<   2009年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

1.日本のプロテスタント教会の試練
 
今日、我が国のキリスト教会は戦後の盛り上がりの中で信仰を得た信徒が、高齢になり、次々と召された。世代交代の試練のときである。会員減少傾向の教会が伝道の活性化を求められているが、昭和世代の減少に見合った数の次世代の若者が入って来ない。かつての賀川のような神の国の実現を牧会の基盤とするならば、何が求められるのだろうか。信仰の証としてその時代の社会的要請に応えた戦前の教会は教育と福祉に大きな影響を与え、その結果、日本のその分野の基盤を準備したといえる。この分野は当時より専門化し、さらに、教会活動の範囲を超えて現代では国家的課題となった。

賀川の神の国運動は、大正から昭和初期まで日本のキリスト教の先達として盛り上がりをもたらし、賀川の著書、「死線を越えて」はベストセラーになった。しかし、彼の活動も戦時に国家主義に吸収され、日本のプロテスタントがむしろ、戦争協力側になった事について、その反省が長い間、戦後の教会を揺るがした。反靖国運動や万博キリスト教館問題、沖縄反戦運動などから今日まで混乱は続いた。教団教会は戦争に協力した事への反省もあり、社会活動に関しては幼稚園の経営や福祉施設の運営は続いたが、活動目標は戦前の活動から断絶してしまった。戦争中の軍部からの圧迫に各教会は壊滅的打撃を受け、苦労した事が占領軍からは同情され、支援物資等が送られた。そのことが、戦争中のことは被害者として受け止められ、軍国主義に組み込まれた事への反省は遅れた。日本基督教団の戦争告白は議長鈴木正久教団議長名で66年になされたが、教団の存在そのものが戦時体制によったものであったから、その後の活動は社会との関わりにおいては曖昧なまま今日に至っている。

 このことを今日も批判する人々はドイツのプロテスタント教会がナチスに非協力であったことをあげて、そうしなかった日本の教会を非難する。ドイツのナチスはプロテスタント各派を攻撃したが、キリスト教を禁止した訳ではない。ドイツのルター派はあまりにも分立が激しく、統合しようとして上手く行かなかった。だから、福音教会での礼拝はナチス党員の嫌がらせはあったが、過激な説教をしなければ自由であって、ユダヤ人や共産主義者が受けた抹殺という迫害とは比べ物にならない。もし日本で抵抗したら、恐らく、ドイツのユダヤ人や共産主義者の扱いに近く、キリスト教徒は非国民としての扱いを受け、大変な事になっただろう。日本のキリスト者は少数グループであり、一般国民の支持もない。ドイツでは兵士も含め、軍の上層部にも福音派の信者が多かった。ヒトラーを暗殺しようとした参謀のトレスコウやシュタウフェンベルグはナチであったが福音派の信者でもあった。この差を知らずに非難しているのである。

 熊野義孝氏などは教会の基盤の危うさを感じていた。日本基督教団は何も信仰的に一致した各派の合同ではなかった。明治期に一致教会としての超教派目標があった。教団は戦争遂行のための国家統制で生まれたもので、長老派もメゾジストもごった煮的に一緒にさせられた。当時の教会で反戦やこの故に抵抗して投獄されたような人はいない。もともと、かつて一致教会をめざした理由は、欧米のような宗派対立を避けようとした内村鑑三等の米国留学組の配慮がはたらき、教派を越えた一致運動のルーツがあったことからであろう。だが、明治期の一致教会は不成功に終わり、個別の教会に閉じこもる傾向もあった。教派を主張しない事が伝道上日本人の感性にあっていた。だから、長老主義といっても組織的には未整備で今なお中会ー大会という長老派が成立するための基本的運営基盤が無い。形而上的な概念が支配している点が奇異だが、日本人は実は抽象的概念によって行動する特殊能力を持つ知的レベルの高い国民である。そこで、信仰告白も統一の方向に向かい、原理的になる。原理主義というのは求心的で、目的遂行のために直線的に行動しやすい。 真剣になればなるほど周りが見えなくなる。
連合長老会という牧師を主体とした教会連合が生まれた。しかし、これは何とも内向きなグループなのである。実は組織は社会的な影響を与えながらシステムとして、様々な機能が必要なのである。その一つとして連合長老会の良き働きに期待したい。しかし、その重要な要素である社会福祉に対して教団は冷淡であった。福祉は国がやるから教会は一歩引いて良いと考えた。これに取り組む教会は孤軍奮闘である。教育に当てはめれば、公立学校があるから私学はいらないとか、ミッションスクールは不要だということと同じである。戦前の教育を受けた、例えば阿部四郎氏以降、日本のプロテスタント教会に福祉で発言力のある人材は育っていないのではないだろうか。カトリックには多くの人材がいるのと対照的である。戦争告白後、教団の活動に戦場になった国々への贖罪的行動や活動目標は設定されていない。すべて、国家がやることとして放棄しているかのごとく見える。日本政府が戦争責任や賠償などの政治的行動を行ったことに便乗しているだけである。だから、アジア諸国との連帯も行われていない。教団が組織的に理想的な状態になってからというのではいつのことになるのだろうか。教派を超えた団体としての存在は東京神学大学として結実しているが、牧師の生活維持、福祉管理団体以上の結果は出ておらず、未だに混迷している。要するに、牧師の養成と維持だけで精一杯なのである。

