カテゴリ:教育( 36 )

1.安倍首相夫人の言葉

森友学園の小学校取用地得問題と、この学校の教育方針が話題になっている。名誉校長に就任した安倍晋三首相夫人の言葉が注目された。名誉校長は辞退したがその言葉は残っている。
瑞穂の國記念小學院は、優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます。 そこで備わった「やる気」や「達成感」、「プライド」や「勇気」が、子ども達の未来で大きく花開き、其々が日本のリーダーとして国際社会で活躍してくれることを期待しております。という台詞だ。この学校の院長は籠池という日本会議の幹部だ。こんなところに安部首相の本音が露になる。何も悪いことをいっているわけではない。これが安部家の教育観なのだとすると随分高尚だという印象すらある。

2.国家主義

しかし、自分を振りかえって見ると、親というものはこんなことを考えて幼稚園児の子供を育てるのだろうか。自分はレベルが違い、卑しいのかも知れない。政治家の妻として当然の発言なのだろうか。安部家ではこのようにエリート教育を行い、日本のリーダーを再生産しているのかもしれない。自分の子供は健康で、友人に囲まれ、自立し、生計が確保され、良い家族を作ってくれるなら申し分ない。その為には何もエリートである必要はない。
その学院では教育の一貫として教育勅語を斉唱し、日本民族の自覚を高めているのだ。この方法で目的が達成できるのだろうか。はなはだ疑問である。児童が統制に順応する訓練である。軍隊が行進訓練をするのは全体の中の個を見失わせ、集団の圧力で勇気がなくとも敵に立ち向かう仕組みを作るのである。日本の教育は集団訓練を目標に構築されてきた。日露戦争で完成した。それが教育だと思い込んでいる。
 愛国教育を 受けなかった自分でも、日本人に生まれて良かったと思う。友を愛し、家族を守って生きてきた。これからの日本人はそんな教育が必要になっているのか。この学校の教育感覚は全く自分と合わない。あえて自分の国家感覚で、欠けているのは天皇陛下に対する敬愛の念が乏しいことくらいだ。でも、今の天皇の護憲感覚は素晴らしいと尊敬もしている。陛下のために命を捧げる気にならないという程度であれば、それもノーマルなことではないか。金一族に命まで統制された北朝鮮の人々は気の毒だと思うし、北方領土問題や尖閣諸島、竹島については悔しい思いをする。オリンピックの選手を応援し、メダルをとれば嬉しい。籠池さんはさらに意識が高くおそらく、天皇陛下に命を捧げる人なのだろう。そして、そのような人格を持った子供を育てたい。そんな意識では近代戦は戦えないことは第二次大戦で立証されているのであるが。

3.狙いは別の所に

安部首相夫人の言葉とは異質だ。彼は格安の不動産を手にいれるために首相夫人を利用したに違いない。権力に取り入り、国有財産を格安で手にいれようと奔走することで経営内容を良くして保護者を集め子供に教育をしたい。経営と教育を両立させなければ私立学校経営は出来ない。
このような学校に子供を入学させるのは日本の教育観からくるのかもしれない。個人主義の伝統の無かった日本では自己主張は嫌われることが多い。江戸時代は家とか藩はあっても国家や個人は希薄だった。明治になると家制度と国家中心。所属コミュニティ全体のために個人は後回しが善であった。日本の敗戦で家も国家も吹き飛ばされ、個人が核となったが、個人の核となるエゴを馭する思想がないまま、今日に至った。そこを苦々しく思う人が国体だの天皇陛下とか言い出している。先祖帰りみたいな思想で、これが悲惨な結果をもたらしたという反省がない。歴史観が歪んでいる。西欧社会ではモラルの原点はキリスト教だ。教会は人気がないが、神や十戒は今も生きている。

4.日本人の伝統的な思考

日本の中には統制とか躾、競争心、さらに官僚や知的エリートを階層的に尊び上昇することを善とする気風がある。それは明治以来の富国強兵策によって培われ、100年以上にわたり尊重されてきた「美意識」なのである。自由とか平等、人権を抑制しようとする考えに基づく。このような成長モデルは日本的なリーダーの条件なのだろう。世界では特殊な明治の価値観ではないか。国際感覚のなさ、人格的な貧困をー感じる。目的はあるにこしたことはないが達成のために何をするかではないのか。プライドというのは他者の評価から生まれる。ただ自分で得意になることではない。勇気とは社会における公平や公正、正義感、弱者への思いやりにもとずくべきだ。民族や国境を越えた善き友になることは幼児教育の目標にはならないのか。
宝塚歌劇団の卒業式をテレビのニュースで見た。皆さん美女揃い、優等生の集団だ。おやっと思ったのは、何と、あの北朝鮮の美女軍団を彷彿とさせる。選び抜かれ、競争を勝ち抜いてきた。統制された美だ。我が国の勝ち抜き選抜される教育の成果がそこにある。教育には選別機能がある。教員も生徒も生存をかけた受験競争というのは大げさかもしれないが、このような教育からどのような人格が生まれるのだろうか。中国も、韓国も台湾も教育は選別機能だ。そこから何か未来の世界に貢献する人材が生まれるのだろうか。そうは思えない。

5.若者の苦悩

今の若者の苦しみはそうした選別機能への不安だろう。満足する人は少なく、傷つく人がはるかに多い。自分の可能性はどこにあるのか。日本の若者は未来に希望を持っていないことが国際調査で分かっている。そのような教育の仕組みこそ変えるべきではないか。全体主義の遺物のような教育から何が生まれるのか。森友学院のような上から押し付けるような教育に期待している今の若い親たちが描く未来は明るい感じがしない。若者の希望や夢を導く教育であるべきだ。若者が夢を持てない国が栄える事はない。

