として安定した存在感がある。中国人の医師も出てくる。俳優の数が多いのと、あまり名前を呼ばないので、名前が誰だか分らなくなってしまう。シーズン15で多くのスタッフが再会する。
(http://d.hatena.ne.jp/twillightblue/20101022/1287684929参照)

5.医療制度改革
 
 この映画を見ていると、いやはや、アメリカの病院は大変、これはERだからだろうと思うが、こんな病院には行く気にならない。しかし、この中で印象的なのは、国籍も多様、また、医師への道もエリートだけではなく、看護師が医師に転じたり、途中の挫折者が復活してくることだ。ニーラはインド人だが、今アメリカの病院はインド人医師が増え、しかも優秀だそうだ。また、日本の医療と違って、ERは小児科から、婦人科、外科と何でもこなさなければならない。こうしたシステムが患者への対応を柔軟にするアメリカならではの仕組みであり、医師の数も充足される利点だと思う。しかし、何でもアメリカ型にすれば得だと思っている軽薄な輩が日本のエリートには結構いて、しかも、医療のシロオトなのに政策に横槍を入れる。確かにメイヨーとか、ジョンホプキンスなど世界有数の病院もあるが、この国では医療事故が多い。全体は何も日本より優れているとは思えない。事情はヨーロッパも同じだ。目的は医療費への公費負担の削減だ。アメリカの制度はやはりアメリカでしかうまく機能しないし、アメリカ自身が増え続ける医療費に困っているのだから。応用するには真似ではなく国情によって仕組みを良く考えねばならない。
 
6.たらい回しが横行する理由

 日本の病院では2次救急(心筋梗塞や火傷事故など複数科の連携を要する3次救急)病院の充実が課題だ。診療科を越えて患者を診ない仕組みがたらい回しを生む。これを解決するには医学部教育のありかたから変えなければならない。硬直した学歴主義医師養成では限界があるだろう。医局制度から研修医制度への転換はあまりにも姑息的で、かえって医師不足を招いてしまった。教育というのはシステムが大事、日本人というのは権威主義的でシステムというものへの取り組みがへたくそだ。必ずボトルネックが出来、しかも修正しようとしない。最近はDPCが普及してきたが、まだ一部であろう。医療費抑制はシステム構築からすすめるべきだ。地域連携クリニカルパス、診療科の横断強力、チーム医療、在宅医療整備、医学部教育など、課題は多いが、患者負担増、保険料引き上げはそうした全体の改革の中で手順よく行なわれなければならないと思う。そのためにはリーダーシップが必要なのに日本ではこれが育たない。

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 1.病いは気から プラシーボ効果
 
 人間には自然治癒能力がある。また、心と免疫力には強い関係があることは以前から分っている。先般、ホメオパシーが医学的に根拠が無いことが医学会で公表された。これは現代医学で治療すべき患者が、ホメオパシーにこだわった為に重体化したことがきっかけである。ホメオパシーが、全く何の効果もないかというと、無いとは言えない。たしかに、薬効は無いかもしれないが、人間は暗示によって身体の状態が変わることがあるので、これをプラセーボ効果と言って、薬理試験でも統計的解析の要素となっている。

 人間笑って毎日暮らすことが出来れば言う事ないだろう。しかし、そうはならない、様々なストレスが我々を取り巻いている。また、全て病気がストレスを原因とし、精神力で解消すれば何でも良くなるなら医者も楽か、失業するだろう。しかし、プラセーボ効果というのは長続きしない。幸福は人から病気を守る効果がある。しかし、不幸は突然襲ってくるのだ。不幸は病気ばかりではない。リストラ、離婚、親との死別などだ。これらは強い精神的ストレスになる。そして病気の原因にもなる。

2.ストレスや精神と身体の関係を科学的に立証するのは難しい

 人間にはホメオスタシスといって、身体のバランスを形成する機能が脳ー内分泌系ー免疫系が三位一体となって機能する精巧な仕組みを持っている。風邪をひいた時に熱を出す事もその一つだ。ウィルスは熱に弱いため、発熱によってウイルスを攻撃する仕組みがあるのだ。これらはホルモンとか、サイトカイン、コルチゾールなどの伝達物質が働き、脳や副腎それぞれの分泌を促している。しかし、それが、科学的にどのように作用しているかは、ネズミ等の動物実験で立証するしかない。人間を生体解剖しなければ数値は掴めない。だから、現代医学ではこの領域が最も苦手なのだ。統計的に処理する上で、数量や複合的な原因によるバイアスがかかり易い。例えば、マラソン選手など、毎週96㎞走る選手は32㎞走る選手より2倍風邪を引き易いという研究結果があるが、これも医学的には何人を調査したかを問われるだろう。ストレスが引き金になる病気は、風邪、心臓疾患や脳疾患などの血管障害、癌、精神障害、パーキンソン病、アルツハイマーなどがストレスとの関係性が高い。しかし、医師として、病気の原因を説明することは難しい。どのストレスが個々の病気との関係につながるかが判明しない。育児ストレスもあれば、怪我のストレスもある。個人差も大きいのである。これは何でもストレスのせいとするならば、いい加減だな説明だ。あらゆる病気は関係しているともしていないとも言えない。説明していないと同じである。これはむしろ医師に頼ることではなく、患者自身が努力する事で身体の状態を改善できる要素なのだ。ストレスの原因は何かを理解できるのは自分自身であり、それを改善出来る人も自分である。例えば、タバコをやめるとかだ。医師に言われてタバコを止める人は少ないのだが。

