<   2010年 02月 ( 29 )   > この月の画像一覧

 ドーキンスはネオダーウィニズムの旗手で、渡辺久義京大名誉教授の非難の的になっている。
小生は渡辺氏のレポート読んでみたが、宇宙の統一原理という言葉が変だなと思った。調べると、何と、統一教会の広告塔になりつつあるみたい。インテリジェントデザイン(ID)というのはあのような連中に利用される、変な考え方。聖書世界や教会とは無関係と考えたい。しかし、セントラルドグマの仕組は、分れば分る程、複雑で、ドーキンスの説明では合点が行かない。二重螺旋構造を見つけた、ご当人、クリックも、30億年では無理と決めつけ、これは宇宙から飛んで来たとしか考えられないと言っている。

 インテジェントデザイン(ID)の主張内容が分かった。正直なところ共感する事多い。しかし科学認識は変。渡辺久義というオッサンも疲れる人だな。ドーキンスが嫌いなんだな。あんな唯物論にぐらつく程教会はヤワじゃないからご安心ください。小生は繰り返して言うがIDでもEDでもない。ただのキリスト教徒です。宇宙を人間用にデザインしたなんて詳しく聖書に書いてない。聖書は科学の本じゃないっての。創世記も矛盾だらけだが真理はあのように伝わる。まあ一部共感する向きはある。特に日本の教科書やNHKの無神経さなんかだ。ダーウィンは今勉強中だから何とも?個体発生は系統発生を繰り返すと説いたヘッケルが悪者らしい。確かにダーウィンの毒性が彼になって高まった。ナチスの理論を裏で支えた彼の理論は、グールドによって否定され、今日ではこれを主張する人はいない。しかし、近年、遺伝子の様々な発見で、ホメオティック遺伝子の役割から、この理論が息を吹き返す可能性は無いとは言えない。また、発生学の歴史上で彼がサンプルを捏造したインチキで名声は傷ついたが彼の功績は無視できない。渡辺先生は自分の都合良いところだけを使って、持論を展開している。
 
 渡辺先生すっかりIDにはまったみたいだ。小生は「種の起源」とレビーストロースの「悲しき熱帯」読んで見る。構造主義やフーコーの方が面白い。ドーキンスもそうだが他人の思想信条にケチをつけるとろくなことにならない。渡辺氏は哲学は詳しいが科学者じゃない。ラーメン好きにフレンチの方が美味いと言っても無駄。彼はキリスト教でもないみたい。ID論者でしょ。聖書の間違った解釈や曲解には反論すべきだが。
 
 「ダーウィンと家族の絆」読んで気になるのは、ダーウィンと奥さんって写真見ると気品を感じない。ただの雑貨屋とか食器屋夫婦。あれがジェントりーか?10人も子作りに励んだ、生産的な勤勉な一族か?晩年のダーウィンの髭面も偏屈な老人か金貸し風。幸せな感じしない。またアニー以外の子供が皆悪ガキ風で雰囲気が可愛くない。やたら動植物観察ばかりして人に無関心な偏屈爺の風貌。やたら子供の多い不思議な金持ち一家で近所じゃ有名だったろ。進化論も書いた時の意図とその影響は違っている。無神論者の毒性が受け継いだ後高まったか、ウィルスが感染を重ね致死性を高めるようなもの。

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キムヨナ金、浅田真央銀というのは正面から受け止めなければならない。真央ちゃんは一番分っている。偉い!19才にしてこの自覚。大気の器だ。キムヨナは全てをそつなくこなした。しかし、これは演芸ではないのだ。アイスショーならいいが、スポーツの目標はチャレンジだ。そこを評価しなかったボンクラ審査員の見識を疑う。まだまだ伸びる。あの長州未来のアメリカンジャパニーズ風とも違う。長州未来は次の強敵だが、16才の時の浅田真央より劣る。もし、あのときオリンピックに出ていれば浅田はメダルを取っている。浅田は大和撫子の素晴らしさを世界に見せてくれた。まるで、ひな人形が十二単を脱ぎ捨て、フィギュアの衣装を着て飛び出して来たような驚きを感じる。かわユーイ! 日本はあれで良いのだ。品がいい。ユンソナの韓流キャパクラ風に惑わされてハイポイントとは情けない。
鳩山の恥知らずな Trust me!とか、トヨタぼんぼん社長の涙の記者会見とは訳が違う。見習ってはどうだ。真剣さだ、そこには真実がある。真央チャンはきっと次のチャレンジを狙うだろう。4回転かもしれない。まだまだ、日本の若者の☆だ。名コーチ、タラソワはこの弟子の未来を感じてあの難曲を与えた。タラソワの凄いのは、弟子の才能の限界を見ているところだ。多分、もし彼女の弟子でもキムヨナには与えなかっただろう。タラソワに取っては過去にキングメーカとしての自信もあり、そんなことよりも大きな理想を持って指導に当たっている事を評価したい。もしここで、イージーな曲で金を取れば、もう後は無くなるのだ。さらなる進化を真央チャンに期待して拍手!拍手!
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ダーウィンと家族の絆
ランドル ケインズ (著), Randal Keynes (原著), 渡辺 政隆 (翻訳), 松下 展子 (翻訳)