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 1月の末に将棋の竜王タイトルを取った渡辺明氏(九段)の竜王位就任式が帝国ホテルで行われ、臨席する機会を得た。渡辺氏は聖学院中高のご出身で、自分の長男と中学時代は同級だった。仲もよく、中野の小宅に遊びに来たり、長男も彼の家にお泊まりしたりしていた。中学時代から天才と言われ、奨励会のメンバーで、すでに高校生15歳で奨励会を卒後し、プロの道に入っていた。自分の長男は将棋は全く下手で、もちろん渡辺氏と将棋を指したこともない。しかし、彼は競馬が好きで、息子も一緒にダビスタとか、競馬雑誌を読んで楽しんでいた。この将棋の世界は囲碁もそうだが、天才の集まりである。将棋ほどプロとアマの差がある競技は少ないのではないか。普通の将棋ファンでアマの有段者でも、小学生もいる奨励会のメンバーにはかなわない。渡辺氏も10歳で奨励会に入っている。プロも段位は十段まであるが、今は九段が20名である。加藤一二三が先般引退したが、彼も一時代を画した。
タイトルは名人、棋聖、王位、王座、竜王、王将、棋王の七つメジャーである。竜王とか王将、棋聖といったタイトルを取るのはさらに難しい。羽生、谷川、佐藤、渡辺といった6名ほどのタイトル保持者が一人で複数のタイトルを取るので新しい人が入るのは容易ではない。平成7年には羽生が七大タイトルすべてを取ったし、10年くらい5つタイトルを持っていたから、その間というもの他には、平成になって米長、谷川、渡辺、森内、久保、郷田他10名くらいしか取っていないし、彼らは連覇するから、一つだけ一回でもタイトルを取った人は他には数名である。中でも、読売新聞が後援している竜王は賞金も3800万円と最高で、次が名人戦2000万円、棋聖1000万円、王位750万円、王座500万円、棋王500万円、王将300万円と大きな差がある。他には朝日杯将棋オープン戦、NHK杯などがあるが、渡辺氏の取った竜王は断トツであり、4っタイトルを取ったほどの価値がある。
 天才、渡辺氏は小学4年生で小学生名人戦で優勝、中三の3月に四段を取りプロ入りした。20歳で史上最年少の竜王となり、近年(2014年)の棋王戦では羽生に勝っている。羽生とは昨年までに68局対戦し通算34勝34敗で分けとなっている唯一の騎士である。この竜王戦の挑戦者は昨年カンニング疑惑があった三浦九段であったが、彼が辞退したために急きょ丸山九段との対戦となり、接戦を制したもの。将棋連盟の審査では羽生なども含め、7人全員が疑惑を訴えた。しかし、三浦九段の疑惑は本人の否定と証拠がないなど結局シロとなり、谷川将棋連盟会長の辞任という結果になった。このパーティの翌日に谷川氏の辞任の発表があり、三浦疑惑の告発者であった橋下八段と渡辺竜王は微妙な立場におり、今行われている棋王戦の行方も注目されている。
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日本の大学は世界の大学ランキングではシンガポールや中国に負けてしまう。しかし、ノーベル賞を取る先生方は殆どが大学教授である。変ではないか。それは、大学教育の内容に違いがあるからである。これからの日本の大学はリベラルアーツを理念とすべきだ

 大学で何を学ぶかということは、学生にとっても、教育する立場からも大きな問題である。特に、大学は教育機関というより研究の場という観念が教員の側からは強いだろう。日本の大学は国立大学を中心に、大学院や研究所が付属しており、多くの研究者を擁している。リベラルアーツという概念は、かつては大学に一般教養という仕組みがGHQから組み込まれ、専門科目に向けての学習の障害であるかの様な扱いを受けていた。

 しかし、受験勉強偏重の高校教育においては、一部の心ある教員の努力と優秀な学生によってしか、大学の研究に向かう基礎的な学力、思考力を養う学習は行なわれていなかった。一般教養をただ、暗記や教科書の購読による学習とすれば研究に向けての準備にもならず、無駄といわれざるをえ無かっただろう。しかし、大学で文学や哲学を学ぶ事は経済学や法律学を学ぶ学生に取って、また、理系の学生にとっても有用である。というより、今の大学生にとって必須であるということである。

 自分は今新潟県の小さな私立大学に籍をおいているが、この県の教育環境は他県、特に東京とは違い、大学進学者の高卒者に対する比率が低い。今でも50%を切っている。その原因として新潟県は実学志向であるという通念もあり、また、専門学校に行く学生も多いのが現実であるからだ。新潟ではNSGグループという専門学校経営企業が幅を利かせていて、新潟駅にも交流の場を持っており、また、新潟医療福祉大学はそのグループの一つで巧みな経営を行なっている。学生募集が上手で学生を引き寄せ、「実学志向」という新潟の土壌に合っているかのように見える。しかし、実態は、あまり勉強の得意でない学生の吹きだまりでもある。もちろん、中には優秀な学生も行くので、一流企業に就職する人もいるが、中退する学生が多く、結果的にフリーター予備軍である。これは日本が向かう方向とは別の動きである。もちろん、この専門学校群が無ければ、高卒者の進学率も上がらないし、東京の専門学校に吸い取られるだけかもしれない。若者の教育と故郷離れ防止に貢献している。新潟の高等教育に対する期待度が薄いのは、学習意欲の問題より、家庭の所得が私立大学に進学させるだけのレベルに無い事が大きな原因。さらに、親は高卒が多いので、大学教育に対する理解が無い。文学だとか政治を勉強して何になるのだという感覚が強い。これは全国的に見ても、親の学歴と子供の進学に関する相関性は高いことから読み取れる。今、諸物価が20年のデフレによって低迷しているが、大学の授業料は下がっていない。年間100万円はかかるし、生活費や部活、本代など諸経費を入れれば50万円以上余計だし、新潟県内でも、遠隔地ならばアパート代も入れれば200万円である。これは夫婦共稼ぎでなければ支えられない。10万円でも安ければ専門学校に流れるのである。
 高校までの勉強と大学における学問と決定的に違うのは、大学で古典の本やテキストを読む上で、その背景や歴史、現代における意味等、様々な角度から知の光を当て、ものを考えるということである。本を読めばいいというのではない。統計や抽象的な理論の背後を探る事や自分の考えをまとめることなど、領域が広い。大学院になればさらに自分のテーマを掘り下げて行く。こうした体験は、社会に出ても同じ事である。野球の一流選手は高卒が多いが、彼らも、自分の領域で成績を上げ、ファンにサービスし、心身の健康を守って行く為に努力をし、立派な考えを持っている。イチローや松井秀喜など英語だって話せるようになっている。大学を出なくても一筋に極めれば相当な所に行きつくのである。では、大学に行かなくても良いと言うのではない。何もイチローや松井のようにならなくとも、4年間大学に行けば見識のある人物に成長できるのである。もちろん時間効率もよいのだが、その代わり授業料を払うということにはなる。
 大学不要論は例外的な成功事例を挙げて反論しているだけである。リベラルアーツの学びというのは大学院も目指すような研究者や社会人としての基礎的な力を付ける教養を学ぶのである。そして、常に、課題の原点に密着し、上から目線ではなく、当事者意識を持って現実から出発することが学びの姿勢だと思う


 (1)リベラルアーツ教育の目的は人間教育

 いま、自分が勤務する敬和学園が柱としているリベラルアーツ教育とは何か。 その目標は人間教育である。大学は職業訓練の場ではない。しかし、自立した社会人として、どのような職を得るかは重要な問題である。社会人として進むべき道やどのような職を得るかを学び備えることも必要である。そのために専門職を目指す道もあるが、これは大学4年間だけで出来ることではない。大学はその前に一個人として社会に認められる人材を世に送り出す接点である。専門知識だけでは世の中では生きていけない。資格を持っていなければ仕事が出来ない職種がある。弁護士や医師、会計士に代表されるが、その他、司法書士や行政書士、薬剤師、検査技師、また、教師もその一つです。新潟県の若者はそうした排他性のある資格に人気がある。専門職は資格を取ってさらに研修を受けてから初めて職務につくが、医師や弁護士ですら、1年ぐらいは仕事が出来ない。企業でも即戦力を期待するが、実際は新入社員集合教育から始まり、OJTで学び、業界必須の資格、例えば建築士や宅地建物取引主任者などを会社に入ってから取る。又、企業ではチームで仕事をするので、先輩や同僚などとの社会的適応性も大切で、挨拶から飲み会に至るまで、また、朝の出勤から勤務態度まで厳しくチェックされる。 
リベラルアーツが目ざす人間教育は個人の成長を大切にする。団体訓練が殆どありません。それは個に基づく人間作りを目指しているからだ。世の中楽な仕事だけではない。団結力、忍耐力や目標に向かう意思の強さも必要で、その点、体育会で鍛えた根性を評価する職場もある。とはいえ、最初から全て整った万能選手はいないし、それぞれのポジションに要求されている能力をどこまで育て、発揮できるかである。日本では社会人になって個人の努力による成長を期待される。