3.脳との関係

 ストレスー恐怖、仕事や人間関係の軋轢などは脳の扁桃体や視床下部に作用し、コルチゾールの分泌に作用する。コルチゾールは海馬の働きを左右する。視床下部から脳下垂体に作用し、副腎からコルチゾールを分泌させるのである。また、免疫系にも作用する。また、危険を察知するとアドレナリンが放出され、これが不足したりするとコルチゾールが補うといった補完関係がある。そして、これらはリンパ系に作用し、人間の抵抗力にも大きな影響を与えるから、因果関係から見て、強いストレスに曝されると、癌とか、血管の収縮などにも影響するであろうことは想像がつく。しかし、癌というのは発生の仕組みが多様であって、免疫で制御できる部分は一部である。サイトカインのインターフェロンとか、最近は免疫療法も生まれているが残念なことに常に決定的な効果があるわけではない。癌に効く健康食品とか、療法というのは、僅かに効く人もいるのだろうが、殆どは効果はない。プラセーボという意味である。何にでも効くという療法は医学的には何も効かないということでもある。

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直心影流極意 丸橋
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1.流派の継承

 鹿島神殿直心影流は最後の免許皆伝者、山田次朗吉師が、東京商科大学(一橋大学)師範となられた関係で、連綿と一橋大学剣道部において学生の剣道修行の一環として先輩方の努力で継承されている。直心影流は江戸時代においては三大流派の北辰一刀流、鏡心明智流、神統無念流が興隆するまでは最大流派として、広く学ばれ、藤川派、男谷派など、多くの分派を作った。そもそも、直心影流はいわゆる秘伝というより、武士達の訓練、教養として共有すべき日常的鍛錬の方法でもあった。むしろ多くの修行者を得て優れた素質の伝承者を残そうとした。内容は、鍛錬の積み上げ、日々の心身の訓練として実践することに重きを置いていたから、道場主の生活の糧としての「宗家」とか、「家元」といった仕組みを持っていた訳ではない。時代の要請において生きた剣道だったのである。だから、時代の変化により、維新後、兵法としての価値は無くなった。しかし、多くの修行者から優れた人材を残すため、当時の剣道の伝承方法としての免許制度は持っていた。男谷信友から流儀を継承した榊原鍵吉以降の男谷派については、1878年(明治11年)に野見錠次郎が継承したとする系統と、1894年(明治27年)に山田次朗吉師が継承したとする系統とがある。山田次朗吉師は男谷派以外に藤川派も学んでいたため、伝えた内容は榊原鍵吉以前の男谷派とも内容が異なるという説もあるが、山田先生は直心影流を残すために、総合への努力をされたのである。まさに、守破離の「離」の域である。明治に入って最後の門弟として免許を受けたが、さらに、東京商科大学において、弟子として、山田先生に心酔し、戦後まで直心影流を修練した大西英隆氏が伝承者として名を残している。

★山田先生の功績

 山田先生自身、時代の変化を良く理解され、実用の技術としての剣道の目的は既になく、剣道の意味を問い直すことに取り組まれ、日本剣道史という名著を書かれた。剣の意義をいかに後世に伝えるか、本質を見出し、残すべき形を集大成し、これを教育面で活用した。山田先生の文武両道の修行者としての真骨頂である。そこで、直心影流の「法定(形)」春夏秋冬と名付けられた形を学ぶ事、さらには、かつての修行の方法としての「韜の形」、刃筋を学ぶ「刃挽き」、「小太刀」、極意としての「丸橋」を残された。防具を付けた短剣といわれた太めの竹刀による稽古は、一橋でも戦前既に行なわれなくなり、竹刀剣道に変わった。本来の剣道を精神面も含めて学ぶには全剣連は居合を推薦しているが、多忙な現代人は両方に取り組むことが時間的にも、費用的にもネックとなる。機会があれば古流の組太刀にこそ神髄を学んでもらいたい。そこに日本剣道形の価値がある。

 ★哲学を持った剣道

 戦後、我が国の教育からは宗教や哲学が取り除かれた。全剣連剣道も同様であり、剣道を階層的に、あたかも、受験偏差値や官僚制のごとくヒエラルキーを形成、そこに生きる道を見出している。段位や地位というのは精神性とは無縁の世界だ。段位と人格を錯覚している人もいるだろう。緻密な階層的人事制度を作ってもさっぱり業績のあがらない大企業のようなもの。しかし、これは剣道の本質ではない。誤った剣道観が世の中に伝わり、若者はそこに気づいていない。高校や大学で試合選手として活躍した人が、剣道からあっさり、卒業してしまう現実が、まさにそこにある。一本取る事に汲々としてきた自分の姿に幻滅するのだ。多分、精神的な満足が見出せなかったのだろう。感度の良い若者は剣道に見切りをつけているのかもしれず、残念な事である。生きた哲学というのは必ず時代に受け入れられるものだ。剣道の理念というものがあるが、取って付けたようなお題目になっていないだろうか。哲学が無いというより、精神主義に偏重した戦前の反省から敢えて避けたのだと理解したい。新しい剣道教育の意義を再構築する時である。

★心身鍛錬の道

 直心影流は単なる剣術を越えた、心身の鍛錬の道である。山田先生は、内修外修と言われた。内修とは精神や知識の習得の事だ。また、今日刀を抜く事も無い。いや、江戸時代でも、直心影流の指導者は人を殺めることは無かった。勝海舟などが典型である。龍馬暗殺の下手人の一人、今井信郎などは例外であるが、彼は維新後改心し、立派な社会貢献をなしている。幕臣、小栗忠順や島田虎之介も学んだ格調の高い、精神性を重視した流派である。だから、技術だけを身につけることは意味が無い。学識や指導力、あるいは実社会における応用の結果、社会における信頼性、人格なども総合的に評価された上で指導者が育成されるべきである。

国立、一橋大学有備館の山田先生の胸像と「至誠無息」の掲額
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2.今日の取り組み

