カテゴリ:武道・剣道( 69 )

ポーランドの重装槍騎兵は15世紀から20世紀まで最強の騎兵といわれていた。フサリア(Husaria)という騎兵の運用で、これは15世紀から始まった長槍によるテルシオ戦術を破り、さらに、マスケット銃も制圧することができた。最後はドイツ軍のポーランド侵入で壊滅し、戦車に立ち向かった騎兵として、ポーランド軍の脆弱さの象徴になったが、実際は何も戦車に直接立ち向かったわけではない。機関銃や戦車にはなかなか対抗できないことぐらいは分かっていたと思う。戦場において潰走する歩兵や散兵線の突破に主として活用された。ナポレオン戦争の時代、ナポレオン側にポーランドはついており、ワーテルローの戦いでもイギリス軍の騎兵を潰走させている。映画では敵の銃撃にバタバタと倒れる攻撃側が描かれるが、実際は死者の数は少なかったし、銃撃の効率も悪かったのである。
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 このフサリアの運用は実際は難しいことで、優秀な馬と、騎馬の乗りこなしやコントロールができないと鉄砲にはかなわないことは当然だ。しかし、19世紀まではマスケット銃が主流で敵に損傷を与える射程距離が70mとか、正確には的に当たらない銃の扱いにくさ、弾丸の装填時間を考えると、第一列の犠牲を半分以下に抑え、第二列に攻撃を集中することで歩兵集団を蹂躙することが可能だった。テルシオは長槍の槍ふすまで騎馬の侵入を防ぐようになっていたが、フサリアの騎兵はそれを超える長槍で対抗し、騎馬の波状攻撃で1列2列3列の役割分担で戦列を固め、攻撃力を高めていた。当時のマスケット銃より至近距離では弓矢の方がむしろ強く、近距離では致命傷を与えることができた。
アメリカ合衆国の中央にウェストという地名が多い。中央なのになぜウエストなのか。ノースダコタとか、アイオワ州が中西部とか、ノースウエスタンという名前になるのは、ボストンやシカゴから見て白人の開拓の到達限界がそのあたりで、西部だった。スー族の10秒に5発から10発発射する弓には対抗できず、とくに森林の中ではインデアンの攻撃には銃では成す術が無かったので開拓の西の限界がアイオワだったのだ。これが南北戦争以降、ウィンチェスター77銃など連発のライフルが普及したためにインデアンの弓矢は完全に無力化された。
黒沢明の風林火山や乱に見られる騎馬武者の騎兵風突撃等は全くのフィクションで、日本の合戦では騎馬武者は馬を降りて戦った。騎乗するのは逃げる時か追撃するときだった。西欧映画でも、あれほど派手に騎兵は倒れなかっただろう。戦列の半分が死傷したら負け戦だ。戦闘員だって本当は死にたくはない。。
 19世紀に入り、騎兵の運用は時代遅れとなりイギリスなどではお飾りになってしまった。クリミア戦争の時に、テニスンが詩に書いた勇敢なイギリス騎兵の突撃は全く無謀な大虐殺に近い失敗であったことが明らかになっており、映画「遥かなる戦場(1968年トニーリチャードソン監督)」でもその光景が描かれている。クリミア半島のバラグラヴァの戦いである。 連絡将校ルイス・ノーラン(en)大尉が命令を誤って伝えたため、第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネル率いる軽騎兵旅団673名がロシア軍砲兵陣地に正面から突撃し、死傷者278名という大損害を被った。騎兵の運用は優秀な指揮官のもとでしか効果を発揮できない良い例であった。

朝の太陽の輝きのもと、わがイギリスの軽騎兵旅団は誇り高く突撃した。200メートルほど前方から敵が一斉に大砲を撃ち出した。たちまち、平原には砂ぼこりが舞い、戦死した兵士や軍馬が折り重なった。乗り手のいなくなった軍馬が戸惑うように立ちすくんでいるのが見える。
 それでも、騎兵旅団は突撃を止めず、光り輝くサーベルを引き抜くと、勇敢に敵の陣地に飛び込んでいった。軽騎兵たちは、敵の砲兵陣地を蹂躙し、ロシアの砲兵たちをサーベルで次々と斬り殺していった。見事、敵を蹴散らし任務を達成した軽騎兵たちは、勝利の凱歌とともに、味方の陣地に意気揚々と帰って来るはずであった。しかし、次の瞬間、悪夢が起こった。丘の上に配置されていた敵の砲列が猛烈に火を吹いたのだ。
 ものすごい砲声が数分間続き、戦場は土けむりと硝煙で視界が全く閉ざされてしまった。しかし、まもなくして、あらわれた光景は惨たんたるものだった。そこには、もはや生きている者は誰一人なく、累々と横たわる馬と兵士の死体だけであった。こうして、突撃開始以来、わずか20分ほどで敵味方双方の何百という人間がことごとく死に絶えてしまったのである。   
(ザ・タイムズ1854年11月14日の記事)


