カテゴリ:武道・剣道( 73 )

(形を学ぶ)
日本剣道形は全日本剣道連盟の段審査の課題となっているが、その為に形は審査のために稽古されることが多い。これは残念なことである。古流の形を原点としているが、七本と小太刀の3本は江戸時代の武士の生き残りの剣道指導者が丁寧に剣道の本質を残すために各流派の極意として残すべき技を基盤に作った様式である。目的として流派の壁を越え日本刀を使う剣道の本質を伝える意図を持った文化財である。

(形から竹刀剣道を考える)
竹刀剣道との関連を直接的に求めるものではない。竹刀剣道は相手を打ち、隙を狙い、技をかける、そして、試合や日頃の稽古の基本である。しかし、礼から始まる剣道の様式は形をベースとして形成されている。形こそ日本の剣道の原点である。竹刀は刀より軽い。そして、最大の利点は安全であることだ。日本刀は一旦降り下ろせば怪我をしたり致命傷になる。やり直しがきかない。竹刀は無駄打ちが可能。竹刀剣道は安全と引き換えに本当の切り合いではないからこそスポーツの一つにもなっている。竹刀剣道は日本刀の刀法とも違う。あくまでも、身体の運用と平常心の鍛錬である。日本刀では飛び込んで面を打てるだろうか。形では全てが打太刀に応じているではないか。
日本刀は左右の手を詰めて柄を握る方が使いやすい。手の内だけで振ることが出来る。重量と空気抵抗の無い刀身から、振る時の剣先の速度は竹刀より早い。
竹刀剣道には独自の発展性がある。打突部位が限定されている。正面からの面、小手、突きが基本である。かわす技は4本目くらいだ。この事が、かつての武士の時代の戦いとは違いをもたらす。例えば刀の斬り合いは袈裟切りが早く、正面の面を打つのは難しい。竹刀の稽古を意識した形である。しかし、剣道の原点を学ぶ意義は大きい。

(形の効用)
また、効用として、形の稽古は相手を尊重し、相手と合気になり、気持ちをひとつにする意義がある。そこで、相手を尊重する関係性が生まれる。竹刀剣道はどうしても攻撃性の衝突であり、相手を尊重する目的には叶わない。剣道仲間同士は互いに相手の剣道を批判する。竹刀剣道では相手の弱点をつくから当然だ。また、理合というものは地稽古では身につけることが難しい。むしろややゆっくりとした責め合いの稽古から発展させる必要がある。例えば5本目の上段に対する攻め方はこの擦り上げが基本である。六本目の小手すりあげ小手は竹刀でも難しい。しない稽古では何故か膝をつく胴打ちは稽古しない。しかし、七本目の胴も胴打ちの理合が込められている。

(剣道学習と形)
高段の剣士が真剣に形を学ぶ理由がここにある。もちろん、直心影流、小野派一刀流などの古流も良いが、教える場所や指導者に限りがある。剣道の様式や精神性は形から生まれる。日本剣道形に限らない。形の奥行きは深く、日々の稽古が行われなければ意味がない。ただ形や順序だけを教える県連の講習会などでは到底伝えられない。機、目線、足の運び、気勢、足の引き付けなど、竹刀剣道では忘れがちな基本が身に付く。区の剣連などの講習会でこれらを丁寧に教えることが無いのは残念である。今のように、集団指導だけでは発展段階の異なる人にその剣道形の矯正は難しい。指導者のレベルもバラバラだ。必ずしも段が反映されない。欠陥のある指導体制で良いわけがない。木刀を使った10本の形が級審査に使われている。しかし、これは竹刀での稽古の基本であって日本刀とは関係がない。審査だけのための形稽古は審査が終われば忘れてしまう。さりとて、形の試合というのも基準が分からない分前向きに取り組む気にならない。形の稽古の楽しさを全面に出して竹刀稽古の基本であることをよく説明すべきではないか。

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新潟の直心影流 今井常固(つねかた)と山田次郎吉


直心影流の山田次郎吉の流派の祖としての力量を疑い、今井を本流とする研究があるが、あまり意味があるとは思えない。流派内で優劣を競うという事が無いし、免許皆伝とか、榊原謙吉にどこまで認められたかという事については今井に関しては歴史的資料は無いのだから。今井常固は明治大正期の新発田市の剣道を支えた剣豪。新発田は堀部安兵衛を生んだ地。

幕末の剣豪、榊原謙吉から直心影流の指導を受けた最期の剣士と言われている。当時、坂本龍馬を暗殺した一員と言われた今井信郎も同じ時期に門下にいた。後に直心影流最期の免許皆伝、榊原謙吉の後を継いだ、山田次郎吉はその後輩にあたる。山田次郎吉の時代は榊原は幕府の仕事や、竹刀稽古に関心が移り、形の稽古は弟子に任せており、山田は兄弟子の今井達とは相当に稽古を重ねたと想像する。というのは、榊原の道場は竹刀稽古主体で形稽古は行わなかったからだ。山田は形の修得も志し、師の了解を得て、同じ直心影流の山田八郎に学んでいる。当時の剣術界では既に形派と竹刀派の対立が見られたが、山田は形と竹刀打ちの関係を、両者は相反するものでなく、どちらも修めるべきとの考えを抱いていた。