1.種の進化の謎

 進化はどのように行われるのか、分ったようで分っていないといいたい。未だに謎だが、近年のゲノム解析でドーキンスなどはこれに飛びつき新しい局面に入って来たように見える。個体変化はかなり説明できる。しかし、これは品種交配でも行われて来たことだ。ダーウィンと変わらないのではないか。種の変化はもっと大きな出来事だと思う。個体変化→種の変化というのは自分は永遠に解明されないと思っている。まさに神の領域なのだ。日本の文化勲章受章者、木村資正の研究では遺伝子のゆらぎ理論、中立説が世界的に大きく貢献した。生物の進化に遺伝子がどのように関わっているかはその中心的研究ターゲットである。彼の説は600万年前にチンパンジーと共通の祖先から分化したというのが基礎になって地質学、化石学などから出発しているし、進化論が正しいという大前提がある。セントラルドグマは、物理学や化学的解析によって不動の理論的地位を得てきた。高校の生物学教科書でも説明されている。こんなことが生体の中で行われてるとは全く宇宙的な出来事だ。神の存在と生命の設計図を思わせてくれる。人間がゲノムによって全て支配されているかどうか、人間の進化がこの部分を基盤としているという説が支持されている。分子生物学はセントラルドグマで成立した。たんぱく質を構成するアミノ酸が20種類なのは何故か。すでにこうした構造があるではないか。これは神が定めたのだ。しかし、仕組みが何故動くのか、どのような作用が働くのか、謎は深まるばかりだ。セントラルドグマは結果であって、原因ではないようなのだ。そうした機能をもたらす「構造」が全く明らかになっていない。また、たんぱく質が発生において「場」が違うと形が変わる。人間が、様々な環境変化、飢餓、気候、ウィルス、血族結婚、異種交配などによってゲノムに影響が加わるプロセスがよくわからない。生体の変異を、どこかが信号を送り、ゲノムに伝え、様々な変化が起きる。さらにゲノムとは無関係に形質変化もあるのだ。木村資正氏の中間説によると32億のゲノム情報において2年に1度くらいそのようなことが起きており、ほとんどは機能せずに中立的に残る。ゲノムの中で適者生存が行われ、優位に立った遺伝子が残る。しかし、そうした変化をゲノムの変化にまで至らせるプロセスで何が指令をだしているのか。この出来事が種の変異まで起こすのかは謎だらけだ。ミトコンドリアとの関係、さらに糖鎖がどう働くのか。それに対してセントラルドグマの部分は物理学と化学的分析で明快な答えが出るからどんどん研究が進み、評価もされる。細胞がまるで機械であるかのように工学的に解析するのがはやりだ。生物をビジネスにしようという魂胆が働いているからだ。ところが、細胞の働きの構造的な関連性がはっきりしていない。遺伝子を使った突出した様々な試みが月面着陸のように行われ、実は周辺の大切な構造がなおざりにされ、多分大きなトラブルを起こすだろう。ますます分らなくなっているのだ。このことは、分子生物学だけではなく、科学史的な全体を見る力も必要だ。

2.ダーウィンの生活と理論

「ダーウイン家族の絆」を読んでいると、昔のジェントリー階層の生活が垣間見える。何と、これは今の皇室の生活に似ている。乳母がいて、下女、執事、家庭教師、毎日がお散歩にはじまり、慈善活動とか、クリケット、まあ、理想とする定年生活みたいなものもある。天皇家が生物学の研究を生活の一部にしている理由は何かな、昭和天皇は確か、海ウシに取り組んでいたし、今上天皇はハゼ、秋篠宮のナマズとか。分類学、博物学は全く論争のない学問らしい。皆が仲良くなる学問で、皇室向きなんだそうだ。ダーウインも何故人間が争うのか、生物界には目を覆いたくなるような残酷な結果があるのか、神に慈悲は無いのかを真剣に考えた結果、種の起源を書いた。彼にはもう結論は出ていた。だから、科学的には曖昧な部分が残り、さらに次の理論を発展させるきっかけを与えている。彼は進化が世界の原理だと思ったのだ。ダーウィンは生物が皆同じルーツを持ち、何故このように多くの種が地球上に存在するのかを解いた。彼は、フジツボの分類研究に7年も費している。種の分化が自然淘汰だけで説明しきれるものではなかった。突然変異が何故生まれるのか、何故、ラマルクの要不要説が間違いなのか。さらに、病気の原因が細菌やウィルスによって起きる事はパスツール以降に分った事だ。病気は水で治った時代。今でも分らないプラセーボ効果。その後数十年後でも野口英世はウィルスを知らなかった。キリスト教徒としては困った人だが、彼が反発したのは国教だし、旧約聖書だ。キリストの愛に敬虔な気持ちを持つユニテリアン(アリウス派に近い)の妻とは最後まで妥協しなかったが、根底にはつながるものを感じる。ユニテリアンというのは実に寛大な教派で、神とキリスト、霊の三位一体には同意しない。しかし、キリストを博愛の原点と見て教会や礼拝はきちんとしているのである。日本人には取っ付きが良い考え方で、かつて森有礼などはその考えを導入しようとした。ダーウインは人間だけが特別ではないことを主張した。当時の社会は人間を神の代理人として全ての生物の頂点においた階級社会、奴隷もいたし、子供や動物を酷使した。彼はそこに宗教への反発を感じた。我々はみな祖先を同じくする仲間なのだというヒューマンな思想が根底にある。とはいえ、個体と種をまたがる進化は未だに解明されていない。人間が生命のメカニズムを全て解明できると考えるのは、必ずやその反作用で手痛いしっぺ返しを受けるだろう。

3.家族と理論

 ダーウインの妻の実家はあの陶器で有名なウェッジウッド社であった。医師の家庭に生まれ、ケンブリッジ大学神学部に学んだ。しかし、彼自身は信仰的な人ではなかった。何不自由無い、ブルジョワの生活で、名家の妻を得、10人の子供に恵まれて、食うには困らない生活であった。しかし、彼は最愛の長女を結核で失った。又、ダーウィン自身もあまり健康な身体の持ち主ではなく、床に伏す日々が多かった。生物学的な意味での、適者生存の道から遠い自分の身体には晩年まで悩み続けた。かれは神学部で学んだ経験から、神に祈ったり、礼拝することは、若い頃は日常茶飯事だった。娘の病いに苦しむ姿を見て、彼は必死に祈り続けたという。無情にも神は答えなかった。12才で長女は天に召された。どれだけ彼は苦しんだだろうか。娘を苦しめるのは罪か、神の慈悲はどこにあるのかと。彼に対して妻は信仰深い方だったという。
 一旦生物界を見てみると、残酷な現実が満ちあふれている。蜂に生きながら卵を産みつけられ、孵化した蜂の幼虫に食い尽くされる芋虫。産業革命に翻弄され、貧民街で飢えやアルコール中毒に苦しむ労働者、廃棄物や煤で汚れた無機質な街の存在、神が創造主であるとすれば、どうしてこのような苦渋に満ちた世界を造りたもうたのか。社会の厳しさと健康に苦しむ彼自身も神への不信感を高めた。そこでビーグル号で訪れたガラパゴス諸島はまさに工業地帯のイングランドのように殺風景だった。
 生命がより良く生き抜くには自然界から学ぶものは何か、という彼の問いがあった筈である。さらに生命は何処から来てどこに行くのか。彼は娘の死への悲しみから、ある答えを得た。それは神の支配も、罪の戒めも自然には存在しないということだ。