 現在、大西師の残された弟子達による「百練会」、教育界では茨城県内原の「日本農業実践学園」「高崎経済大学剣道部」「早稲田大学直心会」と先生の遺産を伝統として守る一橋大学「一橋剣友会」において継承への努力が続けられている。また、個人として、道場において一般への普及活動が行なわれ、それらは大西師の流れを汲む者が多い。一橋剣友会は山田先生の残された文献を読みつつ、相互の研鑽と、研究を行なう事を中心に稽古が行なわれてきた。竹刀剣道中心の学生への問題提起としての古流、さらに卒業生の剣道修行の一環として、機会を作り続けている。この点が他の団体とは趣旨が異なっているが、山田先生の著作や当時の記録写真などを基に修行している点で一橋大学で伝えられた本来の形を忠実に守っているといえよう。しかし、山田先生も大西師も一橋だけに伝えた訳ではないから、これを絶対視することは避けたい。あくまでも研究の道を目指し、相互研鑽につとめたい。

3.現代剣道と法定

 全日本剣道連盟は日本剣道形を昇段審査の中で、太刀七本、小太刀三本の制定形を伝えている。多くの剣道修行者に日本刀の組太刀を学ばせるという点で成功している。日本剣道形は刀法に忠実で日々の修行につながる剣道の伝承という意味においては貴重な剣道遺産である。しかし、その形は極めて洗練された、また、各流派の極意を合成して作られたもので、原型を伝えている訳ではない。むしろ、警視庁に伝わる警視流が示現流、直心影流などの原型を保っている。一子相伝という伝統では裾野は広がらない。古流の問題は、「優秀な」指導者の育成と普及である。秘伝といわれる流派では、継承の仕組みが出来ていない。かつての切紙とか、免許といった仕組みを独自に作り普及につなげたいが、何せ権威が無い。先祖帰りみたいな、無意味な手段、アナクロニズムだろう。ある種のOTAKU集団でしかない。かつての技を単にコピーすることでは本来の精神も、技の理念も伝えられない。現代においては竹刀剣道との関連性、目標の共有を整理する必要がある。また、その精神性や現代人の生活に対する効用、意義も明確にしていかねばならない。

4.100年以上続いた一橋大学における継承

 一橋大学においては、あくまでも、山田先生を直接師と仰いだ経緯から、多くの先輩がその意義を認め、学生が剣道のスポーツ的な競技性に埋没しないよう、試合などにおいて、又、法定の修行によって精神的な鍛錬が生きるよう先輩諸兄が伝え続けている。直心影流においては既に本当の意味での修行者は大西師を最後に、今日絶えたという前提に、百練会などと合同稽古する機会を作ったり、権威主義を排除しながら研鑽と普及に努めることこそ、山田先生のご意志だったのではないかと考えている。学生は竹刀剣道を目的に剣道部に入ってきており、学生剣道連盟主催の試合や東大、神戸大、大阪市立大、東北大との定期戦で手一杯であるが、OBの働きかけにより、先は木刀を手にし、運法、法定にひととおり卒業までの4年間取り組み、百練会との交流も行なっている。さらに有志が、韜、刃挽、小太刀を学んでいる。真剣に取り組むもの、意味不明と思いながら木刀を振るものなど、現代学生には様々な印象を与えている。近年、企業人として稽古に参加するOBが増えていることは特筆すべき事である。

5.時代とともに歩む直心影流

★修行の練度に感動がある

 自分としては剣道も時代とともに、より多くの人々に受け入れられ、継承され、社会的に意義を持つ事が大切であると考えている。竹刀剣道も戦前から大きく変わった。剣道の様式において躾とか、マナーだけが残された。そこに意義を見出す者もあってよいだろう。しかし、死生観も哲学も無い。とはいえ、価値観を抜きにした気楽さもある。現代竹刀剣道が叩き合いだとか、日本刀の切り方と違うとか批判することよりも、多くの先人達が、竹刀を通じ究極の修行を行ない、素晴しい剣技の域に達していることこそ見て頂きたい大切な部分であると思う。要するに、高度な、密度の高い稽古こそ、生きた剣道となる。竹刀によっても、これを刀を使う気持で稽古すればかつての剣豪が達した道に到達でき、それが早道だろうとも思うのである。故中倉清先生や羽賀準一先生などがそうした域に達していた。失礼だが、今日、直心影流の稽古をされている先生方はどの程度の修行レベルなのだろうか、かつての榊原謙吉門下の、門弟が学んだ振り棒千本、立ち切り稽古、短剣の竹刀稽古などを含めると先人達の稽古量、練度を達成することは不可能だと思う。以前、法定だけ取り組んでいる方々と短剣竹刀との立ち会いを試みたが、彼らはただ打ち込む事しかできず、理合も間合いも出来ておらず全く相手にならなかった。北辰一刀流の道場でも同様で、古流の方の防具を付けた稽古のレベルは極めて低い印象だった。その意味において、東京武道館で行なわれている稽古、故小川忠太郎先生の取り組み、また、禅との関係では大森曹玄師の修行などが注目される。結局中途半端な達成度でそこに権威が生まれても、本物とはほど遠い姿であろう。
人の心を打つのは修行の奥行き、練度である。

★現代剣道との調和

 現代において、最も鍛錬の蜜度が高いのは、竹刀剣道における多くの修行者だと思う。警視庁の剣道教室(特練)、学校剣道での指導、社会人の剣道で、道場等での指導に匹敵する内容を持つものは今の古流には無いと言える。いやしくも、直心影流を学ぶ者は最低3段を取る事を推薦すべきであって、現代剣道を否定すべきではないと思う。しかし、一体になる必要も無い。古流にはその独自の良さがある。

 多くの人が取り組む現代剣道、居合いも含め、全剣連における剣道修行の方法が最も受け入れられている剣道だということだ。しかし、これは普及においての成果とであり、古流の稽古の価値がないという事ではない。今進められている剣道の正課化にあるように、上からの押しつけで学校剣道を強制するならば、反発も大きい。学校教育での成果は疑わしく、教師の為の剣道になりかねない。素晴しいといわれる源氏物語を読む人がいったいどれだけいるのだろうか。自分も受験で勉強した記憶があるが、読む気にならない。これこそ、学校教育の敗北だ。学校を卒業したら剣道も卒業するのだろうか。剣道は確かに教育価値が高い、しかし、これを権威によって普及させる動きを警戒したい。

