カテゴリ:国内政治( 84 )

1小池旋風


この1年、小池百合子の大活躍の年であった。舛添氏の下らない不祥事のお陰で、舞台に躍り出た。中高年女性の星として都知事選は勝利し、1992年日本新党から転じ、新進党、保守党、自民党と権力の海を渡ってきた。その感度は抜群。細川、小沢、小泉と渡り、サーカスのように上昇した。環境大臣もつとめ、クールビズとか、新味があったが実はマスコミを使ったというより支援を受けた。残念ながら防衛大臣は辞任で防衛問題に見識があるとは思えない。安部石破対決においては石破についたため、安部から干され、未来の女性総理候補は稲田、野田の後塵を配する事態だった。


2キャスター出身の彼女


マスコミの依怙贔屓の支援は今も続いている。マスメディアの動きと民衆の反応にあれほど敏感な政治家は少ない。第二自民党ではなく希望の党こそ第一保守であると豪語する。今なお

衆議院選挙の目玉である。凄い!その権力志向は際限がない。顔に表れた三白眼は挑戦的、今なお総理の座を狙っている。野田とか、稲田のような小娘が何言ってんだよ・・とばかりに、二階や石破を恫喝し、民進党を解体に導き、細野、若狭などはぶっ飛ばし、民進党首の前原を骨抜きにしてしまった。自分を見限った安部には挑戦状をたたきつけたのだ。無能の代表、前原は民主党の中で弥次郎兵衛のように浮遊し党首にまでなった。無所属で自分の選挙はクリアーできても自民党一派閥のような希望の党に吸収されて存在感がない。昔はこのような人物はバルカン政治家といった。ユーゴやセルビアのような複雑な状況を泳げることが存在感であり、国民を幸せにする政策があるわけではない。言うだけ番長というアダ名もあったが、今回大決断をしたのは良いが、大失敗。結局は自己中心なのである。小池は今回都知事の職を放棄することが自分に不利になると悟ったとたんに、衆議院選挙参戦から手を引いた。お陰で、かつての日本新党ブームや小泉チルドレンをイメージした新人候補は軒並み落選する。あの時は党首が首相候補だった。勝ち馬なら乗ろうとする党首に信頼感がない。都知事選のような風は吹かない。


3選挙の行方


旧民主党で地盤がある政治家も希望の党で苦戦している。今回の選挙は旗色鮮明にした立憲民主党が反自民票を集め、希望の党に行った旧民進党員は割りを食う。自民は善戦するだろう。一体何のための解散総選挙だったのか、安部政権の無駄使いに上乗せ、北朝鮮の危機を煽り日本を危険にさらす嘘つき政治、アメリカのトランプに追随し、かつての日独伊三国同盟に便乗した叔父貴の岸信介の道をたどる。消費税を上げ、軍事費をかさ上げ、国民経済は疲弊する。教育無償化を餌に、消費税を上げ、財政再建は忘れて軍事費に回す。北朝鮮の危機が口実である。我が国の借金地獄は物価上昇で隠蔽する腹は黒田日銀総裁との悪巧み。ヒトラーがシャハトを使って見せかけの財政改革をやった手口を真似ている。要は借金踏み倒し政策なのである。小池氏は情報公開、ストッップ安部とかのたまうが、実際は自分の権力欲を満たすための方便なのだ。


[PR]
 寅さんで有名な柴又帝釈天。金町から京成線で一駅だが、金町の駅前も50年前に行った当時の記憶もなかったので、全く交通感覚がなく、駅前のバス停から小岩行のバスに乗って帝釈天前で降りた。昔、市川から金町の三菱製紙の工場勤務だった叔父の家に何度か遊びに行った。京成高砂から金町線に乗り換え、ハスの田んぼの中を単線路で2両連結の小さな電車で行ったものだった。車窓からは江戸川の土手と蓮田の緑が美しく、夏になるとハスの花も咲き、白鷺が舞う、夢の世界のようだった。江戸時代の旅人もそんな感慨を持ちながら、帝釈天参りをしたのだろうと思う。今はすっかり埋め立てられ、住宅地の中を走っている。帰りは京成線で金町に行き、当日予定していた亀有のモルドバ料理店に行った。帝釈天はアベックやカメラを持った参拝客で盛況であった。
e0195345_1702571.jpg

(水元公園の写真だが、こんな風景も電車から見られた)

 当山は経栄山題経寺(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人とし、その弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人が実際の開基である。


板本尊の出現
 この寺にはには昔より日蓮聖人御親刻と言われる帝釈天のご本尊が安置されていた。江戸中期の一時所在不明となっていた。安永年間に至り当山の第九代亨貞院日敬(こうていいんにちきょう)上人は此の寺のお堂が荒廃したのを歎き、その復興を計ったところ、安永八年(1779)の春、本堂改修中の梁上にこのご本尊を見出し、ついにご本尊の再来の法悦にあったのである。その吉日が庚申(かのえさる)に当たったことが、当山と庚申の結縁の始まりになったという。
 
寅さんの映画にある寺と同じだが、参道の商店街は映画の雰囲気と違い、より古色蒼然としたところがある。寺の前には仏具とかだるまのお店とか、駄菓子屋さんがならび、駅に近いところには名物草だんごの店、煎餅や飴、うなぎ屋などが軒を連ねている。こちらの方が寅さんの世界、店員は白い上っ張りを着ていて、映画に出ている店員そのままである。倍賞千恵子さんも白い上っ張りや白いスカーフを頭に着ていたと思う。境内も映画よりは広く感じ、本堂の伽藍にある木彫が素晴らしく、江戸文化を感じさせてくれる。中にある木彫は観覧の対象で有料である。
e0195345_1558596.jpg
e0195345_15592510.jpg
e0195345_1601841.jpg
e0195345_1603388.jpg
e0195345_1604910.jpg
e0195345_161910.jpg
e0195345_1612918.jpg
e0195345_1614654.jpg