ダーウィンとその家族を描いた映画 クリエーション が公開される。アメリカでは進化論反対論者が多く、公開が躊躇われていた。原作「ダーウィンと家族の絆」の著者 ランダル・ケインズはダーウィンの曾曾孫である。子孫の一人が書いた小説として興味深い。

 アニーの死がここまでキーポイントとなったかどうかには異議を唱える声もあるが、一番注目すべきなのは、このストーリーが、ダーウィンの子孫という、プライベートな情報まで把握することができる人間によって描かれた家族の物語だということだ。保守的で内気だったとされるダーウィンは、もともと信仰心に厚いわけではなかった。医師として成功した父を敬愛していた彼は、同じく信仰心の薄い父が死後裁きを受けるとされている教義にずっと納得がいかなかった。また、ケンブリッジで優秀な科学者と知り合い、議論を交わした経験が、種の起源へと発展する基盤を築いた。そして、妻エマとの信念の違いを超えた愛と、子どもたち、特にアニーとの関係は、彼の人生から切り離すことができない。つまり、彼の思想、彼の研究にも家族は密接に関係していた。彼は種の起原において、生命の行方に関する彼自身の慰めと確信を書きたかったのだと思う。人間の生命について神は関心が無い。しかし、自然は進化という大きな流れをもって生命を子孫に伝え、自分の生命も、アニーの命も大きな大宇宙の一部として永遠の一部となるということ。そこには人間を罪に陥れる教会も、苦悩を与える神も存在しないのだ。

 4.ダーウィンをどう受け止めるか

 創造論者がダーウィンを否定する事には嫌悪感を感じる。聖書の読み方が違うのである。そもそも、カトリックはあまり聖書を読まない。だから、議論にはならない。聖書について議論できるのは神父だけであり、彼らは実に良く読んでおり、解釈もリベラルだ。ただし、教会は彼らの拠り所であり、飯の種だから、組織的な忠誠心で教会を支えている。
 自分のような長老主義リベラル派も彼らの敵である。創造論者の信奉する創世記は、そもそもユダヤ教においてバビロン捕囚期に編纂された。それまでは無かったか、口伝で文書にはなっていない。古代人の記憶力は驚くべきだ。だが、文書にならないと、前後に矛盾が出ても気にならない。だから、今の旧約聖書を読んでも奇妙な辻褄が合わない箇所がある。聖書、特に出エジプト記もかなりメアファな要素が強い。しかし、イザヤ書や詩編、ヨブ記などは文学的な価値がある。聖書を考古学や暗号理論、コンピューターによって分解し、科学的な手法で研究し始めたのはこの50年の事だ。その研究結果によって信仰が増したという話は聞いた事はないが、魅力的な研究対象なのだ。しかし創世記を10ページ程読んでも著者の意図が創造論者の受け止め方とは違う事に何故気がつかないかか不思議。子供の頃から沁み込んだ観念だろうか。

