カテゴリ:書評( 116 )

ドーキンス著 進化の証明について

1.進化は現実である
 
 進化という現実を否定することはできない。しかし、アメリカ人の40%は生物の進化を認めようとしない。今日ヨーロッパにおいてはムスリムの人口が増え、その中で原理主義者は生物の進化を否定している。日本はその点では極めて進化論に理解のある国民である。ドーキンスの進化に関する論点は、進化が現実であり、それを否定することは、地球が丸い事、あるいは、公転することを否定しているようなことだとしている。聖書の天地創造の物語を丸呑みしようという勢力はアメリカ合衆国に多い。著者は生物学の軸足である進化を否定する人々に対して挑戦的である。生物の進化を否定する西欧人の思考方法には遠くギリシャ哲学の影響がある。プラトンである。彼は事物をイデアとして固定したモデルを設定する。しかし、進化というのはひと時もその変化を休まない。猿人と人間のミッシングリンクという発想そのものが事実を分かりにくくしている。ミッシングリンクを埋める新たな化石が見つかったとすると、創造論者はこれとつながる更に新たな化石を要求する。化石はそう簡単に見つからないから、従って再び証拠を求められるのである。これまで見つかった化石全体で見てもらいたい。600万円前の化石から現代人までをつなぐ多数の化石が進化の姿を物語っている。
 
 化石による合理的説明が難しい理由は
1.「化石」という客観的記録が統計学的に余りにも不完全な「あらゆる意味の片寄り」を持った情報であること。
2.進化が「種によって間歇的(一挙に化石を残さないスピードで途中段階を経過してしまう)」で「理想的な(学者に都合のよい)漸進の放散進化」が幻想だということ、
3.化石は死体から生まれ、特殊な条件でしか残らない。腐敗し易いものや、地域的に偏りがある。
「中間型の謎」というのは化石ばかりじゃなくて「直立歩行の起源と進化」にも当てはまる。一旦直立歩行が確立してしまえば「エネルギーのエコノミー」で説明はできる。しかし、中間型のヨチヨチ歩きのご先祖たちの「エネルギーの不経済性」と、なにより「不格好さのリスク=恰好の獲物状態」の期間をどう越えたのか、を如何に説明するのか。「目」もその例だ。現在の「高級立体カメラ的眼」を前提にすれば「生きる上での効能」は言をまたない。が、完成するまでの数知れない「出来損ないの無数のカメラ」の時代はどうなるのだ。勝算もなしに、そんな中途半端な器官をどうして「後生大事」に「完成」まで維持していたのだろう。
やはり「無限の時間の闇」に逃げ込むのか…。将来、「中間型の化石」は必ず見付かるとか、「DNAの中に痕跡が見付かる(DNA化石!)」と盲信するなら、進化論もインテリジェント・デザインといい勝負だ。」

 精神と体の関係はプラセーボはじめ未踏峰。ダーウィンが進化論を志向したのは最愛の長女の死だった。彼は必死に祈ったが答えは死、人の死は神も罪も無関係。自然現象であるという事が彼の慰めだった。そこが出発点。人間は寂しさに耐えるのが難しい。塩基が転写能力を得てタンパク質を合成するには、偶然がなせる技とすると宇宙的な時間がかかる。30億年で出来るならば、竜巻に吹き上げられたゴミからジェット機が組み立てられるくらいの偶然が必要な無理な話。二重螺旋構造発見者クリックは宇宙から飛んできたとしか考えられないと言っている。

