<   2010年 04月 ( 18 )   > この月の画像一覧

 先般の貴殿の挑発的質問で、長篠の合戦のことが出たが、小生の答えは「良くわかっていない」
という曖昧な回答しかできなかった。しかし、これは本当の話で、長篠の合戦での戦い方に関しては信長公記や武功夜話、甲陽軍鑑などは今日信頼されていない。甲乱記など、他の記録と併せて分析するしかない。
 織田方、徳川家康の布陣など勝った方を中心に記録がある。長篠合戦は長篠城、二連木、牛久保城といった拠点争奪から、設楽が原の戦いまで、全体を指すが、問題の馬防柵は設楽が原合戦のことだろう。合戦は8時間の激戦であったことは分っている。当時の武士団の戦法から、あの、黒澤明の影武者の騎兵突撃や、合戦屏風どおりの三段撃ちはフィクションである。また、騎馬武者軍団の総突撃も無かった。これを一言で説明するのは時間がかかる。当時の武士団の戦闘単位から説明しなければならない。家の子郎党が、大小の集団を作って戦ったが、槍や鉄砲の専門集団とか、ヨーロッパのテルシオのような集団戦法ではない。ファランクス的な槍部隊は武将によっては指揮できただろう。でも、横隊編成というものがどのくらいの規模であったのか、分らない。重たい鎧や胴丸で走り抜けるのは無理だし、息切れしたら危険だ。武道の基本は呼吸法である。当時の馬は小型だったから鎧武者は重たく、距離は稼げない。しかし、馬は追撃や逃亡、移動の時に重宝で活用された。資料があったら教えてもらいたい。日本の鎧は後からの防御力が完璧な状態に見える。逃げる時が一番危険だからだ。

 鎧を着けた相手に対する切り合いも余程の接近戦でなければ行われない。もっぱら遠隔戦が主流であった当時では睨み合う事が多く、突撃はなかなか出来なかった。もっぱら、槍、鉄砲、投石、弓矢が主流である。しかし、前線の兵の心理は趨勢に影響する。皆死にたくない。間者や裏切りで混乱、敵が潰走した場合は乱戦になり、傷ついた敗軍の武将の首狩りゲーム化した凄惨な状態となる。その時は刀や小太刀が活躍した。この時点で敗軍には大量の犠牲が出る。だから、それまでは双方それほど死なない。当時の記録は自分の家がどれだけ活躍したかが基本だから、打ち取った数とか、被害も大げさな数字になり易かった。

長篠合戦以降の戦い方とか、軍学、兵法から分析する事も出来る。又、信長軍が3000丁(1,000くらい)?ほどの鉄砲を使い、武田軍に勝っていたことも確かだ。武田軍も鉄砲は役割分担して連続して射撃する方法をとっていたし、相当な数を持っていた。ただ、その数と運用は織田軍の方が優れていたのだろう。馬防柵は陣地構築の基本で、両方が作っていた。しかし、近代戦の縦深陣地的なものを作り、背後の鳶ヶ巣山砦を抑えられた武田軍が後退出来ない状況で、設楽が原を前進せざるを得ず、壊滅したことも分っている。小生は歴史家ではないから実証的な説明や文書を読む力も無い。このくらいの説明でおしまい。

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 鳩山首相が「腹案」を言えない理由は何だろう。民主党は海兵隊基地の県外移設にこだわらざるを得ない。しかし、この問題に小澤の構想が裏にある筈で、鳩山首相も単なる演技スタッフであって、既に案は出来ている。県外移設は形だけでも実現したい。腹案と言うのは鳩山の案ではなく、小澤案だから言えない。鳩山首相はこの問題に関しては全く指導力はない。小澤–官房長官で皆決め、鳩山さんは蚊帳の外。腹案と言うのは筋書き付きのものでこれは全て小澤が作っている。民主はとにかく今回の参議院選挙にかけている。その小澤には誰も逆らえない。自民党の分裂の醜態とは意味が違う。沖縄島民への裏切りのようなまやかし案があるのではないか。以下 小生の想像的筋書き。

 普天間基地の移転先を決定し、地元と最終合意するところには至らないであろう。辺野古に逆戻りもあり得る。これは最悪。折角まとまったのに民主が県外移転を煽ったから、普天間は金縛りで、今のままに結果的になるかも。そんなに簡単な事ではないのは誰でも分る。自民党の計画には無かった県外移設は形だけでも提示しなければならない。それが無ければ民主党は保たないから、プランとして徳之島も含めた案を提示する筈だ。この問題に時間がかかる事はアメリカも分っており、プランを示して、アメリカと交渉中ということで、参議院選挙において、最終決定の遅れは民主党が県外移設への努力をしたことを示して国民に信を問うだろう。問題はその移設の立地問題より内容である。ではプランとはどんなものか。

 徳之島は選択肢の一つだとは思う。そのためにも、今ガス抜きに言わざるを得ない。しかし、これはフェイントであり、駄目元だし、全体ではない。参議院選挙で徳之島票はそもそも充てにしていないだろう。当たり前だが、これは地元の反対もある。名護市に対しては海兵隊の航空部隊が基地にしている普天間は明け渡し、辺野古沖埋め立てをしないことで何も言わせない。そこで、徳之島飛行場をその代替として利用するが、島民を説得するためには来るのは航空部隊の一時使用か訓練時だけとする。

 彼らは航空関係者ばかりで、殆ど基地からは出てこないかもしれない。海兵は来ない。実はハリアー垂直爆撃機など騒音もあって危険度は高いが、現実的には興趣揚陸艦エセックスで充分だ。実際飛行場を使うのは訓練時だけにする。これで、県外移設は申し訳が立つ。航空部隊を県外移設のダミーにする。徳之島には空港が既にあり、海兵隊の航空機は滑走路等短いところでも活動できる部隊だから、拡張しなくても良いかもしれない。隣地の干潟が埋め立て候補だが、公有水面は地元自治体の都市計画決定だから、反対されると弱い。ここは単なる格納庫程度鹿機能しないのだ。あるいは、徳之島は県外移設のアリバイ作りにとどまり、地元の反対で出来なかったことで、やっぱり出来ませんでした。議論を高めたのは民主党の功績とばかりにわめくかもしれない。破廉恥。民主党はやはり地元の反対は尊重するというイメージ作りで参議院選挙につなげる。どうころんでも旨く行くように仕組んである筈だ。

 地元の反対を最小限にする方法は、やはり金だ。地元対策として、離島予算を、わざと本年度予算で減額してあり、これを復活、さらに上乗せする。また、徳之島は徳州会の病院があるところで、徳田虎雄の息子徳田毅が国会議員、自民党であり、病院支援で裏取引しているかもしれない。彼は亀井静香が媒酌人であり、その関係で徳之島案は最初から小澤の布石としてあったのかもしれない。最近の郵政問題にしても、亀井の強気はそのあたりにあるのか。あの反対集会は随分手回しが良かった。1万5千人の集会は準備されたもの。小澤の選挙対策として反対派市長の名護市のあるキャンプシュワブは使わないし、ホワイトビーチ埋め立ても無い。これで、マニュフェスト履行とする。今の自民党には小澤に匹敵する選挙参謀がいないし、彼の戦略を見抜く人材もない。

 しかし、徳之島は使い勝手が悪い。だから、実際はヘリコプター部隊や地上軍、演習地は既に米軍基地である沖縄のキャンプハンセンを開発し、滑走路も造りそこを拠点とすることもあり得る。海兵隊員8000人と家族は沖縄からは出ない。ここは丘陵地で森だから開発しなければ使えない。嘉手納の航路との調整は目下米軍で必死にシュミレーションを行っているはずだ。これに時間がかかるのだ。時間がかかっているのは民主党ではなく米軍なのだろう。だからアメリカからは早くしろとは言われないのだ。辺野古沖埋め立てを待っていた土木工事関係企業には普天間再開発とここの工事で協力してもらえばよい。海兵隊演習もここで行う。徳之島が失敗したら全てこける案では困る。

