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Inglorious Bastersを見た。映画評価としては優あげて良い。タランティーノの力量はキルビルで証明済みだが、これは一級のB級娯楽大作ということで面目躍如といったところ。ナチスの親衛隊将校の描き方が良い。コスチュームが時代劇には大切な要素だ。ナチスの軍装、親衛隊や突撃隊などオンパレードだ。冒頭に荒野の一ドル銀貨のテーマが流れ、復讐劇というより、確かにマカロニウエスタン調かも、いや、ハリウッド製レジスタンス活劇。ブラピがテネシー生まれのOSS将校を好演したが、焦点はむしろ女映画館主とゲシュタポを軸に展開している。ユダヤ人の特殊部隊がゲリラとして活躍し、頭の皮を剥いだり、バットで殴り殺したり、残酷なシーンもある。この映画はR指定だそうだが、残酷場面にだんだん慣れてしまう。内容として、80%本当の話をモチーフにした出来事の再現だと思う。ところが成功シーンは全て出鱈目。実際、工作員は捨て駒だった。監督は史実を知っていると思った。実際連合軍は数千人の工作員をナチス占領下のフランスに送り込んだが生還したものは極めて少なかった。Ingloriousというのは名も無いという意味もある。特にアメリカ人の工作員は見破られ易く、多くの犠牲者を出した。タランティーノは彼らの鎮魂歌を作ろうとしたのだろう。戦勝国であったアメリカではこの失敗が冷戦時代に反省無く、これを引き次ぐ馬鹿げた作戦が行われ、ロシアや東独のみならず、キューバ、朝鮮や中国も入れると万単位でCIA工作員が死んだ。スパイの運用が一番うまかったのはスターリン。彼は元々シュガシビリという帝政ロシアの二重スパイだったから、国内外にネットワークを張り巡らせ、自分の権力保持に利用していた。
 大戦下のパリ、ドイツ兵がのさばる雰囲気が良く出ていた。自分の子供の頃の記憶では高級なところには必ずアメリカの軍属がいて、日本人の女性がアメリカ人に寄り添っていた。戦後ナチスのヒーロー青年将校が片思いを寄せる映画館経営のユダヤ人女性も雰囲気を良く出していた。ブラピーの演技はますます良くなってきた。彼以外は無名だが演技派揃いだ。クリストフファルツが超有能なゲシュタポ、ラング中佐を演じていた。こちらは不名誉なという意味のInglorious。女優陣も良い。ユダヤ人映画館主、メラニーロッシ演じるドレフェスは逃亡中親族を殺され、ナチに復習を計る。ドイツ人スパイの女優ダイアンクルーガーは上品な感じ。ゲッペルスとかヒトラーはうんと下品な雰囲気で出てきて、これは茶番。こんなストーリー展開もあるんだなあと感心した。とにかく、ヒトラーやボルマン、ゲッペルスまで映画館でぶち殺されちゃうんだから。・・・・なわけねーだろ!

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1.杉浦日向子さん

 時代考証家、そして漫画家で随筆もこなすの杉浦日向子は蕎麦好き(蕎麦屋好き)で、ソヴィエトが崩壊した1991年に仲間と「ソ連」(ソバ好き連)を立ち上げ、その中心として活動した。彼女の「お江戸でござる」の時代考証はいつもうならされた。46才の若さで惜しい事に亡くなった。彼女が本に書いてある蕎麦屋がある。「たかさご」というこじんまりした店。昔から近所の教会に行っていたので日曜礼拝の後、昼に食べていた。住宅街の蕎麦屋風だったが、20年程前、店を改装し、代替わりしたのだろうか、本格的な蕎麦になった。自分も蕎麦好きのせいか、蕎麦を食べる時は不思議にその店に杉浦さんが行っていた事を思い出す。たかさごは陸の孤島みたいなところで、地下鉄神楽坂からも市ヶ谷からも遠い、不便なところ。近所には新潮社や大日本印刷もあるから、そんな関係で杉浦さんは見つけたんだろうと思う。今は大江戸線牛込神楽坂を出て北町交差点から市ヶ谷方面に抜ける道沿い左手で、5分で行ける。