(2)敬和学園でめざす人間形成
大学生活4年間は長いようであっという間に過ぎてしまう。一定の時間にどれだけの学びが出来るかである。敬和学園大学では、語学力、自発的な奉仕の精神、PCなどの情報処理能力に重点を置いて個人の成長を支えている。大学入学後、自分の進路を決める学生には教員資格、社会福祉士など資格を取らねば行なえない仕事がある。一定の知識量を習得する必要があり、また、受験対策も必要で、大学のカリキュラムでは不足する学びの内容がある。推薦やAO入試により大学受験を体験していない学生が増えていますから、これに取り組むには決意が必要である。
本学では、教員が学生一人ひとりの成長に関心を持って接しています。社会人として良識ある行動、言動を行なえる人材を育てます。それは、相手の意見に耳を傾け、相手の立場に立った行動を取れる能力です。これは、日本のみならず、国際的な環境でも言えることです。そのために、語学教育を大切にしています。何も、英語のエキスパートを育てるということではなく、語学の学習の過程には、そうした相手の意見や、発言を注意深く聞く学びが必要です。そこで培った能力は、国内でも通用するということである。
敬和はキリスト教精神によって人を育てることを柱にしている。キリスト教は神と個人との関係を信仰の基盤にしているが、聖書において隣人に対する愛が最も重要な規範である。学生を信者に育てるということを必ずしも目的にしていないが、このキリスト教の根本の精神を教育するために、ボランティア活動、チャペルアワー、聖書の学びを必修としている。語学の学習、国際活動、福祉の学びなど、本学の教科すべてに「愛」を育む人材を育成することこそ、忍耐強く、課題に挑戦する精神、協調する能力を高めることにつながるという信念をもって学生を育てている。このことは多くの企業や、団体に就職した学生の良い評価につながっている。こうした基盤をもった自立した社会人の育成こそ今最も求められている。そのために、リベラルアーツの理念に基づくカリキュラムを4年間で学ぶ組み立てを行なっている。

(3)専門知識の習得
とはいえ、社会では大学の学びからどのような専門性を持った人材を育てるのかを問われます。資格を取ることを目指している学生も支える必要があります。研究系の大学では、資格取得は個人の問題で大学は対応しないことが多い。一人ひとりのニーズを大切にするためにはこれに対して無関心ではありません。敬和学園は学生数も1学年180人という小さな大学です。また、大学院も無いのでそれぞれの講座において専門家を育成する仕組みは持っていません。こうした大学は、アメリカなどを中心に多く存在し、そこでは文学、哲学、音楽、歴史、政治学、数学といった基礎科目を学ぶ仕組みになっており、専門分野はさらに大学院で学ぶようになっています。また、研究大学としてハーバードなどに代表される優秀な研究者を育てる大学もあります。リベラルアーツの大学を出るとそうした研究大学の大学院に進学する学生が多いのです。例えば全米でトップクラスのランクであるアマースト大学などがそうです。わが国の大学はほとんどが研究大学を志向しています。日本とは違った教育システムとの整合性を図るために本学は人文学部(教養学部)として、そうした進学を希望する学生、また、資格を取りたい学生などにも丁寧に対応できるように教員を配置しております。本学では新潟においてニーズの高い教員の養成(英語、社会、倫理社会、小学校英語)、社会福祉士の育成コースなどで学生のニーズを受け止めています。現代の変化の大きな産業界においては、実際の業務において、専門知識は細分化され、必ずしも大学での学習は即戦力にならないのが実態であり、日本の企業は専門性に対して独自の教育の仕組みを持っております。また、高度な専門性はアウトソーシングしています。ですから、本学のみならず、必要とされる能力における専門性の順位は高くない。しかし、近年の高校までの教育制度において、自主性を持った人材、創造性を持った人材、国際性を持った人材の育成において日本は成功していません。むしろこれらは企業などで人事プログラムを持ち、また、社会人になってからの個人の努力に負うところが大きい。学生の進路に応じて、その業務に必要な学びを支え、協調性をもった社会人の育成は大切な目標である。

(4)新潟県で期待される人材
 新潟県の高校教員採用は英語が80人応募に対して10人、中学英語が138人応募で12人、中学社会は180人に対して7人という結果であった。特に、新潟市内の学校は公立学校は全て求人は0という厳しさであった。私立学校においてはもう少し緩いかもしれないが、少子化の折、教員試験は困難な状況である。本学では教員を志願する学生に対して教員を配置し採用も行なってきた。新潟県では公務員、教員に対する高校生の憧れは他県より強いように見える。それは生活の安定と社会的評価が高いということである。採用数が少なければそれだけ試験は厳しく、憧れの度合いも高まる。しかし、教職志願者が殆ど採用の道がこれだけ狭い中、私立大学が体制を準備すること自体大きな負担である。

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 名古屋で今度は高校生が夜中に殴られ、河で行方不明になるという痛ましい事件が起きました。つい4ヶ月前には中学生がリンチされやはり川原で殺された悲しい事件があったばかりである。こうした事件が起きると被害者の通っていた学校の校長や担当教員がインタビューに出て、被害者の思い出や無念さを語るのが常である。しばらくすると、日本の教育がなっていない。ゆとり教育の結果だと、学校に矛先が向けられてゆく。しかし、日本の少年犯罪の少なさは先進国のなかでは群を抜いて低い。また、青少年の凶悪犯罪というのは教育というより、社会が混乱したり、家庭の崩壊といった学校外の要素のほうが大きな原因である。それをゆとり教育のせいだというならその根拠は統計的なデータを使って示してもらいたい。
 たしかに、ゆとり教育は弊害があった。しかし、それは新しい政策を実行するに当たり、何を変えるのか、ゆとり時間を使って何をすることによって創造力ある、個性的な人材を世に出すことが出来るのか。試行錯誤が必要だったのだ。着地点だけが示され、そこに至る方法が充分検討されなかった。競争とか、市場論理を持ち出せば解決すると誤解している輩が多い。大阪市長などがその典型である。日本が鳴かず飛ばずの20年の間に、マイクロソフトのビルゲイツやアップルのスティーブジョブズ氏を代表とする天才が、新しい情報社会を切り開いた。グーグルやフェイスブックがどこから生まれたのかである。こうしたビジネスリーダーが海外に留学したエリートたちなのか。グローバル人材は英語ペラペラ人物から生まれるのだろうか。日本だって、IPS細胞や、青色発光ダイオードの発明、その他中村博士、山中博士などノーベル賞を毎年のように取ったではないか。イノベーションは天才によって作られることがあるが、その背景には、それらを受け入れる社会、それを支える多くの人々があって初めて達成できる。ビルゲイツもスティーブジョブ氏も一時は落ちこぼれた経験がある。しかし、そうした人材を再出発させ、さらに飛躍させる環境もあったのではないか。市場原理も、競争も進歩を生み出す大切な要素である。FacebookやGoogleがそのような世界から生まれたのだろうか。
 しかし、日本が生み出した教育手法としての集団指導は世界でも稀な成果があったのではないだろうか。それでは新しい社会、グローバリゼーションやイノベーションを生み出す教育とは何かだ。個性を生み出すためにはそれなりの専門的なトレイニングが必要である。世界で活躍する人材は日本で鍛えられるよりは世界に既に出ている。文科省の政策ではない。全仏オープンで活躍した錦織選手は子供のころからテニスの個別指導を受け、アメリカの有名テニススクールに留学した。世界で戦う人材の育成というのは時間とお金がかかる。 世の中変われば教育も変化が必要だ。改革が不要というのではない。言いたいのは、そうして改革をするにあたって、何が間違っていたのか、そして何を残すべきものなのか、充分に検証したのだろうか。今日の欠陥を教員のせいにしたり、良きものまで破壊することはかえって弊害が大きい。国が何も変革しなければ、民衆は工夫をして対応する知恵を持っている。真っ当な努力が正しく評価され、個性を尊重する社会基盤が大切である。文部科学省行政の問題ではない。国の財政支援は戦略的に行われねばならない。教育にはお金をかけて人を育てるという姿勢が日本にはなさ過ぎる。文科省の役人は自分の子供を東大にいれるためにどれだけ金を使っているのか。塾、模試、私立受験校などだ。わかっているくせにやらない。