山田次郎吉


1894年元旦の日、榊原より目録を受け、直心影流第15代と、道場を継承する。


当時の稽古は6尺もある大木刀を1000回も毎日振ったり、1人稽古も多かった。今井は新発田藩が直心影流だったこともあり、地元に帰り、地域の剣道指導にあたり、多くの剣士を育てた。しかし、明治になると、真剣を使った刀法は廃れ、竹刀の剣道が復活し、学校教育にも取り入れられた。剣道に取り組み、又、形の稽古を熱心に行なってきた人は分かると思うが、法定や袋竹刀の鞱の形、刃引きは互いに合気となるため、気持ちが通じ合う関係にもなる。竹刀稽古も相当にやったと思うが、今井と山田は遠く離れていたが、互いに通じて、新潟から東京に剣道の修行に行くものがいれば、山田が世話をするような関係であった。

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今井は新潟第一の剣士として、東京から招かれた強豪に対しても、むしろ一歩も引けを取らない対戦ぶりであったという。特に直心影流の特徴である呼吸の持続力を見せ、息の切れた相手を攻めきったという。中山博道もしばしば新潟を訪ねているが、推測だが、今井の存在もあったと思う。


山田は府立三中の剣道指導、一高、東京商科大学剣道師範として学生の尊敬を集めた。山田の偉大さは東京商科大学で育てた学生が実業界で活躍し、多くがトップ経営者となり、彼らが終生尊敬し続けたことでも分かる。山田は榊原謙吉から免許皆伝を受け、直心影流十五代を名乗ることを許され、剣道の流派を学問的に体系づけた日本剣道史を書いた。今井は新潟中学師範を務め、新発田という地域で剣士の育成したが、あまり記録が残っていない。しかし、新発田市から新発田中学卒業した剣士中野八十二、佐藤毅、斉藤正利、長谷川寿など、戦前派に九段範士4人を生む剣道の盛んな土地柄が彼の存在感を示している。


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剣道の昇段審査は4段以上から難易度が上がり、五段は県連主催の昇段審査では最高段位であるためか、県によってはさらに厳しい判定がある。審査基準を日頃の稽古にどう実行できるかに関しては、指導者が丁寧に説明する必要があると思う。六段以上に挑戦するには次のことを頭に入れて稽古すべきである。自分が体験、心がけたことを下記に述べたい。ご参考にしていただければ有難い。

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⒈審査基準


(審査基準をどう理解するか)

審査の基準は三段までの基準が正しい着装と礼法、適正な姿勢、 基本に則した打突、充実した気勢である。初段から3年間普通に取り組めば、誰でもこれらは達成可能である。しかし、逆に、高段審査でも、着装において、面の手ぬぐいが飛び出していたり、面紐が長過ぎ、竹刀の中締めが歪んだり、竹刀の握りが鍔元から離れたり、うっかりすると欠点が緊張のあまり露わになるから、初心者にかぎらず、要注意である。ここを間違うと審査は最初から落ちたも同然なのだ。

(4段)

4段から5段は初段から三段までの着眼点に「応用技の錬熟度、鍛錬度、勝負の歩合」を加えたものである。いずれも抽象的だが、剣道に取り組んでいるものであれば、応用技といえば、基本的な面、小手、胴打ちに加え、出鼻、抜き、擦り上げ、引き技といった技が時間内で出るかどうかがポイントである。審査の場合、これらを使って面が打てるかどうかが評価の基本である。

(5段)

 自分は5段が壁だった。鍛錬度は日頃の稽古の結果、活発な動き、気・剣・体の一致、残心、掛け声が出ているかというところで判断されるだろう。勝負の歩合というのは、間合い、攻めが打突の機を捉えているかである。1足1刀の間合いをどう詰めるかである。そのためには常に前に出る心がけが大事である。試合では下がることも駆け引きだが、審査では評価が悪くなる。自分は立ち会った時に、間合いを切るように一歩下がる癖があり、このために何度も五段を失敗した。回数は10回くらいだが忘れてしまうほど。学生の剣道から卒業し、試合に勝てば良いというところから脱出しなければならない。むしろ社会人から剣道を始め、ここまで順調に進む人もいる。その反対もけっこう多い。自分の体力に任せているといずれ衰え、そこから崩壊が始まる。再構築することをお勧めしたい。

(6段)

5段審査より一本の打ちの質にこだわりがあるようだ。面打ちがきちんと面布団を叩いているか、残心が取れているか、姿勢が崩れていないかを5段より厳しく見ている。6段は2度目で、この二点を修正、合格した。稽古を続けることから道は開ける。全剣連の主催で、審査員も八段の先生方が選定される。五段の基準を深めれば受かると思う。五段の基準の上に組み立てることで良いと思う。

7段以上)

 問題は、全日本剣道連盟主催の七段から八段までの実技審査の基準である。初段から6段までの着眼点に加え、下記の項目について、更に高度な技倆を総合的に判断し、当該段位相当の実力があるか否かを審査する。そこで、理合・風格・品位という要素が入ってくる。これが実に分りにくいのである。高度な技量とはどんなことだろうか。自分なりに心がけたことを下記に述べたい。審査員も全員八段である。ということは八段の先生にご指導頂く機会が欲しい。


(真っ直ぐな面)