2.蕎麦の思い出

 蕎麦は日本橋の会社に通っていたとき週2回は食べていた。日本橋は寿司、鰻、蕎麦は一流店が揃っている。値段ではなく味覚がだ。利休庵の蕎麦と親子丼は定番の残業食。仕事に追いまくられていた時のつかの間の楽しみだった。ここで、蕎麦屋の親子丼とかカツ丼が旨い事を発見。お客さんを誘った時とか、事務打ち合わせ費で食べる時は室町の砂場。盛りが少ないのでザルも2杯以上必要。卵焼きとか焼き鳥もうまい。これに日本酒1本つけると最高。ここの天ザルはかき揚げのを丸くあげたもの。元祖か。砂場は日本橋だけではなく赤坂、神谷町、虎ノ門にもあることがわかった。普段は利休庵、紅葉川といったところだ。麻布十番「永坂更科 布屋太兵衛」は長野出身の友達のご長女が亡くなった時、法事の後に行って食べた。浅草の並木の薮は向島の三囲神社に行った後寄った。練馬の田中屋、須田町の薮、赤坂の長寿庵いろんなそば屋に行った。それぞれしっかりしたお店の味が嬉しい。田中屋は高級店になって赤坂にも店を出したが、練馬の店は環七沿いで車で行かないと不便だった。最近の評判では値段が高すぎということで行く気がしない。それぞれ思い出がある。須田町の薮蕎麦で一杯、上機嫌ほろ酔い加減で家に帰ったら父が亡くなったという電話が来た。苦い思いの蕎麦。柏の竹やぶは蕎麦屋のカリスマらしいが、それと知らずに柏でゴルフをした後立ち寄った。新しいお店も増えた。神田でも眠庵というのが有名になっている。一度行ってみた。神田駅から5分程のところで、果物屋の老舗、万惣の店の裏手にある路地の奥に目立たない店だ。中は狭く、若い店員2人でやっている。いつも予約が入っており、我々2人はカウンターでつまみと酒を飲んでからザルを二枚食べた。この蕎麦は栃木のそば粉と群馬のそば粉を使い分けたザルがその蕎麦の長さや太さが程よく、蕎麦つゆもあっさりしており、さっと喉越し良く、酒で熱くなった喉に心地よく通って行く。実に美味だった。

3.そば打ち体験

 長野県の飯山市鍋倉高原では実際にそば打ちを体験をした。水が旨いとそばも美味しい。最初の粉の配合が微妙な感じだが、その過程ごとに難局面がある。例えば蕎麦の切り方で味が変わる。結局、インストラクターの作った方が旨かった。初心者はやはり、切り方が雑だ。自分の打った蕎麦は不揃いで野趣があるが粉っぽくなったり、歯触りが今イチだった。一番難しいのは練るときだろう。水加減からいかにも大変。そば打ちは難しい。これはどうも趣味になりそうも無い。昔、用地買収の関係で御殿場の農家に挨拶に行ったら蕎麦をうってもてなしてくれた。その蕎麦は山芋をつなぎに使って実に旨かった。

4.蕎麦屋の名前

 蕎麦屋はよく、薮とか砂場とか独特の名前があるが、これはどうも、大阪から来た名前だそうだ。秀吉が大阪城を築城したとき、労務者が食べたのが蕎麦で、だいたい、工事用の砂を積んだところは砂場とか、一服する場所に竹やぶが多かったので薮○○というような名前になった。江戸城築城時に大阪の蕎麦屋がにやって来て当時の名前を使ったんだそうだ。更級というのは長野の蕎麦の集積地からきた。まつやとか、松浅、松のつく名前も多い。長寿庵というのも縁起にこだわったのか、蕎麦を食べると身体に良いということからだ。景気の良い蕎麦屋の名前を取ったのだろうか。昔、蕎麦屋には丁稚みたいな若い人が沢山いて、自転車に何十枚もの蕎麦を方に積んで、自転車に乗った曲芸のような姿を目にしたが今は消えた。