[PR]
 産経ニュースによると、ビルの駐輪場で立ち小便をしたとして、軽犯罪法違反罪に問われた男性(36)の控訴審判決公判が7日、大阪高裁で開かれた。裁判長は、現場が公共スペースに当たらないとして無罪とした1審大阪簡裁判決を破棄、現場は「街路に当たる」として科料9900円の逆転有罪を言い渡した。現場の駐輪場が、同罪で規定する「街路または公園その他の公衆の集合する場所」に当たるかどうかが争点だった。また、女優の早見優と松本伊代が京都で線路に侵入したことが妨害罪で書類送検された。これがテレビのニュースで何度も取りあげられた。これらのニュースで共通しているのが、一体誰が警察に通報し、また、ブログに反応したのかが不明である点だ。立小便は古典的軽犯罪で時と場合によっては逮捕されても仕方がないが、高裁まで争うというのは異常だ。線路侵入も京都府警は書類送検までなぜ行ったのか、厳重注意とか、場合によっては、その場で誰かが注意すれば済む話である。立小便判決の場合、多分、被告側が偏執的で納得しないのだろう。素直に謝れば済む話だったのではないか。また、線路立ち入りの場合は、ブログの炎上とか、有名人に対するバッシング、場合によっては苛めである。ご両人は列車の運行を妨害したり、止めようという意図があったとは到底思えないし、鉄道側には何の損失も無い鉄道営業法違反などということが犯罪であることを認識している人の方が少ない。もちろん良いことではないし、観光客が多いところだから、今後真似をする人が出ると困るというなら、その時の話ではないか。写真で明確な証拠がある以上対応しなければならないのもわかるが、マスコミはむしろ、ネット上のいじめ的な炎上を問題にすべきである。こんなことに敢えてコメントを書いたのは、日本の警察やマスコミに対する不信感が湧いたからだ。この程度のことで、毎朝30分もワイドショーで取り上げるのはマスコミの自主的な、個人に対する社会的制裁が過剰にならないような配慮が欠けた行為に見えるからだ。線路立ち入り事件に関しては、ご両人が書類送検を不服として裁判所に提訴したらニュースになることではないか。両人も気の毒なくらい謝っている。こんなことでは、今国会で問題になっている、共謀罪などが、とんでもない方向に解釈され、警察が市民を脅かすことも考えられる。むしろそうしたことをマスコミは取り上げて警告すべきなのに、かえって煽っていることが異常なのだ。こんな報道機関は、学校のいじめ問題に偉そうな口を叩く資格はない。
[PR]
pan style="line-height: 1.2;">
1.二回試験から弁護士の道へ
 司法修習生二回試験というものがあります。毎年12月その結果が発表され、昨年の合格者ははれて法曹に入るのです。合格者が発表されるのではなく、不合格者が発表されるという何とも懲罰的な発表です。正式名称は「考試」または「司法修習生考試」です。司法試験合格者は1年間の司法修習を修了することで,裁判官・検察官・弁護士(いわゆる法曹)になる資格が与えられますが,その司法修習の最後に行われる試験が「二回試験」であり,修習生は合格しないと,法曹資格は与えられません。 現在の二回試験は,例年11月下旬頃に行われ、昨日12月15日発表がありました。試験は民事裁判・刑事裁判・検察・民事弁護・刑事弁護の5科目,一日1科目で5日間行われます。 試験時間は1科目あたり7時間30分という長丁場で,100頁ほどある事件記録を読ませ,法律上の問題点について論じさせたり,実務上必要な書面の起案を行なう。受験生は自らの答案を時間内に紐で綴って提出しなければならず,試験終了の合図までに紐綴じが終了できなければ,それだけで答案を提出できなかったものとされ一発不合格にされてしまうという厳しい試験です。難関の司法試験合格者が最後に行なわねばならない関門、誰でも通る決して楽な試験ではない。そもそも、二回試験のレベルは,要するに司法修習の効果を確認するためのものであり,真面目に修習を受けていれば通常合格できるものですが,今年は33人が不合格になっており,前年は42人が不合格になったとのことです。二回試験に落ちてしまった修習生は,それまでに就職先が内定していても内定取消しとなってしまうのが一般的であり,一年後にならないと再受験もできません。さらに,二回試験には3回までという受験回数制限が設けられており,二回試験を3回受験しても合格できなかった修習生は,もはや法曹になることはできません。全員司法試験合格者が受け、一定の学力はあるので、本来は落ちることは珍しいのです。しかし、修習生の中には試験の出題の意図を無視して自分の見解を主張したり、テーマと関係の無いことを書いたりする人がいたりします。点を付けられないので落とさざるを得ない。仕事を覚えたかどうかを試験するのです。一定時間内に決められた書式を作らなかったりしても落されるわけで、試験当日の修習生は目の色をかえて取り組むのです。 昨年も今年も1800人程度が司法試験に合格しました。旧試験より易しくなったかというとそんなことはないでしょう。むしろ、ロースクールに行かねばならないし、予備試験は100人に一人。昔も論述試験まで到達する人の数は今の論述考査の対象人数と同じくらいです、また、昔は何度でも受けられたのですが、今は5回までですから、それに耐えられる環境が無い人は最初から法曹には行きません。だから、ロースクールの定員割れが増えているのです。二回試験を突破し、司法の道に入った勉強の虫達は、その後法律事務所や裁判官、検事の道を歩む。彼らはどんな生活をするかというと、おそらく、人にもよるが、毎日終電車で帰り、土日も出勤というブラックな日常が何年も続くことを覚悟しなければならない。世の中ではエリートと思いがちだが、実は、大企業の同世代サラリーマンより低い年収と過酷な勤務を強いられるのである。しかし、彼らは、夢を実現した喜びと、司法の世界に入って、直面する様々な課題に果敢に挑戦し、やりがいのある日々だという。司法試験に合格しても、年が多かったり、精神的に問題のある人物は必ず5%くらいはいるし、独立志向の人もいる。一般社会に比べて、標準的(25~30歳)な修習終了者は何とか就職している。新聞は激烈な競争を勝ち抜いてきた若者は東大生といいたい。マスコミではやたらクイズ番組などで東大や京大の学生や卒業タレントを持ち上げるが、司法試験や上級試験はさらに勉強することが必要で、マスコミに入る人よりは知的レベルは高い。学歴社会を批判している新聞が実は東大を頂点としたヒエラルキーを煽っているのである。そこに嫉妬を混じった批判をすることが彼らの憂さ晴らしなのである。テレビタレントになった弁護士や、少し美人の女性タレントがくだらないお笑いタレントと同列になって笑いを誘うことで彼らの地位を貶めている。それがマスコミの連中の狙いである。医師や弁護士というのは彼らの目の敵なのである。司法試験を経て、二回試験もクリアした若者の失業は殆どない。収入も400万円以下というが、これは名目賃金や収入で彼らは確定申告し、低く抑えている。現実を無視して弁護士は人気がないとPRしている。社会において必要な仕事を蔑む卑しい行為である。