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神道無念流の練兵館を率いた斎藤弥九郎の伝記である。剣道道場の練兵館で多くの幕末の志士が育った。道場主であった斎藤がどの様な役割を果たしたかはあまり知られていない。多くの長州藩士がここで学んだ。剣を学んだだけではない。師として何を導いたかをこの本で明らかにしている。代表格は桂小五郎である。藤田東湖、渡辺華山、高杉晋作、芹沢鴨、伊藤博文、根岸信五郎など、錚々たる門弟を輩出した。北辰一刀流の玄武館、鏡新明智流の士学館と並ぶ三大道場であった。道場は今の靖国神社の位置にあったが、神社建設のため牛込見付に移転した。その後、根岸進五郎が本郷に有信館を開き、神道無念流は中山博道まで受け継がれた。羽賀準一、中島五郎蔵、中倉清が戦前の剣道を伝えたが、今は全日本剣道連盟により、統一されており、流派の技は残っていない。
練兵館において、武は戈を止めるの義なれば、少しも争心あるべからずと道場に掲げられていた、神道無念流の理念により、斎藤弥九郎が如何に幕末の波中を生きたかを植松氏は描いている。黒船に備える幕府の混乱、アヘン戦争に西欧の技術と武器に驚異を感じた心ある武士、韮山で反射炉を作り大砲の鋳造を試みた江川、そして、彼の元でお台場の建設に奔走する斎藤弥九郎の物語である。剣の修行や斬り合いの場面はほとんど無い。武と学を大切にした当時の道場は、剣道のみならず、情報源であり、最新の学問の場でもあった。身分や藩の制約を超え、自由な場が生まれていたのである。齋藤が、砲術や練兵訓練に取り組み、韮山の代官江川との交流、台場の建設から、晩年に大阪造幣局の建設に尽力したことなど初耳であった。桂小五郎が弟子で、斎藤の薦めで学問に励み、晩年も交流していた事なども発見であった。彼にとって、剣は人であった。
剣豪として有名な、山岡鉄舟、榊原謙吉、志士であった桂小五郎、坂本龍馬、勝海舟などは人を切っていない。剣の修行を学問や政治に生かしたことがのちに高く評価された。斎藤は維新の前の、大塩平八郎の乱、蛮社の獄、高島秋帆の砲術などの開国前夜の時代を生きた。剣の心を日々の活動に生かした剣士の生き様を見事に描いている。この著者が女性であることも珍しい。

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東大と一橋の対抗戦

10月16日商東戦は当日まで東レ三島での三井剣友会の合宿の企画者でもあったため、土曜のジュニアや対抗戦を応援できませんでしたが、翌日午後は国立に行き応援できました。勝ち抜き戦はいつもの通りデッドヒートして、気迫のこもった若々しい試合だった。結果は対抗、勝ち抜きとすべて東大に負け、惨敗ということで反省しなければならない。率直な自分の印象を申し上げると、技術的なことに言及し、未熟な自分で恐縮だが、とにかく、一橋は面を打つための訓練ができていない。面を打つ時の手の内の冴え、手首の伸びなど東大のほうが見事だった。残念ながら、東大も含め、間合いにおける駆け引きや、剣先、虚実の取り合いなど、剣道の面白味は出てこなかった。緊迫した力の攻めあいで、どちらかが気の張りが抜けると必ず打たれるというところは素晴らしかった。一橋の面の打突に対する指導に課題が残ったと思う。面は剣道の基本で、訓練の王道はない。面の攻めを基本に小手も胴も打てる。そのためには、素振り、懸り稽古、切り返しの厚みでレベルが決まる。地稽古や試合では身につかない。いくら他校に行って練習試合をしても、そこで習得するものではないだろう。強いチームがどのような稽古で力をつけているのかを見なければわからない。その地力の差が出た。もちろん、東大の方が体格、経験も一橋よりは上だが、これは昔からのことである。部員数や新人の有段者数の差だけではない。稽古の方法、基本の積み重ねも残念ながら見直さなければならない。一橋は試合で最も大事な気迫、機会をとらえた打ちはできていたし、体力の差もそれほど感じなかった。これまでの努力は感じた。問題は間合いから攻めに入る最も難しいところが思考停止し、いきなり間合いに入って攻めまくっていた。これではむしろ相手の術中にはまってしまう。東大も、少しでも気を抜くと一橋の攻めに打たれるから緊張感を持って試合をしたので、伝統の一戦としてお互いに良い交流だったと思う。どちらかが舐めてかかったような試合は一つもなかった。しかし、基本の面、理合にかなった技、攻防の面白味は感じなかった。間合い、剣先の競り合いから攻撃に転じ、出鼻を打つ、後の先の技、抜き、すり上げといった日頃の稽古が一橋は出てこなかった。一体何のために稽古したのか。大いに反省してもらいたい。全体を通して一橋の面の有効打突は東大に比べ、著しく少なかったのではないか。数値も検討し、後の稽古に生かしてもらいたい。11月から新体制に入るが、これまでの稽古の積み重ねは恐らく、新師範のもとで開花するだろう。学生もめげずに、希望を持って稽古してもらいたいところ。
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 初心者が初めて竹刀を持つと、手の平が上を向いて脇が開いてしまいがちになります。そのため、手の平を下に向けるようにしながら両脇を締めて竹刀を持ちなさいという教えがあります。最初はできるのですが、素振りを繰り返し、また、飛び込みの面を練習すると、どうもうまくできなくなる。結論としては正しいが、練習としては口頭で言うこととは別に訓練し、身につけねばならない。これは防具を付け、上位者がそんな構えや打ち方だと、竹刀を撃ち落とされたり、スピードが出なくなって自ずと修正できるようになる。