2.進化論は科学か

 犯人を有罪にするには、本人の自白、有力な証拠、目撃証言となるだろう。進化の場合は自白に相当するのが再現性、証拠は化石、目撃証言は種の器官の相同性と系統樹だろう。進化において再現性は無理である。重要な部分は化石だ。目撃証言としてはこじつけの感じもあってこの部分は不完全だ。ドーキンスの論により説明が出来ない5つの謎、核酸メカニズムにおける進化の契機、発生の初期における突然変異条件と作用、分類におけるミッシングリンクと系統樹における進化の順序、人間の意識や理性といった思考の進化が何故生まれたのか、創造論の本質や神話性に関するドーキンスの考え。最後は全て「事実上無限に与えられた時間の闇」に逃げ込もうとする。全てが状況証拠であり、再現性に限界がある一つの「仮説」に過ぎない。創造論者はまさにここを突いて、進化論を批判し、すべてをぶちこわす策に出る。進化論は厳密な意味では「サイエンス」ではないとする見解にドーキンスはその科学性を主張する。この本では、探偵の証拠集めのような形で進化を説明しようとしている。しかし、その結果に関してはダーウィンの自然淘汰説にこだわっている。しかし、創造論者に比べるとフェアな方法だ。ドーキンスはダーウィンの進化論が、神の計画とは無縁である事を主張する。進化が神のインテリジェントデザインである事を否定するのである。全ての自然現象には目的は無い。ここの法則性の結果であり、それによって絶えず変化し、進化する。

3.創造論、宗教との戦い

 アダムとイブにおへそがあったのか。もし神が自分の姿に似せて人間を創造したなら、神にもヘソがあるという事か?ということは神にはその母がいたということではないか。その母は誰なんでしょう?逆にヘソが無い男女から遺伝的にヘソのある子供が出来るのか?といった疑問は誰でも持つだろう。そんな事を何千年もの間気がつかなかった筈は無い。ということは、創世記の物語は、神話として、何かを意味するメタファである事が分かる。ノアの箱船に有袋類がいたかを論じるのは時間の無駄だ。創造論者が歴史的事実として科学を批判するのはいかがなものだろうか。逆も然りである。しかし、アメリカの福音派、イスラム原理主義者はそれを行っている。ドーキンスもムキになって進化を証明しようとする。進化という現実を否定することはできない。しかし、アメリカ人の75%は生物の進化を認めようとしない。40%が人類は4万年前今の生態系として創造されたと考えている。人間と恐竜が一緒に暮らすジオラマを展示した博物館があるくらいだ。今日ヨーロッパにおいてはムスリムの人口が増え、その中で原理主義者は生物の進化を否定している。日本はその点では極めて進化論に理解のある国民である。ドーキンスの論点は、進化が現実であり、生物の進化を否定することは、地球が丸い事、あるいは、公転することを否定しているようなことだとしている。聖書の天地創造の物語を丸呑みしようという勢力はアメリカ合衆国に多い。

 世界は全て物流法則で説明出来るはずで、自然は「平衡」とか宇宙の法則とエントロピーで調和しているとする。福岡伸一(生物と無生物の間)とか現代の科学者の考え方だろう。ダーウィンの進化論では自然界の基本変異は一つずつゆっくりと起きる。自然全てが品種改良に似た経路で発達進化すると、分かっている範囲の知識をもとに拡大解釈してして自然法則を創造する。ところが区切り平衡説…基本変異は突然起きるとすることが主流。遺伝子工学などはそうした考え方えだ。生命を情報の集積として工学的に処理し、神秘性を排除するのに対し構造主義は人間が認識不能な世界を包含して、そこに生まれる理性や社会を対象とする。熱力学第1法則第2法則では環境を守れない。理性というのが平衡感覚でしがないなら愛とかモラル、生命の尊重はどこに行くか、構造主義はこのあたりを説明している。
 しかし、生命は人間が自ら作り上げたというより、親から賜ったものであり、また、神から授かったもという考えかたで世界は調和するのではないか。いただいた命は後世に伝える。自然は自分のものではないから大切に扱う、これではだめなのか。