2.新たな展開
 近年、民法改正や情報社会化において彼らの仕事は急速に変化している。昔の人権弁護士をはじめ、新しい環境変化には年配の弁護士はついていけない。医師もそうだが、若い力は大いに期待されているのである。むしろ彼らの知的財産を保護し、専門家になるための莫大な労力と投資に報いる待遇を確保することは当然である。頑張れ若き法曹家、医師達である。マスコミのデタラメに左右されてはならない。高校生、大学生諸君、勉強を一生続ける気持ちがあるなら、医師、司法試験、弁護士にチャレンジすべきである。頑張れ、若者、目標をもって志を高くしよう。弁護士を目指す若者は厳しい勉強をこなし、理想を持ってチャレンジしている。
 弁護士になれば、9時5時の生活と言う人もいる。5時と言うのは明け方の5時である。事務所によっては違いがあるが、中規模の事務所やイソ弁になると何でもこなさねばならない。また、ボス弁の下作業や指示に従って何年も修行するのだから、丸で徒弟制度のようでもある。大きな事務所だと安定しているし、研修もきちんとするが、断片的な仕事を何年もこなさねばならず、小さな事務所だと、個性的な上司や事務員などとの折り合いをつける必要があり、不本意な結果も我慢しなければならない。司法試験に合格する能力があれば一般の大企業などに入ることもできただろうが、そうした同期と比べて当初は給与も低い。しかし、社会の公器として、医者同様必要な仕事であり、社会の公正や法律家として役に立っているという高い志を持っている。大変だがやりがいがあることが彼らの支えである。

3.新米弁護士頑張れ
 弁護士というのはあまり人を使う仕事ではないのか、何でも自分でやらなければならない。FAXの送信からコピー、連絡など、他人まかせにできない。しかし、法律事務所に入り2年くらいは何でも先輩パートナーの下請けをすることも併せて自分の仕事は後回しになる。議事録や面談記録など手間のかかる仕事は新米の仕事になる。金バッジを付けて仕事に行くと、金ピカだといかにも初心h者マークのようで、依頼人も、こんな新米よこしやがったと不満をたれることがある。国選弁護人になって、犯罪人から、何だ新米じゃねーかと馬鹿にされたり悔しい思いをするが、とにかく仕事の内容で認めてもらうしかないのだ。法律の改正やPC、語学など新しい知識が必要な仕事があるため、若い新人の方がうまくいく場合も多いのだが。毎日終電車帰りで、時には泊まり込み、土日も簡単には休めない。依頼者は土日の方が来るくケースもあるからだ。最近電通で残業100時間を超え、自殺者が出て大騒ぎになったが、サービス残業を入れて150時間やっても弁護士の仕事量にはかなわない。仕事のために鬱になるのではなく、職場の様々な環境、パワハラ、家庭環境などが原因で精神を病むのだ。それにしても、一般サラリーマンは労働組合もあれば、労働基準監督局もあるが、弁護士は労働者ではなく、専門職だから労働の基準は無い。嫌なら辞めるしかない。そこを悪用してブラックな職場環境を奉仕している法律事務所も多い。1年以内に何人もやめるような事務所は避けたほうがよい。パートナーがワーカーホリックの事務所や、実際精神を病んでいる弁護士も多いと聞く。事務所選択の場合は何とでも就職したいだろうが、事務所をよく観察し、評判を聞くことが大事だろう。社会の弁護士に対する評価は高いし、自己案件を手掛けると収入も上がる。人から感謝される仕事であることは医師とも似ている。世の中に5%くらいは必ず変人もいる。弁護士だって心を病むのだ。結婚とか、自分の将来設計とか仕事をしながらこなさねばならない。弁護士というのは人を通して成長するのだから、できるだけ人間を好きになる工夫をすれば他人からも好かれるし、その分意欲も湧いてくる。好循環になるように自分で設計することができる。これは会社員でも同じではないか。出世や他人の評価ばかりを気にしていたら体が持たない。ゴルフでもよいし、蝶の収集でもよい。空手や武道、釣りでもよい。何か趣味の輪を持っていることが新しい人間関係につながるだろう。