 古流と現代剣道それぞれが、尊重し合いながら良い点を受け入れることが大切である。法定には現代剣道が失った哲学や生活に生きる方法が豊かに残されている。法定の気合や丹田呼吸が精神面や健康に良い影響があることも主張したい。現代人のストレスがこれによって克服できる。自分が将来的に直心影流が生き残る為には、健康法として、また、高校生や女子の参加を取り入れなければならないだろうと思う。伝統とは単なるコピーではない。山田先生が、法定の教育価値に着目したからこそ、直心影流は多くの人に親しまれている。古流もその精神と本質を残して時代に応じて変化できなければ廃れるのである。

>上から、小太刀、韜の形、御手洗池での運法による禊、刃挽、法定
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 森寅雄は講談社の創始者野間清治の甥であったが、一人っ子の長男野間 恒を寵愛した野間清治が、その話し相手として、故郷から養子とし東京に呼び、森と改姓して共に剣道と実業の道の教育を受けた。戦前の日本剣道の頂点と言われた森寅雄の生涯を早瀬氏は資料にもとづき生き生きと描き出している。森という姓は野間清治の母方の家系で、祖父森要蔵は幕末の千葉道場、玄武館の三羽烏と言われ、戊辰の役、会津戦争では、息子の虎夫と共に戦い、戦死した。寅雄という名前は虎夫にちなんで名付けられた。早瀬氏は、その前半を野間清治の実業人として、また、教育者としての活動を詳細に説明している。野間清治、恒親子と森寅雄の関係を説明する事が、重要なこととして展開しているが、このあたりの事情は、なぜ彼が森という姓になったかなど、物語を複雑にし、焦点がぼけた構成となった。寅雄のアメリカでの活躍、戦後の活動に関しては資料が少なかったのかもしれない。しかし、早瀬氏は森寅雄の名声を高めた時代にこだわりたかったのだろう。清治は、講談社、報知新聞、キングレコード、巣鴨学園などを創設した希代の実業家であった。野間恒と森寅雄はある意味では、まさに野間清治の作った理想の剣士だった。しかし、今日もそうだが、企業がスポンサーとして盛り上げた剣道の世界の限界とか、一代限りの空しさも感じる。野間恒は直腸癌で28歳で逝去した。野間清治はその直前62歳で急死しているからである。

 天覧試合の予選で野間 恒と対戦、実力は上と言われた寅雄があっさりと負けたことは、いろいろな推測を生んだ。しかし、彼は、その後、兵役にもつき、さらにアメリカに渡り、戦前戦後を通じ米国での剣道の普及に努めた。彼は、アメリカに渡った日系人一世、二世にとってのヒーローであった。また、戦後はフェンシングにおいて全米チャンピオン、東京オリンピックのアメリカフェンシングチーム監督として活躍した。勿論彼は、剣道八段である。しかし、彼は残念なことに、昭和44年、54歳で心臓疾患のためロスで早世した。野間 恒といいい、野間清治が手塩にかけた剣道の天才はいずれも、道半ばにして他界したのである。宗教的にまでに剣道に人生をかけた野間清治は、自分自身、そして育てた息子も「死」という現実には無力であったが、講談社、報知新聞、そして、剣道の新しい歩みを目指して歴史に1ページを残している。今日、世界中で剣道が行なわれるようになった礎は、森寅雄の第1回世界選手権大会開催にむけた努力に負うところが大きかった。

 恩師、中倉 清先生は、無敵の剣豪、昭和武蔵と言われたが、先生も森寅雄には一目置いていた。ほぼ同世代だが、先生より2歳年上で、若い頃の名声は各種大会で優勝し続けた森氏の方が先を歩んでいたであろう。戦前の剣道、特に、有信館三羽烏と言われた、羽賀準一、中島五郎蔵の剣道は、戦前の剣道を伝える剣風を見せるが、その映像記録は殆ど見る機会が無い。戦前の天覧試合における持田盛二範士、中野宗助範士の映像、また、羽賀準一は「昭和の剣豪」というビデオで一部見ることが可能だ。しかし、森寅雄や中倉清の姿は、次の世代にあたるとみえ、当時の8ミリ映像には残っていない。

 ところが、何と、You-Tubeに、アメリカのテレビショウで、森寅雄が出演している画像が写っているではないか。これを何度も見た。森寅雄は、司会のアメリカ人と比べてもひけを取らない、堂々とした体格である。防具をつけて、狭いスタジオで稽古を見せている。相手は、一目で格の違う相手だが、テレビショウということで、相手を引き立てており、足がらみに倒れてみせたりする。相手もなかなかの腕前かもしれないが、彼は足がらみで倒された事が無いので有名だったからだ。しかし、よく見ていると、その足さばきの華麗さは天下一品である。まるで、ダンスのように、スーッと相手の間合いに入っている。豪快な面は真っすぐである。さらに2分程の短い間に、相手の隙は見逃さず、殆ど面で攻めている。すかさず打つ胴は手首が返っている。最後は、角度のついた片手突きで相手を圧倒した。足がらみ、胴、突きと森寅雄の得意技を全て見ることができる。戦後50年代のテレビでさすがに日本人強豪との稽古の機会は無かっただろう。しかし、森寅雄の剣道、さらには足がらみを使う戦前の剣道の特徴が出て非常に興味深かった。羽賀準一の剣道も、実に華麗で、膝をついた折り敷き胴、逆胴、横面、さらに上段と短い時間に多彩な技を披露している。戦後の剣道は、確かに安全で、中心を責め、正面からの面を大切にした点は、剣道の極意を意識したものだし教育的だが、面白みには欠ける。格闘技としての剣道は戦前で終わったという感じがよくわかる。