4.ドーキンスの狙い

 しかし、いくらドーキンスが進化を証明しようとしても、人間が神によって創造され、生態系を神の計画の賜物として守る事を否定するつもりはない。人間の先祖は断じてモンキーではない。ましてや線虫やワムシ、でも無い。ドーキンス読んでも小生の考えは変わらない。お前の先祖は人殺しだ!とアベルとカインの物語が伝えるのを信じるかどうかが原点として論じるなら分かる。生物学のために小生生きてる訳じゃない。サンタクロースを信じる子供に真実を一生懸命伝えようとしている愚も感じるが、進化論の場合深刻なのは、反対者が、宗教的原理主義で、ムスリムの場合、全くの非科学的集団のくせに、それが故か、核兵器をテロの手段に使う危険性がある。サンタを信じる事を強制したり、反サンタの国に爆弾を仕掛けたりするならば事は深刻だ。さらに、福音派の連中は、終末論を現実として信じ、イスラエルを常に正当化し、ハルマゲドンを期待している節がある。このことがまさに、ドーキンスが危惧する事である。

[PR]
「アラブの大富豪(前田高行著)」
著者はこの本をブログの記事を書きためたものを使って書いたという。
中東最新情報「アラビア半島定点観測;http://ocin-japan.blog.drecom.jp/」
中東情報分析「中東経済を解剖する:
 MENAEconomic Informant;http://www2.pf-x.net/~informant他2つのブログであるが、石油関連の専門的なものである。長年のブログの記事の積み重ねが、新書版の出版にまでつながった事は驚きであり、また、ブロガーには励みである。
 この本はサウジアラビア王家と御用商人たち、世界一多忙なドバイのムハンマッド首長、サウジの王族投資家アルワリード王子、湾岸諸国のオイルマネー、ヨルダンハシミテ王家、アラブの政商といったアラビア半島の意外と知られていない権力構造や経済指導者について紹介している。中東問題を考えるときにこの人達の姿は知識として忘れてはならない存在である。豊かになった彼らは今日、国際社会で賢くその地位を守り、パレスチナ問題には距離を置いているように見える。イランやパレスチナ難民、シリアやレバノンのヒズポラやハマスの動きは彼らとはあまりにも遠い。
 中東には世界の石油資源埋蔵量の半分が眠っており、その量は1兆2000億バレルと言われている。アラビア半島最大の面積を持つのがサウジアラビア、そしてヨルダン、シリア、イラク、更にアラビア湾沿岸のクゥエート、ドバイ、カタール、アブダビ等のアラブ首長国連邦、そして、先端部のソマリア、オマーンである。本書ではこうした諸国が、いかにして富を得、世界にオイルダラーー(ペトロダラー)として金融証券界に力を持つに至ったかを描いている。湾岸4国の貿易黒字は毎年2000億ドルと推定され、その資産運用額は250兆円と言われている。これらの国は人口が少なく、一人当たりGDPは出稼ぎ人口を引いた国民一人当たりでアラブ首長国連邦14万ドル、カタール17万ドルで日本やアメリカの4万ドルと比べると4倍前後である。金融資産は国内消費には限度があり、持っていきどころが無く、建築投資に振り向けると、ドバイのようになってしまう。オイルマネーの運用次第で世界市場に大きな影響力を持つに至った。今の日本の株式市場が低迷しているのは、この運用対象国としての比率が低下しているからである。国として、彼らから見放されている。一国の総理大臣の言動、世界経済における重要度が下がっている。この政治性不況が戻るまで、一体何年かかるか分からないが、国際社会は現、鳩山政権のような、政権内部調整を優先させ、対外的な合意事項を反古にしよとする事態を重視しており、政治リスクの高い国には金を回さない。普天間の問題が単に軍事的な問題ではなく、極めて経済問題に直結していることに、社民党は気がついていない。こうした連立政権は彼らのような専制君主国にとって理解できない奇妙な国であって、投資対象から外れるのである。社会民主主義者には逆に君主制が理解できないであろう。
 アラビア半島の盟主はサウジアラビアであるが、この国王サウド家はアブドゥールアジズ(サウド王)によって確立された。サウド家はもとはベドゥインの一族であった。サウド王がアラビアのベドゥイン諸族をまとめたことが、今日のサウジアラビアの基礎となった。彼は、イスラム教を厳格に守るスンニーのワッハブ派の信仰を徹底する事で部族をまとめ、メッカからハシミテ家をヨルダンに追放した。彼が部族をまとめる手段として採ったもう一つの政策が血縁関係である。彼は26人の王妃の間に36人の王子をもうけた。それらの王子が複数の妻を娶り、254人の王子が生まれ、さらにその子供の王位継承権者は1,000人ほどいるという。彼らは石油の利権を握り、王権を中心に国の近代化に成功しつつある。このサウド家を中心に様々な利権が結びつき、その中でもビンラディン家は建設業を中心に財を成した。その系列のオサマビンラディンがアルカイダの中心である事は皮肉な結果である。今日のサウジアラビアは市場主義経済をもって欧米に強く結びつき、その中心人物として、ビジネスにおいてシティバンクを支える力を持つアルワリード王子である。
 アラビア半島の諸国は皆専制君主制である。民主主義ではない。しかし、この国々は社会保障や医療、教育といった国づくりに資源を有効に利用し、OECD諸国を上回る豊かな国ズくりに成功した。民主主義が絶対ではないという証明であろうか。その背後には一京円に上がる石油資源があるということもある。しかし、民主主義を目指したイラン、イラクのように膨大な富を活用しきれない国もある事を考えると、リーダーの資質や欧米との歴史的な過去が大きく影響していると見るべきである。
 一方、ヨルダンはイスラエルと国境を接し、かつて中東戦争を際どく切り抜けたハシミテ家であり、現在はイギリス人を母に持つアブダッラー国王である。ハシミテ家はムハンマッドの血縁を受けたアラブの名家である。かつてハシミテ家はメッカを本拠にアラビア半島を支配していた。石油の重要性が今日程ではなかった当時、バクダッドに本拠を置いたファイサルの子孫は後に滅び、サウジアラビアに覇権を奪われた結果、トランスヨルダンを支配する事になった。資源も土地も貧しく貧乏な国だが、アメリカやイスラエルと争わず、今日国際政治のバランスの中で様々な国際援助を受けて観光国として新時代を迎えようとしている。