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   大学の学び
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 昨日(4月12日)母校一橋大学の新潟での地方創生シンポジウムに参加しました。先は地方創生のためには官、民、政が自分の役割をきちんと果たすことが大前提です。地方創生における政府の構想と対応、地域計画の課題に関する辻副学長の講演がありました。少子高齢化がすすみ、増田レポートで示された人口減少コミュニティの実態に関して、完全な人口消滅コミュニティは少なく、高齢者が残留することが福祉や社会保障の非効率化を生むこと、また、新潟の耕作放棄地の実態と都市計画に関して説明がありました。高齢化した限界集落の集約化には税制と都市計画が連携して初めて新しい社会と都市が生まれる。増田氏は地方都市と東京区部との連携や、二地域居住への環境整備を訴えている。しかし、中国ならまだしも日本ではこれは難しいのではないだろうか。
 また、如水会の会長である住友電工社長の松本正義氏(関西経団連副会長)、蓼沼学長からは一橋大学の教育方針の説明を受けました。松本氏は道州制の問題から、関西経済圏の活性化、さらにはそこにおける人材、変化に対応できる異端者であれ、また、柔軟な思考力を持った人材を育成すべし、といった経営者としての見識を感じさせてくれるものでした。
地方活性化のためには、一極集中になっている首都圏からの本社や工場移転が伴わなければ、掛け声ばかりになるでしょう。地方単独では無理なのです。受け皿になる地方も、人材育成、街づくりをきちんと整えねばなりません。人と企業の移転には住宅税制、法人税に配慮をすることが国の仕事だと思います。 「今回、ひと・まち・しごと」というコンセプトは過去の失敗を踏まえ、良いアイデアだと思う。大学も生き残りをかけてCOCに取り組んでいます。
 一橋大学としては新潟からも多くの学生を迎えたいということで、高校にもPRされたようです。一橋大学は将来のビジネスリーダーを育成するという基本方針をもとに、様々なプログラムが組まれているようで、まことに素晴らしい内容と思いましたが、留学制度や語学、また、学生にビジネスの基礎知識を教育する充実した仕組みに驚きました。でも、自分が大学生のときと比べ、今の学生は大変だなあという印象でした。もっとも、現役学生でも大学の期待どおりにプログラムに乗る学生だけではなく、エンジョイ派、部活派など多様なライフスタイルが一橋にもあって、それなりに自由な学生生活を満喫しているはずです。そこで培った友人と卒業後にさらに勉学にいそしむ層もあるだろう。それらを無視して、一橋の自由な校風にふれずに、がり勉のアカデミズムを強く押し出しても今の学生には受けない。大学も基本的な人間形成をどのように達成するかを学びにおいても組み込んだプログラムが無ければ社会における評価も魅力は半減するでしょう。優秀でも挨拶ひとつ出来ない、人を人とも思わない傲慢な人間を生むことは害となる。エリートほど謙虚であるべきで、豊かな人間性が求められます。一橋の良さは自分の時代は学生数も学年800人ほどでした。ゼミの教官やクラス担任などと知り合ったり、酒を酌み交わす機会も多かった。先生方の学生へのまなざしも温かく、そこがすばらしい雰囲気だったことを思い起こした。如水会を軸とした先輩との交流も多く、部活などで先輩からご指導を受けたし、国立大学として珍しい校風であった。大学の学びの良さはまさにそこにあるのではないだろうか。 
  新潟に来て3年、地域の高校の進学指導教員、若者の心情に触れることが多い今日、高校の受験事情もわかってきた自分としては今回の一橋のPRが新潟の学生にアピールする内容かどうか、心配になった。新潟県の学生は、実学志向が強いが、リーダーシップということにはあまり関心が無く、職人的なプロフェッショナルを志向する印象が強い。だから、司法試験や公認会計士、教員などのプログラムを持った大学に行きたがる。新潟高校などの名門校でも、比較的、東京大学の文Ⅰなどよりは理系や新潟大の医学部に多く行っているのではないだろうか。今年の新潟県の東大合格者は新潟高校8人、長岡、高田が各2人といった具合で、傾向がつかめる程の人数ではない。一橋に至っては新潟高、長岡高で1人か2人といった具合で、県下の学力上位の学生は東北大、北大、新潟大学に行く数が多い。本来、東大や一橋、京大に行くポテンシャルを持った学生も多いと思うが、230万人という県人口の割りには少ない。新潟県人、特に男子は控えめで、出る釘は打たれる意識が強く、何事も目立たぬように振舞う若者が多い。そこで、ビジネスリーダーなどというコンセプトには気持ちも引いてしまうかもしれない。一橋は資格でも結構頑張っている。司法試験の合格者も人数の割には多く、学年150人ほどの法学部から、毎年40人~50人は輩出しており、公認会計士を目指す学生の合格率も高いと思われる。新潟ではそうしたことが評価されることを念頭に置いたプロモーションのほうがよい。専門教育とリベラルアーツ教育をどう整合させるかということである。
 新潟県の若者はむしろ大学において地域に貢献する仕事との関連、医療とか女性は看護といった専門職志向が強く、その分NSGなどの専門学校が栄える傾向。地域の学生の気質、特性は県によって相当違うとみてよく、そこを見ずにプロモーションを行っても共感が得られない。伝えたいことは盛り沢山だろうが、土地のニーズをよく分析して企画すべきである。実学面が強調されたが、一橋のよさは、むしろ歴史学やアダムスミス、ウェーバーなど哲学の学びも盛んで、自由な学風が人間教育になり、特に友人の絆の強い大学である。Cool head but warm heart.な経済人を育てる人間教育が今日ほど求められる時代は無いのではないか。 