 2.戦後の繁栄から混乱

 一方、我が国は世界有数の産業国家になった。アメリカの占領下、一時的に教会は隆盛の時期を迎え、信徒数も増え、ドイツやアメリカに多くの牧師や神学者が留学した。アメリカの占領下、日本人はキリスト教に対して西洋社会の窓として、多くの若者が教会に来るようになった。今日の世代交代はこの時代にクリスチャンになった人々が、引退し、天に召されるようになったということである。ところが、明治の先人とは違い、留学から多くの学者が帰国したのに社会的な発言力は減退する一方である。むしろ、アメリカではベトナム戦争の混乱、ドイツにおいては東西冷戦に直面する海外の教会の問題に出会い、保守的な欧米の教会を日本に持ち込んだようにも見える。彼らはエリートとして欧米の大学に留学したが、必ずしも欧米の実情は求めたものではなかった。帰国すれば安保や大学紛争に揉まれた。帰った大学は社会に対する指導力を失っていた。教会も神学校も高度成長にあった産業社会の波に飲み込まれていく。働き盛りの世代の礼拝出席者や神学校を目指す青年の減少である。教会の社会への関わり、さらに神の国の実現という信仰告白の道と、教会形成という二つの流れは日本の教会の大きな課題であり続けている。

3.社会の苦難を共に担うこと
    
 この隘路を切り開く方法を3つあげると、一つは若者の精神的空白をどのように埋めるかである。二つ目はアジア、特に韓国や中国といった教勢著しい国々に学ぶこと。三つ目は今日の国家的課題、特にボーダレスになった社会のひずみに教会がしっかりとした姿勢を持つ事である。例えば、平和活動の世界的連帯や女性の社会的進出に貢献する事である。 
 今の若者に精神面での悩みはつきない。我が国の自殺者が3万人を超える時代に対して教会はどこまでかかわれるのだろうか。その原因には派遣切りなどの失業問題が関係しており、精神的な問題はそうした経済現象の結果でもあるから複雑である。これは雇用がボーダレスになり、終身雇用を制限し、また、女性の雇用が増えたからである。これから社会を担う30才台の人達に犠牲者は増えている。しかし、世の中には病院も心療内科もあるから教会の出る幕は無いとすると、日本のキリスト教は仏教のように葬式宗教化するのだろうか。長老派の教会は社会の流れとは一線を画して教会形成と礼拝を中心に、伝統的姿勢を守っている。教会形成にむけて、きちんとした聖書解釈と礼拝を整える努力、正餐の厳格化も必要である。このことは間違っていないが、若者を引きつける魅力に乏しい事も感じている。教会に来た若者は高齢者ばかりの礼拝にかえって孤独になりかねない。
 有機農法の国際研修機関でキリスト教主義のアジア学院という学校法人が栃木県那須塩原市にある。長老の一人が校長をしていたので、教会として支援している。修養会というと逃げ出す若者もワークキャンプには体験に来て、礼拝にも参加する。海外でのキャンプで信仰に入る人も多いという。何も、アフリカやフィリピンの教会の真似をすればいいという事ではないが、そこで得た体験と信仰の喜びを抱いている若者を日本の教会がいかに支えられるかも課題だ。そうした活動に加わる人々に力を与え、教会に集うようになるかである。また、教会員の中には、町の精神を病んだ人々の憩いの家、エナジーハウスというNPOに尽力されている御婦人もいる。まさに、こうした現代病に教会がどう取り組むのか。心を病んだ人にこそ教会は手を差し伸べるべきではないのか。3万人が自殺する世の中をどう見るのか。そして、若い人の信仰の情熱をいかに掴むか、受け入れる教会がそうした社会活動の精神に霊的な力を与える教会形成、礼拝説教、活動の場を用意する時機が来ているのではないかと思う。又、社会活動から伝道に向かう場合、そこに適材が振り向けられるかである。我が国には既に多くのボランティアがNPOなど活動の基盤を持っており、教会が社会奉仕の専売特許をもっているわけではない。特に精神医療や福祉は専門性が高く、中途半端な奉仕のために、逆に教会の評判を落すリスクもある。その中で、若い人を引きつける大きな目標と教会形成を結びつけるものが何かだ。キリスト教の利点は国境がないことである。信仰共同体は国境を越えており、ボーダレスだからその利点を生かす事だ。
 アメリカの教会はかつて、ネオコンと結びついたり、国内の中絶問題や同性愛者の権利などを政治に巻き込み、社会を分断し、不毛の結果をもたらしたという反省期にある。福音派を利用したネオコンやブッシュ政権の後遺症はあるだろうが、彼らの転換は早い。経済も日本より早く復旧しつつある。世界不況の張本人なんだが。アフガニスタンを別にすると新しい動きが既に始まっている。素晴らしいのは社会全体が大のためには小を捨て、戦略的に転換する事である。その反面、国は3分の1はすぐに変化するが3分の2は大河のごとく50年単位ぐらいにしか変化しない。オバマ大統領の出現はアメリカ社会のダイナミズムを感じるが、内情はもっと複雑だろう。しかし、核の問題に対しても、また、地球温暖化対応にしても大きな目標を掲げるに至った。また、ミャンマーやアジア、アフリカの苦難についても関心を寄せるようになっている。世論全体が、内向きな問題ばかりに取り組んでいては何も変わらない事に気づいたのだ。かつての右派福音派の過激牧師達は教会から追放の憂き目を見ているという。アメリカという国は建国以来、プロテスタント各派が自治体を築き、政治と宗教が一体であった国。これは今日も同じだ。大統領の性格は彼らの信仰生活も反映している。あの国の教会と国家は今日もつながっている。日本の教会にはそうした戦略を導くリーダーが不在である。育てようとしなかった。その結果、何でも細かい事、重箱の隅が良い事だという、みみっちい世界が今の日本のキリスト教会だ。社会という大海に乗り出すにはそもそも、個別の教会では無理がある。これを支援する筈の日本基督教団は末期の官僚の世界のようだ。洞察力とか、推理力が全く働かず、後ろ向きにボートをこいでいるようだ。そもそも、ボートは陸に行くための乗り物で、海には出られない。想像力が無いから、誰が苦しんでいるかも分からない。社会の荒野の中で十字架をどこで背負うのかが見えない。