[PR]
 壬生義士伝は新撰組隊士吉村貫一郎が、新撰組随一の剣の使い手として描かれている。吉村は南部藩の足軽の身分であったが、剣の才があり、北辰一刀流nお免許皆伝ということで、新撰組に入隊した。本当に一番の剣の達人であったかは不明だが、子母沢寛が調査した中で、当時の隊士から相当の使い手であった事は証言があり分っている。北辰一刀流は千葉周作が開いた、江戸三大道場の一つで、千葉が編み出した目録、免許、皆伝といった階層的システムは画期的であった。司馬遼太郎の北斗の人に詳しい。実態はかなり、商売的な部分もあり、免許皆伝がどれほど難しいことだったかは不明。しかし、皆伝というのは、当時の組太刀、居合い、槍、薙刀などの様々な技を全て習得したということで、相当なことである。直心影流では、立ちきり稽古が最後にあり、毎日朝から晩まで入れ替わり立ち替わり門弟の打ち込み稽古をこなさなければならず、一間もある太い木刀を千本振り、墨田川の大橋を一息で渡る肺活量が無ければ免許は得られなかった。ちなみに、勝海舟は直心影流の免許皆伝である。

 新撰組に関しては、司馬遼太郎の燃えよ剣、子母沢寛の新撰組始末記と新撰組始末記異聞があるが、新撰組を現代感覚でとらえ直し、青春群像として描いた司馬遼太郎の評価が高い。自分は時代考証的な面や、オリジナルと言う点では子母沢寛の功績が大だと思う。彼は、新聞記者の経験から、当時まだ生き残っていた新撰組関係者にインタビューし、小説を書いた。始末記を書いたのは1928年だから、斉藤一も永倉新八も生きていたはず。後の作品はこれらをもとにしている。吉村貫一郎は確かに小説とは違う。子母沢寛が吉村は切腹したと考えたが、後の調査では明治3年没となっているらしい。司馬も浅田次郎もエピソードそのものは子母沢寛の域を出ていない。しかし、当時の混乱状況は、歴史の闇も多く、鳥羽伏見の戦いなど新たな史実が後からも発掘されるから、興味は尽きない。