5. おかめ蕎麦

 蕎麦屋では一般にはざる蕎麦とか、もり蕎麦が代表になるが、つゆ蕎麦も大きな分野だ。かけ蕎麦だけではなく、天ぷら、ちから、たぬき、きつね等バラエティ—が豊富である。なかでも、おかめ蕎麦は、見た目にも美しく、つゆ蕎麦の芸術品の境地にあると思っている。昔、かまぼこ、鳴門、椎茸、ほうれん草などで、おかめの顔を描いた事から来る。色合いが美しく、ごった煮風の
鍋焼きや天ぷらが浮いた天ぷら蕎麦などより、つゆの味も、具と調和し、つゆ蕎麦の女王的な風格があると思う。中野駅前の蕎麦屋、更級のおかめ蕎麦は見た目にも美しい。

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1.福音派とは
 
Wikipedia によると福音派は次のように解説されている。
「福音派(evangelical)のルーツは、ギリシャ語のεὐαγγέλιον(evangelion)、すなわち福音である。形容詞の場合「福音的」「福音主義的」となり、名詞の場合「福音派」「福音主義者」と訳される。[8] 教会史と神学からは、16世紀宗教改革にルーツを持つ。カトリック主義(教会主義的)に対する、福音主義的、福音主義者という呼称である。」だから、ドイツの福音教会というのはルーツである。
 「歴史的源流の一つは信仰復興運動、第一次大覚醒にあり、新生(ボーン・アゲイン、Born again)の強調、キャンプ・ミーティングによる伝道活動、「(旧分類)教派」の枠を超えた「運動」であることなどの特徴が明白に継承されている。自覚的な回心の経験を持つ「新生した者のみが真のキリスト教徒」とし、伝統的主流派の信徒を「信仰の冷めた形だけのキリスト教徒」と規定する信仰は「福音主義の父」と呼ばれるジョージ・ホウィットフィールドに見ることが出来る。またメソジスト派の元祖ジョン・ウェスレーは、イングランド国教会の会員たちが「半分だけしかクリスチャンでない」と考えていたという。」
 かつて、キリスト教はダーウィンの進化論の挑戦を受けた。人間の祖先が猿であるというのはどうしても納得がいかない。聖書はある時代の人間が、神を前提に意図を持って書かれ、一部は神話であり、伝承にすぎないという考えがヨーロッパにはびこった。ところが、クムラン洞窟からの死海文書の発掘やイラク、ヨルダン、イスラエルなどでの考古学的成果により、旧約聖書も新約聖書も歴史的に何らかの事実をもとにしていることが分って来た。現代の福音派は聖書を相対的にしか読まないリベラルな教会に対して、聖霊の働き、復活信仰、新生といった信仰のあり方を重視した礼拝や集会を基にとして福音を伝えている。
さらにwikipedia から「フリードリヒ・シュライエルマッハーから始まるリベラルに抗して、福音主義同盟は1846年、9ヶ条からなる福音主義の信仰基準を確認した。また20世紀初頭にはキリスト教根本主義運動が起こった。さらに第二次世界大戦後の教界はエキュメニカル派(リベラル派)と福音派(聖書信仰派)に二分されている。日本キリスト教団はリベラル派である。福音派の教会は教団から分離し、独立教会の事も多い。英国の学者ディヴィッド・ベビントンは、「福音派は、四つの顕著な特徴によって、正統派と識別される」としている。
 ①回心主義: 個人的にイエス・キリストを受け入れる信仰によって変えられなければならない(ヨハネ3:7)。② 行動主義 キリスト教信仰、特に福音伝道の実践。③ 聖書主義 霊的生活の中心としての聖書。④ 十字架中心主義 キリストの十字架とそれがもたらした幸いの強調
 この語の示す概念はルター派・カルヴァン主義・聖公会などの教会史的な教派分類とは全く別の、神学潮流や礼拝スタイルの視点によるもので、互いの分類法同士に相関傾向がないものもある。日本においてエキュメニカル派に所属する教会は、福音派の日本福音同盟に加盟することができない。現在、聖公会内福音派の代表的な神学者はアリスター・マクグラスである。」