 これがどんな相手でも打てるかどうかである。基本稽古のときに出来る真っ直ぐな面が、地稽古や試合になると出ない。どうしても打ちたい気持ちが先立つと、右手に力が入ってしまい、相手の中心から外れてしまう。基本稽古のイメージを定着させるように素振り、基本稽古を繰り返すしかないのだろうと思う。これを一番効果的に行えるのは切り返しではないだろうか、左右面も左手の軸をブレないで打てれば正面打ちに準ずる評価であり、試合でも一本になる。自分と同等、あるいは八段の先生にかかっても真っ直ぐな面は出ない。当然である。だからこのためには、自分より段の低い相手、初心の相手といえどもきちんと真っ直ぐな面を打っていけば稽古になるのである。剣道において、稽古の相手というのはどんな相手でも大切である。高段高名の先生の追いかけをしている人がいるが、時間の無駄。かえって無理をして気を奪われ、形が崩れる原因になっている。むしろ、指導する機会の多い方が有効である。お手本になるようきちんと打てば良い稽古になる。少年指導に取り組む方で高段をとる方がいる理由である。ただし、地方などで高段の先生からご指導をいただくことの少ない人は別である。

(タメが無いー理合と技の違い)


 理合とタメは表裏一体ではないだろうか。日本剣道形の様々な技、抜いたり擦り上げたり、は技である。理合はそこに至るまでの過程だと思う。攻めの最後の段階。打ち太刀は機を見て打ち込むが、その機を仕太刀は攻めを効かせ、導く。無闇に打ち込むのでは無い。そもそも、タメとは、何かが分からない。大ぶりな基本面打ちはタメがあるとは言わないだろう。


面打ちにおいて、必要な要素は「手の内」の冴えである。これは竹刀の握り方、打ち込んだときの絞り、打った後の体の伸び、姿勢によって完璧な面打ちができると言える。5段以上の相手であれば、普通に打っていくと竹刀で抑えられたり、受けられたりして単純に打ち込むのは難しい。技の起こりは最後まで見られないように左拳を自分の中心から外さず、剣先は相手の中心を外さないことが相手の対応を抑える動作である。一拍子の打ちができるようになれば、極力相手に近いところまで攻めを効かせて打てるだろう。一言で言えば理合に合った攻めである。相手を制圧し、結果タメのある打ちが結果的に生まれるということではないだろうか。


(打突の時に姿勢が崩れる)


 姿勢が崩れることは体力の消耗にもつながり、攻防の弱点にもなる。姿勢が崩れては有効打突も打てない。構えだけで姿勢が崩れることはないだろう。問題は打突の後である。これは、右足を出した打ち込みの後、左足を素早くひきつけることで達成される。また構えにおいて、左右の足が大きく開いていると打ち込みのときに姿勢を崩すことにつながる。また、 小手を打った後、残心が取れない。打った後瞬間的に左足を引きつければ体は崩れないから、残心をとる余裕が出る。日頃の稽古で心がけるべきである。


(体勢が崩れない構え)

 風格のある構えと言っても、なかなか定義出来ない。左手が中心から外れる打ち込まれたとき左手を上げて右手を隠せば小手も面も相手は打てない。しかし、これをやると、この形から反撃すると時間がかかり、相手も打てないが自分の攻めも消える。構えも崩れてしまうから、日頃の稽古で構えを崩さないよう集中度と姿勢を保つように心がけたい。きちんとした正眼の構えを打ち込むことは子供に対してでも難しい。相手が打つ前に竹刀で手元を抑え、凌ぎ、剣先の運用でさばくようにしたい。遅れると受けになり、次の技も出ない。面に来たら擦り上げ胴、小手に来たら擦り上げて打つしか無くなる。いずれも、審査員の良い評価にはつながらない。後手になっている感じになるからだ。あくまでも、先を取るという姿勢=動作が必要である。


(無駄打ちが無い)


 審査において無駄打ちがないことも評価の条件である。時間内に二人を相手にするが、必ず一本は打ちたい。そのためには構えで間合いをはかり、一本の打ちが成功する機会を狙うこと、あるいは相手を動かして自分が打てる距離、あいての注意を自分の中心から外すといった工夫が必要だろう。かつて、恩師中倉先生は天才であり、稽古でも八段の高段者に一息ごとに打ち込まれるほど。ところが、打ちは必ず剣先3寸の物打ちで外されることがなかった。まさに無駄打ちをしないことは剣道の品格、姿勢の保持にもつながることである。剣道の稽古や試合の目的でもある。これこそ究極の目標である。打突の好機を狙うためには良い構えで相手を崩していくしかない。どの段位でも、受験者より一歩上である事を審査員に評価してもらわなければならない。時間に制限があるからそこが一苦労だ。高齢者の立会いを見ると、初太刀に失敗して焦って自滅しているケースが多い。何度も打ち損じると、もう5段にも受からないような剣道になっている。不動心とはよく言ったものである。


(品位ある剣)

 これも抽象的な概念だが、ここに剣道の良さと目標があると思う。永遠の課題だ。これは日頃の剣道に対する取り組み方、心がけ、相手を尊重する気持ちなど、精神的な要素もあり、ここも審査では見られているのだと思う。剣道は強いということで昇段が成功するのは70歳以上では通用しない。40歳代の第一審査会場の受験者の強さは半端ではない。錚々たる剣暦の持ち主や、警察や教員の専門家も混じっているのである。彼らでも合格しない審査になぜ気力体力も衰えている高齢の合格者が存在するかである。精神面も見られているのだと思う。打ちたい、合格したいのは皆同じである。ここに剣道の良さと怖さがある。剣道が強いから人格が優れているとは思わないが、剣道に取り組む以上心がけるべきだ。狡い技、暴力的な態度は取ら無いということである。紳士的に相手を尊重し、打たれれば堂々としていれば良い。無理をすると品格が落ちる。七段は何処の道場でも少ないから、皆の注目は批判も含めて集中する。気をつけねばならないという事である。