 中井貴一や渡辺謙が主役でテレビドラマとして、また、映画化されている。浅田次郎は関係者の証言と本人の独白という形で物語を進めている。東北の田舎から、貧しい家族を養うために、自分の学問と剣という技能を売りに新撰組に入り活躍する。近藤や土方が士道に忠実な、武士としての幻想にこだわった事に対して、吉村の行動原理は家族への愛と専門化としてのプライドである。このあたりは全くのフィクションである。あの時代にそのような精神文化があったとは思えない。浅田がこの無名の剣士をここまで描ききったことは驚きであり、力量を感じさせる。司馬遼太郎が、近藤や土方を近代的な組織オルガナイザーとして注目した事に対して、浅田はプロの剣士として新しい新撰組隊士像を描き出している。彼の文章は簡潔で切れが良い。今の村上春樹と並ぶ文章家である。
e0195345_16133782.jpg

[PR]
1.カフカ

 村上春樹の作品を1Q84に続けて読んだ。主人公の名前は田村カフカ。彼が家出して四国高松の甲村図書館の佐伯さんという館長の書いた昔のヒット曲が「海辺のカフカ」、さらに登場人物がカフカ少年とカフカをイメージしている。フランツ・カフカの小説、変身では主人公ザムザ氏がある日、突然、巨大な毒虫に変身する。突然、世界が変わるのである。彼の新しい毒虫のような姿にとまどう周囲の家族や周囲の人々。その不条理は奇妙な日常をもたらし、彼を取り巻く世界は変わらないし、明るい未来を予測させない。このカフカの世界は、第二次世界大戦という悲劇を予言するかのような現実感を与え、20世紀初頭のヨーロッパの精神状況を描出した。小説は、その作者の描く世界を通じて私達の精神を描き出してくれる。彼は、この海辺のカフカによって、フランツカフカが描いたような世界の変化と不条理を描く事にはこだわっていない。むしろ、ストーリーにはギリシャ悲劇や雨月物語などのモチーフを使っている。しかし、村上春樹は日本の戦後50年を登場人物を通して小説というキャンバスに描いた。その描き方は一種のパロディでもある。タナカさんという不思議な能力を持った頭の変な60代の人物が登場する。20世紀の災禍であった第二次世界大戦はタナカさんの人生だ。メタファーとして戦後起きた様々な事件を語らせている。タナカさんの最後は映画、エイリアンの一シーンを思わせる。

