<   2010年 07月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 我が国が深刻なデフレ状態にあることは衆知の事実だ。これは、世界史的な視野で見なければならない。我が国は、戦後物作りを中心に、輸出による貿易黒字を続け、ドルを稼いできた。中国もそうだが、この国際収支における黒字を社会資本の整備に充てるより、産業資本と米国債に蓄積してきたこと。少子高齢社会における準備不足。アジア諸国の製造業の追い上げと、海外生産拠点の移転という産業環境の変化が今日のデフレの原因となっていることも考えると、金融政策でこれを解決しようにも焼け石に水のような気がする。難しいのは中国の勃興が21世紀におけるアメリカに代わる経済の主役になりうるかということだが、まだ未知数要素も多い。しかし、これまでのトレンドからみると、東アジアにおいて日本以上の大きな経済力を持ち、文化的にも、軍事的にも大きな存在となるだろうと思う。中国が低価格や粗悪品の輸出国から大きな内需市場を持った先端的な技術を持った国となうるかだ。その段階で日本のデフレも少子高齢化も解決して行くだろう。デフレ要因が複雑に絡まっているとすると、その端緒として、金融施策があり、その結果について明確な政治的決断が求められていると言えよう。もし、これがなければ、再び悪質なインフレや、バブルによってその被害はもっと深刻になる。単なる利権争いー財務省、日銀、政府の縄張りを巡っての攻防ではなく、挙国一致で対応すべきことだ。
 このところ、インフレターゲット論の声が高い。それに対して、いやいや、そんな軽薄にインフレを呼び込むのはハイパーインフレになる。「この金融政策が日本を救う(高橋洋一著 光文社新書)」「日銀貴族が国を滅ぼす(上念司 光文社新書)」を読む限りでは、インフレターゲット(IT)論が正論のようだ。上念氏は、IT論に対して、経済はそんなに単純ではない。経済にはもっと複雑な要因が沢山あって、まあ、シロオトは黙っていなさい。というのが、日銀の論理だと言う。上念氏も高橋氏もIT論者だ。自分は金融論も経済学も理解が浅いので、公にものを言える立場ではない。しかし、この3年間の日本の政治と経済政策が殆ど機能していないのではないか、あるいは全く逆のことをしているのではないか。それは結局、官僚支配の国家に対する不信感が根源にある。日本の官僚機構は目標を明確に与えられた時によく機能する。それは東西冷戦においてアメリカの忠実な僕として、アジアでの役割を立派に果したことで証明される。ベルリンの壁崩壊から世界は変わった。日本という国は、世界における自国の役割を未だに見出すことが出来ない。金融政策のプロであるはずの日本銀行が実は機能していないという上念氏の論はつい納得してしまう。とはいえ、日銀法を改正して、政治家の介入を呼び込むきっかけになることも危い。確かに、ITがデフレを効果的に解消する力があることを立証できない。そこで、IT論はまっとうな中央銀行の役割を果たせという意味に捉えれば良いと思う。
高橋洋一氏の「この金融政策が日本を救う」は書名の割には、オーソドックスな金融論の入門書になっている。大蔵官僚からプリンストン大学に研究員となり、アメリカのクルーグマンなどの経済学者と直接接した感覚が結構読ませる。特に、世界大恐慌はニューディール政策、ケインズ理論による公共投資と戦争によって克服されたという通説に対して、金融政策ーブレトンウッズ体制において解決されていたという理屈だ。小生は経済学のシロオトだから、検証の仕方が分らない。