日頃の稽古だけでは身につけることが難しい。日常生活から形成されるものでもある。具体的に稽古においてはむしろ形の稽古において考えていくほうが近道かもしれない。形の稽古は、相手の気持と合わせ、目線、呼吸、気合、機、気、礼儀、心の平常心などの要素を全て包含していると思う。竹刀剣道では忘れがちな諸点をカバーしてくれる。八段の先生方が大切にしておられることが分かる。審査のための形ではなく、この形の理合、正しい気勢、形をきちんと指導できる指導者が少ないことが残念である。県連の講習会は団体指導であるが、形の稽古は個人指導が必要である。順序や形だけではなく、理合、気勢などをきちんと教えられる機会が少ない。


以上、七段をいただいた意味は「正しい剣道」とは何かを追い求めることであると思う。自分の剣道にこれら諸点をさらに身につけるよう、これら着眼点を修行の目標として意識して取り組みたい。












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昇段審査 七段

 長年剣道に親しんできた自分にとっておそらく最終的な課題である七段昇段を11月28日に東京武道館で果たすことができた。多くの剣道人にとって、試合に勝つことも目標だが、やはり最大の関心事は昇段である。七段が集まって100人に1人の難関八段は夢のような世界で、普通の稽古やセンスでは取ることができない領域であるが、七段までは何とか努力で得られると思う。剣道に取り組んだ人で五段を取った後ならここまでは執着したい領域。50才から60才くらいは体力もあり、25%くらいが受かる。70才以上になると歳をとってから始めた方も多く、合格率は20人に1人の狭き門となる。

 審査では2人の相手と対戦するが、1分30秒の間必ず1本は取らなければ評価されない。最初の相手は睨み合ったまま、なかなか動かない。相手が動いた瞬間、出鼻の面を先に打つことができた。残心を取った。なかなか次が出なかったが、剣先を下げた時、剣道形2本目のように、いきなり小手が見えたので飛び込み小手が決まった。再び構え直し対峙したところで止めの合図。次の方は背は高いが痩せ型だったので、体力的には行けると思い、積極的に攻めた。最初の面は中途半端だった。もう一度と思い出たところを小手を打たれたが、自分の面も打ち込んだ、さらに引いたところを面を打ったがこれは見事に決まった。審査員席が相手のの背側で見えないと思い、次に出てきたところを出小手で抑えた。そこで止めの合図。

手応えはあったが、前回もあれだけ打って受からなかったので、不安も残った。合格発表に自分の番号A488があった。形の稽古はよくやっていたので自信があった。やっと取った七段であった。

 嬉しいというより、肩の荷が下りホッとした感じ。1年前から、これまでの剣道を見直し、真っ直ぐな面、トリッキーな技は封じ、相手から好感をいただける稽古を目指した。70歳近い剣道と、40歳の猛者の剣道は違う。審査員も相手を尊重する姿勢を求めている。品格といっても抽象的だが、狡い技、相手を痛めつけるような攻めは不快感を持つはず。このようなことをしないように気をつけた。ただ打てば良いというのは良くない。そこが試合とは違う。剣は人なりと見ている。

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     写真は全剣連ホームページから複写させていただきました。

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北斎漫画から江戸時代の剣術、柄を余して握っている。

 六段を取ったのは52歳で当時は会社勤めだった。45才で剣道を再開し、今70歳だから紆余曲折、七段まで18年かかったことになる。当時は週2回、中野の興武館で安藤宏三八段、小沢博八段のご指導を頂いた。会社の地下にも小さな道場があり、会社の剣道好きの仲間とも週1回稽古ができた。東レの柴田英一郎七段、大沼新太郎七段も加わって東レ社員クラブでの後の第2道場がが楽しみだった。週3回の体制であったが、仕事の関係で週1回になることもあり、平均すると2回がやっとだった。昇段は大目標だが、稽古を続けるということも日常的な目標である。稽古の時間を作るということが大変。18年の間、健康や生活上のことから剣道を中断せざるを得ないことがあった。六段を取って七段挑戦まで6年間は審査を受けることができない。59歳の時、日本武道館で審査を受けたが落ちた。2回受けてみたという感じで、今から思えばそんな姿勢では受かるわけがないと思う。七段はやはり、何処の道場でも指導者の立場で、六段とは違う審査基準がある。これを理解しないで受けていたからだ。鹿島で三井グループの合宿があり、そこでいつもなら、強い先生に積極的に稽古をお願いしていたが、そのときに限り気力が出ない。これは体調に異変があると思い、三井記念病院で検査をしたら冠状動脈がビラン性で11箇所も狭窄しているからバイパス手術をしなければ危ないと言われた。手術後七段挑戦はこのとき諦めざるを得なかった。柴田先生が入院中見舞いに来てくださり、七段は逃げずに待ってくれるよと励まして下さったのがありがたかった。