2.ストーリー

 この小説の主人公は15才の少年田村カフカという名前で一人称で語る。図書館の司書、性同一性障害の大島さんと昔の恋人を大学紛争の内ゲバで失った館長の佐伯さんがカフカ少年を異次元世界に導く。戦争中に超常現象で学習能力を失ったタナカさん、彼を高松につれてくる星野青年といった人物を通して、それぞれの世界を語らせ、全てが高松の入り口の石に結びついていく。村上春樹の主人公はいつも女性にもて過ぎだが。
 登場人物は何故か高松に集まってくる。タナカさんは猫と話したり、超自然現象を予知する能力を身につけた。タナカさんは意味不明の「入り口の石」を探しに高松に来た。入り口の石というのは2001年宇宙の旅のモノリスのような物体。この石の周辺で不思議な出来事が発生する。彼はカーネルサンダースという謎のぽん引きに出会い、石の場所を教えてもらう。夢と現実が錯綜する。夢は現実につながり、夢想は未来に結びつく。父親は時空を超えてカフカ君に殺されたのか、タナカさんが夢の中で殺した猫殺しのジョニーウォーカーマンは時空を越えてカフカ君の父親の殺人につながる。高松ではメタファ的存在のフライドチキンのカーネルサンダースという人物も現れる。佐伯さんはカフカ君の母親としてのメタファなのか。さくらという高松往きのバスで知り合った美容師の女性「さくら」さんは彼の姉という思いにつながるのだろうか。後半になってストーリーはギリシャ悲劇オイデプス王の展開になっていくかに見える。いくつかのモチーフが錯綜する。このあたりの村上春樹の作方は見事だ。
 物語は「僕」カフカ少年が中野の家を出て高松に一人旅してくるところから始まる。村上春樹の世界には、恋愛、旅、暴力、戦争、セックス、童話、SFといった要素を織り込んで読者にサービス精神旺盛な展開があり、どんどん読ませてくれる。今の若者のように漫画やゲームに親しんだ世代に受け入れられる訳であるが、彼は自分のような団塊世代であり、大学紛争や高度成長といった時代精神も共有している。サザエさんは彼の好みではないかもしれないが。

3.メタファな世界との関わり

 世界は実体と形而上的世界、そして時間と空間で構成され、認識される。実体は自己との関わりにおいて現在であり過去であり未来である。メタフィジカルな世界は実体と結びつくこともあるが、我々には混沌として見える。それをとらえるレンズは芸術であるともいえる。宗教は原始的な形であり、神話もそのひとつである。絵画は平面的に時間を止めてしまう。しかし、小説は自由だ。その虚構世界の中で事体とメタフィジカルな世界を錯綜させ、時間と空間を自由に移動する事が出来る。村上春樹の世界はまさにその手法を駆使して、登場人物を通して人間の様々な過去、心の隙間、夢想世界を我々に展開してくる。ある日突然自分が異質な世界に突入する。昨日の良い子が引き起こした殺人、隣の善人がとんでもない事を引き起こす。この世界で起きている異常な出来事の周囲では日常が続く。平和な時代からアウシュビッツに放り込まれたユダヤ人。平和を望みながらもイスラエル軍に攻撃されるパレスチナ難民。内ゲバで間違えられて殺された学生、最大の不条理と理不尽は死である。彼はこの世界に向きあう現代日本の稀な作家であるが、残念ながらこの課題に関しては宗教が専門領域である。この分野に彼がどこまで食い込めるあろうか。というより、小説が宗教に代わってメタファな世界と実体世界を結ぶ事が出来るだろうか。
 文学作品はメタファーな世界である。作家の空想力と言語的表現能力、そして事実と体験を組み込む事で読者をその世界に引き込む事が出来る。村上春樹の海辺のカフカは、そうしたメタファな世界と現実を織り込み、読者を彼の小説世界導く。しかし、虚構を現実感あるものにする手法であるが、それ以上ではない。虚構によって世界は変わらないだろう。夢は人を虚構の世界に導く事はできる。歴史的な世界の記録、メタファな世界、記録や手紙、夢といったものを組み合わせ、戦争、性、暴力、愛と青春を描き出した。小説にはそれを信じたり、実行するという事があるとすれば、現実との衝突を結果的に引き起こす。読者にどこまでインパクトを与え、心をとらえるかが作者の楽しみだろう。