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アベノミクスの大胆な金融政策、機動的な財政政策は効を奏し、株高と円安をもたらした。消費税の増税の結果があまり良くないとはいえ、この程度で収まったなら成功であろう。ところが、民間投資を喚起する成長戦略がついてこない。地方の給与水準はあがらず、大手企業のうち、国際企業の業績は良い。しかし、
一部の大企業を除き、イマイチの景況である。その原因は地方の産業に活気が無いということである。これを打開するために、石破大臣先頭指揮に地方創生の掛け声が高い。これが、かつての公共事業ばら撒き型にならないことを祈る次第である。確かに、地方を活性化させることこそ日本経済活性化の条件であることは正しい。しかし、そこは最終到達点でもある。地方の隅々まで行き渡るということは最高の結果であって、ここまでどう到達できるかである。そこに至る道とそれを阻むものをどう乗り越えるかのロードマップができるかどうかである。今年中にとか、予算編成でなどというのは掛け声だけであって、これが出来れば世界をうならせる話である。
自分は新潟に来て2年半。新潟という土地の風土に親しみ、とても気に入っている。雪は多いし、東京までは結構遠い。しかし、新潟には東京には無い人情も、和の精神も健在である。東京には無い、本当の日本がある。そう考えれば之も財産ではないだろうか。新潟はスイスのように風光明媚である。ものづくりでは時計などの精密機械、金融、そして観光はスイスの売りであるが、新潟は食の多様性にも満ちている。スイスは所得も高く、物価も世界一だが国民は満足している。その理由は何と言っても「平和」という財産である。映画、第三の男で、犯罪者、ハリーライムが新聞記者の主人公に、スイスの平和が生んだのは鳩時計ではないかとあざ笑うが、実際はそうではない。戦争終結直後のことだが、ヒトラーもいない、戦場にはならず、世界中から有能な人材が集まり、国際機関もジュネーブに集まっている。うらやましい限りである。日本もそんな国になって欲しいというのが終戦直後の日本人の願いだった。国の大きさ、人口、国際関係の違い、中国との関係など、そえはスイスとは同じではない。しかし、日本人が夢見る分には只ではないか。
新潟県は豊かな自然、美味しいお米、酒、妙高や長野の山岳地帯にも近く、佐渡をはじめ観光資源も多い。しかし、不足しているのは「人」である。人材がいないというのは悪口のようだが、何も、基準を東京においている訳ではない。新潟の良さを生かす人材のことである。自分の生活の周辺より、東京や大阪の方がよく見える。地元の人間は劣って見えるものである。しかし、自分はそんなことよりも、これからの日本が必要とされる人間は世の中に奉仕する心を持った若者である。特に「おもてなし」の心を持って仕事ができるかどうか。誠実とか、正直、誠心誠意という徳性を新潟の人は他県より多く持っているように見える。これはサービス業や第三次産業には必要な能力である。こうした特性は他国のモラルの乱れた、殺人や泥棒、さらに人をだましたり、うそをついても平気な国々の実態をみても大きな違いではないだろうか。アベノミクスは消費税を増税したから、消費が上がらない、給与が増えないから物を買わないという理屈は間違ってはいない。しかし、それだけであろうか。人に満足を与える商品がどれだけあるだろうか。ユニクロは何故売れたか。トヨタの車はどうか。それは何も売れるものを作っているだけではない。それを生み出す人の力があるかどうかなのである。物を作っても、アフターが悪ければ売れない。サービス精神や、顧客を引き付ける商品は、人と人の関係から生まれる。自分のいる大学は、リベラルアーツというコンセプトである。そんなもの役に立つかという問いをしばしば聞く。大いに役に立つと言いたい。これまでの重厚長大、生産性の向上だけでは日本は生きていけない。これらは世の中の動きに敏感な若者、そしてそれは顧客との丁寧な交流の中からまれるのではないか。その為には偏らない、幅広い教養が求められる。国際的にはさらに必要である。人種、宗教、民族の差を越えて交流するには語学力が必要であるが、そこで何を語るのか、人間関係を持てるのかが課題である。資格も専門知識も、もちろん必要だが、先は人なのである。重厚長大、富国強兵からどんな人材が生まれただろうか。わが国が必要なことはこの国が生み出したものをいかに有意義で、魅力のある商品として訴えるかである
 製造業でも課題は一緒である。サービス業の生産性も大切である。基準は難しいが、分かりやすく言えば、日本の偏差値の高い学校には傲慢な学生も多い。学生時代、よく勉強した人、競争を乗り越えてきた人は自分中心になり対話が出来ない人が多い。そんなことでは何も気がつかずに自慢話でおわってしまうだろう。その点、新潟の人はもって生まれた謙虚な人柄が必ずや貢献するはずである。優れた商品を魅力的にするのは介在する人間の力である。使わなければ分からない。使わせるためには人が進めなければなりません。景色が良いかどうかは行って見なければわかりません。酒を味わうにはよき交わりが無ければ美味しくない。新潟はそれが出来る。販売や営業、サービス業はこれからの日本がさらに充実させるべき産業である。そして、これは何と言っても人を幸せにすることができる。そこに有能な人材を育てることが出来る大学であるかどうかである。そうした人間教育が出来るかどうかが大学の未来を決める。新潟の財産は人であるといえるようになろうではないか。

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新潟県高校事情


 新潟県の大学進学率は近年向上して来たが、自分のように東京から来た人間からみて地方とはこんなものか、と驚く事がある。それは高校生の大学受験事情である。自分の子供は受験時代を12年以上前に終えた。でも、記憶をたどってみると、東京は選択肢が多く、学生の進路に関しては特定の進学校以外はかなり自由ではないだろうか。しかし、新潟は何だか自分達団塊世代受験生の時代が戻ったかの様な様相なのである。要は県民の大学進学率の低さからきているかも知れないのだが、官尊民卑、国公立が大学で、高校も県立名門校にこだわるのである。高校の教員達の大学観、所得の低い県民の多い新潟の教育価値観と専門学校進学層、学歴無視の層が重なっている。そこに、商売上手なNSGグループの専門学校群が大学進学を諦めた高校生の救いの道になっている。

 東京から2時間の大きな県で、新潟市という80万人都市をかかえ、大学進学率は45%、大学生の40%が東京に流出する。毎年アバウトだが、高校卒業生は2万人、大学には9千人行く。東京には3,600人、新潟大学に2,000人、他の公立大に2,000人、私大は新潟国際情報大、新潟薬科大、新潟青陵大、長岡大が定員を満たしており、残りの600人くらいを新潟経営、新潟産業大、新潟経営大、そして敬和学園大で共食い状態で争奪している状況である。

 新潟県の高校は県立は自由学区制だから、かつての名門高校は新潟高校を中心に分化し、下越で村上高校や村上中等学校、新潟よりの新発田高校、新津高校などは学生の学力低下、定員割れの危機に見舞われている。学区制を廃止した結果当然の帰結であるが、その内容を見てみると理解出来る。それは、新潟市に高校生は集中して行くのである。

 かつて、東京都では学校郡が高校勢力地図を塗り替えた。日比谷、西、小石川、戸山、新宿などの受験上位校は軒並み学生の質ー学力レベルが落ちた。東京都が学校郡にしたとき、新潟とは逆の事があって、私立高校に優秀な学生が流れ、今日の受験戦線の地図が出来上がった。学生のみならず、受験対策に力のある教員も移動して行った。というより、受験対策に手腕のある教員はどこにでもいる訳ではない。優れた教員が学校群制に嫌気をさし、有名私立に引き抜かれた。その事を知っているのは保護者なのである。そこで、都内の私立は優秀な教員を取り合ったのである。結果は開成や麻布、櫻蔭をはじめとする私立校受験校の躍進と、都立高校の凋落である。