 打突時に手ぬぐいを絞るように両手首を内側に捻って肘を伸ばしなさいという教えがありますが、これは間違。中倉先生は茶巾絞りであって雑巾絞りではないよと言っておられましたが、茶道の心得のない自分には何のことか分かりませんでした。竹刀のように柄が丸ければ両手首を互いに反対方向に捻ってもあまり違和感はないかもしれませんが、日本刀のように柄が楕円形のものを持って両手首を内側に絞ったら、刃筋が安定せずに力の強い手の方にぶれてしまいます。これでは物を正しく切ることが出来ません。

 面を打つ動作の基本にもこれだけ指導の言葉には間違いや説明不足があるのは驚きです。これらは何千本も素振りを繰り返したり、稽古の中で次第に合理的な力の配分を身に着けるようになるので心配はいらないでしょう。しかし、稽古の仕方によっては遠回りをしてしまいます。おそらく、地稽古では身に付きません。それでは何をすればよいのか。答えは「切り返し」です。
 
 切り返しは一般的には正面打ちの後、左右面で面紐が左右にある上を打っていくことが一般的だし、むしろ、横面は避けることが始動されている。実は横面こそ切り返しの原点であると思う。しかし、横面は耳の部分に中高生あたりだと当たって、鼓膜を損傷したりする場合があり、危険だという考えもあろう。竹刀で左右を切り返して受けるのだから、危険は無い。ではなぜ、そのような左右面を繰り返し行うかというと、手首を柔らかくして、右面、左面を打つ体制を持っていることが大事だからだ。また、手首が柔らかいと、打った時に手の内の冴えも効いてくる。また、正面打や足の運びの練習になる。切り返しはその動作からくる利点を考えながら繰り返し行うことで、基礎的な体の運用が身に付く大切な稽古である。切り返しをただの体の運用や馬力で激しく打てばよいというのではなく、剣道稽古の内容が詰まっている良い稽古方法だということです。

 切り返しは基本である左右の面だけではなく、足の運びも重要で、かつて有信館で中山博道先生が教えたのが横の切り替えしである。また、かえって挙動を左右に動かして横の切り返しを行うべきだ。それは腕と手首の関節を柔軟にする手続きなのである。胴の切り返しというのは、まさに手首の返しをさらに負荷をかけるもので、何も左右の胴を打てるようにすることが目的ではない。ももちろんそれができる達人は存在する。 要は切り返しは準備運動ではなく、剣道の基礎力を養う運動要素が入っており、面の正面うち、世左右面、手の内の冴え、手首の柔軟性を生かした打ちに効果がある訓練法なのだということである。毎回の稽古で、標準の切り替えし2往復、横面の切り替えし2往復、胴の切り替えし2往復するだけでもかなり効果が上がると思う。                 
              
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前田選手は見事な投げ技で日本の柔道を見せてくれた。続けて田知本遥やベイカー茉秋が金メダルに輝き、胸のすく思い。ロンドンで苦しんだ日本対策の技にも研究がすすんだようだ。
オリンピック柔道の解説者が世界の柔道として、各国の特徴が見られるというが、外国人の試合を見ると、柔道には見えない。柔道着を着たレスリングだ。特に外国人同士が酷い。組み手をさせない。とにかく。相手の袖を掴むのが、大変。そして、大外刈りや、背負い投げのような技も無い。せいぜい、内股の変形とか、レスリングのような抑え込み。というより、直ぐに身体を引いて、技をかける体制にならないから、柔道の技になっていかない。投げと見せかけ、襟を取った手を引きはがしにかかる。やたら、袖吊り込腰のような技。自分から相手を引き込み、身体をねじ込み、相手を回転させて、有効を取れば、後は時間がなくなり、優勢勝ち。指導を取られないよう、巧みに逃げ回る。時間がなくなる寸前不意打ちの技かけで、ポイントを取れば時間がなくなる。有効か、優勢で、勝てる。それまで、投げ技で攻めまくった真面目な日本人選手は最期に取られた指導1ポイントで敗北する。柔道をやっているのは日本の選手で、外国人選手には独自の攻撃技がある。サンボや、モンゴル相撲などの応用だ。日本の選手はそんな外国の技を勉強して対応するから大変である。彼らはメダルを取りたいばかりであり、又、日本の柔道を無力化させて勝つ事ばかり研究したようだ。流石、ロシアの選手は山下の指導もあり、投げ技もかける。力技が多い。一体いつから、変な柔道になってしまったのか。襟を取らせない、袖を掴ませない、投げ技を、かけると、返し技から、中途半端な技で有効を取る。日本柔道の投げ技をかけるところを逃げ回り、腕をとって有効か、投げ技などはほとんど見え無い。 武術の美は全く無い。野良犬の取っ組み合いにしか見え無い。あの野獣と言われた女子57kg級松本薫選手は足を使い相手をねじ込み、抑え込みで勝ったが、あれは、グレーシー柔術の技を応用したものではないか。あの嘉納治五郎が嫌って、基本技から外し、コンデ前田がブラジルに伝えた技で、嘉納治五郎が生きていたら、破門にした技ではないか。本来の柔道の48手以外は禁じ手にするか、指導ポイントは反則だけにして、反則3回で1本にしたらいいと思う。しかし、日本の国際柔道の代表は語学力不足で自己主張が下手。今や、日本ではマイナースポーツになってしまった日本柔道の世界への影響はなくなりつつある。それなら、日本は講道館柔道を捨て、かつての柔術の危険技や合気道を取り入れ、新しい柔術を組み立てて、金メダルをとりまくればよい。