 家内が倒れ、要介護状態となったことも大きな中断要素で、毎日の介護で結局5年後に亡くなるまで、稽古もままならない状態となった。会社も辞めた。時間はできたが、東京医科歯科大学で修士を取る勉強もあり、結構忙しくなった。それでも、週1回は中野の上高田剣道クラブで清水薫七段、木村耕一七段と稽古は続けた。昇段は視野に無かった。その間、自分を励ましてくれた安藤先生と柴田先生が亡くなるという衝撃もあり、意欲もなくなっていたのである。

 2012年に家内が天国に召された。呆然とする日々だったが、新潟の大学に常務理事兼事務局長のお誘いをいただき、単身新潟の新発田市に移った。見知らぬ土地で何とか定着するには剣道を通してという下心で新発田市の剣道連盟の稽古に参加した。新潟県剣道連盟の会長をされていた斎藤栄先生が70歳で七段を取られて頑張っておられるのを見て自分ももう一度やってみようという気になった。新発田市のスポーツセンターでの稽古と近所の発慶館、聖籠町町民センター道場が新発田市の稽古場であった。そこで多くの新潟剣道人との出会いがあった。新発田高校の教員をされていた松川七段とも親しくおつきあいいただき、マレーシアの剣道指導にも同行させていただいた。

 新発田に来て1年後山形の審査、仙台、名古屋と受けた。昨年東京に戻り御茶ノ水の三井住友海上の百練館道場に個人会員として受け入れてもらった。自分の剣道を見直す良い機会となった。その年から、元警視庁の濱崎八段が師範となられ、毎週水曜日にご指導いただくことができた。自分の剣道はかつて母校一橋大学剣道部で師範をされていた中倉清先生のイメージが強く、天才剣士の形だけを真似たもので、今から思うとお恥ずかしい限りであった。しかし、今日まで、剣道を続けてこられたのも中倉先生の奇跡のような剣さばきに憧れたことが大きい。剣道の持つ精神的な面、礼儀、稽古の中身は忘れ、ただ打ち合って相手をやっつければ良いというような、中倉先生とは懸け離れたものであった。そのうちに、体力も衰え、病気を経て、何とも奇怪な剣道になっていたことに気がついた。打たれても良いから変えてはならない自分の剣道軸を模索し続けた。京都、長野と受けたが失敗。さらに反省。七段の先生方は皆様それなりの核心をもった剣風を持っている。そこが六段との違いだろう。稽古の時も、相手と同時に、周囲の仲間から良い立ち姿、素直な面打ち、打突の機会を作る工夫を自分なりに研究し、身長の低さ(154cm)を乗り越えて攻めを利かす工夫を続けた。百練館の七段の皆さん、小名木、小田、高津、植松各氏からは厳しいご批判と、心のこもった激励を受けた。一橋剣道部の同期の内藤君は既に八段挑戦中。都剣連副会長と全剣連の役員となり、彼の接する八段の先生方のご意見などを寄せてくださり、自分にとって良いアドバイスとなった。日本剣道形は世田谷剣連の藤野七段女史のご指導を毎月1度お願いした。自分は、体格にも恵まれず、剣道では無才ではあるが、一流の師、素晴らしい剣友に恵まれた。段を頂かずとも有難いことであった。東京に戻って5回目で何とか頂いた七段、これからも品格ある剣道を目指し、皆からお誘いを受けるような交剣知愛を続けていきたい。

 

 


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ポーランドの重装槍騎兵は15世紀から20世紀まで最強の騎兵といわれていた。フサリア(Husaria)という騎兵の運用で、これは15世紀から始まった長槍によるテルシオ戦術を破り、さらに、マスケット銃も制圧することができた。最後はドイツ軍のポーランド侵入で壊滅し、戦車に立ち向かった騎兵として、ポーランド軍の脆弱さの象徴になったが、実際は何も戦車に直接立ち向かったわけではない。機関銃や戦車にはなかなか対抗できないことぐらいは分かっていたと思う。戦場において潰走する歩兵や散兵線の突破に主として活用された。ナポレオン戦争の時代、ナポレオン側にポーランドはついており、ワーテルローの戦いでもイギリス軍の騎兵を潰走させている。映画では敵の銃撃にバタバタと倒れる攻撃側が描かれるが、実際は死者の数は少なかったし、銃撃の効率も悪かったのである。
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 このフサリアの運用は実際は難しいことで、優秀な馬と、騎馬の乗りこなしやコントロールができないと鉄砲にはかなわないことは当然だ。しかし、19世紀まではマスケット銃が主流で敵に損傷を与える射程距離が70mとか、正確には的に当たらない銃の扱いにくさ、弾丸の装填時間を考えると、第一列の犠牲を半分以下に抑え、第二列に攻撃を集中することで歩兵集団を蹂躙することが可能だった。テルシオは長槍の槍ふすまで騎馬の侵入を防ぐようになっていたが、フサリアの騎兵はそれを超える長槍で対抗し、騎馬の波状攻撃で1列2列3列の役割分担で戦列を固め、攻撃力を高めていた。当時のマスケット銃より至近距離では弓矢の方がむしろ強く、近距離では致命傷を与えることができた。
アメリカ合衆国の中央にウェストという地名が多い。中央なのになぜウエストなのか。ノースダコタとか、アイオワ州が中西部とか、ノースウエスタンという名前になるのは、ボストンやシカゴから見て白人の開拓の到達限界がそのあたりで、西部だった。スー族の10秒に5発から10発発射する弓には対抗できず、とくに森林の中ではインデアンの攻撃には銃では成す術が無かったので開拓の西の限界がアイオワだったのだ。これが南北戦争以降、ウィンチェスター77銃など連発のライフルが普及したためにインデアンの弓矢は完全に無力化された。
黒沢明の風林火山や乱に見られる騎馬武者の騎兵風突撃等は全くのフィクションで、日本の合戦では騎馬武者は馬を降りて戦った。騎乗するのは逃げる時か追撃するときだった。西欧映画でも、あれほど派手に騎兵は倒れなかっただろう。戦列の半分が死傷したら負け戦だ。戦闘員だって本当は死にたくはない。。
 19世紀に入り、騎兵の運用は時代遅れとなりイギリスなどではお飾りになってしまった。クリミア戦争の時に、テニスンが詩に書いた勇敢なイギリス騎兵の突撃は全く無謀な大虐殺に近い失敗であったことが明らかになっており、映画「遥かなる戦場(1968年トニーリチャードソン監督)」でもその光景が描かれている。クリミア半島のバラグラヴァの戦いである。 連絡将校ルイス・ノーラン(en)大尉が命令を誤って伝えたため、第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネル率いる軽騎兵旅団673名がロシア軍砲兵陣地に正面から突撃し、死傷者278名という大損害を被った。騎兵の運用は優秀な指揮官のもとでしか効果を発揮できない良い例であった。