 ダーウィン家族の絆を読むと、ダーウィンは無神論者というより理神論者だと思った。種の起原
を読んだ事も無い人が、彼を非難すると言う点で、偉大な思想や、研究は共通している。主義という形で受け継がれるにしたがって意図とは別の効果をもたらすことはよくある事だ。彼は何も、聖書の内容を批判するために種の起原を書いた訳ではない。しかし、生命の営みのあらゆる局面に神が介在するという思想には反発した。
 神は全てを創造したが、その成り立ちは自然の摂理により達成された。神は進化やその営み、法則には介在せず、我々の心の中にイエスキリストにより臨在し賜うた。現代人の精神に近い。ところが、社会的進化論やヒュームなどに、さらに政治家や唯物論者に悪用された感じがする。ウォレスはじめ進化論や自然淘汰を喧伝した人は他にも沢山いたのだ。マルサスも人口論で悪く言われているが、経済学として重要なステップとなっている。彼は当時の労働者の悲惨な生活環境をどうしたら改善できるかを真剣に考えた。彼の本も読まれずに悪書と言われる。
 ダーウィンは種の多様性と人間の本性に原理を探求したかったのだ。霊魂とか確かめようの無いものには関心がなかった。科学的精神というものである。心霊現象には不快感というより興味がなかっただけだ。彼がエミリーの死にどれだけ深く思いを寄せていようと、それだけでは種の起原は生まれない。
 ダーウィンはまるで、品種改良のように子供を沢山作ったが、愛情を注いだのは死んだエミリーだけだったのだろうか。子供を植物や動物観察のようにしか見ていないとしたら、やはり、奇妙な人格だ。また、不思議なのは、妻のエティが、娘の死に駆けつける事も無く死後、墓所の場所も分らなかったというのは不自然だ。当時は子供の死はよくある事だったにしても、また、彼女の死が突然で、間に合わなかったとしても、本当に悲しんだのは乳母や家庭教師というのは理解できない。この本を書いたランドルケインズの祖父の兄はあの経済学者ケインズである。とはいえ、ダーウィンの孫にケインズがいるということか。彼の知性がそこに遺伝したのだろうか、これも凄い。
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 うっかりドア閉めた時に確認しなかった。家に戻るとドアが開いている。しまった。猫のキャーコがお散歩に出てしまった。いやは、家内に怒られる。がっくりして玄関で腰を下ろすと、外に猫がいる。見ると、家のキャーコではない。子猫、6ヶ月くらいのナイル系灰色とら毛だ。じっとこちらを見ているではないか。つい可愛いくなって、キャットフードをあげてしまった。美味しそうに食べるが、さて、どうしよう。目がきょとんとして顔立ちは良い。玄関に入って来た。ちょこんと座っている様が気に入った。家のキャーコも昔、そうして家族の一員になったのだ。ところが、しばらくするうちに、裏庭にキャーコがいるのが分った。どうも、怪しい雰囲気に気づいて戻って来たのだ。猛然と玄関に突入して来た。子猫はびっくりして家の奥に飛び込んでしまった。これは大変。家のどこかにいるが、分らない。仲良くするなら飼いたいが、そもそも、猫は縄張り意識が強いから無理だなあと思った。
 まあ、いいか、と玄関を閉めてしまった。夜中に、ぎゃーというもの凄いキャーコの叫び声でびっくり。とにかく怒っている。小生のベッドルームにはおしっこのシミが。そして、キャーコのトイレに見慣れないウンチがある。これはどこかの飼い猫かもしれないと思いながら、箪笥の裏とか、押し入れの奥等調べても分らない。どこかに隠れている。どうも、自分の部屋の押し入れの奥にある箱の隙間に隠れていることが推測されるが、追い出す手間が大変だ。キャットフードを置いたらカリカリ食べる音がしたから、やはりそこにいるのだ。でも明日やろうと諦めて寝てしまった。翌朝、キャーコが入ってこないようにドアを閉め、窓辺にキャットフードを置いておいたら、来た来た。そして、少し空けておいた窓の隙間から出て行った。窓から、下を見ると灰色虎の猫がこちらを見ている。さようなら!と言っているように感じた。こちらも手を振ってお別れの挨拶。家のキャコーは午前中機嫌悪かったが、午後は唯我独尊風で昼寝ざんまいの平和な生活に戻りました。
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by katoujun2549 | 2010-02-25 23:50 | | Comments(0)
  ダーウィンが進化論について種の起原を1860年に発表して以来150年になる。
進化はどのように行われるのか、未だに謎だが、近年のゲノム解析で新しい局面に入って来た。日本の文化勲章受章者、木村資正の研究では遺伝子のゆらぎ理論、中立論というのが世界的に論争を引き起こし大きく貢献した。
 生物の進化に遺伝子がどのように関わっているかはその中心的研究ターゲットである。1950年にワトソンとクリックが二重螺旋構造を発表、ノーベル賞を授賞した。ヌクレオチドを構成するDNA、二重螺旋はヒストンという糸巻きでたたまれ、遺伝子を構成する。22000の遺伝子が組み込まれている。転写された遺伝子情報が核から出てmRNA,tRNAに運ばれ、rRNAによって合成される。転写される情報は4種の塩基A(アデニン)G(グアニン)C(シトシン)T(チミン)の配列によってコードされ、リボソーム内でコドンという形でその間、DNAポリメラーゼなど様々な酵素が働きかけ、ゲノムの情報コピーが行われている。これをセントラルドグマといい、物理学や化学的解析によって不動の理論的地位を得てきた。高校の生物学教科書でも説明されている。こんなことが生体の中で行われてるとは全く宇宙的な出来事だ。人間がゲノムによって全て支配されているかどうかは、分らない部分があるが、人間の進化がこの部分を基盤としているという説が支持されている。分子生物学はセントラルドグマで成立した。この構造を理研が作成した映像が見事に表現している。 http://www.youtube.com/user/RIKENgsc
 しかし、この仕組みが何故動くのか、どのような作用が働くのか、謎は深まるばかりだ。セントラルドグマは結果であって、原因ではない。ダーウィンは生物が皆同じルーツを持ち、何故このように多くの種が地球上に存在するのかを説いた。しかし、これが自然淘汰だけで説明しきれるものではなかった。突然変異が何故生まれるのか、何故、ラマルクの要不要説が間違いなのか。さらに、病気の原因が細菌やウィルスによって起きる事はパスツール以降の事だ。野口英世でもウィルスを知らなかった。人間だけが特別ではないことを主張した。個体と種をまたがる進化は未だに解明されていない。人間が、様々な環境変化、飢餓、気候、ウィルス、血族結婚、異種交配などによってゲノムに影響が加わる課程がよくわからない。生体の変異を、どこかが信号を送り、ゲノムに伝え、様々な変化が起きる。木村資正氏の中間説によると30億の情報において2年に1度くらいそのようなことが起きており、ゲノムの世界の中で適者生存が行われ、優位に立った遺伝子が残る。しかし、そうした変化をゲノムの変化にまで至らせる行程を何が指令をだしているのか。この出来事が種の変異まで起こすのかは謎だらけだ。ネオ・ダーウィニズムも一種の思想である。


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 1.未来の無い日本のウィンタースポーツ

 日本選手団は21種目に出場、94選手(男子49、女子45)の大部隊。これはやり過ぎだろう。選手だけではない、監督、コーチ、それらをまとめる事務担当等いったいどれだけの人数が国民の税金でバンクーバーに行っているのだろうか。事業仕分けの俎上に乗ったのは当然だ。選手強化に27億円、団体に5億円。ところが、JOC曰く先進諸国は100億円クラスだそうだ。一体何処の国か、具体的に言ってもらいたい。問題は使い方。そもそも、我が国は教育と医療には金を使わない国で有名だ。この選手団は肥大化した日本の国内組織、自分の身の丈にあった経営ができていない多くの組織、官庁、企業、学校などを象徴している。国母事件は監督が個人的に指導すれば良いこと。JOCは試合前の彼を非難する前にマネージメントちゃんとしろ。一方、お隣韓国は19日、スケート、スキー、バイアスロン、ボブスレーの4競技で選手45人、金メダルを既に4つもとっている。もちろん日本選手は賢明に頑張っているのです。メダルを取れないのは選手のせいではなく、メダルを取れない種目に選手を出すからだ。韓国はメダルを取れない種目には選手を出さないというえげつない戦略。日本は入賞すればオンの字という体たらく。とにかく戦略が無く、五輪というものに対するポリシーが感じられない。五輪にたくさんの選手団を送る意義がよくわからない。次のソチはバンクーバーと違い、日本からは遠く、コストがかかる。

 マスコミもくだらない解説とかタレントが多い。松岡修造がチョコの宣伝で暑苦しい応援合戦でむしろ自分を売り込み、真央ちゃんをダシに使っているところが無惨だ。彼にスケートの何が分るんだ。いつも選手より自分を売り込む感じがむさ苦しい。それに対して浅田真央ちゃんは肝が据わっている。彼女はソチ五輪で金メダルを取るチャンスがもう一度ある。ユンソナはもう成熟しきっておしまい。韓国人は早熟で、長持ちしない。もし、金を取れば莫大な収入でそれで意欲は消える。それに対して浅田はまださらに成長する大器だから皆で大事に守ってあげたい。
 