2.ドイツの福音教会

 ドイツでは教会税というのがあって教会は国家的支援を受けている。東西合併後は選択制となったがそれまで西ドイツでは国民の義務に近かった。もちろん拒否も出来たのだが。ドイツの福音派というのはルーテル派である。ドイツの福音教会は第二次大戦中もナチスに抵抗し続けた。ダッハウに投獄されたニーメラーやヒトラー暗殺事件の計画者将校には福音派の信者が多かった。その関連でで死刑となったボンヘッファーといった牧師を生んだ。バルトやツールナイゼンといった神学の巨人も生んでいる。バルトも最後はスイスに逃れたがナチスを批判し続けた。ドイツかぶれの日本のプロテスタント指導者はドイツの福音教会のことを知っていた筈であるが、残念ながら軍部に屈服した。余談だが、ドイツのナチスはプロテスタント各派を攻撃したが、キリスト教を禁止した訳ではない。むしろ統合しようとして上手く行かなかった。だから、福音教会での礼拝はナチス党員の嫌がらせはあったが、自由であって、ユダヤ人や共産主義者が受けた迫害とは比べ物にならない。ドイツにおいてはカトリックも多いし、エホバの証人、再洗礼派、長老派も存在する。町には千年の歴史を持つ教会があり、見事なパイプオルガンもある。しかし、近年、若い人は教会に行かなくなったという。日曜礼拝に行くのは人口の1割に満たないし、来るのは年寄りばかりだ。しかし、ベルリンの壁を崩すきっかけには教会が大きな役割を果たしている。

3.アメリカの福音派教会

 アメリがでは日曜礼拝に行く人は多い。世論調査では4割の人が日曜日には礼拝にいくという。だから、シアトルに行ったとき、日曜日の市街は何やら奇妙な静寂が漂う。午前中は休みだというのに1時頃まで人通りが少ない。教会に行かない人もいるが、自分が行かないという心の重荷か、ただ、暇なだけなのか、手持ちぶたさに見える。午後になると緊張感が解け、町中がのんびりし、人通りが戻る。シャトルくらいでもそうなるが、都会になればなるほどそうした感覚は無くなり、小規模であればある程日曜日は特別な日である。
 そもそも、アメリカという国家はヨーロッパから宗教的迫害を受けた人々が政治的な主導権を持って建国した国である。地方自治体、さらには週単位で教派が違う。マサチューセッツ州はピューリタン、会衆派の植民地として生まれたし、ユタ州は異端のモルモン教徒がアメリカの中で迫害から逃れて築いた州である。再洗礼派の築いたアーミッシュの村は今でも近代文明を拒否して生活している。アメリカという国は人種も宗教も、経済も多重的、サラダボウルの国家である。もちろん、カトリックも近年大勢力となったが、ケネデイ大統領が生まれるまでは、カトリックはイタリア人やアイルランド移民の低所得者というイメージだった。ムスリムもいる。それらが対立、抗争もあり、禁酒運動などもアイルランドなどから大量に移民してくるカトリックに対する対抗措置という側面もある。長い歴史を緊張関係をもって共存を目指す今もなお実験中の国家である。アメリカの教会はハワイの福音派とロサンジェルスのルター派の教会に行った。ボストンのジョンハンコックセンターの向かいにある教会にも礼拝に行ったが、エピスコパル教会となっており、一体何派かと思ったが、聖公会である。長老派、クエーカー、ペンテコステ派、メソジスト、バプテスト(南部・北部)、カトリックが多いが、独立教会として、福音派に属する教会も多い。メガチャーチとなっている諸教会がそうである。アメリカ人のキリスト教信者の45%がボーンアゲインを経験しているというアンケート調査結果もある。アメリカ人で進化論における自然淘汰説を信じている人は25%にすぎない。福音派では8%である。南部諸州では今でも生物学の授業で、天地創造を講義し、進化論はむしろ害があるとして教えない。日本人は9割は進化論を信じているだろう。これほど無批判に進化論を丸呑みする国も少ない。かつて、天孫降臨の神話を学校で教えていた国がである。
 多少筆がすべったが、正確に言えばアメリカの世論調査結果でダーウィンの自然淘汰説を肯定する人は25%福音派は6%(2006年)現在の生物は進化の結果ではあるが、その過程は神が導いたと考える人が4割おり、自然淘汰=進化の過程が神と無縁の自然法則のみに支配されていると考える人はもっと少ないという意味にもなる。アメリカ人で神の存在を信じていないという人は8%悪魔が存在すると65%の人が信じている。70%の人が死後の世界を信じているがヨーロッパ人30%前後だ。日本は1割もいるだろうか。
 