 沖縄県内の基地強化は暫定的のようだが実はこれが本命。中核部隊とヘリ部隊用として日本の資金で造成し、普天間から移転することで、米軍の理解を得る。普天間で以前事故を起こしたのはヘリ部隊だ。実は米軍の普天間明け渡しの不便は、沖縄内部の強化で解消する。徳之島はその目くらましにすぎない。米軍も実は今の普天間は使いづらいのだ。これをいきなり、沖縄内部で強化しようとうる場合は沖縄全体に反対運動が広がる危険性がある。これまで、日本の都合で米軍基地を統廃合したことが1度だってあるのだろうか。立川、王子とか、返還された基地はあるが、米軍の都合不要になっただけだ、というより沖縄が犠牲になったのだ。今回も裏には米軍の要請があったのかもしれない。沖縄は日米安保というより米国世界軍事戦略の要。日本は本当に独立国なのだろうか。朝鮮半島と中国の脅威に対して海兵隊こそ沖縄で必要な部隊なのだ。

 さらに、社民党の県外移設論者に対しては、かつて自民党が決めた日本負担のグアム移転を将来ビジョンで示し、今回の案はそこに至る経過措置として花を持たせる。だから、阿部知子以下、社民党ご一行様はグアム基地を見学に行っている。しかし、そうはいかない。アメリカが鍵を握っており、鳩山首相に未来が無ければ首相の考えどおりにはならず、彼の思いとは別の答えになるかもしれない。結局退陣となる。

 複雑な裏表の取引と、グアムへのロードマップ化で各方面に対して合意を得る。多分既に米軍と米政府の了承は得ているが、わざと米大使館での岡田外相との話は旨くいっていないフリをして、無意味な徳之島を実現させ、本命の沖縄内部の強化をカモフラージュする。これは自民党案よりは金がかかるが、これまで民主党の政策は金のかかるものばかりだ。小澤はそんな事を考えるずるい男。彼は献金問題が再燃すれば選挙後引退し、ヤミ将軍となるだろう。それこそ彼の狙いだ。ただでは転ばない。田中角栄が引退後に権力を膨らませたことを忘れてはならない。国家予算の債務超過による破綻は菅直人が主張しているスーパーインフレ政策で解消する。日本の未来は暗いな。年金生活者ー高齢者は遊んでいないで仕事しろと言う事だなあ。
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 普天間問題は鳩山政権が誕生して、1年以内に決められるような問題ではないのに、鳩山首相が自信満々に期限を切った論議にしてしまうことが、一層民主党を追い込んでいる。本来、政局で片付く事じゃない。各党がきちんと政策と議論を戦わす事である。まさに参議院選挙で議論すべき事。普天間はその後に結論を出すべきだ。期限を聞かれるから、まともに答えたところが鳩さんンの甘ちゃんなところ。日米安保論を強化する必要があるのか無いのか。中国や北朝鮮の脅威にどう対処するのか。韓国との関係でも竹島問題や対馬への韓国からの主張がある。中国人が醜い領土主張している南鳥島はどうだ。そもそも、竹島問題は日本の敗戦後武力の無い日本に乗じて李承晩ラインが勝手に設定されたことから一方的に占拠された。当時、日本人は随分悔しい思いをしたことなど忘れてしまったみたいだ。沖縄に海兵隊がいることで、最も安心できる国は韓国だ。韓国にいる米軍はもっぱら後方支援部隊で、最前線は韓国軍である。米軍は北朝鮮からの一撃、砲撃射程外に駐留している。韓国が有事の際、最も危険なところは38度線周辺の他は朝鮮半島の南部である。この一画が不安定だと韓国は壊滅してしまう事を歴史が証明しているのだ。だから、光州とか済州島の治安が韓国防衛においては、柔かい腹部に相当する。海兵隊の存在を前提に韓国防衛は確立され、日本はその後方支援施設を有しているから、韓国は日本を軍事上協力者としてみている。もし、中国海軍が対馬海峡を平気で通行して来たらどうだろうか。韓国は対馬を狙ってくる。中国軍と北朝鮮軍は同盟軍で、朝鮮戦争の時も、今も連携は続いている。海兵隊の迷惑な部分だけを捉えてマスコミも、政府も国防論を避けて来たつけが溜りにたまっているのだ。

 アメリカの海兵隊というのはどんな軍事力で、何をしているのか。また、これが日本の防衛にどれだけ役に立っているのかを、中国に配慮する政府は言いにくいのだろうから、そこはマスコミがきちんと説明すべきだ。海兵隊というのはアメリカ軍にとっても特殊な軍事力ということ。海軍、空軍、陸軍という3軍の機能を全て持ち、有事には真っ先に派遣される。一方では、国際的な連携が要求される現代政治の中、海兵隊も空軍や海軍との交流無しには作戦が遂行できない。海兵隊の上層部は陸海空の参謀レベルとの交流も不可欠で、これが分離されると作戦を立てにくい。徳之島では遠いのだ。極めて勇猛果敢な使命と実戦能力をもっている割には平時は常に陸海空軍にはお荷物なのだ。また、兵隊のレベルも、平和時には訓練がキツい。実戦即応という使命のために、兵士は命令でいつでも発砲し、照準を外さない訓練の結果、分かり易く言えば殺人集団のような異常な精神状態に常に置かれており、基地周辺ではトラブルが絶えない厄介者になる。アメリカ本土では殆どアホか、ガンマン気違いみたいな連中という見方をされている。戦争というのは人をそのように変える。まともな奴は空軍か海軍に行く。陸軍は貧乏人が年金とか奨学金欲しさに行くところ。

 作戦行動においては、敵前上陸など、最も危険な作戦に従事するが、陸軍や海軍の後方支援が無ければ孤立して、上陸先の圧倒的な勢力に駆逐されるリスクもある。大平洋やアジアなどは皆海洋からの接近、上陸を要する作戦が多くなる。朝鮮戦争の仁川作戦等が典型だ。日米安保という観点からは海兵隊は日本の用心棒中の用心棒で、我が国にはこれに比する戦力は無い。

 そもそも、軍事基地というのは誰でも迷惑なもので、ヘリコプターの騒音、訓練による事故、地理や交通法規に疎い米兵の交通事故と犯罪など、問題は多い。彼らは殆ど基地から出てこないから周辺住民は全く利点がない。アメリカ人というのは日本人程他民族とか異文化には関心が無い。彼らは基地からアメリカ人向けのバーとか破廉恥なディスコでも無い限り、外には出てこない。基地の中はアメリカ合衆国なのだ。バーもあればゴルフ場もあり、学校とか映画館だってある。何もメリットが無い地元は反対するに決まっている。日本が中国や北朝鮮の軍事勢力に好き勝手にされることが無いとは言えない。軍というのはそもそも、平事は無意味な集団であるが、相手が弱いとなると居丈高になってトラブルがあると仕事になる困った集団だ。だから無い方がいいのだが、人類が文明を築いて以来、これが無くなった試しは無いのだ。日本が、南大平洋の全く他国から干渉の無い国ならば別だが、今やアフガニスタン、中国南沙諸島、台湾、北朝鮮と世界で最も危険な地域に接しているという現実を国民に知らせる努力をせずに、国民のコンセンサスを得るのは難しい。徳之島に対しては全国民の合意という形で、その結果恩恵をきちんと用意して、提案する事が無ければ、全く実現できない話である。米軍にしてみれば、日米安保が米国にとって不要かどうかを判断する時機に来ているのかもしれない。米軍が去れば一番喜ぶのは中国と北朝鮮である。米軍が担って来た軍事力を日本が再編するのは容易なことではない。日本の福祉も、民主党が掲げている民生上の予算はぶっ飛ぶ。