[PR]

うっすらと冠雪した由布岳
e0195345_1823151.jpg

朝の金鱗湖は湯気で幻想的な風景
e0195345_1822423.jpg
年末1年半ぶりに湯布院の別邸を訪れた。5月の熊本地震で湯布院も大きな被害を受けた。家の中にあった本箱はひっくり返り、戸棚も倒れ、上等なガラスや陶器が破壊されたと叔母から連絡があった。行ってみると、家のモルタル外壁に亀裂が入っており、風呂場のタイルも剥がれ落ちたところがある。しかし、住めないという程度ではなかったので一安心であった。しかし、今後の補修にどれだけ費用がかかるのか心配である。とりあえずは、隣地とのブロック擁壁の補修は済んでおり、本箱の整理もかたが付いていた。

湯布院の名所、金鱗湖周辺は驚くほど人が出ていた。団体の旅行者だが、韓国語と中国語が飛び交っている。7割がたが外国からの観光客。連日すごい人出だ。
e0195345_18343345.jpg

どうも、地震の被災地に出された復興補助を使って韓国を中心に多くの団体客が訪れているのだそうだ。韓国や中国のめざとい旅行業者が復興割引の権利を買い占めて人を集めているらしい。地域再生のための支援で国民の税金で補助されているのだが、この復興割は日本国内では入手が難しかったのではないか。こんなところで大にぎわいになっているとは驚きであった。地元にとっては使わないより、多くの観光客に来てもらったほうが有難いのだろう。金鱗湖の周りはスマホの自撮り棒を持った韓国人で溢れている。前から多かったが、こんな賑わいになっているとは。二日前から天気が悪く雨と寒風でコンディションは悪かったが、それにもめげず人の群れに土産物店はホッとしている。昨日の雨は由布岳では雪になり、美しい冠雪風景となった。
暇があったのでポケモンgoをしながら散策したが、ここは全くのポケモンの巣。次から次と出てくる。ところが、ポケストップが少ない上、そこから出るモンスターボールがしょぼい。1日17個しかポケストップで取れなかった。反対に、ポケモンは42キャッチした。ポケモンを獲得するにもすぐに弾切れになってしまう。ここのポケモンはコイキング、ヤドン、コダック、ポッポ、コラッタ、ピジョン、イーブイなどの低CPが
やたら多い。ここのイーブイはくせ者で、さんざんボールを消耗させてドロンだからボールの損傷が酷い。ヤドンやコイキングからもバカにされ、逃げたり、ドロンされるからタチが悪い。温泉地だからか、しかし、おかげでステージ25まで行ってしまった。当然ながら、中野では買った事のないコインを何回も買う羽目になった。

[PR]
 埼玉県の川越は小江戸と呼ばれ、昔ながらの蔵や、なまこ壁の商家などが保存され、周辺から多くの人が訪れるようになった。昔の町並み保存は日本各地で行われている。京都はその中でも、もっとも大規模で国際的にも高い評価を得ているが、金沢、飛騨の高山、秋田の角館武家屋敷も有名である。
e0195345_14343811.jpg
 川越は立派な山車で街を練り歩くお祭りがあるが、実はこの山車は江戸の天下祭りであり、神田明神の祭りの山車だったものもあるのだそうだ。かつて、神田明神の祭りは徳川幕府からも支援を受け、山車も江戸城に入ることも許されていたほどであったという。ところが、明治になって幕府の保護もなくなり,
電線の邪魔になるとのことから、山車の維持が神田の町ではできなくなったので、山車を川越に引き取ってもらい、神田明神の祭りは氏子の担ぐお神輿のみになってしまった。本来の神田明神の祭りは天下祭りとして豪壮なものだったようである。明治以前に作られた人形には仲秀英、原舟月などの江戸の名工の作品が多く残る。現存の天下祭当時の江戸型山車が曳かれる祭では江戸で使われなくなった山車や人形を譲り受けたものが多いのに対し、川越は天下祭の山車を作った職人に直接依頼して作らせている。また、祭の発展とともに多くの山車が廻り舞台を採用するようになり、山車の舞台から上が360度回転させることができるのも特徴である。
 
(川越祭りHPから転載)
今の川越は昔の街並みに行くためには、商店街を通って15分くらい歩いたところの街道沿いに行くことになる。自分が行った当日は連休であったこともあり、多くの観光客でにぎわっていた。なぜか、煎餅屋とか、うなぎ屋が多い。土産物店も多数あり、様々なグッズが売られていた。江戸情緒豊かな飴細工があったり、大学いも、団子、煎餅などがあったが、ソフトアイスの店も多かった。タイ焼き屋もあったが、にわか作りの商売であまりおいしくは無く期待外れだった。
 昔の街並みは東京にこれほど近いところによく保存されたという感慨を持った。最近地方都市では昔の街並みを売りにしようと整備に力を入れ始めたが、なんせ村上市などは一部は酒屋の店舗とかもあるが規模が小さく
なかなか人を集めるところに至っていないのが現実ではないか。街づくりの担当者も、無駄な整備をする前に
全国の街並み保存状況を見学し、観光上競争力がどれだけあるかを確かめないと期待外れになるような気がする。
e0195345_1557353.jpg
e0195345_15573563.jpg