 世界各国、中央銀行は貨幣供給をコントロールしながら、インフレとデフレを自然現象ではなく、制御可能な範囲でコントロールすべきであるという常識にしたがって金融政策を行なっているのだと思う。世の中には、癌になったら、食事療法で直しなさいとか、やれ手術だ、抗がん剤だと主張する人がいるが、どれも実は決め手ではない。患者の立場に立って判断しなければならないのに、自分の専門分野にこだわった主張をする人が多い。そこでは患者が今の時点でどの方法が最適であるかという判断が飛んでいるのだ。政策当事者は何らかの決断をしなければならない。もしこれをする機能も情報もないとなれば、患者はどうしたら良いのか。2%のインフレを起すよう通貨供給を増加する手だてが何故、ハイパーインフレになるのか。ハイパーインフレというのはアルゼンチンとか、ジンバブエのような何万倍ものインフレのことだ。これが何故起きるのだろうか。この10年間に、一体何故日本の世帯の40%が年収200万円なのか、若者の失業が10%を越えたのか。いや、ヨーロッパはもっと酷いよという人もいる。これは、移民の数とか、中産階級の困窮度とか、一定の条件において比較しなければ他国の事情は分らない。アメリカはITやっていないというのは理由がある。アメリカは中央銀行は存在せず、FRBが金融政策を行なっている。FRBは失業率にも責任がある。アメリカでは、インフレがすぐに人件費コスト上昇を避けるため、レイオフが行なわれる。失業率を上げる政策を同時には取りにくいという事情がある。アメリカは財政出動も、金融政策も素早い判断を行なう国だ。国民を低く見た政治や専門家は自らを振り返ってほしい。自分がそんなに専門家なのか。実際はペーパードライバーみたいなものじゃないの。これまで、渋滞で前の1台だけ見て運転してただけ。日銀なんぞ、実は車も持っていないんじゃないか。1ドル360円時代にアメリカ横目にやっていただけ。人も育っていない。外務省もそうだ。上念氏のいうように、これが、さらに官僚言いなりの政治家が介入できるよう日銀法改正までしたら、お先は真っ暗だろう。
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クリストファー・ノーラン監督の2010年作品。新宿3丁目のバルト9で見た。時間ギリギリだったので、席が限られ、最前列だけ空いていた。仕方なくそれで入ったが、とにかくあんなに活劇を見上げて、ドルビーサウンドがガンガン腹に響いたのは初めて。首が凝った。
主人公のドム・コブは、人の夢(潜在意識)に入り込むことでアイディアを“盗み取る”特殊な企業スパイ。という設定。しかし話のテンポは早く、前後のいきさつが理解できない。
夢の中の夢、さらにその夢の中を設計し、そこに入ってライバル社長の息子にアイデアを植え付ける作業を依頼される。インセプションとはそのような意味。日本企業のトップのサイトーが仕事を依頼してきた。彼は目的のためには手段を選ばない。依頼内容はライバル会社の解体と、それを社長の息子ロバートにさせるようアイディアを“植えつける(インセプション)”ことだった。
古くからコブと共に仕事をしてきた相棒のアーサー、夢の世界を構築する「設計士」のアリアドネ、他人になりすましターゲットの思考を誘導する「偽装師」のイームス、彼の役割が映画ではよく分らなかったが、夢の世界を安定させる鎮静剤を作る「調合師」のユスフをメンバーに加えた6人で作戦を決行。サイトーがローバートの乗る航空会社を買収し、ばかに首尾よくロバートの夢の中に潜入したコブ達だったが、直後に手練の兵士たちによって襲撃を受けてしまう。これはロバートが企業スパイに備えて潜在意識の防護訓練を受けており、護衛部隊を夢の中に投影させていた為であった。やたらカーチェイスや銃撃戦が多い。欧米人というのは破壊がお好き。インセプション成功の為に更に深い階層の夢へと侵入していくコブたち。さらに曖昧になる夢と現実の狭間、迫り来るタイムリミットに緊迫感が出ていたが、どうも前後の関係がわからない。何故、爆薬で何でも破壊するのかも分らなかった。さりとて、もう一度見る気にはならない。単純なプレデター見て、すかっとするのも悪くはない。最近の映画はテンポとか、編集がシーン毎にデジタル的な断片で組み合わされているのだろうか。アナログ世代の自分には、夫々のつなぎが良くわからないのだ。

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 菅直人首相が財務大臣をしていたころ、明確にデフレ宣言をしたにもかかわらず、その対策は上手くいっていない。