[PR]
 村上春樹の1Q84読んだ。久しぶりに小説を読んだことになる。最近は小説は作り話という偏見から、殆どノンフィクションか論評的なもの、新書、聖書しか読まない。何故これを読んだというかというと、オーム真理教がヒントになっているというからである。自分はあのオーム真理教に何故あのように若者が集まり、大事件を起こすに至ったかがいまだに分からない。このあたりから、日本の若者は精神面で変化し、宗教ばなれし、教会にも来なくなったような気がする。そこで意気込んだが、この本から答えは読めなかった。彼はそもそも宗教にはあまり関心が無い人みたいだ。だから、今年イスラエル文学賞授賞式で行ったとき、基調講演でガザ侵攻を堂々と批判した。彼らの宗教的な動機もあの問題には重要なのだが、その辺り無神経だから、イスラエルに辛辣な批判が出来たのだろう。でも、あのあたりから、村上春樹はなかなか勇気のある男だなという印象を持った。海辺のカフカ、ノルウェーの森などの名作があるがいずれ読んでみようと思っている。1Q84を読んで最初に感じた事は何とも劇画コミックスみたいな小説だなあということ。作者はきっと映画化も視野に置いているに違いない。といってもこのオマージュとしては映像にしにくいところもある。空気さなぎとか、リトルピープルをうかつに映像化すると滑稽な感じになってしまう。この小説は一種の大人の童話であるが、恐怖とか不気味なオカルトも取り込まれている。パラレルワールドというSF的不思議空間の話でもある。
ドラマは天吾という影のライターが「ふかえり」という少女の書いた小説を出版社の陰謀で書き換えて出版したところそれがベストセラーになってしまう。そこから恐怖のカルト集団が不気味に動き出す。彼の周辺の人物が消えていく。もう一人の青豆という女殺し屋は元エホバの証人を思わせる集団の家庭に育ち、そこから脱出した過去を持つ。彼女は柳屋敷という豪邸に住む老女がスポンサーになっており、DVを行うエリート男を消していくのが生き甲斐なのだ。青豆と天吾は小学校のときに出会っているが、この二人のストーリーが並行して進んでいき、最後に接近するところで物語は終わる。
しかし、この中の人物像は何とも小生のような小市民には理解しにくい。自分の周囲にはこんな感じの人は全くいない。主人公の天吾という人物は予備校教師であり、ライターであり、また、柔道もこなし、ドラマーもやっている。一人暮らしで人妻のセックスフレンドもいる。一種の現代のヒーローかもしれない。管理社会の外にいて自由な生活スタイルが取れる。一方、もう一人の主人公、青豆も整体師というかマッサージとマーシャルアーツのインストラクター兼殺し屋であり、これも結構奔放な性生活をしている。愛の無い代償行為のようなセックスだが、二人の主人公は結構相手に困らない。そこが売りだが,流石に村上春樹はポルノにならないように行為までの過程を大切に描き、実行シーンは淡白に描いている。現代のヒロインなんだろう。あまり美人に描かれていないところ良い。この根無し草のような2人は現代の若者のメタファだろうか。「ふかえり」という不思議な美少女、リトルピープルという謎の存在で訳が分からなくなる。月も2つ見えるパラレルワールド世界だからリトルピープルなるものも登場するのだろうか。カルト集団の内容はかつての左翼革命集団から変身した宗教団体という説明だが、実際のオームはそうした社会思想性なかったから、そのあたりはいかにも作り話になってしまう。しかし、登場人物は皆、孤立した人生と不遇な子供時代を送っている。愛情の欠けた家庭が生んだドラマなのだろうか。カルト集団は神秘的な能力も持ち合わせているが、その説明は無い。どうして教祖がそれほど天吾や青豆のことを知る事が出来たのかも分からないが別の世界の出来事だからだろう。奇妙な作風と文学手法が現れたものだ。
 まともな家庭生活は殆ど描かれない。登場人物は皆、家族の愛情を失った人々だ。ファッション、ジャズ、クラシック音楽、自由な生活、そしてグルメなレストランや食事。これらが彼らを慰めてくれる道具立てだ。宗教は神秘的な能力を持った教祖と、盲従する信徒で構成され、明確な教典は無い。実態は不気味な調査能力と報復をする暴力性がオウムと重なる。山梨の山中に集団生活をするカルト集団でほとんどオーム真理教がモデルだが、彼らの心情を描く事は出来ていない。村上春樹はこの問題には関心があって、アンダーグラウンドという小説ではこの事を中心に書いている。このさきがけという集団は武闘派と宗教派がいて、武闘派は警官と銃撃戦を行って壊滅しているという設定。残った連中がヤマギシ会のような宗教集団になっている。ライフスタイル教とでも言うものだろうか。DVを行う男を正義の名の下に青豆は柳屋敷の老人の支持で暗殺していく。これはオームのポアを思わせる。リトルピープルというのはカルトのメタファであろう事は推察できる。この小説の終わり方を見ると、村上春樹はもう一冊続編を書くだろう。