4.福音派と政治活動

 アメリカの宗教指導者は政治との関わりが強い。例えばバプテストの多い黒人教会の会員は全員が民主党支持と言ってよい。本来奴隷解放運動はリンカーンが南北戦争遂行のために行ったことで、共和党の筈であるが、60年代の公民権運動がケネディ、ジョンソンと民主党の大統領によって遂行されたからである。南北戦争の後、南部諸州は共和党と黒人が政治的に支配を強めたのに対抗して、クークルックスクランという抵抗運動や、南部の白人は民主党となり、バプテスト派も南部と北部に分裂した。福音派は80年代から人工中絶反対、進化論教育禁止、ゲイの権利、結婚、軍隊での承認などで国論を二分する戦闘的な政治活動を行った。その大きな流れがブッシュ政権に利用され、湾岸戦争からイラク戦争につながった。オバ政権の誕生はそうした国民の世論の反発の結果である。キリスト教の福音派においてもこうした政治的干渉について反省期にあり、ネオコンとの癒着、右派の扇動的な活動に嫌気がさし、地球環境問題、アフリカのエイズ、開発支援、核の脅威に対する近年の政策につながるのである。

5.日本の福音派
 
 いわゆる同盟教会とか独立教会に福音派は集約されている。かつてのプロテスタント諸派は日本基督教団に集約されたが、聖公会、バプテスト、ルーテル、旧日基(長老派)、福音派諸教会は分離し、残っているのは長老派、メソジスト、ホーリネスが主流である。日本基督教団は系列として明治学院、青山学院、関西学院大学、女子学院などの有力ミッション系列校と東京神学大学、ホーリネス系の東京神学校など、教育機関を多く持っている。何と、一番のエリート校国際キリスト教大学には神学部が無い。日本基督教団はそうしたちぐはぐな事にも全く無力で戦略を発揮できない。だから、そこにおける基督教教育の人気は減退する一方でジリ貧である。会員数も減少傾向であるのに対して福音派は若い人が多いといわれている。
 日本基督教団は世界的な観点からはエキィメニズム、リベラルである。聖書と向い合う形で、極めて教養的に解釈するから、インテリには分かりやすいだろう。 今の日本のキリスト教会が振るわないのはこうした教養主義的な理解が一部のインテリに歓迎され、聖書を分析的に読む事が主流になっているからだろうと思う。小生も、その傾向があるが、実際は 信仰とは離れてしまう方向だと思う。彼に取っては、結局、仏教も言わんとしている事は同じだというような事になるのではないだろうか。
 福音派は神学校として東京基督神学校を千葉県の印西市にもつ。日本のキリスト教徒はカトリック30万人、プロテスタント15万人が毎週教会に行っている。教会に行かない人も入れると100万人と言われている。それに対し、福音派同盟教会に属する教派は多様性に富んでいる。教派と教会を下記にあげると、