4.明日に向かって

 今年は賀川豊彦が神戸のスラムで活動を開始してから100年である。彼の作った生協は今日日本最大の流通事業である。彼は日本の労働組合活動の先駆者である。また、世界政府を提唱し、今日の世界のNGO活動を先取りしていた。彼がもし、戦後もこの活動だけを続けていたならば、マザーテレサより早くノーベル平和賞を受賞していただろう。終戦直後にノーベル賞候補になったことを記憶している人は少なくなった。今日、賀川豊彦が活動した時代に比べると、世界はボーダレスになっている。しかし、テロに悩む先進国家、地球を何十回も破壊できる核の存在は国境を超えて脅威であり続けている。民族や国家を超えた世界政府的な対応こそ神の国の実現である。
 女性の社会的進出に対して教会はどこまで精神的な支援が出来ているだろうか。何も保育所を開けと行っているのではない。今や50%が共稼ぎの世帯の時代、そのような人々の心に対応できているのだろうか。又、我が国は貧困という聞き慣れない言葉が実体として無視できない状態になった。こうした諸問題は単独の教会内部で議論しても問題が大きすぎる。東京神学大学は自らの存立が危うい状況では余裕が無い。かつて、ヨーロッパでフリーメイソンがフランス革命を、アメリカでは独立戦争を育んだような独立した集団で、社会的に影響力のあるグループが提言していかなければ解決の糸口は無い。
 神の国実現に向けて社会に働きかけ、情熱的な牧会を目指した戦前の教会の賜物を引き継ぎ、その限界を学び、内弁慶になった現代の教会を新たに社会と結びつけるものは何かである。プロテスタント教会の宣教150年を機に、教会形成と伝道を社会的な要請に即して調和させることが今求められている。教会の社会認識を高め、その答えを御言葉から導き出す努力をさらに求め、信仰者として祈る事から全てが始まる。 求めよさらば与えられん!  
                                         (完)