[PR]
ヨム・キプール戦争全史 アブラハム・ラビノビッチ著を読んだ。500ページを超える力作であり、イスラエルの資料を丹念に拾っている。ヨムキプール戦争とは第4次中東戦争のこと。1973年にエジプトとシリアがイスラエルをスエズ側とゴラン高原から攻撃したが、イスラエルのヨムキプールという贖罪日で国民全体がお休みになる時を狙って行われた。我が国では産油国が石油の輸出停止と原油価格の高騰によってパニック状態になったことが記憶にあるが、その戦闘の実態はあまり知られていない。この本は、イスラエルの将兵の回顧を中心に編纂されている。エジプトやシリア側の資料は記録が無いため、一方的な記録であるが、当時のイスラエルの対応に関しても批判的に書かれており、イスラエルの自画自賛の本ではない。しかし、この戦争が、20世紀の世界史に与えた影響は極めて大きい。OPECの台頭、米国とイスラエルの関係が強化され、また、エジプトと当時のソ連との結びつきが後退し、パレスチナの難民の絶望的な孤立化の始まりでもある。湾岸戦争やアメリカのイラク侵攻もこの戦争に源を発している。この書においても、米ソ冷戦のパワーバランス下にあって、イスラエルが巧みに危機を脱し、キッシンジャーがソ連とイスラエルを調停する様子を克明に記録しており、近代史の重要な局面を明らかにしてくれる。第3次中東戦争は6日戦争と言われ、アラブ諸国・エジプトにとって屈辱的なイスラエルの勝利となったが、その巻き返しを図ったのがこの第4次中東戦争である。この戦争後、今日のエジプトとイスラエルの関係は固定化され、国境も決まる。シリアはゴラン高原を取り戻す事ができなかった。戦況として、緒戦においてはヨムキプールの隙を衝かれたイスラエルはシナイ半島とゴラン高原で後退を余儀なくされ、これまでの連戦連勝の自信を打ち砕かれる。この首謀者がエジプトのサダトである。エジプトとシリアはソ連製の近代兵器である、対戦車ミサイルSAGAや対空ミサイルSAM,対戦車兵器RPGを駆使して大規模な戦車戦を仕掛ける。当初イスラエルはアラブ側の近代戦能力を侮り、戦線を後退せざるを得ず、不敗神話は打ち砕かれた。しかし、ゴラン高原とスエズ運河の両面におけるイスラエルの奮戦で、後半戦で押し返される。これはほんの三週間くらいの戦争であるが、その規模はかつてのナチスドイツとソ連のクルクスでの大戦車戦以来のものであった。イスラエルの反撃に対して、後押ししている米ソの軍事的緊張も高まり、まさにその代理戦争の様相を見せ始めたとき、キッシンジャーの調停策が功を奏し、第3次世界大戦への道には至らなかったキワドい戦争でもあった。イスラエルはゴラン高原での奮戦と、スエズ運河を越えた巻き返しによって危機を脱する事が出来た。このときのスエズでの英雄が後のイスラエルの首相であったシャロンである。緒戦の情報収集の誤りは時の政権に大きなダメージとなった。これをきっかけに、かつてシオニズムを軸に建国の主体であった労働党は後退し、パレスチナ政策に強硬な右派、リクードが台頭するのである。この戦いには後半イラクも参戦しており、湾岸戦争へとつながっていく。このとき既にイスラエルは核兵器も所有していた筈である。
[PR]