 一つは日本銀行の不思議な考え方。二つ目は政治の混迷。三つ目が企業経営者のやる気の無さだ。日銀は相変わらずデフレにもかかわらず、貨幣供給を怠っている。日本銀行は物価の安定に責任を持つが、実際には物価は下落し、デフレである。これに対して自分のところが最も影響があるにも拘らず、国際的な経済の傾向を理由に自らの金融政策が無力であることを理由に動こうとしない。中国の低価格商品や労働力、アメリカの住宅不況、ヨーロッパのギリシャやスペインの国家レベルの財政悪化などだ。しかし、国内ですべきことは、貨幣供給を増やし、金利をゼロに戻す等あるのに、彼らのこれまでの責任を逃れるために自らの非を認めようとしない。彼らの統計数字も、白川総裁の発言もかつての大本営報告に似て、信用に値しない。そうした、海外の問題にも関わらず、日本と比較すると、先進諸国の状態は悪くない。日本が悪いということを無視している。金不足では株価も上がらない、住宅価格も同様だ。公共投資は景気回復に寄与しないというのは既に分っている。変動相場施の中では公共投資による税金の投入は円高を導き、輸出産業に打撃となるからだ。
 民主党の政策が一貫性を欠いていることは、国民の政治への信頼感を損ない、経済に対する信頼性を損なうから消費は進まない。普天間や政治と金が問題で信頼感を失ったのに小澤一派は菅直人の消費税発言のせいにしている。鳩山、小澤はどこに行った。出てこい。菅直人も官僚のいいなりだ。消費マインドが冷めてしまっている。こんな体たらくでデフレの流れを変えられる訳がない。官僚はデフレによる影響は少ない。官僚は増税賛成だし、あまり株のような投機はしないから、デフレでも構わないのだ。彼らは景気回復による税収増を考えない。不思議なことだ。徴税ばかりを考えるという不思議な習性である。これから先、物の価格が下がることがわかっているのに耐久消費財を買う馬鹿はいない。IPadやiphoneが売れている。innvativeな商品は売れるのだ。3Dテレビがどの程度の市場性があるかどうかは未知数だ。そのあたりの見極めこそ企業経営者の感度だろう。
 企業においては経営者に市場を見る感度のよい人物が少ない。ユニクロとかソフトバンクほどの活力のある企業は少ない。任天堂も赤字。日立や東芝、シャープも韓国に追い上げられ、これに対抗できるアイデアも世界市場に訴えるコンセプトも持ち合わせない人が経営者だし、業績悪化を経済のせいにして責任を取る気がない。過去の仕組みと成功体験しか見えない彼らのリーダーシップ
には若者はうんざりしている。賃金も上がらない、高いローンで買った住宅価格は下がる一方、教育費はかさむということでは、これからの高齢社会を支える世代がどんどん力を失っている中、福祉どころではなくなる。福祉の財源は人だということに政治家も気がつかない。財源財源と国庫ばかりを充てにしている。そんな状態で景気、デフレズパイラルが回復する訳がない。
 今、優秀な人材が海外の有名校に留学しない。日本は韓国、中国、インドの後塵を拝している。何が優秀なのか。要するに偏差値アップに汲々としてきた若者が優秀と言うからそうなるのだ。彼らは理想は無いし、対人コミュニケーション能力も低い。そんな若者は海外での外国人と上手くつきあえないだろう。伸びきったゴムのような連中に海外留学を薦めても人は集まらない。また、企業も彼らが必死で勉強して来た知識を活用する度量のある経営者がいない。かれらは帰国すると、保守的な先輩の下で権限もなく、彼らの留学そのものがネックになる。彼らをどう使うか、受け入れる方法もなく留学させるのは、丸でかつての満州移民じゃないか。どうしたら今の若者二やる気を起こさせるか、団塊の世代経営者や今の政治家の課題だ。