朝の太陽の輝きのもと、わがイギリスの軽騎兵旅団は誇り高く突撃した。200メートルほど前方から敵が一斉に大砲を撃ち出した。たちまち、平原には砂ぼこりが舞い、戦死した兵士や軍馬が折り重なった。乗り手のいなくなった軍馬が戸惑うように立ちすくんでいるのが見える。
 それでも、騎兵旅団は突撃を止めず、光り輝くサーベルを引き抜くと、勇敢に敵の陣地に飛び込んでいった。軽騎兵たちは、敵の砲兵陣地を蹂躙し、ロシアの砲兵たちをサーベルで次々と斬り殺していった。見事、敵を蹴散らし任務を達成した軽騎兵たちは、勝利の凱歌とともに、味方の陣地に意気揚々と帰って来るはずであった。しかし、次の瞬間、悪夢が起こった。丘の上に配置されていた敵の砲列が猛烈に火を吹いたのだ。
 ものすごい砲声が数分間続き、戦場は土けむりと硝煙で視界が全く閉ざされてしまった。しかし、まもなくして、あらわれた光景は惨たんたるものだった。そこには、もはや生きている者は誰一人なく、累々と横たわる馬と兵士の死体だけであった。こうして、突撃開始以来、わずか20分ほどで敵味方双方の何百という人間がことごとく死に絶えてしまったのである。   
(ザ・タイムズ1854年11月14日の記事)


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神道無念流の練兵館を率いた斎藤弥九郎の伝記である。剣道道場の練兵館で多くの幕末の志士が育った。道場主であった斎藤がどの様な役割を果たしたかはあまり知られていない。多くの長州藩士がここで学んだ。剣を学んだだけではない。師として何を導いたかをこの本で明らかにしている。代表格は桂小五郎である。藤田東湖、渡辺華山、高杉晋作、芹沢鴨、伊藤博文、根岸信五郎など、錚々たる門弟を輩出した。北辰一刀流の玄武館、鏡新明智流の士学館と並ぶ三大道場であった。道場は今の靖国神社の位置にあったが、神社建設のため牛込見付に移転した。その後、根岸進五郎が本郷に有信館を開き、神道無念流は中山博道まで受け継がれた。羽賀準一、中島五郎蔵、中倉清が戦前の剣道を伝えたが、今は全日本剣道連盟により、統一されており、流派の技は残っていない。
練兵館において、武は戈を止めるの義なれば、少しも争心あるべからずと道場に掲げられていた、神道無念流の理念により、斎藤弥九郎が如何に幕末の波中を生きたかを植松氏は描いている。黒船に備える幕府の混乱、アヘン戦争に西欧の技術と武器に驚異を感じた心ある武士、韮山で反射炉を作り大砲の鋳造を試みた江川、そして、彼の元でお台場の建設に奔走する斎藤弥九郎の物語である。剣の修行や斬り合いの場面はほとんど無い。武と学を大切にした当時の道場は、剣道のみならず、情報源であり、最新の学問の場でもあった。身分や藩の制約を超え、自由な場が生まれていたのである。齋藤が、砲術や練兵訓練に取り組み、韮山の代官江川との交流、台場の建設から、晩年に大阪造幣局の建設に尽力したことなど初耳であった。桂小五郎が弟子で、斎藤の薦めで学問に励み、晩年も交流していた事なども発見であった。彼にとって、剣は人であった。
剣豪として有名な、山岡鉄舟、榊原謙吉、志士であった桂小五郎、坂本龍馬、勝海舟などは人を切っていない。剣の修行を学問や政治に生かしたことがのちに高く評価された。斎藤は維新の前の、大塩平八郎の乱、蛮社の獄、高島秋帆の砲術などの開国前夜の時代を生きた。剣の心を日々の活動に生かした剣士の生き様を見事に描いている。この著者が女性であることも珍しい。