[PR]
 トランプは日本を防衛しないというかもしれない。日本はその事態に備えねばならない。今までアメリカに基地を提供したおかげで日本の国防費は膨れ上がらずに済んだ。国防負担の少ない部分が産業育成に回り、今日の国の形ができた。日本はブレーキの弱い国だ。オリンピックの青天井予算を見ればわかる。高齢化と社会保障で日本に金がない。このまま、自主防衛を続けたら戦前の日本のように軍事大国の道が待っている。そうしなければ国外での継戦能力がない。

軍事大国の道はない。 その時は、最小の予算で最大の効果を出さねばならない。日本は核を持つ3つの国に囲まれている現実を見なければならない。どうしたらよいか。そのために、北朝鮮や中国の核の脅威から我が国を守るために、核武装は実際にはいつでも可能という能力は保持する必要は最小限ある。先制攻撃はしないという体制だ。従って、今日行われている戦略の延長だが、島嶼防衛を中心に、上陸した敵は全滅させる強い攻撃力が必要。敵前上陸阻止ではなく、引き込んで撃つ。フィンランドやロシアの戦術だ。海軍は上陸した敵の補給線を断つ。日本は硫黄島や沖縄で戦った経験を生かすのだ。そこでは敵も核は使えない。海は対潜と攻撃型潜水艦で、空は最先端のミサイルとレーザー兵器で防衛する。上陸した敵の補給路は潜水艦と空爆で絶つ。垂直離着陸型の次世代のステルス戦闘機を開発する。これらは山岳地帯の多い我が国の地形を生かし、各所に配置する。短距離でよいからアメリカのA10なみの攻撃力が必要。移動可能な手動ミサイルで撃ち落とされるヘリでは限界がある。

 歴史上空母を使った海戦を経験した国は日米しかない。連携すれば中国もロシアも敵ではない。空母はクジラのようで、攻撃には弱いから護衛艦群を必要としている。
 陸上戦闘能力は常時臨戦訓練が必要である。積極的に国連出動し、腕を磨く。特に対戦車対策は必要で、国土の狭い日本の地形では大規模な戦車による侵攻や平地での戦車戦は想定する必要がない。市街戦で戦車が無力なのはシリアやスターリングラードで証明済み。小型の対戦車ミサイルで充分。10型戦車は制圧用である。空母は小型を日本海に2隻、南シナ海に2隻、太平洋に2隻配置し、イージス艦の護衛艦隊を4群10隻は備えて侵入を阻止する。原発危機に備えて、周辺の防衛はロボット兵器で固める。空からの攻撃には防空ミサイル群を整備し、宇宙からの核ミサイルの攻撃にはレザー兵器とミサイルで防衛する。沖縄の米軍は全て引くことはない。10兆円くらいで可能ではないか。ところが、これだけを維持するだけでも膨大な軍事費を要するから日本は支えきることができるのだろうか。

[PR]

天皇位生前譲位の怪


 平成天皇が生前譲位のお考えをお持ちという情報が突然マスコミを賑わせている。

 異常な取り上げ方である。平成天皇の公務が82歳というご高齢にとって多すぎるとか、さらには御功績をしきりと報道する。今に始まったわけではないことなのに。怪しい。政府の背後にマスコミを操作し、何かの意図を進めようという陰謀の匂いがする。国民が慕う稀代の善良な天皇陛下を利用して企んでいることは何か。それは、憲法改正である。天皇陛下こそ最も平和憲法の維持を望んでおられることを快く思わない連中が安倍政権の背後にいるのではないか。民放は自分のような政治音痴でも気になるような現政権の策動を一切報じない。この情報がNHKから出たことも、怪しさを深めている。皇室典範の改正は憲法には別途定める内容である。ところが、天皇が病気とか、公務を果たせない時は摂政を置くことが憲法に定められ、生前譲位ではない。生前譲位は200年以上行われておらず規定はない。これは皇室典範の修正だけでは完結しないという主張があるのだろう。皇室典範の改正も安保法案同様閣議決定でやればいいのに、恐れ多いのか。いや、そうではない。狙いは憲法改正が主眼なのである。

この動きに対して天皇と皇后は幾つかの発言をされ、改憲派は色を失った。生前退位は、天皇を機関として位置付けることになり、天皇をやたらに持ち上げ現人神化したくて仕方のない戦前回帰派には困ったことなのである。


 参議院が保守合計で3分の2を超えた今、政権内部では憲法改正に向けての国民投票のムード作りに知恵を絞っているはずである。国会の発議は両院の総議員の3分の2以上の賛成によってされる。ここでいう「総議員の3分の2」はそれぞれの議院の3分の2であり、両院の議院全員で3分の2ではない。 国民投票は有権者の過半数。このハードルを越えるためのプログラムは国会対策だけでは無理である。マスコミ操作と現憲法の守護者平成天皇の協力が必要なのだ。政権は天皇を盾に憲法改正のムード作りを始めた。その後、民放の解説などで、宮内庁からは否定的な見解が出ている。「国営放送」であるNHKは一体どこからこの情報を得たのか。昭和天皇は87歳で崩御されるまで64年間も務められた。宮内庁は天皇陛下の公務の見直しを進めているが、天皇陛下は「天皇でいる限りは公務はすべてやりたい」との意向。宮内庁側は公務軽減を検討しているが、天皇陛下は難色を示し、今年5月には、皇居であいさつを受ける「拝謁(はいえつ)」などごく一部だけを取りやめることにとどまった。にもかかわらず、これは現政権の最強の護憲派、天皇降ろしともうけ止められる。不遜な連中が現政権の背後に蠢いている。


