カテゴリ:書評( 114 )

 著者エマニュエルトッド氏は歴史人口学という新たな視点から世界を俯瞰する。日本にはこのようなスケールの大きな学者が少ない。氏は独特の視点からソ連の崩壊、リーマンショック、アラブの春などを予言し、近年ではイギリスのEU離脱を独特の視点から予言してきた。また2015年1月に起きた出版社シャルリ・エプド」襲撃事件後の300万人のデモの正体を「シャルリとは誰か」で明らかにし、批判も浴びた。彼の鋭い視点はどこから来るのだろうか。
 歴史において経済と軍事、社会動態は重要な要素である。歴史学者である彼は、経済学とは違う視点で世界を見ている。経済の問題は軍事のように目に見えないことが多い。統計や消費、株式指標など、3か月~1年以上経ないと統計など判断材料がない。今日、グローバルな国の事情もあり、予測が困難だ。ところが、GDPや購買力実質GDP、人口動態統計、出生率、平均余命、高等教育就学率などから多くを読み取ることができる。トッド氏はフランスにおいてはカトリックの健在な都市や地域特性、家族形態と政治現象も重ね合わせ、新しいい着眼点を得ている。
 本書では今日のヨーロッパが置かれている現実が語られる。それはEU統合後のドイツの一人勝ち状態である。昨年のギリシャのデフォルト危機ではギリシャの経済統計の粉飾やギリシャ人の怠慢、お手盛り年金などが批判されたが、ギリシャの経済を追い込んだのはドイツの経済支配である。ギリシャ国内産業が脆弱になりつつあり、その真犯人はドイツであることを移民政策などから明らかにしている。ギリシャの経済指標粉飾はギリシャがEUに入るようにゴールドマンサックスが粉飾の手伝いをし、ドイツが優秀な人材を移民として吸収し、ギリシャの衰退を招いたことなどを暴露している。ギリシャが衰退することはドイツはメリットである。メルケルはギリシャの金融緩和を抑え、緊縮財政を取ることで締め上げる。
 歴史学者であるトッド氏はイスラムテロ後のフランスの軍事行動や世論が、第二次大戦時にナチスに占領されとときのビシー政権の対応と比較し、反ユダヤ感情をフランスが高め、多くのユダヤ人をアウシュビッツに送ったことを例に、反イスラム主義もカトリック信仰の空白地帯と重ね合わせてこうしたフランスの自由種主義の危機を訴えている。
 今や、メルケルは、ドイツがビスマルクによる大発展を遂げた時代と重なり、東欧、フランスを支配しつつあることを示している。イギリスのEU離脱も、イギリスの外交、経済の主導権をドイツに奪われつつあることの危機を訴えている。ドイツは出生率が日本並みに低く、人口問題を抱えているが、冷戦崩壊の後、旧東ドイツ、東欧やトルコからの移民を使い、また、低賃金の周辺諸国を下請けに、競争力ある工業製品を輸出し、ヨーロッパを支配する経済力を持つに至った。東欧諸国の人々は貧しいが移民は教育水準が高いフランスのオーランドもメルケルの顔色を見ながら追随しているのが実態なのだ。ところが、ドイツも、今回のシリア難民などや出生率sの低下によって、将来の危機を内蔵するリスクを持った国家である。ナチスの時代を生んだ下地はそうした人種差別的階層的な支配構造をもっており、統制的な政治も可能である。一方フランスは自由や平等の歴史を持っている。交通規制で警察が取り締まるときは、高速などで運転者はヘッドライトを点滅させてお互いに警戒を訴える。ところがドイツでは駐車違反をはじめ、違反があれば隣人でも警察に通報するようなカルチャーの違いがある。未来のドイツの崩壊はは即ヨーロッパの崩壊に結びつくほどドイツの影響力は巨大になっている。
 トッド氏はドイツを中心に、ロシア、アメリカの役割と可能性にも触れている。ウクライナはもともと国家基盤の弱いところであった。コサックを産んだアナーキーな地域なのである。クリミアの住民はロシアに親近感を持ち、住民投票の結果ロシアに編入する事態になったが、これをドイツを中心とするヨーロッパはかつてのナチスに重ね合わせたキャンペーンを行った。ウクライナのパイプラインはドイツが最終地点であり、新たに建設計画があるサウスストリームもドイツが支配している南欧が最終地点である。実態は日本では意識されない。氏は今、プーチンロシアはソビエト崩壊から立ち直り、また、アメリカも経済面でも復旧し始め、世界の帰趨はこの二国にかかっていることを主張している。ロシアの高等教育就学において女性は男性よりも高いということに驚く。遠いヨーロッパの出来事は日本では一部の現象しかニュースにならないが、その意味や背景はこうして語られていると世界の動きが見えてくるのである。世界の中の日本が特殊であるわけではない。移民の問題も少子高齢社会において受け入れる方向で環境を整備しなければならない。移民を多く受け入れるドイツの階層社会と統制力、かつて、ユダヤ人やロマなどを抹殺しようとしたご都合主義的なドイツをフランス人の危機感から批判的に書いた本である。しかし、ヨーロッパの危機がどこにあるのか、分かりやすく解説してくれる中身の濃い本であった。イギリスのEU離脱問題は、「問題は英国ではないEUなのだ」という著作で明らかにしている。氏の学問的方法論と世界の歴史的未来予測が語られており、別ブログで触れてみたい。
font>

[PR]
e0195345_6535314.jpg
マレーシアに旅する人、中でもキャメロンハイランドに行った方はとても楽しめる作品である。1968年に失踪した、タイのシルク王ジム・トンプソンの事件をヒントに清張は日本とマレーシアを舞台とする推理小説を書いた。物語は赤坂の骨董店を訪れた織物デザイナーが軽井沢でl印籠を買うことから始まる。このエピソードとは関係がないように見えるが、軽井沢の別荘地でアメリカ人婦人の殺害事件が発生する。被害者はタイシルク王の妹であった。実際はマサチューセッツで殺された姉の事件も迷宮いりとなったが、清張はこの事件にインスピレーションを得た。作品の舞台はマレーシアのイポーに近い標高1600mの高原。キャメロンハイランドはタナラタ、ブリンチャンといった街からなり、周辺の地名が物語に出てくる。今回自分の訪れた訪問地はまさにこの小説の足跡を辿ったもの。高原名物の茶畑も謎解きの重要な要素として登場する。昭和59年に清張はこの作品を書いたが、彼は文壇の大御所となり、まさに油の乗りきった時期の作品である。軽井沢の米人女性殺人事件からマレーシアのシルク王失踪の推理へと長野県警の刑事は現地に行きさらに次々と起きる殺人事件に遭遇する。1968年当時のベトナム戦争が泥沼化しつつあった不安な時代に起きた事件。イギリス軍もまだマレーシアから完全には撤退していなかったし、ジャングルには先住民族と共産ゲリラが潜んでいた。タナラタのホテルからイギリス調のプチホテル、スモークハウス。周辺のゴルフ場から坂道を車で10分ほど登った丘の上にある月光荘は小説では南十字星荘となっている。吹き矢を使うオランアスリーは山岳民族サカイ族として登場。謎の日本人舞踏団や透視の念力、蝶の収集ツアーに加わった青年の惨殺事件を刑事の長谷部は追っていく。現地警察のオスマン警視と部下ダウドウとの情報交換がすれ違い、2つの事件のやり取りの中でドラマが進展する。デザイナー山形と美人の透視術の女助手の関係が事件の全体が見えてくるに従い明らかになる。長谷部の推理が失踪事件の謎を解き明かしていく。様々なエピソードや事件が失踪事件に集約され、奇妙な事件の連鎖が推理の中で浮き上がってくる。清張の円熟した物語展開力ガ光る。現地取材の感動が伝わってくる。熱帯雨林の描写はさすがである。ホテルでの舞踏団の公演が始まり物語はクライマックスとなり、大団円を迎える。清張ワールドが展開する。どんどん物語に引き込まれて行く。清張のジャングル描写はさすがだ。自分も山道を車で走ったときに見た光栄を次のように表現している。正にその通りだった。清張の作品としての評価は高い方ではないだろうか。