★ホーリネス・メソジスト系(きよめ派):
 イムマヌエル綜合伝道団、ウェスレアン・ホーリネス教団、救世軍、基督兄弟団、基督聖協団、 チャーチ・オブ・ゴッド、東京フリー・メソジスト教会、日本フリーメソジスト教団 、日本ホー リネス教団、ホーリネス教会連合、日本聖泉基督教会連合、活けるキリスト一麦教会、国際基督 教団、コノニア福音グループ、シオン・キリスト教団、日本イエス・キリスト教団、日本伝道  隊、キリスト伝道隊、福音伝道教団

★バプテスト系:
 日本バプテスト教会連合、日本バプテスト宣教団、保守バプテスト諸教会グループ、高岡バプテ スト教会(旧福音バプテスト連合)

★メノナイト系:
 日本メノナイト・ブレザレン教団

★ルーテル系:日本ルーテル同胞教団

★改革派系長老派系:
 聖書キリスト教会、日本長老教会

★カベナント系:
 日本聖契キリスト教団、日本聖約キリスト教団、日本福音自由教会協議会

★アドベンチスト系: 
 日本アドベント・キリスト教団 、日本神の教会連盟

★アライアンス系:日本同盟基督教団、同盟福音基督教会、東洋福音宣宣教会

★ペンテコステ系(聖霊派):
 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団

★合同教会系:
 日本キリスト合同教会、日本福音キリスト教会連合

★独立系:
 日本伝道福音教団、福音交友会、東京中央教会、ヨハン教会連合、東京福音センター、日本聖書 福音教団、札幌キリスト福音館、イエス福音教団、エバンジェリカル・コングリゲーショナル・ チャーチ、シオンの群、新生キリスト教会連合

★単立教会:
 清和基督教会、塩屋キリスト教会、腰越独立教会、北本福音基督教会、経堂めぐみ教会、軽井沢 中央教会、上板橋キリスト教会、南大阪聖書教会、芦屋福音教会

以上である。これらの教会もそれなりに十字架を背負っており、苦難の中で霊の戦いを続け定と思われるが、どんな課題を抱えているのか、あまりにも多様でよくわからないのが正直なところ。打誰か教えてください。


 

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1.カフカ

 村上春樹の作品を1Q84に続けて読んだ。主人公の名前は田村カフカ。彼が家出して四国高松の甲村図書館の佐伯さんという館長の書いた昔のヒット曲が「海辺のカフカ」、さらに登場人物がカフカ少年とカフカをイメージしている。フランツ・カフカの小説、変身では主人公ザムザ氏がある日、突然、巨大な毒虫に変身する。突然、世界が変わるのである。彼の新しい毒虫のような姿にとまどう周囲の家族や周囲の人々。その不条理は奇妙な日常をもたらし、彼を取り巻く世界は変わらないし、明るい未来を予測させない。このカフカの世界は、第二次世界大戦という悲劇を予言するかのような現実感を与え、20世紀初頭のヨーロッパの精神状況を描出した。小説は、その作者の描く世界を通じて私達の精神を描き出してくれる。彼は、この海辺のカフカによって、フランツカフカが描いたような世界の変化と不条理を描く事にはこだわっていない。むしろ、ストーリーにはギリシャ悲劇や雨月物語などのモチーフを使っている。しかし、村上春樹は日本の戦後50年を登場人物を通して小説というキャンバスに描いた。その描き方は一種のパロディでもある。タナカさんという不思議な能力を持った頭の変な60代の人物が登場する。20世紀の災禍であった第二次世界大戦はタナカさんの人生だ。メタファーとして戦後起きた様々な事件を語らせている。タナカさんの最後は映画、エイリアンの一シーンを思わせる。