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 村上春樹の1Q84読んだ。久しぶりに小説を読んだことになる。最近は小説は作り話という偏見から、殆どノンフィクションか論評的なもの、新書、聖書しか読まない。何故これを読んだというかというと、オーム真理教がヒントになっているというからである。自分はあのオーム真理教に何故あのように若者が集まり、大事件を起こすに至ったかがいまだに分からない。このあたりから、日本の若者は精神面で変化し、宗教ばなれし、教会にも来なくなったような気がする。そこで意気込んだが、この本から答えは読めなかった。彼はそもそも宗教にはあまり関心が無い人みたいだ。だから、今年イスラエル文学賞授賞式で行ったとき、基調講演でガザ侵攻を堂々と批判した。彼らの宗教的な動機もあの問題には重要なのだが、その辺り無神経だから、イスラエルに辛辣な批判が出来たのだろう。でも、あのあたりから、村上春樹はなかなか勇気のある男だなという印象を持った。海辺のカフカ、ノルウェーの森などの名作があるがいずれ読んでみようと思っている。1Q84を読んで最初に感じた事は何とも劇画コミックスみたいな小説だなあということ。作者はきっと映画化も視野に置いているに違いない。といってもこのオマージュとしては映像にしにくいところもある。空気さなぎとか、リトルピープルをうかつに映像化すると滑稽な感じになってしまう。この小説は一種の大人の童話であるが、恐怖とか不気味なオカルトも取り込まれている。パラレルワールドというSF的不思議空間の話でもある。
ドラマは天吾という影のライターが「ふかえり」という少女の書いた小説を出版社の陰謀で書き換えて出版したところそれがベストセラーになってしまう。そこから恐怖のカルト集団が不気味に動き出す。彼の周辺の人物が消えていく。もう一人の青豆という女殺し屋は元エホバの証人を思わせる集団の家庭に育ち、そこから脱出した過去を持つ。彼女は柳屋敷という豪邸に住む老女がスポンサーになっており、DVを行うエリート男を消していくのが生き甲斐なのだ。青豆と天吾は小学校のときに出会っているが、この二人のストーリーが並行して進んでいき、最後に接近するところで物語は終わる。
しかし、この中の人物像は何とも小生のような小市民には理解しにくい。自分の周囲にはこんな感じの人は全くいない。主人公の天吾という人物は予備校教師であり、ライターであり、また、柔道もこなし、ドラマーもやっている。一人暮らしで人妻のセックスフレンドもいる。一種の現代のヒーローかもしれない。管理社会の外にいて自由な生活スタイルが取れる。一方、もう一人の主人公、青豆も整体師というかマッサージとマーシャルアーツのインストラクター兼殺し屋であり、これも結構奔放な性生活をしている。愛の無い代償行為のようなセックスだが、二人の主人公は結構相手に困らない。そこが売りだが,流石に村上春樹はポルノにならないように行為までの過程を大切に描き、実行シーンは淡白に描いている。現代のヒロインなんだろう。あまり美人に描かれていないところ良い。この根無し草のような2人は現代の若者のメタファだろうか。「ふかえり」という不思議な美少女、リトルピープルという謎の存在で訳が分からなくなる。月も2つ見えるパラレルワールド世界だからリトルピープルなるものも登場するのだろうか。カルト集団の内容はかつての左翼革命集団から変身した宗教団体という説明だが、実際のオームはそうした社会思想性なかったから、そのあたりはいかにも作り話になってしまう。しかし、登場人物は皆、孤立した人生と不遇な子供時代を送っている。愛情の欠けた家庭が生んだドラマなのだろうか。カルト集団は神秘的な能力も持ち合わせているが、その説明は無い。どうして教祖がそれほど天吾や青豆のことを知る事が出来たのかも分からないが別の世界の出来事だからだろう。奇妙な作風と文学手法が現れたものだ。
 まともな家庭生活は殆ど描かれない。登場人物は皆、家族の愛情を失った人々だ。ファッション、ジャズ、クラシック音楽、自由な生活、そしてグルメなレストランや食事。これらが彼らを慰めてくれる道具立てだ。宗教は神秘的な能力を持った教祖と、盲従する信徒で構成され、明確な教典は無い。実態は不気味な調査能力と報復をする暴力性がオウムと重なる。山梨の山中に集団生活をするカルト集団でほとんどオーム真理教がモデルだが、彼らの心情を描く事は出来ていない。村上春樹はこの問題には関心があって、アンダーグラウンドという小説ではこの事を中心に書いている。このさきがけという集団は武闘派と宗教派がいて、武闘派は警官と銃撃戦を行って壊滅しているという設定。残った連中がヤマギシ会のような宗教集団になっている。ライフスタイル教とでも言うものだろうか。DVを行う男を正義の名の下に青豆は柳屋敷の老人の支持で暗殺していく。これはオームのポアを思わせる。リトルピープルというのはカルトのメタファであろう事は推察できる。この小説の終わり方を見ると、村上春樹はもう一冊続編を書くだろう。