渓谷にはところどころ陽が当たっている。それは熱帯森林特有の高い樹の先についた天蓋のような葉の繁茂がきれるところからだった。多少の伐採が樹と樹の天蓋の接続を断ち切れらせているのだ。高度が上がるにつれて、樹林の様相も変わってきた。全てが棒のように高く直立した樹林と、その幹を部分的にしか露出させていない大波のような葉のうねりであった。椰子のような掌状葉から広潤葉にいたるまで、およそ何千何百種もの植物が精力的に自生しているように思われる。林の根方も下草の縺れた繁茂に深く埋められていた。その昏い奥にも、樹上にも、どんな動物がひそんでいるか分からなかった。シダも、日本で見るような地を這うような矮小なものではなく、並木のように亭々と高くそびえていて、その先に葉を傘状に四方へ広げていた。すでにシダの感じはしなかった。
(松本清張 熱い絹262pから)

[PR]
  ローマ帝国という巨大な帝国は西ローマ帝国がBC476年に崩壊するまで続いた。国家が崩壊するというのはどのようなことなのか、また、何故そうなったのかは昔、世界史の授業で習って以来学んだことがなかった。このことに関してはフランスのモンテスキューの研究、イギリスのEギボンのローマ帝国衰亡史が有名だ。これらは大著で自分のような不勉強家には到底ハードルが高い。学説も200を超えるという。21世紀に入り、こうした研究が我々にどんな意義があるのだろうか。また、研究結果も時代背景が影響したものであり、21世紀においてはまた別の解釈も生まれよう。この書は極めて緻密にこれまでの研究結果を誠実にまとめたものとして中身の濃いものである。コンパクトに学問的検証を踏まえて自分のような浅学にも丁寧に帝国の崩壊の様相を伝えてくれる。
  ローマ帝国とは何か、また、滅亡の原因となった異民族の侵入とはどのようなものだったのか。崩壊を招いた政治の混乱と、さらに拍車をかけたキリスト教はどのように作用したのかである。西はブリタニア、北アフリカ、東はシリアからペルシャに接する大帝国は285年〜
293年に皇帝ディオクレティアニスが帝国を分割し、2皇帝、2副皇帝による4帝統治に移行した。皇帝の役割と軍、国境とローマ市民権、周辺部族との関係、周辺都市の姿がどのようであったかを説明することは難しい作業である。国家、民族、部族といった概念は時代の解釈を伴う。異民族の侵攻というと、20世紀ではドイツのソ連侵攻をイメージするし、現代であれば、民族移動は難民の移動などをイメージするかもしれない。しかし、考古学的に検証すると必ずしも、我々の常識とは違った世界が見えて来る。ローマ帝国はヨーロッパで国民国家が生まれた時代のギボンがイメージしたような国家ではなかった。国境があるわけではない。ローマ軍の砦や進出地帯と都市があった。これによって地域を支配した。そして、ローマ的生活、市民文化、そして宗教がローマであった。ローマ人はズボンを履かなかった。周辺部族とは何百年も一線を画してきた。本書で南川高志氏は緻密な文献研究を踏まえながら解説を進め、信頼感ある内容となっている。ローマ帝国の歴史はアウグスチヌスが帝政を確立して以来、476年もの間継続した。分割されてからも183年も続いた。勃興しつつあったササン朝ペルシャに対抗するため、分裂ではなく、広大な帝国を一人の皇帝では支配できない状況から分担し、東西に分けたのである。
  とはいえ、ローマ皇帝は東西に皇帝と副帝がいてこれらが目まぐるしく入れ替わる。東西に分かれたといってもこれらは連携しているので無関係ではない。名前もコンスタンチウスとコンスタンチヌスといった紛らわしさがあり、誰が何をどうしたのか混乱してしまう。あまりに多くの人名が交錯する。まともな皇帝が現れても、結構非業の死を迎えていく。皇帝位がどのように継承されるのか全く、混乱の極みであるがそれを文献や史書にもとづき丁寧に整理している。これだけで大変な作業であり、政策の評価まで説明することは困難である。
 ローマ市民は一種のライフスタイル、文化を共有した概念である。社会的地位でもあり、ファッションや生活様式にも関わってくる。彼らはトゥニカという布を体に巻きワンピースしか着ない。ローマ帝国は宗教でも自由であった。キリスト教が迫害されたのは皇帝礼拝を拒んだからである。コンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認して以来、ユリアヌス帝のように従来のローマの神々の信仰やギリシャ哲学などを復興した皇帝もいたが、のちにキリスト教の一派であるアリウス派を弾圧したり、偏狭なキリスト教徒として異教を弾圧した皇帝にローマ市民の一体感は薄れた。また、勢力範囲の辺境地には強力な軍団が駐屯し有能な将軍が部族との戦いを指揮していた。次第に彼らはこれまでのイタリア人ではなく、周辺の部族から実力を認められて取り立てられた。ローマは有能な人間はどんどん取り入れる自由な国家だった。彼らは戦いに勝利したローマの副帝や将軍を皇帝にまつりあげようととしばしば反乱を起こし、皇帝をも暗殺したりした。皇帝は暗殺や交代、不慮の死などで、統治機能は低下したが、紀元400年前半までは帝国は形を保っていた。それが、後半30年であっけなく崩壊してしまう。ローマ人が自己のアイデンティを失い、皇帝の失政、異民族部族との誤った妥協が一挙に帝国の行政機能を低下させた。崩壊の直接的原因はローマ帝国内部にあり、ローマ人という概念の崩壊が国家機能を失わせたということが南川氏の解釈である。21世紀の新しい解釈がさらに歴史を塗り替えていくのだろうか。ローマ帝国は異民族の侵入によって滅びたというより、移民を排除し、異民族を排斥、キリスト教を強要したり、有能な皇帝が潰されたことで、指導力が低下し、内部崩壊したのである。強い権力が続いた東ローマ帝国は15世紀のオスマン帝国の侵攻まで続いたのである。ローマ帝国崩壊は現代の民主主義の限界。国民国家の機能不全、国境や民族、宗教に関する我々の認識に示唆を与えてくれる。