 新潟は選択肢が少ないから、もっと極端に下越地方は新潟高校一極集中である。そして、県立高校の受験指導はひたすら、国公立大に何人入ったかが業績評価の中心で、東京を含めた私立には目が向いていない。もちろん公立に行ける高校生は一握りである。そのために、相当なエネルギーを使っている。ところが、そんなところに進学出来る学生は少数派で、実際は東京の私立と県内私立に行く学生が多い。恐らく、新潟県の高校から東京の早稲田、慶応、上智クラスの一流私学にはあまりいかず、明治、法政、日東駒専クラスに行く学生が優秀な学生である。他の東洋、神奈川、東海、さらに大東文化、創価大なども多い。これらの学校は受験対応は国公立とは全く違う。大体、努力を要する数学の試験は無いし、受験科目数も2~3科目、AOや推薦入試で入って行く学生もいる。そうした中で、高校の選別は、上位受験校、下位就職や専門学校志向の高校と、東京を含めた私立に行き易い学校とに分化している。

 県立高校の方針はとにかく、国公立に何人その高校に入ったかが業績の象徴になって、進路指導や教員の考課にも繋がる事である。また、彼らは名前に拘る。私立なら早慶である。しかし、彼らは実態をしらない。東京の私立6大学は定員オーバーで教育力は落ちているのである。さらに新潟の先生は女子の場合、津田塾とか東京女子大は名門だと思っているが、近年、これらのブランドを高めたのは、本来、東京であれば、東大、一橋に行く力のある学生が女子大に行ったこと。今は、彼女たちは共学志向で、トップクラスは東大、次は一橋、早慶かICU,東京外大、上智など行くから、東京の女子大は歯が抜けたようにトップ学生の学力は落ちている。これは津田や東京女子大の先生から聞いた話である。頂点が減っただけでマジョリティはそれほど変わらないかもしれない。優秀な女子が回って来た分東大以外のレベルも上がったのである。しかし、おそらく、新潟の高校の先生は女性でこれらに合格すれば鼻が高いのではないだろうか。実態が分からないで喜んでいる、滑稽な感じなのである。

 国公立に学生を送るにはある種の受験指導が不可欠で、これが無ければトップ校は無理だし、地方大学でも受験対策は必要である。そこで、受験校の高校でも、そうしたことが得意な教員は少ないし、公立志向の学生は新潟高校がほぼ全員でも、残りの学校は半分くらいだと思う。ということは、大半の学生は結果としては私立に流れる訳で、その対応に関してはあまり面倒見が良く無いと思われる。従って、優秀な学生は皆新潟高校か、長岡高校、高田高校に行き、かつての名門校、新発田高校、村上高校、新津高校等は優秀な学生を集める事に苦労している。

 その反面、新潟商業や北越高校、東京学館、日本文理などは学生が集まっている。新潟市内の高校に周辺から集まる傾向は続いており、新潟南高校、新潟中央高校等もその恩恵を受けている。一方、私立で名門校志向だった明訓高校等は方向が定まっていない感じを受けた。

 敬和高校は、そうした私立志向の高校生を受け止め、近年、学生を集める事にはかなりの成果が上がっている。敬和は全国のミッションスクールと提携し、推薦入学の枠がある。特に、名門校のICU,同志社、青山学院、明治学院、立教等も含まれるから、普通の子でも頑張れば現役で推薦を受けられる。一方、かつての名門校は過去の栄光を守る為に、レベルの下がった学生を叱咤激励し、かつ、大した成果は無いのが現実なのである。保護者の方には悪いが、お受験というのは一種の才能でもあり、DNAも関係している。自分も長男から、勉強がうまく行かないのは頭が悪いせいで、自分を見ながら、成績が上がらない理由だと、自分を見て宣った。苦笑いした。それは仕方が無い。申し訳ないとは言わなかったが、黙ってしまった。高校に入ってランクアップはよほどポテンシャルを余した学生ならともかく、ワンランクか、1.5ランク上げる事が出来れば成功だと思えば良い。仮に、それで上がらなくても、人生色々、社会人になってからの努力が大事である。

 その証拠に、実は自分の長男も三流私立高校に行ってはいたが、何とか国立大学には入ったし、さらに司法試験にも合格して、司法修習に汗を流している。自慢で終わってすみません要はどこまで努力したかである。


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JCLP(japaneseCulture and Language Program)
プロジェクト
アメリカからの短期留学 
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 敬和学園大学では海外からの短期留学プログラムを実施している。毎年3週間だが、今年は2週間に短縮した。アメリカのテネシー州にあるリー大学というキリスト教系の大学から14人(2名教員)を受け入れた。田舎の中堅大学で、学生は5,000人いる。結構大きい学校である。キリストの教会というアメリカの教派が運営している大学である。テネシー州はナッシュビルという州都の町で開かれる大きな音楽フェスティバルで有名だが、最大の都市ははメンフィスである。ここで、エルビスプレスリーは生まれた。さらに、マルチンルーサーキングが暗殺されたところでも知られている。他にチャタヌガという町が紅蓮ミラーの曲でチャタヌガチュウチュウというのがあったことを思い出した。鉃道の要衝であろう。この州には鉃道王バンダービルトの造ったバンダービルト大学という有名校がある。14人の学生は日本語を学んだり、生け花、剣道、お茶、書道といった日本文化に触れ、新発田市を観光したり、新潟の風景や名物、食事を楽しんだりした。2日間のホームスティもあり、最後の Farewell Partyも大いに盛り上がった。

 新潟県でこうした親身の国際交流を長く続けている学校は少ないのではないだろうか。

このテネシー大学の学生の感心したことは、昼食時でも彼らだけで固まらず、積極的にガ日本人学生のテーブルに入り、親交の機会を造っていることである。彼らは大学の方針もあり、禁酒禁煙禁S禁Dだそうである。今回は黒人やメキシコ系の学生が少なかったが、現地には結構いるということだった。土地柄、アメリカの保守の原点の様な場所かもしれない。




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最近の小林克也氏

小林克也氏は日本のDJの中でもトップクラスであると同時に英語力、特に英語の発音に関しては第一級である。しかし、彼は留学経験もなければ、ハーフでもない純粋な日本人である。独学で、FEN聞き取りを通じた習得方法により国外滞在経験を持たないまま高い英語力や発音を身につけた。発音に関しては、口の形、舌の位置、口の周りの筋肉を鍛えることを重視し、独自の方法で身に着けた。日本ではあの人は「英語ペラペラ」という一種の神格化された評価がある。それはいくら英語の文法や語彙が適切でもペラペラとは言わない。英語が出来る人という程度のもの。ところが、彼はペラペラの部類である、それは発音に気を使った英語だからである。最近、テレビ番組「チューボーですよ」で堺正章のアシスタント、「すみれ」さんが、一発芸のごとく、流暢な発音で英語による紹介をしたり、コメントを述べるシーンがある。それほど難しい言葉を使っている訳ではないが、ハワイで育ったネイティブの発音でペラペラというのが何とも、その美的なスタイルや顔立ちで人気を博しているのです。やはり日本人は良い発音には弱いのである。これは試験や受験英語では出来ない芸なのである。
チューボーですよに出演の「すみれ」さん
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 小林氏は35倍の難関、通訳案内業国家試験を一発合格したのちに外国人相手の観光ガイドのアルバイトを始めた。当初は何を聞かれてもI don't know を繰り返し、観光客を激怒させてしまった。ところがその後、大いに反省、FENを聴き続けた時に得た音楽知識で大いに気に入られたという。ちなみにその客はアメリカのラジオ局の副社長だった。それから、彼の運は開かれて行く。