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     二つのプロテスタント教会  

1.祖父の教会と賀川豊彦

 大学卒業の直前、国立教会の宍戸牧師に導かれ、信仰告白した。就職後、市川の実家に帰ったので父が長老を務める牛込払方町教会に転会した。長老派の流れを汲む教団の教会である。幼児洗礼は祖父が牧師をしていた福岡県田川市の日本キリスト教団田川教会であった。この教会はメソジストの伝統を持つ教会であった。自分の教会観というのはこの2つの教会の体験が二重の層になって出来上がっている。日本のプロテスタント教会の歩みを象徴するような2つの信仰のあり方を体験したことになる。
 祖父米倉次吉は自分の信仰の出発点である。次吉が長崎のミッションスクール鎮西学院で洗礼を受けたのが1909年で、教師を勤めた後、2年後に関西学院の神学部に入学、伝道者としての道を目指した。そこで出会った賀川豊彦の活動に参加した。
 今年は賀川豊彦が社会活動を始めて100年になる。100年前第一次世界大戦の戦時景気で世はバブルの様相であったが、労働者は社会保障も無く、悲惨な状況にあった。その中で1909年神戸新川のスラムに入りイエス団という奉仕と伝道活動を行った賀川豊彦は関西学院の神学生だった祖父に影響を与え、その後の伝道活動の基盤となった。当時、祖父は、仲間の矢田文一郎、伊藤平次等の諸氏と毎集会に出席、イエス団を支え、スラム児童の世話に、また伝道によく奉仕した。イエス団は今日も社会福祉法人と学校法人として幼稚園、保育園など38の施設を持ち、神戸、大阪、京都など関西地区で活動している。
 当時、イエス団の代表的な活動は歳末奉仕であった。ひとつは餅をつき恵まれぬ家庭百戸に対し一戸当たり一升分を贈呈していた。いまひとつは、毎年古着の寄付を各教会に依頼し、これを纏めて古着市を開き貧しい人たちに最低値段で分配し、更に売上金をもって児童の学用品その他を支給し、多くの人たちに奉仕をしている。
 賀川豊彦は労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。今日、彼の考えは生協として受け継がれ、日本一の流通事業に発展した。年間総事業高3兆4千億円会員数2500万人という巨大流通事業であり、明治の伝道者の気概が今日も脈々と流れている。今もコープこうべのホームページには「平和とより良い世界のために」という彼のスローガンと共同生活の可能性についての賀川の理念の紹介が書かれている。
 祖父はその後、メソジスト教会牧師として九州各地を2〜3年で巡回した。大分県臼杵で6年杵築では7年在任し、仏教王国の中で困難な農村伝道を行った。杵築は士族屋敷も残る封建的な土地であるが、山路を超え、徒歩で農村をまわり僻遠の地で「草の根」の信徒を訪ね、共に聖書を読み祈る伝道活動であった。農村神学校の活動も賀川氏の提唱する活動で、禁酒運動にも熱心であった。困難な中、田舎臭い祖父に導かれた人々と、家族の団結は彼の宝であった。
 中でも、杵築中学で教鞭を取っていた澤正雄先生は祖父から導かれ、受洗した。彼はその後熊本の回春病院で救ライ活動で有名なエダ・ライト女史を支え、後に新宿高校、桜美林大で英語教師として活躍し、慕う卒業生は多く、一橋YMの斉藤理事長もその一人である。1938年に福岡県直方、3年後に田川市と27年間炭坑町の牧師として奉職し、70才まで炭坑に働く人々の伝道活動に情熱を注いだ。その間、賀川豊彦は講演活動等の支援にその田舎教会に訪れている。祖父のひたむきな伝道への情熱には家族全体が軍隊の一小隊のように応援せざるを得なかった。交通も不便な時代で、どこへ行くのも徒歩であったから、祖父は根気良く賛美歌を詩吟にして歌いながら伝道した。母はオルガニストとして女学校時代から礼拝を支え、母や他の姉妹も付属の幼稚園の先生になるべく、清和などのミッションスクールに行って当時としては先進的な幼児教育を行っていた。長男の叔父、米倉充は九州大学の哲学科から、アメリカのドゥルー神学校(後にマクグラスも教鞭を取っている)に留学し、長崎の活水女学院や関西学院の教授を勤めた。79年に芥川賞を取った主婦作家、重兼房子さんも田川教会で祖父から受洗した。叔父も田川の実家に帰ると教会学校の教師もしていたから、まさに家中が祖父の伝道に巻き込まれていた。父が戦後復員し、三井鉱山の田川鉱業所に転勤し、祖父の教会に来るようになったが、その時母と結婚したのである。自分はその祖父の教会で昭和22年に生まれ、父の転勤で3才で上京し、千葉県市川市に住んだ。祖父が教団の仕事で上京して来たり、高校生の時に九州に行くと、食事のときや、寝る前等普段は適当にやっていた自分に取って、いつも祈ることを要求されて困ったが、その体験が今の信仰生活にも生きている。父はこの田舎牧師の次吉をとても尊敬していた。だから、聖職者はいつも貧乏で、世事に疎く、無私の存在で、クリスチャンというのは皆そのようになるもの、俗人は到底信仰生活は無理だと思っていた。自分にはそうした祖父のようなキリスト者は荷が重かった。
 実は祖父の姿に疑問も持っていた。賀川豊彦がそうであったように、明治の男の特徴だろうか、妻や子供の迷惑は顧みない。大目標のためには家族は常に従うしか無かった。祖父を支えた祖母やその家族は献身的に協力せざるを得なかったが、同時に田舎の炭坑町で戦争中の家族の苦難には無関心であった。戦争中に特高につきまとわれたこともある。警察官からキリストと天皇はどちらが偉いと聞かれたりした。そんな時は、比較すべき対象ではないと答えたと聞く。祖母は牧師婦人として6人の家族と教会員の世話や雑務を支えたから、家族に取っては祖母は聖人であった。祖父は牧師という職業人ではあるが、善き家庭人ではなかっただろう。現代においてはこの調和も要求される。自分が信仰に入ったのは祖父のことから一歩間を置くようになってからである。
 祖父の説教は伝道活動の体験や信仰に至った青年の話とかが記憶に残っている。聖書解釈などは上手くなかったと思われる。田川教会には三井鉱山の幹部の家族も多く、田舎の社交クラブでもあったから、スマートな説教を望んでいる信者もいて、そうした信者の不満に家族は悩んでいた。その万事につけて不器用ではあったし、都会の教会に招かれる事は無かった。叔父の充は次のような思い出を書いている。「いつも黙々と行動し、地味で目立つ事の無い人柄の彼は醇朴で正直な農村や鉱山の人々の間にいるときが最大の喜びであり、慰めであった。不思議な事にこのような人々から、いつも変わる事の無い尊敬と愛情を受けたが、これは田舎牧師の特権であり、天与の賜物であった。」祖父は田川教会の牧師を70まで続け、大分県の湯布院で92才で召された。