 日本は四方を海に囲まれた貿易立国。大陸にはロシアと中国という軍事大国が控えている。米国は大平洋を挟んで向かい合う海軍大国。そうした中では日本は集団防衛しなければ、昔のように軍事国家になってしまう地政学上の位置なのだ。これは何としてでも避けたい。その意味では社民党の平和論も一理ある。護憲論が無ければ、日本ようにの官僚に弱い体質の国家はブレーキが利かない。中国が共産党政権である以上、市場経済の日本は連携できない。ロシアとは未だに北方領土という未解決の問題を抱え、仮想敵でもある。核を持った北朝鮮も脅威である。そうした状況は日本の立場を少しでも考えれば分るはず。米軍との連携は不可欠という方向をもし変えるなら、きちんとした防衛論が必要である。そもそも、谷にかかった一本橋のような日本の平和をバランスを取って進むしか無いのである。
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不道徳教育講座  ブロック.W 橘 玲訳 講談社

 同じ書名で三島由紀夫のものがある。これも、日本的社会で常識としてきたものを、ある種の個人主義で切って捨てるような面白みがあった。が、これはリバタリアンについての本である。リバタリアニズムとは、国家の機能を縮小し、市場原理によって社会を運営しようという政治思想。この本では、売春婦、麻薬密売人、ポン引き、闇金融など、を擁護することによって、"不道徳"な行為に対する人々の偏見を挑発し、その背後にある"国家"を考えさせる。国家が国民の福祉を増進するというのは幻想であり、アウシュビッツ、ソ連の強制収容所や中国の文化大革命のように、近代国家成立後におこった信じがたい災厄のほとんどが国家の巨大な権力が引き起こしたことである。これに対して市場機能が果たす役割を重視している。
 
 国家が果たしている役割のほとんどすべては市場で提供されうる。できる限り国家の権限を縮小し、小さな政府にすることが望ましいと考えている。夜警国家論である。これを竹中平蔵や小泉政権は政治的スローガンに利用し、規制緩和も、郵政改革も中途半端に終わってしまい、今やかえって前より病状は悪くなっている感じだ。リバウンドというのは一層深刻だ。
 
 アダム・スミスが「神の見えざる手」といった市場機能は、官僚機構が生み出すもろもろの政策とは関係がない。アダムスミスは人間の理性とか、悟性にもとづき、他人と自分という関係における道徳的な規範や自己規制によって社会の調和を図る事を期待していた。だから、何も、勝手に自由気ままな結果が平衡状態をもたらすとは言っていない。そこは誤解ではないか。アダムスミスの国富論の骨子は、道徳情操論という哲学論に前提として展開されている。リバタリアン経済学者ハイエクは法哲学者でもある。彼が、アダムスミスが国富論で言っている神の見えざる手をそのよう解釈するるはずはないのだが。

 しかし、政府のアフリカ諸国への援助、日本のODAの失敗を思い起こさせるような指摘もなされる。貧困に対する”援助”は、実際のところ何の役にも立たず、かえって相手国の経済に打撃を与え続ける結果につながり、自国の市場機能が育たないため、援助中毒から抜けることができなくなっている。国家が支援したものは必ず、先方の未成熟な国家機構を介するから、結局援助は一部の官僚や権力者に横取りされてしまう。多くの先進国が過ちを犯して来た。

 しかし、アメリカのリバタリアンはいわゆるリベラリズムにおける、国家の機能を組合とか、ボランティア、自発的団体に置き換えようとするもので、その経営には高度の技術を必要とする。これを実際にこなせるのは、神のごとき人材である。これをヨーロッパに置き換えると、結果的にはナチスのようになってしまうのではないか。結果的に超国家主義になってしまう。ロシア革命が人類初の自由な、階級の無い国家を志向して全く逆の結果になった事が思い起こされる。統治という事はリバタリアンでも放棄はしていない以上、この権力という代物は無菌状態の中で一気に増殖する病原菌のような陳腐な権力すら抑止できないのではないか。オウムなどもそうだ。一部の宗教団体とか、アーミッシュのようなアメリカの政治や経済と隔絶された中でしか実現できないものだ。実際、過激なテロとか、ゴールドウォーターのような極右を生み出す温床になっている。
 
 キリスト教とか、日本的風土において実現可能なリバタリアニズムとは何かを考えて行きたいものである。

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 何故日本は幸福感や豊かさを感じないのかは、「不幸な国の幸福論」で加賀乙彦氏が示した数字に表れている。日本の出産手当て児童手当てなど社会的弱者へのOECD諸国上位24ヶ国で下から2番目。支払った税金と保険料のうちサービスとしてどの位国民に戻っているかを示す社会保障還元率は最低の41%で自己責任のアメリカより10%以上低い。教育の公的支出GDP比はやはり下から2番目。奨学金は返さないでよい国が多い。郵貯2000万円まで拡げるなら教育ローンを整備しろ。自殺は毎年3万人超で3年に1度日露戦争してるのと同じ。実はこれはインチキ統計で他国は変死者を50%算入しており、実は1位のリトアニアを遥に抜くトップ。年金は現役所得比OECD平均59%に対し34%、しがない老後。医師や看護師は千人あたりは最低、ベッドあたりは更に百位以下。

 これが国の建設投資となると英米仏独伊カ合計より多い。土建国家日本。何と25倍の国土面積の米国の3倍。これらのうち、住宅や下水など生活に直接関連するのは僅かだ。もっともらしい理由はあるが、河川改修、ダム、道路の掘り返し、海岸のテトラポッド、不採算の空港等。これらは、殆どコンクリートと労務費の固まりだから、産業への波及効果はあっても住宅程ではない。それぞれを分析すると、どうしても今やらなければならないものは少ないだろう。実は、日本の基本的な土木工事は江戸時代、徳川家が行ったものが70%だと言う説もある。建設官僚は、何と、二本の川を全て三面コンクリート張りにする事に情熱を燃やしていた。散々バラまいたのは棚に上げ今に債務超過が見えている。今や一人当たり債務は850万円だ。この構図が、小泉政権でも、今の民主党政権でもなかなか変わらない。しかし、貿易は黒字だ。だから、貿易黒字を続けて来たこれまでの今までの経済政策は日本の豊かさや幸せには結びつかない事なのだ。貯まったドルは大量の米国債になっている。戦争中の国家だ。言葉は悪いが、米国は世界の警察というより、暴力団に近い。そんな国に金貸して返ってくるの?