2.ストーリー

 この小説の主人公は15才の少年田村カフカという名前で一人称で語る。図書館の司書、性同一性障害の大島さんと昔の恋人を大学紛争の内ゲバで失った館長の佐伯さんがカフカ少年を異次元世界に導く。戦争中に超常現象で学習能力を失ったタナカさん、彼を高松につれてくる星野青年といった人物を通して、それぞれの世界を語らせ、全てが高松の入り口の石に結びついていく。村上春樹の主人公はいつも女性にもて過ぎだが。
 登場人物は何故か高松に集まってくる。タナカさんは猫と話したり、超自然現象を予知する能力を身につけた。タナカさんは意味不明の「入り口の石」を探しに高松に来た。入り口の石というのは2001年宇宙の旅のモノリスのような物体。この石の周辺で不思議な出来事が発生する。彼はカーネルサンダースという謎のぽん引きに出会い、石の場所を教えてもらう。夢と現実が錯綜する。夢は現実につながり、夢想は未来に結びつく。父親は時空を超えてカフカ君に殺されたのか、タナカさんが夢の中で殺した猫殺しのジョニーウォーカーマンは時空を越えてカフカ君の父親の殺人につながる。高松ではメタファ的存在のフライドチキンのカーネルサンダースという人物も現れる。佐伯さんはカフカ君の母親としてのメタファなのか。さくらという高松往きのバスで知り合った美容師の女性「さくら」さんは彼の姉という思いにつながるのだろうか。後半になってストーリーはギリシャ悲劇オイデプス王の展開になっていくかに見える。いくつかのモチーフが錯綜する。このあたりの村上春樹の作方は見事だ。
 物語は「僕」カフカ少年が中野の家を出て高松に一人旅してくるところから始まる。村上春樹の世界には、恋愛、旅、暴力、戦争、セックス、童話、SFといった要素を織り込んで読者にサービス精神旺盛な展開があり、どんどん読ませてくれる。今の若者のように漫画やゲームに親しんだ世代に受け入れられる訳であるが、彼は自分のような団塊世代であり、大学紛争や高度成長といった時代精神も共有している。サザエさんは彼の好みではないかもしれないが。

3.メタファな世界との関わり

 世界は実体と形而上的世界、そして時間と空間で構成され、認識される。実体は自己との関わりにおいて現在であり過去であり未来である。メタフィジカルな世界は実体と結びつくこともあるが、我々には混沌として見える。それをとらえるレンズは芸術であるともいえる。宗教は原始的な形であり、神話もそのひとつである。絵画は平面的に時間を止めてしまう。しかし、小説は自由だ。その虚構世界の中で事体とメタフィジカルな世界を錯綜させ、時間と空間を自由に移動する事が出来る。村上春樹の世界はまさにその手法を駆使して、登場人物を通して人間の様々な過去、心の隙間、夢想世界を我々に展開してくる。ある日突然自分が異質な世界に突入する。昨日の良い子が引き起こした殺人、隣の善人がとんでもない事を引き起こす。この世界で起きている異常な出来事の周囲では日常が続く。平和な時代からアウシュビッツに放り込まれたユダヤ人。平和を望みながらもイスラエル軍に攻撃されるパレスチナ難民。内ゲバで間違えられて殺された学生、最大の不条理と理不尽は死である。彼はこの世界に向きあう現代日本の稀な作家であるが、残念ながらこの課題に関しては宗教が専門領域である。この分野に彼がどこまで食い込めるあろうか。というより、小説が宗教に代わってメタファな世界と実体世界を結ぶ事が出来るだろうか。
 文学作品はメタファーな世界である。作家の空想力と言語的表現能力、そして事実と体験を組み込む事で読者をその世界に引き込む事が出来る。村上春樹の海辺のカフカは、そうしたメタファな世界と現実を織り込み、読者を彼の小説世界導く。しかし、虚構を現実感あるものにする手法であるが、それ以上ではない。虚構によって世界は変わらないだろう。夢は人を虚構の世界に導く事はできる。歴史的な世界の記録、メタファな世界、記録や手紙、夢といったものを組み合わせ、戦争、性、暴力、愛と青春を描き出した。小説にはそれを信じたり、実行するという事があるとすれば、現実との衝突を結果的に引き起こす。読者にどこまでインパクトを与え、心をとらえるかが作者の楽しみだろう。


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