NHKニュースの内容は次の通り(抜粋)


天皇陛下は、82歳と高齢となった今も、憲法に規定された国事行為をはじめ数多くの公務を続けられています。そうしたなか、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。天皇陛下は、「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考え、今後、年を重ねていくなかで、大きく公務を減らしたり代役を立てたりして天皇の位にとどまることは望まれていないということです。こうした意向は、皇后さまをはじめ皇太子さまや秋篠宮さまも受け入れられているということです。天皇陛下は、数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。これについて関係者の1人は、「天皇陛下は、象徴としての立場から直接的な表現は避けられるかもしれないが、ご自身のお気持ちがにじみ出たものになるだろう」と話しています。海外では、3年前、皇室とも親交の深いオランダの女王やローマ法王などが相次いで退位を表明して注目を集めました。

日本でも、昭和天皇まで124代の天皇のうち、半数近くが生前に皇位を譲っていますが、明治時代以降、天皇の譲位はなくされ、江戸時代後期の光格天皇を最後におよそ200年間、譲位は行われていません。皇室制度を定めた「皇室典範」に天皇の退位の規定はなく、天皇陛下の意向は、皇室典範の改正なども含めた国民的な議論につながっていくものとみられます。


憲法に関する天皇陛下のお言葉

昨年、天皇は誕生日に際した記者会見で、記者の「80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事を」という質問にこう答えている。

「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」



[PR]
信長と光秀

 日本の歴史の大転換点は戦国時代の信長から家康の時代、そして、明治維新である。だから、今もなお、テレビドラマの時代劇はこの時代ものが多い。80%といってもよい。人気は信長、秀吉である。この2人は欠点も多いが、現代にも通じる改革を行い、独創性に富んだ成果をあげた。家康は前の二人が創造した成果を巧みに取り込み、250年の平和と権力を作り上げた。そしてそれを解体したのが明治維新である。最後に、日本の米英との開戦と敗北、再建の現代史である。明治政府は織田、豊臣、徳川について自らに都合の良い解釈を行った。豊臣は織田を、徳川は豊臣を批判し、自らの正当化の為に勝手な解釈や、文書の改竄を行った。そのため、今日の歴史観においても、不明、あるいは誤った出来事の記録がそのままになって後世に伝えられ、説明に用いられた。特に、歴史の教科書や、ドラマにデタラメな解釈が目立つ。人気のある太閤記などは講談などで秀吉を庶民の生んだ英雄として描こうとする。信長と秀吉という関係が強調される。しかし、実際は信長は光秀を最も頼りにしていた。太閤記は信長と秀吉が中心に語られるが、実際は光秀と信長の関係が軸に戦略は練られた。独裁者は必ず腹心を持っている。後に追放された佐久間信盛などは桶狭間の戦いの功労者で、1560年、今川義元との桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、恩賞とした鳴海城を与えられ、後においても多くの功労があった。ナンバー2として光秀の上であった。しかし、部下として使いにくいとなると容赦無く捨てられた。その後が光秀であり、信長は信頼していたはずである。通説と、現代の検証結果と違っていることは実に多い。

1.桶狭間の戦い
 先ずは信長の桶狭間の戦いである。雨中、信長が馬に乗り、隊列の伸び切った今川勢を迂回した丘の上から横を切るように急襲するシーンが映画や芝居で描かれる。しかし、これは戦法としても良い作戦ではない。横から切り取るように部隊が進むと、逆Tの字となって、横隊から集中攻撃を受け、攻撃側は壊滅しやすい。これはバルチック艦隊が敗北した時の逆Tの字型陣形でわかると思う。実際は信長は今川勢を正面から攻撃し、伸び切った縦の線をTの字型に攻撃した。その時部隊の数は10分の1でも、対峙する戦線は敵からは全体が見えず、しかも、豪雨で奥に大した兵力が無いのが見えない。先鋒から押されて逃げてきた味方と攻撃側が入り混じり、大混乱となる。その内、今川義元は大将で、やや前の方に先陣に近い場所に陣取るから、陣屋の周囲から責め立てられて、2人の武士に首を取られた。義元も武術の達人であったはず。一番槍は服部小平太だが、彼は小平太の膝を切り、小平太は動けなくなった。助太刀に入った毛利新助が二人がかりで攻めて首を切ったが、その時、義元は彼の指を食いちぎるほど抵抗した。こんな状況はドラマでは見られないが、再現したら凄まじい光景だろう。信長の勝利は正面攻撃と天候によって成し遂げられた。豪雨に遮られて、攻撃陣の全容が敵からは見えず、今川の陣は縦に伸びた。信長は正にその時を計算していたのである。実際に桶狭間に行くと、坂から賭け落ちるような急勾配は無いのである。雷雨の中、坂落としのようなシーンはあり得ず、これは、ドラマの演出で面白おかしく描かれたものである。