 
2.韓国が強い理由

 韓国が強いのはひたすらスケート系。ソウル近郊にある泰陵選手村は、複数の競技施設が集まった「メダリスト養成施設」。選手村内には、国際室内スケート場があり、選手たちは1年を通じて練習が可能。スケート連盟には韓国最大の財閥サムスンが資金的な後ろ盾を担う。韓国の金銭面などのサポートは手厚く、メダリストには韓国の国民体育振興公団から支援金という形で賞金が出る。金をとれば一括で6720万ウォン(約530万円)か、終身で毎月100万ウォン(約8万円)を受け取るか選ぶことができる。銀、銅も額は減るが賞金が支給される。五輪メダリストは男子に義務づけられている兵役も4週間の軍事訓練に短縮される。韓国はスキー等では選手も少ないのだろう。しかし、スケートは強い。韓国も日本と同じように、ソウルに人口が過剰に集中している。40%ほどが集中しているから、若者も多く選手層が厚い。ソウルは38度線にも近く、冬の温度は低いから、簡単に結氷する。街中に無料のスケートリンクがある。東京ではどこか、赤坂サカスのちんまいスケート場?東北では学校の校庭に水をまけばスケートリンクになり、リンクが多く、子供の頃から親しむ事が出来る。スピード系選手はここで初めて育成される。この差を考えずに韓国とのメダル数を比較して、選手のせいにしかできないマスコミのレベルの低さ。

3.誰が選手を支えるのかーオリンピックは趣味ではできない

 五輪の金メダルは、子供の頃から才能を伸ばした者だけが得られる天からの贈り物と言っても過言ではない。日本はそうした選手はフィギュアと一部のスピードスケート以外は少ないのではないか。雪の降る地域には若者が残らない。また、日本も東京に一極集中した結果、気候温暖な土地だから、施設も運営に金がかかる。スケートリンクは西武線沿線(4カ所)に集中しており、選手は一部の地域に偏らざるを得ない。アイススケートは選手になると大変だ。東京では最近ミッドタウンに出来たが、サカスも日比谷もお遊びコース。後は高田馬場、神宮、豊島園、東大和、江戸川、東伏見で10カ所無い。スピード系は東京では無理。リンクの営業時間を外して、早朝か夜の10時過ぎでなければ練習できない。競技者はお遊びとは異質なのだ。スケートリンクががたがたでは使えない。アイスホッケーは悲惨だ。リンクが荒れるからフィギュアが終わらないと練習できない。そんな条件で、夜の11とか12時〜2時までの練習で帰りは電車が無いから車で帰るしかない。今回アイスホッケーは選手を出していない。それから、若い人は学校にも行かなければならない。そんな環境で必死にやっている。
 関東のスキー、スケートは堤一族に支えられて来た。一方、東北や北海道では若者の元気のよい層が減っているうえ、地域産業が衰退し、スポンサーがつかない。そんな状態で金のみならず、メダルを期待する方が無理というもの。不利な実態を挽回し、どうすれば成果が上がるのか。誰も考えていない。国の補助は「公平」という観念に縛られており、ばらまきにしかならない宿命だ。個人とか企業の支援が無ければ金は狙えない。

 でも、名古屋のフィギュアはすごい。伊藤みどり以来の蓄積だ。これはこの10年の自動車産業の繁栄と無縁ではないだろうう。トヨタこけると名古屋がこける。これからはどうなるかだが、とにかく屋内アイススケートは費用がかかる。だから、貧乏な黒人選手は冬季五輪には一人もいない。陸上競技とは大違いだ。名古屋はそれだけの施設(中京大)、コーチ等の人材、選手層など恵まれた環境が育ったのだ。浅田真央さんの金が最後の願いだ。キムヨナとのメダル争いは大変だが、大選手団を送った手前、期待されて当然だろう。金は取れるように祈るが、確実にメダルを取る事を祈る。日本選手団の無駄ともいえる大判振る舞いは彼女のせいではない。しかし、健闘を祈る。
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 オリンパスが昨年7月レンズ交換式デジカメ、オリンパスペンE-P1を発売、さらに12月電子ビューファインダーを取り付け可能になったE-P2を発売、今年初心者版E-PL1が登場した。
 
 ライブガイドは、オリンパスイメージングのWebサイト
(http://olympus-imaging.jp/product/dslr/epl1/feature/liveguide/index.html)でシミュレーションを体験できる。これまで、デジ1眼では他者の後塵を拝して来たオリンパスとパナソニックがその特徴、企業の資産を基盤にした新製品を出して来た。

 マイクロフォーサーズは既にパナソニックからG1、GH1が出ており、これと客観的に優劣を付けることはできるが、価格が違う。デジ1眼はキャノンとニコンが市場を分けた競争状態で、そこにペンタックスKが割り込み、1,000万画素を超すスペックは行き着くところに来た感がある。コンパクトデジカメも価格面と性能面が限界にきており、デザインも似た形になっており、そこにマイクロフォーサーズという企画が進化における突然変異種として登場した。勿論、性能比較は使う人の目的次第だから、無前提の比較というのは意味が無い。そのカメラで何を撮るのかだ。スナップならシャッターの音とか、AFのスピードが問題になる。集合写真であれば、誰かに撮ってもらう事が多いから、手ぶれ補正は大事な要素。
 
 G1、GH1はこれまでデジ一眼を全く使ったことのない人が最初に買うものとしては申し分の無い機種であり、価格も安い。新品でレンズ付きなら4万円、中古だったら3万円くらいでもあるだろう。EP1,2はこれまでレンジファインダーやデジ一眼を使いこなした人が、これまでのレンズを活用したり、気分を変えたり、気軽にビジネスや、お散歩カメラ用として使い易いだろう。価格も結構なものだ。趣味がなければ無駄だろう。カメラ病患者には昔のFDやOM、タクマレンズが使えるとか、ライカとの互換性など魅力的である。
 E-P1のスタイルや機能が斬新だったこともあり、E-PL1はどこか地味に見えるのも否めないが、基本性能は殆ど変わらず、機内手ぶれ防止機能とフラッシュがついて8万円台というのは魅力だ。
デジカメの商品ライフスパンは実に短かく、半年という感じがする。E-P2の電子ファインダーヴューもGFのファインダーも所詮は電子。デジカメは殆どライブビューだ。ヨドバシで聞いたら、LUMIX-GF1の電子ファインダーはライブビューと比べて使えるという程度のもので魅力が無いという。オリンパスのこれら3種の発売時期はボーナス時をねらったものだが、何故半年後に殆ど性能の変わらないEP2を出したのか分らない。それに対して、パナソニックは9月にLUMIX- GF1を発売した。これはG1、GH1に続くもので、6万円代でパンケーキレンズ付きレンズ交換型コンパクトデジカメとしてE-PL1と並ぶ競合機種だ。まるで後だしジャンケンのような要領でパナソニックが売り出した。あるいはこれらの発売前にオリンパスがEP1を夏のボーナス商戦に出したのかもしれない。そのスペックは手ぶれ補正がレンズ側で本体には無いくらいで、後はアダプターをつければフォーサーズレンズは交換できるし、ライカレンズも使用可能という欲張り仕様だ。ライカレンズを使うと50mmが倍になって100mm換算、ズミクロン35mmF2だと70mmの望遠になる。これも楽しみ。