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東大と一橋の対抗戦

10月16日商東戦は当日まで東レ三島での三井剣友会の合宿の企画者でもあったため、土曜のジュニアや対抗戦を応援できませんでしたが、翌日午後は国立に行き応援できました。勝ち抜き戦はいつもの通りデッドヒートして、気迫のこもった若々しい試合だった。結果は対抗、勝ち抜きとすべて東大に負け、惨敗ということで反省しなければならない。率直な自分の印象を申し上げると、技術的なことに言及し、未熟な自分で恐縮だが、とにかく、一橋は面を打つための訓練ができていない。面を打つ時の手の内の冴え、手首の伸びなど東大のほうが見事だった。残念ながら、東大も含め、間合いにおける駆け引きや、剣先、虚実の取り合いなど、剣道の面白味は出てこなかった。緊迫した力の攻めあいで、どちらかが気の張りが抜けると必ず打たれるというところは素晴らしかった。一橋の面の打突に対する指導に課題が残ったと思う。面は剣道の基本で、訓練の王道はない。面の攻めを基本に小手も胴も打てる。そのためには、素振り、懸り稽古、切り返しの厚みでレベルが決まる。地稽古や試合では身につかない。いくら他校に行って練習試合をしても、そこで習得するものではないだろう。強いチームがどのような稽古で力をつけているのかを見なければわからない。その地力の差が出た。もちろん、東大の方が体格、経験も一橋よりは上だが、これは昔からのことである。部員数や新人の有段者数の差だけではない。稽古の方法、基本の積み重ねも残念ながら見直さなければならない。一橋は試合で最も大事な気迫、機会をとらえた打ちはできていたし、体力の差もそれほど感じなかった。これまでの努力は感じた。問題は間合いから攻めに入る最も難しいところが思考停止し、いきなり間合いに入って攻めまくっていた。これではむしろ相手の術中にはまってしまう。東大も、少しでも気を抜くと一橋の攻めに打たれるから緊張感を持って試合をしたので、伝統の一戦としてお互いに良い交流だったと思う。どちらかが舐めてかかったような試合は一つもなかった。しかし、基本の面、理合にかなった技、攻防の面白味は感じなかった。間合い、剣先の競り合いから攻撃に転じ、出鼻を打つ、後の先の技、抜き、すり上げといった日頃の稽古が一橋は出てこなかった。一体何のために稽古したのか。大いに反省してもらいたい。全体を通して一橋の面の有効打突は東大に比べ、著しく少なかったのではないか。数値も検討し、後の稽古に生かしてもらいたい。11月から新体制に入るが、これまでの稽古の積み重ねは恐らく、新師範のもとで開花するだろう。学生もめげずに、希望を持って稽古してもらいたいところ。
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 初心者が初めて竹刀を持つと、手の平が上を向いて脇が開いてしまいがちになります。そのため、手の平を下に向けるようにしながら両脇を締めて竹刀を持ちなさいという教えがあります。最初はできるのですが、素振りを繰り返し、また、飛び込みの面を練習すると、どうもうまくできなくなる。結論としては正しいが、練習としては口頭で言うこととは別に訓練し、身につけねばならない。これは防具を付け、上位者がそんな構えや打ち方だと、竹刀を撃ち落とされたり、スピードが出なくなって自ずと修正できるようになる。

 打突時に手ぬぐいを絞るように両手首を内側に捻って肘を伸ばしなさいという教えがありますが、これは間違。中倉先生は茶巾絞りであって雑巾絞りではないよと言っておられましたが、茶道の心得のない自分には何のことか分かりませんでした。竹刀のように柄が丸ければ両手首を互いに反対方向に捻ってもあまり違和感はないかもしれませんが、日本刀のように柄が楕円形のものを持って両手首を内側に絞ったら、刃筋が安定せずに力の強い手の方にぶれてしまいます。これでは物を正しく切ることが出来ません。

 面を打つ動作の基本にもこれだけ指導の言葉には間違いや説明不足があるのは驚きです。これらは何千本も素振りを繰り返したり、稽古の中で次第に合理的な力の配分を身に着けるようになるので心配はいらないでしょう。しかし、稽古の仕方によっては遠回りをしてしまいます。おそらく、地稽古では身に付きません。それでは何をすればよいのか。答えは「切り返し」です。
 
 切り返しは一般的には正面打ちの後、左右面で面紐が左右にある上を打っていくことが一般的だし、むしろ、横面は避けることが始動されている。実は横面こそ切り返しの原点であると思う。しかし、横面は耳の部分に中高生あたりだと当たって、鼓膜を損傷したりする場合があり、危険だという考えもあろう。竹刀で左右を切り返して受けるのだから、危険は無い。ではなぜ、そのような左右面を繰り返し行うかというと、手首を柔らかくして、右面、左面を打つ体制を持っていることが大事だからだ。また、手首が柔らかいと、打った時に手の内の冴えも効いてくる。また、正面打や足の運びの練習になる。切り返しはその動作からくる利点を考えながら繰り返し行うことで、基礎的な体の運用が身に付く大切な稽古である。切り返しをただの体の運用や馬力で激しく打てばよいというのではなく、剣道稽古の内容が詰まっている良い稽古方法だということです。