2.歴史の古い牛込払方町教会

 父は東京の牛込払方町教会で中学生のとき、女子学院の学生だった叔母に率いられ、当時アメリカのユニオン神学校出の田島牧師に導かれて受洗した。東京商大専門部に入学して応召するまで、戦中の困難な環境の中、青年会で信仰を育んだ。YM会員の戸叶先輩やカトリックの白柳枢機卿の兄と同級生であった。叔母の長男で従兄弟の昭彦が長老をしている田浦教会にYMの先輩 阿部史郎ご夫妻が教会生活をされている事を知ったのはつい最近である。父は東京の洗練された、英語もご夫妻上手で一徹な田島進牧師にも傾倒し、その後教会の長老をしていたときも口には出さなかったが歴代の牧師と比較していたと思う。父はそれとは対照的な、地味で小柄な田舎牧師であった祖父を信仰の面からは最も尊敬していた。
 日本のプロテスタント教会は明治6年禁教が解かれる1年前、明治5年に横浜で日本キリスト公会として生まれた。牛込払方町教会は5年後、新宿区の牛込の地に生まれ、日本で初めて牧師になった小川義綏(ヨシヤス)師が初代、2代目がヘボンと共に聖書の翻訳に貢献した奥野昌綱師が牧師であった。横浜に来た米国の宣教師達は幕末の志士に大きな影響を与えたフルベッキ、ローマ字で有名なヘボン博士、クラーク、ジェーンズ、バラなどの米国人宣教師達は母国でも上層階層の人達であった。ヘボン博士はプリンストン大学出身の眼科医、クラークはアマーストカレッジからドイツで博士号を取ったし、ジェーンズはウエストポイントを出た北軍の将校であった。彼らは米国では勝ち組で、当時の日本人青年に布教したが、その中心は札幌農学校の生徒など旧武士階級とその子弟であり、又,宣教師とは対照的に明治維新では負け組であった。札幌農学校でクラーク博士が「青年よ、大志を抱け」と述べた事は有名であるが、そこにいた青年達はもともと家族の期待を一身に受けて、後に内村鑑三や新渡戸稲造、新島襄などアメリカに留学した人達も多く、言われなくとも大志を抱いていた人々であった。日本のプロテスタント教会が武士階層や社会の上層部を中心に伝道が進められたことは日本の近代化に貢献したが、その後の教勢の拡大を制約する原因にもなった。宣教師達とは後に対立するようになったし、教会形成においても、主知主義的傾向が強く、東京大学の学長や教授がクリスチャンの典型では教会も敷居が高かったのである。韓国や台湾の教会が庶民から伝道活動を成功させ、大きな勢力となっているのとは対照的である。原始キリスト教の時代も使徒達は徴税人や漁師、その後は奴隷、機織り職人、洗濯人、奴隷、職人、底辺の婦女子から信徒を集めたことを考えると、やはり日本は特殊である。
 宣教師達はニューイングランドのピューリタンであったことが、その後の日本のプロテスタント教会に大きな影響を与えた。彼らは聖書を日本語に翻訳し、ミッションスクールを設立した。日本の近代化に残した足跡は大きい。と同時に、日本の教会にピューリタンの倫理も持ち込んだ。日本のクリスチャンに「敬虔」という接頭語がつけられるのはそのためである。明治のプロテスタントは我が国の近代化に多くの貢献をしたが、そのいくつかを紹介すると、禁酒運動とか、一夫一婦制、更には廃娼運動があげられる。戦後も売春禁止法の成立に日本のクリスチャン婦人の団体、婦人矯風会の貢献は大きく、その中心が宣教師の影響を強く受けた禁酒運動や廃娼運動の中心、久布白落実や矢島楫子であった。この偉大な二人の活動家は牛込払方町教会の会員であった。
 彼らは日本の女子教育にも力を入れ、女子学院、東洋英和、津田塾、東京女子大などの今日の名門校が産声を上げたことからも、日本のキリスト教の布教において、女性の役割は大きかった。当時の日本は男性社会であったが、特に士族の没落とも相まって酒癖の悪い人が武士階級にも多く、家族に暴力を振るうために、女性は苦労した。例えば、首相にもなった黒田清隆などは酔って刀を振り回し、妻を斬り殺したが酔った上の事として罪に問われなかった。女子学院を創設した矢島楫子は夫から、手裏剣で刺されたりした。また、江戸時代からの伝統で、妾を持つ事は余裕のある家庭では当たり前のように行われていたし、士族階級でも、女癖は悪かった。これらを罪とするキリスト教は教養ある女性には救いの道に思われた事であろう。アメリカの禁酒運動が実は新興勢力のカトリックを抑えるための教派闘争が背景にあったのに比べると純粋なものであった。現在も矯風会館が新宿の大久保駅のそばに残っている。プロテスタントが当時の武士階級や富農層から布教されたことが今日のプロテスタント教会を大衆から敷居の高いものにしたが、当時の女性からキリスト教が根強く受け入れられていったことは注目すべきである。今日も、教会の礼拝の出席者はどこの教会も女性が男性の2倍はいて、教会形成の基盤となっている。結婚式をキリスト教で挙げたがる傾向も、女性の好みが強く出ており、日本の女性にキリスト教は好感度が高いのである。
 しかし、第二次大戦が終わると、日本の教会は社会活動から次第に遠ざかるようになった。払方町教会においても、故深津文男氏のように房総の「かにた村」という人身売買の被害者の更生施設を運営することと礼拝の説教内容とのギャップに悩み、結局、教会から離れていった信徒もいた。 日本のキリスト教会の実情は戦後の盛り上がりの中で信仰を得た信徒が、次々と召され、どこでも世代交代の試練のときである。ところが、昭和世代の減少に見合った次世代の若者は教会に来ないのがどこの教会でも共通の悩みである。しかし、日本の女性に対する貢献において自信を持って良いだろう。これからの教会における女性の力は大いに期待できる。