[PR]
 日本会議という不思議な集団が、安倍政権の陰となってうごめいている。安倍総理の頭は憲法改正の仕組み作りでパンク寸前だ。日本会議は何も圧力団体というわけでもないのだろう。それほど恐ろしい動きをしているわけではないかもしれない。しかしながら、現政権の表向きの姿と違い、投影されているのは奇怪な影である。戦前の国家神道回帰の怪物の影。全くの驚きである。日本会議の価値観はきわめて古臭く、政治の世界で権力があるわけでもない。ところが、現実の政治ー憲法改正はこの思想に沿って行われている。櫻井よしこはその巫女のような存在で会を盛り上げている。山崎氏によると、日本会議と神道政治連盟との結びつきが鍵である。日本会議は38,000人の会員構成だが、300人を超える国会議員が会員である。これだけの議員が保守政治家として行政に影響が無いわけがない。彼らに共通しているのは今の日本国憲法を嫌悪し、東京裁判を否定し、戦後の歴史を自虐史と捉えている。そして、彼らが向かう方向は、何と、戦前の政治への回帰である。大東亜戦争を肯定し、敗戦の原因に対する反省が全くない。人権の尊重を国家の下に見て、個人の権利から生まれる自己主張を批判し、弱者への配慮に無神経である。ナショナリズムの世界的な潮流にベクトルが合っているようにも見える。日本人をダメにした憲法。日本人の価値観に合わない。嫌な人間像を生み出した憲法。戦後のダメな部分は全て憲法と東京裁判史観のせいであるときめつける。
 日本会議のメンバーは戦後の日本をそれほど憎むべきものと考えているのだろうか。今日我々が平和で繁栄を享受しているのは英霊のおかげだという。だから、彼らは靖国神社に参拝する。戦後日本の繁栄と平和を築いたのは英霊であろうか。戦後の焼け野原からの復興に従事した人々、戦前の軍事偏重の政策を拒否して戦後の日本国憲法下で経済発展に尽力した人々ではないか。英霊と戦後日本の平和や繁栄を結びつけるのには論理的に無理がある。もし、敗戦がなければ、北朝鮮のような偏屈な国家で貧困に苦しむ国になっていただろう。
 そんなにも、戦前の第日本帝國は素晴らしい国だったのだろうか。彼らには憲法について誤解があるのではないか。憲法は一国の法律の指針であり、国民が尊重すべき政治的価値観でもあるが、同時に、政府の暴走や専横を抑制する。戦前の人権感覚の希薄な政治リーダーが招いた敗戦や、戦時の「戦陣訓」「捕虜虐待」「民族差別」に関する反省は全くない。東日本大震災で多くの国民が困難にある同胞を支援し、若者がボランティアに駆けつけたのは日本国憲法の成果ではないのか。彼らが酷評するゆとり教育のおかげで勉強をしないでスポーツに専念できる若者が増えた。そのおかげであれだけの金メダルが取れた。戦前ならせいぜい4個がよいところではないか。
 200万人もの軍人を餓死と戦病死させ、無謀な作戦に駆り立てた東条英機が裁かれた東京裁判を国民は容認したのだ。彼らが合祀された靖国神社のような複雑な内容を持つ慰霊の場がそれほど尊重されなければならないのだろうか。天皇陛下は戦犯たちが自分を騙し、苦悩の淵に立たせたことを怒っていることを感じないのか。
自分は集団的自衛権についても容認するし、憲法も改正すべきと思っているが、このような思想と政治的背景を持つ連中の手によって改正されるのは誠に不愉快である。そして、その改正案にしても危険な香りが発散している。日本国憲法は確かにGHQが戦前の日本に戻らないようにがんじがらめに組み立てた仕組みである。だから、今日のような国際的にも重要な役割を果たすようになった我が国には不都合なことが多く見られる。ところが、彼らの改正の狙いは、国体=天皇を中心とする政治と戦後の政治は間違いというムード作り、靖国神社の国家護持、教育基本法の改正、道徳教育を通じての国家意識の高揚、個人の権利の抑制などであり、極端な歴史観、大東亜戦争の肯定、反政府活動の抑圧、軍事行動の円滑な決定の仕組み作りである。戦前の日本はその国家経営に欠陥があったからこそ、敗戦という日本の歴史が始まって以来の悲劇を生んだ。彼らの発想はそれを生み出した仕組みに回帰しようというベクトルを持っている。マスコミに対する口封じや、第二次、三次安倍内閣の成立にも関連し、今後の安倍総理の政策にも影響を増している。
 彼らに言わせれば、今の日本人は精神的に堕落しており、GHQの戦略によって腑抜けになり、家族は崩壊し、滅びの道に向かっている。戦後の平和な社会や、高度成長、世界で信頼される国としての日本はどこかに飛んでしまっている。彼らのメンタリティを理解出来ない。極論を訴えることで存在感を示したいのだろう。日本会議は神道政治連盟につながっている。山崎氏はGHQが国家神道の解体を決定づけた神道指令が日本国憲法の政教分離の根幹であり、これを骨抜きにすることが日本会議と神道政治連盟が一体になっている理由であり、彼らの運動が戦前の暴力装置の回復が狙いであることを看破しているのである。span>


[PR]

本能寺の変431年目の真実 明智憲三郎著 文芸社文庫


 この本の著者 明智氏は明智光秀の子孫にあたるそうである。明智光秀は主君に背いた逆賊と思いきや、その子孫は結構残っており、明智家の系譜であることを隠し、全国に散った土岐一族に側室の子などが匿われたという。処刑された斎藤利三の娘、後の春日の局はおそらく、長宗我部に匿われたと思われる。この本で本能寺の変のみならず、後の秀吉の秀次や利休の切腹命令といった歴史の謎が解かれてきたように思えた。歴史の謎は決定的な証拠がなければ推測の域を出ない。その時代において常識的な思考によって解釈されることは否めない。この書は歴史の解釈に新しい知見を与えてくれた。信長も光秀も世を去り、2人の間にどんな謀議や関係があったのかは闇の中である。しかし、光秀の部下や関係者の手紙などから何が起きていたかを推測できる。この著者、明智氏は過去の太田公一の信長公記、秀吉の惟任(これとう)退治記などの矛盾した記述を解き明かし、又、文書などを検証、比較し、従来の通説や戦記物にとらわれない見解をベースにしている。これまでの戦記物ではない文献を基にしていることが説得力を与えている。通説をもたらした文献の意図が、変の前、5月24日に行われた連歌の会に発句として光秀が詠った「時は今雨が下しる五月かな」という句についてである。句会は直前の28日ではなく、反乱の決意表明ではなかったことを明らかにしている。光秀が信長に対する野望と怨恨によって個人的事情から謀反を起こしたことにしたかった。秀吉はこの句を「土岐氏である自分が天下を治める5月になった」と反乱の決意を述べたものにしたかった。この日付は28日で6月2日の変の直前とした。しかし、真実は24日で自分の属する「土岐氏は今この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる五月である」と詠んだのであった。このために連歌会の当日は雨の日であり24日だったことを文献から3人の日記、多聞院日記、言経卿記、家忠日記を調べている。石谷文書が裏付けた長宗我部元親の記録にあるように信長の長宗我部攻撃を前に、土岐一族の苦脳を伝えたものだった。光秀は土岐一族である石谷氏、家老の斎藤利三、長宗我部と同盟を結んで団結していたのである。それが信長によって崩壊し滅亡することを恐れていた。文献による緻密な検証は本能寺の変が信長の四国攻撃に対する長宗我部の謀略の一環であったことが明らかになった。しかし、これだけでは説明しきれない部分は状況証拠しかない。著者の見解では、秀吉は光秀を腹心として信頼していた。光秀は謀略の相談相手であり全てを知っていた。その中で、信長は天下を統一した後は「唐入りー中国侵略」を計画し、外様の大名を海外侵略に使い日本から追い出そうとしていたこと、また、邪魔者になった家康を招き、本能寺で暗殺することとそれに光秀の軍団をを使おうとしていたこと、それが成功すれば次は自分が責任を取らされ滅亡につながるという苦境にあったことである。これらはあくまでも推測だが、その後の光秀の一族が徳川から重用されたことや、家康や秀吉の行動に不思議がなかったことは、十分納得できる見解である。さらに興味深いのはフロイスやオルガンチーノが信長の情報をかなり掴み、また、記録も日本に無いものが残っていることが驚きであった。信長のボディガードとして送られた彌助という黒人が生き残り、詳細な報告をイエズス会に送っていたのであった。明智氏の従来説が、時の権力者によって改竄された結果であり、国策として残されたのであろう。信長と光秀が対立した原因となった幾つかの出来事は、その後、秀吉の朝鮮出兵や、千利休切腹、秀次の抹殺などに原因を与えたことも興味深い。家康の改易、春日局の重用などの謎に解釈を与えてくれた。

明智氏の本能寺のへんに関する解釈や、信長と光秀の関係につていは今後ドラマなどで新しい作品のインスピレーションを与えてくれるものであろう。著者は「織田信長432年目の真実」という本も幻冬舎から出している。この本の内容は、当時の武将が孫子の兵法、論語、韓非子を熟読し、そうした思想を元に政治、軍事を展開していることを実例をもって示している。文献と当時の思想に立ち返って歴史を見直すと、また違った風景が見えてくる。しかし、この信長編にかかれているものは、殆どこの本能寺の変バージョンに書かれている。