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 米韓合同軍事演習「不屈の意志」が始まった。約8千人の陸海空、海兵隊で構成され、イージス艦、潜水艦などの艦艇20隻以上、航空機200機が参加する大演習だ。ステルス最新鋭機F22ラプターが初参加。今回の演習は天安事件をふまえての大掛かりなもの。しかし、天安撃沈事件でも実は黄海で演習中だったという。キーリゾルブ/フォールイーグルという演習名で行っていたことは確かだ。そこで、米潜水艦が誤って撃沈したとか、逆に原潜が沈没したというデマが流れたのだ。この演習中に北朝鮮は1年前の軍事衝突事件のおとしまえを付け、米軍と韓国軍の威力偵察を行った。天安艦攻撃前、北側の黄海南道各部隊は全軍非常時態勢をしいていた。天安はこの作戦には参加せず、通常のパトロールであった。そこに一発かましたのだから、北としては「やったー」というようなもので、潜水艦乗組員は英雄称号を受けているらしい。一方、アメリカと韓国は面子をつぶされ、しかも、その時大将は大酒を飲んでいたことが発覚、辞任に追い込まれただけでなく、韓国内部の報告や連絡の遅れ(幹部まで連絡に2時間も遅れている)、アメリカの対潜水艦探知の杜撰さが明らかになって、北朝鮮軍は多くの収穫を得た。だから、今回の大演習は米韓の面子がかかっている。
 北朝鮮はこれを利用して核開発を推進する口実になったという意味において、北側の勝ちと見る向きもある。とにかく、北朝鮮という国は馬鹿なんだか、賢いのか、確かに近視眼的な意味においては上手くやっている。そもそも、昔から民主主義なんぞ知らない国民だから、我が国の基準では計りしれない。韓国は今回の事件で、李政権が強硬に出て戦争になるのを恐れた韓国民は野党に票を入れてしまった。韓国というのは昔から、個人主義的で戦争には向かない。また、ソウルに人口が集中し過ぎて北の攻撃には脆弱だ。国民性から自分が都合悪くなれば平気で嘘をついて防御する。現実主義的で主義や理念にもとづく行動ができない。戦争というのは自分の命を犠牲にして戦える人間がどれだけいるかで、必ずしも武器の優位ではない。アフガニスタンで近代兵器を持つ西側連合軍がどれだけ苦戦しているかで分る。一方、中国はこの演習に警戒感が強い。まるで北朝鮮の片を持つかのような言動だ。北朝鮮と中国軍はかつての盟友であり、命をかけて米軍と戦った歴史がある。軍というのはそうした仁義に生きる集団である。中国政府の行動と軍人のビヘイビアは必ずしも一致しないのだ。
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 我が国の戦没者の遺骨収集は240万人の海外戦没者のうち51%でしかない。特に、フィリピンは25%で少ない。第二次大戦中の戦没者収集遺骨は千鳥が淵戦没者苑に無名戦死の墓として納骨されている。しかし、日露戦争や満州事変など。大戦前と第二次大戦中の英霊は靖国神社に祀られている。靖国神社は御魂祭りや秋の例大祭などが主要な行事で、むしろその時に参拝すべきなのだ。英霊は8月15日にこだわらずに参拝すべきだと思う。むしろ、政治家の参拝はマスコミへの露出、選挙目当て、遺族会などの顔色をうかがう形で行われてきた。政治的に利用されていたとみてよい。心から弔意をあらわすという国民感情とは別の意図を感じる。

 第二次大戦は太平洋戦争という名称だが、実際は、中国、ビルマ、インドネシアなど、米軍が戦っていない場所でも多くの犠牲者が出た。ところが東京裁判やGHQの思想統制で太平洋戦争となった。歴史的にも地理的にも実際は大東亜戦争という名前が実態には合っている。東京裁判は、戦勝国の報復的行為、茶番であったが、そのために、アジア地域での戦争犯罪はでたらめなBC級裁判で整理されてしまった。BC級の被告は理不尽な裁判で処刑された気の毒な事例が多い。肝腎のアジアにおける日本軍の蛮行は曖昧になっている。東京裁判で首脳部の責任を問われた南京大虐殺は実は実態が明らかではない。それに引き換え、問題にならなかったのがインドネシアにおける100万人の強制労働による死者、満州の731部隊の生体実験、フィリピン戦マニラ虐殺などだ。東京裁判ではアジア人の判事はインドのパール判事で、国際法の専門家は彼だけ、後から中国とフィリピン(ヘラニラ氏)が加えられた。しかし、フリピンは独立を得たばかり、中国は国民党と共産党政権が抗争中で代表といっても国民には認知されていない。この裁判では中国人朝鮮人の強制労働や、慰安婦、ヴェトナムやビルマのことも問題にならなかった。もっぱら、英米蘭軍捕虜の虐待、戦争や民主主義破壊に対する人道上の犯罪への共同謀議が問われた。