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 抗がん剤の副作用は様々だ。副作用を恐れて抗がん剤を使わないのは残念な事だ。抗がん剤は細胞に対する毒性も強く、腸等の拒否反応をもたらす。抗癌剤投与時の悪心・嘔吐は、その発現時期により、24時間以内に発現する「急性悪心・嘔吐」、24時間以降に発現する「遅発性悪心・嘔吐」、次回投薬の直前に発現する「予測性悪心・嘔吐」の三つに大別される。  
 乳癌は化学療法の選択肢が多い。また、アバスチン、HER2陽性に効くハーセプチン、タキサン系のタキソール、ゼローダといった分子標的型の新薬が多く使われる。しかし、初期の治療、手術後の療法ではEC療法、FEC療法、AC療法といった手法が選択され、これらの副作用が結構きつい。嘔吐、脱毛、白血球減少を起す骨髄抑制作用だ。
乳癌の化学療法ではエビルビシン+シクロフォスファミド=EC療法 
     〃        〃     +5FU=FEC療法
043.gifシクロフォスファミド+ドキソルビシン=AC療法といった化学療法がひろく術前、術後に行なわれる。ファルモルビシンもよく使われる。一般的に起こりやすい副作用は、悪心・嘔吐、白血球減少、食欲不振、脱毛、血管漏出時の血管炎、皮膚壊死など。重篤な副作用は、強い心毒性である。これらは嘔吐リスク90%以上の抗がん剤だ。

 しかし、近年吐き気を止める薬の開発も進んで来た。
 朝日新聞2010年10月14日は抗がん剤の吐き気解消 副作用を長く抑える新薬が生まれていることを伝えている。

 そのひとつ「アブレビタント」は商品名イメンドカプセルといい、遅発性の嘔吐にかかわる神経伝達物質「サブスタンスP」が脳にその信号を伝える受け皿(受容体)と結びつくのを防ぐ。副作用はシャックリや便秘であるが比較的軽い。しかし、タキサン系の分子標的薬とは相性が悪く注意が必要。それぞれ薬の組み合せは非常に注意が必要である。「パノトセトロン」も嘔吐にかかわる神経伝達物質セロトニンが腸管の受容体に結びつくのを防ぐ。副作用は便秘と頭痛。抗炎症薬ステロイドと組み合わせれば急性と遅発性療法に効く。

 こうした吐き気止めの処方に関して、病院における情報格差があり、吐き気の状況に応じた処方を注意深く選択してくれるかどうかである。必ず吐き気の出る抗がん剤で吐き気が出れば、これは当たり前で、多少は我慢してもらいたいという医師も多い。しかし、こうした吐き気が食欲を落し、抵抗力を弱めたり、体力の低下が病状にどのように悪影響を与えるかといった配慮をする医師は意外と少ない。これはむしろ、患者側からきちんと報告し、対応を要請する場合もあるだろう。
近年、緩和ケアが普及してきた。昔は末期癌は苦しいもの、モルヒネ系の鎮静剤は最後にしか使われなかった。今はフェンタニール系などオピオイド系に加え、鎮痛効果の大きな薬の選択肢が増えた。今や、癌は痛みに苦しむ事が多い病気ではなくなってきたのだ。日本の医療はこれまで患者の苦痛に無頓着だった。抗がん剤も正しく使えば副作用も少ない。しかし、問題は医師側にあるという訳ではない。現在の保険制度では複雑な薬剤の組み合せに関する技術料は医師に支払われないのだ。こうした制度的な不備が患者の側に立った対応を遅らせている。


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e0195345_21443450.jpgstyle="color:rgb(51,0,204);"> 家に帰ってドアを開けようとしたら壁に2㎝ほどの毛虫が這っている。何だこりゃ。長い毛と黄色地に黒い斑点。家の回りは石垣の土手と笹の生け垣だが、その石垣にも何匹かいる。家の壁一面にいるわいるわ。ウヘー。
 よく見ると、笹の葉の裏側にウヨウヨいる。気持悪いってーのなんの。何と、笹の下の葉っぱは殆ど食い尽くされているではないか。大変、さっそくフマキラースプレーを使って殺虫剤を噴霧するが、あっという間に液切れ。そこで、庭に置いていたカセットバーナーで炎を吹き付けるとバラバラ落ちてくる。塀の下には殺虫剤と炎に煽られた毛虫が山になって落ちている。ギョギョッ!生き残っている奴が何匹も糸を吐いて枝にぶら下がっているじゃないか。味な芸当もするんだ。糸を伝って脱出し始めた。この野郎!毛虫の大量虐殺。うーん、ヒットラーになった気分で満足。バーナーが燃料切れになったので中止した。

 翌日、他の場所を見るとどの笹もやられて先の方が白くなっている。まだ、残っていた奴らが食ってしまったのだ。凄いスピード。こりゃ大変と、バーナーのスィッチを押すとまた炎が出たのを幸いと、上の方も焙りまくった。笹はなかなか燃えず、延焼する恐れが無いのが救い。よく見ると殆どの笹がやられている。こうなれば焦土作戦開始だ。
 
 葉っぱに取り付いた虫が大方見えなくなったところで部屋に戻ってGoogleで調べるとタケノホソクロバという蛾の幼虫。毛虫の毛は毒針毛で刺されると痛いらしい。毛に刺されたら粘着テープで毛を取り、抗ヒスタミン軟膏を塗るということである。爪で掻いてはいけない。幸いにして毒針毛には刺されていなかった。川崎市の広報では笹は刈り取
り、 焼くしか無いと書いてあるから、処置としては間違っていなかったと思う。連中は全滅した。しかし、我が家の笹の茂みも焦土作戦で焼けこげてしまったのである。まあ、来年はまた嫌という程繁ってくるだろう。
 タケノホソクロバ

http://www.city.kawasaki.jp/35/35sippei/home/kansen/pdf/takenohosokuroba.pdf

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071.gif1.死とのおつきあい
 この1週間の間に小学校時代の友人が亡くなったり、癌で死の床にあったりに驚いている。両親の死。そして自分の家族の末期がん宣告とこの6年間、死というものとのつき合いが深まった。10年前までは、叔父、叔母の死すら無かった。自分も今年63歳を迎え、これからも、こうした身近な人々との分かれが続くのだろう。いや自分自身だって3年前心臓バイパス手術を受けた身だ。人間は何方より来たりて、何処へと去って行く。
 cogito, ergo sum”(コーギトー・エルゴー・スム、cogito - 私は思う、ergo - それ故に、sum - 私は在る)17世紀にデカルトが「我思う故に我あり」という命題から、科学万能の時代をもたらしましたが、その後、人間の世界観は変化を続けています。