[PR]
日本の国境問題 孫崎亨 ちくま新書

孫埼 亨氏は外務省国際情報局長と防衛大学教授を務めた経験、国際条約と軍事の豊富な情報を元に、国境紛争の歴史を語っている。特に、中ソ国境紛争とイランイラク戦争の現場に外交官として情報収集したことから、紛争の状況を真近にし、領土紛争が戦争に発展する危険性、何故起きるか、そして平和的解決の成功例などをこの本で挙げている。
特に、戦後、ドイツがEUを志向し、犬猿の間柄だったフランスとの敵対関係を解消したことに注目している。国境紛争が何故起きるかに関しては、為政者が国内的問題の目をそらすことや時の政権の権力闘争などが関係している。
国民国家と民族主義、民主主義と全体主義、市場経済と統制経済といった国家運営の違いを乗り越えて国境問題を解決することが出来るのだろうか。中国とロシアというかつての戦勝国であり、かつ中央集権を志向する国家が国連の常任理事国として拒否権を発動できる状態で、利害関係人が中国やソ連であった場合は国連は機能しない。国際司法裁判所も当事者国双方が調停に応じなければ調査も協議すら出来ない。日本が抱えている竹島、尖閣諸島、北方領土はいずれもこのパターンである。こうした交渉で100%一方的に認め、認められる交渉は成立しない。中国、ロシアの軍事力からみて、日本が軍事的圧力で解決することはできない。日米安保条約は国境紛争には頼りにならないと見たほうが良い。領土問題を巡る紛争の場合、軍事力に差がある場合、圧倒的に弱いほうが不利である。公平の基準は働かない。領土問題の解決策として孫崎氏はドイツのアデナウアーの手法を高く買っている。領土紛争の最も合理的解決方法は棚上げ方式である。ドイツはナチスの侵略戦争に負い目があるため、自国の領土主張は殆ど放棄せざるを得なかった。彼は国境の問題は将来平和条約の完成まで停止とした。領土を取り戻すために平和条約をしようとしたのではない。日本の場合、領土を主張し、取り戻すために日ソの平和交渉を主要な外交課題とし、他のことを行なうと領土は固定してしまうという恐怖に束縛されてきた。その為に、国民世論をどのように納得させるかに関する努力を怠ってきたといえる。国民感情ばかりを煽っては進まない。1956年の日ソ共同宣言でも、1972年の日中共同宣言、1965年の日韓紛争解決交換公文でも、領土問題はたなあげにして、他の諸条約を先行させた。このことが今日の友好的な交流の礎となっている。今も未解決になっている理由はそこにあるわけで当たり前の話なのである。紛争の原因となる周辺の事柄、例えば資源、漁業や墓参の通行の問題など、整理をして合意できるところから進めていく。解決したときの方法はそれほど選択肢が多いわけではなく、他の事例によるしかないのだろう。相手から奪い取るばかりが勝利ではない。逆に管直人のように「そもそも、領土問題は存在しない」という態度も相手を怒らせるだけだ。正解は、いろいろ問題はあるが、他の重要な問題を優先し、一時棚上げしたいという交渉を行なうべきだった。相手は押しかけてきているのだから。韓国に関しては既に貿易協定、TPPの推進、中国とはインフラ投資や高齢化対策、ロシアには医療やエネルギー、天然ガス、シベリア開発といった双方を利する要素がある。幸いにして、尖閣も、竹島も、北方領土も日本の生存をかけた重要地ではない。国民に対して交渉に望む政権に対する国民の信頼度と説明のしかたによる。勝った負けたの結果で国民に説明することは得策ではない。アデナウワアーは欧州鉄鋼共同体を結成し、領土問題を棚上げにし、EU結成のリーダーシップをドイツが取ることで実を取った。アルザスロレーヌが無くともドイツはヨーロッパの筆頭国家であり、経済力もトップである。この戦略に習うことである。ヨーロッパと違い、日本は韓国、北朝鮮、中国と近代国家や民主主義の基盤が弱いところに合わせなければならず、リードしていくだけの政府の力はまだ無い。そこを経済的、文化的にどこまで築き上げられるかである。領土紛争は武力衝突や戦争に発展しやすい問題であるだけに、何としてでも軍事弱小国であるわが国は自らの国力を経済文化面で高めていくことこそ、隣国との国境問題負担を軽くする道である。

[PR]
1.辺野古埋め立て

 沖縄の米軍海兵隊普天間基地が世界有数の危険な基地だとか、辺野古移転を県知事が公有水面埋め立て認可取り消しで工事を差し止め、政府と訴訟に入っていることは断片的にニュースで取り上げられ、沖縄に同情的な報道が多いが、真実は何か、語られない事が多すぎる。沖縄タイムスがいかに偏向しているか、デモや集会の参加人数等もデタラメな主催者の発表を真実であるかのように報道する。沖縄の人に聞くと、移転に反対している人は少なく、辺野古で反対活動しているのは皆本土から来ている人達だという話も聞いた事がある。米軍基地のおかげで沖縄の地主に入る借地料は900億円。莫大な金額で、これも本土の人たちの税金負担。翁長知事があれだけ裁判に訴え。国に抵抗する理由は何かだ。常識的には辺野古に移転しなければ普天間は返換されない。この反対運動を沖縄の有権者は支持したかのように見える。どうも、もっと複雑な事情があるという。ただ、米軍基地の縮小閉鎖というわけにはいかない事は、近年の中国の尖閣諸島等の動きを見ても明らかだ。米軍は尖閣諸島に関しては安保条約の範囲内だと見解を出している。もっとも、攻撃されてもアメリカは軍を差し向けないだろう。それは過去において、何度か中国の漁船が100隻以上も尖閣諸島に出て来たり、巡視船が漁船に体当たりされてトラブルになっても、米軍は微動だにしていない事からも分かる。では全く意味がないかというとそんな事はない。翁長知事はどう考えているのだろう。彼は那覇市長から仲居間氏を抑えて、辺野古反対を唱えて当選した。でも、彼を支持した人は辺野古反対派だけではない。仲居真県政に失望した人々である。仲井真氏は、毎年3000億円の振興支援を政府に今後10年間約束させた功績があるにもかかわらず再選されなかった。それは翁長氏が仲井真と組んで辺野古移転承認の取引で勝ち取ったものである。ここに翁長氏は金脈を見つけ、仲井真氏と選挙で争って勝った。今の政治家に共通していることだが、単なるポピュリズムなのではないか。


2.沖縄の不都合な真実 翁長知事の不可解な行動

 翁長知事は9月に国連で政府は沖縄の主権を踏みにじり、人権侵害を行なっていると訴えた。彼は普天間移転に関して、国の辺野古埋め立て許認可を無効として、工事の中止を求め、司法に訴えている。国が取り消しを撤回する代執行を求めた裁判の最初の弁論が行われた。彼は沖縄に基地が置かれている経緯から、分かりきった事をくどくど説明しているようで、何か、裁判を使ってPRしたいのでしょうか。到底勝ち目の無い事だが、彼の狙いは一体なんだろうか。この訴訟に敗訴する事で、彼の選挙における反対の活動に終止符を打ち、その責任を追及されれば辞任し、参議院選挙に出て活動しようという事だろうか。あるいは、居座れれば、那覇空港拡張や、仲井眞前知事が獲得した3,000億円の政府の沖縄振興支援金のおこぼれに預かろうという二股で行動しているのだろうか。とにかく、彼からは沖縄の負担軽減の事は聞こえるが、今になって、何故普天間辺野古移転に反対するのかよく理由がわからない。米軍基地の過重負担は、戦後70年たったいまも、国土面積の0・6%しかない沖縄県に73・8%の米軍専用施設が集中している現状が物語る。沖縄と本土の極端な不均衡は何も改善されていない。このことは、ニュースステーションなどのキャスターがそうだそうだ、改善は当然だと宣うが、実は米軍基地の83%は本土にあり、騒音や住宅街に近接していることからは厚木や横田だってそうだ。しばしば普天間の基地に隣接した小学校が引き合いにされるが、戦後23年経って宜野湾市が基地の真横に小学校を建て、迷惑しているのは米軍だ。移転すべきは小学校ではないのか。東京だって横田基地がある。国の首都の中に米軍基地がある国なんて世界で日本だけである。沖縄の米軍からの収入は全体の5%だと言うが本当だろうか。しかし、今回の辺野古の交渉過程で、毎年3000億円もの予算が国から出て、辺野古の工事費だけで5000億円が使われることが計算に入っているのだろうか。沖縄の負担というが、これまで莫大な国家予算を沖縄には投下して来たわが国、イコール国民の税金なのである。合計10兆円を優に超えており、もはや沖縄振興予算は沖縄にとって一つの産業といっても過言ではないです。