 片や日本国内でも、本当は裁かれるべき人々が不問に付された。治安維持法を盾に横暴の限りを尽くした特高や憲兵、満州でごろつきのような活動を行い、麻薬汚染を引き起こした右翼達、日本軍で多くの犠牲を出した作戦の責任者、辻正信や牟田口といった連中は全く処罰されていないか、戦犯から解放された。日本の戦後の戦争責任処理は全く機能せず、アメリカの軍事裁判に助けられた。戦犯逮捕者リストの作成は日本人からの情報がなければできない。

 戦後独立を果したアジア各国は日本に賠償を求め、ODAも含め夫々成果を得たが、日本の加害者としての立場が変わる訳ではない。どう考えてもアジアの占領地における日本軍に対する感情は嫌悪すべきものとなっている。占領地における日本軍の増長振りはいくら独立を促したとか言っても肯定しうるものではない。要するに、被害にあった国々を刺激する行動は国際的に今の国益を損なうのである。8月15日の参拝というのは大戦中の日本の軍部を肯定する行動に映るのだ。戦後65年を経ても今なおアジア諸国からは大戦中の軍部は贖罪されていない状況で首相が8月15日を選んで参拝するのか、その歴史認識のいいかげんさを問題にすべきだ。

 靖国神社のA級戦犯合祀は、靖国神社がサンフランシスコ講和条約と宗教法人の権利を盾に行われ、BC級の合祀は違法な情報漏洩という厚生省の内部協力を得た出鱈目な手順で行われた行為だ。その行為は政治的な色彩を帯びることになる。参拝を強行しても、拒否されても問題になるし、それは神社側の勝手な行動の結果で仕方がないものだと思う。靖国神社の遊就館の展示やその主張は歴史認識を疑う一方的なものである。確かに、日本軍は英米兵の捕虜を虐待したが、ソ連はさらに多くの日本兵捕虜を強制労働に送り、死に至らしめた。そのような反論は別の問題だ。靖国神社側は、英霊として美化するだけでなく、戦争中に行われた戦争の名目で行われた日本軍の破廉恥な行動、他国人と同時に、自国民や軍隊内部においても行われた現実を直視し、平和への活動に労力を傾けるべきである。
 靖国神社で気になるのが、参道に群がる異常な数のテキ屋の屋台だ。焼き鳥、お好み焼き、焼きそば屋といった出店が何故あれほど必要なのか分らない。靖国神社は英霊の祈りの場であって欲しいと思う。このような姿が神社の異様な立場を物語っている。font>

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去る7月14日 靖国神社御魂祭りの中、直心影流法定を奉納した。小生はキリスト教信者であり、あまり、このイベントにはこれまで加わらなかったが、今回初めて参加した。思うに、これ程多くの英霊の御霊を祭っているところは、やはり靖国神社以外にはない。国民が参拝するのは自由であり、大いに平和を願うことが大事である。しかし、本来、靖国神社は平和のためではなく、戦争を盛り上げ、死んでも靖国で会おうという、七生報国の精神が基盤にあって、好戦的な思想はあるのではないか。抵抗はあるが、武人の霊を慰撫するということはやらねばならない。政治家が、票のために、国の国際的利害を無視して参拝することは反対である。また、ここで祀られている多くの戦没者は、戦争指導者のいいかげんな判断で、命を失い、その政府や官僚は軍人以外は生き延びた。その張本人達が、ヌケヌケと信仰の自由だとか、権利とか、哀悼の意を示すとか言って、偉そうに参拝して物議を醸すというのはけしからん話である。特に、神社は8月15日の政治家参拝はお断りとすべきである。

演武したのは小太刀6本の形である。
当日は高崎経済大学、早稲田大学、一橋剣友会、一橋大学、百連会が直心影流の法定、刃挽、撓の形、
小太刀、丸橋、と演武を行った。
その後、本殿で、靖国神社のお祓いを受けた。