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甲野先生の古武道研究会 7月


国立の一橋大学有備館道場で開かれた研究会で甲野先生のお話を聞いた。

いつもの基本的な動作のお話であったが、毎回先生の動作を練習する訓練は無いので、お話と実技を見るだけである。そうした中でも、毎回示唆を受けるものがあるから興味は尽き無い。


いつも、先生が、技をかける時に、「交通事故」といった表現があるのだが、これが一体何かわかりにくい。月1度の会で身につくはずも無いのだが、そこは自分で考えねばならない。今回はマレーシアから王さんも参加した。月末に新潟の松川先生とKLに伺うのだが、1昨年もお世話になった方である。巨漢の彼が、甲野先生にひっくり返されたのは驚いた。自分なりに考えてみると、相手を攻撃する時の「気」の動きのことを言っているのだと思った。剣道で、よく、攻める時に「タメ」というようなことを言われる先生がおられるが、これが「タメ」ですよという動作を見たことがない。

 甲野先生の動きにも一瞬でどれが「交通事故」の瞬間かがわからない。相手を攻撃しようとすると、人間は本能的に防御の動作が出る。どんな人でも頭を叩こうとすればよける。女性の胸を触ろうとすれば、素早くはねのけるだろう。よほど相手が無防備か、避ける意思がない場合しか成功しないはずだ。相手を攻撃する「気」が伝わるのである。その気を一瞬外すことが相手にとっては思いがけない一瞬となり、無防備な態勢が生まれるのではないか。だから、これは微妙な動きで容易に目には見えないのではないか。剣道で中心を攻めろというが、それはこうした一瞬の作業のことで、何も突き技を出すということではない。相手の集中を外す意識のことではないかと思う。誰でも相手の視線に気がつく時がある。電車の中などでは、美人やグラーマーナ女性は常に周囲の目線を気にしている。目線と体の向き、そこに集中した姿勢や動作はほんの微妙な動きも捉えるのが生物である人間の能力だ。そこを利用するのである。今後の稽古に反映させてみようと思う。


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甲野善紀師を囲んでの研究会

 毎月1回剣道部同期のN君が幹事となって、甲野先生を囲んでの研究会を国立の一橋大学有備館道場で行っている。現代剣道とは異質ではあるが、先生のお話には奥の深いものがあり、毎回同じような説明も繰り返し聞くことで認識を深めてきた。先生の武道論では身体活用術として日本古来の武道が学んできたことを再現したり、スポーツ的な訓練の盲点―心と体の調和、心理的な作用が体の働きをいかに支配しているかを教えられる。7月1日のEテレでは女優片桐はいりとの1時間にわたる対談がテレビで放映された。「SWITCHインタビュー達人たち」において女優片桐はいりさんが体と心の関係を古武術にある身体運用の方法をもとに体験しながら甲野氏の話を感銘を受けながら聞いていた。甲野氏は文章や研究内容においてすぐれたものがあるからこそ、養老武司先生などの一級の識者と堂々と対談ができるのだと思う。武道家でこれだけのないようを、相手の話を咀嚼しながら話せる人は少ないと思う。我々の前での実践的なお話において繰り返されるのが、手の握り方である。親指を手の中に入れて他の指を握り、手首を内側に絞り込むと、これまで出なかった力が出る。手の力を抑え込むことによって、より筋力の強い背筋や大腿の筋肉が使われ、大きなパワーが生まれる。こうした身体の動きは江戸時代の武道家は常識的に理解していたものと思われる。例えば昔の人は着物を着ていたので、掃除をしたり、力仕事の時は襷をつけていたが、これは裾が邪魔になるのを防ぐのみならず、肩の力が抜けて体の運用が自由になることも同時に知っていた。我々が忘れていた日本人の知恵である。甲野先生は、常に、力を抜く技術を追求しているように思う。現代スポーツではより力強く、筋力を増強しようとする。しかし、ゴルフなどもそうだが、道具を使う時は、道具の持っている力を引き出すために、人の筋力が邪魔になることがある。人間の骨格と筋肉は道具以前の道具なのである。当日、プロのサッカーのトレーニングコーチが見学に来たが、彼らはまさに、より強く、より速くの世界である。しかし、相手の突進を躱したり、抜いたりするにはバランスとか、相手の意表を突いたアクションが伴う。力任せに体を使うと相手に悟られたり、自らを束縛し、筋力の半分も結果的にはパワーが出ないこともある。先生の初歩的な動作の中に何かを見出したようで、感銘を受けていた。剣道ではコテを撃つ場合、足腰と手を連携させると相手に見えてしまうが、足腰と手を切り離して攻めるとヒットしやすい。指導においては足腰を一体のものとして気剣体一致を良しとするが、実は試合の時など余程相手との実力差がなければ上手くいかない。
この辺りから試しながら稽古している。
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猫の妙術という話がある。武道の達人を猫のネズミ捕りに例えている。剣の達人がどうしても捕まえられなかった暴れネズミを老猫がいとも簡単に捕まえてしまう。