 国民は熱し易く冷め易い。鳩山首相の資金問題は恐らく、小澤さんの辞任と選挙を交換条件に忘れてもらおうというのが民主党の腹だろう。普天間で行き詰まるのを待つばかり。だが、絶対に、鳩山首相は辞めない。次の衆議院選挙ではすっかり禊を受けているだろうと鷹を食って国民を馬鹿にしている。自分の地位は家柄上当然だと思っている親子の欲望があるだけの政治家だ。選挙でも選んでは行けない人なのだ。マスコミの責任は大きい。日本をこんな国にしたのは新聞とテレビだ。
 アメリカのリバタリアン、デヴィッド・ボウツはリバタリアン宣言日本版の序文でこのような文を寄せている。
「日本人の備え持つ密接な家族関係、子
どもの教育への責務、個人責任の強固な自覚、平和で民主的な社会、そしてこの50年間に、世界に物質面での進歩を与えた生産的
な企業家精神。
日本は、自分たちの成し遂げた経済的成功に対して大きな自尊
心を持つにふさわしい。現在アメリカやヨーロッパの保護貿易論者
たちから日本人は批判されている。しかし、国際的な経済競争を望
まない彼ら保護貿易論者に日本人を批判する資格はない。
 ところが最近、日本とアジア諸国で起きている経済問題をとおし
て、日本の経済政策が欠点を抱えていることが明らかとなった。西
洋諸国と同じく、私有財産制と個人主体と自由市場に基礎を置く経
済体制は、健全な側面と共に、国家による資本投下の配分の統制の
行き過ぎと、アメリカ人の学者たちが「クローニー・キャピタリズ
ム」(仲間うちや人脈のつながりを重視するアジア的資本主義)と
呼んでいるものによる行き過ぎによって、今以上の発展が阻害され
ようとしている。これらの誤った政策は、通貨政策の改革が必要な
ことを示している。ただし、これらのことは、日本よりももっと他
のアジア諸国に強く言えることである。それから金融財政上の各種
サービス面での規制撤廃が必要である。日本の消費者(一般国民)
は、これまで必ずしも十分に経済成長の恩恵を受けてきたとは言い
難い。小売業の規制撤廃によって、日本の消費者は、高い生産性に
見合った生活水準を享受できるようになるだろう。しかし、それで
もなお、日本人が一世代30年もかからないで、劇的に生活水準を
向上させたことで示した日本の本当の到達度の凄さは軽視して済む
ことではない。それは、低い税率と自由貿易と法の支配に基づく公
平な社会の下で行われた真に生産的な事業活動によって達成された
のである。

ーーーー(中略9ーーーーー
 それに対して、ヨー
ロッパとアメリカ合衆国で広まっている、個人の無責任と、福祉を
受けるのは既得権であるという考え(a sense of entitlement)
と、ますます国家に依存しようとする不幸な傾向よりも、アジア人
の考え方のほうが、リバータリアンの政治哲学に適合しているので
ある。実際に、共に日本とアメリカは、現在ヨーロッパで失敗しつ
つある福祉国家理念やフランス独特の中央集権モデル(statist 
model of France)から学ぶべきである。

 リバータリアニズムは、時に、アメリカ国内においてさえも、現
実味のないラディカルな哲学だと考えられている。しかし、実際に
は、リバータリアニズムは、現代世界において最も基本的な哲学な
のである。すなわち、その内容は、自由、平等、個人の意欲、法に
よる支配、憲法によって制限される政府なのである。これらの観念
は、今やあまりにもありふれたものなので、私たちは、それらがか
つてどれほどラディカルな観念であったかをすっかり忘れてしまっ
ているのだ。私たちリバータリアンは、他のイデオロギーの支持者
たちよりも、もっと強くこのリバータリアニズムが掲げる原則が現
実の社会に適合することを知っている。しかも現代世界で、このよ
うなリバータリアンの態度を拒絶しようとする人々は、ほとんどい
ないはずなのである。

 現代世界が示しつつある傾向は、ますますリバータリアンの価値
観とピッタリである。共産主義は文字通り消滅し、国家社会主義の
信奉者も、もうほとんどいない。東ヨーロッパの各国は、所有権
(個人財産権の保障)と自由市場と法による支配を基礎とした社会
を発展させようとして目下、奮闘中である。せめて中産階級のため
の福祉国家(Welfare state)を持続しよう、という考えさえも維
持できなくなりつつあり、近い 将来、根本からの改革を迫られて
いる。先進諸国の正直な観察者たちであれば、すでにこの事態を
はっきりと理解している。進行しつつある情報革命は、個人と少人
数のグループに力を与えつつあり、中央集権的な政府の権威は徐々
に弱まりつつある。

 おそらく、このことが最も重要なことであろうが、ますますグ
ローバル化する経済において、さらに繁栄を望む国々は、中央集権
的でなく規制が撤廃された市場中心の経済モデルを採用せざるを得
ない。21世紀には、世界市場という考えを避けることはいよいよ
不可能となる。もしある国が、この考えを避けようとするならば、
その国は、国際市場と技術の発達がもたらす驚くべき経済成長から
取り残されることになる。」

 
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「グラーグ ソ連集中収容所の歴史 」アン・アプルボーム (著), 川上 洸 (翻訳) 白水社
 
 ソ連の東西南北全域にわたって散在していた労働収容所の一大ネットワークの歴史である。グラーグ(GULAG)とはもともと「収容所〔ラーゲリ〕管理総局」(Glavnoe Upravlenie Lagerei)の略称だ。ソルジェーニツインが収容所列島、イワンデニゾビッチの一日で世界にその実態を明らかにしたのはソビエト崩壊前であった。その決死の努力は、世界に大きな衝撃を与え、理想社会に遥かに遠い共産主義政権の実態を暴いた。ソ連のアフガン侵攻、それから、ペレストロイカ、グラースチノチとなり、ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンそしてドミートリー・メドヴェージェフの今日、ロシアはどう変わったのだろうか。近年、ロシア政権内部にKGB出身者が多くおり、スターリンの復権を画策しているという。歴史は繰り返すのだろうか。

 戦後、日本も、インフレだとか、食糧難、受験地獄や通勤難等いろいろあったが、平和な国にいて良かったとつくづく思う。それにしてもソビエトとは恐ろしい国だ。地獄を平気で作り、それに怯えた国民ひとりひとりが自分のことで精一杯だったのだろう。彼らは寒さに強い事がわかります。そんな国にいて平気なんだから凄い。日本のマルキストは知らん顔だ。モンスター、スターリンの存在も大きいが、これを支える官僚組織のなせる技だ。マルクス・レーニン主義と共産主義、ソ連、日本の共産党との関係をもっと説明しろ。社会保障を拡大し、大きな政府になればなるほ国家、そして官僚は肥大する。さらに悪魔が小悪魔を量産するように、国民を悪魔化しようとする。国家とは常に、ボランティアを求めている。そうした国家機構の恐怖を我々は知らない。民主主義や国民生活に国家が介入する恐怖を味わった事の無い我々は無防備だ。彼らは、ちょっとした隙をついてくる。例えばアダルト漫画の規制に東京都が走った事だ。無神経な石原知事に盲従する都職員の姿が眼に浮かぶ。確かに、ひどい漫画もある。でもこれは民主主義国家では官僚が表に出る事ではない。作家がきちんと自主規制組織を作って、これに違反した出版物は印刷会社、東販などの配給会社が本屋から閉め出せば事足りるのだ。官僚がおせっかいに、介入する裏には、民衆を支配しようとする裏技が秘められている。ツァーの支配が長く、文盲の多い国では、そうした知性は育たない。世界で一番自由で、豊かになる筈の革命後のロシアが地獄になった姿だ。歴史の通過点とするにはあまりにも大きな犠牲であり、その実態が葬り去られそうなのだ。著者の意図はそこにある。

 第二次世界大戦でソ連は2000万人が犠牲になったという。しかし、その責任は何処にあったのか。多くの犠牲者が収容所からも出ている。ドイツの侵攻に追われるように西部地区の収容所は急遽閉鎖された。その際、閉鎖時に多くを銃殺、移動中の疲労死や何も無い新しい収容所での餓死や病死なども犠牲者に含まれるだろう。また、スターリン支配は戦後8年間も、その死まで続き、グラーグはゴルバチョフの時代まで続いた。グラーグは当初は白海のソロヴェツキー(ソロフキ)群島で革命政権の秘密警察、チェカのジェルジンスキーが設置し、旧体制の貴族、地主、資本家、白軍兵士、反革命分子を収容した。さらに、トロツキストやSL、ボルシェビキなど、政権内部の権力争いに敗北した人々も送り込まれた。ところが、スターリンの大粛清のあたりから大量の収容者が囚人として送られ、また、シベリアを始め多くの収容所が建設された。何百万人もの処刑と餓死、病死、この世の地獄が作られた。
 最初は粛清のためであったが、スターリンはチェカ、GPU、OGPU、KGBと秘密警察を改組し、その度毎に長官を銃殺してきた。その理由は謎である。特に酷かったのが、エジェフである。彼は、スターリンの実直な僕として、命令に馬鹿忠実に殺しまくり、権力をほひいいままにし、多くの収容所を作った。やり過ぎの感があり、スターリンは自分の評判が落ちるのを警戒するに至って、彼を処刑、次に来たのが最も信頼されたベリアであった。今までの集大成のような人物。ベリアはスターリンの意向を受け、収容所の労働力供給源化を企画実行した。彼はグルジア系であり、スターリンは結局同郷人しか信用しなかったということだ。ベリアがフルシチョフのスターリン批判の中で、やはり処刑されている。