e0195345_13502387.jpg
国が借金大王になった原因の一つでもある。根拠を示してもらいたい。少なくとも、自主財源が25%しかない沖縄、県民所得は全国46位、失業(全国1位)と自殺(全国5位)が多い県、沖縄を米軍基地なしに生きて行けるのだろうか。知事はそこに取り組まなければならないのに、暇人のように既に決まった辺野古移転をひっくり返して支持を得ようとしている。沖縄のGDPは3.7兆円で、半分が民間、36%が政府支出である。一般消費と観光、土木工事で9000億円を占める特異な経済構造である。畑にならないような土地が殆どで地主にとって米軍基地の借地料900億円は殆どコストのかからない純利益みたいなものである。

 翁長知事が言うように「米軍施政権下と何ら変わりない」のであるなら、彼は本当はそうなった方が得だと思っていて、米軍と実は繋がっているのだろうと思いたくなる。


3.本音は何か

 米軍の本音はあんな辺野古みたいな海の上に行きたく無い。できれば今のまま固定化した方が楽で、日米の約束が果たせない事を逆に批判していればいい。アメリカと日本が他の事で交渉するたびに日本の喉に刺さった骨のごとく不利な状況になるのは日本政府だけである。

 扇長知事の裏には、沖縄の基地を固定化したいアメリカの意図があるのではないかと思うほどである。政府と沖縄が対立する事でアメリカは全く損をしない。沖縄が地上戦で大きな犠牲を払った事は皆知っている。しかし、広島・長崎はどうなんだ、東京だって大空襲で10万人が死んだ。沖縄特攻で日本の若者が3,000人以上も命を落とした事を沖縄だけの負担と言うのはあまりにも歴史を知らない独善ではないか。朝日新聞やテレビは6月の沖縄戦終結の記念日のニュースを流しても、安倍首相の姿や追悼は放映しても、それっきりで沖縄の真実は語らない。特に沖縄の利権構造は全く報道されない。この本では仲井眞前知事も、翁長知事もそうした利権構造の裏の面を持っていることが分かる。沖縄で本当に政治が機能してその福祉にあずかりたい人々は実際は政府の支援の恩恵にあずかっていないという現実を著者は示している。その張本人は、沖縄支援の補助で利権の恩恵にあずかる沖縄県の公務員、土建業者、地主、教員、マスコミなのである。この沖縄の利権構造と補助金で成り立っている県財政、やたら沖縄の美しい海を埋め立てようとしている沖縄県側の実態など、我々は聞いて驚く事ばかりである。


[PR]
日韓悲劇の深層 祥伝社新書 呉善花 西尾幹二

日韓問題に関する両者の対談で構成されている。呉善花氏は韓国済州島で生まれ、軍勤務から東京外語大修士を経て拓殖大学の教授である。西尾幹二氏は国家論や日本文化論などに巾の広い分野で言論活動を行なっている。呉氏は客観的な事実を韓国民に理解させようとしたために親日とみなされ、故国への入国を拒否され、日本国籍を得たために、韓国からは売国奴扱いとなった。しかし、彼女は、真に日本人に韓国を理解してもらいたいという願いを持っており、それと同様に韓国にも、日本の姿や歴史的事実である日韓併合の歴史的事実や歴史学に基づく整理をした情報を伝えたにすぎない。しかし、日本では桜井よし子や産経グループの日本政府、安部政権派の論壇に取り込まれている。この事が、韓国からは警戒されている。西尾氏も歴史教科書問題で、新しい歴史教科書を作る会の初代会長だが、右翼グループの参入に嫌気をさして脱退した。しかし、彼は東京裁判に基づく歴史認識を自虐史観とし、慰安婦問題、南京事件、日韓併合などは政府や右翼とも同様な立場を取っているため、修正史観といわれても仕方が無い。西尾氏は日本人として当然の立場人に立って常識的に発言している言論人であると自分は思う。

この本では韓国人のものの考え方、歴史観、朴槿恵大統領の考え方などが、日本人と比較しながらよく語られていると感じる。しかしながら、安部政権の日韓問題や竹島領有権に関することに関してはあまり触れていない。呉氏によると、韓国人の反日の根拠は次の通り。日韓併合により韓国人は土地を収奪され、日本語教育を強制された、独立を主張して殺害された、拷問を受けた、強制徴用されたと知らされていく毎に心にやってくるのは、自分自身の身を汚されたかのような、いいようのない屈辱感であり、そこから湧き起こる「決して許せない」「この恨みは決して忘れてはならない」という、ほとんど生理的な反応といえる怒りであった。「日帝の民族抹殺計画」として挙げられているのは、皇国臣民化の名の下に、韓国人を日本人にして韓民族をなくそうとした、韓国語を禁じ日本語の使用を強要した、韓国の歴史の教育を禁じた、日本式の姓と名の使用を強要した、各地に神社を建てさせ参拝させた、子供にまで「皇国臣民の誓詞」を覚えさせた、というものだ。これらに関して、この本ではいちいち反論を行なっているわけではないが、それらの歴史的捏造がどのような韓国側の歴史、社会的文化的背景から生まれており、今の政策となったかが明らかになっている。

呉氏によると、韓国人は日本人と違い、先は理念とか原則によって価値判断を行い、日本人は考え方の軸が多様で韓国人からは捕らえようが無いということを指摘しています。この本で、呉氏が指摘しているのはまさに、韓国人としての呉氏の一種の韓国的観察によって反日の裏返しの親日的な見方を理念的に物語っており、その分、我々には心地よい。一種の日本人論、韓国人論である。しかし、よく考えると、今の日韓関係がそのような文化的な違い、歴史の差から暗礁に乗り上げたことばかりではない。安部政権の本質や、背後にいる右翼グループなどのリスクに対して反応していることもある。この本を韓国人が読んだら、恐らく、的を突いた部分もあって非常に嫌な気分になるだろうなとも思う。そして日本人として、これだけ差がある両国はどうやったら歩み寄れるのか途方にくれてしまうだろう。確かに、現在の韓国の日本に対する様々ないやがらせ、歴史の捏造には憤りを持つが、これが韓国人の性癖なのですよというのはあまり説得力が無い。呉善花氏はこうした文化的、精神的な違いを乗り越えて、親日になったし、韓国人に警鐘を鳴らしているのだと思うが、文化論や精神論による指摘は多分力にはならない。差ばかりが強調されるからだ。普通の韓国人は慰安婦のことなど本当は興味ないだろう。日々の暮らしに追われているだろうから。今求められていることは両国の共通項を捜し求めねばならない時だからだ。しかし、その作業において、相手のことをよく知ることは大切である。その意味において貴重な意見だと思う。

[PR]