「中世までの哲学では、意識の内部と外部の問題系というものがなかった。いいかえれば、内部に現われている観念(表象)と外部の実在が一致すると思いなされてきた。ところが、デカルトの方法的懐疑はまずこの一致の妥当性を疑った。すなわち、表象と実在は一致するのではなく、むしろ表象から実在を判断することは間違いを伴う、というのである(Wikipedia)」この考えは今や科学を限界に追いつめている。さらに我々は常に表象に支配され、さらにメタファーという概念を好んで使う。

2.魂の世界
 スピノザは「我は思惟しつつ存在する」と解釈している。というより、何千年前もの人間の方が命の問題に関しては、現代人より洞察が深い。自分は人間は物理的な身体と同時に、霊とか、魂という世界があり、これらの働きによって肉体は支配されていることを最近強く感じる。愛の世界、人と人との不思議な巡り合わせをどう説明するのだろう。我々は外部の実在に全てを支配されている訳ではないと思うようになった。心の世界と我々が認識する世界とを結びつけようとした古代人は正しいし,幸せです。我々はどんな時でも一人で宇宙に存在しているわけではない。心を通じ大きな力の中にある。そう思うと、自分は楽になれる。古代人は夢の世界も現実の一つと捉えた。だから、旧約聖書創世記でみられるようにヨセフがエジプト王の夢を解読し、現実を予言した。

 3.宇宙とDNA
 20世紀後半、生命のメカニズムが分れば分るほど、我々は宇宙的な世界の一部だと思われるようになった。その証拠に、宇宙における生命体の捜索こそ、現在の宇宙開発の最先端で、先般の「はやぶさ」とかNASAの火星探査も生命体の発見が大きな目的です。DNAの二重らせん構造を発見し、ノーベル賞を取ったクリック博士もDNAは宇宙から来たとしか考えられない。そのメカニズムは40億年では作る事が出来ないと言っています。

 小生は奇跡を信じている。命というのは不思議なものです。死と同様、デカルト的思考では説明が出来ない。まさに宗教の領域ということだ。科学を宗教で説明しようとして、ガリレオがそれでも地球は動くと言ったのは、教会の支配が科学を歪めたからだ。もちろん、現代においても進化論だって基本的なところは教会は認めている。しかし、命を形成している複雑な仕組みは分れば分る程、偉大な力に支配されている宇宙的な仕組みを感じざるを得ない。

 4. 癌治療と心の世界
 小生の家内は07年10月に末期癌(乳癌の胸腺、腹膜、肝臓、胸椎転移)で,あと1年くらいと言われましたが、5年目の今は当時より元気です。在宅で抗がん剤治療も続けています。家内は何事も楽天人間で、いつも最悪のことばかり考える自分とは正反対の性格、それが癌細胞の成長を止めているとしか思えないことがあるのです。抗がん剤も効いています。でも、強力な薬より、本人の気持が大事だと思う事が最近は多い。医療は科学だし確かに力強い見方ですがあくまでも手段。だから、医療で直せる部分は一部です。直す力は本人の意思、治癒力で、心の部分と直結しています。何事も前向きに見る気持が薬以上に作用することはプラセーボ(偽薬)効果とも言われています。抗がん剤でも、いや、いや水虫薬でも偽薬は人間の身体はこれに反応する。治験で二重盲検法という複雑なプロトコルがプログラムされるのもそうした現実を使って薬の効果を測定する。プラセーボ効果は医学の謎だが、常識でもある。心が身体を支えている。そしてその心は宇宙とつながっている。我々は愛と霊と魂によって命を形作っており、この世界で、さらに宇宙で多くの人に支えられており、ひとりぼっちではない。


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 今大変な事がコレステロールに関して起きている。いわゆる、善玉、悪玉コレステロールという概念は根拠が無いらしい。
 恐怖感溢れる「シオノギ製薬」の動脈硬化への警告CM「♪ヘイ~ヤッラ~ヤタティ~ヤ♪ヘイ~ヤッラ~ヤタティ~ヤ♪(?)」が評判だ。BGMにこんな感じの不思議なメロディーが淡々と流れる。電車内部は混雑している。座席に座っている男性が何かを見越したような表情で座っている。吊革につかまっているスーツ姿の男性の背中に、血管のイラストが描かれた紙が貼られ、そのイラストの血管が次第に詰り、内部に粥状硬化が進行すると、男性が胸をおさえ、倒れ込む。周りの男性たちの背中にも同様の紙が貼られている。シオノギはロスバスタチン(商品名クレストール)が主力商品だ。メバロチンとか、リピトールといったコレステロール値降下剤が攻撃されている。スタチン系のコレステロール降下剤は現在多くの人が使用しているが、警鐘が鳴っている。バイエル社の降下剤では死者が出たことがある。しかし、ファイザーも似たような、高脂血症の危機を訴えるキャンペーンをはりだした。シオノギのCMは会社の命運がかかっており、まさにあの座席に座っている会社員はシオノギそのものなのだ。