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 日銀の白川総裁が悪者になっている。年収3492万円で金融政策を景気に結びつけない総裁への批判である。確かに日銀も今日のデフレに対して責任がある。というより、デフレを結果的に誘導している。資金供給量が足りないのだ。著者によると30兆円にのぼるという。それは日本の国債発行残高が800兆円を超え、国が債務超過に陥るという危険をお題目に、金融政策をサボって来たからだと言う。日本破産のストーリーは次の6ポイントだ。

①日本の巨額な国債は郵貯や銀行によって無理矢理買い支えられている。
②国債残高が大きくなり過ぎて返せないと考えると誰かが市場で国債を売り浴びせてくるだろう。
③売り浴びせが始まると市場がパニックになり、国債価格が大暴落
④国債が暴落するので金利が急上昇
⑤ハイパーインフレ
⑥日本経済の崩壊

 という筋道。日銀はこれをハルマゲドン、末法思想として貨幣供給を増やそうとしない。日本のバランスシートは債務超過寸前というのがマスコミや日銀の主張だ。しかし、これは金融政策、日銀の貨幣供給で防止できると言う。国のバランスシートを企業会計にあてはめてみると、資産部分、非金融資産491兆円、現金・有価証券504兆円で、負債は984兆円もあり、正味資産は11兆円しかないため、債務超過寸前という考えだ。非金融資産のうち、道路や公園、ダムなどは売却できないから、実際は返済資金ではないという。これは企業会計原則の悪用である。ところが、国には無形資産がある。日本には徴税能力が50兆円/年あり、これが資産評価されていない。これを無視してギリシャやアルゼンチンと比較すること自体無理がある。さらに貨幣発行権も入れると、我が国は資産として50兆円の徴税権をベーズに金利1.5%で割り戻すと、3,333兆円、さらに厳しい条件で金利が3%、行政サービスに40兆円使ってしまい、のころ10兆円しか利払いにまわせないとしても333兆円の資産を加えなければならない。これを「だんまり」して危機だけを叫んで金融政策を実行しない日銀が、その独立性を盾に不作為の作為を行っている。
 アルゼンチンの破綻やギリシャの例をマスコミはその差を語らずに恐怖感を煽るような形で喧伝し、日銀もそうした末世的な見方にこだわっている。日本の中央銀行は戦後長い間1ドル360円の固定相場に保護され、国際的な金融情勢や、経済の活性化に責任ある意思決定を行うだけの機能や情報にもとづく意志決定を行わない、お役所としてよくある不作為の作為を行って来たようにもみえる。
 中央銀行の独立性は重要である。我が国は司法の独立も堅固に守ってきたが、時として、我々の無知をいいことに時として過剰な政治介入をしている。司法よりも権限の弱い日銀には政治家も、財務官僚も虎視眈々と日銀に介入し縄張りをのばそうとしてきた。今、政治家が最も支配したいのが日銀だ。しかし、中央銀行が支配されたとき、ろくなことは起きない。かつて、ドイツがシャハトを利用してナチスの政策を成功させ、戦時経済に突入し、これに反対したシャハトを追放して、さらにはゲーリングが戦争に突入する時にドイツ帝国銀行を我がものにし、財政出動により軍事費を青天井にした。司法も握ったナチスは横暴の限りを尽くした。ソ連のスターリンも警察権力を一手に握り、粛清、恐怖政治を行って、国民の不幸を招いた。その反省から、中央銀行は独立したそんざいでなければならない。日本は高度成長期においては、大蔵省に支配されたが例のモフタンとか、ノーパンしゃぶしゃぶ事件以来手を出せなくなった。その結果が日銀の専横を招いているという。
 著者がいうように日銀法まで改正して、かつ、中央銀行の独立性を損なってまで清治の介入を認める事態なのだろうか。無能、又は、アメリカの言いなりになっている日銀総裁を更迭すれば済むむことではないのだろうか。
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 日本は敗戦によって天皇の地位や軍隊などにおいては大きく変化した。また、男女平等や基本的人権の尊重、言論の自由等戦前とは全く異なる変革を遂げた。しかし、今日の政治経済の低迷がどこから来ているのかを考えると、肥大した官僚組織、指導者のいない政治、硬直した企業や経済など、戦争中と戦後の占領政策の影響があることとが分る。