猫が会話をしている。ネズミを捕る優秀な猫が自慢をしてその方法を説くが、その老猫はその道の奥行きを語るのであった。要は、老猫はいつも寝てばかりいて、何もしないように見えて、いざとなると一瞬にしてネズミをつかまえる。剣でいうと抜く手を見せない、あるいは、相手と斬り合わず、一撃で倒す老剣士のことである。普段は全く単なる眠り猫である。我が家の猫はまさにその域ではないかと思うことがある。
我が家の飼い猫キャーチャンは12歳になるおじん猫でいつもはゴロゴロしているがネズミ捕りは達人で、いつの間にかネズミを捕まえては部屋の隅などに展示してくれる。先日は猫にとって最愛の長男の寝床の枕元の横にご持参した。朝、やけに鳴き声がするので目を覚ました。起きろと手で寝ている長男を揺り動かすので、みると横にネズミの死骸が横たわっていた。最近天井裏でゴソゴソ音がするのでどこからかネズミがやってきたなあと思っていたら、やってくれた。
獲ったネズミを横に誇らしげにしている。初鼠狩というわけ。そもそも、人間と猫の関係は、人が農業を始めた時以来、猫は人間の倉庫や家にいる鼠を捕り始めたようだ。野原よりも、確実にねずみがいるのは人間のいるところだからだろう。鼠を捕らない猫は多い。餌がある家猫は捕らなくなるそうだが、キャーちゃんは元野良ちゃんだったから上手いのだろう。
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以前、凄いシーンを見てしまった、それは階段のところに二匹のネズミを追い詰め、階段の段差でネズミが逃げないように威嚇し、ネズミは怯えていた。一瞬、一匹を自分の腹の下に抑え込み、もう一匹を手で転がして痛ぶっている姿を見たのだ。階段の上から何やらキャーチャンが真剣に向き合っているので何かなあと見たら、その現場であった。一度に二匹とは相当な達人である。感心なことに、一滴の血も流れていない。後で階段に転がっていた二匹はショック死しているようにも見えた。

今日もネズミの暗殺者キャーチャンは何事もなかったかのごとく、じっと窓辺に佇んでいる。
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猫の妙術

勝軒という剣術者がいた。

勝軒の家に大きな鼠が一匹いて、白昼堂々と部屋中走り回わるので、勝軒はその部屋を締めきって、飼い猫に鼠を捕らえさせようとした。 しかし、その鼠は飼い猫の面に飛びかかりあるいは、喰いつくなどしたので、飼い猫は泣き声をあげて逃げてしまった。 しかたなく勝軒は、近辺から抜群に強そうな猫を集めて来て、すこし隙間を開けて部屋に追い入れたものの、くだんの鼠は床の隅にいて、猫がくればとびかかり、喰いつき、あまりにも凄まじいものだから、猫どもはすべて尻込みしてしまい、どれ一匹として鼠を捕ろうとしない。

この様子を見ていた勝軒は腹を立て、自ら木刀を持って鼠を追い、打ち殺そうとするが、木刀はまるで鼠に当たらぬばかりか、戸障子や襖を叩き破ってしまう始末。 勝軒は大汗を流しながら、下僕を呼ぶと大声で言った。「六、七町先に、並々ならぬ古猫がおると聞いている。すぐに借りてきなさい」

早速、借りてきた猫を見れば、あまり利口そうでもない。が、かの部屋に入れると、例の鼠は身をすくめてしまって動かない。古猫は何事もなげに、のろのろと鼠のそばへ歩み寄ると、難なく鼠をくわえて戻ってきた。

その夜のことである。勝軒の家に多くの猫どもが集まり、かの古猫を上座に講じ、いずれの猫どもも、その前にひざまずくと古猫に言った。 「われわれは抜群の猫を称賛れ、その道の修行を積み、鼠ばかりかいたち、かわうその類まで捕らえられるほど、爪も磨いて研鑽してきた。 しかしながら、いまだ今日のような強い鼠に出会ったことはなかった。それを御貴殿は、何の術をもってか簡単に捕らえられたが、願わくば、我らにもその妙術を教えていただきたい」すると、古猫は静かに笑って言った。「若い猫のみなさん。みなさんは、一生懸命に働かれたではありませんか。ただ、思わぬ不覚をとられたのは、いまだ正しい道理にかなった技法をご存

知でないからでありましょう。まずは、みなさんの修行のほどから、お聞きすることにしましょう。」

古猫の言葉に、鋭い顔つきの黒猫が一匹前にすすみ出て言うには、私は鼠を捕獲する家柄に生まれ、以来、その道に心掛けてきた。七尺(約2メートル)の屏風を飛び越え、小さな穴にもぐり、小猫の時から早業、軽業を得意とし、ときには、眠ったふりをして策略をめぐらし、不意に桁や梁を走る鼠といえども、一度として捕り損じたことはなかった。ところが今日、思いの外の強鼠に出会って、一生の不覚をとり、はなはだ心外に思っている、と。