3.典型的な日本基督教団の教会ー牛込払方町教会と日本のプロテスタント教会

 08年は日本のプロテスタント伝道150年、さらに今年は賀川豊彦が社会活動を開始して100年である。明治のクリスチャンは大きな目標に向かっていた。若者も情熱を燃やす事に値する使命に燃えていた。今、150周年は日本のプロテスタント教会の伝道活動、さらに社会貢献の意味を考える機会である。賀川豊彦はこれまで、偉人としては認められているが、日本の伝統的なプロテスタント教会からは引き合いに出されることは少なく、むしろ過去の存在であった。このあたりに何か見落として来たものがあるのではないのだろうか。教会の社会への関わり、さらに神の国の実現という賀川の課題と、社会の流れとは別に存在する教会形成という二つの流れは日本の教会の大きな課題であり続けている。
 牛込払方町教会は日本キリスト教団の長老派教会として創立132年目を迎える。牧師として加藤常昭師や松永希久夫師が奉職され、東京神学大学とはご縁が深い。日本のプロテスタント教会の典型とも言える教会ではないかと思う。私がこの教会の記憶として残っているのは1952年に両親と日曜礼拝に行った時で、幼少であり説教とかは記憶に無い。父は5年前に召されるまで長い間長老をしていた。この教会の当時の青年会の仲間が大学教授になったり、社会的な指導者として立派な活動をしていたことを誇りにしていた。自分がYMの寮生として信仰の世界に接し、信仰告白をした時から40年になろうとしている。当時の払方町教会の青年会には東大の学生が8人もいて、バルトやボンヘッファー、トゥ—ルナイゼン等を読んだし、普通の学生もマルクスだけではなく、キルケゴール等も結構読んでいた。彼らは大学紛争が終わり、社会人になると会社や職場に専念し、教会から卒業し、当時の会員は残っていない。また、70年当時の万博キリスト教館問題や社会問題に関心を持もった若者は教会を去った。そうした青年は今や60才代だが全く教会には来ない。時々来る青年は、教会に新しい哲学や思想を求めているわけではない。精神を病んだり、仕事や人間関係の悩みを持った若者が多いのであるが、教会はなかなか求道者を掴みきれていない。我が国の自殺者が3万人を超える時代に対して教会は無力なのである。これから社会を担う30才台の人達に犠牲者は増えている。世の中には病院も心療内科もあるから教会の出る幕は無いのだろうか。世の必要とする道を教会は備えることができていない。

 日本は今、100万人のキリスト教徒がいると言われる。日本の伝道活動は成功したのだろうか。数の上から中国や韓国に比べると不成功の部類である。しかし、かつて植村正久や内村鑑三の時代には100万人を目指したことを考えると、何とか達成している。これはカトリックも含んでいるし、福音派の教会や、愛餐を中心にする教会は結構出席者が増えている。長老派の教会はこうした方針を持たない。不調なのは日本キリスト教団であって、今や自分の世代から高齢者までしか礼拝に来ないのが実情だ。有機農法の国際研修機関でキリスト教主義のアジア学院という学校法人がある。牛込払方町教会の長老の一人が校長をしていたので、教会として支援している。ワークキャンプには多くの若者が体験に来て、礼拝にも参加する。海外研修で信仰に入る人も多いという。ところが、その体験と信仰の喜びを抱いて日本の教会に来ると、教会に行くのをやめてしまうと言われている。何も、アフリカやフィリピンの教会の真似をすればいいという事ではないが。
 また、教会員の中には、町の精神を病んだ人々の憩いの家、エナジーハウスというNPOに尽力されている御婦人もいる。まさに、こうした現代病の中に教会がどう取り組むのか。心を病んだ人にこそ教会は手を差し伸べるべきではないのか。そして、若い人の信仰の情熱をいかに掴むか、受け入れる教会がそうした社会活動の精神との受け皿になるような教会形成、牧師の説教、活動の場を用意する時機が来ているのではないかと思う。この夏日本は民主党政権に交代し、大きな路線変更が期待されている。しかし、日本が本当に民主的な、人間尊重の国家になるためには、人口の10%くらいはキリスト教でなければ達成できないという気概を持ち、日本のプロテスタント教会も目標をもって戦略をたてるべきであろう。
 社会活動に対する教団の教会の姿勢は間違っているわけではない。しかし、我が国の現状において、今日もなお社会活動から伝道に向かう方法もありうるが、そこに適材が振り向けられるかである。また、教会形成にむけて、きちんとした聖書解釈と礼拝を整える努力、正餐の厳格化も必要である。アジア学院、エナジーハウスも教会としては献金とかバザーでは支援しているが、教会員が積極的にこの活動に加わるかどうかは個人の自由である。今、社会活動を進めるには、既にNPOといった形で多くのボランティアが活動の基盤を持っており、教会の専売特許があるわけではない。実は自分は礼拝人数の増えない点は残念だが、地味な山本牧師の説教を気に入っている。今賀川豊彦のような活動家が牧師なら、きっと、逃げ出しているだろう。
 祖父の傾倒していた賀川豊彦が撒いた種は教会の外で大きく育っている。社会福祉や生協、労働組合等だ。彼の目指した神の国をめざすことも我々なりに考えなければならない。しかし、これが教会員の使命だと思うと荷が重い。なぜなら、どんな手段が適切か、方法が見つからない。彼が発案した事業は、生協や労働組合として、既に社会活動の基幹を担っている。教会独自の活動となると選択肢が少ない。教会内部のコンセンサスも議論百出でまとまりにくい。とはいえ、聖書解釈とか、正餐論争は教会形成として必要であり、これだけでも大きな課題である。とはいえこれが教勢の拡大につながるとは思えない。若い人を引きつける大きな目標と教会形成との調和が課題だ。特に日本の教育でのミッションスクールの貢献は大きく、ここでキリスト教を学び、親近感を持つ卒業生はかなりの数になるだろう。これらシンパをどう取り込むかである。でも自分は今の静かな教会と聖書解釈中心の説教が気に入っている。今の教会がもし、賀川豊彦のような活動を自分に要求したら信仰を守る事は難しいかもしれない。社会活動には意見のぶつかり合いもあるし、教会内部も騒々しくなる。人数が少ないのも悪いことではない。大体同じような意見や、教養の人が一緒に日曜日を過ごす事は、安息日としては大事な事である。それがいつもごたついているようでは日常生活に影響し、疲れ果ててしまう。礼拝であんまり興奮するのもどうかと思う。教会は動物園のようでは困る。毎週月曜日がくたびれてしまい、勤務に支障が報じるようでは教会が社会から離脱してしまう。教会は自分にとっての憩いの場、オアシスであってもらいたい。