 高校時代彼は進学校にいたが、古文とか、受験科目を勉強することは苦手で、その影響か、大学受験では 入試科目に古典が一切なく、英語を重視する慶應義塾大学経済学部に入学。しかし、彼は英語にしか興味が無く、慶応も中退してしまった。ここに、日本の英語教育の問題が見て取れるような気がする。本当の英語を学ぶ場は慶応大学といえども無いのである。前いた会社には東大、一橋、京大、早慶の卒業生しかいない職場だった、連中で800点取れる人はゼロ。もっとも、今は750点無いと課長になれない。
 ということは英語を勉強するには何も東京でなくても可能ということ。新潟でもその気になればよい。要するに、環境さえ作れば、英語の学びは可能である。東京のマスプロ大学に行ってバイトで消耗するくらいなら、新潟にいて、生活費を浮かせれば、100万円はたまってしまう。それで大学生なら在学中夏休みに2回〜3回は留学とか、セミナーに行ける。 わが国の英語教育は基本的には40年前とそれほど変わっていないのではないか。ある、有名予備校の教員が一番優秀だったのは団塊の世代だったという。これは受験英語の事である。最も激烈だった時代だから当然である。英文法、英文解釈そしてリスニングであるが、TOEICなどの手法も取り入れられ、スコアで比較できる仕組みもできてきた。高校生活から離れてずいぶん時間がたった自分は今の学生の勉強内容からは遠ざかり、分かっていないが、少なくとも、受験英語で難関校に入った学生を何人か見ている限りでは、それほど向上しているようには見えない。昔の英語環境は映画か、FEN、ラジオ英会話くらいしか英語に接する機会も無かった。ところが、近年、学生の海外短期留学などの機会は増え、そうした留学組の英語力はぐっと向上している。自分の息子もTOEIC800点取ったのだが、まったく英語を使って何かをするレベルではない。会話は全く出来ない。あるいは、東京医科歯科大の大学院同級生に900点台もいたが、ゲストの外国人と会話をするレベルではなかった。むしろ何の資格も無い自分の方が、物怖じせず話すことが出来た。要は何かを話す、何を話すかが無ければ会話にはならない。もちろんディスカッションなど出来る訳も無い。もっとも、TOEICなどのテストを年に何度も受け、自分の能力向上をチェックできるようになったことは歓迎すべきことである。ところが、最近はこれが自己目的化している。日本人特有の目的と手段の転倒である。本来、語学の学習は、その言葉によって、その国や民族の歴史、文化、暮し方、人間どうしの交流の仕方などを学ぶことが出来る楽しいものである。これでは、全くの苦痛以外の何者でもない。
 
もう一度、小林克也さんに戻ってみよう。彼は、ポップス、ジャズなどの音楽においての見識は一流である。一時代を画したといってよい。その英語力は定評がある。発音も重要な要素である。彼は他の勉強を捨てても好きな音楽と英語を徹底的に学ぶことによってトップクラスの人材となったのである。もともと優秀だったのだろうが、音楽DJの一人者になるまでは相当な苦難があったに違いない。
小林氏はサザンの桑田との親交でも有名である。サザン1982年のアルバム『NUDE MAN』の1曲目「DJ・コービーの伝説」は、DJ・小林克也をモデルにした楽曲である。小林は『KAMAKURA』(1985年)収録の「死体置き場でロマンスを」にもMCとして参加している。また、2004年に発売されたサザンのDVD『ベストヒットUSAS』は全編ベストヒットUSAのパロディであり、小林もサザンのミュージックビデオを紹介するMCとして出演している。2008年の「サザンオールスターズ 『真夏の大感謝祭』 30周年記念LIVE」では、映像で出演し、ライブの開始を告げた。(wikipedia から引用)

 似たような人物がもう一人いる。大橋巨泉である。彼もジャズに詳しいタレントだが、英語は上手で、バンクーバーやオーストラリアで何年も暮している。ところが、こうした生(ナマ)の英語は日本では好まれない現実もある。帰国子女が中学高校で苛められるのは周囲には無い能力を嫉妬されるからだ。日本では皆が出来ない事を出来ても評価されない。ゴルフのように誰でも出来る事を少し上手い事の方が評価される。そして、高校の英語の先生も実は自信が無い。 
  
 点にこだわるようだが、地方の県立高校の教員でも、TOEIC800 点を取れない人が多いし、これまでやって来た英文解釈だの、文法問題、英作文、学生の受験英語も否定されてしまう。大学受験にしか役立たない英語を英語ではないということは禁句。これは彼らの英語であり、プライドを傷つけてしまう。だから、この日本人の英語を否定する方法は逆に反感を持たれてしまうリスクがある。では、彼らが努力している日本的英語と国際レベルの英語とを橋渡しするものは何だろうか。それは、英語とは別のジャンルにある。小林氏としてはジャズだし、「すみれ」はハワイ、彼女の美、石田純一の娘という売り。さらに、はキャリアにつながるチャイルドイングリッシュとか、通訳ガイド、英語の教職といった将来のキャリアにつながるアプローチである。何を言いたいかというと島国の日本で、英語力を磨くにはひとえに、どんなモチベ–ションかにかかっている。受験もその内の一つであり、これを攻撃してはならない。しかし、それぞれの限界を見ながら選択する事である。

 近年聞くだけで上達するというスピードラーニングという商品がある。確かにリスニングは有効だが、それは方法のひとつで、実際には、声を出して反復することが伴なわなければ効果が半減する。このことは一言も触れられていない。それはただ、教材を売らんかなということであって、全くの手落ちである。英語の出来ない日本人のコンプレックスを利用して金儲けされているのである。いくらテレビでゴルフの番組を見ても実際にクラブを手にとって練習しなければ、また、コースに出なければ上達しないのとまったく同じだ。小林氏の場合、類い稀な努力によって英語力を身につける事が出来た。しかし、普通の人はそうはいかない。例えばTOEIC400点くらいの学生が、300点スコアを上げる為には何をすれば良いのかである。実は簡単な事だが留学すれば可能だ。今、自分のいる大学の一学生が、カナダの語学長期プログラムに半年参加した結果、スコアを275点挙げる事が出来た。要するに英語環境さえあれば、本人の努力次第で300点くらいは簡単なのである。自分の知り合いでも、少し海外に行っただけで800点を超えた人を知っているし、自分の長男は、問題集を数週間練習しただけで800点を達成している。ベルリッツで1年間勉強したが、自分は全く問題集をせずに受けて720点、長男は国立大学の英語をクリアする自力はあったがトレイニングする前は法学部にいたせいか、何年も英語の勉強はしていなかった。SATやTOEFLはともかく、傾向と対策を学べばTOEICはそれほど難しい試験では無い。勿論950点以上は留学か専門に勉強しないと無理。テストを金科玉条のごとく祭り上げるのは良くある事、企業や市井の人々はこれを評価基準にしようとして、英語をさらにつまらないものにしているのである。日本人の英語教育は不幸な宿命なのである。毎日、雪隠詰めで、牢屋の様な所で運動をして筋力トレしていることに近い。実際孤独な戦い。一方、留学はハイキング気分でしっかり体力がつけられる。しかも、心がけではネイティブの発音が身に付くのである。
 何事も、上達の道は、練習、時間と金、良き師、そして一番重要な事は好きになる事である。当たり前の事だが、留学することが一番の方法だが、それが時間と金のいる事だから、これが無ければ、ひたすら残りの部分、ド根性で切り開くしかない。もう67才になる自分の正直なところは、面白くも無い勉強はやめてしまえ!と言いたい。