聞いて、古猫は口を開いた。「ああ、あなたの修行は技法第一主義というもの。したがって狙う心が先に立っているのです。昔の人が技法を教えたのは、その道筋を教えんがためで、ゆえに、その技法は容易ではなかった。その中に深い真理があるのだが、今日では技法だけを専らにし、ために種々の技を創り、技巧をきわめるので、単なる技くらべになってしまった。 それでは、技巧が尽きれば、どうにもなりますまい。小人が技巧に走り、才覚に溺れると、すべてそのようになろう。心の働きといえども、道理にもとづかず、巧を専らとするときは、かえって害の多いもの。これを反省して、よくよく工夫することでしょう」

次に、虎毛の大猫が一匹まかり出ると言った。私の思うに、武術は気の持ち方を貴びます。ゆえに、気を練ることに長い修行をつづけてきた。そのため今はその気力も固く強く、天地に充ちている。気合でもって敵を倒し、まず勝利して後すすみ、声にしたがい、響きに応じて、鼠を左右につけ、変化にも応じることができる。 行動するにも意識せずして、自然に湧き出るごとく振る舞うことができ、桁や梁を走るも可能だ。 ところが、彼の強鼠は来るに形なく、往くに跡がない。これはどういうことなのでありましょうか。古猫がゆうには、その修練は、気の勢いによって働くものでしかない。つまり、自らの気力をたのみとするもので、最善のものではない。われ破らんと欲すれば、敵もまた破ろうとしてくる。また破ろうとして破れぬもののあったときはどうするか。 決して己だけが強く、敵はみな弱いというものではない。天地に充がごとき気と思っているものは、すべてうわべだけの勢いでしかない。それは孟子の浩然の気と似て、実はまったく相違するものなのだ。孟子はよく

見える目を持ち、物事を見分ける知力を備えて剛健だが、あなたのは勢いに乗じた剛健である

から、その効果のほどもまた同じではないのだ。 たとえば、滔々と日夜流れる大河と、一夜のきゅうそ

洪水の勢いとの違いというもの。気勢に屈しない敵があるときはどうするのか。俗に窮鼠猫を噛むのたとえもある。そのような敵は、必死になり、生命を忘れ、欲を忘れ、勝負を度外視し、身の安全など心中になく無心である。こうした敵に、勢いだけでどうして勝てようか。

古猫の話しが終わると、灰色の少し年を経た猫が静かに前へ進みでて質問した。 「仰せのとおり、気は旺盛ではあっても象(かたち)があり、象のあるものは微小であっても見えるもの。私は長く心を鍛練して、気勢をなさず、相争うことなく、何事も相和してきた。私の術は幕を張り巡らせて、つぶて(石)を受けるようなもので、強鼠といえども、私に敵しようとしても相手ではない。ところが今日の鼠は、勢いにも屈せず、和にも応じず、まさに神のごとくで、私はいまだにこのような鼠をみたことがない」

灰色の老猫の話しに、古猫は答えて言った。「そなたの和は自然の和ではなく、考えてなせ

る和であり、したがって気をはずさんとしても、僅かな妄念が生じれば、敵はそれを知るので

にご だある。また、私心をはさんで和をなせば、気は濁って惰してしまうものだ。思い考えてなせば、

なにごとも自然の感をふさいでしまうため、妙手はどこからも生じない。 ただ、思わず、なすこともなく、感にしたがって動けば生ぜず、天下に敵すべき者はいなくなる。 とはいえ、各々が修行するところのものを、すべてが無用のことというのではない。気のあるところ必ず理があり、理のあるところ必ず気は離れずにあるから、動作の中に理に至るものはあり、気はまた一身の用をなすものである。 その気がおおらかなるときは、物に応ずること無窮(むきゅう)で、和する場合は、力をもたずして金石に当たろうとも、けっして折ることもない。わずかに思考することが、すべて作意となってしまうのだ。ゆえに敵する者は心服しない。 なんの術をも用いる必要はない。ただ無心に、自然に応じられるがよかろう。道には極まるところはないから、私のいうところをもって至極と思ってはならない。 昔、私の郷に猫がいた。終日眠っていて気勢もなく、木で作った猫のようであった。 人々も、その猫が鼠をとるのをみたことがなかったが、その猫のいくところ、近辺に鼠の姿を見ることはなかった。そこで、私はその猫のところへ行き、その理由を質したのである。が、その猫は答えず、四度も問うたが、四度とも答えなかった。これは答えなかったのではなく、答える理由がなかったのであった。 それでわかったことだが、真に知るものは言わず、言うものは真を知らないものだ。その猫は己を忘れ、ものを忘れて無物に帰していたのである。まさしく神武にして不殺(註)というものであった。私もまた彼に、遠く及ばなかった」

古猫のこの話を、勝軒は夢のごとく聞き入っていたが、やがて、古猫に会釈するとやおら口を開いていった。「私は剣術の修行をはじめて久しいが、いまだその道を極めることができないでいる。今宵は各々のお話しを聞いて、ずいぶん悟るところがあった。願わくば、なおその奥義を示していただきたいのだが・・・・」

古猫曰く、「否。私は獣であり、鼠は私の食するところのもの。私がどうして人のすることを存じましょうや。しかしながら、私がひそかに聞いたことがある。それ剣術は、専ら人に勝つためにあらず。変に臨みて、生死を明らかにする術なりと。武士たる者は常に心を養い、その術を修行しなければなりません。ゆえに、まずは生死の理に徹し、不疑不惑、才覚・思慮を用いずに、心気和平にして、静かに安らかで平常心であれば、変化に応じることは自由自在となる。 だが、この心にあらざる場合は、状(かたち)が生じ、敵が生まれ、相対して争うことにもなって、変化に適応できなくなるのだ。つまり、己の心が先に死地に落ちて霊明さを失うので、どうして快く勝負が決せられよう。たとえ勝つことがあっても、それはまぐれ勝ちでしかなく、剣術の本旨ではない。 無心無物といっても、空しいといったようなものではない。心はもともと形もなければ、したがって物を蓄えることもできない。そこの僅かでも蓄えるも