「西洋史学の先駆者達」土肥恒之著 中公叢書 を読んで

 日本人が何故西洋史を学ぶのか。特に学問としては研究しようにも日本には資料も乏しいし、語学の壁も厚い。日本の歴史研究は主としてドイツで学んだお雇い外国人教授からスタートした。その意味においては日本の歴史研究は欧州の研究から始まっており、今の中国や韓国の歴史家と違い、西欧的思想を基盤としている。日本の歴史学は学問的な普遍性をもっていると思うが、韓国や中国はどうであろうか。外交において歴史認識という言葉がしばしばキーワードとなる。日本の歴史学を概観するこの本によると、日本の西洋史研究は東京大学に招聘された、ドイツ人歴史学者ルードウィッヒ・リースから始まった。彼は近代史学の祖、ランケに傾倒し、厳密な資料批判に基づくランケの政治史学を基に弟子を育てた。その教え子達は坪井九馬三、村川堅固、幸田成友、坂口昴であった。日本では実証的資料が西洋史を研究しようにも乏しく、欧州留学における研究は無理と思っていた。当初は外交史、交流史から出発し、キリシタン研究、江戸時代の漂流譚、大黒屋光太夫に関する研究からギリシャ史、ヘレニズム研究など文献研究から始まった。 後に歴史を政治史から経済、文化へと幅を広げていく過程において、経済史は東京商科大学と慶應義塾大学理財科によって開花した。福田徳三は経済学のみならず、歴史学にいたる巾の広い見識をもち、両校の教授として後進を育てた。慶応義塾では最初にドイツで社会政策学会のシュモラーに学んだドロッパーズから始まり野村兼太郎の英国経済史研究で花開いた。一橋では福田徳三がブレンターノに師事し、その流れを汲んだ坂西由蔵と野村と同じイギリスのアシュリーに学んだのが上田貞次郎であり、福田門下がイギリスの産業革命を軸に研究を展開した。国立の一橋キャンパスに彼の銅像があるが、自分の学生時代は何をなされた方か知らなかった。第一次大戦後はロシア革命の影響で京都大学では河上肇がマルクス経済学を経済史の1ページに加えた。文化史においてはブルックハルトがイタリアルネッサンス研究で君臨したが、東北大学では大類伸が中世史をリードし、東大の堀込庸三に引き継がれた。マキャベリ研究、ダンテ、ルネッサンスを中心とする中世史を柱となした。大類は京都帝大でも講師を務め、彼の薫陶を受けた学者は多かった。ルネッサンス研究で会田雄次、ホイジンガの中世の秋を翻訳した塩見高年に受け継がれ、京都帝大と東北帝大がルネッサンス研究の拠点となった。東大では羽仁五郎が大内兵衛などとマルクス史観によるマキャベリ研究やルネッサンスに関する歴史学の重鎮であった。羽仁から刺激を受けた東京大学の教授は多く、明治維新研究の遠山茂樹、家永三郎などが出た。一橋は商法講習所が起源だが、大学として、リベラルアーツ的な教育と、哲学や歴史学、思想史、経済史の研究が盛んであった。特に、アダムスミスやマックスウエーバーについては学生は必ず学んでいた。

 当時のウエーバー研究の第一人者は東大の大塚久雄であり、あたかもウエーバー教の使徒のような位置にいた。この本の第4章は上原専禄、5章は大塚久雄を軸に展開している。上原は東京商大で三浦新七の弟子として、師と同様、ウィーン大学でランブレヒトやドープシェに師事した。ドイツ史を軸に西洋史においても原史料主義を基盤に史料批判という歴史学の方法を示した意義は大きく、この方法論は今日においても、阿部謹也などにも受け継がれた。上原専禄は日本の歴史学のバッハのような地位にいて、一橋の史学研究の礎であった。 自分が学生時代に、西洋史の増田四郎先生や、ビザンチン経済史の渡辺金一先生、日本史の永原慶二先生など、歴史学の巨匠が多くおられたが、大学紛争の渦中で講義を聞く機会が殆ど無かったのは残念であった。上原氏もまだご存命であった。当時の一橋は経済学は近代経済学が主流だったが、マル系の先生もおられ、東西冷戦時でもあり、民青学生のみならず、マルクス系の史学も盛んに勉強する学生がいた。この本にも出てくる三浦新七や上原専禄についてはこの本でその業績を知った。戦前の歴史研究は殆どがドイツに留学し、ドイツのウェーバ、マルクス、ブルックハルトなどの影響を受けた。実際は、20世紀に入り、フランスのアナール学派等の歴史学潮流があったのだが、帝国大学の研究者はドイツに向かった。ブローデルなどについて全く触れていないのは残念だ。この本では大塚久雄の功績を詳しく述べている。彼の学問の発展とウエーバーとの関係を簡略に整理し、大塚久雄の著作を読んだことの無い自分にも分かったような気にさせてくれる。大塚の師は本位田祥男であった。多くの学者が戦前ドイツで研究者となったが、当時起きていたナチスの勃興に関しては「無関心」だったが、日本が三国同盟を結び軍国主義化するにしたがって疑問を持ちながら取り込まれていったといってもよいだろう。1920~30年代にウェーバーは紹介されてきた。ドイツはまさに超インフレからの脱却に苦しみ、失業やナチスの全体主義に入ろうとしていた。大塚が株式会社の起源やイギリス毛織物工業の勃興を研究している間に、世界は軍需産業や鉄鋼業が全体主義と共産主義の勃興を生んでいた現実に目を背けていたように見える。日本もまさにその時代で、マルクシズムが弾圧され、軍国主義に突入していた時であった。世界の歴史を支配していたのが「暴力」であったことに全く触れずに経済のみを見ていたことが当時の歴史学の限界であろう。歴史学の先生方はそれに眼を背け、象牙の塔に籠った研究であれば自分も安全で良かったのである。大塚の師である本位田も、元官僚であり、大政翼賛的な経済統制の政府委員などもしており、体制批判は無理としても、全体主義に関しては肯定的であった。大塚史学とウエーバーの理論が敗戦日本の前近代性を克服する理論、民主的市民社会のエートスとして社会に受け入れられることになり、1970年まで日本の史学を支配した。特に、1962年に出された西洋経済史講座は40人の学者が加わり、高橋幸八郎、松田智雄と共に編纂されたもので一時代を画した。大塚史学はその後、マルクス系史学の立場から服部之総、イギリス経済史からは矢口高孝次郎、大塚の英国国教会とピューリタンの解釈から批判され70年以降精彩を欠くようになったが、日本の経済史に果たした功績は大きかった。
 日本の歴史学が今日的問題を読み解く形を取ることができるかは重要な問題点だ。戦前の軍国主義の嵐の中で、歴史学者がどのような立場をとったかについて、上原や大塚も又、日高六郎などの若手も戦時体制に本音を語れない。皇国史観からみて西洋史の立場は弱かった。帝大の史学科でも戦争を賛美し戦果を誇る新聞報道とさしてかわらぬ風潮があり、世界史的観点から発題した日高は追われる立場となった。イギリス殖民地政策の批判も行なった信夫清三郎の「ラッフルズ」も発禁となった。
 当時の西洋史も、イギリス帝国の没落や、植民地主義批判など敵国のイギリスを批判し、ドイツのヒトラー政権に対する評価を与えた「ナチス国家の基礎、構成、経済秩序」三巻の翻訳刊行で、「新独逸国家体系」は日独防共・文化協定による国家事業であった。上原はドイツ史のホッペの著作をナチスのドイツ政治との「幸福なる有機的調和として肯定的に評した。また、大東亜共栄圏の必然性を説くなど、戦争体制に沿った理論構築を行なった。彼の西洋史家の指導者としての立場は戦後、暗部となったが、彼は世界史という観点から歴史を述べる立場を展開した。歴史家としてはドイツの歴史の汚点であるナチスの暴力性を見抜くことは出来なかった。最初に登場した大類伸は91歳の長寿で、戦争中も文化史の重鎮として、西田直次郎と大政翼賛的な政府の学問統制に協力した。また、京都帝大講師も勤めた関係で、日本諸学振興委員会委員として活躍した。特に、京都大学の国史学者や西田幾太郎など京都学派哲学の重鎮と結びついた鈴木成高は「ランケと世界史学」を著し「民族」や国家の世界史的な意味を大東亜共栄圏の理論と戦争の意味を述べた。日本における西洋史の出発点に戻ったのだろうか。高坂正暁といった、今から見ると右翼歴史家の部類だが、当時としては世界史という観点から歴史を捉えた哲学的視野をもっていた。ランケ選集にも加わり、対談も出した東大の林健太郎は時勢に迎合的であった京都学派と一線を画した。戦時下を体験した歴史学者達は、自分が学生時代の70年代は当時まさに日本の学問の重鎮であった。全共闘運動はまさにそうした学者達のベトナム戦争や安保に関する学生の情念、意識に対する無理解への反発が大きかった。今日、イスラム圏で起きていることやテロリズムなど、まさに世界史的転換点にいる我々が歴史学者に耳を傾ける時代が来ている。