 「グラーグ」はポーランド出身の女性著者 アプルボームの2004年ピュリッツァー賞を授賞した大作である。当初の政治犯収容所から、ソビエト経済の労働力供給源としての強制労働収容所への変化を時代背景とともにペレストロイカでの公開資料を元に明らかにして行く。こうした、非人道的な地獄がどのように生まれ、そこにどんな人が収容され、どのように生き死んだか、ソルジェーニツイン以来の詳細な記録である。
 労働力確保の収容所となったために、グラーグの性格は変化する。あまりにも、多くの収容者が集められ、また、仕事も高度化して行くと、多くの上級技術者も確保しなければならない。例えば、木材の切り出しは外貨獲得には不可欠だったが、製材の技術は不可欠である。彼らが働いてくれなければ何も生まれない。だから、全てを消耗する収容所には出来なかったのだ。次第に、これが、シベリア開拓と産業基盤の重要な施設となっていく。しかし、その構造自体が高度情報技術や、ハイテク技術を気づいて行く上ではボトルネックになる。ポルポトもそうだが、彼らの産業構想そのものが失敗であるにも拘らず、それを隠蔽するために、官僚達がさらなる犯罪的なシステムを構築して行く様が良く描かれている。我が国のシベリア抑留もそうしたスターリン支配の中で行われた。最初の1年間で10%以上が死んだが、当時のソ連ではむしろいい方であった。彼らにしてみれば、お客さんだったのだろう。

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1. 加賀乙彦氏の作品
 加賀氏は精神医として長い間東京拘置所の医官を務めて来た。多くの終身刑死刑囚、未決囚と接し、さらに、フランスに留学して精神病院勤務を経験した。「死刑囚の記録(中公新書)」では死刑に直面したし多くの囚人が長い拘禁生活から精神を病み、また人格的に変化していることを世に問い、死刑の犯罪抑止効果や、社会的効果に対しても疑問を提示した。「宣告(上下)、永遠の都(全6巻)、ドストエフスキー(中公新書)と読もうと思っている。いずれも、結構読み応えがありそう。「不幸な国の幸福論(集英社新書)」は日本人の幸福感について分析している。氏は戦争、終戦、高度成長、バブル崩壊と停滞の10年、小泉改革と今日の低迷という時代を振り返り、日本人が何故、満ち足ないのかを説明している。秋葉原路上無差別殺人事件の青年が何故生まれたのか。オウム真理教に入るインテリ青年などの社会病理を冒頭に、日本の今日的状況を導いたものを振り返りながら、氏の人生経験と精神医としての立場から述べている。自分自身、還暦過ぎになっても、はっとさせられる指摘がちりばめられている。
 何故日本は幸福感や豊かさを感じないのかは、氏が示した数字に表れている。日本の出産手当て児童手当てなど社会的弱者へのOECD諸国上位24ヶ国で下から2番目。支払った税金と保険料のうちサービスとしてどの位国民に戻っているか社会保障還元率は最低の41%で自己責任のアメリカより10%以上低い。教育の公的支出GDP比はやはり下から2番目。自殺は毎年3万人超で3年に1度日露戦争してるのと同じ。実はこれはインチキ統計で他国は変死者を50%算入しており、実は1位のリトアニアを遥に抜くトップ。年金は現役所得比OECD平均59%に対し34%、しがない老後。医師や看護師は千人あたりは最低、ベッドあたりは更に百位以下。これが国の建設投資となると英米仏独伊カ合計より多い。米国の3倍。散々バラまいたのは棚に上げ今に債務超過が見えている。この構図が、小泉政権でも、今の民主党政権でもなかなか変わらない。しかし、貿易は黒字だ。だから、貿易黒字を続けて来たこれまでの今までの経済政策は日本の豊かさや幸せには結びつかない事なのだ。

 氏はフランスの精神病院で気がついたのだが、フランス人の患者は、自分が他人と同じようになってしまうことに恐怖感を抱く。ところが、日本人は自分が他人とは違っていることを見られていることに怯えて、対人恐怖症になる人が多い。特に、統合失調症の視線恐怖症である。農耕民族的な集団意識が強い日本人は常に他人の眼を意識し、自分と他人、世間の尺度で自分の幸福を定義しようとする。幸福という主観に客観という尺度を入れたとたんに、幸福は遠のいて行く。「日本人は自ら不幸の種まきをし、幸福に背を向ける国民性を有しているのではないか」

2.構成
 加賀乙彦著「不幸な国の幸福論」は4つの章で構成されている。
 第1章「幸福を阻む考え方」で現在の日本で起きている不幸な出来事について、日本人特有の原因があることを取り上げている。社会の変化が個人の人生観にどう関わり影響を与えて来たかについては第2章「不幸増幅装置日本」として論じている。わが国の社会が人々の幸福とは別の方向に進んできたか、主として政策や経済の影響についてである。第3章「幸福はしなやかな生き方に宿る」として生き甲斐を見出す方法とは何か、を若者に向けて述べ、第4章「幸せに生きるための老いと死」について、自分自身の体験に基づいた助言を展開している。後半は二章で語った病んだ日本社会に生きるための処方箋である。
 人間の幸不幸という価値観と日本という特殊な前提条件を語りつくすのは困難な作業だ。そもそも、幸福感というのは極めて主観的な表現だからだ。しかし、加賀氏はこの問題に精神医学の観点から取り組み、何がそうした心の世界をもたらすかを語る。
 加賀乙彦氏が日本を不幸な国という理由は何か。日本は政治の混乱や行政の停滞といった問題はあるものの、戦争は65年の間無かったし、交通事故や殺人なども少ない、安全な社会だと思われる。世界に誇るべき憲法もある。しかし、世界でも自殺者は最も多く、秋葉原無差別殺人など、近年異常な出来事もあり、特に未来を背負うべき若い人が必ずしも幸せとは言えない状況にある事に警鐘を鳴らしている。また、自殺者の多くが老人であることも特徴である。どんな時代にも、どこの社会にも幸不幸は様々な形で存在している。加賀乙彦氏は58歳でカトリックの洗礼を受けたクリスチャンである。クリスチャンは人間を罪深い存在として観察するが、そこからキリストによって希望を与えられたという恵みに生きる事こそ魂の平安と幸福への道であると信じる。しかし、彼は敢えてこの事には触れずに、彼らしい分析と実例によってこの社会における幸福な社会と人生についてのヒントを語る。