のがあれば、気もまたそこへ拠ろうとし、そうなれば豁達(かったつ)自在に在ることはむつ

あふかしくなる。向かうところは過となり、そうでないところは及ばなくなり、過は勢い溢れてと

どまらず、及ざるときは用をなさなくなり、ともに変化に適応できなくなるのだ。 私がいうところの無心、無物とは、蓄えず拠らず、敵もなければ我もなく、易にいうとこの思うことなく、なすことなく、ひっそりと動かず、天下のことに感じてついに通ずで、この理を極めるに近い」

そこで勝軒は、再び質問した。「敵なく、我なくとは・・・・」

古猫はいう。「我あるがゆえに敵があるのだ。我がなければ敵もあるまい。敵というのは、陰・陽・水・火と同様である。およそ形あるものは、かならず対するものだ。己の心に象(かたち)がなければ、当然、対するものもないわけで、争うこともない。これを、敵もなく、我もなしという。物と我ともに忘れて、静かに安らかに、一切の妄念を絶てば、和して、一つになろう。 敵の形を破っていても、我もそれを知らない。否、知らないのではなく、そこに心がなく、感のままに動いている、ということであろう。この心は世界は我が世界であって、是非、好悪などにとらわれないことを指す。すべては、己の心から苦楽・得失が生じるのであり、天地広しといえども、また、己の心の外に求めるものはないのである。 古人曰く、眼裏塵(ちり)有りて三界窄(すぼ)く、心頭無事一生寛(ゆたか)なりと。すなわち、目の中に僅かのちりが入れば、眼を開くことができない。外来、あるべき筈のないところに、ものが入るからそうなるわけだが、これは先の心のたとえなのである。 また、古人の曰く、千千万万人の敵の中に在って、この形は微塵になるとも、この心は我が心なりと。孔子曰く。匹夫も志を奪うべからずと。もし、迷うときは、その心が敵を助けるのだ。私のいうことは、ここまでである。あとはただ、自ら省みて己に求めることだ。師はその事(わざ)を伝え、その理を悟すだけだ。その真を得るのは、我にある。これを自得という。あるいは、以心伝心ともいう。禅学だけではなく、聖人の心法から芸術の末に至るまで、自得のところはすべて以心伝心である。教えるというのは、己に有っても自ら見ることのできぬところを、指して知らしめるだけである。師から授かるのではない。 教えるのも易く、それを聞くのも易い。ただし、己にあるものを確実に見つけ、己のものとするのは難しい。これを修行上の一眼目という。悟りとは、妄想の夢のさめたもので、覚(さとる)ということとも同じであり、格別変わったことではないのである。(註)周の文王を賛えた言葉。文王は神のごとき武勇をそなえながら、あえて兵を興さず、人を殺さすに、泰然としてときを待ったという。


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面打ちの指導
学校剣道では集団指導が基本である。だから、個別の進歩の度合いに応じた指導が難しい。個人指導をどこまで受けたか、また、一人稽古で、どこまで基本を身につけたかで大きな差が生まれる。一流の選手は必ず、人より早く道場に来て、一人稽古をするか、自宅などで工夫して、道場で実行し、試行錯誤している。
初心者に対して、先は竹刀の握り方、構え、気合、足捌き、そして面打ちの基本を教えるが、それぞれに関しては極めて奥が深く、剣道を学ぶ全てにおいて高段になっても意識し、工夫を要することである。あらゆる状況においてこの基本どおりに体が働けば理想である。先は竹刀の握り方においては両手の親指と人差し指がV字型になり、付け根のラインが一直線になるように握るのだが、面を打った時に両手が茶巾絞りになるように手の向きを内側に絞ることが正しい面の打ち方である。手の内がギュッと締まり、竹刀の先にパワーが伝わって行かねばならない。その為には竹刀を握る手を柔らかく竹刀の柄を浮かせるぐらいにしておかねば打った瞬間に締まらない。これを覚えるまでに、素振りを何千回と振るわけである。ところが 、面の素振りが出来るようになり、防具を着用すると、籠手の重みと手袋の圧力で、これが思うように出来ない。初段から二段になるくらいになってやっと籠手をつけて正しい面打ちが出来るようになる。しかし、いかに相手より早く、刃筋正しく、遠くから打てるかということになると、何段になっても大きな課題である。特に、高段になるにつれて、年齢も上がり、体力、筋力が衰えてくると、これまでのような筋肉に記憶させただけでは思うように動かない。また、足の捌きなども上手く連携しなければ正しい面打ちにならず、かえって、変な癖がついてしまって、見ても美しくなくなる。
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持田範士十段の構え
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高野佐三郎師の構え

構えの構成要素と延長線
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日本剣道形では剣先は相手の目の位置につけるということだが、自分は身長が無いので大きな相手には喉元につけないと構えが上がって打たれやすい気がする。自分の身長、脚力なども考慮して決めることで決まりきったことでは無いと思う。
剣先を下げると突きを食らうリスクが大きい。