 あの東大紛争で総長を務め、運動鎮圧に功績があった、林健太郎元東大総長は東大紛争後どのような意識の転換をされただろうか。歴史を学ぼうとする多くの学生が失望し、大学を去ったのではなかったのか。その後遺症は今あるのだろうか。大塚久雄におけるマルクス史観からの批判とマックスウェーバーの近代資本主義の発展への史的洞察が70年代も論争が続いていたことを思うが、当時は大学も騒然とし、史学の先生たちも沈黙していたように思う。今ではあの大塚史学も輝きを失ったようである。 
大塚先生もICUに去り、沈黙してしまったように見える。あの大学紛争の影響は大きかったのだろう。その後30年の間、ベルリンの壁解体やソ連の崩壊、イスラムの混乱など新しい世界史的事象に今の歴史学はどこまで関わることができるのかが今後の歴史研究の方向を決めていくのであろう。残念ながら、21世紀の歴史学に関してはこの本は語っていない。

[PR]
スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチ著
「戦争は女の顔をしていない」群像社版
を読んで感じたこと

偶然この本を昨日読み終えたら、彼女のノーベル賞文学賞が決まった。著者はノーベル文学賞最有力候補に村上春樹と共に名前が上がっていたベラルーシの(首都ミンスク)の作家である。第二次世界大戦独ソ戦において100万人のロシア女性が最前線で戦った。その体験を手記にまとめたのがこの本である。10日前、新潟日報に大きく紹介されていたので、図書館に問い合わせたら、この本だけあった。恐らく、本屋では慌てているだろう。あまり売られていない。1948年生まれで彼女は戦争を体験していない。しかし、数百人の戦場に行った女性にインタビューし、その過酷な体験を次の世代に伝える役割を果たした。ソ連体制崩壊前、30年前にかかれたもので、彼女たちはただ激戦の様子を語るだけではなく、女性らしい感性で、戦場の色や感情、倒れて苦しむ馬や、衛生兵として負傷者を救出したり、死にゆくドイツ兵や捕虜のことを語っている。小説家の手法として膨大なインタビューをまとめた作品では村上春樹のアンダーグラウンドを思い起こさせる。これは地下鉄サリン事件の被害者を取材したものだ。戦争では何十万人と言う単位で犠牲が生まれる。しかし、それぞれに人生があり、悲しみも喜びもある。これを統計的数字から開放して、人々に語りかけるようにする。スターリンは「ひとりの死は悲劇だが、集団の死は統計だ」と言ったとか、ホロコーストの実行者アイヒマンが言ったとか諸説あるが、良くわからない。レマルクが長編黒いオベリスクという小説に「でも確かにそうですよ、一つだけならいつでも死だが、二百万となると常に統計なのだから・・・・と書いている。(Aber das ist wohl so, weil ein einzelner immer der Tod ist — und zweiMillionen immer nur eine Statistik)われわれ証言集ではその一人ひとりの体験がつづられる。言論統制の厳しい当時のソ連で、当初は放置されていたこの本は、彼女がチェルノブイリ原発事故被災者の証言集「チェリノブイリの祈り」を出した後評価が高まった。
 目撃した者、経験した者はその恐怖をかたり続けなければならない。統計的な数字に凍結された一人一人の死、生き様、物語を解凍し、再現する。原発事故で多くの動物が処分され、村や森が埋められた。これは戦争体験にも通じる。恐怖や友の死、死線を彷徨した体験は忘れられないが、語れない。
 自分も同世代として多くの人生の先輩から戦争中の話を聞いた。戦争の愚かさ、国家が語る戦争と犠牲になった人々、戦場で体験した恐怖、物言わぬ死者、犠牲になった子供や弱い立場の人々、馬や犬、魚に至る生とし生けるものの立場に立てば戦争は絶対悪である。政治や歴史のなかで無味乾燥に消毒済みとなった現実を真実の姿に再現することが証言であり、文学の力である。
 団塊の世代である昭和22年生まれは第二次大戦が終結して二年後に生まれた。戦中派が自分の親や叔父叔母の時代で、子供の頃、親類の集まりや、戦中派の教師などの大人達の会話から戦時中の体験を漏れ聞いたりした。自分の両親も戦中派だったが、子供に戦争中のことを敢えて語ろうとしない場合も多い。つらかった時代を忘れようと懸命に働き、高度成長を実現した世代は、辛かった時代を思い出したくない。戦争は不条理な体験を強いる。体験者も整理がつかないこともあるのではないだろうか。リベラルアーツ教育は教養教育と一言で言っても何のことか分からない。しかし、自分は、経済学、法学といった統計や規則を学ぶことから、もう一度人間のレベルに立って、心を持った一人ひとりを思って物を考えることだと思う。そこで隣人のこと、地域のこと、人を愛することから戦争とは無縁である。平和主義も生まれるのである。 
 この本で印象に残った部分は多々あるが、あるエピソードを紹介しよう。戦後も彼女たちは英雄的な体験しか話せなかった。しかし、彼女たちの心の闇を語らせることに成功した。壮絶な独ソ戦の戦場。これは沖縄でも同じだろうが。看護婦エリンスカヤの話。「戦闘を覚えているわ・・・、その時沢山のドイツ人捕虜を取った。中には負傷者がいて私は手当てをしてやったけど、負傷者は味方の青年たちと同じように呻いていました。ものすごい暑さだった。水を飲ませてやった。見通しの聞く場所で、銃撃に晒されていた。直ちに塹壕にたてこもって、カモフラージュせよとの命令。私たちは塹壕を掘り始めた。ドイツ人たちは見ている。私たちは身振りで彫るのを手伝えと命令した。何をしろと言われて、捕虜たちはパニックに陥ったわ。穴が掘りあがったら、その縁に自分たちは立たされ銃殺されるんだと思ったのね、覚悟をしていました。どんな恐怖にとらわれて穴を掘ったか見たものしか分かりません。あの顔を・・・私たちが手当てをしたり、水を飲ませてやったり、彼らが掘った塹壕に隠れろと言ったとき、彼らは我に返ることが出来ず、とどまっていました・・・一人のドイツ人は泣き出したほどです。もう若く無い人で隠そうともせず手放しで泣いていました。」「戦争の本って嫌い・・・、英雄たちが出てくる本…私たちは皆病人だった。咳をして、寝不足で、汚れきっていて、みすぼらしい身なり。たいていは植えていて、それでも勝利者」   


3:3 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。  
 

 (エピソード1)                                                          自分の父親は戦時中、三井鉱山の社員で、召集も受け、徴兵検査の後九段の近衛師団に入営したが結核痕があったので即日帰郷となった。1945年に朝鮮で半年の兵役があっただけで戦地には行かなかった。父の会社には社宅があり、友人宅に遊びにいくと、戦地帰りの方もいて、将校だった人が多かった。短剣や将校用の装具、刀なども持っていて、子供ながらに、何で自分の父親は持っていなかったのか、気になってよく聞いたものだ。その父も朝鮮から引き上げる時には引き揚げ船が沈没しそうな海域を通ったり、友人が帰国直前に病死し、遺体を荼毘に付した時の辛い気持を語ったのは2004年に82歳で亡くなる1年前であった。軍人の勇ましい行進や戦闘シーンの陰に多くの不条理な悲劇が起きていた。日本が東京裁判で裁かれたことは戦勝国の横暴で、裁判の形をした見せしめに過ぎないとする論はあるが、あのナチスドイツと三国同盟を結んでしまったことは戦争犯罪の片棒を担いだとみなされても仕方が無い。ドイツのホロコーストの犯罪も全貌は不明なことが多い。強制収用所のことは歴史的に証拠の多い犯罪であるといわれている。しかし、膨大な事実を前に、ソビブル、ヘウムノ、トレブリンカのことはあまり分っていない。ニュースや映像には載らないむごたらしい話も含めてである。特に、第二次大戦以後も戦火は続き、朝鮮戦争、ベトナム、イランイラク戦争、バルカンの紛争、アフリカの内戦や中東戦争で軍事行動の周辺に何十万人もの市民の犠牲が生まれるようになった。多くの人々の死、離散、生活苦、自由の束縛など悲惨と苦難の時代を戦争は生み出してきた。戦後生まれだが、団塊の世代である自分の記憶にある戦争を描き出してみよう。戦場では不衛生、感染症などの病気、寒気、雨や雪も敵である。太平洋戦争でも、実際に戦場で戦死した軍人より、餓死、病死、輸送船の沈没による水死が多かった。亡くなった方々は無念であったろう。戦争では思いがけない死が迎えに来る。