 自分はたまたま、世界の中古カメラ市で7万円でE-P1を買ってしまった。以前は価格面でLUMIX-GF1とは比較にならなかったが、これだけ下がると比較の対象になる。確かにLUMIX-GF1はそのコンパクト性がこれまでのG、GHより優れているが価格も高い。最大の欠点は小型過ぎてホールド性に難があるのに手ぶれ補正が本体に無い。しかも、レンズ内に補正機能の無いレンズ交換を売りにしている。カメラは小さければいいというわけではない。デジコンはこれまでLUMIXを使って来た自分としては、その使い易さ、小型な姿、価格には満足して来た。さらに、GF1のハイスペックには敬意を表するが、自分は、AFやフラッシュもあれば良く、それより、マニュアルで使いたい。デジカメは撮った後すぐに確認できるので、マニュアルに向いているのだ。EP1 のサイズは120.5mm(w)
×70.0mm(H)×35.0mm(D), LumixGF1119.2(W)×71(H)×36.3(D)mm、285gで殆どサイズは同じ。小型機に何でもかんでも詰め込む、幕の内弁当型は日本的企業のお家芸だが、使わない機能も買わされているのだ。そうした複雑な機能を小さなスペースに詰め込むにはいろいろな無理が陰に潜んでいる。何かが犠牲になっているはずなのだ。かつて零戦を軽くするために操縦席の防弾版が無かった。結局、多くの操縦士が失われた。LUMIX-GF1は多分、ホールド性と耐久性だと思う。

 また、スポーツ(剣道)の一瞬のシーンを撮りたいので、オートでは次のチャンスを逃してしまう。さらに、35mmでは画面が広がり過ぎて定まらないし、競技中はフラッシュが使えないうえ道場はやや暗いから、50mmでは出来るだけ明るいレンズ(F1.4)が欲しい。だから、いつもはペンタックスK20を使っている。(本当はニコンD3が欲しいが高くて買えない)ところが、剣道の試合に行くと試合後稽古会があって防具も持っているとK20とレンズが重くて荷物が増えるのは困る。荷物が多いとカメラ等もうっかり忘れてしまう危険性もあるものだから、つい家に置いて、LUMIXをポッケに入れてしまうのである。GH1の機能があれば、GH2は不要だ。これらは立派なものだと思うが、何ともその形がごつい。デジ一眼の亜流という感じが、携帯性の悪さを感じさせ、カメラオタクの食欲をそそらない。その点E-P1は、あの銘機オリンパスペンの形をベースに鞄にも気楽に入れておけるデザイン。その新味が失せないうちに、価格が下がる機会を狙っていた。また、デジコンの必要があるときは従来の800MのLUMIXで充分である。PCとの相性で言えば高画素はメモリーを食うし、メールやブログには不便だ。ライカアダプターは未だ後のお楽しみで、E-P1には買った時に付属のズームを使っている。

 世代的なものだろうが、自分はやはり、カメラの王者はライカだと思う。あの洗練された形は今も健在だ。デジタルのM9が出て少し大きくなってしまったが、かたくなにデザインコンセプトを守り、価格も妥協しない。ゲルマン民族の精神ここにありだ。それに対する日本の幕の内弁当方式、何でも詰め込みコンパクトもいいぞ。マイクロフォーサーズにエールを送る。パナソニックの電子技術がカメラに向かい、何処までやれるか楽しみ。パナソニックはなりふり構わず、ライカと合体。そこにSONYのCarl Ziessが加わると凄いバトルになる。いくらNikkonがF6やD3を出そうと、キャノンがFD50mmF1,0を出そうとライカは不動の地位を守れる。カメラのエルメスがあったっていいんじゃないか。レンズも含め、それぞれに伝説があり、ブレッソンや沢田が愛したカメラだ。殻らのLumixの作品は無い。カメラマンの究極の道具がLeicaである。日本のエレクトロ二クス産業の中核パナソニックとカメラ業界とのコラボレーションが良い方向に進み、日本の未来を切り開いてほしい。

オリンパスE-P1
Lumix GF1
LumixGH1
LeicaM6TTL

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by katoujun2549 | 2010-02-23 15:11 | | Comments(0)
 バンクーバーオリンピックが盛り上がって来た。バンクーバの思い出があるので書いてみよう。それまでは、ハワイまでしか行った事の無かったが、初めてアメリカ大陸を2週間にわたるツアーに行く機会があった。早いものであれから20年が経ったのだ。おぼろげな記憶を辿ってみると、結構忘れている。地名はWEBで調べた。

1.バンクーバーアイランド

 1990年の7月バンクーバーに行った。あの時のツアーはシアトル経由でトロント、ボストン、ニューヨークと回り、また東に戻った。NYから3時間の空の旅だが、4時間程時差があり、往復の時差ぼけに悩まされた。アメリカ大陸を短期間で東西に移動するのは結構きつい。
 マリオットホテルに転がり込んだが、翌日バンクーバー市内見物。スタンレーパークという公園に行く。巨大な公園である。採石場の跡を円形劇場のような地形を花壇にしたものが珍しい。サンクンガーデンという形式で、いろんなところにある。バンクーバー湾の北側から、ウオーターフロントのオフィスと町並みが美しく見える。そこから、グランビル・アイランドの再開発時にできた「グランビル・アイランド・マーケット」に行った。ここは、缶詰工場とか倉庫街を再開発したところで、観光の目玉になっている。東京で言えばお台場みたいなところ。地元の人が買い出しに訪れる市場。野菜、果物、肉、魚介類、パン、チーズ、ワインやお茶etc…の出店が所狭しと並んでいる。さらに美術大学があり、美しい景色を眺めながらデザインなどを学ぶ場である。アングロサクソンはこうした土地の利用が上手い。このマーケットで見た、魚や貝類、果物などはとても値段が安く、サクランボなど3ドルで山盛りである。山形の宝石のように高いさくらんぼと同じ色形のものと、アメリカンチェリー2種類5ドルほど買ったが、とても食べきれない。生きたカニが水槽にウジャウジャいる。ダンツィネスクラブという丸っこい大きな蟹で、はさみが大きく、危険な感じだ。茹でたものを溶かしバターで齧る。連中の食べ方はロブスターでも皆同じだ。日本のガザミに似た味だが、身がばっちり入っていて、これも量が多い。この蟹は、シアトルでもサンフランシスコ、ロスでも海辺に行くと専門レストランがあって、紙を敷いたテーブルの上に木鎚が置いてあり、それで豪快に殻をくだいてむしゃぶりつく。量が多いという事はありがたみも無くなる。日本の寿司屋でささやかに蟹のゆでたものを箸でつついて食べる。この方が、ケチケチしてはいるが、味覚的には有り難みがあって旨い気がする。
 夜は市内の日本レストランに行った。学生も来ているような店で、居酒屋なのに、奥のカウンターが寿司のコーナーになっている。何とも中途半端な雰囲気だが、当時はそんな形で寿司は北米に普及して行ったのだろう。雰囲気はともかくミル貝なんかとても旨い。