 日本は戦争直後に民主化の道を進んだかのように見えたが、それはつかの間のことで、実は官僚的な占領軍の影響のもとに、官僚支配と経済の集中は形を変えて進められた。GHQによるリベラルな民主化は途中で東西冷戦の中に組み込まれ、むしろ後退した。ところが、日本は1960年代から80年代まで、高度成長し、日本人自身が驚く程の発展を遂げた。やがてかつてのような傲慢な民族論や侍精神の復活もみられるようになった。しかし、ダワーはエピローグで述べる。「集団としてのアイデンティティやイデオロギーを作り上げる材料として知恵、人種、文化、歴史が利用されている。しかし、21世紀への戸口にある日本を理解するためには日本という国があいもかわらず連続している面を探すよりも、1920年代後半にはじまり、1989年に実質的に終わったひとつの周期に注目する方が有用である。数十年間のその年月は短く、かつ、暴力と変化に富んだ時期であったが、これを精密に観察すれば、戦後日本モデルとされたものの大部分が、実は日本とアメリカの交配型モデルというべきものであったことがわかる。このモデルは戦争中に原型が作られ、敗戦と占領によって強化され、その後数十年間維持された。そこに貫いていた特徴は、日本は脆弱であるという恐怖感であり、最大の経済成長を遂げるためには国家の上層部による計画と保護が不可欠であるという考え方が広く存在したことであった。この官僚制資本主義は、勝者と敗者がいかに日本の敗北を抱擁したかを理解した時はじめて、不可解なものでなくなる。・・・」このことは何も日本側に認識されていないことではない。しかし、失われた10年という低迷と、21世紀に入って政治経済の混迷が続く中、再び思い起こされるのである。
 日本の戦後はどこで終わったのかという問いに対して、ダワー氏は明確に、1989年と言う。昭和天皇が崩御した年である。戦後の高度成長の基盤となったものが、実は戦争中の総動員体制を築いた産業基盤と官僚制、そして、GHQすなわちSCAPであった。連合国軍、米国の太平洋陸軍[4]総司令官・マッカーサー元帥、すなわち連合国軍最高司令官(SCAP)が構想した国の形があった。
 
日本の戦後が終わったのは1989年と言う。昭和天皇が崩御した年である。戦後の高度成長の基盤となったものが、実は戦争中の総動員体制を築いた産業基盤と官僚制、そして、GHQすなわちSCAPであった。連合国軍、アメリカ陸軍の太平洋陸軍[4]総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥すなわち連合国軍最高司令官(SCAP)
 「敗北を抱きしめて」は上下巻1000ページを越える大作。上巻は日本の降伏という衝撃に日本人が一種の文明ショック状態に陥った様子を見事に描き出した。カストリ文化や焼け跡闇市、天皇陛下とマッカーサーとの会見など、戦争中から180度転換した日本人の変わり身の早さと、当時のエリート層の無責任ぶりが描かれる。実に生き生きと社会変化を描き出した。下巻は戦後日本を形成した重要な政策について米国側の資料も駆使し、その裏面史を語る。
天皇の地位に関するGHQの政策誘導、そして人間宣言、天皇陛下の全国巡行
、そして憲法改正や東京裁判と大きな問題に正面から向き合う。さらに、SCAPによる思想統制、検閲やレッドパージなど、民主化の流れが逆流し、朝鮮戦争が始まる。朝鮮戦争特需から新しい日本の産業構造が形成される。
 戦後の占領政策は講和条約とマッカーサーの解任によって終了した。GHQは日本の官僚制度を活用して、一部は強化した。確かに内務省のような抑圧装置は解体したが、実際には官僚制度を活用し、経済においても統制経済を利用した。この仕組みが高度成長を促進し、さらに今日における停滞の原因にもなった。