 コレステロール値が高く、高脂血症と診断された人の方が、そうでない人よりも脳卒中の死亡率が低く、症状も軽くなるという調査結果を、東海大学の大櫛陽一教授(医療統計学)らがまとめた。一般に高脂血症は、動脈硬化を引き起こすため危険と考えられており、今後、議論が高まりそう。大櫛教授らは動脈硬化が一因といわれる脳卒中(脳梗塞、脳内出血、くも膜下出血)で入院した患者計1万6850人を対象に、高脂血症の有無と死亡率、症状の強さを比較。その結果、脳梗塞で入院した患者のうち、高脂血症でない9851人が入院中に死亡した割合は約5.5%だったが、高脂血症の2311人の死亡率は約2.4%にとどまった。脳内出血や、くも膜下出血でも、高脂血症があると、死亡率は半分から3分の1だった。悪玉といわれるLDLコレステロール値が高いほど総死亡率が低くなるとのデータもあり、日本脂質栄養学会は今年9月、「LDLコレステロール値が高い方が長寿に結びつく」という内容の指針を発表する方針でいる。

 コレステロールが高い、と言われ、健康に不安を抱く人は多い。日本では驚いたことに、成人の4分の1以上、中高年女性に限ると半数以上が高コレステロール血症とされ、患者は2000万~3000万人!とみられる。 高コレステロールが問題なのは心筋梗塞などが起きやすいとされるからで、日本動脈硬化学会は総コレステロール値220以上の場合を診断基準としている。だが昨年、大阪府守口市で住民約16000人を5年間にわたって調べた結果、コレステロールの高い人の方が脳卒中などが少なく、死亡率が低いと報告された。福井市や大阪府八尾市などでも同様の調査がある。
「コレステロールは高いほうが長生きする」富山医薬大教授・浜崎智仁著、エール出版社
 「コレステロールに薬はいらない」浜 六郎著 角川書店

 日本動脈硬化学会は、診断基準の目的は、心筋梗塞などになる可能性がある人の「スクリーニング」(選別検査)だと説明している。だが、実際に心筋梗塞を発症するのは年間1000人あたりわずか1人程度とされ、中でも女性の発症率は、男性の半分と低い。それにもかかわらず、中高年女性の半数以上を「異常(病気)」と判定する現行の検査は、あまりに大雑把ではないのか。むしろ余分な精密検査を強いるうえ、多くの人に健康への不安感を与える害が大きい。薬物療法を受けている患者の3分の2程 は女性とされ、「多くの中高年女性に必要性の疑わしい治療が行われている」と指摘される。

 日本脂質栄養学会は「欧米の過去5年間のデータをみても、少なくともLDLコレステロール値の140ミリグラムや、総コレステロール値の220ミリグラムの基準は低すぎると主張。最近はコレステロール値だけで判断して薬を投与することはかえって害があるという。ちなみに、米国ではLDLコレステロール値が190ミリグラム未満であれば、正常値だという。コレステロール関連の学会は二つある。 これまでの常識がひっくり返されるかもしれないのだ。コレステロール値が高い方がよいという人が多い学会が日本脂質栄養学会、一方、日本動脈硬化学会という別の学会はこれまでの基準をつくった学会。1991年に日本医学会に加盟しており、会員2300人を擁する。

 最近お医療の現場では、ただ単にコレステロール値を下げるためにスタチン系降下剤を処方する事は控えるのが見識ある判断とされるようになっており、ガイドラインがある以上、運用や、患者の状態で医師が判断することになっている。むしろ、危機感を抱いているのは3000億円もの市場をあてに薬を開発してきた製薬会社であり、冒頭のCMはまさにその反映である。

 ある循環器系医師の寄稿もある。(http://www.amazon.co.jp/review/R2Y0944CX0P0T0)
「同意できるところも多々ありますが、スタチンに全く意味がないという判断を下すのは危険だと思います。心臓の動脈硬化を血管の中から超音波で診るIVUS(アイバス)という器具を使うと、スタチンで動脈硬化のプラークが退縮していくことがよく報告されるし、自分も目の当たりにしているので、これは嘘ではありません。狭心症の患者さんもスタチンを飲んでいるほうが予後がよいこともよく言われており、少なくとも狭心症や心筋梗塞にになった人に対してのスタチンというのは、悪いことばかりしているわけではないと思う。(製薬会社のゴーストライターの関与のない研究です)この本を読んで勝手に薬をやめないように気をつけてください。
 著者のいう通り、他に何の疾患もないのに、ただコレステロールが高いということで、薬を飲む必要があるのかは自分も疑問に思います。生のデータは手に入らないし検証するのは難しいのです。でもガイドラインに書かれてある以上、下げるように指導せざるを得ないのが医療の現場なのです。こうした意見も尊重すべきであろう

  気をつけなければならないのは、そうした論争に振り回される事だ。自分自身の健康状態との関係を考えた方がよい。すなわち、狭心症や、心筋梗塞になった人は、そうした論争とは別に、自分自身雄の状態に応じた、医師の処方を受け入れざるを得ないということだ。総コレステロールが高いだけの人は、確かに、安易にスタチン系の薬を使う必要は無い。しかし、減量によって数値が下がらない人、糖尿病や何らかの血管障害を発症している人は、その人の症状に応じた判断が必要出ると言う当たり前のことだが、不安を抱かず、これまでの治療を続けるべきだと思う。

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1.左こぶし
 正眼の構えにおいて、左手の位置は中心線から外さないことが肝腎。右手は面を打つ時に動かすし、剣先を操作する時には竹刀を左右に捌く必要がある。しかし、左手の軌跡は中心から外さないように、最小限とするように心がけている。今井三郎範士八段の動きをよく見ると、左拳はほとんどぶれず、面を打つときだけ、僅かに上下する。これがなかなか出来ない。特に、左右の面、切り返しなどではよくずれる。胴をうつときでもそうだ。小手などは体が前に出るだけで、あとは手の内だけで振り上げもこなしている。左拳の位置が中心からずれていては、突きは絶対に入らない。