2.スクワミッシュのゴルフ

 翌日は車で、スクワーミッシュというところでゴルフをした。三井ホームのバンクーバー事務所の紹介で予約を取った。朝、迎えに来たリムジンで仲間4人で出発した。生憎の小雨だったが、前から楽しみにしていたゴルフなので皆張り切っている。9時のスタートということだが、運転手が、自分は安全運転だとかいって、ちっともスピードを出さない。40分くらいかかると計算したが、1時間経ってもつかない。途中は何とも、ものすごいフィヨルドのような入り江を左に見ながら断崖の海岸道をひた走った。日本の感覚でいらついたが、結局着いてみれば全く慌てる事なくスタートが取れた。おおらかな土地なのだ。クラブハウスは何と山小屋風で簡素なつくり、アルバイトみたいな子供が一人、ロッカールームに案内してくれた。日本のゴルフ場に比べて何とも簡単、ロビーにも一人しかいない。天気は小雨模様であまりよくなかったが、ワンラウンド楽しむ事が出来た。とにかく、フェアウエイがだだっ広く、木々の大きさに驚くばかりであった。ハーフ終わると、そのまま回ってくれという。お昼は途中の売店でクッキーとコーヒーで簡単に立ち食い。とにかくシンプルだ。ラウンドが終わると雨も上がって、針葉樹の大木の間に霧が流れ、景色にうっとりした。
 クラブハウスに戻ってレストランにいくと、先に上がった年配のグループがビールを飲んで気勢を上げている。日本人のグループを珍しそうに見て、こちらに来いというので皆一緒におおいに盛り上がった。カナダ人の年寄りは皆気さくで、人生を心からエンジョイしてうらやましい感じだった。帰りはまた、来た道、海岸沿いの一本道をひた走った。来る時は雨と霧がかかって見えなかった景色が見通せる。大きな雪の残った山々や、大きな滝が見えた。また、海辺の崖地のようなところに住宅が並んでいるのに驚く。たしかに、景色は良いが、恐怖感はないんでしょうか。
スクワーミッシュは雪が少ない。今回のオリンピックでスキー競技を行うところはウィスラーであるが、雪不足で悩んだようだ。ここからはさらに1時間かかる。カナダでも、有名なのはウィスラーで、バンクーバーからはかなり遠い。滑降とかはこちらが会場になっているのだろう。

3.ビクトリア

 ゴルフに疲れてその日はぐっすり眠れた。朝はビクトリアに向かった。船で行くのだが、途中
サーモンフィッシングのボートが沢山浮かんでいた。海の水は濁っていてあまりきれいな感じがしないのだが、こんなところが釣り場とは驚いた。ビクトリアの大きな公園に行く。ブッチャートガーデン(The Butchart Gardens)だ。市街から北上し、エルクレイクElk Lakeを過ぎて、半島の東側に出たところにある。花の都、ビクトリアを印象づける観光スポットのひとつ。20世紀初め、ブッチャート夫人が石灰岩採掘場跡に花や低木を植えて以来拡大を続け、20ヘクタールにおよぶ現在の大庭園を作り上げた。1年を通してさまざまな花が咲き乱れている。また見晴らし台から海が見え、眺めも良い。入り口に巨大なトーテムポールが立っている。ビクトリアはブリティッシュコロンビア州の州都だそうだ。港から見た街の感じが、なんとも英国風。カナダというのは西に行くほど英国調なのだなと初めて知った。たしかに、東のトロントなどは言葉もフランス語が公用語にもなっているほどフランスの影響が強い。昼はこの公園で食べ、午後はビクトリアの博物館とか、議事堂を見学した。トーテムポールとかインディアンの記録や展示が多い。海岸沿いのインディアンで、トーテムポールはこちらの専売特許なのだ。カナダではアメリカのアパッチインディアン戦争のような苛烈な闘争は無かったようだ。かれらは、民族の融和を訴えていた。ニュージーランドもそうだが、イギリス人というのは他の民族を懐柔するのが上手だ。海辺の古風な、これも英国ビクトリア王朝風の豪華な石造りのホテルで紅茶を飲んで船着き場に行く。ここから、ビクトリアクリッパーという高速ジェット船でシアトルに向かった。船内はまるで飛行機の中みたいなシートで、食事も出る。2時間半程の旅で、シアトルに着いた。シアトルはアメリカ合衆国だから、入国手続きがいるのだ。シアトルのゲートをくぐると、また、あのアメリカだ。カナダを堪能した後だが、ここから街の中を見ると、黒人もいるし、人を見る目つきが何となくカナダ人ののんびりした顔立ちとは違った、緊張感を感じた。カナダというのはゆったりと人を迎えてくれる土地柄だが、それに対して、流石アメリカ、そばに寄らないでくれと皆が身体で叫んでいるように見える。しかし、会った人は皆愛想は良い。それだけ警戒心が必要な土地柄なのだろう。