(エピソード2) 
 自分が会社に入ったとき、人事部長のWさんは中国で終戦を迎えた。彼は杭州付近で駐屯し、中国人の民家で暮らしていた。その家の娘と恋愛関係になり、家族からも信頼されていたが、突然転戦命令が来て、移動となった。中国人の家族は自分の後を追い、1日かけて見送ってくれた。凄惨な話の多い中国だがそんな戦地もあった。ところが、ある日山地を行軍していると、銃声がして皆もの陰に隠れた。突然、斜面にいた自分に向かって石ころのようなものが投げ込まれ、コロコロころがって爆発、手榴弾だった。気がつくと腹から血が出ている。やられた、と思ったが身動きできず担架で病院に運ばれた。何週か治療で寝ていると、部隊が中国から離れ、船で出発して取り残された事が分かった。ついていないと嘆いたが、後にその船はフィリピンに向かい、途中で撃沈され、部隊は全滅した。運が良かったのである。戦場は理不尽がつきものである。戦争体験者は運が良かった人々に語られるのである。

                                                                  
3.世の中は詭弁や誤解にもとづく通説が満ちている。 
 人は毎日の生活はいちいち原点に戻るまで深く考えて行動しているわけではない。習慣や通説に従うことが多いだろう。そこを悪賢い政治家や経営者は利用してくる。政治家は人々の心を盗むのが上手である。彼らにかかると、人間の内面にある、暗いものもたちどころに説明のつくものになってしまう。恐ろしい事は偉大な事になる。
 聖戦という言葉はあるが、それは国家や為政者が民衆を巻き込むための方便に過ぎない。永遠のゼロが人気だったが、ドラマにおいて、血まみれになった兵士や黒焦げになった戦闘機搭乗員がいたのかは描かれない。武士道精神とか飛行機のメカニズム、マッチョな特攻に隠された真実は殆ど隠されて若者に訴えかけられる。
 詭弁に気をつけなければならない。リベラルアーツというのはまさにそれを見抜き、真実を見抜く力を養うことが目的である。その為には数学や音楽も学ばねばならない。積極的平和主義とは何だろうか。これは安部首相の方便だが、この言葉は軍事的均衡による平和主義ということで、この言葉が持つ本来の意味ではない。 日本において、「積極的平和主義」という言葉の初出は、国際政治学者で、日本国際フォーラム理事長の伊藤憲一『「二つの衝撃」と日本』(PHP研究所刊)の一節「消極的平和主義と積極的平和主義」(pp.117-120)であった。この著作で伊藤は次のように述べている。「わたくしは、憲法は日本の積極的な国際的貢献を禁じているどころか、むしろそれを求めていると考える。憲法はその第九条で「加害者にならない」ための禁欲的自己規制(すなわち消極的平和主義)を打ち出す一方で、前文のなかで「貢献者となる」ための利他的自己犠牲(すなわち積極的平和主義)を宣言している。憲法解釈のあるべき姿は、この両者の均衡と調和のなかにこそ求められるべきであろう。(p.118)」これが、何と野田政権から安部政権に移る間に今日安部首相が唱える形に変わってしまった。安倍政権が多用する「積極的平和主義」。実は平和学では「積極的平和」とは、有名なコンセプトで「積極的平和」とは、貧困、抑圧、差別などの「構造的暴力」がない状態のことをいい、決して「テロとの戦い」に勝利して、脅威を取り除くようなことではない。この「積極的平和」を提唱したのは、平和学の第一人者で世界的に「平和学の父」と知られるヨハン・ガルトゥング博士である。彼は安部の積極的平和主義は自分の盗用であるといっている。積極的平和とは戦争によらない和平を前提とした平和のことである。実例ではかつて、キューバに侵攻しようとしたアメリカが、ローマ法王の仲介によって、カストロと和解することで平和を守るということであり、イランの核開発をIAEAの交渉とアメリカの譲歩によって止めさせることである。人は通説によって生活する。だから、世の中のずるい人は古典の名説を換骨奪胎して自分に都合よく解釈して人を説得する。
 カエサルのものはカエサルにというイエスの言葉は何もクリスチャンは政治には関わらず、愛と平和を語っていればよいということではない。新発田の生んだ大思想家大杉栄は海老名弾正が日露戦争を肯定したこと、また、カエサルのものはカエサルにという言葉にイエスの民衆に対する裏切りと断じて教会を去った。しかし、それは誤解である。当時のイエスの活動を何とか妨害しようとパリサイ派の祭司が仕組んだ問である。イエスに皇帝に税金を払うことの是非を問い、払うべきではないという当時のユダヤ人の心情に沿えばローマ帝国に反逆したことで告訴し、払えといえばユダヤ社会の心情に反したということで宗教指導者から葬り去ろうという陰謀でなされた質問に答えた知恵である。 何も政治に関わらなくともよいといっているわけではない。 似たような詭弁は多い。市場主義を肯定するために、利己心を持った人々の経済活動は神の見えざる手によって程よいバランスでよき方向に向かい均衡すると言う主張をアダムスミスの言葉として正当化しようとしたが、彼は全くそんなことを言っていない。むしろ経済活動は、道徳的行動であり、諸国民がWINWINの結果を相手の立場に立って達成することが善であると、道徳情操論という著書で語り、その各論として国富論を書いた。相手の富や資源を収奪し、貿易と輸出によって富を得ようという重商主義を批判したものであった。身近なところでは、胃がんになる確率は喫煙と飲酒だという通説があった。これはタバコを吸う人は飲酒をする人が多かったので、飲酒も原因になったのであって、飲酒はしてもタバコを吸わない人の胃がん確立はずっと低いのである。タバコを吸っている人は肺がんになりやすいというが、あの80歳の老人は毎日タバコを吸っているではないか。これはコホートによって分けた曝露試験によって証明される。ヘビースモウカーは80になるまでの間に肺がんとか動脈硬化で亡くなられてタバコを吸っている人は生き残りに過ぎないということだ。そのような誤った説明はバイアスがかかったデータ分析から生じるのであって、これは理科系の学生なら皆知っていることである。         
 
 多少脱線したが、世には詭弁家がうようよし、物事がゆがめられる。当時の宗教政策によって苦しむ人々をヨハネは救おうとし、イエスはそれをさらに推し進めた。ヨハネが荒野で呼ばわるものの声がする、「主の道を真っ直ぐにせよ」というのはまさにそうした当時の社会への警告なのである。私たちは平和や戦争を語るときはそうした世の荒波にさらされた荒野の叫びに耳を傾けること、それがリベラルアーツの知恵であると思う。平和について考えるとき国連を研究したり、戦記を読むこともある。しかし、紛争地帯にいた人間や難民の叫びが必ずあり、ここをを原点としなければならない。本学が一人ひとりの学生を大切にしようという努力の出発点である。先に触れた村上春樹のアンダーグラウンドにしても、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチ著「戦争は女の顔をしていない」にしても、あなたがそこにいたらどうしますか?という問いかけを常に感じる。

[PR]