2.明智光秀
 明智光秀は信長の懐刀であり、最も信頼された智将であった。信長の部下で、織田家の信長の若い頃からの武将よりも働きが良く成果もあげたのが、明智光秀であり、羽柴秀吉であり、柴田勝家であった。戦陣で消極的な行動で負け戦の原因を作った旧臣の佐久間信盛等は追放の憂き目にあっている。信長は越前を光秀に与え、安土城や京都に近い丹波亀山や大津坂本に城を築かせている。これは監視しやすいというより、頼りにしていたことの方が重要な点だ。信長は先を見る目があったし、あくまでも経営者として、戦略家として優れていたが脇は甘かった。最も横暴で疑い深かったのは苦労人の秀吉であろう。信長は光秀と謀略を練っていたという。戦略家としては光秀に一目置き、自分に反対意見を言える唯一の人物だった。その光秀が謀反を起こしたのは、戦略家たる彼の資質であった。光秀がどの様な出自であったかは不明と言われるが、実は土岐氏の足軽だった記録がある。当時の上司は細川藤孝であった。信長の光秀の重用により立場は逆転していた。光秀は自分の三女たま(後の細川ガラシャ)を藤孝の長男忠興に嫁がせている。その仲人は信長であった。信長から毛利領に大津から転封を命じられた事が謀反の原因というのは全くの誤解である。そのようなことはこれまでもあったし、いつでもあり得たからだ。
信長は彼に本能寺での家康の暗殺と天下布武の後、中国ー明の侵略を計画し、相談していた。信長は光秀を足げにしても逆らわない忠実な部下であると思い込んだ。光秀は、四国の長宗我部や家老の斎藤利三、細川と土岐氏の一族であり、再興を夢見る人物だった。その意味で、忠実な官僚であり、天下を取ろうとは思っていなかった。信長の包囲網は武田亡き後、家康と組めば完成する。そもそも、柴田勝家は信長が暗殺した信行の家臣で、信長の死後は織田家の忠臣だが、信長の子に義理はない。勝家も味方に付くだろうし、羽柴秀吉は毛利攻めで動けない。盟友の高山右近も味方にすれば信長の後継者は簡単に潰せると読んだ。土岐氏の再興は四国の長宗我部元親と構想していた。信長の支配と長宗我部の四国制覇を両立出来ると秀才らしく考えたが、信長はあくまでも平定しようとした。これが石谷文書で立証され、長宗我部元親から、信長謀殺の催促が出ていたことがわかっている。光秀は信長の家康謀殺を阻止し、光秀との密約もあり、家康は容易く伊賀抜けして清洲に帰ることができた。家康は光秀の家には感謝し、齋藤利三の娘を秀次の側室として、家光の乳母、春日局に仕立て上げたのであろう。光秀は信長と同じ考えを持ち、かつ戦略家だったからこそ、緻密に考えた信長殺害の閃きをえたのである。光秀の本能寺攻撃は彼の冷徹な判断の結果であり、思いつきではなかった。しかし、秀吉の予想外の大返しとも言われる急迫と高山右近や細川藤孝が山崎の合戦で味方にならず、敵方となったこと、又、思いもよらず、深手を負ってしまい、打ち取られたことは全くの計算外だった。謀略の達人でも合戦、特に野戦は上手くなかったようだ。光秀は山崎の合戦の後、家康のバックアップを期待したが、自身が深手を負うという最大の誤算で敗北した。

3.家康
 彼の功績は近代日本の基礎を築いたことである。明治維新ではなかったのかと思うかもしれないが、日本の国土を構成する土木工事、河川改修、田畑の整備の70%は徳川が成し遂げた。その主なものは、江戸ー東京という都市を築いたこと、利根川や木曽川の河川改修、寺子屋などの教育制度、官僚制度など。明治維新で薩摩長州に負けたのは軍事技術であった。江戸時代は教育や文化、自然の循環など現代でも学ぶべきものが多くある。これらを否定し自分達が西欧化の主役とした、明治政府は後に米英、西欧列強と戦うというミスを犯した。西欧化の主体は幕府が育てた多くの若者、海外留学生が成し遂げた。新島襄や山川健次郎などを見るとわかる。秀吉をやたらに持ち上げたのは、彼が朝鮮出兵し、これが日本の大陸侵略を正当化することに役立ったからである。信長と秀吉の唐入りは歴史の謎を解く鍵。信長に叛旗を上げた最大の原因であった。秀吉は朝鮮出兵が諸侯の反乱に繋がる事を信長の前例で知っているからこそ、事前に手を打ち、検地、刀狩、千利休切腹と秀次の抹殺を計った。家康は秀吉の失敗を見て、朝鮮や明との国交回復を目指した。明治政府はこの事も歴史から葬ってしまった。幕府政治は近代国家を西欧に互する力は無かった。しかし、薩長は家康は天皇をないがしろにしたと決めつけ、江戸文化をも西欧文化より劣ると否定した。歴史改竄の張本人は明治政府であり、こうした傾向、情報捏造の伝統は第二次大戦の敗北招き今日も続いている。安部政権より家康の方が余程世界を冷静に分析していた。秀吉は小牧長久手で家康に勝てず、徳川を最大の脅威と考えたことは信長と同じである。朝鮮出兵を危機と考えたのは光秀も同様であり、秀吉も、周囲の反発を恐れていた。その結果が利休切腹と英次抹殺っだった。日本ー明治政府が家康に学び海外派兵さえしなければ全く豊かな国になっていたであろう。

[PR]

SLばんえつ物語号に乗って会津に


新潟駅で
e0195345_19273974.jpg
                  Webから頂いた100年前の喜多方〜山都の
                        一ノ戸川鉄橋
e0195345_19164690.jpg

 4月9日(日)9時30分新潟発の「ばんえつ物語号」の切符を2日前に買って会津に行った。このツアー、2年前の今頃切符を取ろうとしたら、満員とのことで諦めた事があった。人気かと思っていたが、今回は座席は半分も入っていない。客層を見ると、SLマニア風で、関東か来た方もいたが、大半は幼稚園に入る前のお子ちゃまと、夫婦、あるいは孫と一緒の爺婆なのだ。どちらかというと、例えば、動物園に何の因果か、来る羽目になったような家族連れが多い。アベックとか、ギャルからは敬遠されている感じなのだ。自分の趣味の悪さを感じてしまった。たしかに、いまどき、春の休日は車でドライブか、スポーツだなぁと思ったが、何せ孤独な60も終わりに近づいたオジンには相応しかったかもしれない。