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地方の若者人口減を防ぐものは何か


 新潟県は関東、近畿圏を除くと全国では若者人口の多い県である。長野、群馬、栃木より多い。勿論数の上では東京や茨城、神奈川、大阪、名古屋は若者が流入する所であるから当然多くなるのだが、新潟は流出県としては最も人口が多い。今、この流れを変えなければ、地方の衰退は止まらなくなる。そして、若者が集まるところには中高年層も集まるのである。この人口減少の最大の原因は、直接的には毎年2万人の高校卒業生の25%が県外に出て行くという現実である。もちろん新潟県内の就職先が無いとか、都市に魅力が無いといった要素もあるが、第一の原因が学校であるということを見逃しては次につながらない。人口の移動というのは大きな潮流である。これを防波堤ー高校の教員指導だけで防ぐことが出来ないという現実を直視すべきである。大学に行く能力があって、本人が東京の学校を希望すれば親は何とかして実現させてあげようとするのが人情だ。子供が県外に出ていく、最初の原因をどう解決するかということを無視しては、次の対策の効果も薄くなる。要は、新潟県が高等教育の面で優れた県であることを示さなければ若者は出て行くし、他県からも入ってこない。今、新潟県の大学で他県から入学者を集められる大学が幾つあるだろうか。新潟大学くらいではないか。後の大学は、新潟に残った新潟大学に入れなかった学生を取り合っているのが実態ではないか。新潟県では公立の大学は新潟大学、上越教育大学、県立大学、長岡造形大学の4校であり、後は皆私学である。新潟大学は国立大学の中では偏差値50代後半校でまあまあの水準で、問題はあるが、それでも、医学部の70%は他県から、一般学部でも40%は他県から来る。
 国の私学補助は行なわれているが、県の補助は殆ど無いに等しい。現在、高校は「全入」時代であり、その為に授業料補助は大学より遥かに多く出されている。高校は潰せないということだ。それでも、定員に満たない高校が多くある。では大学がつぶれてもいいのか。生き残った大学がその分を吸収すれば良いという経済合理性で説明出来るのだろうか。そもそも、大学は経済面では企業とは全く異なる仕組みを持っている。だからといって、企業の合理的な仕組みが参考にならないと言っているのではない。 
 大学は入学者の数を確保することが命である。他には収入源は無い。資産運用できるほど資金を蓄積できる大学は歴史と伝統があるトップ校だけである。一旦入学者が減少すると、その減少分は何年も修復出来ない。企業であれば、単年度でも在庫をディスカウント販売したり回収、復旧の方法はある。しかし、これは大学では効かない。減少した分はその学年が卒業するまで続く。減少した分を取り戻すには翌年にその倍を確保しなければならない。コストダウンはどうだろうか、これも、減少した学生の学納金が多ければ、それに対応するほどのコストダウンは無理である。文系の大学では元々、分かりやすく言えば紙と人件費が原価である。そして、これらは入学者に対して約束した講義内容を4年間は確保しなければならず、簡単に人員整理出来ない。唯一の方法は賞与や給与を減らすことである。新潟のような田舎の大学に来てくれる教員人材を確保するには給与カットはその大学の教育の質にもかかわることである。残されているのは、海外の留学生を増やすことくらいであるがこれも限度がある。教育というのは公平な市場原理が効かない。各校の教育内容は実態として高校生には分からない。その価値は偏差値で判断される。要は入学後行なわれている教育の内容の情報を得ることが出来ない。そして、その偏差値のランキングで学生の質が左右されるから、初めから公平な競争にはならない。教育の内容は卒業生の進路、学生の質でしか社会では判断されない。医療と同様、市場原理が失敗するケースなのである。それに企業や市場論理をもって判断することは本質を誤る。
 日本の大学政策は国公立大学を中心に展開している。補助金の8割は公立が占め、残りを私学が取り合う。しかし、私学の在校生は遥かに多い。大学教育はかつては贅沢だったかもしれない。しかし、今や全国では54%、首都圏では65%が大学生になる。それでも、OECD諸国では日本の高等教育進学率は決して高く無い。韓国では8割を超えている、このことは技術立国を目指す国としては大変な事態である。日本は高等教育後進国なのである。しかも、文系を軽視している。日本の光学系などの補助金の不正使用、流用に対して文科省は頭を痛めている。理系の人たちにも、バランスの取れた人づくり教育が必要なのである。そのためにも大学の文系は重要である。技術系の研究所で奇人変人が跋扈するのでも困るのである。理研のSTAP細胞論文事件でも、なんだか変な感じが拭えない。
 これまでに述べた実態を無視して、大学の内部改革だけを要求しても効果は乏しい。企業であれば倒産や統合で解決するだろう。しかし、大学はそれぞれ地域的な制約もあり、簡単に移転が出来ない。ローカルな事情があって、統合するならば既存の学生にも不利益がある。高校や小学校の統合とは違う。統合ではなく、廃止の道しかない。実態として日本の高等教育を担っている私立大学が真の教育、建学の精神にもとづく教育を続ける方法はただ一つである。質の低下に目をつぶって学生数を確保し、赤字を出さないことである。定員を超えた学生確保が行なわれている。学生の増加に対応して教員が増えているわけではない。それに成功した学校だけが生き残って行ける。こんな奇妙な市場原理があるのだろうか。粗悪品を出せば儲かる。そして国はそれを奨励している。実に奇妙な政策である。日本の大学の信頼感は社会からは低い。それは海外の大学に比べ、学生が勉強しないという評判だからである。とにかく、自宅で学習する時間は他国の学生に比べ低い。しかし、学生の数を増やし、行き届かない教育体制をごまかしながら続けている大学が生き残るという不思議な現象を無視して、一体何が市場原理だろうか。
 20年にわたるデフレ脱出の道は製造業の技術革新と言われる。しかし、産業が空洞化している今日、即効性は無い。では何がポイントかというと、国、いや、県を挙げて高等教育を充実させることである。これは地方都市の復興にもつながる。私学助成の額は高校の3分の一であり、高校よりは大学の経費は多いが、これを高い学納金、保護者からの納付金でまかなっている。県からの補助は200万円を超えない。前述の矛盾した教育政策を見直し、優秀な人材を育成することに加え、底辺層の底上げを同時に行われなければならない。新潟に高等教育で残る学生が1万人として、一人年間10万円で10億円である。安いものではないか。100億円使えば他県から来る。先は新潟大学から奨学金を1年間だけ一人年間50万円出したとして、せいぜい10億円程度である。かつて、国立大学は授業料は月千円だった。これで人口問題は解消する。この部分の投資は、最小4年で生産性の向上といるリターンが期待出来る確実な方法なのである。しかし、国はここに着目せず、何年かかるか分からないiPS細胞の活用とか、10年は結果のでない産業政策にかけている。現実を直視してもらいたい。新幹線の延伸に投下する費用を高等教育の施設整備、理系の研究費、教員の育成や人件費に投下すれば、必ず資金は回転する。これに何故気がつかないのだろうか。

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