 切り返しは基本である左右の面だけではなく、足の運びも重要で、かつて有信館で中山博道先生が教えたのが横の切り替えしである。また、かえって挙動を左右に動かして横の切り返しを行うべきだ。それは腕と手首の関節を柔軟にする手続きなのである。胴の切り返しというのは、まさに手首の返しをさらに負荷をかけるもので、何も左右の胴を打てるようにすることが目的ではない。ももちろんそれができる達人は存在する。 要は切り返しは準備運動ではなく、剣道の基礎力を養う運動要素が入っており、面の正面うち、世左右面、手の内の冴え、手首の柔軟性を生かした打ちに効果がある訓練法なのだということである。毎回の稽古で、標準の切り替えし2往復、横面の切り替えし2往復、胴の切り替えし2往復するだけでもかなり効果が上がると思う。                 
              
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前田選手は見事な投げ技で日本の柔道を見せてくれた。続けて田知本遥やベイカー茉秋が金メダルに輝き、胸のすく思い。ロンドンで苦しんだ日本対策の技にも研究がすすんだようだ。
オリンピック柔道の解説者が世界の柔道として、各国の特徴が見られるというが、外国人の試合を見ると、柔道には見えない。柔道着を着たレスリングだ。特に外国人同士が酷い。組み手をさせない。とにかく。相手の袖を掴むのが、大変。そして、大外刈りや、背負い投げのような技も無い。せいぜい、内股の変形とか、レスリングのような抑え込み。というより、直ぐに身体を引いて、技をかける体制にならないから、柔道の技になっていかない。投げと見せかけ、襟を取った手を引きはがしにかかる。やたら、袖吊り込腰のような技。自分から相手を引き込み、身体をねじ込み、相手を回転させて、有効を取れば、後は時間がなくなり、優勢勝ち。指導を取られないよう、巧みに逃げ回る。時間がなくなる寸前不意打ちの技かけで、ポイントを取れば時間がなくなる。有効か、優勢で、勝てる。それまで、投げ技で攻めまくった真面目な日本人選手は最期に取られた指導1ポイントで敗北する。柔道をやっているのは日本の選手で、外国人選手には独自の攻撃技がある。サンボや、モンゴル相撲などの応用だ。日本の選手はそんな外国の技を勉強して対応するから大変である。彼らはメダルを取りたいばかりであり、又、日本の柔道を無力化させて勝つ事ばかり研究したようだ。流石、ロシアの選手は山下の指導もあり、投げ技もかける。力技が多い。一体いつから、変な柔道になってしまったのか。襟を取らせない、袖を掴ませない、投げ技を、かけると、返し技から、中途半端な技で有効を取る。日本柔道の投げ技をかけるところを逃げ回り、腕をとって有効か、投げ技などはほとんど見え無い。 武術の美は全く無い。野良犬の取っ組み合いにしか見え無い。あの野獣と言われた女子57kg級松本薫選手は足を使い相手をねじ込み、抑え込みで勝ったが、あれは、グレーシー柔術の技を応用したものではないか。あの嘉納治五郎が嫌って、基本技から外し、コンデ前田がブラジルに伝えた技で、嘉納治五郎が生きていたら、破門にした技ではないか。本来の柔道の48手以外は禁じ手にするか、指導ポイントは反則だけにして、反則3回で1本にしたらいいと思う。しかし、日本の国際柔道の代表は語学力不足で自己主張が下手。今や、日本ではマイナースポーツになってしまった日本柔道の世界への影響はなくなりつつある。それなら、日本は講道館柔道を捨て、かつての柔術の危険技や合気道を取り入れ、新しい柔術を組み立てて、金メダルをとりまくればよい。

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甲野先生の古武道研究会 7月


国立の一橋大学有備館道場で開かれた研究会で甲野先生のお話を聞いた。

いつもの基本的な動作のお話であったが、毎回先生の動作を練習する訓練は無いので、お話と実技を見るだけである。そうした中でも、毎回示唆を受けるものがあるから興味は尽き無い。


いつも、先生が、技をかける時に、「交通事故」といった表現があるのだが、これが一体何かわかりにくい。月1度の会で身につくはずも無いのだが、そこは自分で考えねばならない。今回はマレーシアから王さんも参加した。月末に新潟の松川先生とKLに伺うのだが、1昨年もお世話になった方である。巨漢の彼が、甲野先生にひっくり返されたのは驚いた。自分なりに考えてみると、相手を攻撃する時の「気」の動きのことを言っているのだと思った。剣道で、よく、攻める時に「タメ」というようなことを言われる先生がおられるが、これが「タメ」ですよという動作を見たことがない。

 甲野先生の動きにも一瞬でどれが「交通事故」の瞬間かがわからない。相手を攻撃しようとすると、人間は本能的に防御の動作が出る。どんな人でも頭を叩こうとすればよける。女性の胸を触ろうとすれば、素早くはねのけるだろう。よほど相手が無防備か、避ける意思がない場合しか成功しないはずだ。相手を攻撃する「気」が伝わるのである。その気を一瞬外すことが相手にとっては思いがけない一瞬となり、無防備な態勢が生まれるのではないか。だから、これは微妙な動きで容易に目には見えないのではないか。剣道で中心を攻めろというが、それはこうした一瞬の作業のことで、何も突き技を出すということではない。相手の集中を外す意識のことではないかと思う。誰でも相手の視線に気がつく時がある。電車の中などでは、美人やグラーマーナ女性は常に周囲の目線を気にしている。目線と体の向き、そこに集中した姿勢や動作はほんの微妙な動きも捉えるのが生物である人間の能力だ。そこを利用するのである。今後の稽古に反映させてみようと思う。


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