2.右手
 構えにおいて右手は自由に操作するポイントだし、手の内の冴えを作る上でも力を抜く事は出来ない。しかし、右手が強すぎると肩に力が入りすぎて面を早く打てない。握りは軽くし、手首のひねりも使って手の内を決める。範士九段中倉先生は右手の活用をよく話されていた。剣先を中心から外さないようにするには右手を使う。先生は虚と実の展開が実に見事で、我々は稽古で自在に振り回されたものだ。剣先を表、裏、上下と動かすことで、先を取るが、剣先の延長は喉元から外さない。常に突きを入れる体制を取る。

3.攻めと守り
 右手と左手は連携し、ばらばらではない。左手と右手の運用は位置が違うだけで、同時に行なわなければならない。いくら相手が攻めても左拳が中心にあり、右手が喉元を押さえ、また、相手の右拳に付けていれば打って来ることはできない。打ち込む時は体全体を踏み込み、体の中心軸を前に出し、打突する。相手との距離と剣先に対応して打ち込む速度と技の大きさも変化する。守る時もむしろ体は下げずに前に出ることが大切。

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 キリストはモーゼの十戒における「汝姦淫するなかれ」という言葉を様々な場面で説いている。じゃあクリスチャンの君はそんなことはしないのか?と聞かれれば、そのように努力しているとしか言えない。心の中で姦淫してもいけないのだ。もし、そうしたら目をえぐり出さねばならないと言っている。普通の男性であれば、こりゃ無理と思うところだ。男性は欲望が前向きで、女性を前に心の中で良からぬことを考えないというのは、相手が余程女性としての魅力に欠けるか、何かそうした気持ちを起こさせない程の忙しい環境とか、仕事をしているときだろう。だから、これは始めっから無理なことを我々に要求しているようにも見える。とはいえ、本当に浮気や姦淫行為を行なうということも普通の人は自由にできるわけではない。しかし、心の中となると簡単にできる。そこを問題にしている。形ではない。その反面、我慢することも可能なのだ。我慢しなさいと受け止めることもできるし、一方、そうした欲望の強い人には厳しい叱責の言葉として受け止めれば良い。何も、教会には目をえぐり出すナイフが置いてある訳ではない。神を前にふとどきな事を考える輩は地獄に堕ちろということだ。

 イエス様は他にも天国に行きたければ全財産を貧乏人の為に捧げよとか、言われた人には、これはとても無理!というような命令を語ることがある。言葉どおり実行する奇特な人はいるかもしれないが殆どはしないだろう。だから、キリスト教社会でも貧富の差があるのだ。何もイエスはこの世で平等な社会を作ろうという革命家ではない。イエスの言葉は比喩に満ちているという点だ。どんな状況で語っているのか想像しなけらばならない。聴衆を前に語っている。多くの聴衆にインパクトを与えるにはかなり極端な言葉が使われないと、居眠りしたくなる人もいるだろうし、テレビも録音機も無い時代だから、口づてに伝えることも必要で、相手には強い印象を与える必要がある。語ったことが文章になって頒布されることも無い時代、そうした環境について考えると、これも自然な言葉の選択のようにも思えてくる。そんな、出来っこ無いようなことを言うイエスとは一体何者だろう、何を言いたいのだろうと社会に訴える力である。また、聴衆には女性も多かったであろう。少なくとも半数いたと思われる女性は、当時、目で姦淫するなどということからは縁遠かったかもしれない。女性は、基本的には性的な衝動は受け身で、やたら欲望をイメージだけで高めることは少ないし、逆に抑制することも可能だ。これは、当時の性的には被害者になり易い抑圧された女性に取って、多くの性的欲望の強い男性に対して小気味の良いメッセージだったかもしれない。聴衆を味方につけて説得力を増すための雄弁術である。

 また、金持ちが財産を分け与えることは例え話としては受け入れ易い。聴衆は殆ど貧乏人だし、ある程度のお金を持っている人も、自分が金持ちだとは思わないことが多い。全てが相対的な感覚だからだ。何も、イエスは具体的な財産の額や、基準を語っていはいない。だから、これらは誰でも受け入れられる言葉だということだ。教会の周りに、心で姦淫した人の目玉が落ちている訳ではないし、全財産を貧乏人に分け与えるバザーを開いているわけではないのだ。聖書におけるイエスの言葉というのは、受け入れる人に応じてインパクトに差がある。姦淫するなかれという言葉に自分の行いを恥じる人には強く響くだろう。金持ちのたとえは貧乏人には喝采を持って受け入れられるし、金の亡者にははっとさせられる一言なのだ。

 聖書を通じて、読む方それぞれが、神との対話を体験することができる。特に新約聖書の言葉を味わうには豊かな想像力とか推理力が必要だ。最後に大切なことは、我々が神の前にあって、姦淫の罪を解釈すると、心において、それはあってはならないし、逆に実行可能だ。出来るか出来ないかの問題ではない。我々は弱い存在だから間違いを犯す事もある。しかし、神を前にするときはお金も性的欲望も捨て、純な気持ちでいなければならないということなのだ。もう少し、詳しく言えば、昔は権力者や金持ち、族長などが、権力を背景に不埒な事を考え、他人の彼女を奪ったりする時代だった。そうした行為を最も神の意に反した行為として戒めている。この世の論理で認められている事も、神の前では通用しない。イエスのメッセージで一貫しているのは、神殿の権威の否定である。だから、祭司を中心とするサドカイ派が敵対する。神殿に行って寄進や生け贄を捧げれば救われるのか、そうした行為をして満足するのは金持ち達だ。だから、彼らを攻撃したのである。また、律法をかたくなに守ろうとする事も救いには至らないことを、パリサイ派、律法学者を前に主張する。これまでの律法の権威も否定する。神の律法は「愛」なのだ。汝姦淫するなかれというのは、守ろうとしても守りきれないし、仮に守る事が出来た変人、人間性のかけらも無い人間が救われるということでもないと言っているのである。神の選択は人間の思いを超えている。

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