3.社会環境と人々の精神状況
 加賀さんは日本人のものの考え方の中にある、自らを不幸にしてしまう傾向を説明している。非正規労働者を使い捨てにする雇用状況や、負け組、勝ち組をあおる世の中の風潮が、秋葉原事件を生んだと言える。しかし、加賀氏は、その青年を追い込んだのは彼自身であるという。彼は次のように述べております。「実際よりも、自分は不細工、生まれながらにして負け組と決めつけた。幸せになりたいと人一倍強く願うのに、もがけばもがく程逆に幸福から遠ざかっていく。だからといって、犯罪までに至ってしまうケースは滅多にありませんが、心を病んだり、自殺願望を抱く人が何と多いことか・・・自分で自分を不幸にしている人たちがいかに多いことか」。今わたくし達の周りには「勝ち組・負け組」「モテ・非モテ」「セレブ」など人間をランク分けする言葉が満ちあふれ、始めは嫌な言葉だと思っても、次第に市民権を得、ごく当たり前の言葉になってしまう。私達は収入や社会的地位、学歴、偏差値など人を見た目ではかるマイナスのレッテルが氾濫した日本人の価値体系に深く捕われている。このことが、我々が自分や他人を思い、深く愛する気持ちを損なっている。この20年間の日本の変化によって、日本人の心がどう変化したかを、様々なケースを示し、説明している。
 経済と政治、福祉や医療についてもこの問題は結びつく。セーフティネットをなおざりにして産業を優先させた日本のつけが、様々な不幸の種となる。しかし、今日の産業社会の行き詰まりという難問に関しては敢えて避けて、個人における不幸を幸福に変える技術という形で考え方の転換を提案している。少子高齢化社会において最も問題の原因となるのが高齢者とそれを支える若者世代だ。今日の日本に不幸をもたらしている問題を指摘する。どんな時代においても、また、いかなる社会や国においても人々は幸せを見出そうとするし、やむなく不幸な状況にも陥る。しかし、不況による失業や病気が多くの人々の不幸を招き、精神を病み、自殺の原因ともなることへの相関性は強い。心の持ち方や日々の生活の仕方で解決できるなら簡単だが、そうはならない。ところが、豊さは必ずしも幸せを保証しない。加賀氏は豊かさが還元されていないという。この本では政治経済の混乱が招いている日本の構造的課題と現実を指摘するにとどめ、これからの政治が進むべき方向を示すが、先は精神医学者である加賀氏はその個人レベルでの処方箋を書いたといえる。
 確かに、国際主義的には世界を見据えて、共通点を求めた対話が求められる。その一方では国家や民族、地理的位置づけによる特殊性を同時に考えなければならない。アフリカの事情と日本とは前提条件が違いすぎる。先進国が達成した課題は南北問題になる。どのような前提をもとに考えるかである。今の日本においては成長経済から持続的経済への移行が目標である。いつまでも資源を消費し環境負荷をもたらす経済成長では未来がもたない。にもかかわらず、成長というと相変わらず箱ものや、輸出中心、自分たちのコミュニティーへの利益誘導を思う人が多い。公共の福祉、人間の幸せは利己心の追求のみによっては達成出来ないからだ。貿易黒字が日本人の豊さを必ずしももたらさなかったことは我々自身学習すべきことである。

4.心の持ち方
 禍福は糾える縄のごとし。人間万事塞翁が馬というのが長い人生を経た人の結論であろうか。 人の役に立ち喜ばれることで得られる喜びはとりわけ深い充実感を私たちにもたらしてくれる。愛の概念である。加賀氏のクリスチャンらしい見方がここに示されている。人間には自分がこの世界に存在していることに意味や価値を見いだしたいという欲求がある。神のご計画中にある愛を知るのは喜びである。まず自分から心を開くということも大切だ。世の中には嫌な相手もいる。しかし、そこで心を閉ざしてしまったら、そこでお終いである。隣人を愛しなさいとは言われても隣人ほど面倒くさい、あるいはむかつく相手はいない。年を取るとこういう事が分かるようになるかというと必ずしもそうではない。近年、キレる老人が増加していることを加賀氏は指摘する。暴走老人 :07年傷害暴行で検挙された老人2946人十年前の8.8倍、年を取ると脳血管障害で感情をコントロールする能力が低下する。老いを受け入れるという事が大切だという。生きがいを高める方法として加賀さんは初めての事に挑戦する事を進める。老人力という言葉もあった。赤瀬川源平が提唱していた。ゆっくり、待つ豊さ。これも高齢者特有。加賀さんが東京拘置所で出会った死刑囚に見える世界だ。死を意識すると時間の密度が上がる。結論は全ての生、全ての死に意味があるという事。
 一つは今の若者に向けて、もう一つはこれから人生の終末を迎える高齢者に対してである。加賀氏は東京拘置所の精神医官の経験から死刑囚と向かい合って、この世界のどん底を見てきた。又、多くの精神を病んだ人を診断しその病理が社会と関わりが深くある事も認識された。日本社会の特有な仕組みや考え方が、いかに人々の不幸に作用しているかを看破する。経済成長がなければ福祉は実現出来ない。福祉に金を使うと、バラまきだと決めてかかる。成長とは何か、誰の為の福祉か?福祉とはいかなる目的を達成し、幸せをもたらすものは何か、を語らずに政策も実行される。福祉とは施設を作れば良いのか。人間の心の世界を忘れた議論が多い。加賀氏は彼なりに結論を出している。幸せになる為の法則である。

5.不幸を招く考え方を転換する
 「幸福を定義しようとしてはいけない。幸福について誰かがした定義をそのまま鵜呑みにしてはいけない。」「幸福とはこういうものだと考えたとたん、その定義と自分の状態とを引き、何らかのマイナス見つけ出してしまう傾向が私達人間にはある」という。社会科学的な統計や説明は政策決定の資料にはなるが、個々人の救われない気持ちを癒すことも説明することも出来ない。加賀さんはあくまでも精神科医として悩みをもつ個人に向かい合っている。死において、また、我々が運命に翻弄され、また、艱難の中にあるとき、最も恐れる事は、我々が罪の中にあるということである。加賀乙彦氏が死刑囚と交流したときに、最も彼らがつらいのは、罪の中にあって死を迎えなければならないということであったいう。これ以上の人生の屈辱はないというのである。イエスキリストに思いを寄せるならば、その愛として罪から我々を開放してくださったイエスキリストが私達と共にあることを感じ、どんな権威も、高いものも低いものも、我々を引き離す事はできないとパウロはローマ人への手紙8章で語っている。教会員一人一人に対して我々が苦しみを互いに担う力があるのか。共に福音に預かり、主を賛美する群として、何処まで互いにかかわり合うのか。主の導きの恵みを共にしながら教会生活をどのように送ることが出来るか。結構難しい問題だ。                
                                         (完)

 

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 鳩山首相が宇宙人と言われる理由がだんだん明らかになって来た。政治資金もんだいなど、我々とは随分感覚が違うなあという印象があったが、これを宇宙人と言う言葉にすり替えたのは政治家のレトリックだ。結論から言えば、我々は、とんでもない思い違いをしているのかもしれない。彼が、何故、素っ頓狂な社民党と手を組んで離さないのか。単なる過半数確保のためばかりではないということです。社民党とは思想が近くそれは何かだ。

 彼が、「友愛」という言葉を使ったのは、単なる言葉の遊びではない。彼の祖父、鳩山一郎氏はフリーメイソンのメンバーだった。誰かに勧められてお遊びのつもりで入った訳ではない。フリーメイソンというのは秘密結社ではない。一種のクラブだ。しかし、そこには、国の権力とは別の動きをするから、超国家主義のドイツや、天皇制国家戦前の日本ではいかがわしい、黒幕的な不当な扱いを受けて来た。秘密結社だったのは18世紀のことである。今は、単なる慈善団体にすぎない。ドイツでは革命勢力にもなったし、フランス革命やアメリカ独立戦争の隠密行動の隠れ蓑になった。鳩山首相はこの影響を受け、また、さらに、行動の仕方はあたかも、18世紀の革命的フリーメイソンのようにも見える。これは一種のアナーキズムで、当時のドイツでも相当に迫害され、一説によると、モーツァルトはそれで暗殺されたという。彼の税金無視の行動、更には普天間問題、そして昨年の選挙での革命発言などで、自分はそう結論づけてみたい。東アジア共同体構想に飛びついたのもそこに原点がある。