グランヴィルアイランドとビクトリアクリッパー

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="line-height: 1.2;"> 神は塵から自らの姿に似せて人ーアダムを創造された。そして、そのあばら骨から女ーイヴを作られた。イヴは蛇の誘惑に負けて命の木の実を食べてしまう。これをアダムにも食べさせ、神の怒りに触れ、エデンの園を追放される。人間の原罪の起源である。さらに、二人の子供であるカインは不幸にも兄弟のアベルと仲違いをし、彼を殺して追放される。「カインは主に言った。私の罪は重すぎて負いきれません。今日あなたが私がをこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、ささすらうものとなってしまえば、わたしにであう者はだれであれ、私を殺すでしょう。」主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は誰であれ7倍の復習を受けるであろう。(創世記4−13)」
 
 えー!アダムとイヴの他に人間がいるんじゃないか。ど、どういう事だろう。なーーんだ。創世記はユダヤ民族の起源を語っている物語であって、生物学的人類の起源を説明しているわけではないんです。一体、いわゆる福音派など創造論者が、進化論にあんなにこだわって対抗するのか、全く理解不能。科学者だって何も創世記が出鱈目だと言っていない。問題にするような事ではないのに、ムスリムや福音派が攻撃しているのだ。それに対して、ドーキンスとかが本気で反撃する。では、これが創造論者のいうとおりだったらどうだろう。これまでの生命科学、地質学、考古学は全て彼らのもとに否定されるのだ。彼らにそれだけの根拠があるのか。

 聖書は科学の本ではない。信仰の書として、人類の道徳、罪と十戒、神と人間のかかわりを説明している。これを自由主義(リベラル)派は創世記の神話性を受け止めた上で、神の支配への古代人の思い、部族信仰の時代から受け継いだものとして神学的にも位置づけている。自分は現代キリスト教が受け入れるべき考え方だと思う。しかし、これまでの旧約学、新約学の学問的成果が、教会形成に役に立っているとは言えない。今日リベラル派の教会は長老派等信者数が減少し、ピンチに立たされている。聖書を強引にまるごと信じる教会の方が優勢なのだ。
 
 世界はじめに光りあれ、という素晴らしい言葉、----さらに生き物を神が創造されたこと、----第七の日に神は自分の仕事を離れ、安息なさった。第七の日を神は祝福し、聖別された。これが、天地創造の由来である。これで充分である


More 旧約聖書の成立
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 松屋で毎年開催される、世界の中古カメラ市に行った。これは中古カメラの殿堂、中古カメラファン最大のイベントである。世界中のカメラやレンズを一堂に集めた松屋銀座恒例のイベント「第31回 世界の中古カメラ市」が、松屋銀座8階大催場で行われている。2月17日(水)が初日。このカメラ展には2004年に初めて行き、ライカのM6TTLとズミルックス50mmF1.4を買った。要はカメラ病のコロニーともいえる世界だ。赤瀬川原平さんのようなライカ狂、中古カメラ病患者ががうようよしている。中年のおじさん達が目を血走らせてショウウインドウをのぞいているのだ。若い女性には全く理解不能、不気味な世界だろう。確かにカメラ病細菌が部屋中にいるのだ。細菌群の構成はライカ、コンタックス、ロシア製、フランス製カメラ、勿論多くの国産カメラ、ニコンやキャノン、それらの名レンズが中古カメラ展出品として並んでおり、特に稀少性から数百万円の高値のクラシックものは買えないがゆえに、大脳に感染する。小生もつい感染してしまい、その後、5年くらいでライカLマウントⅢf、名機M3、NikkonF3、ペンタックスSP,アンジェニー、ニッカライカレンズのズミクロンやズミタールを続けて手に入れた。しかし、ライカの撮影は実に難しい。とにかく失敗が多い。ところが、距離と絞りが合うとつまらない被写体でも時々、素晴らしい写りになる。

 近年のデジカメの進歩は著しい。ポケットデジカメでもルミックスで1270万、ソニーサイバーショットで1030万画素あるし、顔認識とか手ぶれ補正もついている。中古カメラでライカやNikkonSPなどは結構安定した価格を維持している。しかし、フォクトレンダーや Ziess、コンタックスなどは下がり気味。とにかく、あのライカがM8を発売、これはデジカメだ。相撲やオリンピックの記者が使っているカメラは圧倒的に最高級1台50万円はするニコンD3だ。このままでは自分の高価なライカレンズが無駄になってしまうと心配していたが、昨年うれしいことに何と、オリンパスがペンシリーズで、アダプターを付ければライカレンズが使えるEP1を発売した。マイクロフォーサーズで、撮影はライブヴューだ。前から欲しかったが、10万円を越える価格に手をこまねいていた。
 
 今回のカメラ展の赤坂カメラのショウウインドウに未使用の中古箱無しが7万円で出ていたので、即買ってしまった。とにかくデジカメの価格は1年もたつとどんどん値が下がる。新品を買う必要は無いというのが感想だ。未使用の製品が、1年で4割近く、次の新製品がマイナーチェンジで出たとたんに下がる。EP1からファインダーヴューの使えるEP2が昨年末に出て、一気に値が下がったのだろうか。昨年7月発売時はレンズがついて12万円くらいはしていた。日本の企業というのは、消費者のことを何処まで考えているのだろうか。ライカは中古の方が価格の上がった製品もある。もちろん製品のクオリティは違うにせよ、半年でマイナーチェンジというのは早すぎるし、発売を5ヶ月くらい遅らすくらい何も支障はないだろうに。ライカは50年前のものも修理がきく。これでは開発費が圧迫して各メーカー共倒れになってしまう。要は、政府の産業政策が効いていないのだ。日本の輸出産業にカメラがどれだけ貢献したか、計り知れない。ポケットカメラや、デジ一眼カメラはほとんど形も究極的に同じ形になりつつある。ニコンも、キャノンも、ペンタックスも実に形が似ている。ポケットサイズデジカメなどはパナソニックとカシオ、キャノンなど殆ど同じ仕様だし、日本で作っているコンパクトライカなどもルミックスと細部も似ている。マークの違いだけだ。いずれ、これらは中国で殆どが製造され、さらには日本の3分の1くらいの価格の商品が輸入されて日本製品は駆逐されてしまう。パソコンがよい例だ。消費者は賢くならなければならない。政府は企業経営と市場に介入できないならば、情報提供をしっかりして無駄の無いように導くべきだ。コンパクトカメラに1000万画素は殆ど必要ない。オーバースペックが製造者を苦しめてはいけない。企業も同じような製品を作って価格競争になり、自分で自分の首を絞めるような事にならないよう知恵を働かせるべきだろう。
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