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1.聖書の起源に関する疑問点ールカ伝と書簡集

 新約聖書はマルコ伝から作られ、二資料説、原福音書とQ資料というのが主流のようだ。最も古い文書はパウロの書簡集であり、その後、パウロの書記と言われる医師ルカの書いたルカ伝がマルコ伝を参考に編纂されたという。年代的には、ローマのユダヤ総督の記録、ユダヤ戦争とヨセフスの記録、スヴェトニウス、タキトゥスなどの資料によって原始キリスト教団の足跡を推定することができる。イエスの活動は起源30年頃1年から3年の間といわれている。紀元70年にはユダヤ戦争があり、エルサレムの神殿が廃墟と化したことは史実として確認できるので、書簡も、福音書の原型もそのころまでに出来ていたのであろう。とはいえ、福音書は殆ど口伝によって伝えられたと思われる。しかし、最も古く、確実なのはパウロの書簡である。パウロは多くの書簡を残しているが、そうした書簡を受け取った人々は恐らく、パウロに返事も書いたであろう。その返事はルカが読んでいたかもしれない。そうしたやり取りの中で残された資料からルカ伝が生まれたかもしれない。ルカが手紙を書いた教会のなかにはイエスを直接知っていた信徒もいたはずである。十二使徒は教団の中心だったと思われるが、その下に執事とか、組織を支える人々もいて彼らの中にもイエスの記憶を持っていた人々がいたと推定される。勿論それらの記録は残っていない。ルカ伝の中にそうした書簡との応答の痕跡をこれからも探っていきたい。

2.外典、資料との関係

 聖書の内容は、何倍もの資料、外典から当時の信仰に則った内容を残してそぎ落としていったものである。当時の原始キリスト教団において資料は作られ、伝承された。これらはアラム語又はヘブル語で書かれた。そうした資料は結局ギリシャ語に翻訳され、さらに筆写されたであろう。当時は専門家ではなく、教団の有志が時には不正確な筆写をしていたはずである。その外典や手紙、資料などで関連性のあるものはどんなものだろうか、それは残っていないのか。ナグハマディ写本などでは共通のものは無いのか。グノーシスの資料はどの程度取り入れられているのだろうか。福音書はイエスの言行録であり、また、伝記としては、恐らく、イエスの受難と復活から書かれ、伝道旅行、生誕の奇跡という順で、主に奇跡物語とパリサイ派やサドカイ派との問答で構成されたであろう。それを改訂する形で筆写されていったものが原点となり、最初のマルコ伝が生まれたのではないか。クムラン教団の遺跡からはエッセネ派の中から義の教師という人物が生まれ、教団を形成し、死刑に処せられたという記録が発見され、これが、唯一、イエスの足跡の記録として、第三者の記録に残っているという。しかし、最も確実なものは聖書である。

3.三位一体

 当時の教団の内外にはイエスキリストをどうとらえるかについて、様々な説が入り乱れた。パウロの書簡にせよ、福音書においても、そうした異端的な解釈に対して防衛する形で記録が残された。様々な考え方に対する消去法的な手法で記録は残された。養子説、アリウス派、エッセネ派、グノーシスもその大きな宗派の一つだ。それらの思想が入り乱れた資料から、当時の教会の信仰に則ったものを残し、今日の聖書の原資料が確立されたと思われる。そこで、神とキリスト、聖霊の三位一体、イエスが神であり、人として苦難を受け、十字架と復活の奇跡を示した事、そして、使徒行伝にある原始教団の成立を基本とする聖書の編纂が行われたことが、最終的にアタナシウスによって正典が確立されていったと考えて良いのだろうか。聖書の中で三位一体を強調する箇所は少ない。これは敢えてそのことを示す必要は無く、当時としては当然のことだった。聖書はむしろそうした信仰の形をもとに編集されたといってよいのではないか。



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