 アナーキストというのはそれだけを見ると危険思想では無い。一種のリベラリズムだ。しかし、その特徴は、実務家からは無責任とも見えるユートピアを目標としている事だ。これも悪いことではない。困るのは、方法論が飛んでいるのだ。アナーキズムは自由な個人の追求であり、国家を始めとする人間を支配する権力の否定である。それに対して、自然な、神から与えられた本性にある、善なるものによって幸福な社会を連帯して築こうとする。非常に立派な思想である。ところが、権力の否定という面から、かつて、多くのテロリストが生まれ、社会を震撼させた。国家とか、市場、貨幣といった人間が社会を便利にする事が出来る反面、拘束する。そのようなものに対して否定的である。社会に変化を求めるが、その目標を言う時に、全て方法や実行のための機能的な仕組みを提示しなければならないという事は無いとするのだ。だから、鳩山首相の提案には方法論が無い。彼は、原則とか、目的を明らかにして、そこから、方法を検討、協議する中から道が見えてくるという考えを持っている。これこそアナーキストの手法なのだ。でも、残念ながら、この考えが成立するのは革命の混乱期や新しい思想がビッグバンのように生まれた時に初めて機能することであって、社会基盤が固まっている社会では、邪魔以外の何者でもない。だから、アナーキストは常に権力側から迫害される。しかし、今やネットの世界はアナーキズムが横行している。
 ところが、彼が今首相の座にいるということが、問題を複雑にしている。本来、政治家には権力を調整する機能が求められるが、彼にはそれが出来る訳が無いのだ。彼が「いい人」というのは権力を振るわないからだ。権力を振う政治機能は小沢に任せている。だから、立ち上がれ日本とか、権力亡者のような連中からは「危機感」をもたれるのだ。彼らは、小沢の代わりを務めたい。石原は、更に狡くて、権力亡者「たち上がれ日本」を牛耳りたいのだ。

 首相にしてはいけない人が首相になっているという事である。昨年の選挙で多くの人が投票し、政党政治のためにそこから何だか分らない名門出の首相が選ばれてしまったが、彼がずるいのは、自分の本質的な信条をごまかしているところにある。要は、アナーキストでは首相になれる訳が無い。それをごまかす、いいとこ取りのために、宇宙人というレトリックがあるのだ。国民は全く騙されている。一アナーキストが、その思想信条に反して、権力の座に納まってしまったところに、今日の混迷があるのです。もし、それが鳩山首相の狙いなら、これは世界史に残るアナーキストの勝利ということになり、天皇も無視、日本は解体する。
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介護保険について現金給付はあり得るか
 
 要介護者を抱えた人物のぼやきととってもらってもよい。国民経済における影響を分析するまで論陣を張るような知識は無い。そこまで言わなければ国民としての要求をするなという事でもないだろう。でも、現金給付は万能ではないが、大事なポイントだと思っている。福祉には現金給付は結構ある。失業給付金とか、障害年金(審査が厳しい)、住宅改修補助金、自治体の障害者給付金、給食費補助、お襁褓補助なんかもそう。でも、申告しなければ出ない。しかも、使いづらい。自治体の福祉課等の職員はこうした給付制度を実は説明できるほどは、ほとんどの職員が知らない。それはいかに使われないかだ。選挙対策で打ち上げたが、結局使われないものもある。例えば、中野区では低所得者(中野区では区民税144,000円以下だから、ハードルは低い)には訪問給食代550円以上が補助されるが、高齢者でそんなに昼飯は食べないし、供給業者の単価もこんなに高い昼食代の業者は無い。
 手続きも面倒なものが多い。小生はその辺抜け目無いように活用しているつもりだ。現金給付は、目的と範囲、アセスメントをきちんとしなければ、まさにバラマキだ。
「老人介護」に望まれる「要求項目(ニーズ)」は、「質も量も千差万別」だから、統制的な内容では目的を達成しにくい。これを管理する社会的コスト(ケアマネ、地域支援センター、自治体職員の養成)もあり、細かくすればする程限界コストが上昇するだろう。「公的介護保険制度」は、財務的な裏づけは「自己負担+介護保険+税金投入」の「財源のマダラ模様」であることは健康の自己管理や在宅療養も含め、健康保険も同様である。
 「ヨメを介護から解放する!」ことを目標とした「介護の社会化(第三者の関与・分担)」にしても「現場の介護の担い手」も家族と介護事業者の「現場の担い手のマダラ模様」(中途半端な社会化)であるが、福祉はさらに立体的にしてほしい。ヨメの介護や家事を金銭換算した分析とか、費用化もせずに、これまでの地域介護のコストで算定しただけではないのだろうか。教えて頂きたいし、反論を期待する。

 医療と介護の交流、競争、ヘルパーの人材確保、国際化、ボランティアの養成など。問題点が揃っている。制度的な面で現物給付だけでは対応できないという事である。現在でも、住宅改造は現金給付である。  顧客満足度に優先する財務当局からの支出抑制圧力が恒常的にある。このことを今日の介護保険制度の中で、当然の事にしてしまうのは良くない。福祉だけではなく国家全体の問題だから他の財源との優先順位の検討が必要だ。確かに、発足当初の2倍の財政支出となっていることは異常な事だろうか。これからもっと増えて行く。それに見合う税収が無い事や他にいい加減な支出があることが問題なので、高齢者福祉の社会的コストは合理的現実だろう。「公的資金投入」はサービスの「標準化マニュアルに基づくゲートキーパーによる恣意による裁定」という「ニーズの足切り」をせざるを得ない。不可避的な「選択可能なサービスのメニューと提供レベルのマダラ模様」ではなく、需給ギャップやニーズとの差にすぎない。だから、制度発足してから10年経った時点でのアセスメントをして初めて議論すべき事ではないか。様々なニーズを受給者が勝手に要求することで合成の誤謬になることを想像する人もいるが、現物給付でも今のようにケチケチ給付ではそんな事になる以前の段階だ。合成の誤謬がおきたらすぐにでも訂正できる事ではないか。