日帰りのツアーである。この列車、会津に到着するのは13時30分。ずいぶんゆっくりである。

4時間かけてSL旅行というのは全国でも珍しいのではないか。自分が最初に記憶に残っているのは、生まれてまもない3歳くらいで、福岡県田川の祖母の家に預けられたこと。その時に筑豊炭田の石炭を運ぶSLの汽笛の音が物悲しく、祖母に背負われて陸橋から記者を見るのが楽しみであったことを覚えている。今回のSLはD57で、終戦直後のSLとは違い、汽笛の音も上品に聞こえたが、やはり、心を揺すられる音である。電車の電気音響を感じさせるブワーという音とは違い、心にしみてくる音色だ。新潟駅を出ると、日曜日の朝ということもあり、沿線の家に住む人々が手を振ってくれる。野球場の横を通ると、ユニフォームを着た少年が一列になって帽子を振ってくれた。電車には無い感動である。この磐越西線は汽車の写真マニアのメッカらしく、沿線のカーブ地点やトンネルの出口など撮影スポットにはカメラを持った人々が待ち構えている。手を振ってくれる沿線の人々の顔は皆良い顔をしているから不思議だ。世の中の暗い話題、バカバカしい話を拭い飛ばしてくれるかのようだ。SLの旅はなぜか爽やかなのである。沿線は桜並木は無いのだが、時に名も知れぬ桜の大木が満開になって我々を迎えてくれる。まだ、雑草が伸びる前、枯れ草からスイセンの花が群落になって黄色く輝いている。三川から津川にいくと阿賀野川沿いに渓谷が滔々と水をたたえ、ゆったりと流れてゆく。水は澄んでい無いのだが青い美しい色をしている。新津のJRターミナルを過ぎ、五泉の田園を抜けると咲花、そして三川から山都までは阿賀野川の絶景を楽しむことができるのである。喜多方から会津までは磐梯山を遠く望み、田園と防風林に囲まれた農家が田畑のなかに島のように点在する。昔、昭和44年に大学生であったが、会津若松で剣道の合宿をした時を思い出した。東京から会津に入ると、霞の中に点在する茅葺の農家が周囲を木々に囲まれ、島々のように田園に浮かんでいた。まるで江戸時代にもどったかのような原日本的風景に驚いた。今は二階建ての家が立ち並び、茅葺の家は覆いをトタンで冠り、青や赤の色ですっかり愛らしさを失った。

 この「ばんえつ物語号」は途中で乗務員の挨拶やら、新潟観光案内ガールのパンフ配り、記念ストラッププレゼントのじゃんけんゲームなど趣向を凝らして退屈させないようにしている。自分は楽しかったが、実はこの企画は客を遠ざけていると思った。ちょっと、ダサイのだ。昔を思い出したが、子供が小さな頃、休日に何処へ行くかが課題だった。一番辛かったのは遊園地のゴレンジャーショウとか、子供はフィーバーしてるが、こちらは面白くない。よその母親を見ていると結構楽しんでる感じなのが不思議。女は子育てを命だから偉いと思ったものだ。アンパンマンやドラエモンの映画が春休みになると長編になり、子供の心がときめく。こちらは15分だから見ていたのだ。長男が小学校高学年になり、エバンゲリオン見たいと言ったときはホッとしたものだ。宮崎駿などは救世主だ。脱線したが、もっと大人の企画をしなければ、この企画は保たないなと思う。会津まで必ずしも行く必要はないが、家族で大人往復8千円近くかかるのは、新潟では贅沢だ。この金額に見合った満足感が得られる人は自分のような暇人だろう。


天守から見た鶴ヶ城の桜
屋根瓦は新潟県阿賀野市の安田瓦
e0195345_19283174.jpg

 13時30分に会津若松に到着、帰りは15時25分だから鶴ヶ城に行って変えてくるくらいしか時間が無い。下車後タクシーに乗って鶴ヶ城に行くと桜が満開。これまで2回きたことがあるが天守閣には行ったことがなかったので510円払って登ってみた。この天守はコンクリート製で復元されている。天守内部は歴代城主の遺物や兜などが展示されているが、何といっても、戊辰戦争の攻城戦がハイライトである。松平容保を大将に政府軍との激戦がこの城の外で繰り広げられた。政府軍は城に向かって大砲を打ち込んだが、その穴だらけの天守閣が痛々しく写真に撮られて展示されていた。白虎隊や八重の奮戦など、歴史ドラマに残っているし、大体の予備知識があったので適当に流して天守閣に登った。会津若松の市街が一望できる。駅周辺には8階建てのマンションやホテルもあるが、ほぼ、鶴ヶ城を中心にこの町はできており、町の全てを一望できた。場内は桜が満開で人も満員。桜はさっさと写真に収めて大慌てで駅にもどるべくタクシーを呼んだ。花見の客で場外に出る車で渋滞しなかなかタクシーが来ない。15時25分ぎりぎりで列車に飛び乗り変なスリルを味わった。しかし、野沢の先、徳沢の線路際で火災、野火だったが約1時間遅れとなり、三川を過ぎロコとは真っ暗になってしまった。結局新津で降ろされ、別便で新潟に向かった。結局、新発田に戻ったのは9時であった。

 



[PR]