 日本国憲法は世界的にも理想主義を取り入れた先進的な憲法であった。第一次世界大戦後のパリ不戦条約や基本的人権の尊重、特に男女平等などはアメリカなど戦勝国の憲法にも見られないものだ。しかし、最も注意を向けられたのが天皇の地位であった。憲法改定に当っての日本の指導層の様々な抵抗や対応は全て失敗した。日本側の大日本帝国憲法の修正案は、松本蒸治を中心に、当時の法学者、特に美濃部達吉などの重鎮も加えて策定されたが、そもそも明治憲法自体が、欧米の目から見ても、奇怪な憲法であった。ダワー氏は吉田茂の研究で博士号を取っただけあって、吉田茂の行動に関しては実に丁寧に、描いている。GHQの憲法案に戸惑う日本のエリート達。白州次郎の活躍も描かれている。米国側が憲法策定に当り、大プロジェクトチームを編成し、短期間に
新憲法を作成した経緯は驚くべきものである。日本がこれを押し付けられたとうより、当時の国民感情から前向きに受け止められたものだった。国会の承認において反対決議を出したのが共産党の7票だったというのも面白い。
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 教会のHさんから突然電話がかかってきた。杉並で胡同の理髪師という映画の券があるので見ないかというお誘いを頂いた。以前、岩波ホールで映画を見た時に予告編にあった映画だ。日本女子大の婦人平和団体のイベントである。二つ返事でお誘いに乗ることにした。
 ハスチョロー監督06年中国作品、北京の下町、胡同を舞台にした人情物語。90歳を超えた一人暮らしの理髪師を主人公に、庶民の日常風景が静かに描かれる。主人公を演じるのは、実際の理髪師チン・クイ。出演者はほとんどが映画初出演ながら、チン老人の豊富な人生経験からふと語られる味のある言葉の数々。チンさんは今なお健在で、この映画を機に日本にも来ている。
 世界ふれあい街歩きというNHKのレポート番組がある。等身大の街の表情が伝わってくる。これを思わせるような、ドキュメントタッチの作品。普段の、主人公の目線で胡同の町並みと、日々の生活が味わえる。胡同は元の時代に始まり、700年前からある。チンさんの人生の8倍もの歴史を持った街が今解体されようとしている。4年前、オリンピックまで1000日前の北京である。そこで暮らす人々の人生。そして、猫や鳥も描かれる。街とともに人々の暮らしと人生がある。チンさんの家も解体の対象になっている。
 93歳の理髪師チン爺さんは、北京の700年前から続く庶民の街、胡同に住む。狭い部屋に質素な家具。単純で欲のない生活は長生きの秘訣だ。日課は朝6時に起床し、午前中に、昔なじみの顧客の家を三輪自転車で訪問して散髪すること。午後は友人たちと麻雀を楽しみ、夜9時には就寝する。朝は毎日5分遅れる時計の音で目を覚ます。何十年も変わらない日常。辛亥革命、日本軍の進駐、共産革命から文革、そして資本主義化と歴史は移る。しかし、この街は変わらなかった。しかし、その胡同も市の開発で解体される運命にある。長年の習慣も、得意客が次々と亡くなる中で少しずつ変化していく。訪問した家で高齢の顧客が亡くなっていた。そこにいた黒毛の猫を引き取る。お得意先の老人は息子の家に引っ越したが、チンさんのひげ剃りを忘れない。その老人のところに訪問理髪にいくが、息子夫婦との介護生活に寂しさを感じる。嫁との折り合いが悪いのだ。息子は金持ちだが礼金を受け取らずに帰ってしまう。チン老人は体も弱っているが、まだ、麻雀仲間もいる。モツ料理の店主とも友人だ。いつも決まった席で食事をする。仲間の話題も葬儀のこと。そろそろ自分の葬式のことも気になって、葬儀屋に電話して準備も始める。20年有効な身分証明書に切り替えた。葬式用の写真と遺言もテープにとる。そんな中で、長年愛用の時計が止まってしまう。朝、チン爺さんは目が覚めない。そこに、いつも金を無心にくる息子がやって来てびっくり。曾孫が生まれたことを報告に来たのだ。チン爺さんは寝坊しただけだった。悠久の時間も残り少なくなる中、人生を振り返り、緊張感のある時が流れていく。

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