 ドイツの制度は日本が参考にしたが、現金給付に関しては日本は全く論外の扱いだった。ドイツの福祉はビスマルクの社会政策の基盤が今も残っており、福祉施設の量とか都市等の社会資本のレベルが日本とは違う。03年に小生がベルリンで見学したが質的には日本と良く似ていて大した事ない感じがした。むしろチェコやウィーンの方がよかった。だから、ドイツは、家族介護を軸とするように転換したいというお国の事情もある。
「ドイツの5つの失敗」という現象を経験したがその背景をもっと見るべきだろう。(多かれ少なかれ日本の「現物支給方式」でも起こっている項目でもあるが。)
1.実態にあわない低すぎる給付額という指摘
 施設介護と家庭介護の比率が日本とは違う。日本は圧倒的に家庭の主婦にや家族に負担がかかっ ている。ドイツは被介護者の幸せは何かという国民的コンセンサスから家庭介護を優遇する事に した。低すぎるかどうかは日本では分らない。誰でも充分とは言わないだろう。
2.軽い介護の人を対象外にする
 日本では、財務省からの圧力から、要介護認定をひごろ関わりのない役所側のケアマネが介護保 険で認められる介護を限定する。要介護者との癒着を避けるためだろうが、官というのはこんなところに良く気がつく。自分達が癒着の温床だからだろう。
3.過酷な要介護認定
 日本の基準から見て過酷というのは、認定するケアマネや福職員の権限が強く、また、給付した 現金に対するチェックも厳しいからそうした評判になる。
4.現金給付が引き起こすモラルハザード
 ドイツ人は巧妙なモラルハザードを考えるから油断も隙もできない。陰険な連中もいる。
 しかし、ナチス時代から、地域の監視が厳しく、お節介とやっかみも露骨にある。窓辺が汚いと隣が文句を言ってくる。供給側も健康保険等わざと高齢者が来ないように受付を階段の無いビルの3階に置いたりするから、どっちもどっち。「介護給付が家族の生活費などに使われている」、「老人が家にいると現金が入るので施設には入れないといったことは、そもそもの現金給付とは裏腹だから予測の付く事。
「ドイツの介護保険は、全国に現金をばらまく壮大な『お手当て配り制度』になってしまった」、が、現金給付は現物給付の額の半分であるため、十分な介護をする余裕はなく、『殴る、蹴る、縛る、介護放棄する』という家庭内の老人虐待の温床になった」といった批判は、そもそも、昔からあった。今の日本でも痴呆高齢者のケースが多いが解決されていない問題。(結局、後追いの保険料値上げ、公的支出の増大で糊塗して行くことになるという指摘については、これが解決できれば完璧に近い。)
5.スゥエーデン
「高負担高福祉」のモデルであり、「介護の高度な社会化」を目差したスウェーデンはどうだったろうか。約925万人というコンパクトな人口を言い出したら問題が道州制まで拡散する。1992年に導入された「エーデル革命」が大失敗だったかは今の結論であって、制度が無駄とは言っていない。制度は18年もすれば問題が出てくる。彼らもそれに気づいて改革しようとしている。発足当時、医療との連携が旨く行かず、制度の谷間のなかで、施設が減少し、人不足や老人の孤独死が問題になった。しかし、今なお介護サービスのきめ細かさとか、額の大きさは飛び抜けている。次元が違う。
 
 しかし、モラルハザードは個人主義的な社会ではいつも起きる事だし、日本だって起きている。逆にこれが起きるくらい普及しなければ意味が無い。スゥエーデンはフィンランドも含め、以前国民の高負担が市場主義者の攻撃の的だったが今や、こうした負担を抱えながら、国民の幸福度、経済成長、世界政治への影響も含め、世界でトップクラスだから日本は何も文句をつける資格は無い。教育も含め、日本がスウェーデンに学ぶことは多い。「現役世代の税金の高負担」という原則が国民的コンセンサスを得ているのは何故かだ。日本では無理なのか、目標として旨くいっているところをモデルにするのを人口だけを比較して嘲笑する人がいる。人口約925万人程度という「大東京圏人口」の1/3以下という「国のコンパクトさ」の差が効率的なら、道州制も含め、行政、福祉に関しては広域的に考える必要があるという意味で答えが出ているということでしょう。
 福祉が市場経済になじまないのか。それは介護保険上の福祉だけを見ているからではないか。福祉を受ける、家族も含めた人々の消費力とか、医療産業、健康産業、福祉機器製造業といった部分も入れて経済効果も考えたい。しかし、基礎資料が無いから結論が出ない。現物給付というサービスの供給制限をしておきながら企業に「やる気」を出せというのは無理だ。車いすに参入するメーカーだって保護されていて自由ではない。なんだかんだと規制が多いみたいだ。国内産業の保護もこれまで日本の介護事業に協力してくれた(というのは官僚に対してだが)日本の弱小メーカーを保護して上げたいのだろう。とにかく、外国製品はちょっとデザインや性能がいいと日本製の3倍くらいになってしまう。外国のメーカーは国内ではそんな価格で供給していないから首を傾げる。そんな状態の中で「企業としての動機(収益機会への期待)がない中では、リスクテーク(資源の投資)は行われず、結果としてデマンド側にとっての選択肢も増えない」 ということを先に結論を出す段階では無いだろうと思う。医療だって情報の非対称とか、保険、税の投入といった不確定要因から、市場が成立しないから、経済学になじまない部分はあるが、製薬業や医療産業全体確実に成長産業ではないか。医療は死にそうな人間を財政負担を理由に治療中止にする訳にはいかない。しかし、介護は出来るだけサービスをきちんと定義すれば予測可能だ。医療とはそこが違う。

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 新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」は我が国初のシネマスコープ作品であり大ヒットした。東映も日露戦争では「203高地(1980年)」「日本海大海戦(1969年)」と製作し、いずれも大ヒットしている。いまだにこの時の記録を日本映画は乗り越えていないのではないか。そこでは乃木将軍は司馬作品のような無能な将軍としては描かれていない。さすがに映画では日本人の心情に反した姿は描けない。多分、当時の日本兵の気持ちをあれだけ鼓舞した乃木将軍の力というもを否定するわけにはいかないのだ。いずれの映画も威力を発揮する機関銃に対して、悲痛な覚悟で正面攻撃で肉薄する日本軍の兵士とそれを苦しみながら実行する乃木将軍を描いている。いずれも戦争礼賛ではなく、祖先の偉大な姿と悲劇を描いている。
 203高地における日本兵を待ち構えていたのは、当時の最新兵器、水冷式マキシム機関銃だ。一分間に500発という高性能と、軽量化を誇る武器をロシア軍は巧みに運用した。クリミア戦争(1853年〜56年)露土戦争(1877年 - 1878年)と要塞戦には実戦経験豊富で、特にセバストポリ要塞での攻防戦ではフランス軍は1年を要した。陣地構築をロシアは最も得意とされた。これに対して、旅順攻撃は極めて効率よく攻略できた。誤解が多いのは、日本軍が機関銃を見た事が無かったかのようなシーンがあるが、当時日本軍もこれを持っていた。しかし、効果的な運用戦術を持っていなかった。
 映画ではその威力を知らない日本軍が、無益な正面攻撃に屍を重ねて行く姿が、太平洋戦争の玉砕突撃のように描かれている。しかし、実際は第1回総攻撃のときから、塹壕の掘削により肉薄する方法と突撃とを組み合わせて工夫している。また、ロシア軍はコンクリート陣地のトーチカから機銃を狙い撃ちする姿ばかりが描かれているが、かれらはもっと巧みに機関銃を使用している。機関銃は正面からの攻撃には実は弱い。遮蔽物があれば肉薄できる。機関銃の最も効果が出るのは十字放火である。2方向から相手の防御できない2方向の位置から撃つのである。そのために、正面に敵を惹き付け、横や後から撃ちまくると、やられた方はパニック状態になる。ロシア軍は軽量なマキシム機関銃を縦横に移動させながら、その位置を悟られないように使った。正面陣地はその罠で、大抵、そこを見晴らせる位置にトンネルを掘って、正面からの伏せどころなどに照準をあらかじめ合わせ、狙い撃ちにしたのだ。また、至る所に土嚢で陣地を作って、機銃は日本軍の動きに応じて移動しながら使った。だから、前線の兵士は機銃陣地の発見を命がけで行った。乃木将軍もこれに気がつき、攻撃前の斥候活動を重視した。また、第三次総攻撃では攻城戦の常道である坑道掘削で敵陣爆破を成功させている。小生の友人の祖父は機銃陣地発見の功績で、乃木将軍から感状と金鶏勲章を受けた。日本軍は最初そのことがわからずに、突撃前の砲撃で攻撃先を叩くことを丁寧に、教科書どおり行ったため、攻めて来る方向を察知され、敵将コンドラチェンコ中将に日本の将官は馬鹿にされていた。ロシア軍はその事前の日本軍の動きに合わせて携帯に便利なマキシム機銃を運用していた。
 映画203高地では土嚢を積んだ陣地への突撃も行っていたから、当時の監督も知っていたのだろう。しかし、映画はそんな説明を表現上しにくいし、全体の流れから正面攻撃の悲惨さを中心にしたのだろう。
 

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