構えは剣道において重要な要素であるが、この教え方については、恩師中倉先生は、左手の拳を中心に、竹刀を構えの形で握り、臍の当たりからスーッと前に出し、相手の目に延長戦が当たるように構えるのが正眼の構えと教えられた。千葉仁先生は逆で、面を打った形から、剣先と左手を臍から一握り離した形で、剣先を相手の喉元から目につける形と教えてくださった。脇もきちんと締めておかねばならない。これを学んだのは大学卒業後5段になってからだ。それまでは体で覚えろという一点で何とかやってきた。当初は、初心者の時に、左手は臍の位置から拳一つ空け、相手の喉元に竹刀の延長が付く形としか教えられなかった。また、構えた時の姿勢、重心の置き方なども合わせて、本来きめ細かく指導すべきであるが、集団的に初心者を教える場合、そこまで行き届いた説明は出来ない。防具をつけて立ち会った時など、疲れるとその形が崩れてくる。故今井三郎先生などは、地稽古の最中も相手に手の甲が横になっているからもっと内側に手首を入れてとか、地稽古中に声を出しながら故人指導された。これこそ指導だと思い感銘した記憶もある。面うちにおいても、ただ薪割りのように振りかぶって打ちおろすのは刀の使い方としても間違いである。
 居合いをされる方でも、竹刀の基本素振りのように振りかぶって打つ動作をする方がいるが、実際刀を使って切る時はただ打ち下ろすのではなく、左拳を前に出し、手の内を使って切り下ろさないと切れない。よく、円形線ということを聞くが、日本刀はよく切れるのでそのような形を作らずとも切れるのだそうだ。問題は手の内である。竹刀の場合も左腰を前に出し、左拳を連携して押し出す動作を意識し、右手の力も使って竹刀を絞り込む。右手は前に突き出して竹刀を握る。
手の内の冴えの効いた一本がこれで可能となる。左腰が前に出ることで少なくとも10cmは距離が稼げる。よく居合をされている方に見受けられる大振りの面であるが、これが手の内を効かせ、左手を伸ばす。同時に右の手を前に出して握りを締めて成功である。足の裁きも合わせて、右足を前に出すときは当然左足に体重が掛かるし、左に重心があれば打ち込む機会である。間合いに入る時にどう構え、相手に悟られないかなど、課題は多い。その相手の動きにも左右されるが、観察力も重要である。相手と接触する竹刀の感触、目の動き、手元の動きなど、注意点は多数ある。この足腰と連動した面をうつことを今七段を目指す段になった自分が稽古の最中で、これが出来れば一応完成形と考えている。面打ち一つにしても、稽古者の身長、体力、年齢などに応じてベースが変わるので、指導の場合はきめ細かく注意しなければいけないのだと思う。

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佐渡の伝統:古流の組太刀から生まれた10月19日佐渡の伝統行事、白刃(はくじん)

 昨日、新潟放送のニュースで佐渡で古くから伝わる白刃(はくじん)という伝統芸能を見た。これは刀(真剣ではないと思う)を使って、組み太刀を60本ほど行なうもので、佐渡に伝統「芸能」として行なわれているものである。自分は直心影流の組太刀や法定に取り組んだことがあるが、これを見て、ビックリした。まさに、昔の組達そのものではないか。しかし、これは武道ではなく、いわばダンスのような形で伝承されている。だから、本当の切り込みを練習している訳でもなく、刀の使い方としては中途半端だが、原点は武道のかつて様々な流派で行なわれていた組太刀なのである。全国的にこれを知っている人はどの位いるのだろうか。こうした武道の組太刀が伝統芸能になっているのは他にもあるが、これだけ組太刀の形をリアルに継承しているものは珍しい。実際の真剣を使った戦いは滅多にあるものではない。全く、恐ろしい出来事に違いないが、江戸時代の初期や、幕末には実際行なわれていた。一瞬で勝負がついてしまうから、映画の殺陣の様には行かない。殺陣は観客に見せるもので、時間が長い方が良い訳であるし、重い刀をあのように軽やかには振れない。足の運び、歩幅、腰の落とし方、構え、打ち込んだ時の返し技など、真剣の戦いに忠実と思われる。真剣を使う時は足の歩幅は大きく、腰をお能のように落とし、下半身を安定させないと剣を使う事はできない。自分も、切り合いを実際に見たわけではない。かつて、有信館の創始者、根岸信吾郎は中山博道の恩師、(自分の師であった中倉清先生は中山博道の弟子)でもあるが、戊辰戦争の前の、北陸戦争で従軍し、切り合いをして腰に銃弾を受けて負傷したが、その当時の事を回顧して、一体自分がどうのように刀を使ったか、全く憶えていない、無我夢中で切り結んだが生き残ったと言っている。それが真実だろう。組太刀の踊りは、それぞれの演舞を各家庭を回って見せるもので、お祝いの意味もあるようだ。佐渡の限られた一部の地域で伝承しようと会員組織があり、その中で練習が行なわれる。少子高齢化の中で、伝承もむづかしくなっているのではないだろうか。

 


全く同じ刀の受け方が
直心影流にある
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溝口派一刀流右転左転と同じ
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